大平良平の教祖伝関係者証言その1

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.21日

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 2018(平成30).4.16日 れんだいこ拝


 生れ故郷  前川静子
 「生れ故郷はその侭(まま)置いてをくのや」と神様が仰せられますからそのままに致してをきますけれども、雨漏りだけでも直さないぢや何(ど)うもならんと管長様(前管長)が仰せられますから雨漏りだけ普請させて戴いて居ります。教祖様も始終生れ故郷/\と仰つてな、暇さへあれば此方(こっち)へお居でになりました。この家はこんな丸天棒で御座います。只今は皆んな立派な家が建ちましたけれども、昔はこんな丸天棒で立てたのは中々立派な家で、界隈でもこんな家は御座りませなんだ。神様が 「生れ故郷はそのまま置いてをくのや」と仰りますから大地震にもあひますしな、大風にもあひますしな、それでもこの家はどうもなりません。私は教祖の姪になりますが矢張りこの家に生れました。九つの時中々の大地震が揺りましてな。それからチヨイ/\地震が揺りますけれども、ほんの埃見たいのもので御座いますが、その時は中々内へ入つて居られん様で御座りました。その時向ふの灯篭がこけてかけたままで建てゝあります。この間も管長様が御いでになりまして「彼の灯篭はこけてゐる。危いなあ」と仰(おっし)ゃりました。唯今は方々から本部/\と云つて皆様が集つて参られますが、「早うこの道についた者程(ほど)因縁ある者やほどに」と神様が仰ります。未(ま)だこれから先き何処(どこ)迄拡がりますか分りません。私共三つ位の時からお叔母さん/\と云つて教祖様の所へ参じましたが、年のゆかん頃から「お前達は何も知らんで居るけれどもな、この神様は何もない所から人間を拵らへかけた元の神やで、これから先は何んぼ端々の国でも近うなつて戻つて来るで」と仰やりました。私共はまだその頃こんなになつて来ることは分かりませんから、その頃江戸今の東京のことを江戸/\と申して居りましたへ、行くのもならんのにどうしてそんなことになるのかしらんと不審に思ふて居りました。「唐やな唐人やと云ふてな皆んな恐れて居るけれどもな、唐や唐人やと云ふたとて皆んなこっちへ従つて来るのやで」と云ふこともお聞かせになりました。この屋敷は教祖様のお生れになつた時も私共の生れた時も同じことで御座りますが、東が十二畳の米倉で西が十四畳の綿倉それに納屋や隠居所と倉計(ばか)りも七戸前も御座りました。倉から納屋迄はヅーと木一本なく裏を通り抜けると又(ま)た裏で其処(そこ)に何か作つてあります。この屋敷は「屋敷に因縁ある故に」と仰せられますがこの屋敷一軒限りぐるり道になつて居ります。

 それから教祖様のお父様のことも聞いてをくが宜(よ)う御座ります。教祖様のお父様と云ふ方は矢張り神様の御魂で御座りました。先き御教祖様の御父様が御生れになりまして、そこへ教祖様がお生れになりましたので御座いますから世界並に御生れになつたのと違ゐます。


 御兄弟は五人御座りまして一番兄さんが杏助その次が教祖様、教祖様の次に女の子が二人ありまして一番末にできたのが半三郎と申して私の父で御座ります。この半三郎と申しますのは女の子供が二人ありましてから九年目にできたので御座いますから、同じ兄弟と申しましても教祖様とは九つも違うて居ります。教祖様のお出でになりました家は立派な家で御座りました。それを神様から神の館にするから皆んな毀つて了へ /\と仰やるけれども、杏助と云ふ方がこの家だけでも残さんと先祖に対してすまんからと矢釜(やかま)しく云つて、守屋筑前この方が神様に詳しい方だからこの方を連れて行つて神様と問答させても、終ひには神様に従ふて戻つて参じました。そこでこの兄様も神様がなさることやから人間業では仕様ないと云つて皆んな毀つて了ひました。

 本部で一番最初建てましたのは勤めの場所で御座いますがこれは毀つて了ふことができませんから教校の所へ建てゝをきます。彼(あ)れを建てました時、国床立命から十柱の神様のお面を拵ふ様にこの兄様に仰せつけになり、雛型をこの兄様がお造りになりました。この兄様が九日の患ひで御崩れになりました時、教祖様は御帰りになりましてな、チヤント御自分でこの兄様の身仕終ひをなされてな、「こうしてをけば明日御葬式をして良いのやさかい」と云つて御帰りになりました。この間、管長様御帰りになつて 「ここの叔父様も巧者の人つたな」と仰やりました。

 教祖様と云ふ方は色の御白い口元と眼元の柔しい白髪な奇麗なお方で御座いました。八十幾つかにおなりになつても腰も屈まず、スラツとした御方で御座いました。お召しは赤衣をお召しになつて居りましたが毎月御換へになりました。それをお下げになりますと御守り様になります。教祖様のお引き取りの時は私の四十二歳の時で御座いました。この琴も彼地にかゝつてゐる開き手の鍵も教祖様の遺品で御座います。(了)

 別鍋  伊賀名張 細川なほ子  
 直子様は教祖の妹お桑様が忍坂の西田様へ嫁して一番末に挙げられた方である。若い時には教祖より深く愛せられて始終往復をしてゐられたといふから色々と古い事を知つてお居でになると云ふことを聞いて、昨年の秋永尾氏と態々伊賀の名張迄出掛けて行つて御面会を願つた。ここに掲げたのはその時の談話の一節である。

 私は今年七十一で御座います。七つの年から二十歳の年迄は度々庄屋敷へ参じました。その頃は教祖様のことをお母さん/\と云つて居りましたが、教祖様もチヨコ/\おいでになり(忍坂へ)、私も宇陀に縁につく迄はよく参じまして三十日も五十日も止めて戴きました。中山家と前川家とは代々親戚の間柄です。お叔母さん(教祖様)の姑さんて方は前川から行つた方です。その前にも前川から庄屋敷へ行つて居ります。ですから中山家と前川家とは二代の親戚関係で御座います。私の所(忍坂の西田)では勇助が一番上で西田の跡をとりました。それから藤助は一時庄屋敷の小寒さんの所へ養子に行きましたが三十日程居て帰つて参りました。その時教祖様から七十より下で死ぬことはないと申されました。小寒さんと私とは七つか八つ違ひましたが、行けば姉妹見たいに心易くして居りました。善兵衛さんには妹が一人ありましたが、この人は不仕合わせの人で森本へ行つて五人も子供がありましたのに庄屋敷へ帰つて参りました。お伯母さんに神憑りのありましたのは小寒さんの二つの時でありました。それ迄は田地も 三町余りあつたといふことでしたが皆んな売つて了ひました。母家(おもや)は私の九つの時までありましたがそれもバラ/\に売つて了ひました。それも皆な人にやつて了ふので始めより売らんならんで売つたのではありません。

 その頃の本家の前には堀がありました。何んでも家の間数は大分ありましたが玄関はあつても門はありませんでした。倉は西にもあり北にもあり綿倉だの米倉だの何んでも六戸前もあつたそうで御座います。家を毀つた跡に甘露台だと云つて棒を一本立てゝ居りましたが、私はまだ子供の時分で御座いますから、それを抜くとお伯母さんは「棒は幾らもあるからそんなものを抜くのやないで」と仰せになりました。私の前に姉さんが一人ありましたがその姉さんの死んだ時、母は女の子がないと云つて大変悲しんでゐると、教祖様が私の母に向つて「そんなに女の子が欲しくば授けてやる」と仰りましたが、私の母は「こんな年になつてそんなことはない」と云つて居りますと、二月三月経つと身篭りまして生れたのが私で御座います。私の生れたのは弘化二年で母の四十四五の時の子で御座います。その年お伯母さんは四十八になつて居りました。末の子で御座いますし身体も小さかつたので何時迄も乳を呑んで居りましたが、七つの時お伯母さんがおいでになり、「こうして何時迄も乳を呑んでも仕方がない。庄屋敷へ連れて行つて育てゝやるから最(も)う一遍乳を呑ませておくれ」と仰つて呑み納めに乳をもう一遍呑んで庄屋敷へ連れて行つて戴きました。これが庄屋敷へ行く始めで御座います。その頃はお伯母さんの云ふことを誰も信じるものはありません。私が宇陀へ行つた頃、よりつく様になりました。その頃は豊田のサユミさん(仲田)と云ふ方が来てゐました。お伯母さんの兄弟は一番兄が杏助で二番目が教祖、三番目が私の母、四番目がお力さんと云つて朝和村の竹内へ行かれました。五番目が半兵衛さんで御座います。西田にはチヨコ/\おゐでになり南半国の出張り場所と仰りました。

 文久の夏、私の一番の兄さん(勇助)と小寒さんと秀司さんと又次郎(勇助の弟)と四人が太鼓と鈴とをもつて大阪へ布教に参りました。それが私の十九の年で御座います。その日の小遣いが当百六枚あれば良いのですがそれ丈(だ)けの小遣ひは秀司さんが賭博場へ行つて儲けて参りました。所が七八日経つて欲になつてその日の小遣は儲けたのに、もう一儲けしようと思つて行つた所が今度はスツカリやられて帰る時は腹を空かして帰りました。それを教祖様は内へお居でになつてチヤンと知つて居られました。

 その頃は庄屋敷では何もかも売つて了つた後で何も御座いません。私の小供の時分庄屋敷へ参りまして 「こんな家は結構が悪いや」と申しますと 「またお金ができると大きな家を建てるのやで」と仰りました。私の身体が小さいのでどうしてこんなに小さいのだからと申しますと、お伯母さんは 「身体は小さくても寿命さへ貰つて来れば良いのやで」と申されました。同じ兄弟の中でも六本木へ行つて居る兄は身体も大きゅう御座いますが、私と藤助は小さう御座いました。

 私の十九の時の七月十七日、その頃は私は宇陀へ嫁附いて居りましたが、忍坂から男衆が来て庄屋敷のお伯母さんがお居でになつて、お直さんを呼んで来いと仰るから直ぐ来て下さいと云つて迎ひに来ました。行くにしても髪も結はんけりやならんから髪を結つたりなんかしてゐると十七日には行けませんから十八日に立つて忍坂へ来ました。その時私は始めて別鍋と云ふものを炊きました。お伯母さんの仰るのに「お地場では小寒が炊き、ここではお前が別鍋を炊くのやで」と申され別鍋と云ふものを炊きました。別鍋と申しますと御飯と御汁と御副食物とを朝から三遍、昼から三遍、夜一遍、一週間の間炊くので御座いますが、それを一粒残らず召し上りました。而して三品共内の人とは別にして雪平で炊くので御座います。御米も一遍に洗ふことはなりません。一度一度に洗ふので御座いますから朝から晩まで御飯拵らへにかゝつて居りました。私にはどう云ふ訳か分りません、唯炊けと云はれるから炊いて居りましたがその間何もなさりません。七日経つて打ち明けの日、風呂へ入つてお帰りになりました。それが私の十九の年の七月の二十六日の晩で御座いました。お帰りになります時、夜分だから車引きでも頼もうかと申しましても聞かずに歩いてお帰りになりました。提灯を上げやうかと申しましても「私の先には火の玉が行くから提灯は要らない」と仰つた。その頃は私もまだ若い時分で御座いますから 「火の玉が行くなら恐い」と申しました。お帰りには小寒さんがお伴をして帰られました。三仏庄から細い道になり ますが水溜り等ありましてもドン/\お歩きになりまして夜の十二時頃お帰りになりました。それからお粥等暖めてお上りになりました。その頃から匝線蝶の紋をつけてお居でになりました。

 お伯母さんの云はれるには 「夫婦と云ふものは同じ魂寄せるのやぜ」と云ふことでありますが、私のお爺さん(夫)の魂は先代多吉と云ふ人の魂で御座いました。その連れ合ひはお民と云つてじんらく寺から来ましたが、多吉さんが子供を一人残して亡くなつたから、その弟の勇助と夫婦にしました。それで位牌には勇助と一手にしてありました。その多吉と云ふ人の生れ変りがこの間亡くなつた内のお爺さん(次郎)で私がお民で御座います。そう云ふ訳で前には忍坂で夫婦でありましたが今度は宇陀へ来て夫婦になりましたから、つまり二代の夫婦で御座います。私の母(お桑様)は一寸も信心は致しませんから「お伯母(教祖)さんがお前は長生きすると云つても何時死ぬかも知れんから当てにするでないで」と云つて聞かせましたが、未(いま)だにこうして長生きして居ります。

 今の西田の主人(伝蔵)は顔面に大きな痣がありますが彼は生れて来ない中にお伯母さん(教祖)が 「何も悪い事はないけれども祖父に悪いことをしてゐるから面体に印をもつて表れる」と仰つてをかれましたが、彼は彼の人が私のお父さん(伝蔵)に粗忽をしてその侭(まま)納まつてゐるから表はしたのだと仰せになりました。庄屋敷へ行つて居た時は時々染め物を致しました。その時は小寒さんが井戸から水を汲む、お伯母さんは側で早く入れろ/\と云はれるから手早く入れると梅鉢でも何んでもチヤ ンと表はれました。お政さん(教祖の長女)つて方は何時迄も嫁附いても又出て来てブラ/\してゐましたがお伯母さんは何時迄もそう気ままにさしてをいてはならぬと云つて勝手に八木へ行つたのを迎ひにやり、秀司さんが迎ひに行くと「今行かうと思つてゐる」と云つて来てそれから豊田へ嫁に行きました。お政さんの嫁に行く時は何もありません。夜具が三枚ありましたがその中一通りはお春さんにやり、一通りはお政さんが持つて参りました。

 お伯母さん(教祖様)が嫁入りなさつたのは十三の時で御座います。その時福知堂のお叔父さん(教祖の父の弟)が媒介者で貰ひに来るとお伯母さんはそれを蔭で聞いて「お母さん、私子なら行かん嫁なら行く」 と云つたと云つて私の母は姉さんは可笑な人だ十三やそこらで私子なら行かん嫁なら行くつて云つたと云つて居りました。十三の春庄屋敷へ行き十六の時入籍しました。十三の時嫁入する時には空で参りました。十五の年泊りに来る時髷に結つて帰りますとお母さんから「お前未だそんな髷になぞ結ふものでない」と云はれたそうで御座います。十六の年お母さんから念仏をして貰ひ、十九の年に自分で五重を受けました。

 三昧田と庄屋敷と忍坂とはお互ひに前々から親類で御座いました。即ち教祖のお父さんの一番姉がお久さんと云つて三昧田から西田へ参りました。二番目の女の人が庄屋敷の善右衛門様の所へ行きました。これがお伯母さん(教祖)の姑で御座います。三番目の女の人これは櫟枝に参りました。四番目が教祖さんのお父さんの半七さんで三昧田の跡を継ぎ五番目が福知堂お叔父さんで御座います。それから教祖のお兄弟は一番目が杏助さん、二番目が教祖さん、三番目が私の母、四番目が竹内へ行つたお伯母、五番目が半兵衛で御座います。お伯母さんは小供の時分から違つて居つたそうで御座います。どんな子供とでも良う遊びなされた。内に居てもコツソリして居てチツトとも何んとも云ひなさらぬ。外の小供はお母さん何か欲しいと云つても、教祖様はチンとして「お前も行け」と云はれて始めておいでになりましたそうで泣くなぞと云ふことはなかつたそうで御座いま す。

 寺小屋へ参りましたのは九つからで九つ十、十一、十二の四年で御座いました。裁縫は内で習つたので嫁に入つてから教へられたのではありません。縫ひ物は中々達者で針は一針でもかゝりません。私子供の時行つて見るとよく鳩を拵らへておくれになりましたがそれを上げると羽がパツと広がり下げると縮まりました。袋等もよくお拵らへになりました。お伯母さんは私を可愛がつて始終ここへおいで/\と仰やるけれども、私は何んだかお伯母さんが恐くて側へ行く気になれません。それで寝る時には小寒さんと並んで寝るので御座んすがそれでも眼を醒すと何時の間にか教祖様の側へ行つて寝て居りました。(教祖様は本宅にお休みになり私共は長屋に休みました)その時お伯母さんの仰るには「お前私と寝るのを厭だと云ふけれども神様はお前を好きだで」。それでもお伯母さんを恐い人と思ふ感は年頃になつて嫁に行つてからも変りませんでした。それで庄屋敷へ行くと帯の紐でも襷の紐でも小寒さんの手と私の手とを縛つて一手になつて寝るのだけれども朝になるとどうしても教祖様の側へ行つて居りました。何か下さる時にも教祖様が食べてから私共に下さいました。教祖様には前申した通り別鍋でお上りになると云ふことはなされたけれども断食なさると云ふことは御座いません。唯気に入らぬ時はヂツと目を塞いで何も上りません。御酒は御上りにならず味淋を一杯位御上りになりました。

 神様がお下りになると教祖は紙筆!と仰やるから直ぐやるとスラ/\とお書きになるが遅れると抜けて了ふ。それで側に居るものは何時でも紙と筆の用意をしてそらと云つたら即ぐやる様にしてをかなければなりませんでした。私には十八歳の時神様から棒寄せと云ふことをお授けになりましたが、何か分らないことがあると、火箸でも何んでも良い棒を一本づゝ両手にもつて分らんことを伺ふと、そうだと云ふ時は合ひ、そうでないと云ふ時は離れて合ひません。また道中をして何処/\まで何里と云ふことを伺ふ時には、何んでも良いその辺にある棒を二本拾つて天理王命の名を唱へて御伺ひをすると、一里なら一つ、二里なら二つ打ちます。所が私の母が「私の所だけそんなことをしてはいかん」と云つて返して了ひましたから残念だと思ふて居ると、その晩「何も心配することは要らん。水で助けるで」と云つてお水のお授けを頂きました。お授けを戴かない先は御筆先を読んで聞かして貰つて居るうちに良くなりました。教祖の亡くなられたのは私の四十三の時で御座います。その前に忍坂へおいでになつた時、鏡と延紙とを戴きました。延紙の方は使つて了ひましたが鏡の方は戸棚へ放り込んで置きましたがこんなことして置かんで蔵つて置いたら良からうと人が云ひますので半分は京都の細川七郎(直子様の女婿)へやりました。まだ外に帯も貰つて居りますがこれは私の母が貰つたのを私が母から貰つたので御座います。(文責在記者)  

 人が望めば神も望む  永尾よしゑ子
 私の所でこの道に入り始めはお母さんの産後を助けて戴いたのが原因で御座います。お母さんの産後がどうも良くないのでお父様は前裁の側で産薬を買ひに出た途中で人から庄屋敷の産屋神様に参つてはどうかと云ふことを聞いて、そのまま西に行くのを東に向いて庄屋敷に来て御願すると、「ない寿命でも心次第で踏ん張つてやるからこれをもつて行つて上げなさい。而して三日たつたら又おいで」と仰つて御供を三服下された。それを戴いてお母さんに呑ませると三日目に元のままと云つても良い様になり、四日目に夫婦共御礼参りに庄屋敷へ参りました。その時教祖様は「思はくの大工が出て来たと云つて八方の神が手を打つて喜んでゐる」と云つて喜ばれた。それから何んでも嬉しい/\一点張りで神様がお喜びなさるからと云つて半期位詰め切つて内へ行かぬことも御座いました。その頃は天理教と云へば人が馬鹿にしてゐる頃でありましたから、風呂に行くと櫟本の大工が来るからと云ふので早くから集つて周囲から嬲り物にすると云ふ風でありました。

