元の理効能考、お諭し考2、正月の理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元の理効能考、お諭し考2、正月の理」を確認しておく。ここで、「元の理」の元々の教理を確認しておきたい。この種の試みはまだなされていない気がする。 2007.12.25日 れんだいこ拝


【正月祝の理】
 「正月祝いの理」(「天の理法」)転載。
 「年の始まり、月の始まり、日の始まりを正月と云う。元々、月様が、泥海の中より、正しい人間、正しい世界を造られたことを云う。正しいことを正と云う。暗がりの世を照らす月様は、先に立ってこの世界を造られた理をもって、この世界をこの日とは云わず、この「よ」(夜、世)と云う。 正月し元日とも云いて今に祝う。

 三日の祝いは、身の内の温み、水気、息の三つの理による。世界も同じ事で水と火と風となる。身の内の温み、水気、息の三つに十分の守護あれば不足なし。逆は身の内に不足できる。よって、身の内の悩みを看るに脈を看(診)る。脈とは、この三つの「やく」をいう。この世界は皆な三つの理、三つずつの理あり。天地人、上中下然り。
月も三日月が始まりなり。三日目でなくば見えかけぬとは、人間でも子が宿っても一ヶ月、二ヶ月の内は、人から見ては解らん。三ヶ月目から、一寸見えかけるのも同じことなり。三日の祝いの理は、火、水、風の三つの理をもって祝うなり。

 
鏡餅一重ねの理は、月日二柱の御身輝く理にて、鏡(かがみ)と云う。餅の鏡は天地なり。天地は丸きものなり。丸きは正しきなり。ゆえに夫婦心丸く柔らかにして、仲良く揃うて暮す心を供えるなり。

 「みき」と云うは、正しき真っ直ぐなる気(き)を供うるなり。故に木の直なる元を幹と云い、横に出るを枝という。木の実を供うるは、最初人間食物の始めが木の実であったことによる。 

 ゆずり葉を用いるのは、代々親は子を産み、子は親となりて、子孫に世を譲り行く理を表している。

 正月十五日まで十五日の間をしめの内と云うは、月様十五日となれば満月と成り給う、人間もまる十五歳となれば一人前なり。正月元日より十五日迄の祝いと云うは、元始まりの理を忘れぬ為、人間に親神様が教え下されて今に形を行うものなり。

 注連縄は七五三なり。七は天神七代、五は地神五代の五倫五体、三は産み広めの「お産」の理なり。七は、元々いざなみの命様が、奈良、長谷七里の四方の間を七日一回りにて、人間を産み降ろし下された理。五は、人間最初は五分より生じて五尺となる理。三は人間を三度産み降ろし下された理。この理によってて、着物七襦袢五帯三を身の内にまといて居る。七五三を張りて年徳大善神と祭り礼拝する。年徳は、十二ヶ月三百六十日は皆な月日の守護にて一年の内に五穀野菜綿糸一切御与え下され、又立ち木魚鳥まで人間の為に御守護下さる故に、この恩徳を受け年々立つものである。

 世界でいう天神七代は、これを神々七人のように思えど違う。これは、な、む、あ、み、だ、ぶ、つ、の理であり、くにとこたちの命様よりたいしょく天の命様までの神々をいう。この七柱の神が道具となっておつとめした理をいう。地神五代というは、これも世界の神々のように思えども、自身五体というて、皆な銘々の身の内の事、五体の人間のできた事を云う。

 注連縄の「しめ」とは、しめることなり。縄の「な」は、くにとこたちの命様月様のことを云う。「わ」は丸く取り巻くことをいう。これは、月様が、この世界を輪の如くに取り巻きて、しめていられる理なり。よって注連縄は左縄に縫うものなり。その形は、月さまの本体、頭一つ、尾一筋の大竜の形なり。 

