「皆な揃うて出て来る。結構な理がある、銘々の理がある。結構の理が分からん。勝手言う理があるからどうもならん。もう変わる変わらんやない。幾年何年経って分からんやならん。一名一人の理がある。明らかな道を通りて、やれやれ銘々勝手あるからどうもならん。こゝら(ここら)の理を
よく聞き分けてくれ」(明治23.8.19日午前2時30分)。 |
「銘々の勝手というが、何遍諭(なんべんさと)せども一寸(ちょっと)も治まらん。もうもぅ十分/\。何もかも治めてある。なれど勝手がある。勝手はどうもならん。親の事情、親の理、聞き分け。身のところにて不足あればどうもならん。勝手がどうもならん。親々の間に何の差さありもない。親々の理を聞き分け」(明治23.11.28日)。 |
「勝手というはどうもならん。勝手というは、人間心の道であるから一寸(ちょっと)にはよい。なれどいついつまでも治まらん。何をしたのやなあと言う。これで難しい。たとえ(たとえば)縄を引く、仮に杭(くい)を打つといえど、尋ね指図通り。尋ねば随分の理に見て指図する事もある。成らん道も押しての道は続かん。何かの事(どんな事で)も聞き分けてくれ」(明治24.5.8日)。 |
「勝手の道通りて因縁という。これから治めさす。‥俺が/\というは、薄紙貼ってあるようなもの。先は見えて見えん。‥ 見ては強く堅(かた)いように見えるなれど、あちらかす/\(カスカス)、こちらかす/\、元より堅き事はない。これ一つの理も心に治めにゃなろうまい。‥
勝手一つの理は邪魔になる。事情聞き分け。神がジッとして居たら、世界から寄りて来ても、どうもなろうまい」(明治24.5.10日)。 |
「知らず/\の道、分からず/\の道、みす/\(みすみす)の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。盛(さか)んほど面々心を静めて掛かるから盛んという。心の理があれば勝手の道という。勝手の道は盛んとは言えようまい。〈先に〉暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん。しっかり皆なに伝えて治めてくれ」(明治24.7.24日)。 |
「第一若き事情、若き事情は これまで育てて来たる。日々治まりたる。万事(ばんじ)聞き、若き一代の理聞き分け。どんな事もさしづまでの理運んで、先々心で思わにゃならん。若きというは、心の勝手という。若い者は諭してくれ。‥
一寸(ちょっと)若いと言えば、面々心の勝手という理がある。そこで諭してくれにゃならん。知らん/\、分からん/\はどうも一時のところにては分かろうまい。よう聞き分け」(明治24.9.16日)。 |
「さあさぁ指図/\という、これまでどんな指図もしてある。指図は違わん。なれど当分はその心で居る。なれど日が経てば、遂には勝手/\ついで/\、遂には崩れ、その日/\の勝手を以(もっ)て崩す。そんな事ぐらいはほんの小さい事や。どんならん事は、その時の場合によりてする事はどうもならん。その場によりて通らねばならん」(明治25.1.13日)。 |
「勝手/\覚束(おぼつか)ないものであるで」(明治25.2.22日)。 |
「さあさぁようよぅ(漸々)事情/\、これまでの事情にさあさぁ分からん/\。どんならん。分からんからこういう日が出て来る。幾日経てども竦(すく)んで居る。‥ワハ丶丶丶丶、さあさぁ皆んな勝手ばかり言うて放って居てはどんならん。放って置くからこうなる。‥ これまで段々指図/\で日々のところ、危ないところも怖わいところも知らし、こうなる道も知らし、指図順序、危なき道を通りたか、よう思案すれば分かるやろ。ただ一言の指図柔らかなもの、指図に間違いはあろまい。心真実の理を見分けるなら、間違うた理はあろまい。これだけ聞き分けて置け」(明治26.2.6日朝)。 |
「さあさぁもうこれ一人のために そちらも騒がし、残念でならんが未だ(まだ)それだけの事分からんか。分からんやない。なれど銘々勝手から怖わい道を通らねばならん」(明治26.5.11日夜2時10分)。 |
「危ない話も怖わい恐ろしい話もしてある。‥ 指図引き出して、改めてみるがよい。指図の中に間違うたると思う事もあろう。なれど指図の理は間違わん。聞きよう取りよう勝手の理があるから、ありゃこりゃになるからどうもならん」(明治27.3.4日夜)。 |
「皆な、勝手/\の理を拵(こしら)え、ならん時には指図/\と言うはどんならん。指図取りて事情、さあさぁ井戸/\深い井戸に譬(たと)えて話する。すっきり澄んだ水いらいさえせねば濁(にご)らん。すっきり(すっかり)濁りた水が飲めん。よう聞き分けてくれ。濁る時節(じせつ)来るところどうもならん。世界濁る」(明治27.3.17日)。
