成ってくるのが「天の理」

   天理教の教えの一つで、「物事が成ってくる、あるいは現に成ってきたことは、全て親神様のご守護である」ということ。親神様は、人間のことは全てお見透しで「その心通りの姿を世上にあらわして、身の周りに起こってきた事を通して、自分の心遣いを反省するように」と教える。同じことが成ってきても、人によって受け取り方はさまざまであるが、たとえ自分にとって不都合に思えても、それは「〝陽気暮らし〟をさせてやりたいという、親神様の親心からの配慮である」という教え。「何ごとも丸ごと、喜びをもって受け入れる事が大切だ」とされている。
   成ってくるのが天の理とは?

 「なぜ こうなるのだろう」と思う時は、得(え)てして「自分の思うようにならなかった、自分に都合の悪い場合」のようです。神様は、高所大所から見ぬき見透し、「天網恢々疎(てんもうかいかいそ)にして失わず」です。人間の敵うところではありません。
【註】「天網恢々疎にして漏らさず」とは、天の網は広大で目が粗いようにも思うが、決して悪心悪事は見逃さないという、天の神は「見ぬき見透し」であるという意。
  人間可愛いいっぱいの神様故に悪いようにはなさらない。その人、その人の心を見定め、それぞれに一番いいように計らっていて下さる。よって「神様のなさることを信じ、神様に凭(もた)れていけばよい」。それが「心から納得できれば、全ての成ってくる理が喜べるようになる」。

   二つ一つが天の理

 「みかぐらうた」に、「この世の地と天とを象(かたど)りて夫婦を拵(こしら)えきたるでな」と歌われるように、親神様は、人間を創造されるにあたって「水」を象徴する「天」と、「火」を象徴する「地」を象って夫婦をつくられた。これが「人間創造のはじめだし」です。このように「女と男」「地と天」「火と水」、これら「全く相反する二つが、相手の特性を活かしながら一つに溶け合うところに、新しい生命の躍動がある」。人間関係においても「己(おのれ)を主張して、相手を否定するのではなく、相手を理解して活かしていく努力の中に、一つに治まる道が開けるのだ」と教えられている。