 然しまだその頃は全然庄屋敷へ詰め切ると云ふことができませんから、仕事をしながら通つて用をさせて戴いて居りました。彼は明治何年頃だつたか覚へて居りませんが兎に角私共の大きくなつてから、二階堂村の前裁の博労の家を畳建具附千三百円で請取つて仕事をした所が唯(た)つた二百円くれた切りで後はスツカリ倒されて了ひました。貰ひに行くと「この牛を売つたら渡さう」とか云ふが中々渡す所か一文もくれやしません。それで私と母と政甚と政枝とが仕事見たいに通つたがとう/\倒されてしまいました。こっちではそれを貰ふ筈にしてゐた所がスツカリ当が外れましたから、年の暮になつて掛け取りが来ても払はりやしません。けれども掛け取りに来る人は内の人が正直な人だと云ふことを知つてゐるからそんなら負けてやらうと云ふ。お父つ様はまたお父つ様で几帳面の人だから負けては要らんと云ふ。それを後から掛け取りに来た人が聞いて居る。これはここの家では払ひができないなと思つて入つて来る。矢つ張り払いができないからその人も負けてやらうと云ふ。お父つ様は負けて要らんと云ふ。それで勝手道具迄払ふ様なことができました。博労はそう云ふ事をしてその家に入りましたが半期程入つた計りで人に取られて粉もない様にされました。それでも私所の家はどうなりこうなり煙を立てさせて戴きました。その頃の私共は職人が十四五人も居りまして、忙しいから私も学校へ行かないで守りをして内にゐました。その内に私の母の鼻に瘡瘍ができました。医者に見せると牛を食べろと云ふ。牛を食べなければよくならぬと云ふ。それで牛を食べると顔中に瘡瘍が一杯に拡がりました。それから神様の所へ来て願ふと直ぐ御守護を戴いた。教祖様の仰せになるには 「お里さん、こっちが手不足でならんから早く彼地を引き上げて来ておくれ」、「有難う御座います。何(いず)れは寄せて戴く心算(こころづもり)で御座いますけれども子供も大勢御座いますから小遣でも少しできました上で寄せて戴きます」、「そんな欲なことを云つたつてどうもならん。早く来てくれ」、「寄せて戴きます」と云つて帰るが又々二年程誑ましてそのまま延び/\になつて了ふ。兎に角千円も偉い目にあつてゐるから小遣儲けに一寸煮売りみたいなことをしました。内が内だから職人が来るが、その中には一寸酒屋の通を貸してくれ、呉服屋の通を貸してくれと云つて品物を取つて金を寄来さない。それでその時もスツカリ損をして店をしまいました。神様(教祖様)が櫟本にお出でになつて笑はれた。「皆んな落し紙かせんち紙のやうなことをして喜んでゐる。神には深い/\思はくある。どんなことも成るか訳らん。そら放つて了へ。これも放つて了へ」。ふと云つてサン/\笑はれた。それで商売を止めて了ふとどうなりこうなり優しになりました。商売を止めると教祖様も御機嫌が宜い。それで今度の正月は寄せて貰ふと云つてまた行かない。また身上に御異見を戴き、父は一夜の中にスツカリ盲目になりました。それから眼の玉は梅干の様になつて白も黒もない。「これでは乞食するより外仕方ない」と云ひながら神様へ来て願ふと、「そんな先の見えないことを何時迄もしてゝはどうもならん。早く帰つて来な」と云はれる。スツカリ助けを戴いて盆の関だけ済まして寄せて戴きますからと決心しても亦明かない。そうして居る中にまた政恵が一晩の中に風眼で潰れた。人が寄つて来て医者に連れて行けと云はれたが医者へ行かずに神様へ連れて来ると、一週間の中にスツカリ助けて貰つた。助けて貰ふと又心が後へ戻る。「子があるさかい/\」と云ふて送り/\してゐるうちにまたお父様が櫟本の神田といふ内の仕事を受取つて仕事をしてゐると、木片が右の親指の肉と爪との間に入つて、どうでも抜けぬからまた神様へ参つてお願すると、「ウカ/\して居てはどうもならん。私に一人何時も任せてをくからどうもならん」と仰せになつたが直ぐ抜けた。抜けた跡に傷も何も行かない。勿体ないことだと思ひ「普請を済ましたら帰らして戴きます」と云つて帰つたが愈々庄屋敷へ越さして戴かうと云ふのでその事を鍛冶屋のお父つ様に話すと、鍛冶屋のお父つ様が「彼(あ)んな庄屋敷の様な所へ行つたつて仕様がないから止めなさい」と云はれるのでその時もそのままになつて了つた。明治十三年に何んでもない紺屋の藍壷の廂を直すだけですから樽桶を台にしてやつて居ましたら落ちて腰抜けになり立つ事もできないから櫟本から戸板に乗つて来て七八日置いて戴いた。その時神様は「何んぼ来い/\云ふても聞かなければ何時迄もこうして置く」と云はれ愈々懴悔をして「今度は寄せて戴きます」と云つて教祖と物語して助けて貰ひ一週間目に帰つた。これから愈々庄屋敷へ引つ越すと云ふので顧客先へ暇乞ひに廻ると、顧客先では「何んだつて庄屋敷見たいの所へ行くのだ。乞食しても庄屋敷見た様な所へ行くな」。こうなる。そうすると「こんな細かい子供があるのにな」と考へる様になる。そこへ来て顧客先では「内が狭ければ大工の手のものだから建てたが良い」、「金がありません」、「金がなければどうにでもしてやる」と来られるから、そんなら子供が一人前になる迄待たうかと云ふことになると政甚が五日か六日物を言へない様になる。それからまた身がすくんで起きない。そこで神様へ行つて「何時も詐計り云つて済みませんがこれを助けて戴いたら寄せて戴きます」。それで御守護を戴くとそのままになる。明治十四年に政甚も政恵も目の縁が腫れて牡丹餅見た様になつた。そこで十四年の旧十一月の十七日か十八日頃と思ひますが、寒い/\時に二人連れて庄屋敷に母が来られました。

 而して政甚と政恵と二人が加減が悪くてお願ひに上つたことを申上げると神様は、「お里さん政次郎のことを知つてゐるかい」、「ハイ知つてゐます」、「知つてゐるのなら良いけれども知らなければ確(し)つかりしいや」。政次郎と云ふのは五つの時人に迷はされて死んだのであります。「ハイ有難う御座ります」、「早う来ておくれ」、「寄せて頂かう/\と思ひますけれども櫟本で惜しがられますによつて」、「人が望めば神も望むで。人の惜がる人間は神も惜しがる。人が望まん様になつたら神も望みやせん」と云はれる。また「寄せて戴きたう御座いますけれども子供が細かう御座いますからもつと大きくなつてから寄せて戴かうと思ひます」と申上ると、「子があるから神の方も楽しみだ。親だけなら楽しみあらせん」。それでそのまま居て明治十五年の正月の朝に 「一日だけ休ませて貰ひに帰つて来た」と云つて帰つて来ました。その時お父つ様の云はれるには「お里こんな所でも行くな/\と云ふ人があるから止めにしやう」。けれどもお母さんは「私盲目になつても行きます」と云つて日帰りにした。チヨト一ケ月計り居て櫟本へ行き「神の方で何もかもするからあるものは皆な人にやつて了へ」と神様が云はれるからと云つてあるものは皆な人にやり二月の八日にお地場に引つ越さして戴きました。彼の時辛いからジツとしてゐたら春が遅れる。何も持つて来るなと云つても着物だけ持つて来ないじや直ぐの間に合ひませんから着物と錠前障子四枚と鍋釜夜具蚊帳お膳等一通り持つて来ました。明治十五年には私が十七で妹が十政甚が七つか八つで御座んした。私身体は小さいし妹や弟はまだ子供ですから全身の着物は一枚もあらしません。神様は遠慮なしに何んでもしたが良いと云はれるが、その頃はしたくてもできやしません。それ迄は中山家で空風呂と宿屋をしてゐられたが、四月の一日から宿屋と空風呂とを伊蔵の方へ任せました。その頃私共が櫟本から持つて来た鍋釜は中山家で使ひ中山家の道具は損料で貸す。スツカリ南と北とに分けて了ひました。これを分けたのは松恵さんですが、私共がこっちへ参ります時、神様は一つの所帯一つの家内と云はれたのを、松恵さんが今云つた様に南と北とに分けたから、神様が「南と北と分けたのが神の残念。神の云ふ事背いたらどんな事になるやら知れんで」と云はれました。松恵さんは私共が寄せて戴くと間もなく亡くなりました。

 それからその年の九月十九日に道の上に大節が出て慈福寺の認可が取り消しになりました。教祖様始めとして監獄へ七人行きました。教祖様が明日か明後日お帰りになると云ふ日に私の所のお父つ様も監獄へ引かれる様になりました。その頃私の所では宿屋をして居ましたから警察で止宿改めに来るのですが音松と云ふ弟子の寄留届がしてなかつたので引かれました。その日お父様は明日か明後日教祖様が監獄からお帰りになると云ふので御召しになる赤衣を丹波市の岩井に誂らへに朝の八時に出て行きましたが、十時になつても十二時になつても帰つて来らりやしません。こっちも忙しいから見に行けない。止宿人挙げの届けに丹波市の警察へ行つて飯降伊蔵はどうなつたかと尋ねると、「飯降伊蔵見たいのものは監獄へ送つた」と云ふ。それを聞いてビツクリしました。然し明日は教祖様監獄から出られるでせう。だから人から教祖様のお召しになる赤衣をとつて貰らひ、監獄に居るお父様の所へ差入れもしやうと思つて次の日奈良の監獄へ行つて尋ねると、「飯降伊蔵みたいのもの監獄へ来てない」と云ふから南の門から出て行くと向うから腰縄で来るのがお父つ様です。その時梅谷四郎兵衞さんが私と一手に行つてくれなされて、「芳枝さん御父つ様に何か云ふことがあるなら云ひなさい。私頼んでやるから」。願つても「余計な事は云ふはいらん」と云ふ。それでお父つさんは「私の来る迄に音松を外へ預けて了へ」と云つた限り引かれて監獄へ入つて了つた。御父様前の晩何処へ止められたかと云へば、帯解の分署へ一晩止められた。帰つてからお父つ様の云はれるには、「分署には天野さんと云ふ人が居て私が腰縄附きで入つてるのを見て伊蔵さんお前の様な人がどう云ふ事で腰縄で来る様になつたのか聞かしてくれと云つて来た。私は実は弟子の音松と云ふ男の寄留届がしてなかつたからこうなつたと話す。天野さんは、私が丹波市の分署へ居るならこんなことはしなかつたのに、御夕飯は食べたか?。イエ食べません。それじや己が持つて来てやるからと云つて、その人が持つて来てくれて夜の十二時頃御夕飯を食べた。それからその人が食べたらそのままにして置きなさい。私がとりに来るからと云つて後から取りに来た。父は何処へ行つても受けの良い人であつた。それから私は教祖様が監獄から出ておいでになつたのをお髪をすかして戴いて一手に帰らして戴いた。

 所が一方丹波市の警察の方では何か落度を見附けて父を罪に陥れ様と思つて「空風呂に薬を入れてないか」と云つて調べて来た。「入つて居ません」と云ふと「入つて居ないなら良い」と云つて行つて了ふ。又四つ日目に尋ねに来て釜の中を見、「入つてなければ良い」と云つて了つた。それが教祖の帰つておいでになる晩である。所がどうかしてお父つ様を罪に陥れやうと思つてゐるから、行く時コツソリ薬を釜の中へ投げ込んで行つた。それを後から芦津の役員で善吉といふ人が見つけて「何んでもこれは薬を入れたに違ゐない」と云ふ。それから大騒ぎになつて竃の火を引けと云ふので火を引かして釜を明けチアンとした所へ巡査と刑事が六人計り入つて来た。もうチアンと空風呂はしまつて了つたから向ふでも当が外れた様の顔をしてキョロ/\見て「愈々おみき婆さんも帰るから急がしいだらう」と云つて出て行つた。彼を彼のままにして置けば薬が入つてゐると云つて難題云つて一本やる所であつたが神様の御守護でチアンと了つて了つた後ですから的が外れた様子で帰つて行つた。その後足達様が区長をしてゐたから私の父の身元を尋ねに来た。「伊蔵さんは何処に非難を入れる所はない。天理さんのお婆さんに続く人だ」と云つてお爺さんが私に聞かした。「彼んな好い人あらしません。天理さんのお婆さんか貴女の所のお父つ様かつて云ふ人だ。そやから十日もたつたら帰つて来ますで」と云つて行きましたがその通り十日計り経つて帰つて来ました。

 その頃は警察が偉いことで何時調べに来るか分りませんので夜もロク/\休まれませんでした。その中に明治二十年の大節が来て教祖様は身をお隠しになる様な偉いことになりましたがその前に神様から御神楽勤めをせ/\と云はれるけれども皆な警察へ引かれるのが恐いからしないでゐると、神様からは「勤めしてもかゝる。せいでもかゝる」のと云はれるので、勤めをしても勤めをしないでも警察へ引かれるなら勤めをしろと云ふので(当時の人々は神様の言葉の意味を取り違ゐて居た。これは教祖昇天の時期の迫つたことを指されたのである)勤めにかゝつた。その頃は縞の着物を着てそのまま御勤めをしました。私共は襷掛けで台所に働いて居てお勤めをせいと云はれると襷を外して袢天着て何時でも警察へ引かれる様にして勤めにかゝりました。而して十二下り目の大工の人衆も揃ひ来たと云ふ所まで来ると兵神の会長が教祖様が息をお引き取りになつたと云つて知らせに参りました。それが恰度昼の十二時頃で御座いました。その前に二十五日に一遍息をお引き取りになりましたのが一旦御吹き返しになりやつと安心した所へ遂にお引き取りになりました。彼の頃のことを思ふとまるで夢の様です。  
 附記 永尾よしゑ様は御両親(御本席御夫婦)と共に早くよりお地場に御住み込みになり当時の事情に最も良く通じて居られる一人であります。この度感謝と記憶とを出すについて特にお話を願ふ筈であつたが御一門に御産があり取り込んでおゐでになり伺ふ暇がありませんので以前からズーと聞かせて戴いて居た談話の一節を抜粋して掲ぐることに致しました。文責は元より記者にあります。この文を此処に掲げるについて一応述者並に読者に対してお断りを致して置きます。(編者)

 私は百姓をしてゐました  宮森与三郎
 宮森氏は元岡田と称して居た。早くより本部に入つて農事を担当する傍布教に従事した。平野楢蔵氏の媒介によつて宮森家を継ぐ様になつたのであるがそれには氏の夫人が最も進んでゐたらしい。宮森家入籍の事を神様に願ふと、今三年は外へ出せないと云ふことであつた。その事を氏の未来の夫人に通ずると、本部に勤めてゐる人を貰ふなら三年が四年でも良いと云ふことであつた。本部員に引き挙げられる人は何れ何らかの功がなければ引き挙げられないのであるが長々御苦労であつたと神様からお礼を云はれたのは氏一人である。氏は性率直にして詐も追従も飾り気もない人である。世間では氏の辞令に巧みでないと云ふ点をつかまへて彼之れ云ふがそれは真人と云ふものを知らない俗人の嫉みである。凡て俗人の常として口先や手先の動くのを以つて偉いと信じてゐる。けれども神の見る眼は全く違ふ。神の見て以つて偉大なりとなすものは口云ふこと能はず手行ふこと能はざるが如き素朴の人間である。この点に於て現在の本部員中最も多分に宗教的素質をもつた一人である。私は氏の淡々として水の如き性格を愛する。

 (RO生)  
 私の信仰しかけたのは明治八年頃でありますが本部へ寄せて戴く様になりましたのは十年から此方でした。その時分には本部の屋敷と云つて六畝か七畝位の所でこの辺は百姓計りで何もありませんでした。内の親爺は早くから信仰して居ましたがその頃は或は狐つきだとか或は狸つきだとか悪口を云はれてゐる頃ではありますし私も子供の事ですから、信心せい参拝せいと云はれても参らないで居りました。内の親爺の信心して居ります頃は唯産屋助けて下さる産屋神様だと云ふ風に聞いて居りました。自分の兄弟には姉もありますし妹もありますが大抵此処で産屋許しを願ひ外では 助からぬ様に思つて居りました。私の兄は只今城法の分教会をやつて居りますが兄貴とか姉とかは私より早かつたのです。私は兄貴から十柱の神の御守護だとか八つ埃だとか云ふお話を聞いて居りましたが世界から色々の話を聞いて居りますから信心する気になりませんでした。そうしてゐる中に私は身上になり左の肱が何うしても直らんから彼方の医者にかゝつたり此方の医者にかゝつたりしてもいかんからとう/\この神様を信心する気になり道の四五十町さへない所だから参つては直ぐ帰るといふ風に致して居りました。その頃はお地場に空風呂がありましたから空風呂に入れて貰つたり世話をして居ます内に段々心易くなり二三日遊ばせて戴く様になり良くなると内に帰つて仕事をするのですが内へ行くと身体が良くないから此方へ来るといふ具合で自然と此方へ寄せて戴く様になり ました。その頃神様から余計心のすんだ神の人衆が欲しいと云ふことを聞かせられました。そう云ふ訳で段々此方へ来て空風呂の薪を割つたり、そんな世話をさせて戴いて居りましたがそのうちに空風呂もなくなりました。その頃中山家も段々楽になり十年の年切質に入れて置いた田地が帰つて来たから私は百姓の方を引受けてやらせて戴いて居ました。然しその頃はまだ認可がありませんので上からやかましくて教祖様も度々警察や監獄へ御苦労下されたが多分教祖様が奈良監獄へ御いでになつた時分だと思ひますがその時分から代り番にやらせて戴いて居りました。それからスツカリ参詣人は止められて了つたので豊田のサユミさんは来ることができなくなりました。辻さんは昼百姓をして夜分参詣に来ましたが中田さんはその方一方でありました。私共もやかましいもんですから寄留をさして貰つて百姓をして居りましたので楽で御座んした。