(【註】「弄(いら)いさえせねば」は、「弄(いじ)りさえしなければ」「弄(もてあそ)びさえしなければ」という関西広域で用いられる語) |
「双方の心にとって皆々高い低いの理はない。ろっくな道なれど、勝手の理より段々高低(たかひく)の理を拵え、あちらへこちらへ擦(す)れ、心の理は散乱。たった一つの理を、兄弟姉妹一つの理、後より出けた(出来た)理もあろまい。どうなろうと言うようになりてからは、どうもならん。皆な打ち捨てたる事情もある。よう聞き分け」(明治28.5.13日午後3時)。 |
「何程(何ほど)身の障り幾重/\(いくえ/\)何ぼう(なんぼう)指図したとて指図はその場限り。どうしたらよいこうしたらよいと言えど皆なそのまゝ。指図なくても勝手だけはようできる。指図通りできん。指図通りできたる事もある。出けても不承/\(嫌々、渋々)だらけ。あちら腹立てこちら腹立て一つの理に治まらん。互い/\の心さえ皆んな話し合うなら一時の理に治まる。この道は俺が/\と言うたて皆んな神の道、神が働けばこそ日々の道である。それで難しい事始め掛ける」(明治28.10.7日)。 |
「好(よ)いと悪いとの指図を取りて、勝手の好(よ)い指図は用いるなれど、勝手の悪い指図は潰(つぶ)して了(しま)う。第一これが残念でならん。これがどうもならん台である。台の話もして置こう。けつまず(蹴躓)く台にもなるやろう。有るやら無いやらと思て居る者がけつまず(蹴躓)く。〈神の指図を〉心に持って通る者はけつまず(蹴躓)かん。皆な一寸の虫にも五分(ごぶ)の魂、と、皆な言うたる。 人間と人間と、どうこう言うなら指図は要らんものや。これだけ諭したら皆な分かる」(明治29.3.24日)。 |
「道が分からんから分からん事になる。どうなるこうなる、心の理 分からんから分からん。皆(み)んなこれ教(教え)という理がある。教(教え)に従うて通らんから、綺麗(きれい)な道が
むさくろ(むさ苦)しいなる。皆 行き難(にく)い道を尋(たず)ねて捜(さが)すから どんならん(どうにもならない事になる)。一人二人三人の心で世界通れるか。さあ
さしづに及ぶ。さしづしても守らねば、さしづまでのもの。よう聞き分け/\。 何遍(なんべん)々々、これまでの道 知りて居(い)ながら、便りも無く 声も無く、理も無く、道の道 通らんから、どうなろう
知らん という日になって来たのや。どうでもこうでも、心迷いありてはならん。‥ 自由(じゅうよう)の理 分からんから どんならん。我がさえよくばよい
という心があるから、こういう理になりて来る。どうでもこうでも人間の心では行かんで/\、行くなら この道とは言わん。精神一つの理が 世界鮮やか明らかなもの。この理より無い。これをよう聞き分けて、改めてくれ/\。めん/\(銘々/各自)でする事なら
どうもならん。いかなる大切にせんならんものでも、心に間違えば、大切が大切にならん理が、今日の日であろ。さあ/\分からんから分からん」(明治30.11.13日)。 |
「皆一つの心に成りて、よう思やん(思案)せよ。これまで艱難(かんなん)の道、今の道 互いの道。辛(つら)い者もあれば、陽気な者もある。神が連れて通る陽気と、めん/\(銘々)勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆(み)んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者
苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めん/\勝手の陽気は、 生涯通れると思たら違うで」(明治30.12.11日)。 |
「好き事だけ集め、外(ほか)の事はそのまゝ。これでは勝手の理とはっちゃ言う理は無い。勝手の理なら、めん/\(銘々)好いた(好きな)ようにするがよい」(明治31.3.27日)。
【註】はっちゃ 〜とだけ。〜としか。この場合は「勝手の理としか言いようがない」となる。
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「神の理 失うて了(しま)い、勝手/\の理でそれ仕舞(じまい)、神のさしづ、紙に巻いて納(なお)して、この理 神の残念々々、事情はだん/\諭さにゃならん」(明治31.4.20日)。 |
