元、紋型の無いところから教祖お一人で、長い道中 道すがら、お通り下されたるこの道の土台は、天然の理という。教祖に神様が入り込んで年々の歳を重ねてお通り下されたるゆえ
『この道は、人間心で付けた道でない。天より神が天降(あまくだ)りて、お付け下されたる道。それゆえ天理教と申すのである』
と聞かせ下されました。
〔静かなる炎の人 梅谷四郎兵衛 3頁〕より
では「天然自然(天の理)」とは何か? 各事典/辞書には以下のようにあります。
天然自然の道
この世は、親神によって創造され、守護されている。人間もまた同じである。つまり、この世界(人間をも含めて)は「神の創造と守護の働きによって成り立っている」のであり、「神の摂理(せつり)のままに支配されている」のである。その意味で「この世界にあらわれてくる全ての事象には、神の思惑が込められている」わけである。
ところが人間はその事を知らず、自由(じゅうよう)を許された心で、自己の力で、この世界を支配しようとする。このような人間の考え、行ないに対して「神の創造と守護の世界」「神が思惑を込めて支配する世界」である事を言われたものである。
つまり、人為に対して「天然自然」と言われるのであり、そこに「神が働いている」事を言われるのである。
狭義(きょうぎ⇔広義)においては、すなわち「道」を「天理教の教えの道」というように理解すれば、天理教は人間的な考え、力から成り立っているものではなく、「神自(かみみずか)らが働きかけ、その思召(おぼしめし)によって成り立っている」ことを意味する。
「おさしづ」に
さあ/\たすけ一条は、天然自然の道。天然自然の道には、わが内、わが身のことを言うのやないで。天然自然の道は、長らえて長く通ることが天然自然という。天然自然の道通るには、難儀な道を通るので、先の楽しみという。今十分の道を通るのは先の縺(もつ)れとなるのやで。〔おさしづ 明治21.8.17〕
と言われるのも、かかる意味においてである。
〔天理大学おやさと研究所編 天理教事典〕
天然自然
・手を加えないで、物事がそのまま存在する状態を表す語。天がつくった(創造した)そのままであること。また、独りでに物事が起こること。
・「天然」も「自然」も、人為の加わらない、あるがままの意で、二つを重ねて強調している。「自然天然」とも言う。
〔goo辞書〕
・〈同じ意味の語を、重ねて強調したもの〉
・人為によらないで存在する、ものや現象。
・(副詞的に用いて) 物事が自ずから起こるさま。独りでに。
〔大辞泉〕
・人の力によらないで存在する、ものや現象など。自然。
・意図しないで、そうなるさま。副詞的に用いる。
〔大辞林〕
天然
・自然にあるもの。人工でないことを強調する場合に特に用いる。「自然」とほぼ同義。
・転じて、生まれつきに備わったもの。「天性」の意。
〔Wikipedia〕
自然
1. 人為が加わっていない、あるがままの状態、現象。
2. 1の意味より、山、川、海など。人工物の少ない環境。自然環境。
3. 1の意味より、人間を除く自然物および、生物全般。
4. 1の意味より、ヒトも含めた、天地・宇宙の万物。
5. 人災に対置した天災、あるいは人工造成物に対置した天然造成物を考えた場合の、それらを引き起こす主体。
6. 意識(意図)しない行動。
7. 不思議さ、不可解さを含むと思われる可能性が無いこと。
〔Wikipedia〕
不自然
・自然さがないこと。無理があること。また、そのさま。
〔goo辞書 / 大辞泉〕
・自然でないこと。わざとらしいこと。また、そのさま。
〔大辞林〕
・自然に反した状態。あるいは、自然に反した行動であるため、好ましく思えないものを指す。
〔Wikipedia〕
自然と不自然
・地球上では「大気のある状態が自然」であり、「大気のない状態、すなわち真空の状態は不自然」である。もし地球上に、真空の場所が存在した場合、ただちに大気が侵入し、真空状態を解消しようとする。「自然は、不自然を嫌う」と言われる。
〔Wikipedia〕
理 (り/ことわり)
・物事の筋道。条理。道理。わけ。理由。
・当然であるさま。もっともであるさま。
・不変の法則。原理。物の道理。宇宙の根本原理。
〔goo辞書 / 大辞泉〕
・もっともな事。道理。条理。理由。わけ。理論。理屈。
・格式・礼儀に適っている事。
・ もちろんであるさま。いうまでもないさま。
〔大辞林〕
天の理
親神の、人間的境位(きょうい)を超越した絶対的境位を「天(てん)」と言い、「理(り)」は「筋道(すじみち)」を言う。すなわち「天の理」とは、「親神の絶対の筋道」を言う。
【註】境位 ある思想や解釈による位置付け。