 正月には門松を立てる。門松は、雄松雌松を左右に立てる。女松男松は夫婦の理を示している。しめなわを張りて、年徳大善神と祭り、礼拝するは、年徳とは、十二ヶ月、三百六十日は皆な月日の守護にて、五穀、野菜、綿、糸、一切をお与え下され、また、立木、魚、鳥まで人間の為に守護下されるゆえに、この恩徳を受け、毎年門松を立て、祝うなり。

 松と云うのは、三代、芽の芯の立つのを「待つ」と云う理にて、三年目に芽が出て芯の立つまでは古い葉が落ちることなし。木の芽は、一年が人間一代と同じ理。門松は、三段なるを理とす。我が身夫婦で一代、子の夫婦で二代、孫の夫婦にて三代なり。世の芽を出すにて「嫁」と云う。また、孫の代となりて云う時は、二代を「父母」(ちちはは)、三代を「ぢぢばば」と云うなり。我が身より前後を「父母」、「祖父母」、子孫と云いて五代のものなり。

 数の子を用いるは、元々いざなぎ、いざなみの二神が、今のおぢばの甘露台を神々の身体の真ん中として、なむ/\(南無南無)と三日三夜に子数九億九万九千九百九十九人を宿し込まれた理をもって用いるなり。豆を用いるは、無事にてこの世をまめに送らそうとの神の思し召しの理をもって用いるなり。鰊(にしん)というのは妊娠の理にて、にしんと云う。

 七日、十五日に粥を食するは、人間元泥海より昇りたる理にて、かゆとはかいにて海なり。

 七日七草は、元々人間は九億九万年泥海中に住まいたる時は、海草等を食べて通りた理をもって食するものなり。

 十四日の年越しという理は、十四日で月は満月とはいえぬ。十五日は満月なり。人間も十四才では一人前とはいえぬ。十五才より一人前なり。これで十四日を年越しというなり。正月元日より、十五日の間をしめの内と云うは、月様十五日となれば満月と成り給う。人間もまる十五歳となれば、一人前に成るゆえなり。

 十五日に小豆の粥を食べるは、人間は元々泥海中で住まいしており、その後に泥海より登りたる理を表している。かゆとは海底のことにて、海なり。

 正月祝いのこの深き理の話し。全国の神社が一番活気ずくのは正月。神社によっては、経費の大部分がこの正月でお供えが上がる。なぜ日本人が神社にいくのか。それには深く深く理由がある。つまり、人間の元始まりの理を忘れぬように、元の神、実の神、月日二柱を忘れぬようにとこの行事をおこなっている。それほど大切な行事である。正月元日より、十五日の間の祝いと云うのは、元始まりの理を忘れぬ為に神が人間に教え下され、今に形を行うものなり」。


松竹梅の理  
 松、竹、梅の理。松は皮はまにあわず松茸は秋生じ、人間食物に与え下され、男一の道具の理。竹は人間身体皮及び一の道具の理。色は外側を云い(緑又は青竹ともいう)、筍は春生じ、人間食物に与え下され、女一の道具の理故に竹は皮のみ用い、辛のなきものなり。松の辛竹の皮と云う男女一の道具の理なり。梅は松竹共に合わしたる理なり。芽の出ぬ先花開く、人間夫婦夜交合の理。花は色なり、香りは情なり。実は子の宿りたる理。熟して酢きは秋の理。人間宿り始め冬夜の理十月となれば秋宵の理なり。梅干として永く保つ所は真実は永き理なり。松竹梅男女交合子の宿ると同一の理なり。植えて楽しみ絵に書きて眺め又歌に詠むなり。

【(衣食住)機の理、着物の理】
 「身体にまとうを衣と云う、又着物と云う、衣の元を反物と云う、之の元は機と云う、はたとは織物なり。 着物、襦袢(じゅばん)、帯は七五三なり。七は着物、五は襦袢、三は帯なり。