「こら理や、そら理やと、人間勝手の理、神の道に無き理を引き出すから治まらん。決まらん。そんな事では教(教え)の理は説けやせんで。日々どういう理を以(もっ)て取り次いで居るか。一手一つの心、教(教え)一つの理を以て、嬉しい心を、日々聞かしてくれにゃならん」(明治31.5.17日)。 |
「あちら身びいき(身贔屓)こちら身びいき。一時(いちじ)の道に勝手々々の話は何にもならん。前々の話の理にもある。成るか成らんか鮮やか分かりたるやろ。身びいきはならん。こうのう(効能)の理は
いつになりてもこうのうある程に。こうのうの無い者は、どれ程(ほど)蔓(はびこ)っても、ふっと吹かれたようなもの。よく聞き分け」(明治31.7.14日夜)。 |
「心に日々曇り無く、道理からの理。その中に聞くに聞かれん、見るに見られん、高い低い理、長い短い理。よう聞き分け。神のさしづを聞いて、分からん事を聞き分け。どうもならん。何ぼ(なんぼ)諭したとて、勝手ある。善いと悪いと、長い短い、ほんにこれでこそ神の話。さしづ通りよりならんものと定め」(明治31.9.30日)。 |
「人はどうでもいうようでは、むさくろしい(むさ苦しい)/\。塵(ちり)だらけ ほこり(埃)だらけではどうも出けやせん(出来やせん)」(明治31.10.23日)。 |
「勝手なら勝手にさす。それで人に満足与えられるか、与えられんか聞き分け。この満足何處(どこ)から理与えるか、誰に理があるか。この道理(どうり)聞き分け。何程(ほど)高い所に居ても、何時(なんどき)落ちるやら分からん。一夜の間にも、どういう事出けるやら分からん。どんな事出けても、神の怨みとは思うてくれなよ」(明治31.12.30日)。 |
「勝手という理は、この道には一つも要らん」(明治32.5.14日)。 |
「誰がどう彼がどう、めん/\勝手という理があってはならん。何ぼ(なんぼ)賢(かし)こに生まれても、教えにゃ知りゃせん。聞かにゃ分からんで。どんな者でも、聞いて一つ、通りて年限重ねて一つの理という」(明治32.5.31日)。 |
「あちら眺めこちら眺めて、勝手のよい理を出し、無理の理でも通すというは、人間凡夫(ぼんぷ)の理である」(明治32.7.23日)。
【註】凡夫とは、もとは仏教語。愚かな人。仏の教えを理解しない人。凡人。転じて、人間心・人間思案の強い人。親神・教祖の教えを理解しない人。ほこりの心遣いの人。
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「話をして居るが、聞いた時は ほんに と言うて居る。なれど、聞いた事つい日柄経てば勝手という理運ぶ。勝手運べば、つい/\(ついつい)の日が出る/\。日が出るからどうもならん。勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん。‥
たゞ(ただ)その場越せるなれど、心失うて、神の道は働かせんようになったら、どうもならん/\。勝手々々の話はあちら濁り、こちら濁り、濁り水流(なが)したら、どうもならん。立てよ/\どう言うたてならん。‥あちら捜(さが)
し、こちら捜し、澄んだ水を捜さにゃならんような事では、どうもならん。日柄十分経ったるけれど、澄んだ同じ水に成らんから日が遅れる。‥勝手出せば、あちら濁りこちら濁りすれば、どうなる。これ聞き分け。何よ五本の指の如く/\すれば、澄んだ水と言う。中に澄んだ水が神の道に外(ほか)は無い。外(そと)の濁りは世界と言う。中の濁り
中から洗わにゃならん。神の道 皆心得」(明治33.11.20日)。 |
「又(また)勝手にしょう/\。これ第一いかん、第一ならん。この勝手一つ、又、何よしてからこう、これもいかん。これもと金銭づくでする事はどうでもなる。なれど、心を養う理は、金銭ではいかん。これしっかり聞き分け。勝手はならん。金銭で出ける事は小さい。金銭は構わんようなものなれど、それは皆 道から出けたもの。道から出けたものなら、それはそれの運び方も、それぞれ心なくばなろうまい」(明治34.5.25日)。 |
「まあ遠い所、それからそれへ伝え、道という、又先(またさき)という中に、一つの困難という/\中に一つ理、これも一つ、よく聞いて話という。又(また)満足さゝ(ささ)にゃならん。満足さゝにゃならんが道という。ただ一つというは、何度の中にも諭し置いたる。同じ一つの中、我がさえよくばよい
というようでは、きょうだい(兄弟姉妹)とは言えん。この理を一つ聞き分けて心に治めするなら、同じ水流れる。力次第、力次第にもだん/\ある。この理よく聞き分けにゃならん」(明治35.8.10日)。 |