その1 ぢばの理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 お道教義の核心に「ぢばの理教理」がある。ここがみき教義の白眉である故深く考察せねばならない。「元の理」で諭されている人間宿しこみの「地場」(ぢば)を崇拝する教理である。本稿で、これを確認する。
第60部 ぢば定め、かんろだい建設


【「地場」(ぢば)とは何か】
 「ぢば」は、人間創造を目的とする人間宿し込みの地であり、天理王命が鎮まり給っており、天理王命の十全の守護が根源的に宿されている霊地である。これを「ぢばの理」と云う。その理を汲む者は、その理の効能によって、病、むほんの根が切れる。これを社会に向ければ真の世界平和が将来に実現される。その証として、その地点に「かんろだい」が据えられる。この「ぢば」において、「かんろだい」を囲みながら勤められるのが「かぐらづとめ」である。神楽づとめは、たすけづとめ、陽気づとめとも呼ばれる。この「ぢば」、「かんろだい」、「かぐらづとめ」が一手一つの人類救済教理となっている。
 御神楽歌、お筆先に於ける「地場」(ぢば)の記述は次の通り。
 お指図は次の通り。
 「 ぢばに一つの理があればこそ世界は治まる。ぢばがありて世界治まる」(明治21.7.2日)

【ぢば定め】
  お屋敷では、前年に棟のあがった門屋の内造りの最中であったこの頃教祖は、頻りに「かんろだい」の据え付けを急きこまれた。これにより、据え付け場所としての「ぢば(地場)」を定めることが急務となった(別稿「かんろだいの理」)。このことは、お筆先に次のように明らかにされている。

 みかぐらうた、お筆先は次の通り。
 こゝはこのよの 極楽や
 わしもはやへ まゐりたい
四下り目9ッ
 こゝはこのよの 元のぢば
 めづらしところが あらはれた
五下り目9ッ
 このところ つとめ場所は 人間を
 始め出したる ところなるぞや
(8.36)
 この話 しいかり聞いて 承知せよ
 どんな事をば するや知れんで
(9.16)
 この先の 道のようだい しいかりと
 聞き分けてくれ 月日たのみや
(9.17)
 月日より 飛び出た事を 聞いたなら
 甘露台を はやく出すよふ
(9.18)
 甘露台 据えるところを しいかりと
 ぢばのところへ 心づもりを
(9.19)
 これさいか たしか定めて をいたなら
 どんな事でも 危なきはない
(9.20)
 このたびハ この元なるを 真実に
 どふぞ世界え 皆な教えたい
(17.5)
 この元ハ いさなきいゝと いざなみの
 身の内よりの ほん真ん中や
(17.6)
 そのとこで 世界ぢううの 人間わ
 皆なそのぢばで 始めかけたで
(17.7)
 そのぢばハ 世界一列 とこまでも
 これハ日本の 故郷なるぞや
(17.8)
 今まゝでハ この世始めた 人間の 
 元なるぢばわ 誰も知らんで
(17.34)

 その神意は、お屋敷内を掃除し浄め、甘露台を据え付ける一点を定め、「世界助け」の芯にする。「ぢば」に「かんろだい」を据え付け、「かんろだい」を中心として、手を揃えて「おつとめ」をする。ここで「おつとめ」に励み、甘露台の元に堅く結束するなら、如何なる困難が襲ってこようとも危なきはない。 

 「ぢば定め」までの経緯を確認しておく。明治2年1月からお筆先第1号、第2号の執筆が始まっている。明治3年、「ちよとはなし……」のつとめの詞と手ぶりを教えられている。明治5年6月初めより75日間の断食(穀気断ち)を続けられている。明治6年、飯降伊蔵にかんろだいの雛型(木製)を造るよう命じられている。明治7年、お筆先を再び書き続けられ、陰暦5月5日、里方の兄・前川杏助に依頼されていたかぐら面を受け取りに行かれている。同年秋、大和神社の節があり、そのために山村御殿へ呼び出されている。同年暮れ、教祖は身につける衣類一切を赤衣に召し変えられ、自ら月日のやしろとしての姿を示された。