 着物を一反七つに裁つは、七は切れると云う理にて、身にまとう物を切ると云うのは、切ると云う理なり。これ、たいしょく天の命の理なり。

 五は襦袢にして、五体にまとうは、十の半ぶんと云う理。襦袢、すなわち十半にて五つに裁つなり。これ、くもよみの命の理なり。

 三は繋ぎにて縄なり。結ぶ、繋ぐと云う理なり。一筋を左右より二つ結びて三となる。縄と帯とは同じことなり。これ、くにさづちの命様の理なり。ゆえに女は、お産の時、安産の許しを受けることををびやと云う。をびやは、くにさづちの命様の司りにして、さんの王と云う。

 しは七、たいしょく天の命様。
 めは五、くもよみの命様。
 なわは三、くにさづちの命様。
 この三神は何れも女神なり。この三品(しな)を女の身代(しんだい)と云う。ゆえに三品の着物、襦袢、帯は女の大切なるものなり」。


【島台(婚礼その他のめでたい儀式のときの飾り物)の理】
 「大和(大倭)の国にて、国式の祝いと云うて、婚礼酒宴の座にて、第一の祝いとする島台の理。これは、人間は結婚を始めとするゆえに、祝うべき大事なる祝いと云うなり。日本の国は島(嶋)なり、台(臺)なり。また、水の中なる浮き島、敷島なり。それゆえ、しまだいと云うなり。

 松竹梅鶴亀老人夫婦の翁(おう)と女(おうな)に、翁は熊手、おうなは箒(ほうき)を持って掃除をする形を現わしたるは、この世の掃除をするほど、清き、目出度いことはなし。人間身体、胸の内を掃くとは、白(はく)にて、白く清らか奇麗にするなり。 

 胸の内の悪しき埃を祓いたるを六根清浄潔白と云うなり。六根とは六つの根即ち胸にて、六つとは、目にて見が一、鼻で考えるが弐、口にて言葉使うが参、耳にて聞くが四、香い或いは臭気をかぐが五、飲み食いにて六なり。この六つの本を司る根を胸と云うなり。根は水なり心なり。

 また、男の心にて積む埃は大きく、女の心にて積む埃は細かい。男の埃は欲しい、腹立ち、憎い、高慢の四つありて、男神が戒め給う。女の埃は惜しい、恨み、可愛い、欲の四つありて、女神が戒め給う。互いに、男は荒き埃り、女は細かき埃りを払いて、胸の内を掃除するなり。ゆえに、男は熊手、女は箒を持つなり。このようにして、胸の内を悪しきを払うたら、お前百まで、私九十九まで、共に白髪となるまででも、と云うように長生きして、子の代、孫の代を安心して楽しむ理なり。

 鶴亀を用いる理は、鶴は「たつる」と云うて、男一の道具の理なり。亀は繋ぎの理にて、女一の道具の理なり。鶴は千年、亀は万年と、古より唱えて寿を祝いするものなり。

 松竹梅を用いる理は、松は三代、めを出さぬ先は古葉が落ちぬものにて、三代めの芯の立つを待つと云う理にて、誠目出度きものなり。人間なれば孫の夫婦揃うまで、じじばば揃うて長生きして、その三代芽の辛の立ちしを見て足納し喜んで往生するを待つという。芽出度いと云うは三代目夫婦揃いしを爺婆見て喜びたるを言うなり。

 竹は、一年にて親と同一となるゆえ、親子たけだけと云うて中節揃いしものなり。中(ちゅう)は中(なか)にして、節(せつ)は節(ふし)なり。節より芽出で枝生ず。一年も十一月中十二月節より即ち冬至小寒の中節、春は二月の中三月節にて始まり、夏は五月中六月節夏至小暑の中節、秋は八月中九月節にて始まりかくのごとく四季中節にて成長するなり。二代芽子といえども孫代となればだけだけの理なり。