 教祖様が一番終ひに警察へ行かれたのは櫟本へ行かれたのが一番終ひでした。私共も其処にゐたもの六七人も呼ばれましたが(管長様も御いでになりました)後の者は皆なその晩帰りましたけれども教祖さんと桝井伊三郎さんが残されました。それが拘留の納でした。それから彼は何年で御座いましたか旱魃の時で御座んしたが村方より雨乞ひに頼みに来ましたが管長様は断つた。村からは苦情があれば後は引き受けるからやつてくれと云ふ。神様は雨乞ひせいとお急き込みになる。管長はいかんと云ふ。それでも結局村の者の頼み通りに雨乞いすることになり、村の東の方の氏神様(春日神社)で雨乞いをして二回目に辰巳の牛剥ぎ場でやりました。宮様へ来た時は暑くて困つたがそれから牛剥ぎ場に行きました時は東の山に雲がありました。それが段々大きくなつて郡山の詰所へ近くに行つた時はそれが頭の上一杯に拡がつて来、幸田様と云ふ神社の前に来た時は偉い雨で頭の上が痛い様の雨が降つて来ました。その時外処では雷様が落ちて柱がさけたと云ふことでした。それから豊田の方へ行き御墓地の下でお勤めをした時は雨が上つて居りました。それから再び宮様へ帰りました時は前には埃が立つて居たのが此度は水が溜つて居りました。その頃は甘露台は外にありましたが其処で御礼勤めをしてゐた時警察で三人計り来まして皆んな引つ張つて行かれました。教祖様も引つ張つて行かれました。その時村の者は水掛け行つて側から行つた人だけ残つて居りましたから攫まへられて始めの者が三十銭の罰金、二度目のものが五十銭の罰金でしたがな何んでも前に一遍引かれた 事のあるものは罪が重かつた様です。その時は教祖様も罰金ですみました。その時差渡し三寸の十二の菊の紋を戴いたものは神の人衆を仰りましたがそれを今の夫人様から貰ひ神の人衆と云ふことになりお勤めに出さして戴く様になりました。私もその赤い菊の紋を戴いてお勤めに出さして戴いたが中には御紋を戴いても返しに来た人もあり ました。その時の年限は忘れましたが何んでも黒い着物の上にその紋をつけてお勤めに行きましたら雨に降られシツクリ濡れて了つたから警察へ行つて着換へたら紋まで取られて了ひました。その頃お神楽は男の神様は男女の神様は女が勤めることになつてゐましたが、男でも女の神様になる時には女の帯を締めて女の形をするのです。私はその時大食天命になり女の帯を借りて女子の面を冠つて勤めて居ると巡査が来て 「この奴は男の癖に女の姿をしてやがる。太い奴だ」と云つて数珠継ぎに継いで引つ張つて行かれお面だの御神楽道具だのを取られて了ひました。それが櫟本へ行かつしやる前でした。その時サユミさん、忠作さん、豆腐屋のおかゆさん、嘉市の権十郎さんも行きました。私がお道につかして戴きました頃は東の方の今の手水鉢のある辺に門がありました。それが表門で御座いました。門を入ると西側に窓がありますが彼処の窓際にお居でなされた。今はその窓は形が変つてゐますがその頃は突き上げで御座いました。その窓際に幅三尺だけ七尺位の台の上に上つてお居でになりました。台の高さは私の腰の辺まで御座いました。最初は下の方にお居でになつたが下の方は身体が苦るしくてならんと云ふので台を拵へてその上にお居でになりました。その下は十畳の間で一寸床の間がついて居りましたが先生だとか御家内だとかは其処へお居でになりました。御本席の時分には刻限と云ふて願はんでも御指図になる事もありましたけれども大抵此方から願つてお指図を戴くのですがその頃は教会も何もありやせんので事情願もありやせんですし、また此方のついて居るものも幼稚なものですから聞かして貰ふだけで大抵お尋ねするといふ事はありませんでした。

 その次は「説き流し」と云ふて歌見た様にヅーとお云ひなされます。本席のとコロツと 違ゐます。戦争の起ること等も折々説き流しでお云ひなさつたこともあります。お話は一体夜分に多う御座いました。夏なぞにはサアお話しと云ふと裸体のままで飛んで出ると云ふ風でした。その時分に御筆先だとか色々なものをお書きになりましたが御筆先も一遍に彼れだけのものができたのでありません。何遍も出ました。私共が行くとこんなものを書きましたと出されることもありました。教祖様に筆もて/\と神様が云はれる。教祖様が筆もつと一人手に書かれて行きます。墨すつて其処へ置くと一人手に書かれて行きます。それを纏めたものが御筆先です。門の所へお居でになりました時も筆先を仰山にお書きになりました。私共は百姓の方を引き受けて居りましたから夜分等教祖の所へ遊びに行きますと楽しみな話をお聞かせ下されました。道の働きについても「人の事と思へば皆んな人の事になる。我が事と思へば皆んな我が事になるのやで」と度々お聞かせになりました。その頃は百姓の間にお助けにも出さして戴いてゐたが忙しい時などは百姓の方も放つて置けずまた来てくれと云ふ所に行かん訳にならんから困り教祖様に伺ふと「百姓の方計りしてゐるのではない来てくれと云ふ所があつたら行つてやれ」 と云はれる様になり百姓専務と云ふことはできず、自然道一筋に働かにやならんと云ふ様になりました。その頃の百姓と云つても勤めもチヨコ/\あるしそう百姓一方と云ふことはできませんでした。それに教祖様は 「一日朝から晩までノベツに働くのではない。半日働いたら半日陽気遊びをする様になるから」と仰せられました。

 今日は日の寄進をする人は沢山ありますがその時分は私と中山重吉さんと二人で百姓一方にやつてゐました。彼の人はお助けに行かれませんでしたが夏の忙しい時になると愚図々々してゐられませんでした。米等も夏の忙しい時は昼間ついてゐられませんから夜の明ける頃二臼もついたこともあります。教祖様は 「そう朝から晩迄働くでないから招待のある所へ行つてやれ」と仰せになるので百姓の方は自然できなくなりました。明治十六年に遠州へ来てくれと云ふので行きましたがその日私と高井さんと門屋で米つきをしてゐました(門を入つた所へ席嚢を据へて)が遠州へ行つて来うか?と云ふことになり行かうと云ふことになり早速相談が極つた。そうなるとそれをつき終る迄辛抱し切れないでそのままにしてお磁場を立つて河内の榛原に寄り夜通しで大阪迄行きました。大阪では井筒さん が綿屋をしたり真明組の講元をしたりしてゐるから其処へ寄つて誘つて行く心算であつたがじゃだ夜が明けませんから川の側で蜆(しじみ)を捕つてる所で夜を明かしそれから本田の井筒さんを叩き起こしました。その前に井筒さんに十二下りの手をつけて心易くなつて居るから遠州へ行かうと云ふと行くと云ふ。それからもう一人橘善吉と云つて魚屋をしてる周旋方を誘つて四人連れで莞莚蓑に菅笠で東海道を草津に廻り六七日目に遠州へ行きました。その頃諸井さんはその頃広岡村と云ふ所に居られました。袋井より二十町程入つた時宿屋へ泊り井筒様が十二下りの手が皆んなついてないから稽古をしてゐましたら宿のお客様さんが賽銭を上げてくれたことがあります。諸井さんの内には一月程居りましたがその間に講社が九千何戸つてできました。帰りに汽車がありませんから伊勢の四日市から伊賀の上野へ出て上野から島ケ原を通つて帰りました。これも六日程かゝつた様に思ひます。教祖お崩れの頃は此方へ居りましたが 「勤をせい」と云ふことを頻りに云はれる。その頃お勤をせいと言はれると警察が出て来ることが定つて居りました。内の先生方はそんなことをすればやかましいからと云つて止めてあるし、 しなければ助からんのでお勤めに出ました。その時高井さんも居りました。古い人が居りました。お勤めをすれば拘留せられにやならんと云ふので足袋を二足位はいて何時引かれても構はんと云つてお勤めをしてしまふと教祖様の息をお引き取りになるのが一手でし た。その前に御伺ひしましたら(その頃は扇をもつてゐて御伺ひしなされたが始めのうちは扇が渦巻いて居るが終ひにピタリと膝についた時お願するのである) 「扉を開いて世界を直路に踏み平らさうか?扉を閉ぢて世界を直路に踏み平らさうか?」 と云ふお言葉があつた。その頃は余り門を閉ぢたりなんぞすることが多いから「扉を開いて世界を直路に踏み平らせて戴きたい」と願ひましたが、後で考へて見ると教祖のお崩れを願つて居たのでした。その時御本席のもつてゐた扇がピユーツと開きました。それから医者にかゝつて居ませんし何うも仕様がないから苣原の勝治さんといふ薮医者を頼みに参りました。この勝治つて医者は薬三服呑んで利かぬ時は天輪さんを頼めと云はれた位信心して居ましたが私が頼みに行きましたら寒い時ですが来てくれました。その時は本部の西側の煮売屋迄勝治と云ふ医者を連れて来り其処で一服させつはつて帰りましたが診断書等は彼の人が書いてくれました。教祖お崩れより葬式迄は四五日も間がありました。葬式の時は私と山澤さんと倉掛りをして居りましたからよう見送りませんでしたが何んでも偉いことでした。沿道は両側田まで道の様にして了ひました。(その頃は信徒が大和地方から河内近辺にヅーとありました)

 教祖お崩れになつた時分は皆ガツカリしてゐました。世界でも天理教はお終ひの様に思つて居りましたが彼れからヅーと道が拡まりました。教祖一年祭の時なぞも中々の人でしたが警察からスツカリ差し止められて参拝人は彼地へ追はれ此地へ追はれたりして参拝することができないで帰りましたが装束を着けてゐたものは帳面につけられました。教祖御存命中はどうしても教会の御許しがなかつたのです。それは真柱の年が行かん故かも知れませんが教祖お崩れになつて一年祭がすんでから世界の子供が可哀相だから許す。許す限りは往還道で怪我をすな。細道には怪我はないと云つてお許るしになつた。その頃は此方で願はうと思つてもやかましいから東京でお願ひして認可を得今の東大教会 のある所へ教会を設置してそれから此方へ引いて来ました。

 これより先、お地場で空風呂ができなくなつてから一時金剛山の慈福寺を出張所として願つたことがあります。その頃は護摩をたいたり天輪如来の掛地をかけたりして内の先生 (今の夫人様の親)が上からやかましいと云ふので参拝しても差支へない様にお願いしたが神様が出て「そんな所へ頼みに行つたら神が退く」と立腹なされたことがあります。それから開講式に護摩をたくのが護摩札は吉野で書くので先生が頼みに行くのに誰も随いて行く者がない。私は頼みに行くのではないからマサカ神様が退きなさる様なこともあるまいと思つて私お伴をさせて戴きますと云つて吉野へ行きました。先生は足が悪いから道の悪い所は車に乗り好い所は歩かれるのですがサテ越峠を越える時は矢立も何も私が持ちました。芋越から吉野の川上へ出て渡しを渡つて吉野の宿へ行き護摩札を頼み其処で一晩泊り翌くる日金剛山の慈福寺に行つて護摩をたく日を極めて大豆越まで帰りました。先生は足が悪いから其処で泊り私は帰つて来て内で寝ました。その定めた日には坊主が来て護摩をたいて説教する。その時は大分賑かでした。それを暫時やつて居りましたがその後に警察が来まして神仏混合してはいかんと云つて取り払つて了つた。その時神様が出なはりまして「神は願ふのやないと云ふても聞かないから警察怨むやない。神が取り払ひに出したのや」と云はれた。

 その頃掛図はかけて居つたがお願ひする時は二十一遍のお勤めをして居りました。その前に大神楽の鑑札を受けたこともありました。教祖様はお願しても御許しがないし、世界からは非難せられるし何んとかして表向きにして参拝させたいと思つて色々のことをしました。教祖の食事は別になさつてゐました。側にゐて御飯を食べてゐると「食べなさるか?」と云つて箸につけて出される「汚な御座んすか?」、「イエ結構で御座います」と云つて戴いたこともあります。年老つても中々達者なもので御座んした。カラサホで麦等かつてゐますとやつて来られて 「私も少し手伝いませうか?」と云つて手伝なされたこともあります。力競べをしますと大概負けます。お互ひに手頚と手頚と握つて力の入れ競をしますと教祖様が力を入れて来ると此方の手が離れて了ひます。またよく小指と人指し指とで手の甲の皮を上げなされた。又た後で合掌に組んでお見せになつたこともあります。教祖の右の親指が少し歪んでゐましたがそれは奈良の監獄へ行きました時親指二本括つて釣り上げられたクツクと云つて曲つたと云つてゐられたがそんな目に逢はれたこともありました。教祖は至つて謙遜の方で空風呂に入る時自分がお入りになり人の前を通る時も御免なさ い/\と云つて手を下げてお通りになりました。子守唄に庄屋敷小在所西から見れば足達金持ち、善右衞門さん地持ちと云つてる通りこの村でも田地田畑は一番余計持つて御座つた。それを神様の御命令で「埋せ込み場所迄立てゝ入れ」と云はれた迄落ち切られた。埋せ込みになつたと云ふことを聞いて居りますが実際埋せ込み場所に入られたか何うか訳りませんが兎に角これ以上に落ち切ることはできないと云ふ所迄落ち切つた時神様が 「内は立派なもので寄り附き憎い。これで充分だからこの屋敷を一夜の中にも元の通りにして返す」と云はれたがそれから十年の後に元の通り返りました。(了)

 男で御座んす  深谷源次郎
 私がこの道についたのは明治十四年で御座います。その頃私は京都の三条下り大極町に居りました。富川久吉と云ふ鋳物師が居ました。その人が町内に御千度をした。その時富川の云ふには「深谷さん、今日は私の云ふ事を聞いてくれ」、「何んだ?」、「マアお茶屋に行かう。お茶屋に行かなければ話ができないから」と其処で二人は退けた。「貴方は信仰家であるから云ふが大和にはおみき様と云ふ神様があるが信心しては何うだ?」、「オウ人間が神様妙だな/\。お前様それに誑されてゐるのだぜ。人間が神様と云ふ事はない」、「マア/\誑されても何んでも結構な事と思つて信心してるから明誠社へ来てくれ」と云ふから、その頃富路小路にあつた明誠社へ行つた。其処の講元と云ふのは京都の西陣の陶器の元祖奥六兵衞といふ人である。この人が極道して親に勘当せられこの道を聞いて説教するのだ。その人の云ふには「この神様は元この世界を造り、ない人間を始め下された親神様である。天には月様、世界ではな湿いのご守護。重足命様は火一切のご守護。この柱二の神が世界一列をつくり下された神様だ。そうだろうな。日がなかつたら生きて居られまいがな。これも子供可愛さに一日も休まずに働いておゐでなさる。二十人も講社があるが殖さうと思つてやつてゐる。月日があればこそこの世界も人間もある。世界では月日様と云ふものは当り前だと云ふてゐるであろう。世界は元泥海であつた。人間と云ふものはなかつた。その時月様が子供をよう清めて拵へ様ぢやないか。そらそうや子供拵らへたらば楽しみでよからうと其処で泥海中をお立ち上りになつたから国床立命と云ふのやぜ。然し人間を拵らへるに就ては皮継ぎ息吹き分け大便小便のご守護また種苗代がなくてはならぬ。其処でそれ等の道具を見出す為に七度浮きつ沈みつなされた。それで浮き沈みと云ふやろうがな。其処で人間の親になつたのは伊邪那岐様、この神様は男雛型種とおなりなされ、伊邪那美様は女雛形苗代とおなりなされた。それから国狭土命皮継ぎ、それから骨のご守護月読命様、それから物を食べても肉になると大便小便出分け、その人は雲読命様と云ふ。それから又息吹き分けのご守護は惶根命様。それから粉成すものがなくてはならぬ。即ち歯がなくてはならぬ。それは大食天命様。それから人間の食物蔬菜一切のご守護それが大戸辺命様。大食天命様と云ふのは人間の子供ができた時肉縁を切つて下さる神様。それから大戸辺命様は引き出して下さる神様。世界は木の芽から種一切引き出しのご守護の神様。それから今申した通り伊邪那岐様は男雛型種となり伊邪那美様は女雛型苗代となり、其処で十柱をもつて天理王命と証し奉つた。それから人間の魂と云ふものがある。之は三寸の鰌、これを魂として伊邪那岐様に仕込み夫婦となり種を下ろす所から極楽浄土と云ふ。けれども元は土浄だ。この世に来るから浄土である。死んだら土浄だ。また人間の心のことを胸三寸の魂と云ふであろう。これは元々三寸の鰌から出てきたから胸三寸と云ふのである。それから伊邪那岐伊邪那美命様が夫婦になつて宿しこみ、人間五分から成長して五尺の人 間と成る迄には九億九万年かゝつた。即ち九十九年づゝかゝつてゐる。その時は天の親様が息を吹きかけてお育てになつた。それで今でも親の息がかゝつてゐなかつたら何処で行くか行つて見ろと云ふやろ。

 此処まで世界一列何もかもできる様になつたのは神様が人間に入り込んで此処まで漸々できたからだ。それを知らないからほしい、をしい、かはゆい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの出て病となる。八つの埃には裏と表とあつてほしいと思ふのは働いて丹精して求めたら当たり前だ。それが価もなくてあれほしいこれ欲しいと云ふから埃となる。また金がなくて物を借りるから掛取りに責められる。凡て米蒔けば米、麦蒔けば麦が生えるのが天理である。米蒔いて麦が出たら詐や。一列は兄弟や。それを他人と云ふてゐるやろ。それだから人を倒す様になる。然しどんな種でもその日蒔いてその日生えない。段々とその理が廻って子供が悪かつたり我が家が倒れて来る様になる。それが可哀愁そうだと思召してこの数えをお説きくだされたのである。先祖から伝つて来たものや親の拵へてくれたものを大切に始末するのは良い。けれども 物を出し惜しみ骨惜しみするのは天理に叶はん。凡て吾が心からしたものだからこの世に来て何時迄も苦しみ働いて何時でも銭が足らない。これをよう思案して見い。可愛と云ふもその通り、人間は身贔負身勝手する。一列可愛いと云ふは良い。極道や馬鹿やと云ふ隔て心するから隔てられる日が来る。彼んな水くさい人と云つて隔てられる日が来る。マアこう云ふものだ。それからまた憎いと云ふは罪を憎んで人を憎まぬのは良い。怨みと云ふたら我が行き届かぬ所を怨んで通れば良いが同じ侍なら同役を怨むから埃である。また腹立ちと云ふのもその通り、道理から腹を立てゝ来たら尤もだ。私もすまなかつたと云つて笑ですむ。これが天理に叶ふ。向ふも得心するやろ。それを名々聞き分けせずに勝手の事に腹を立てゝ居る。これは埃になる。そうやらうがな。また欲と云ふのもその通り、家業を正直に働くのは結構であるが、それを商売しても欲のこと計りしてゐる。それ貪欲強欲色情これは大埃だ。高慢は国の為め人の為めになるのなら高慢にはならない。それを知つたか振りして眼下に見下すから埃となる。この八つの埃を良い方に取れば良いが悪い方にとるから病となつて来る。この八つの埃をよく聞き分け。それから館は神の貸物借物である。これを良う聞き分けなされ。

 お伊勢様へ参る時にはヤイトコセ、ヨイヤナ、アレワイセ、コレワイセ、ソリヤナンデモヨ、と云ふであらう。お伊勢様に参る時は何を置いても参るでせう。彼れは天照大神宮と云つて伊邪那美命様を祀つてゐる。それで世界では五本目の指を子指々々と云つてゐるが彼れは子指と云ふのやないで。小親指と云ふのやぜ。右の親指はこれは国床立命、左の親指は重足命、右の人指し指は惶根命、左の人指し指は国狭土命、右中の指は大戸辺命、左の中指は雲読命、右の薬指は月読命、左の薬指は大食天命、右の小親指は伊邪那岐命、左の小親指は伊邪那美命の御守護である。御膳食べるのも親字を書くのも親の御守護があるからできる。其処で人間は元魚であつたのが人間に出世したと云ふので魚だけは上つたと云ふ。外の者は落ちた死んだと云ふ。其処で一人助け親に孝行、主人なら忠義、兄弟仲良ふとその通 りなされたならどうでもこうでも結構な所に生れて行く道を神様がおつけ下されてある。貴方が人間助けをすれば神様は一粒万倍に受取つて下さる」、「成る程そうだそれに違ゐない」、「この道は医者要らぬ。坊ん様要らぬと云ふがそうではないで。医者も坊ん様も神様の子だぜ。医者が要るから大学迄できたであらう。坊ん様は仏法を弘めて来た」。

