上田ナライト押し込め事情考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「上田ナライト押し込め事情考」をしておく。

 2018(平成30).4.16日 れんだいこ拝


上田ナライト押し込め事情考
 「おさしづに啓示された理の研究第6部 身上・事情」の「上田ナライト事情 ―天啓継承の問題―」、みちのだい10号(昭和32.4)の宇野たきゑ「上田ナライト抄伝 神一条に生きぬいた女性」、上田ナライト様について(その一)上田ナライト様について(その二) 、上田ナライト様について(その三)上田ナライト様について(その五)その他参照。
 それにしても上田ナライト様の生涯に関する文献が不思議なほど少ない。その中で貴重本として、昭和の初めに出た『奈良糸様のいただかれたるおさしづ解釈』がある。これを参照する。

 生まれは天理市杣之内町の南方園原で、父嘉二郎、母タキの長女。浪華分教会初代会長上田楢太郎氏は長兄猶吉氏の長男、妹ナラトメ様は大阪の寺田家(網島分教会初代)に嫁がれた後、姉ナライト様のお守り役としてつとめられた。末弟猶次郎氏は永尾家へ入婿し、本席様の長女芳枝様と結婚された。   

 十三、四才の頃、神経症のような状態になり極度の潔癖性の症状を呈し、西浦弥平氏のてびきでおぢばへお詣りしたところ、教祖が父に向かって「神の深い思召があるからや。案じないよう」という意味のことを話され、帰ってみるとケロリと治ってしまっていたという。教祖の前世で深い縁のある魂とも伝えられている。幼時から非常に楽天的で快活な性格で男の子のようなところもあったとのこと。

 後年、さまざまな事情の中を一人身暮らしを通され、明治四十年、四十四歳の時、本席様の後を継いでおさづけを渡される立場に直られた。


【上田ナライト履歴考】
 三島村から東南の山の中に、園原という村がある。ナライト様は、その村の中農の豊かな家庭で、父上田嘉治郎、母おたき、の二男三女の次女としてお生れになった。人一倍器用な質で、13才の時には一人前以上の機織(はたお)りをなされた。明治9年陰暦7月13日、納屋で機織りをしていて、急に泣き出されたので、父が尋ねると、「天井の方から石上の岩神さんが、がっそう(総髪(そうはつ)のこと。全体の髪を伸ばし頂で束ねて結った髪形。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけのものを言う。江戸時代、医者、儒者、山伏などが多く結った)のような頭髪をして下りて来はる、こわい」と言うようなことを言い出し、神経病のようになられた。父は、二月堂やひえだの大師等に願をかけたり、お灸をしたり、まじないをしたり、あらゆる手をつくして一心に全快を祈ったが一向良くならなかった。その時、隣の西浦弥平様から、「庄屋敷に結構な神様がござるそうな、どんな病気でも助けて下さる」という話を聞いた。始めは「新しい神様はきらいや」と言ってなかなか聞こうとしなかった父も、娘が今までのように機織りをしようともせず、機につっぷして泣いてばかりいるのでほとほと困りはてて、とうとう14才のナライト様を伴って庄屋敷村へお参りに来た。

 教祖様は、『待った/\、五代前の叔母や、七代前の世に、身をもって命を助けてくれた恩人の魂や。一生極楽遊びをさせて恩返しをする。一身(いちみ)暮しを守ってくれ』と言うお言葉を下さった。その心定めをすると、三日のお願でお助け頂き親子ともども一心に信心されたのである。明治12年陰暦卯の2月23日の夜、教祖様のお言葉に、『奈良糸の身の内、神の方へ貰い受け、その上は、***)として人を助ける、それゆえあとなるは皆引き受ける』と仰せ下さったが、この時ナライトは17才であった。こうした道中があってナライトは教祖様の娘分としておぢばにお引寄せ頂き、教祖様のお傍で「一生一名暮し」(独身で通す)をして神様の御用をさせて頂く身となられたのである。同時に、当人のみならず上田家もおぢばに伏せ込む、とのお言葉を頂かれた。