 梅の実、結びたるは人間の子の宿りたる理なり。ゆえに、梅は増える理にて、目出度く祝うものなり
梅は芽出でぬ先に花咲きて匂い芳しく、花は色匂いは情夫婦和合なり。色情とはいろかとゆいて花の香りと云うも同一にて花香りいろか梅の花は寒に咲くを常とす。寒は一日にて夜丑の刻芽の出ぬ先、人間朝となれば目を覚まして見る事が一番先なり。なれども夫婦交合の時は見る事なくても行うもの花咲き情写る梅の実結びたるは人間子の宿りたる理なり。故に梅は殖える理にて目出度く祝うものなり。

 殖えるは陰陽和合夫婦交合にて子の宿り月止まると云いて泊まると云うも宿るというも同じことなり。月様は陰なり男なり。宿りし腹は日様也。日様は陽なり女なり。

 人間夫婦ありて子孫兄弟伯父伯母甥姪従兄弟と段々殖えて繁昌し村を成し郡となり国と成り世界できたるなり。水の中なる島なり大倭は日の本島国にて往古はおのころしまと云い秋津州とも言い、現今にて大日本という大和の国が国の始まり故日本を大倭と云う」。


【酒の理】
 「酒を飲むについては、余程の理がこもっている。これは、人間は元々泥海の中で住まいをして、天地分かれてより、この世へのぼりたものなり。皆々他人と云うはさらにない、実の兄弟なり。その実の兄弟の理をして、酒を飲むなり。

 茶を飲んだ茶碗でも、水を飲んだ時でも、そのままでは人に出せない。必ず濯がねば気が悪い。ところが酒ばかりは、飲んだ盃をそのまま向うへ差し出しても、別に何とも思わん。また、飲み差しの盃を人に出しても、差し障りなし。なかなか他のものは、水も、茶も、酒も同じようなものなれど、それは出来ぬもの。

 また、人間の元はぎぎょ(岐魚)と云うさかな。これは、いざなぎの命様のお姿。これ人間の父親なり。それから出来た人間ゆえ、皆々実の兄弟なり。よって、酒さえ出てあれば、野菜でも、山菜でも、さかなと云うなり。酒が出てなかったら、さかなとは、云うまい。いざなぎの命様はぎぎょと云うさかな。これ人間の父親なり。この理をもって、さかなのことを、「とと」と云う。我々は父親のことを「とと」と云うも、この理をもって云うなり。

 酒を飲んで、腹を立てたり、嘆いたりするようでは、酒を飲んだとは申せぬ。酒は実の兄弟の理をするのであるから、勇まねばならぬ。さけによって人と諍いをしたり、暴れたりするは、酔うたのではない。この酔うたと云うは、この世は夜から始まった世界、段々と、至る如く月様の世界なり。月様は水なり。その夜の月様の心に添うたことを、ようた、と云うなり」。


【食物味の元の理】 
 「辛、甘、苦、酸、四つが食物味の元。月様の辛味に苦味が合うて塩となる、にがりが出る。これが月様御苦心の理。味の王、四の王、甘味は日様の慈愛の現れ。味は初め苦く酸うくなれば終わり。春に苦いものが酸うくなる秋の理。食物の味は神様の真実心味わいなり。神様の御心味わいと人間心の味わいとの別がある」。

【りきもつの訳】
 木の実一、くだもの穀物二、野菜三、右三品は人体五行と同一に御守護下さるなり。魚類四陰にて水気入り込み暖かみは世界より受ける。鳥類五陽にて暖かみ入り込み、水気は世界より受ける。人間りきもつは種と卵より生ずる物を食するは天の理なり。生まれながら親と同じ形なるものはりきもつとは云はぬ。水と米は充分むまい舌に合わしてある。これがからい、冬あまいが夏にがいが、春すいが秋。この四つを合するとむまいとなる。即ち四合わせ内の仲よろしいがむまいという仕合せのよい内という。この味わいでしたというなり。