 明治8年、6.29日(陰暦5.26日)、教祖78歳の時、かんろだいの「ぢば定め」が行われた。「ぢば定め」の時の様子は、次のようであった。教祖はこの前日、「明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除しておくように」と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除しておいた。教祖は、先ず自ら庭の中を一回り二周り歩まれ、やがてつとめ場所とされていた建物の南側にあたる所に進まれると、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなくなった。この地点に標(目印)を付けられた。然る後、こかん、仲田儀三郎、松尾市兵衛、辻ます、櫟枝(いちのえだ)村の与助等の人々を次々と目隠しをして歩かされたところ、皆な同じ所へ吸い寄せられるように立ち止まった。辻ますは、初めの時は立ち止まらなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆なと同じ所で足が地面に吸いついて動かなくなった。こうして初めて「かんろだい」の「ぢば」が明らかに示された。時刻は昼頃であった。この時、梶本家に嫁いでいたこかんが一時的に戻り、この神事に参加していることになる。

 「ぢば」について次のように解説されている。

 「『ぢば』とは、人間が創造された時、いざなぎのみこと、いざなみのみことの二柱が、なむなむ、とお宿し込みなされた時の『みのうちよりのほんまんなか』といわれる地点であり、親神天理王命のお鎮まりくださる地点であります。この『ぢば』は、明治8年6月29日に、教祖が『ぢば定め』によって明らかにされた地点で、当時の住所表示では、大和の国・山辺郡・庄屋敷村・中山五番屋敷といわれた屋敷の一地点、現在では、日本国・奈良県・天理市・三島町一番地の天理教教会本部境内地内の一地点であります」。 

 この「ぢば」の意味について思案が分かれている。みきの「元始まり話」による人間宿しこみの一点としてのこの地に絶対的因縁を見るのか、この地より世界助けに向かう「伏せこみ」の一点としてかんろだいを据えるための場所をお屋敷内に任意に定めた一点なのか、見解が分かれている。このことは、「かんろだいつとめの理」の解釈に関係してくるが、お道外の者には分かりにくい話ではある。
(私論.私見)
 「ぢばの甘露台を囲んでの神楽づとめ」こそ教祖の志向されようとした「お道」の「最高づとめ」であったと拝察される。教祖の目には、迫り来る官憲との対決が予想されており、抵抗上の必要もあって一刻も早く甘露台を据えつけを急ぐようとのお言葉であった、と拝察し得る。

【ぢば定め異聞】
 「復元」37号(昭和37年4月26日発行)の 「考二 ぢば定めに関する老先生方との談話」、「みちのとも」昭和十年一月五日號の「甘露?座談會」に「ぢば定め異聞」が掲載されている。これを確認するに、中山、山澤、管長様、高井の談話の中で、高井の言が異色で、次のように紹介されている。(「魂に上下はありません」参照)
 「あの時ほんとに足の留まったのは教祖様とさよみ(仲田儀三郎)さんと、留菊(辻忠作息女)さんの三人や。最初に教祖さんがお歩きになって踏み留まれた所にしるしを付けておかれて、さよみさんに歩いてみよと仰しゃった。さよみさんが目かくしをして歩いたら同じ所で足がひっついた。辻さんは同じ様に歩いて見たがどううしてもひっつかん。つまり因縁がなかったんや。そこで留菊さん(三歳)を負ふて歩いて見たらひっついた。まともにひっついたのは此の三人だけや(略)」。

 これは、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿で、「教祖が歩いた後をこかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の与助等の人々に目かくしをして歩かせたところ、皆な、同じ所へ吸い寄せられるように立ち止まった」とある内容と違う。さらに、稿本教祖伝では、教祖が歩いた後、こかんが登場しているが、高井の談話では出ていない。ここも異聞である。ちなみに、天理図書館で「みちのとも」の回覧ができるが、「ぢば定め異聞」を伝える昭和十年一月五日號は回覧できないと云う。