 それだけ聞いて帰つて来て家内にこう云ふ話を聞いて来たが己は信心しやうと思ふと話すと、家内は「貴方誑されてゐる」と云ふ。「イヤ誑されてゐない」、「月何んぼ要りますか?」、「十銭か十五銭あれば良い」、「貴方はまたシヤバの云ふ事を聞いて誑されて来たのだ」と家内が云ふ。「何んでも良いからお前も一遍来てくれ」と云つて家内を連れて明誠社に行つた。家内も神様の話を聞いてこれなら私も入れて貰はふと云ふことになつた。それから信心しかけて昼は働いて夜は講社をひろめた。それから大和へ参つて教祖様にお目通りをすると教祖様は「よう来なさつた。サア心直して勢出しなさい。京は市やで。偉いことになるのやで。気張りなされ」と云はれるけれども分かりやせん。又信心するに連れて参ると 「サア/\京にはな教会といふのができるのやぜ。冠を着てヒヨンと出るのやで。内裏雛の奥様見たいの着物をきて出るのやで」。また 「世界これから汽車懲役ができるのやで。懲役といふものは赤い袢天を着て腰縄つけて働くのやで。それから電信ができて五分間で用が足る様になるで。また東京へ十八時間で行けるやうになるのやで」、「ヘイ」、「人間は見てから云ふのは世界並。見えぬ先から云ふて置く。これをよく聞き分けてく れ」。京都へ帰つたが一つの講を結んで今度と云ふと 「これから授けと云ふものを渡す。万人の中に一となるのやぜ」と云はれる。神様がお前の熱心を見てお働き下さるのだぜ。今世界では人を笑つたり譏つたりしてゐるけれども、笑はれたり譏られたりして置きなされ。向ふがボロクソに云へば云ふだけ向ふがボロクソになるのださかい。何を云はれても神様が見てゐる」。それから御神楽歌を見せて 「人が何事云はうとも神が見て居る気を鎮め」と云ふ所を読んで聞かしなされ。「人が何事云つても怒つてはならない。何んぼ信心しても心得違ゐはならん。サア/\何んな茨/\畔/\サアそれを越したら細い道もある淵もある。それが心の道やで。この結構な道を例へて云へば百間の金の橋がある。それを渡つて行けば向ふに万石の倉がある。けれども大抵の人はその橋の中途迄行つて戻つて了ふから万石の倉迄行けないのやで。シツカリ信心しなされ」。

 それを聞いて帰つて一生懸命に信心してゐると町内では私が家持ちだから放り出しには来ないが度々異見に来る。「貴方は人が善いから天輪さんに馬鹿にされてゐる」。なんと云はれても私が聞かないから今度は親に異見せい云つて来る。私の親は 「兄が何んなことをしやうが私共は唯兄に末を見て貰へば良いから兄のする通りにさせて置きます」と云つて断る。「オヤ/\親爺さん迄誑されてゐる」。町内で三人寄ると「貴方あれは山子ですで。あんなものを信心して家迄質に置くと云ふのは誑されてゐるのだで」と云ふて止める。「この道は盲目なら手を引いて通る道である。人を助けるには商売はできやせん。其処で私は商売を捨てゝこの道を一生懸命に働いてゐるのだ。それがいけないのか?」、「それは結好だが同じ信心するなら稲荷さんを信心した方が結構ですぜ」と。何んと云はれても私が聞かないから親類二十一軒皆な私と交際しなくなつたが今はそう云つた人が皆なボロクソになつて了つて私だけは甲賀、水口、湖東を入れて二十万からの講社ができた。それは私が働いたのではない。神が働いてくれたのである。その間に前生どんなことをして来たのか分らないが中途で妻に分かれ云ふに云はれぬ苦労をしたが、それでもどんな中でも通つて来た。その後 「お前は此方へ来るのやで」 と云はれて此方へ本部員として勤めさして戴く様になつた。教祖様からは 「公事訴訟に先追従これ大嫌ひ。正直が天理やで」と云ふ様な不思議なことをタント教へられた。私が来てゐた時或る時信徒の人が気狂ひを連れて来た。教祖様頚をかたげて「これは山子やで。それは気狂いではないぜ。それは父親が死ぬ時この千五百両の金は弟にやつてくれ頼むと云つて死んだ。その弟が成人したからその金をくれと云ふと兄はないものはやれるかいと云ふ。気狂の真似をしたら気狂ひになる位だから本当にないのだと思はせ様と思つてその金出すのが惜しさに気狂ひの真似をしてゐるのだ。金はないと云はせぬで。神が呼んで神が入れる。三千八百三十円あると云つてやれ」と仰つた。それ迄気狂の真似をしてゐた男はビツクリして駕篭から飛んで出て逃げて了つた。

 それから此処へ三人の盲女が篭つてゐた。二人は良くなつて行つたが後の一人は良くならない。それで後に残つた一人が云ふ 「私は眼がよくなりません」、「お前さんはまだ懴悔が出来ないからだらう」、「イエ私は充分懴悔をして居ります」。その事を教祖様に申上ると「懴悔してると云ふのなら云つてやれ。そんなら明日人の中で恥を掻せてやると云つてやれ」。それからその事をその女に云ふと「私は懴悔をしてゐる」と云ひ張つて聞かない。教祖様の仰るには 「それは忘れてゐる。何年何月の十一日を思ひ出せ」。するとその女は暫時考へてゐたが「あります/\」と叫んだ。「私は商人の家に嫁入りしておかみさんになつたが息と嫁との留守に近所の若い者と一手になつて子ができた。それを下ろしました」、「それやから盲目になるのだ」、「神様よう知つてゐなさるな」、「神がなすのだ」。それを見てゐるからどうでも我が精神をつくつて人を誑す様なことはしてはならん。自分の持つてるものは売つても人を助けなければならんと云ふので皆な払つて了つた。

 私の通つて来た道すがらを詳しく云へば、とても一日や二日や三日では話し尽されません。或る時は牢屋の中へも入りました。或る時は盗人にも入られましたし、或る時は人に倒されもしました。私が信心し初めて半期程経つた時金を切る時ー私は鍛冶屋をしてゐましたー金が目に入りました。人は目医者に行かんじやならんと云つて勧めたが私は神様に願ひました。「神様私は忠臣蔵の天野屋利兵衛ではないが男で御座んす。私は前生何んなことをしてゐたか存じませんがこれからは親が何んと云はうが弟が何と云はうがこの道の片腕となつて行きますからどうかお助けください。それでお助け下さることができない様な神様なら信心やめます」と云つて一寸囃しをして御願すると痛みがピタリと止まつて一週間目に直りました。それが私の心の定まりである。それから今日迄色々な大難に遭ひました。中には私の講社を取らふと云ふものがありましたが皆な尚障りを受けて中にはあやまりに来たものもある。この道は神様仰つた。「人を立てたら我が立つのやで。なんぼ見下ろしても見下ろせば見下ろす程見下ろされるのやで。この理を聞き分け」、「天理は人を崇めたら我が身崇められる。何んぼ信心しても心得違ゐはならんでな」、「教会へ行つて掃除するのも皆な我が徳になるのだで。それを神様教へて下さるのやで」。教祖様のお言葉は何でも歌見た様にお説きになる。私がお側に居た時アア…と大きな欠伸をなされイン/\/\/\/\/\/\/\サア/\月日の云ふこと聞いてくれ。飯喰も仕事するのも皆な月日やで、口先き追従詐高慢これ大嫌ひ、これ聞いてくれん残念/\/\/\と仰せられてそのままこけてお睡りになつた。(了)  

 附記 凡そ人間に癖のない人と云つてないがその中に於て最も癖のない人を求むれば深谷氏の如き蓋し最も癖の少ない人であらう。氏の人の善い素直な精神は何人をも 親しまする力がある。分けて氏の大なる特長は教会の差別によつて親疎を異にしないと云ふことである。この円満な性格がやがて甲賀、湖東、水口、河原町の四大教会の父たり得た所以であらうと思はれる。考ふべき人である。私が第一回目に伺つた時はお客があると云ふので二回目に再び伺つたが今度は快く接して色々有益な話を伺ふことのできたのは風来の書生にとつてこれより大なる感謝はなかつた。私は氏並に氏の有する教会及びその子教会の繁栄を切に祈る一人である。(RO生)  

 おばさん  飯降政甚
 私は六つの年からこの地へ寄せて戴きました。自分は良く覚えて居ます。母と共に櫟本から相乗車に乗つて来たことを。その時分は六つか其処等ですから腕白盛りで訳が訳らずに唯櫟本に居るより此方が広くもありますし、その時分は道は余程進んで来て居りますし、以前の困難な時と違ひ大変楽になつて居りましたから子供心に唯良い処へ来たと云ふ考えでゐましたが、色々前の言葉を聞いて見ますと神様より来いと云ふお話があつたが都合があつて延々して居ました。その中に母に連れられて小学校に通ふ様になりました。その時分は恰度中南と云つて元門を入つた処へ教祖の御居間ができてゐました。私共が入れて戴いてから後に今教祖殿の横に保存建築になつてゐる教祖様の御居間ができてから私共は中南に入れて戴いた。現に中南も保存建築にさせて戴いて居るのですがあれは教祖から私が貰つたのであります。あれは非常に理があるそうです。彼処に門屋がありますが彼の門は中央が門になり向つて右が倉、左が教祖の居間(十畳)になつてゐました。彼の門を建てる頃は未だ/\本部は困難でありました。彼の門屋は私の父が建てたのですが 「この門屋は政甚にやるのやで」と仰つたことを聞かせられてゐます。大抵の倉に窓なしの倉つてありませんが彼処の倉だけは窓なしの倉であります。それは道が進んで行くと勤めの人衆の生姿をおさめる所だといふことであります。

 私は非常に有難い因縁で腹の中(うち)から名前を戴きました。私の先代が政治郎と申し五つで出直した相で御座います。それから女計りでしたが神様が貰ひ返してやらうと仰つて名前をマサジンとつけて下さいました。マサジンと云ふのは 「木では靭より堅いものはないから名を政靭とつけよ」と仰せになつたそうですが、ジンと云ふ字はdpんな字を書けば良いか分らぬから役場で政甚とつけたのだそうです。その頃は理も浅いから非常に疑ふて居りましたそうですが、生れた子が男の子でありましたから非常に驚き、それから信仰も進んで参りまして如何なことがあつても道の為にせにゃならんと決心の度を固めたと屡々その事を話されました。私共の子供の時分は教祖様とは申しません。私らはおばさんと申しましたことが御座います。何にした処で始終学校から帰りまして行くと色々なものを戴くそれが何より楽しみでした。

 勿体ないことですが私は三度も五度も教祖様に負はれたことがあります。教祖様は私のことをトンヨ/\と申されました。それは私の先代の政治郎が先代に留治郎と申して教祖様の長女政子様の腹に生れて居つた相であります。その頃はお政さんもお地場に居られましたからよく戯談に「お前は私とお里さんの合ひや子(仲間の子)や」と云つて非常に可愛がられました。彼の方も教祖の子だから精神は良いけれども酒を呑むと酒癖が悪くて女にはあるまじき振舞があつたのです。後に彼女は教祖から「埃の館」として残して置いたと仰せられました。矢張り教祖様の子でも何んな子もあると世界一列に縮めて見せたのだと思ひます。お政さんの次がお春さん。お春さんの次が小寒さんであつた。お春さんは前管長様のお母様であります。その方が早く亡くなつたから後へ小寒様が御いでになりました。その時、教祖様は行つてはならぬからと仰つたが、後でできた子供が可哀相だからと云つて嫁がれた。教祖の御言葉を用ゐずして行つたから早く逝かれたらうと云はれてゐます。小寒様は道の細道の頃長男の秀司様と色々憂き目を見一家を支へて居りました。後で若い神様と申上げて居りました。

 隠くしたり包んだりすることはよくないことでありますがこれ迄は秀司さんにしろ松枝さん(秀司様の夫人)にしろ善いこと計り書いて悪いことは書いてないが秀司さんにしろ 松枝さんにしろ何うも仕様のない方らしかつた。その為に教祖様の心を休ませられたといふことはなかつたそうです。その証拠に跛(ちんば)を助けてやりたいと云つて足の跛のお勤めを半月程行り、私の姉等もお勤めに出ましたそうですが、秀司様は「そんなことしても何に助かるものか」と云つて息の切れる迄反対で本当に懴悔をして行かれたのではないそうであります。お崩れになつたのは今の門屋の入つた所で御座いますが、その時私の父が 「親さん先生が今息をお引き取りになりました」と申上げると、教祖様は「アヽそうかい」と云つて一段高い処から降りてお出でになり、秀司様の枕許に立ち額をゴロ/\として「もう剛情は張らせんやろ。張れるかい。張れるなら張つて見いや」と云ひ、内の父を振返つて「伊蔵さん。内の態を見ておくれ。金を溜めるとこの不始末だで」と涙一滴こぼさず元の所へお上りになつたといふことであります。その時父の感慨は何んともたとへるにも例へることができなかつた。親様の御精神はこう云ふ所にあるかと無量の感慨に打たれたといふことを父から承りました。

 松枝さんのおかくれの時は子供心によく覚えて居りますが腹が膨れて口からは泡が始終出て居りました。亡くなつた時その事を教祖様に申上ると御休息から中南ー松枝さんは中南で亡くなりましたーへお出でになり「偉い溜めたな/\。何ンぼ溜めてもあかせんで」と仰せになりました。その時は私のまだ子供の時分でありますから「偉い銭入れてあると云ふことですが彼れ切つたら偉い出るで」と云つて母から偉い叱られたことを覚えて居ります。八つ位の頃はそんな馬鹿なこと考へてゐたと思ひます。松枝さんが亡くなつてから一年も経たないうちに教祖様がお湯を使つてお居でになり、姉が教祖様の背中を流して居りますと、くづ屋葺きの屋根の廂の上に鼬(いたち)がゐた。教祖はそれを見て「アヽ松枝帰つてゐるぜ」と云はれたと云ふことを聞いて居ります。「彼女は再び人間界に出さんが此処より何処へもやらん。屋敷の中に置く」と仰せられたといふことですが成る程屋敷の中に居ります。私ら子供の時は松枝さんを姉さん/\と云つて居ましたがその鼬にあふと「アヽ姉さん/\姉さん居るで」と云ふと今の夫人様、その頃はいと(お嬢さん)/\と云つてゐましたが 「甚さんまたあんなことを云つて私をいぢめる」と云つて泣かれたことを覚えて居ります。(終)  

 付記 私はこの文を書く時始めて飯降氏に面会したのであるが氏に接して見ると矢張り御本席の子だけある。頭が大きい。而して最も宗教家らしい気分に富んでゐる。今は思想の上からか生活の上からか兎に角蔭の道を通つてゐられる様であるが氏の為、道の為、折角の自重を祈る。(RO生)

 眼のお助け  増井りん子  
 増井りん子様は一旦失つた眼のお助けを戴きましてより熱心に信心しその後針の心を許され御息きの御授けを戴いて居る方で本部員中唯一人の婦人であります。 この度「感謝と記憶」とを書くについて特別にお話を承りたいと思つたが何分多忙で緩然御伺する暇がない為、以前特別私の為に山名迄お出でを願つた時伺つたお話を掲げることに致しました。(R O生)
 私がこのお道に入り眼のお助けを戴いたのが明治七年であります。それから昼夜御詰め合ひいたしました。御承知の通り誠にいろはも知らない不行届の者で御座いますが、神様は阿房が好きやでと仰せになり馬鹿なものでも今日迄御使ひ下され何んとも恐れ入る次第で御座います。御教祖様のお生れになつたのは寛政十年四月。御生なされて僅か三歳の頃で御座いますが人々は何も結構なお方様と存じませぬからあゝ不思議なお方であると感心致して居りました。御年が優り六歳におなりになりますと母親の側にて裁縫を見習ひ遊ばし糠袋巾着等をお拵らへになり、でき上つたものを御友達に上げてその友達が喜ぶのを見てお楽しみなされました。その頃折々外へ遊びに出ますれば近所の人達が自分の子供が無理を云ひまして難儀をいたして居るのを御覧になつて御気の毒なものと思ひ御自分も六歳頃では玩具や宝石が欲しい御年頃でありますのにそれを無理云ふ子供にやりその子供の心を慰めその親の喜ぶのを見てお喜びなされました。九歳の年より三ケ年の間御手習遊ばされ余る時間で裁縫を遊ばされ十一歳にて一人前す ぐれにお成り遊ばした文化七年の九月当所お祭りに前川家と中山家とは御親類の間故お立ち寄りになりましたが、それから縁談が調ひ十三歳の時五荷の荷物を整へて中山家へおいでになりました。中山家は庄屋敷の紋附様と申しまして下女下男も沢山居りましたが教祖様は何をせんと仰やられず何んでも引き受けておやりになり通常人の二倍の仕事をなされたと申すことで、教祖様のなさらぬ仕事は荒田起しと溝掘りだけだと云ふ事で御座います。余りお働きになるので御両親から「その様に働いては疲れてはならんから」と申されますると教祖様は「これが結構で御座います」。その頃は殿方も一般御頭をお結びになりましたが教祖様は自ら砥石剃刀をお扱ひになつて父親様の御頭をお剃り遊ばされました。御自分の身粧装は荒唐の風をし物見遊山に半日も御出でになつたことは御座いません。それだけ僕に与へて喜ばれました。殊にお祭等にはその弁当をお拵へになりそれを持たせて遊びに出されました。下女に致しましても御暇を戴くだけでも結構で御座いますのにその上御自分の物を貸し御自分の手を下ろして髪を結ひて御やりなされました。十六歳になりますと庄屋敷の紋附様と云はれる大世帯を御請け遊ばしました。

 或る本には倉に盗人が入つて米を盗み出したと書いてありますがそうでは御座いません、壁を毀ちて「サシ」を入れて出してゐる所を捕へたので御座います。その時盗人は教祖様の御説諭に感謝して帰り本心に立ち帰つたといふことであります。二十四歳の時御妊娠中母上様御病気になりましたことなれば何処へ行きたいと仰せられます。自分は御身重でありながら何処へでも背に負ふてお出でなされたと申す程御孝心の方で御座います。二十八歳の時政子様、三十歳の時安子様、三十四歳の時春子様、三十六歳の時常子様、四十歳の時小寒嬢様を御出産遊ばされましたが、お出産の度毎に乳が沢山御座りますから誰彼の区別なく乳をお与へ御助けなされました。二女安子様を御出産遊ばした時他人の子を御預りになり自分の子を他人に預けられました。折悪しく隣村に疱瘡が流行いたしその預り子もこれに伝染し遂に黒疱瘡に変り医者も手放す様になりました。教祖様はどうぞしてこの預り子の生命を助けんと思召し「自分の子供一人だけ残し後二人を差し上げます。その代りこの子一人の寿命をお助け下さいまし」と申し上げますと、さしもに思き黒疱瘡が見る/\間にお助けを戴きました。その後間もなく安子様が四歳にてお引き取りになり次に常子様が三歳で御亡くなりになりました。この常子様と申す方は安子様といふ方の生れ変りで一度に二人迎ひ取つては気の毒だと云ふので魂を入れかへて御迎ひとりになりました。

