捨て言葉&切り言葉の理

 更新日/2018(平成30).4.29日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「捨て言葉&切り言葉の理」教理を確認する。「天理教教理随想」の「No.92教理随想(43)、自由自在について」 その他を参照しながら私流に再推敲しておく。

 更新日/2016.02.29日 れんだいこ拝


捨て言葉、切り言葉の理
 諸井政一集後篇、逸話集、御講話傍聴録一の「悪く取るから」より。
 「人のこと悪く取らぬよう、悪く思わぬよう。悪く取るは、人を不足にして、不足の理を心に拵(こしら) える理である。世間には人の事を、嵩(かさ)を懸(か) けて言う者もある。善き事に嵩を懸けるのは少なくて、悪い事に嵩を懸ける者が多い。これも、悪く取るから、である。人のこと不足にして、わが心に不足の理を拵(こしら)えては大きな損である」。
 明治17年2.4日、高井猶吉、岡田與之介「教祖様直々の御言葉」。
 「日々通らしてもらうには、人の悪しきを言わぬよう、人の悪しきを思わぬよう、人に悪しきを思わせぬよう。この三つの心がけが大事やで。この心がけ、一日一回遣うても、三日の間、さづけの理は止まるで」。 
  堀越義男「幸せを求めて」78頁「捨て言葉に就て」の「鼬(イタチ)などに生まれ変わるで」(「」)。
  「教祖はある日、参拝された方に、『“思うようにいかん、ならん”と言うて、“それより死んだ方がましや”と言うて水に入り、井戸へ入り、川へ入って死ぬというのは、天に捨言葉(すてことば)になる理に当たる。これを“仇(かたき)の因縁”と言うて、人間に生まれ変わり出来ずして、鼬(イタチ)などに生まれ変わるで』、とお聞かせ下されている。このお言葉から類推(るいすい)し、自ら生命を絶つことは神様への捨言葉となり、来生は不幸な通り方をせねばならん事になると戒められている」。
 「残念の理ほど怖わいものはないで。残念の理、一代でいかにゃ二代、二代でいかにゃ三代、切るに切られん因縁つけてある。これは退くに退かれん理によって。なれど、神に切る神はない。なれど、切られる心はどうもならん。仇言(あだごと)に捨言葉、神は大嫌い」(明治24年1.28日)。

 註、仇言/人を不快にするような悪意ある発言。相手に恨まれ、仇(かたき/敵)と見なされてしまうような発言。
 「これから先という、もうどうしょう、こうしょうと言うは、これは捨言葉と言う。よう聞き分け。そんな言葉は出すやない/\。‥銘々は、どうなっても、こうなってもと言うは、捨言葉と言う。‥これから先というは、どうなろう。どうなっても、こうなってもとは思うやない。‥これからという、何しても、何しても構わんと言うは、捨言葉という」(明治34.6.25日)。




(私論.私見)