 なお、「宮森先生との談話」では、宮森が次のように伝聞証言している。
「辻留菊さんの小さい頃で、なんでも廿六日の宵の日に『明日は命日だからきれいに掃除をして置くように』と仰って掃除をさせられた。最初に教祖様がお歩きになって踏み留まった所へ印を打たれ、側に居た人達にずっと歩けと仰った。其時居合わした人は相当あったが、理のある人だけがまともな所に足がひっついた。辻さんの家内が歩かはったところがひっつかず、留菊さんを負ふて歩かれるとひっついた。松尾さんやったか、家内のお春さんやったか、三尺程手前で足がひっついた人もあったと言うことを聞いています。教祖様は目かくしをされたか、されなかったか聞いていませんが、他の人には皆目を括って歩かされた」。

 これによると、概要「理のある人だけがまともな所に足がひっついた。ひっつかなかった者、手前で止まった者もいた」と云うことになり、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿の記述とやはり違う。
(私論.私見)
 稿本教祖伝の記述と異聞とどちらが正確なのか、この辺りを精査せねばなるない。

【教義の完結】
 このたびの地場の確定と甘露台の据え付けを目標にしたこの時点で、教祖教義が確定ないし完結されたと拝察させていただく。次のように評されている。
 「教祖は、人類だけでなく、全ての生物の生命発生の際の調和、又、生命体を維持してきた調和を甘露台づとめで表現した。そして、それを自分の身体の中で実現して行く心地よさを味わいながら、人々の個性を活かした助け合いによって陽気づくめの世界を現実の社会で実現する生き甲斐を持って暮らす道を教えた。生命の世界の調和をとるためには、自分の持ち味を活かして助け合わなければならない。そうすることによって、それぞれがかけがえのない働きを持っていることに気づき、調和のとれた一つの世界を共有して味わうことができる。そして平等が実現できる。自分の個性に適した、人にも喜ばれるような、自分がいさめる働きを、自分の意志で為すことができるというのが真の自由である。この信仰のキーワードは、助け合い、平等、自律的自由である」。
(私論.私見)
 教祖が教えたことの白眉なところは、こうした教義を生み出す根拠としての「泥海古記を通じた元の理」を明らかにしたことにある。これに基づき、各自銘々が「泥海古記を通じた元の理」に叶う生き方を為すよう指し示されていた。しかも、「泥海古記を通じた元の理」が今日の科学の評価に耐えうるお話であるという凄みの精彩を放っている。ここが凡百の宗教家と画然とさせられる教祖の秀逸性と私は見なしている。