 教祖様の真心は日々人を助けたい人を救ひたいと云ふ助け一條の御心にてお通り下されました。或る時女乞食が門に立ちました。教祖様はその乞食を御招き遊ばし粥を与へ沢山食べさせられた。暫時しますと子供が泣き出す。それが乳呑み子故自らその子を御下ろし遊ばし御乳をお与へになつた。それから御自分の着物を御出しになり「この着物を持ち歩いて人に疑はれてはならん。纏ふて御いでなさい」と云つておやりになります。「一杯の粥も戴けぬ身の上なるに結構な物迄戴いて誠に有難う御座いました」と乳を戴く間に着物を纏ひ、その間に子供は乳を放すと御自分の子につくつた御布団をその子に与へました。人によると人に乳を呑ませてその真実なるにより神憑があつたと云ひますがそうではありません。御屋敷の因縁と教祖様によつて御憑りがあつたので御座います。「人間を始め出したる屋敷なりその因縁で天降りたで」。この屋敷は四方正面鏡屋敷と云ひまた教祖様は「手本」とも「雛型」とも申されて居ります。内も外も隔てないのがこの道で御座います。

 神憑がありましてから「神の社にする程に通れる限りは貧乏の道を通れ」と云ふので五荷の荷物を始め中山家のものも皆な施して終ひには唯つた一枚の着物が残つた。それを人の通る所に出して置くと 「アヽ結構な着物が落ちて居ります」と持つて来る。すると教祖様は通り合せたものなら貴方にお授けになつたのでありませう」 と云ふとその人は御礼を云つて行つた。「アヽ喜ばしいことをした」と御喜びになる。それから周囲の立ち屋を払ひ終ひに本家を取り払らひ田地は質に入れたり売つたりして人にお施しになつた。誰か金が要る人が通るとその人の通る所にお金を置く。その人が拾つてこんなものが落ちて居りますと告げると「それは貴方に授かつてゐるのでせう」。昼は御助け致し夜分は糸を紡ぎ針仕事を致し、仕事のなき時は木綿を織つてそれを人に与へて楽しまれた。そうかと思へば日々の間に無心を云ふてくる者もある。「アヽ世の中の子供は何も分らんで人に難儀をかけるが人を難儀さすならば自分も難儀する事ができて来る。理が廻る。可哀相や」と仰ります。それ計りではない度々警察や監獄へ御苦労下され明治八年がかゝりでそれから十八回も御苦労下されました。十日間の拘留の時なぞは御枕はなし、湯文字を解いてそれを枕に遊ばしました。左様の所へ入るのは悪人故火の気はありません。御老体には布団一枚あるでなし御咎人ではないが咎人同様の着物を御召し遊し日々その中にて御住ひ下さるのは微塵も御厭ひなく夏向きには暑いけれど暑さを凌ぐものもなく蚊に食はれても厭ひなく御苦労下されました。その御恩は海に例へる時は幾百尺の海で御座ります。

 また秀司様に小寒様は茄子をつくり芋をつくり薪を荷ふてお売りなされ誰も買ひ手がない時は頼んで貰つて貰つても良いからと仰やる。そうすると教祖様は 「アヽ頼んで貰つて貰つてくれたか」と御喜びなされたことが御座ります。小寒様は髪は結ひたいけれども結ふ金はなし、其処を足納してお通りになつたのはお若い方には中々できぬことで御座ります。

 また教祖様は 「成人して縁についてから裁縫が出来ぬと云つてはならぬ」と云つて近所の子供を集めてお教へになつた。さてこの御道に於て何が頼りかと申しまするとこのお道すがらの理が頼りで御座います。「苦しみが楽しみ」、足納と云ふ理を治めましてその理を定規と致しますれば大儀大相も御座りません。「足納と云ふことは第一やで。足納が足らぬと案じが出る。案じが出ると埃が出る」と御聞かせ下されて居ります。私は四十年余り前に眼を助けて戴き本部へ帰らして戴き日帰りする日もあり一夜とめて貰うこともあります。「雨が降ります故もう一晩御泊めなされて戴きたい」と申上ると「足止め/\」と笑つて仰せになられます。三島へ帰りますと途中で御腹が痛む。流れの水を呑んで神様の方に向つて願ふと良くなる、また良くまた痛む。そう云ふことが二度三度御座います。帰つて来ますると「おりんさんまた帰つて来たぜ」。それから「此処は何ふですぜ」と仰ります。柔しき言葉で仰つて下ります。「此処は生れ故郷やぜ。彼所は行くのやぜ」と御聞かせになりました。(終)  

 國六分の人を寄せる   諸井国三郎
 諸井国三郎氏は遠州広岡村の人。明治十六年にこの道に入つてから今年まで三十有四年。一旦道の上に一大事のある時は十里の道を跨(また)にかけて走せ参じたこの道の柱石の一人である。その為に神様よりは国六分の人を寄せると云ふ有難いお言葉を賜はり、令嬢には生れて一ケ月目にお水のお授けがあつた。今日教会の数も数ある中に神様よりお面道具の御許しになつたのは氏が創立した山名大教会あるのみである。氏は今年七十七歳の高齢に達し現在本部員中の最高齢者であるが、而かもその元気の溌剌たる恰かも壮者を凌ぐの慨がある。道の為め氏の静養を祈る。(RO生)
 私が始めてお地場へ登参したのは明治十六年三月である。その頃御内と云つては教祖様に管長様と夫人様だけ。まだ御結婚前で夫人様より管長様をお呼びになるには兄様/\と 申して居られました。先生としては仲田儀左衞門(サユミと云ふ名を教祖より賜つた)この人の御取次で教祖様に御拝顔を願つた。その時教祖様の仰るには「諸井さん手を出して御覧」と云つて畳の上に掌をつけてお見せになる。その通りにして出すと私の手の甲の皮を右の人指し指と小指とで押へて釣り上げ 「こうして御覧」と云つて今度は御自分の手の甲をお出しになる。けれども私にはどうしてもそれができない。それで 「恐れ入りました」と申上ると今度は「私の手をお持ちなさい」と仰つて私に御自分の手頚を握らせになる。而して御自分はまた私の手頚をお握りになり「サアしつかり力を入れなさい。然し私が痛いと云つたら離してくれるのやで」と仰る。それで此方で一生懸命に力を入れて教祖の手頚を握ると力を出せば出す程此方の手頚が痛くなつて来る。「もつと力を入れなさい」、出せば出す程此方が痛くなりますから「恐れ入りました」と申し上ると「それ限りしかないのかい。神の方には倍の力や」と云つてお離しになる。今度は背向きになつて両手を背中で合掌に組み「諸井さんこれできますか?」と仰る。自分も背向になつて一生懸命にやつて見るが何うしてもできない。それでまた「恐れ入りました」と申し上げるとお笑ひになつて「誰にでもできるのやがな」。誰にでもできても此方はそれだけの徳を積んでゐないのだから仕方がない。その時はお地場に一日滞在した限り帰つた。

 第二回目の登参は十六年の九月である。この年は偉い干魃で田地は皆な亀裂を生じ百姓は皆な困つてゐた。その頃大工をしてゐた飯降御本席は建築中の教祖御休息所の仕事をすまして豆腐屋の前の腰掛けに涼んでゐられると急に大変なお障りが来た。その事を奥様から教祖様に申上ると教祖様は「そんなビツクリ周章てずとも良いで」と仰せになり詰所にゐた仲田さんを召んで 「早く扇を伊蔵さんに持たせなさい。それから遠州の講元さんも連れておいで」と仰せになつた。それで仲田さんが直に二階に登つて来て「遠州の講元さん。今伊蔵さんが大変の御障りで神様に伺ふと扇を持たせろと仰せになり、それから遠州の講元さんも連れて行けと仰るから一手に行つて下さい」と云ふから私も急いで二階の飯降様の所へ駆けつけて見ると蚊屋の中で手を握つての苦しみである。然し不思議なことには仲田さんが扇を持たせるとウンと云つて顔もしつかりし身体もチヤンとして神様がお降りになつた。而して「サア/\珍らしい事や/\国へ帰つて勤めをすれば国六分の人を寄せる。なれど心次第や」と仰せになつてお上りになつた。それと同時に飯降様の御苦しみも直つた。

 私共(私と木村林蔵)がお地場へ着いて四日計り経つと伊勢へ廻つた清水重作外五名の者が到着した。丹波市迄来ると清水が云ふには 「聞けばお地場ではこの頃やかましくて警察が参拝人を止めてゐるといふ話だが何う云ふ具合だか一つ様子を探つて見てのことにしやう」と云ふとその五人の中の守屋国蔵といふ男が 「そうか己らそんな所だとは知らないで随いて来た。そな警察で参拝人を止める様な所なら己ら参拝しないでも良いから直ぐ帰らう」と云つて怒り出した。それを漸くなだめて豆腐屋迄連れて来たが「己は帰る」と云つて中々聴かない。帰るにしては国蔵一人返す訳に行かないから誰か随いて行くかと云ふことを相談したが次の日になると国蔵が急に胸がつかへて飯が喰へなくなつた。明くる日も食へない。また明くる日も喰へない。食つても皆な吐いて了ふ。到達三日間と云ふもの寝通し。十一日の夕方に御地場より遠州の参詣者に皆な来いと云つて使が来た。早速行くと神様(教祖様)より「御苦労であつた」といふ御言葉があり、続いて月日のお模様のついた陶器の三つ組の御盃で御自身御召し上りになり後でその御盃をお上げになつた。それから守屋も飯が喰へる様になつた。それで守屋も恐れ入つて申し訳がなかつたと云つて懴悔をした。その前に清水外五名の者が丹波市へ着いた夜お地場では神様がお下りになつて「サア/\遠い所から遥々参詣に来て見れば野原の様な河原の様なさもない所と思ふ者があるで」とお聞かせになつた。後で守屋国蔵の精神を予め神が仰せになつたのだと云つて皆な恐れ入つた。

 第三回目の登参は明治十七年の一月である。途中伊勢参宮をする心算で二十一日に内を出立し途中豊橋の町を通ると提灯屋がある。それから私は思いついて 「これは一つフラフを拵つて立てゝ行かう」、早速大幅四尺の天竺木綿を買つて真中へ日の丸を書かせ、その中に天輪王講社と書き、その下に遠江真明組と大きく書かせてそれを立てゝやつて来た。お地場に来ると表門通りの四辻に巡査が一名待ち受けてゐた。その前を通らうとすると、巡査が「コラ待て」と云つて立てゝ来た籏を抜きとつて「この籏は何か天輪王へ来たか?」、「これは講社の目印。天輪王へ参りました」、「降りろ」、「今其処まで行けば降ります。車豆腐屋迄やれ」。車夫が引き出すと巡査は籏持ちになつて随いて来た。「天輪王へ来るには何か持つて来たであらう。此処は参り所ではない。婆々が赤い着物を着て愚民を迷はして金平糖を喰へば腹痛が直るとか水を呑めば腹下りが止るとか云つて居るから大阪府で厳重に止めて居る。何故来たか直ぐ帰れ」、「拙者は何も持つては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中がこの籏を見て天輪さんへお参りですかと尋るから天輪さんが何処にあるかと聴くと三島にあります。お婆様で御座いますと云ふからそんなら明日人力を雇つて案内をさしてくれと申し附けました。只今参りますと貴方が天輪王へ来たかと申されたから是幸ひと思ひ参りましたと答へましたが実は始めて聞いて喜んで参りました次第であります」。巡査「貴様何処か?」、「籏にある通り静岡県遠江国天輪講社の講元を父の代から致して居るが拙者父に死に別れ て未だ天輪王が何処にあるか知らなかつたが図らず此処に天輪王のあるといふことを聴き尋問致したいと思つて参りました」、「静岡県何ちゆう?」、「静岡県は山名郡広岡村……」、「名前何ちゆう?」、「未だ番地が御座りません。無番地。諸井国三郎」、「む番地ちゆうが有るかい。六番地か?」、「イエ無番地」、「無番地ちゆうが有るかい。不都合なこと云ふな」、「む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤めて居る人間で詐は申しません。拙者この度新宅を設けたから戸番の改正迄無番地として置きました。疑ひなさるなら静岡県庁へ照会なさい」、「参詣はならぬ。帰れ」、「拙者は素より参詣には参りません。当所の婆々でも爺々でも良いから天輪王の由来を尋問したいと思つて参つたのだから得心のできる迄尋問する心算ですから帰りません。その代り拙者の滞在中はこの籏を此処の表へ出して置きますから御用の節は何時でもお招きに預りたい。お招き次第警察へ上つて何んなことでもお答へ致しますから。またこの旗のない時は立つたものと心得て戴きたい」。巡査も大変弱つて手帳に住所と姓名とを書いて帰つたがその翌日(旧正月の元日)来るかと思つたが来なかつた。その日の朝丹波市の西尾と云ふ酒屋が来て云ふには「今日は警察は参りません」、「何故か」と聞くと「昨夜警部と部長と巡査と三人で色々話をして居ましたが明日は止めに行かんけりやいかんでと一人が云ふと一人は放つて置いたら五ケ国も七ケ国も集まるだらうから止めに行くが良からうと云ふ。そうすると巡査が幾ら五ケ国が七ケ国の者が集まつても今日の様に頭を抑へれば尻に抜ける。尻を抑へれば頭に抜ける。ヌベコベ/\問答しても終ひに立ち場がない様な事に成つても困るから考い物で御座いますと云ふと警部がそんなら明日は放つて置かうか? それがよからうと云ふことでありましたから今日屹度来ません」と云つて行つたがその前の晩即ち巡査と問答した晩神様がお出でになつて今酒屋の話して行つた様な警察の三人の問答をお聞かせになつた。私が巡査と問答をして居る時には豆腐屋の前は人で一杯であつた。が余りその場の様子が険悪であつたので御本席様も大変御心配なされ、御家内様は豆腐屋の裏へ廻つて立ち聞きなされたといふことである。これが為に 「遠州の講元は偉い!」と云ふ評判が村中に広まつた。この時実地を見聞した人々の中で今生きてゐるのは村田幸助(豆腐屋の弟)、足達秀次郎、北村平四郎(時計屋の老人)等の人達であるが今でもこの人達に逢ふと昔話の一つになつてゐる。その前に私共がお地場に到着する前に予め私共の来ることを神様御承知であつて 「アヽ/\だるい/\こうだるくては叶はない。遠方から子供が来るで。アヽ見える/\ フラフを立てゝ来るで」と仰せられたといふことである。これから私がお地場に参ると必らず刻限があつた。それで 「また遠州の講元さんが来たから神様がお出でになるで」と云つて他処から来た参詣者も足を止めて一日滞在すると云ふ風であつた。この時お地場に滞在したのが二十七、二十八、二十九、三十、三十日に大阪の真明講の講元井筒梅次郎氏から教祖に向つて(その時高井猶吉氏も同席した)「神様へ恐れ入ります御願ひで御座りますが遠州では郡長も懇意で御座りまして咄し致して置きまして十二下り立ち勤めできます故御神楽御道具を御許しを願ひたう御座ります」と御願い申上ると、教祖様は暫時ジツとして御居でになりましたが「サア/\許す/\私が許すでない。神が許すのやで」と仰せになつて御許しになつた。こう云ふ事は殆んど前後に例のない破格の恩典であるから一同非常に喜んで早速大阪へ参り梅谷四郎兵衛氏に御神楽道具の調製を頼んで遠州に帰つた。

 こう云ふ具合に神様から色々破格の御引立を蒙つたが明治十九年四女の秀子が亡くなつた時お地場に来て「何か違ひがありますかお聞かせ下されたい」と云つてお願いすると「小児の処事情があるから尋ねる。三才も一生地場一つに心を寄せよ。地場一つに寄せれば一方折れても三方に根が張る。二方折れても二方根が張る」と云ふお指図を戴いたが、そのお指図を戴いて帰つて十月目に家内が妊娠して出来たのがおろくである。おろくのできる前にお地場へ上つて安産の御願いをすると教祖様御自身に御供を包んで下さらうとしたがそれを側にゐた高井さんが「私に包ませて戴きます」と云つて紙を曲げて御供を包んだ。それを教祖様は良いとも悪いとも仰らず黙つて見て御居でになつたが高井さんが包み終へると別に紙をお出しになり「鋏を貸しておくれ」と云つて鋏をかりて紙をチアンと切り四半斤計りの金平糖を御包みになりて私にお手づから下され「これが産屋許しだで。これで高枕もせず腹帯もしないで良いで。今は姉の時だでな柿を食べても大事ないで。余つたものは人にやつても良いで」。

 凡て教祖のなさる事やする事にこれはいかんと仰つたことはない。赤衣様をお下げになるにも御休みになつてゐる一畳の台の下から御出しになり「これは私が着せて貰ふたのであるが赤衣には中に月日が篭つてゐるから明るい処が見えるのやで」と仰つてお下げになる。お下げになるにも盆に載せるとか下に置くといふことはない。必らず手渡しにお渡しになる。私が戴いた時は南の門屋にお居でなされたがそれを祭れとも拝せとも仰らない。唯この中に神が篭つてゐるでと柔しく仰るだけである。それから直接聞かして戴いたことでは物参りになつても乞食にくれ/\と云はれた時一文をやらうと思つて財布を開けて四文銭さへなかつた時には決してやるでないで。今日は小さいものがないから今度やるでと言葉に文を残して帰つておいで。乞食は四文貰へば喜ぶが神がお受け取りがないから」と云つてお聞かせになつた。又門屋にお居でになつた頃、門前に乞食が沢山居るのを御覧になつて「アヽ門前に沢山乞食が来てゐる。けれども彼らを見てうたていと云ふでないで。彼は前生彼んなものは食べられない。こんなものは食べられんと云つて食物を放つたから理が廻つて来てこの世で人の捨てたものを拾つて食べなければならない様になつたのだで。可哀相なものだと可愛がつてやつてくれ」とお聞かせになつた。可哀相なものだと云ふのは精神が可哀相だと云ふのである。その頃はよく警察が来て拘留に処したり罰金に処したりしたが教祖様は「皆んな警察や巡査と云ふと怖がつてゐるがな、何も怖がつて居ることはないで。あれは何も知らない四つか五つの子供見た様なものだで。此処に止めに来るのもな皆んな役で来るのやで。真に心から止めに来たら息が止まるで」と仰せになつた。何時伺つても「良ふ来なされた。内には皆な変りはないかい」と仰る御言葉に何んとなく慈愛が篭つてゐる。「有難う御座ります。神様の御蔭で結好に通らして戴いて居ります」、「そりや結好やな」。既にお話と云つて下されないでも仰せになるお言葉が一々深い意味をもつてゐる。「何んでもな人を助ける心なら何を云はないでも自分に帰つて来るで」と精神を直せとも何んとも仰やらないけれども味つて見れば其処に無限の意味がある。殊に数多いお言葉の中に一生忘れないのは 「道について来ても足場になるなよ/\。足場と云ふものは普請ができると取り払つて了ふ。何んでも国の柱となれ」と仰せ聞かせ下された。これ等は忘れやうと思つても忘れることのできないお言葉であるが、この他にさもない御言葉を御聞かせ下されてもあゝ有難いなと自然に浮ぶ様になる。それだから御教祖様に直接接した方は普断に有難いお言葉を戴いてゐるから教理の治め方が違ふと思ふ。当時のお話と云つては重に泥海時代の御事で御本席時代の様な詳しい事はお聞かせがなかつた。「世界には元々を聞かしたことがないから仕方がないがこのまま居ては親が子を殺し子が親を殺しいぢらしくて見てゐられぬ。それで元を聞かさにやならん」と仰つて月日二柱の神が道具雛型を見出して人間をお拵らへになる道すがらをズーとお説きになり、「こう云ふ訳だから何んな者でも仲良くしなければならんで」と云ふことをお説き聞かせになつた。