 五穀第一米、第二麦、第三粟、第四きび、第五稷、一種ひえと云うものあり、食にあらず。野菜、第一大根、第二かぶら、第三人参、第四ごぼう、第五芋、第六蓮根、七芹、八つる物に生ず一切の野菜。右八方八柱の神なり。八百屋というはこの理より始まる、山に自ら生ずる、芋に自然著あり、五穀と野菜を菩薩と云うなり。


【膳の理】
 膳とはろっくに揃いし真実を云う。ろっくとは即ち飯、汁、壷、平、猪口、箸の六つ也。この六つ揃いしを本膳と云う。飯は洗米を六台に載せて煮たるものにして六つ揃い又ろっくの台にする本なる故に五膳と云う。一品にて総名を取る也。汁は菜なり七なり。汁は内の事を知ると云う理にて汁と云う。汁は女の理にて妻の事にて菜と云う。壷は男一之道具の理にてこれ四品が理なり。平い女一之道具の理、これ三品が理なり。猪口のちょくとは直しいと云う理にて身体直に保つ理にて男女の道直しが天理、猪口は直す。箸。食する口。台は地四方正面にて東西南北なり。載する器は天なり。食物は神の心なり味わい也。水霊 火霊二つが元本なり、又六台はかまどの事也。かまどは九胴と云う也。膳は五つ有って五ぜん。箸は月日様、食物は神の心味わい。母の乳を飲むも同一、天の続ぎのじき物なり。食物は天と身体の続ぎの命なり。天の実が入って下さる故生きる食物入れてある。内満ちとる時は満ち潮の理。食後は蓋をあお向けにするは引き潮の理。

【宮社堂館家の理】
 社と云うは男の体を云う。体とは首より下を云う。立ち始めは腰也。腰は身体中骨の要也、竜頭なり。この要にて身体立つ也。故に人間立たざるを腰抜けと云う。表は腹、裏は背、両側は左右のあばらなり。棟は胸なり。棟より雨垂れ落ちる故に胸の下を水落と云う也。雨は水雨垂れ落ちも水落というも同一なり。両わきは被風なり。

 社と云うは八柱の神の代なり。しろなり体なり。乳は棟の紋なり。腰腹あばら胸背わき水落、乳しりは地形なり地場なり。神前鈴は男一之道具、鳥居は天なり。堂と云うは胴と云う理にて女の体を云う。立て始めの理は腰、表は腹、裏は背、両側はあばら、棟は胸、雨垂れ落ちは水落、被風両わき、乳は棟の紋玄関口陰門会堂本堂御堂とも云う。人間参詣して中へ這入りて礼拝すれは子懐胎、胎と同一にて下向は出産、同一なり。堂は中へ這入りて礼拝する故女の胴体の理なり。

 社は神を鎮座して中へは入らず外より礼拝す。男の体の理なり。もっとも神の社と云うは天地の理身体の理なり。頭顔は上、即ち神、胴体は下即ち八代なり。社と云うも堂と云うも皆な天よりその形を教えその理を下げ給う故に左の肩右の肩と云うは左右の形は肩なり、左は月様、右は日様乳七夕の二星なり。


【神前供物の理】

 三平   干物        榊   五行のきれ
 鏡餅   水    木の実

  神祠 神酒            玉  鏡  剣
     洗米   塩   辛味
     生鯛   野菜       榊   五行のきれ

 神前五列の供物は五行の理にて五行とは木火土金水。木甲乙、火丙丁、土戌己、金庚辛、水壬癸、五倫五体にて十干なり。神酒は木の理にて甲乙、餅は火の理にて、壬癸、野菜は八つ七つ丑寅、八七鋼の理、たいしょくてんの尊なり。木の実(果実)は六物の揃いし理、かしこねの尊即ち風、辛味は月様、味、干物(乾物)は日様味。魚は陰鳥は陽、塩はたいしょくてんみごとに月日の味籠もりて味の王と云う、辛い、甘い、苦い、酸い四の王。