天とは「大空(おおぞら)」のことであるが、大空は、地上に住む人間にとって超越的存在であった。つまり、人間の頭上に広がる無限の世界であり、太陽や月の運行をはじめとして大空は、人間の働きかけを拒絶して相対する絶対的存在であるとともに、人間に一方的に恵みをもたらす存在であった。そこで人間は、その作為(さくい)を超越した境位、無限・絶対の世界を大空に仰ぎ、これを「天」という言葉で指し示すようになった。そこで親神も、ご自身の人間を超越した絶対の境位を表現するのに、この「天」という言葉を用いられたのである。この事は、親神の最初の啓示の中の「天降(あまくだ)った」という言葉に端的にうかがわれる。換言するならば、人間を超越した絶対の境位から、人間の境位にまで自己限定して顕現(けんげん)されたことを「天から降った」と仰せになったのである。
【註】顕現 はっきり姿をあらわすこと。
「理」は「筋道」を意味する言葉であり、特に相対的現象世界を貫ぬくものとして認識するかぎり、「理」は「絶対の筋道」であり、同時に理念的存在である。そして、この「理」の意味するところは世界観の相違によって多様であるが、特に儒教(じゅきょう)において、宇宙の実体を「理」と「気(き)」とし、宇宙の本体である「気(質量)」が展開して現象化する筋道を「理(形相/ぎょうそう)」と言い(理気二元論)、また一元論の立場では「理」を筋道ではなく「気の働きそのもの」と考えた。こうした実体論に対し、存在論の立場からは、仏教の法の思想の影響を受けて、事(現象)に内在し、事を事たらしめている絶対の筋道を「理」と言い、また事理相即(じりそうそく)の立場から、理を筋道ではなく「働きそのもの」とも考えた。そして理を「働きそのもの」と考えるところから、理は「意志」と考えられるようにもなった。また、こうした理は、同時に「人間の踏み行なうべき道」として受け取られた。
以上のように「理」の意味するところは多様であるが、大別して「筋道」と「働き」の二つの系譜がある。すなわち理は、客観的認識の立場に立てば「筋道」であり、主体的実践の立場に立てば「働き」として捉えられるのである。
【註】理念 理想とする概念。
事理相即 事の「筋道」と「道理」が密接に関わり合い、補い合い、溶け合うこと。
そこで、親神様の仰せになる「天の理」は、まず親神の「絶対的筋道」であるが、それは具体的に どのような筋道を仰せになっているのか、という事について述べてみたい。
親神が仰せになる筋道は「人間世界に対せられる守護場面のでの筋道」であって、それには親神の「守護の働きの筋道(原理)」、その守護の働きが「展開する筋道(原則)」、守護の働きとして展開される「親神の思召(おぼしめし)の筋道(本心)」が考えられる。
そして親神が仰せになられたのは「人間に教えるために」仰せになったのであり、その教えは「理」を教えられたのである。すなわち親神の啓示には「直接に語りかけられたもの」と「理を教えられたもの」とがある。親神の守護の働きの原理としては、その「機能原理」と「構造原理」が考えられ、人間創造の守護をお説き下された「元初まりのお話」に見出すことができる。その機能原理は「十柱の神名」を配して説き分けられたものであり、いわゆる「十柱の神の守護の理(十全の守護の理)」である。その構造原理は、存在の構造原理である「二つ一つ」という理と、生成の構造原理である「順序」という理である。
親神の守護の働きが展開される原則は「人間の心通りの守護」という原則であり、それは具体的には
「身の内かしもの・かりもの・心一つ我が理」
「たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在(じゅうよじざい)という理を聞き分け」
「めん/\(銘々)の心、常々に誠あるのが、自由自在という」
と仰せられている真相である。
親神の思召の筋道は、人間創造の その時より変わらざる
「陽気ぐらしをするのを見て、共に楽しみたい」
と仰せられる「世界一れつの子供可愛い一条の親心」である。それは「人間の主体性を確立し、その幸せを、ひたすら念じられる御心(みこころ)」であり、その御心に応(こた)えていく「人間の誠真実を望まれる御心」であり、「子供の成人を待ちかねられる思わく」である。これを
「誠(真実)は天の理」と仰せられ、また「誠は神の望み 」とも仰せられている。
すなわち「誠は、天の理に適う心であると共に、それ自身、人間に対する神の望みとして、天の理」なのである。
そして誠真実とは「親神の思召を、自らにおいて実現していくこと」であって、「親神に直接的に交わる心」である。
ところで、以上のような筋道としての天の理は、親神の「主体的働きかけとしての守護を客観化した、理念的存在」である。