 教祖お崩れになる前年即ち十九年の秋には天理教会設置の運動の為め鴻田、清水、増野の三氏と築地五丁目に宿をとり古記/\と云つた古い記録を集めて神様のお言葉と人間の想像とを区別して一冊を神道本局に差出し一冊を清水氏が持つて帰つた。これが十九年の十二月である。その中に増野氏はお地場に用ができて帰る。その他の同行者も夫々長く東京へ止つてゐることができなくなり清水氏は船で神戸へ行く。私と鴻田氏は江の島鎌倉を経て遠州に行き途中名古屋に匂掛けをしたのが愛知分教会の元である。こうしてお地場に帰つて見ると教祖はお休みになつてゐる。弟子達は毎晩門をしめて水 をあびてお勤めをした。それが旧十二月の十一日になつて急に御様子が変つて来たので御本席を以つて伺ふと 「サア/\もう充分につみ切つた。是迄何にようの事も説き聞かしてあるが解らぬ。何程云ふても解るものはない。これが残念。よく思案せよ。さあ神が云ふ事嘘なら五十年以前より今迄この道続きはせまい。今迄云ふた事見えてある。これで思案せよ。さあもうこのまま引いて終うか納つて終うか」とお指図があり、それと同時に教祖様の御身体は冷めたくなつた。それに驚いて十二日には御詫び勤めをした。然しお勤めをすると云つても門を閉めて夜分内々にすることであるから神様の思召に叶はないと見えて何も召し上らない。それで十三日の夜一同が揃つて相談の末、世界並二分お道八分で心を入れてお勤めさして戴くといふことに決めると翌日は大変御気分も宜敷く御飯もお上りになつた。その為め皆な心を緩めて相談もしないでゐると神様がお降りになつて 「サア/\年経つて弱つたか病で難しいと思ふか。病でもない弱つたでもないで。だん/\説き尽してあるで。良く思案せよ」と云ふお指図があつた。而して十七日には大変御気分が悪くなつた。それでまた一同が驚いて御本席様に御伺すると「サア/\これ迄何によふな事も皆な説いてあるで。もう何うせこうせは云はんで。四十九年前よりの道の事如何なる道も通りたであろふ。訳りたるものもあろふ。助かりたるも あろふ。一時思案。思案するものがない。遠いも近いも皆な引き寄せある。事情訳らん。もう何うせこうせの指図はしない。銘々心次第。云ふてあかん。サア銘々心次第。もう何も指図はしないで」といふお指図があつた。それが十七日の午後の三時頃である。伺つた間は六畳で梶本様に前川様に管長様の三人である。私共は次の間で伺つて後で二階で書いたものである。その時その場に列した人達は前川菊太郎、梶本松次郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、高井直吉、辻忠作、梅谷四郎兵衛、清水与之助、増野正兵衛の諸氏と私とで十人である。この御指図に驚いて一同が管長様に心定めを御願いするとマア考へてといふ仰せであるが何時迄経つて返事がない。それで夜の九時頃から再び相談を始めて徹夜して管長様の御返事を待つたが御返事がない。遂に夜の明ける迄そうしてゐた。その時、相談の仲間に入つたのが鴻田、桝井、梅谷、増野、清水の諸氏と私であつた。それから十八日になつて一同が前川様と梶本様の手を経て管長にお伺ひすると「今日は真之助(管長)さんは酒を召し上つてお休みになつてゐるからいかん」と云ふ。それで十九日には御返事があるだらうと思つても夜になつても御返事がない。こうして三晩寝ずに相談した。漸く二十日の明け方の三時頃に前川様と梶本様との二人が管長様に附き添ふて神様に御伺いすると云ふ事で私共は次の四畳半で襖の外で聞いていた。「如何なる処、尋る処。解りなくば知らそふ。しつかり/\聞き分け。コレ/\良ふ聞き分け。もうならん/\。前以て伝へてある。難しい事を云ひかける。一つ事にとつて思案せよ。一時の所何ういふ事情聞き分け」といふ御指図があつた。それから中山様から「前以つて伝へてあると仰せになるは勤めの事で御座りますか?勤め致すには難しい事情が御座ります」と申し上ると、神「今一時に運んで難しいであろふ。難しいと云ふは真に治まる。長ふ/\四十九年以前から何も分らん。難しいと云ふ事あるものか」。中「法律がある故勤め致すも難しう御座ります」。神「サア/\答へる処それ答へる処の事情。四十九年以前より誠と云ふ思案があろ、実と云ふ処があろ。事情分かりあるのかないのか」。中「天子様と云ふも神様の御守護でこの世を司り下さるで御座りませふ。神様の仰せを守れば天子様の道理に背きます。よって両方の立つ様に御指図を願ひます」。神「訳らんではあるまい。元々よりの段々の道すがらサア/\一時応へる処どうでもこうでも押し切る事情いかん。唯一時ならん/\。今と云ふ今先の道を運ぶと一時」。中「明日迄の所御猶予を願ひます」。神「サア/\一度の話を聞てチアンと定め置かねばならん又々の道がある。一つの道も如何なる処と聞き分けて唯止めるはいかん。順序の道/\」。中「講習所を立て一時の所勤めの稽古をさして貰ひたう御座ります」。神「安心ができんとあるならば先づ今の所夫々今の所談事/\と云ふ処サア今と云ふ今と云ふたらサア抜きさしならんで承知か」。中「勤め/\と御急き込み下さいますが唯今親様の御障りは人数定めで御座いましやふか何うでも勤め致さねばならんで御座いませやか」。神「サア/\夫々の処心定めの人数定め事情なければ心定まらん。胸次第。心次第。心の得心のできるまでは尋ねるがよかろふ。降りたと云ふたら引かんで」。中「教会本部を置きその上は神様の仰せは如何なる事も致します。それ迄の御猶予を願ひます」。神「サア/\事情なくして一時定めでき難い。サア/\一時は夫々是三名の処で屹度定め置かねばならんで。何れ願ふ処其処は任せをく。必らず忘れぬよふ」。中「有難う御座います」。神「サア一時今から今と云ふ心三名の心しいかりと心合せ返答せよ」。中「第一この屋敷の道具元の魂生れ出てあるとの仰せ、この屋敷をさしてこの世界始まりの地場故天降り、ない人間ない世界を拵へたとの仰せ、一天万乗の君様をして神の御魂と心得居ります所我々同様魚介の魂との仰せ右三ケ条一統の者より御上様へ申上ましたら我々何んと答へて宜敷御座りましやうか差支ます。人間は法律に逆ふ事は叶ひませぬ」。神「月日あつてこの世界あり。世界あつて夫々あり。夫々あつて身の内あり。身の内あつて律あり。律あつても心定めが第一」。中「右仰せられますれば我々身の上は承知仕りましたが親様のお身の上を心配仕ります。さあと云ふ時は如何様とも御利益を下されましやふか」。神「サア/\実があれば実があるで実と云ふは知ふまい。実と云ふは火水風。サア実を買ふのやで。価をもつて実を買ふのやで」。これに恐れ入つて一同が退つた。その後お気分も漸次快方に向つて旧正月の元日には床から起き上つてお髪をお上げになつた。而して一同に向つて「サア/\充分にねつた/\。この屋敷始まつてから充分ねつた。充分受け取つてあるで」といふ有難い御言葉を戴いた。このお言葉を戴いた人は鴻田、桝井、梅谷、清水の諸氏と 私との五人である。

 こう云ふ具合で御容態が大分良いので新の二月七日迄お地場にゐて一旦国へ帰り、講社廻りをして福田村の宮本勇次郎(講元)方へ泊つてゐるとその晩お地場から急用があるから来いと云ふ手紙が来た夢を見た。その手紙は誰が書いたのか分らん。唯大至急用があるから帰れと云ふことが書いてあつた。それで急いで御地場へ帰ると恰度教祖の御葬儀がすんで後始末をする所であつた。教祖御昇天の前に「何時迄こうして居てもはたも分らん。世界も分らん。これが残念。このままおさめてしまおふか。扉を開いて世界を直路に踏みならそふか」と云ふお言葉があつたが私が国へ帰ると間もなく旧正月十五日頃から御容態が変つて遂に御昇天になつたのである。このやうにして御相談のある場合には始終置いて戴いたのが独り御昇天の際に省かれたのは返へす/\も残念である。これについては私に余程の深い因縁がある。その因縁と云ふのは六人の親をもつて一人も親の死に目に逢はないことである。即ち父の死ぬ時は私は学問の為め他へ預けられてゐて逢はなかつた。母の死ぬ時は東京にゐて死に目に逢はなかつた。先妻の両親の死に目にも今の家内の両親の死に目にも遂に逢ふことができなかつ た。御教祖の場合も角目々々の御相談には何時も加へて戴いたが御臨終にも御葬儀にも逢ふことができなかつたといふのは余程深い不孝な因縁である。(終)

 卯の助参れ/\  忍坂 西田伝蔵
 私の祖母さんが教祖様の妹のお桑さんと云つた人ですが随分長生きしてゐました。その人にできたのが藤助に勇助に幸助に名張のお叔母さんで御座います。藤助さんが三島の小寒さんの所へ行きましたが暫時居て戻つて来て外へかたづきまし た。此処を継いだのは勇助さんですがそれが私です。わたい等も子供の時分良く御父つ様と庄屋敷へ行きましたが。善右衛門さんつて人(秀司)は足が悪くてヒヨコ/\歩いて居ました。何んでも布留の辺で医者にならうと思つて学問し一週間位山へ入つて学問したと云ふことを聞いて居ます。教祖様は良う知つてゐます。私の子供の時分(私は今年六十三歳になりますが私の十位の頃)この座敷へおゐでになり三十日も御いでになり私の御父様と御母様に扇のお授けを下されました。御幣を切つて床の間に飾つて長い事おいでになつたことを良う覚へて居ます。お帰りになります時は此方から提灯もつてと云つても私はよく見えるからと云つて帰られました。私が彼地へ連れて行かれました時南瓜の御飯を炊いて貰つて食べたことを覚へて居ります。それは小寒さんの居た頃でした。その頃は米の粉を御供にして居りました。今でも親類の中で彼の神様を重んじる方はこの座敷へ入らして貰つて/\と云ふ人があります。普通ならこんな古い所を喜ぶ人はありませんけれども。元来私の御父つ様も御母様も一心に神様を拝んで天理王命と紙に書いて貰つて信心してゐましたが、その頃教祖様もよく御いでになり盛大になりかけた内のお母さんの兄さんの安倍の北村五郎兵衛と云ふ人が大嫌ひで百姓も放つといてそんなことをして居てはいかんと大分非道く反対したので、内のお父つ様もお母様も止めて了ひました。そんなことで私共も信心を止めて百姓をする事になりましたがその中に父も母も死んで了ひました。教祖様がおいでになると卯の助参れ/\と仰つ可愛がつて下さいました。今も神様は有難いと思つて居りますけれども彼の道には何うも良うつかぬ様に思ひます。(終)

 怒られるから行かぬ  忍坂 増田喜三次
 増田喜三次氏は一時小寒様の女婿になつた藤助氏の息である。今は忍坂で小さく百姓をしながらこの道を信心してゐる。私共が尋ねた時氏は稲をこいてゐたがお父つ様のことを尋ねに来たと云ふことを聞いて仕事の手を止めて汚ない上り縁に汚ない座布団を延べて招じてくれた。話してゐる間は十分か十五分であつたがその人の善さそうな顔と飾気のない態度とは云ふに云はれない快感を与へた。其処を暇乞ひして去つた後にも貧苦の中に満足しつゝ生活しつゝあるその家の家族の幸福が長く私の胸に刻まれた。
 私のお父さん(藤助)の亡くなつたのは七十六で今年で十一年目になります。若い時庄屋敷の小寒さんの所へ行きましたけれども子供が死んで了ふし帰つて来たと云はれてゐました。帰つて来ましてから暫時ブラ/\して居ましたが内のお母さん(お歌)と一手になつて四十三の時私ができました。本家は南半国の打ち分け場所と仰つて教祖様が時々御いでになりました。私共も子供の時分彼処で十二下りの手をつけて貰ひました。自分は要らないと云つたけれどもせいと云はれて六本のお叔父等と一手に手をつけて貰ひました。親爺の居る頃は本部にもチヨイ/\行き行けば大事にされるのですが、段々お側附きができてこんな粧装をして行くと怒られますから自然遠のく様になりました。(豊田の仲田さん等がよく怒りました)教祖様は来い/\云はれ色々お話も聞かして戴きましたけれども今はそう云ふ訳で本部へ参らして戴いても内の方に面会すると云ふことはありません。( 了)

 痔のお助け  山中彦七  
 私が始めて教祖にお目にかゝつたのは元治元年の二月十五日でありました。私の所で信仰に入りかけた元はと云えば母の痔が元で御座いました。母は毎年冬になると痔で苦しみましたが元治元年の前の年文久三年の盆がしまうと痔が起つて彼地此地の医者にかゝり、彼地此地の稲荷様や金平様に祈祷をしても御利益なくその上他の病気も付き添えて床に就かれ誠に危篤になり心配して居りました。処がある人が丹波市の向ふの庄屋敷に天理王命が天降られた。この神は結構な神様でこの神様に御願いすれば何んな病気も助けられぬといふことはない。私も病気で助けて貰つた。貴方も助けてお貰いなさいと云つて教えてくれました。其処で父は直に参られました。それが元治元年正月のことでありました。その時教祖は「アヽよう出て来た。お前は神の深い因縁あるものであるから引き寄せたのであるで。病気は速か助けてやらう。その代り神の御用を聞かんじゃならんで」と仰つたそうで御座います。其処で 「神の御用となれば何んな御用もさせて戴きましょう」と云つてお誓いをなされ日々神様に参られ母の大層な病気が十日間に助けて戴きました。それから私の御父様は内は人に任せて御勤めになりました。私が始めて参つたのは二月の十五日涅槃の日、母が充分力づいた御礼参りの御伴をしたのが始めてゞ御座いました。それが教祖の六十八歳の時でありました。その時分教祖は何んな所へ御住いになつたかと云えば六畳に八畳の長屋で一寸庭がついていました。屋根と云えば藁葺き屋根の腐つた屋根で御座いました。神様は何の様に祭つておいでになつたかと云えば押入見たいの所に八ッ足を二足並べて其処に神様を祭つておいでになりました。それは/\誠にお粗末なもので御座いました。教祖伝の中に一つ申し上てwpきたいことは善兵衞様がおかのといふ下女に手をかけたと云ふ様であります。彼は大阪朝日新聞の記者渡辺霞亭さんが何処でお聞きになつたか知りませんが教祖三十一歳の時、足達の息子照之丞を助けにゃならんと云ふ一心から神仏を信心し、その徳によつて助かりなさつた。その病気全快祝いに善兵衞様と教祖様と二人ともお招ばれになつたが善兵衞様は一人退けてお帰りになつた。その後で教祖がお帰りになつて見ると善兵衞様とおかのとの怪しい姿が障子に映つたといふ様に書いてありますが、あれは時代が違ふ。年も十年も前のことであります。御承知の如く親様は十三歳の時御嫁入りなされまして暫らく子がなかつた。二十四になられた時始めて長男の善右衞門様が御生れなされた。今の話はそれ迄の十一年目の間の出来事であります。それをどうして調べられたか親様が子供の三人もありましたのに善兵衞様がおかのを大事にしたといふことになつては善兵衞様に恥を掻かせなければならない様になる。それでは親様もお喜びになるまいと思います。それはどうして聞いたかと云えば慶応二年か三年頃、私の母と一手にお参をした時大工の伊蔵さんのおかみさんのお里さんと西田お琴さんと云ふ人が参拝して居りました。而して親様の側で御話を聞いていられます。私もその側に付いて居りました。其処へ丹波市の人で容貌の美い婦人が小娘を連れて参拝せられました。その時お里さんが「あの容貌の美い人は何処何処の人の囲われ者になつている。其処で其処のおかみさんが嫉妬の念を起し火の様になつてる。あんな容貌を下げて人の妾になつて居るのは埃じゃなあ」と云つて居ました。その時親様が仰せられるには「男といふものは若い時はどうもならん。私も長い間子がなかつたが内にかのと云ふ者を置いて云々のことがあつた」とお仰せになつた。これによつて見ると十年も年限が違ふからそう云ふ間違が生じて居ります。

 親様は御婦人としては高い方で御座いました。十人並に優れた奇麗なお方でスッカリして居られました。私は教祖に可愛がられ参拝すると神様に先き御礼をする即ぐと教祖様のお話を聞かして戴くといふ具合でありました。秀司様が御隠れになりましたのは明治十四年で御座いますがその後参りますと「マア彦七さん。良く帰つて来て下すつた。お前さんが帰つて来て下すつたら善右衞門が帰つて来た様な気がする。私は年取つたけれどもこの様に力があるで」とお側で食事なぞ戴いて可愛がつて戴きました。明治になつてから教祖様につかえた人にお春さんと云ふ人があります。この人は故人になられました。その次に古いのは松村さんのお父さん。これも故人になられました。高井さん、喜多さん、宮森さん、此処等は明治十年迄についた人です。後の人は明治十七年頃について本部員になつていられます。私共の参拝する頃は小寒様に神様がおいでになりそれの御悟しがありました。教祖の側へ行つて直ぐにお話を戴くのはホンの僅かの間しかありません。内へ始めて教祖様がおいで下すつたのは慶応三年八月十九日でありますが「神が遊びに行く」と云つて御越し下されました。私が迎えに行つて教祖様御越し下されましたが夜分に神様がおいでになり創世紀の泥海中のことを聞かせて戴いたことが御座います。親様へ行く人は幾らもありません。大抵小寒様、善右衞門様から聞かして戴きますので直接教祖に逢ふてお話を聞かして戴くのはマア/\少う御座いました。

 付記 これは山中氏の宅で直接伺つた話で教祖三十年祭記念号の感謝と記憶の中に載せる心算でありましたが紙数の都合で割愛したから本号に掲載することにした。この他教祖に関する逸話は号を追ふに漸次掲載することにする。

 教祖昇天日に就て

 教祖の昇天日に二説あることは教祖三十年祭記念号に書いて置いた。その二説とは明治二十年二月十八日説と二月十九日説とであるが生憎手元に当年の暦がなかつたので後日の問題としてをいたが、その後大阪市東区南久太郎町の駒井福蔵氏よりワザ明治二十年の略本暦を送つて下すつたので二説の真偽を確かめる便宜を得ました。教祖の昇天日は旧暦より云えば明治二十年正月の二十六日これは何人も知つている所であるがこれを暦によつて繰ると二月十八日に当ります。よつて今日迄伝えて来た二月十九日説は誤まりであつたことを証明してをきます。なお後日の誤解を招かぬ様御昇天前後の新旧の両暦を対照してをきます。  
 明治二十年二月平二十八日 (神武紀元二千五百四十七年)

 回想の御本席(一)  永尾芳枝子 述
 はしがき

 本篇は某氏の筆記に係るものであるが本誌の一月号に掲載した「人が望めば神が望む」の一篇と多少重複の点がないでもないが彼に漏れた点もあるのでそのまま此処に掲載させて戴くことにした。但し標題は記者の勝手に付けたものであることをお断りしてをきます。(RO生)
 本日は御遠方の処わざわざお越し下さいまして我父の履歴を話せとの仰せでございますが別に履歴と申す程のことも御座いません。しかし先ず我飯降家の御道に引入れて頂きました当時より父の出直しになる迄の経歴を大略お噺致しましょう。  先ずこういふ道筋であります。