【供物道具並びに飾りつけの理】
 三宝は水火風、膳はろっくに揃いし理、翠とはみずの理、真菰は生れ落ち菰より出世する理なり、水玉は人間の心なり、此の玉の水の如く一名一人の心澄まして仲良く和合して暮らす心を親神に供うるなり、此の事を水の大恩を知ると云う、之れ朝之明星なり、三つの燈明は人間の行いなり、身体明るう暮らす、世界明るう通る行いを親神に供うるなり、明るうとは身に暗い行いをせぬ事なり、此の事を火の大恩を報ゆると云う。

 三つ一つの理にて宵の明星なり水玉は朝の明星真心、燈明は宵の明星誠行い、心は夜行いは昼、鏡は月日二方の御身輝く理にて鏡と云うなり、神殿の左右に建て供うる榊は神の気なり、神は人の心とは逆なりさかきなり人間も五才迄の小児は大人の心とは逆なり、神のきなり、毎例も青々として変らぬものなり、故に三才心と云うも同じ事なり、それ故に小児の髪の毛を月代と云い、さかいき、さかきの理なり、月代さかいき榊さかきかみのきなり、さんさい心なり、何時も変らぬ青々として陽気な者なり、満五つ即ち六十月之間は欲もなく心配もなく案じ心もなくして神の気も同じ事なり、神の気、髪の毛。


【指の理】
左親指 くにとこたちの命様の理。 右親指 をもたりの命様の理。
左人差指 月よみの命様の理。 右人差指 くにさづちの命様の理。
左中指 をふとのべの命様の理。 右中指 くもよみの命様の理。
左薬指 かしこねの命様の理。 右薬指 たいしょく天の命様の理。
左子指 いざなぎの命様の理。 右子指 いざなみの命様の理。

 一年の理も、一と月の理も、一日の理も身体にある。両手一杯の輪は一年の理。両手の中指と親指と合わせて一杯の輪は一と月の理。片手の人差指と親指の輪は一日の理。また、一と月の理は十五夜、満月の理。この満月を二つに分けると、左の片手は二十三夜の月、下弦の月。右半分は八日の月、上弦の半月なり。ゆえに、左の親指より、二十三夜の月は夜の子の刻より上がり給い、右の親指八日の月は、昼の午の刻より上がり給う。

 一本の指に、節が三節あるのは、元々泥の海の時、五分から三度生まれた理。十本の指、合わせて三十節あるのは、一と月三十日の理。また、五本十五日まで満月。


【菊桐の理】
 御紋菊は草花の王なり。人間味の内に取りては耳にて聞く、鼻にて考う理。下より事情を聞き、御政事下さる理紋と云うも花と云うも同じ理。きくと云うは人間にては耳にて聞くと云う名なり。花というは人間鼻の理にて形の名なり。眼は目と同じ。葉は歯と同じ即ち口也。四役何れも四の理にて四四十六菊は天皇陛下の御紋也。桐は五七の桐、皇后陛下の御紋也。両方五つは身の内に取りては五倫五体の理。真中七つは思い切り見分け聞分けの誠の神内を治め続ぎ下さる理なり。

【言葉の理、いろはの文字と本字の理】
 「神様の教えで言葉の理があるのは、言葉が先に出来て、文字が後に出来たゆえなり。天地が開けて以来、幾千年の間、人間に神がよろずのことをお仕込みくだされて、天理から名が付き、言葉が出来ているゆえに、言葉が元なり。言葉には、理があるなり。文字は種だね、様々の品を分ける為のもの。言葉に理があって、言葉あり。言葉あって文字あり。仏教が一の枝。文字が二の枝と仰せられた。ゆえに、世界に昔から云うていることの理が、天の理から出ている、名も付いている。神様は、云うていれども、元知らぬ。と仰せなり」。
 「世の人は、いろはの文字は後から出て、本字が先に出来てあると思うゆえに、本字を書くことが偉いように思っているが、これは大いに心得違いである。いろはの言葉を、文字にするから違う。