【おじばの理】
 「おじばは、泣くところやないで。ここは喜ぶところや」。
 「ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方に根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れてもニ方残る。残ったところに太い芽が出る」。
 「187、ば一つに」。
 「明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、何か違いの点があるかも知れませんから知らして頂きたい、とお願いしたところ、教祖は、『さあさぁ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで』、とお言葉を下された」。
 「191、よう、はるばる」。
 「但馬国田ノ口村の田川寅吉は、明治十九年五月五日、村内二十六戸の人々と共に講を結び、推されてその講元となった。時に17才であった。これが、天地組七番(註、後に九番と改む)の初まりである。明治十九年八月二十九日、田川講元外八名は、おぢば帰りのため村を出発、九月一日大阪に着いた。が、その夜、田川は宿舎で、激しい腹痛におそわれ、上げ下だし甚だしく、夜通し苦しんだ。時あたかも、大阪ではコレラ流行の最中である。一同の驚きと心配は一通りではなく、お願い勤めをし、夜を徹して全快を祈った。かくて、夜明け近くなって、ようやく回復に向かった。そこで、二日未明出発。病躯を押して一行と共に、十三峠を越え竜田へ出て、庄屋敷村に到着。中山重吉宅に宿泊した。その夜、お屋敷から来た辻忠作、山本利三郎の両名からお話を聞かせてもらい、田川は、辻忠作からおさづけを取次いでもらうと、その夜から、身上の悩みはすっきり御守護頂いた。翌三日、一行は、元なるぢばに詣り、次いで、つとめ場所に上がって礼拝し、案内されるままに、御休息所に到り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、赤衣を召して端座して居られた。一同に対し、『よう、はるばる帰って下された』、と勿体ないお言葉を下された。感涙にむせんだ田川は、その感激を生涯忘れず、一生懸命たすけ一条の道に努め励んだのである」。
 「道三郎氏の話(その四)、ねをうしなうても とらん
 「熊吉は、明治十年ごろから、おぢばへお詣りに行き、ひのきしんもつとめさせてもらっていました。それで高井直吉、宮森与三郎さんらとは、一つ鍋のものを食べた仲間だったのです。高井、宮森のお二人はおぢばにつとめ、奥野熊吉は大阪へ出て働きました。しかし、道の為、神さまの為を思う心に変わりありません。お道も大きくなり、世界との交渉が盛んになると、それなりに応法の道も通らねばなりません。だが熊吉は、御存命の頃のままの信仰です。だから、時にはあんなことしてと思うこともあったようです。ある時、私に、ご本部のある先生のところへ手紙を出せといって聞きません。私も困りまして、どうしたものかと思い、街の易者に占てもらいました。これは、神前に刀を抜く珍しい卦(け)や。例えいかなる理由があろうとも、神にお仕えするものに太刀振ったら、天罰覿面(てきめん)といわれますで、と注意されました。それで書かんでいますと、もうお前に会わんといって、自分の隠居所へかえってゆきました。そのあと間もなく警察から電話がかかって、熊吉が電車にはさまれて怪我をし、病院へ運ばれているから、すぐ来いといって来ました。行ってみると、父は包帯にまかれて、真白になっていました。だが元気でした。オレが間違っていた。神さまにお詫びしているね。ご本部のやり方について不足をもっていたことは私の間違いだった。神さまはな、根をうしなうても、とらん、と教え下された。たとえおぢばの建物が藁屋であっても、入母屋であっても、ぢばの理は一分一厘の狂いがないと仰せられるのだ。ぢばは人間の生れ故郷、神さまのお心のこもっているところ、一分一厘のくるいもないのだ、それを忘れていた。神さまは、このことを教え下さろうとして、私の身上にお知らせ下された。もう、いいね、家へかえるわ、と言って父は病院を出、家にかえりました。教祖のお話し『世界中で、人間をこしらえたところは、ここより他にないで。あるというなら尋ねて行ってみよ。神はいつでも行司に立っているで』」。
 清水さんが中山玉恵さんより聞かせて頂いた御話し「お屋敷に勤める者の心構え」、昭和十三年九月号みちのとも御母堂様追悼号「印象深き数々のお言葉」清水くにゑより。
 「或る時、お前の様なつとめ方でどうする。縦横十文字に勤められる位置にいるのやから、もっとしっかりつとめにゃならん。教祖様は、『この屋敷へは二代三代なおその上の従兄弟・はとこ迄連れて帰ってある、引き寄せてある』、と仰った。『因縁なくて、このお屋敷につとめさして貰う事はできん。しかしつとめ方によっては一代ぎりの者もある。また二代三代の理の者もある。また末代の理の者もある』、と仰せられた。勤めさせて頂こうと思えば、どんなにも勤めさせて頂けるのだから、もっとしっかりとつとめよ、と諄々とお仕込みを頂きました」。
 お筆先は次の通り。
 「ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢば有りて、世界が治まる。さあさあ心定めよ」(明治21.7.2日)。
 「……ぢばには人間心は更に要らん。……あれはどうじゃ、これはどうじゃ、人間心は要らん」(明治22.12.8日)。




(私論.私見)