しかしながら、親神の働きかけとしての現実の守護は「決してこのように客観化しえぬもの」であり、あくまで「主体的な働きかけ」なのであって、親神ご自身、このような天の理に依拠(いきょ)して守護されているのではなくて、「親神の守護の働きかけが、このような天の理に貫かれている」という事なのであり、また「誠一つが天の理」と仰せられる「誠」の実相(じっそう)は、親神に対する「直接的交わり」にほかならないのであって、天の理に依拠した交わりではないのである。
そこで我々人間の実践的立場からは、天の理は筋道ではなくて「働きそのもの」として受け取られる事にもなる。すなわち「現実にあらわされる、個々の親神の守護の働きそのもの、そこに込められた親神の、個々の人に対する思召そのものを、天の理として受け取ることになる」のである。
すなわち それは「働きに守護を見て、ご恩を感じる」のであり、「思召を、神のさしづ(指図)として聞く」のである。これを「理を見る」「理を聞く」と言い、また「天の理を心に映す」と仰せられる。
そして「陽気ぐらし」は、「理を見聞き、天の理を心に映さなければできない」のである。しかも曇りない天の理を、心に映し出していくためには「心が澄み切らなければならない」。そこで「心の埃(ほこり)を掃除する」ことが、「陽気ぐらしへの最大の課題」となってくるのである。そしてこの心の埃は「わが身勝手の思案」であって、それ自身「心に天の理が映らぬところに出てくる心遣い」である。したがって胸の掃除は「朧(おぼろ)げながらでも映るだけの天の理を、わが身において実行する」ところに行われていく。その朧げな天の理を、それと見聞くための基準として教えられたのが「筋道としての天の理」である。これを「教えの理」とも仰せられるが、この「天の理と、親神の如実にあらわされる、たすけ一条のお働きによって、人間の心は澄み切っていく」のである。もちろんそのためには人間の、親神への主体的交わりの努力を待たねばならない。
【註】依拠 あるものに基づくこと。拠(よ)りどころにすること。
実相 ありのままの姿。真実の本性。不変の理法。
〔天理大学おやさと研究所編 天理教事典〕
天の理
意義系 全てのものに通じる法則や在り方のこと。
類語 天理・天の理・天の道理・自然の道理・天の原理・万物の理。
〔weblio類語辞書〕
成ってくるのが「天の理」
天理教の教えの一つで、「物事が成ってくる、あるいは現に成ってきたことは、全て親神様のご守護である」ということ。
親神様は、人間のことは全てお見透しで「その心通りの姿を世上にあらわして、身の周りに起こってきた事を通して、自分の心遣いを反省するように」と教える。
同じことが成ってきても、人によって受け取り方はさまざまであるが、たとえ自分にとって不都合に思えても、それは「陽気暮らし≠させてやりたいという、親神様の親心からの配慮である」という教え。「何ごとも丸ごと、喜びをもって受け入れる事が大切だ」とされている。
〔はてなキーワード〕
【註】この文章は、道友社編「はじめてシリーズH 天理教用語の基礎知識 11頁」からの引用のようです。
成ってくるのが天の理とは?
「なぜ こうなるのだろう」と思う時は、得(え)てして「自分の思うようにならなかった、自分に都合の悪い場合」のようです。
神様は、高所大所から見ぬき見透し、「天網恢々疎(てんもうかいかいそ)にして失わず」です。人間の敵うところではありません。
【註】「天網恢々疎にして漏らさず」ともいう。天の網は広大で目が粗いようにも思うが、決して悪心悪事は見逃さないという、天の神は「見ぬき見透し」であるという意。
人間可愛いいっぱいの神様ですから、悪いようにはなさらない。その人、その人の心を見定め、それぞれに一番いいように計らっていて下さいます。よって「神様のなさることを信じ、神様に凭(もた)れていけばよい」ということになります。
それが「心から納得できれば、全ての成ってくる理が喜べるようになる」のです。
〔はじめてシリーズB 天理教が分かる本 47頁〕より
二つ一つが天の理
「みかぐらうた」に、「この世の地と天とを象(かたど)りて夫婦を拵(こしら)えきたるでな」と歌われるように、親神様は、人間を創造されるにあたって「水」を象徴する「天」と、「火」を象徴する「地」を象って夫婦をつくられました。これが「人間創造のはじめだし」です。
このように「女と男」「地と天」「火と水」、これら「全く相反する二つが、相手の特性を活かしながら一つに溶け合うところに、新しい生命の躍動がある」ということです。
人間関係においても「己(おのれ)を主張して、相手を否定するのではなく、相手を理解して活かしていく努力の中に、一つに治まる道が開けるのだ」と教えられます。
〔はじめてシリーズH 天理教用語の基礎知識 9頁〕