 この世界の人間が出来、物を云いかけた時より、この四十八音はあるものなり。よって、いろはの文字を文字の上からみれば、つまらぬように思えども、決して、文字だけで見るべきものではない。これは、言葉の元なり。文字が先か、言葉が先かと云えば、云うまでもなく、言葉がありて文字は出来たるなり。人間生まれ出るにも、言葉を先にあげてるなり。

 
かなと云うのは、たやすきことをかなと云うなれど、かと云うのは、日様のこと、大地のことなり。なとは、月様のこと、天のことなり。この四十八のいろはの文字さえ知っておけば、いかなる本字にても、仮名さえ打ってあれば読める。いろはの字引さえあれば、いかなる文字にても引き出される。ゆえに、本字を書いて、その字に仮名を付けるのに、かなをその字の上につけるものなり。あくまでも仮名の文字の方が、本字より上のものなり。このいろは四十八文字は、言葉の元にて、要なり。

 今その一つの例をあげれば、文字を書く時に、用いる墨もすみ、ものの隅もすみ、火をおこす炭もすみ、物事の片付いた済みもすみ、水の濁りたるを澄ますのもすみ。また、文字に書く時の紙もかみ、神もかみ、上もかみ、また、酒などを熱くしたのを、かんと云い、時の寒いのを、寒という。

 この通り、ことは変われど、仮名の文字に書けば一つなり。書き記せし本人にすれば解れども、他の人が見れば解らん為に、火の焚く炭はこう、文字を書く時の墨、物事の片付いた済み、水の澄んだは澄みとして、手本として拵えたのが本字である。これは銘々に身体ありて、それぞれに説明ついてあるのも、同じ訳なり」。


【言葉の大切なる心得べき根元の理】
 「善き言葉(詞)にて国を治め人を助く。悪しき言葉にて国を乱し人を倒す、我が身を倒す。恐るべし慎むべし。和歌五音七律なり。これより成りたるは倭言葉なり。元本天神教え下されたるなり。

 木火土金水五つ。この五つに月日にて七律の日月火水木金土。人間の口ほど充満成るものはなし。心を真に改め、陰徳を積みたる人の言葉は、風に草木のなびくと同じことなり。尊き人の言葉にて人心柔らぎ、悪人も善人となり、邪を正と改め、国乱を平治し、衆民太平謡い歓喜を唱うは最初真実の風、即ち言葉口なり。言葉は口の陽なり。心は奥なり陰なり。言葉の元は五音なり。あやちは六台六物なり。かしこねの命が守護する也。

 神様の御話しをなす時総て誠から出た言葉は月日の代理である。得を積んだ人の息ほど人が動く。又天皇陛下より下し給う御詔勅、教祖の御言葉、これ皆な神様の御言葉也。この世は言葉の理で治まる世界である。

 賢いと云うは、言葉にて人を満足するよう、得心のできるよう、治まるよう、舌一枚の動かし方にて風を吹かして行くことを云う。風の吹かし加減によって人間は、人に不足腹立ちさすことも喜ばす事もできる。この言葉は心の根より出る。木の葉でも幹から出る如く、心に誠がなくては人の助かる、満足与えることができん、その真実の言葉が出ぬ。

 情けと慈悲から云うたことは、どうしても人が有難いと感ずるようになる。たとえ一時は腹立ち反対するとも、後には頭を下げ従うことになる、情けと慈悲の心でさえあれば、どんな事にも勝てん。この二つは月日であるから月日の代理である。月日様に勝つ事はできない。この世は誠さえあれば神が守護あるにより結構に通れる。誠のないものは通れぬ。御道一条は尚更のこと。この世は月日の誠真実と云う実の世なり。

 人間は神様元々長らくの御苦労下さって五十音の吹き分けできる。同じく聞き分けができる故、如何なることも自由用に言葉を以って通じ、陽気に勇み、面白く世を渡ることができる。物が云えず聞き分けできねば獣類の如きなり。