 元治元年の頃、私の母は流産致しました。その後は気分も進まず次第に身の自由も叶わず誠に困つて居りました処が、付近の小田中村といふ処に家伝の産薬を売る家がありますから或る日、父は之を求めに行く途中計らずもかねて知合の大工さんと道づれになりました処、その大工さんは「飯降さん今日はどちらへお越しになりますか」と尋ねますから父は答えて「実は妻が流産して近頃は少し煩つて居りますから小田中村へ産薬を買いに行く所です」と云いましたが、この時右の大工さんは 「さうですかそれはさぞかし御心配でございましょう。しかし産薬を買ふより庄屋敷に天理さんといふおびや神様がある。それへ参詣なされては如何でありますか」と云われました故父は大いに喜んで早速その足で庄屋敷へ参詣しました。これがそも/\我が飯降家のお屋敷に帰らして頂きました始めで御座います。この日父は直ちに神様に参詣して御教祖にお目見え致しました。御教祖は言葉やさしく「よう帰つてくれたな」と仰せられます。この時父は 「実は私の妻は流産の後煩いのため非常に困つて居りますのでどうかして一日も早く助けて頂きたいと思ふてお願いに参りました」と申上げました。すると御教祖は極めて口調爽かに「何も案ずる事いらん。すぐに全快するで、さあその御供(リキモツの御供)をいたゞきなされ。これは三服あるで。これを三日いいたゞくのやで。ない寿命でも心次第でふんばつてやるで」と仰せになりました。父は喜び勇んで御教祖のお言葉のまゝに帰つてこの事を母に諭されました。母は大いに安心して「さて有がたい事である。心次第でない寿命もふんばつて下さる事なら如何なる精神も定める」といつて喜びました。そして先ず頂いた三服の御供はその場で一服頂き、残る二服は二日間に頂きました。すると有がたいことには久し振りに床も離れて身の自由もできるやうになりました故その日の午後から父も母も共に急ぎお屋敷へ御礼参りいたしました。この時も御教祖は「よう帰つたおもわくの大工が出て来たと八方の神が手を拍つてお喜びになつたで」と仰せられたのであります。

 それからは間があればたえずお屋敷へ帰らせて頂かれました処がその時分には神様と云つては旧式の中山家の床に御幣一本立てゝあるばかりでありました。そこで父は「かかる結構な神様をそまゝでは余り粗末で勿体ない様に心得ますから別に神様をお祭りする所をこしらえては如何で御座いましょう。幸い私は大工の職で普請は手のものでありますから如何様にも致します」と申上ましたら、御教祖は「できる事ならこしらえて下され」と仰せになりました。それで元治元年にいよ/\普請に掛り始めました。この時御教祖様は 「これは上段の間の普請とも云えば勤め場所の普請とも云ふで。このふしんは三十年目にしかえるのやで」と仰せになりました故、我が父は必らず三十年目にはきつと建て替えさして頂きますと答えていよいよ普請に取りかゝつたのであります。その時の材木は滝本の大新といふ材木屋から又瓦は守目堂の瓦屋から買い求めたのでありますが勿論代金は借りてありましたがその年即ち元治元年の暮になつても払えません処から詮方なくお断りに行きますと神様の御用な ら結好でございますと云つて両方共心よく承知して下されました。終に棟上げの日となりましたが当時はまだ余り熱心なお方もありません。随つて棟上当日も僅か一升の酒も買い兼ねて母はたつた金六銭を持つて布留の「みあか」といふ豆腐屋を本業とし傍ら油などを売つている家へ酒を買いに行つて十五六人の手伝衆に呑んで頂きました処が、ほんの涙程の酒ですから一寸のどをしめす位で中には行き渡らないお方もあります。母は急いで再び布留の「みあか」へ買いに行きましたがその時は少しの金もございませんので 「只今余り急ぎましたからあとより直ぐに代金持参いたします」と云えば先方は「代金後なら売りません」と行つて元の酒壷へあけてしまいました。母も一時躊躇いたしましたが止むなく自分の腰の帯をとつて之を酒代持参する迄は抵当として置いて酒を持つて帰られたのであります。

 当時の教祖様の御艱難御苦労は並や大抵ではなかつた事は今更申すまでもございませんが又皆さんの中にも山中忠七さんなどは普請中毎日/\白米二升なり三升なりを持参して下されそれが普請中は一日として欠けた事がなかつたのであります。処がその普請が落成せぬ中に計らずも大和神社の神官のために道に節が入つて信徒はいづみ、道はあたかも火の消えたやうなものでために誰一人も寄りくるものもないと云つてもよい位でありました。父はそれでも只一人でもふんばらして頂くと云つて満九ヶ年間櫟本村と御屋敷と双方掛け持ちで働かして頂いたのです。又母は絶えずお屋敷でつとめさして頂きました処が明治五、六年頃よりはあちこちと力を入れてくれる人もおい/\できて来ましてだん/\と結構になつて参りました。

 明治六年、私の八歳の頃には御教祖様のお言葉に基づき窓なしの倉と教祖様の御居間とをお拵えになりました。その時教祖様は 「凡そ倉といふものは何処の土地でも皆な窓があるなれどもこの倉は窓なしにしておけ。末では七十五人の人衆の生姿を蔵める所やで」と仰せになりました。この倉は今尚存在して只今の炊事場の南に移転してあります。これより引つゞ上段の間の御普請と二階建が一棟できたのであります。又秀司先生の依頼によつて空風呂も拵らえ尚続いて内倉一棟を建てる事になりました。一寸申上げておきますが、かくて数度の普請を致しますにも今とは違つて多くの大工を召集するやうな事はできません。只父とその弟子達の僅かの人数でこしらえたのであります。この普請中にも教祖様は我父にしばしば温きお言葉で「一日も早くこの屋敷へもどつて来い。わしが独りで困るから早く帰つてくれ」と云つてこの結好なおやしきへ引入れてやると云ふ御慈悲の御言葉がありました。処が櫟本には沢山の得意先がございますから彼処からも普請此処からも来てくれといふ矢の如き催促であります故おやしきへ引移る折もなくつい/\心ならずも馳せる月日に任せてその日/\を送つておりました。そうこうしている中遂に明治七年には長男政治郎が迎え取りになりました。それがため一時は父母も非常に落胆してその揚句凡そ年余といふものは両親共に身上勝れずぶら/\暮して居りました処が或る日おやしきへ帰りましたら教祖様には「何も政治郎がなくなつたからとて心配する事はいらんで。今度は二月の木の芽のふく如くにかやすで。さき名前つけとくで。木ではじんほどかたいものはないで政靭とつけてお くで」と仰せられましたが果せる哉ぶら/\煩つて居る間に与えて頂いたものと見えまして目出度翌年二月に男子が生れました。直ぐに御礼参りせられましたら教祖様は「男やらうがな、さきに名前をつけてあるで」と有りがたいお言葉を頂戴したのでございます。それからもまだ一日送りに櫟本に居りましたが、計らずも父の眼の障りとなり一夜の中に両眼の玉は丁度梅干の様に真赤になりましたで直ちにおやしきへ帰つて教祖様にお伺しますと「何も案じる事はいらん、すぐなおるで、一日も早くこのやしきへ帰る心にさえなれば何も云ふ事いらん」と仰せられました。父も母も一度ならず二度三度も大決心して家族諸共おやしきへ引うつる精神は定めて見まするが扨人情は又格別なものであります。得意先の人々からはいろ/\親切に云ふて止めてくれますので今であれば神様のおさしづであると云つても人が信用してくれましょうがその時分にはなか/\そんな事位では承知してくれませんから止むを得ず一時逃れに「何分家族が多いので家が狭くて困るし又金銭にも不自由であるから行く」と申しますと人々からは「永年住みなれた櫟本をたつて庄屋敷あたりへ行く事いらん。あんな庄屋敷みたいなつまらぬ所へ何しに行くのや。あんな所へだまされて行く事いらん。金が入用なら金も出してやる。家が狭ければ材木もいくらも出してやる。必ず庄屋敷へなど行くな」といろ/\と親切に云ふてくれます。そこでせん方なく遂に神様の御指図であるからと申しますと「どうでも行くなら乞食する覚悟でゆかねばならぬ」と尚もいろ/\と止めてくれます。これが義理と人情のしがらみで一旦精神定めたものゝ又そのままに櫟本に住むことになりました。

 或る日の事に櫟本に神田武三郎さんの普請している時どうしたのか父がいつものやうに手斧で木を削つて居りましたその木屑が飛んで来て右の足の親指の肉と爪との間へ立つて五分程も這入りました。それで直ちにお屋敷に参り教祖様に御願いすると 「案じる事はいらんで。すぐなおるで。一日も早く家族諸共戻つてくれ。わし一人に任せてどうするか。早く帰つてくれ」と仰せられて足の木屑を引出して下さいますとそのまま少しの痛もなく又疵もつかずに助けて戴きました。この時も父母も大決心しておやしきへ帰らして頂く積りでありましたが色々の事情のためつい又々一日延しになつていました処が又或日の事に櫟本の高科といふ処の藍屋の普請の時に父が不思議にも足場を踏みはずして地上にころげ落ちました。尚不思議な事には僅かの普請に木積りが間違つて失敗いたしましたので御座います。思ふて見れば 僅かの普請に失敗するも亦足場から落ちて腰が抜けて自由叶わぬやうになるのも正しく神様の御手引でございましたのでしょう。そこで父を戸板にのせて直ちにお地場に帰りましたら教祖様は「何も案じる事はいらん。早くこの屋敷へ帰りさえすればよいのやで。わし一人に任せて捨てゝおいてくれては困るで。こんどは是非皆なつれて帰つてくれ」と申されました折から妹政枝は風眼といふ眼の病いのお障りを受け弟政甚も七日程もの云ふ事のできないあたかも唖のやうなお障りを受けました。それは間もなく二人共助けて頂きましたがその後もこの二人の弟妹にいろ/\とお手入を頂きました。或る日母は二人の子供をつれてお屋敷へ帰らして頂きますと教祖様は「お里さん(母の名)政治郎の事を知つているか」と申されました。母は「はい承知して居ります」と答えましたら教祖様は「政治郎の事を知つて居ればよい。けれどもこの後もしつかりしいや」と仰せられました。母は 「一日も早くお屋敷へかえらして頂きたいのは山々でございますが何分櫟本の人達は余り惜しがつてくれますからその親切を振り離す袖が御座いませず止むなくお道の事をおもい つゝも日を過して居る様な次第で御座います」と申上ましたら、教祖様は 「人がすくから神もすくのや。人に惜しがられる間は神も惜しがる。人からあれは手寄りやよけいものやと云われるやうになれば神にものぞみはない。人の好む間は神も楽しみ」と仰せられました。母は重ねて「何分子供がありますから子供の成長するまでおまち下され」と申せば教祖様は「子のあるのが楽しみやで。親許りでは楽しみがない。早く引上げて帰つてくれ」と仰せ下されました。然しながらその時分は世の中の反対にかてゝ加えて時の政府の干渉も烈しいので止むなく秀司先生は人間業とは知りながら大和国金剛山に慈福寺といふ寺がある、この寺の住職日暮宥貞を社長として秀司先生は副社長と成りて一の仏式教会を設けられ明治十三年旧八月廿六日に社開きとして門内ではごま焚きを行い屋内では御神楽をしたのであります。一時はこれがために少しは反対も穏かになりましたが又いろ/\の節から反対圧制をせられます故今度は宿屋営業を始められました。素より教祖様の本意ではありませんがしかしながら何事にもその災難が教祖様御一人の御身を救い出そうとせられた結果であります。ここに於て両親も大に決心いたしまして父が母に向つて云われますには「とても櫟本に居つては教祖様の御身を保護する事が覚束ないからせめてはお前だけなりともおやしきに常詰さして頂け」との事に遂に母も大決心を以て明治十四年の十一月に妹政枝と弟政甚とを連れてお屋敷に帰る事となり父と私とは当分櫟本に居りましたのでございます。なれども父は我一家のためばかりに働いて居たのではありません。すこしのひまでもあれば父もやはりお屋敷につとめさして頂いたのであります。かくして父は心ならずも櫟本に居つてお屋敷を保護して居りましたがいよ/\明治十五年二月八日にすつかり櫟本を引き払ふてみな/\お屋敷に移らして頂いたのでございます。

 その夜教祖様は 「お里さんへ伊蔵さんへもうこれからは一つの世帯一つの家内人やで。何に又誰にも遠慮一つもいらんで」と仰せ下されました。その後松枝さんの采配で世帯を北と南とに分けましたがそれについて教祖様の仰せられるには 「一つの家内一つの世帯といふて連れてもどりしに南と北と家内を分けたんが神の残念であるわい。この残念を何うしてはらそうか。宿屋も空風呂もすつきりやめてしまえ。どう してもきかんければ入込でさああいづ立合/\」と仰せになりました。これより先き宿屋と風呂屋とは中山家の営業でありましたが遂に明治十五年四月一日を以て我飯降家に引つぎとなりました。ここに不思議な事には始め私共のおやしきへ引移ら して頂きます時に家族は五人でありましたのにこの時教祖様は 「五人の家内かと思えば六人の家内でふせ込むで」と仰せになりました。この時は父も母も私も不思議におもふて居りましたが後に至つて果してこのお言葉の通りになりました。と申しますのは私共が家族諸共お屋敷へ引移らして頂きます時には何日迄も大工する積りはありませんから弟子共にはそれ/\暇を出して別れてしまい又教祖様は 「道具は何もいらん。皆な人にやれ。道具はやしきに何もかも拵えて神の方に待つているから今迄の道具は皆な人にやれ」と仰せになりますから大抵のものは弟子に分配してやりましたのでございますが音松といふ弟子だけは是非世話せねばならぬやうな事情になりましたので一所に連れて帰りましたら教祖様は左の様「五人かとおもえば六人の家内でふせ込むで」と仰せられましたのであります。実はこのお言葉を不思議におもふてもしや子供でも授かるのではあるまいかと申して居りましたが遂に事情やむなく右の音松をひきつゞき世話する事となつたのであります。

 これがやがて後に至つて一つの節となりました。それは追々申し述べますがここに明治十五年急九月十六日さきに認可せられた仏式教会なるものをにわかに政府より解散を命ぜられ出張せる警官の申すには「天理王命といふ神はいよ/\ない神である。故に今後はどこまでも圧制して倒して終えとの政府の命令であるから十分圧制する」と云つて遂に当日即九月十六日教祖様を奈良監獄に拘引して十日の拘留に処したのであります。そしてその後は毎夜/\警官が止宿人取調べに出張して居ります。然るに御教祖様が御帰りになる前々夜の事ですが折も折とて弟子の音松が客人と同じ室で寝て居りました処が警官が之を認めて止宿人記入漏れであると云いますから「これは内の弟子でございます」と説明いたしましたがどうしても聞き入れてくれません。遂に翌日即九月廿四日に警察から我父に差紙がつきましたので父は急いで出張いたしましたが夕方になつても戻りません。ために家内は一方ならぬ心配して直ちに丹波市分署に尋ねて行きましたら既に監獄へ送つたとの事でした。越えて廿五日この日は教祖様が目出度お帰りになる日でありますので私もお迎えに行きましたが計らずも奈良監獄の前で向ふから腰縄付にて警官に送られて来るのが紛れもなき我父でありました。この時の驚きは今申上げやう言葉もありません。この時梅谷さんは 「芳枝さん。御父さんに会わして貰えるやう警官に頼んでやる」と申されました。しかし余りの悲しさ懐しさのために私は物も云えませんでした。この時父は只一言 「音松をすぐよそへ預けてしまえ」と申されました。考えて見れば前夜の止宿人取調べの際に記入漏れと云われた罪のためである事が覚りました。廿四日に父が差紙に基き警察へ出張致しまして家族は夜の目も眠らず心配して居りましたがその夜は帯解で拘引せられたのだそうでございます。翌廿五日奈良へ送られて監獄へ入つたのは教祖様の御帰りの日と同じ日で教祖様は午前九時に出られて 父は少し早く九時迄に這入つたのでございます。つまり教祖様と入れ違いになつたのであります。父も矢張十日の拘留でございました。

 これよりさき益々警察の臨検甚だしくなつて昼は空風呂に薬を入れるや否やの取調べ烈しく夜は止宿人の取調に絶えず出張して居ります。この廿五日お屋敷では教祖様のお帰りを今か/\と早くから待ち焦れて居られましたが既に教祖様の御迎えもすんで一同安心いたしました。この日参拝者の一人が空風呂に這入りました処が非常に薬の香いがいたしましたから驚いて早速その湯を捨てゝしまいました。その後やゝ一時間程もたつてから私服二名制服二名の警官が出張して直ちに湯場を検査 しました処が案に相違したやうな顔付をしていました。思えば先に密かに薬を入れておいて後再び検査して空風呂の営業に何故薬風呂を炊くかと難題を吹かける積りでありましたのでしょう。処が神様のおかげで早くも悟つて風呂を中止したので警官は今更あきれて「今日は婆さんが帰る日であるからさぞ忙しいだらう」と揶揄つて立ち帰りました。先ずこの日の大災難も免れて結構ですがこの後は如何なる手段を以つて否かる圧制を加えるかも知れませんから今日のこの節を幸いこれ限り思い切つて空風呂も廃業いたしたのであります。けれども本教を誤解している人達はある事ない事種々警察に讒訴致しますからその後も地方の反対攻撃は素より時の政府にもしばしば教祖様や我父を監禁拘留して大いに苦しめたのであります。この時分の反対は思い返せば「ようまああんな中通りぬけた事やなあ」と思います。

 時には夢に見て泣いた事さえありました位です。既に十五年の十月頃からは益々反対が烈しくなつて秀司先生の令閨松枝さんの亡くなられた時などは又々警官が出張して家族の取調べをいたし中山家の家族と飯降家の家族との外は一人も滞在を許さなかつたのであります。この日は前管長様の兄上なる梶本松次郎さんも来て居られましたが警官に「汝は何者であるぞと尋ねられて松次郎さんは「私は櫟本の親類の者で松枝の葬式に来ています」と答えましたら警官は「葬式すめば用はあるまい。直ぐ帰れ」と云います。松次郎さんは又「御承知の通り飯降さんは監獄に拘留せられ家は女子供ばかりですから留守をしております」と答えられましたためやつとの事で無事で滞在する事ができました。次にお久さんに「汝は何者?」と尋ねられる。同じく「松枝の葬式に来ました。私は松次郎の妹でございます」と答えられましたら警官はまた「葬式すめば用はあるまいから早く帰れ」と云われてお久さんはやむを得ずその場で立ち帰られました。お政さんは教祖の娘たる事を説明して滞在せられ重吉さんは当家の百姓男と答えて滞在せられました。何しろ当時は中山家と飯降家との外は一人も出入させませず滞在などは勿論できなんだのであります。

 これより益々参拝厳禁せられて古い先生方や熱心な人達は絶えず逃げかくれして御屋敷に詰められたのであります。一番心配なのは毎日毎夜参拝して詰めている人を隠すのが何よりの心掛けでありました。それがために中川勘兵衞さんと清水さんとは丁度その家が御屋敷裏門を出た処の裏と表になつて居りますから警官が取調べに来た時は直ちに右の熱心な人達をこの両家にかくもふて誰も参拝のないやうに粧ふたのであります。こういふ風でありますから何か一言話すにも小声でさゝやくやうに成るべく内はひつそりとしてあたかも人なきが如くにしたのであります。この当時に於ける有様は実に何とも申されぬ程でありま した。越えて十六年四月廿六日の御命日に父は丹波市分署に出張して「本日は御命日でありますからひょつとすると参拝者があるかも知れません故出張して下さいますか」と願い出した。すると直ちに制服巡査一名出張して表門で参拝者が門内へ立入らぬやう見張をしておりました。その折柄三四名の和服巡査が滝本紡績より酒に酔ふての帰り掛けに立寄つて上段の間に自分等が一銭金をおきながら之を拾つて「この賽銭ある限りは必定今日は参拝者を引入れたに違いない」と云つて怒鳴り散らして遂に御供に封をつけ、その上当時教祖様の御住宅新築中の壁土の中へ捨てゝ三宝などを火鉢の中で焼き捨てあまつさえその火鉢を戸外に投げ捨てたのであります。母と政子さんとは余りの事に警官に向い「この火鉢は 困窮人飯降の後にも前にもたつた一つの大切な火鉢であります。これを割られては跡にかけ替えがありません。どうして下さいます。余りの無法ではありませんか。この事を警察へ訴えるから名前を聞かして下され」と云いましたら流石乱暴極まる警官も無言のまゝ立ち去つたのであります。然しその始めは御供に封を付けて「警察から取りに車でこの御供を障る事ならんぞ」といかめしく云ふて居りましたが酒の上とは云いながら余りの乱暴し過ぎた事に気が付いたかその後いつまでたつてもその御供は取りに来ませんでした。又何事もなかつたのであります。こういふやうな次第で実に命じ十五年から廿一年に至る六ヶ年間といふものは御供や御守や又参拝者をかくして警官にうそを云ふのが仕事でした。そして警官は毎日毎晩時を選ばず何時でもやつて参りますから実に心のやすまる間は一時もないやう な有様でございました。夜深になどやつて来ますと寝て居らいでも寝て居る風に見せて暫く戸を開けずその間に御供を隠したり参拝者でとま寝て居る風に見せて暫く戸を開けずその間に御供を隠したり参拝者で泊つている人をのがしたりしましたのでございます。尚又明治廿一年一月廿六日教祖様一年祭の時なども祭官が付けて今や式にとりかゝるといふ段になつて警官のために妨げられとう/\一年祭も勤まらずじまいになつたやうな次第であります。

 かくの如く警官の圧制が烈しいのに尚その上又暮し向きにも非常に困窮しまして大分よくなつた明治十五年からこちらへでも尚神様に御供えいたします御酒などは日々少々の賽銭をためておいて毎朝おみき徳利を一対もち僅 か五銭のお金をふところにして清水利與門さんの家へ買いに参る様な次第でございました。問 御本席公の大工仕事は何時頃おやめになりましたか?  ハイ、父の仕事の仕おさめですか? それは教祖様の御居間を建てたのが最後でした。この建物は前にも申しました通り教祖様の休息所とも云えば遊び場所とも云ふでと仰せら れたもので、これは父と弟子の音松とが建てたのでございます。これやがて父の大工仕事の仕おさめでありました。壁は梅谷四郎兵衞さんが左官の事ですから引き受けて自分の弟子をひきつれてひのきしんなされたのであります。これは十五年の冬より始まり十六年の冬に落成して教祖はこゝに移られたのであります。この建物は今は新築の御教祖殿の北に移してあります。これより先、中山家では祖先伝来の田地八反計りを一時は困難のため抵当とも致してありましたが当今では無事に取り戻して之を他人に小作に充てゝありましたが幸い明治十六年より父がこの地所を引受けて暇さえあれば勿体ないと云つて働きました。然しこれは教祖様の本意ではありませんからしばしばお止め遊ばされますが何分事情のある事でございますから心ならずも暑さ寒さの厭いなく野に立つて働いたので御座います。或る時などは身を切らるゝやうな寒い日にその上一時間もたゝぬ中に三四回も便所に通ふ御障りを頂きながらそれでも尚休息せずに畑で仕事をして居りました。そして近所の井口さんといふ家の便所へ一鍬しては走り又一鍬しては走りますから井口さんは見兼ねて申されるには「飯降さん時もあらうに今日の様な達者な者でも耐え切れぬやうなこんな寒い日に具合のわるいのに仕事を無理にせんでも又明日といふ日があるのやからまあ今日はゆつくり休んで薬風呂でも入りなされ」と言葉優しく云ふてくれましたが父は「いや/\人を満足さし人を喜ばすためなら寒さ暑さの隔てありません」と云つて働きました。今申し上げると少し愚痴の様ですが道の始め理のわからん間は先ずこんなものであります。実はおやしきに詰めて居る人の中にも「飯降の家内は多人数でとりわけ女子供の食いつぶしが多い」とか「毎日遊んでいる」とか口やかましく云い噺す人もあります。それがため「父は人をふそくにさしては教祖様に申訳がない、又天に不孝である」と云つて身上 障り頂いても休まずに野に立つて寒さも厭わず働いたのであります。然しいろ/\ほこり 事をいい散らした人達は教祖様御存命中に道に離れた人もあり又亡くなつた人もあります。こういふ風で父は成るべく人に不足さゝぬやう又満足与えるやうと如何なる日も野に立つて働いて居ります。しかしながら一方教祖様に於かせられては父の働く事は本意であ りませんために教祖の御身が時々迫る事がございます。云いかえれば教祖様は神様であり ますから父の仕事しているのは身を労するよりも心の苦労が多い事をよく御察しでござい ます。それゆえ御教祖様の御身が時々迫るのであります。迫つて参りますと直ちに「伊蔵さんを呼んでくれ」と仰せになつて扇の伺を仰せ付けられます。そして教祖様は又「さあ仕事をやめ何もする事いらん。今日限り仕事をやめてくれ。そんな仕事をして居つては神の 用事の邪魔になる。早くやめてくれ」と仰せになつて御身はたちまちにして元の通り御全快となります。しかしお屋敷の人達の人情止むなくその後も昼は百姓をする。あまつさえ夜はお家形を拵えると云ふ風でありました。ここに扇の伺と云ふ事に就て一言申添えてあきます。この扇の伺はお道のごく最初の時でありましたが当時は三十三名ゆるされたのであります。皆な一名一人限りと仰せられましたにも拘らず人間はあざないものでありますから遂々人から頼まれるにつれて人の事までも伺ふ様になります。それゆえに神様の御守護がございません。既に人間の伺となりますからたとえば東に指すべきを西に指し南に行くべきを北に行くと云ふ風で丸で間違つてしま いますために折角ゆるされた扇の伺もここに教祖様はお取り上げとなりましたのでございます。問 御本席とおなり遊ばした理由をお聞かせ下さい。父が本席と改めて頂きました事ですか? 何分天にも地にも便りにすべきは教祖様ただ独りであります。その慕わしき懐かしき教祖様には計らずも明治二十年一月廿六日正午に御昇天坐しましてここに悲しき別れを致しました。当日の模様を申して見ますとその朝父は内倉に這入り扇の伺をいたしましたがその時のおさしずには「本づとめせえ/\してもか ゝるせいでもかゝる」と仰せ下さいました故つとめすれば警察行かとおもいおなじかゝるのなら勤めをしてかゝらうと申しまして甘露台の処へあらむしろをしきまわしそれより本勤に取りかゝりましたが警察行どころではなく丁度つとめのしまい方に教祖様がお迎え取りになりましたやうな有様でございます。時はあたかも正午十二時でございました。その後、父は同年旧二月十七日午後からお障りを受けてこの月の三十日迄寝付きました。その間の苦しみやうは非常に甚だしいものでございました。殊に熱が烈しいので玉の如き汗が拭ふ間も ない程流れ出て大変苦しがります。その有様は実に見て居られぬ位でした。神様が入り込んで「早く真柱を呼べ。すぐ真柱をこゝへ連れて来い」との御指図であります。即真柱と申しますれば前管長様の事です。さりながらどういふ訳か管長様はお越しになりません。何分又父のお障りは熱計りではありません。父が申しますには「あばらの骨が一本づゝブチ/\と折れて行く、その又次の骨が折れて行く迄に煮え湯がわいて暫くじつとするとおもふと又次の骨がブチ/\と折れてゆく。こうしてすつかりと折れてしまつた。それからは又コ チ/\と音がして一本づゝはまつて行つた。又つゞいて片一方のあばらの骨が同じく一本づゝ折れて云つて又元の通りに一本づゝはまつて行つた」と申されました。そうこうする 中にもまた神様が入込になつて御指図があります。その御指図は「これまではほこりの仕事場であつたで。席と改め名を付けて綾錦の仕事場所にするで。今は屋形の真の骨を入れかえたで」と仰せになりました。続いて又次の如く「これから先は黒着をきせて五人居ても六人居てもどれが席やら分らぬやうにして働くで働かすで」といふ御指図がありまし た。既に廿三日の夜の如きは非常なる障りでありましてお指図に「どうしてもいかんこうしてもいかんと云えば赤着二つ並べてしまふ」と仰せられました。この廿三日の夜は母と私と只々心配でなりませんから石西さんの湯を貰ふと云つて密かに二人は家を出て石西さ んの湯場の隅で泣く/\大決心をいたしました。父はあの通りに身が迫つてとても三日の日も続くまい。真柱はお越し下されずもしもその中に父が亡くなつたら残る家族はどうすれ ばよからう。今更櫟本村へは帰る事は出来ずいつそ親子四人手に手を携えて河内国方面へ落ち延び乞食するとも大和の国には居らぬと云つて母子は涙と共に語りつゝ悲哀の情に迫つた事がありました。かく申上ますと如何にも弱き精神の様でありますが何分御屋敷の事情もありますし又永の年月教祖様を頼りとして只事は一つの理を命の綱とも頼んで来たその教祖様は今日この世のお方ではありません。続く不幸の昨日今日又かゝる悲境に陥りましたのでございますから実に私共の心の苦しみは一通りではなかつたのでございます。しかしこの時の有様をくわしく云えばあたかも人を恨むやうに当りますからくわしき事は削き ますが先ず当時は泣くに涙さえないと云ふやうな有様でございました。それからも時々神様が入り込んで「早く真柱を呼べ」と仰せられますが御越がございません。遂に辻さんと 桝井伊三郎さんのお二人は思い迫つて真柱を呼びに行かれます。余り幾度も度重ねての催促に真柱もやう/\三十日に至つて御越しになりました。その時のお指図「さあ/\席と改めて神の社ともらい受けたで。さあ承知出来たか出来ぬか返答せ」。真柱の答え「をじのからだを天にさしあげ飯降の家族をわしの家族として引き受けますから安心し て下され」。再びさしづ「さあ人は変つても理は変らん。理は一つやで。これからは別火別鍋!」と仰せになりまして父も直ちに身上元の通りに全快いたしたのでございます。今より四十 年の昔を思い返せば父もいろ/\の道をつれて回られたのであります。既に明治十五年二 月八日にお屋敷へ引越さして頂いてから今も申上げた二十年に本席と直らして頂く迄は一 日の日も長い着物を来た事などはありません。勿論三度の食事に高い膳に据えられた事も ありません。まる六年間はたゝみの上ですわつてたゞの一度もおはしをもたれました事は御座いません。いつもくどのかた(竃の上)で立ちながら食事をせられたのでございます。そののおかげで残るわれらは今日では第一神様のおかげ教祖様のおかげ且は父のおかげによつて誠に結構さして頂いて居るやうな次第でございます。それゆえいつもながら時 と折には教祖様や父上の事を思い出して喜んで居ります。

 回想の御本席(二) 大和国宇陀郡三本松村 福井藤蔵  
 藤蔵氏は御本席の大工友達である。私共(永尾正信氏と自分)の尋ねた頃は氏は病床に臥し危篤の噂さえあつたが再三の懇請により病躯を起して面談してくれた。左の談話は即ちその吐く息引く息の苦しい中より特に私共のために語つた談話である。
 伊蔵さんは私よりも一つ若かつた。大工を習いに行つたのは十五か六の頃で車屋の多重郎と云ふ大工に習つた。その頃は大工仲間で交際もしていたが櫟本へ行つて天理さんのお婆さんの世話をする様になつてからは私も彼の人を見たい、彼の人も私を見たい位の心はあつても互いに打ち寄つて話すといふことは能うせん。その中に彼の人はズン/\出世する。私は詰らぬことになつたから行きさえすれば友達だからもてなしてもくれるであらうが私が不自由して暮らしているから遂いその後は逢わない。子供の時分も伊蔵さんの内と私の内とは離れているから遊んだことはない。寺小屋へは三年位行つたと思ふがハテナ師匠様は誰であつたらう。多分幸田様の息子様の啓次郎様と云ふ御医者様だと思ふが………… 大工は二十位迄親方について直ぐ櫟本へ行つた。剽近(大和方言ひやうけん)なことを云つたけれども正直な男であつた。出世する様な人間は何処か違ふ。その頃は彼の人も若い多重郎(本席の親方)とは従兄弟同志であつた。この多重郎つて人は長瀬の安兵衞つて人ーこの人は此処の正浄寺を建てたーに習つたが腕は私の親方の方がズーッと良かつた。マア折角お出で下すつたが私も老耄れになつて一寸に話せない。兎に角彼の人は仕合せな人だ。私なぞは仕合せが悪くつて大工も止めて詰らぬことをし ていますが………… 兎に角偉い人が出来たものだ。まあ何んでも伊蔵さんのさしつたことは拝み奉つて聞きなされ。その上のことは御座りませぬ。何処へ行つたことは何処へ行かさつても親の事を尋ねて大切にしなされ。私も共に涙をこぼします。………………………………………………折角お出で下すつたからそれじゃもう一つお話しますがきこの宮さんから上へ新池と云ふ池が出来ました。その池に何じゃ土堰を伏せに行つたことがある。私と大工は銀三郎と伊蔵とそれから惣治さんと。それに人足も役人も行つた。皆な昼寝をしました。その間チョット蕨取りに私と銀三郎と伊蔵と三人で山のテッペンに行きました。しこうすると不思議な事があつて伊蔵さんが山鳥の卵を五つ計り取つてその卵を手拭に包むと山鳥が飛びくさつた。チョット迎えに行くとバタ/\と行く。又た抑えに行くとバ タと行く。而して遂々伊蔵さんを山の谷へ連れて行きおつた。而して伊蔵さんが帰つて来んと云つて騒いだ。そうする中に何処を何う歩いたか知らんが帰つて来た。家の人達が迎えに来て水をふくませて連れて行つたが彼れだけの汗を見たことがない。それは何う云ふ訳かと云ふにその山鳥を追つて行き/\する中に遂々道を失つてしまつ た。それで彼地へ行き此地へ行きしている中に年老の老人が来て「お前行く所が分らなければ教えてやる。これを行くとお前の友達の働いている処に出るから」と云つて道を教えてくれた。全く私の働いていた方角であつた。それからヤイ/\云つて連れて返つたがそれが元となつて四五日休んだ。その中に仕事はなしになつた。それは十七八の頃であつた。そう云ふ剽近な人であつたが出世しなさつた。気立てはごくサッパリした人であつたぜ。(了)

 回想の御本席(三)  兵庫県加東郡滝野村之内高岡村二百八番地 丸山松蔵(七 十一才)
 本人は若き時から高松一流の蝶浮節(ちょんがりぶし)を以て世に立ち、明治七年この当時はチョンガリと云ふ字が鑑札が下らないものだそうだが高松氏は自ら郡役所に乗込み係員に面会して堂々と一時間に余てチョンガリの由来を物語つた結果、蝶浮節と云ふ新たの字を係員と二人で作つて願出で、兵庫県第一号の鑑札を得たと云ふ豪の者で、兵庫県下では高松一流と云えば永年その名を轟かした者で、常に御道の心があるお蔭で、芸が教訓的でなか/\面白く、殊に先天的の滑稽家でものゝ一時間も同席していやうものなら臍の掛替を用意して置かねばならん様な面白い人物で、又なか/\お道には熱心で長らく青野原分教会の世話係を勤めて居る、今は隠居の身分でその日を楽しく暮らしている。
 私は明治二十二年から御道の信仰をさして戴きお蔭で其日を楽しく喜ばしく結構に送らして頂いて居りますが、別にどうした有り難い因縁か、私は子供上りから道楽者で蝶浮節を渡世に致して居ります上から、明治二十五年正月十六日大阪北分教会の開講式の際、広岡会長(青野原分教会の前会長)の御手引でその時御臨場の御本席公の御前で桜川五郎蔵の角力場一席を演じ御慰に預りましたのを手始めと致しまして、それから一方ならぬ御寵愛を蒙りました者で、その後御慰に預りました事は何度あつたか確かに記憶に残つては居りま せんが何んでも二十六年十二月の一日から五日間御屋敷の御宅や高井先生の御宅等で御本席様の御注文で昨日面白かつたから今一度桜川をやれとの御命で桜川を初めとして八代騒動大久保彦左衞門、忠臣義士、越後伝吉等の御慰みに預りました。又その翌年十月の御大祭 の夜、琴平霊験記を演じさして頂きましたし、何日か年月を忘れましたが、何んでも御屋敷で招魂祭の執行なつた時であります。その夜は御宅で水戸黄門記の御慰に預り、それから御席様の御在世中には私の御屋敷へ帰らして頂く度に色々の御慰に預つて何時も満足したよ/\との有難い御言葉を頂いたものでありますが、私が今尚その当時の嬉しかつた事のどう しても忘れる事の出来ぬのは丁度招魂祭の時でした。私は御屋敷へ帰らして頂詰所へ落付て、それからすぐ会長の御供をして甘露台へお礼に参らうと御本部の門を入りまするとその所に競馬の馬小屋があつて、その前を通りかゝると、御席様には四五名の御供と馬見物に御出で遊ばして御座つて私の姿を見て下されたと見えまして、恐れ多い事ではありませんか、「高松さんではないか、ようお帰りになつた。明日是非遊びにお出よ」と御言葉をお掛け下されたので、私はふつと振り返つて見ますと何時ものニコ/\したお顔で私を見て下さつて居られたので私も一時嬉しさの余りお返し致す言葉も知りませずただ嬉し涙を以てお答した事もありました。又その後何年だつたか覚えませんが大祭に帰らして頂き例によつて一般と共に御前へお礼に出ました時に私は一般信徒の席の中程から少し前の方で御拝致して居りますと、御席様は御礼の済むとすぐその御高席から「おゝ高松さん、お帰りになつたか遊びに御出よ」と実に身に余る有難い御言葉を賜りましたので、御同席の御本部員様初め一同の方々もあつけにお取られなすつたこともありました。兎角容易ならぬ身に余る御寵愛を蒙つたもので、何時も御慰に預る度に多大な結構な下 賜物を頂き別て中には御自分其場で「寸志、飯降」と一封に御書き下されて御贈恵下された事もありますが、私はこれを記念として子々孫々に残して我家重代の宝に致したいと思ふて居ります。尚私は朝夕大神様に礼拝した後で御席様の御神霊を礼拝致しますがその時には何時も何んとなく御姿が目の先に拝せられるやうな気が致しますが、御命日には心だけの御祭をして御後をお忍び申して居ります。又私は有難い事には故管長公にも御慰に預つた者で最近ではあの明治四十五年五月十八日北大教会の移転奉報告祭の夜、水戸黄門記を一 席演じて御機嫌を伺いました。、私は何んと結構な事か、世の中には同商人も数あらうが、かゝる徳のお高い理の結構なお方のお気に入り何度もお慰みの光栄を得ましたのは私一人であらう。で、私は日本一の蝶浮節屋とは私の事であらうと常に独り誇りと致して居ります。                                  
 (大正四年八 月二十日)





(私論.私見)