 言葉の理、働きにて如何なる得も積むことできるが又如何なる害毒を成し及ぼすこともできる。他の動物は一音か二音だけが云えんのである。神の大恩を知らずして強欲悪気の心を以って人を倒し、人心を害する風は神の理として守護できぬ理を生ず。その理に迫れば物の云えぬ身に枯れ、又畜生にでも落とさねばならん理ができる。

 言葉はかしこねの命の神様の御働きなり。言葉の理にて世の中の人を助ける徳を有する人は勿論、或いは美声を有して人に楽しみ喜ばしむる徳は皆な天の理に叶うた心の理ある也。又徳がなければ人が聞かぬ、用いぬ。徳を積んだ人の言うことは人の為になる。誠のない心から出る息は害をなす。暴風にて物を倒し害をなすと同じ」。


【仁義礼智信(じんぎれいちしん)の理】
 「仁義礼智信(じんぎれいちしん)の仁は、月様の情けの守護より出で、人を慈しむ、養い育てると云う親心になる。義は、かしこねの命様の守護より出で、云うたことを違わぬ、約束をしたことを違えぬと云う心になる。礼は、月よみの命様の守護より出で、君に忠、親に孝行をすると云う、人を大切にする心、即ち互いに人を立てる心になる。智は、たいしょく天の命様の守護より出で、互いに知り合うと云うて、我の知ったことは人に教える、互いに知りてゆくと云う心、見分け、聞き分け、噛み分ける心になる。信は、くにさづちの命様の守護より出で、互いに睦まじく、繋ぎ合う、親しむと云う心、即ち人を繋ぐ心になる。

 木火土金水と云うも、地水火風空と云うも、仁義礼智信と云うも、同じ五行の人道である。これは、儒教から出ている言葉で、孔子に月日が入り込んで教えられたものであるが、その元が解らなんだ。四書、五経等も同じである。

 かしこねの命様は義の神様で、交際、義理の道も同じ。この神様から、義と云うことが出ている。すべて、みな月日二神より出る徳なれど、義は月日より、かしこねの命様にお任せしてあるなり。しかしこれは、余り片寄ると偏屈になる。いわゆる、仁すぐれば弱になる、義すぐれば偏屈になる。また、礼、智、信も同じなり」。


【なむあみだぶつの心の理】
 仏教では、なむあみだぶつと唱えているが、それは、生まれてから死ぬまで、休みなく体を貸し与えて下されている神様への、お礼の言葉である。その訳は、
 水のような低き、やさしき、たんのうの心。
 温かき心で、人と我が身を隔てなき、慈悲の心。
 隔てなき愛をもって、人と人を繋ぐ心。
 誠の心をもって、人の思いを立て、人の身を立てる心。
 善と悪との仕分けの心、人の心をよく悟る心。
 言葉は優しく、人の耳に喜びを与える心。
 心に悪しきことを思えば、思いっきりよく、切り替える心。

 なむあみだぶつうを一家にたとえると

 くにとこたちの命様の理で夫。亭主より、な、と云い出し、云いつける理。
 をもたりの命様の理で妻。夫の仰せに従い、む、と答え、飲み込み受ける理。
 くにさづちの命様の理で、女一の道具の神様なり。亭主の働きで得た繋ぎ物を待って、妻子が、あ、と口を開け開く理。
 月よみの命様の理で、男一の道具の神様なり。ものの、みを与え、みを入れ、みを立て養う理。
 くもよみの命様の理で、人間を胎内に宿し込み下さる時の理。また小便、大便を、だ、と通じ下される理。
 かしこねの命様の理で、ぶ、と妊娠する理。また日々、ぶうぶうと息をする理。
 たいしょく天の命様の理で、胎内の肉縁を、つ、と切り下さる理。また死ぬ時、息を切る理。
 をふとのべの命様の理で、胎内より引き出し下さる理。また、運良く、う、と生まれ出る理。






(私論.私見)