 ナライトが、教祖様の娘分としておぢばに来られる時には、「この娘は一生お嫁に行かないのやから、これがこの娘の嫁入りや」と言って、両親は丹波市の箱喜で、桐の箪笥(タンス)と鏡台を買って持たされたと云う。おぢばへ引寄せて頂いたナライトは、教祖様の御身の廻りの御用から、針仕事、炊事等何もかも勤めて、まめまめしくお仕えした。鳴物の***許しを頂き、胡弓の御手もつけて頂いた。赤衣様(教祖様のお召物)の針始めのお役もさせて頂いていた。「お守りつくりや、金平糖の御供を包むのを手伝わせて頂いた。おこたにおあたりとおっしゃるので、手を入れさせて頂いているとき、ひょいと教祖様の御手に触ったので、びっくりして引っこめると、その手をさぐってしっかり握って、遠慮せんとあたりや、と引きよせて下さった」と、なつかしそうに当時を述懐なされた。若い時のナライトは、日本髪が好きで特に紫色のてがら(手絡。婦人が日本髪を結ったとき、髷(まげ)の根もとに掛ける装飾用の色染めの布)の似合う、すっきりした美しく賢いお方で、背は高い方であった。古老のお話に、「ナライト様は、男の人とすれちがう時には必ず袖でお顔をかくして通られた」とあるが、何といじらしいお心根であろう。 

 かく深い御思召で教祖様のおそばへ引寄せられたナライトであったが、明治20年旧正月26日に教祖様が現し身をおかくしになった時は年25才であった。一生独り身で通す心定めも、教祖様におすがりしたならこそできたことであったのに、その頼みの教祖様亡き後のナライトの御心はどんなに心細くなられたであろう。案の定、教祖出直し後、ナライトは“一身暮らし”に辛吟されることになった。その過程で、度々にわたって身上願いをしている。その都度、親心の上から尊い理のあるお言葉が下されている。このお指図は、明治20年代の初めから40年の百日指図に至るまで断続して36回以上頂かれている。

 本席は、教祖は御身こそおかくし遊(あそば)されたが御魂はぢばにとどまり、御生前通りの守護をすると宣明し、教内がこれに安堵した。これを踏まえて「ナライトもらいうけの理」について尊いお指図を下されている。教祖ご存命中から“一身暮らし”として貰い受けられた理がいかに重い理であったかということがお指図を通して窺える。親心の上から、園原村の実家へ月の内三日位は帰ってもよい、とまでおっしゃっている。両親は、教祖からナライトが頂いておられるお言葉(一生独身で暮す)を守り通させる決心には変わりはなかったが、ナライト27歳の時、さすが親の情として偲びきれず、本席にお指図を願っておられる。年頃過ぎ行く娘を抱えた両親が、心いずんで苦しむ娘の様子にどれ程心を痛めたことであろうか。

 1957(昭和32).1.12日、上田ナライトの二十年祭が、真柱様祭主のもとに厳かに執り行われた。当日は、本部神殿に於て先ず十二下りの手踊りがあり、後祖霊殿にて年祭が勤められた。本部在籍者、直轄教会長、管内学校職員生徒その他多数の参拝人で神殿はうずめられ、心から故人の徳を偲んだ。

 みちのだい10号(昭和32.4)の宇野たきゑ「上田ナライト抄伝 神一条に生きぬいた女性」は次のように結んでいる。
 「ナライト様は、教祖様の娘分として貰いうけられ、お言葉によって一生独身で通し、本席様の後を受けてお授けの理を渡す御用を勤められた方である。神一条の道に生きぬかれた尊い御一生を、お指図を通してお偲びする事は、私達みちの婦人として、又おたすけ人として意義ある事と信じ、ここに二十年祭を記念して抄伝にまとめた次第である」。
 逸話。

 大変子供を可愛がられた。幼稚園(今の保育所)の近くがナライト様のお宅(現和楽館)だったので、朝夕の行き帰りに、よく泣き声が聞えて来た。「可愛相に。誰やら泣いてゝやで、早うこのお菓子あげてや、よし/\」と独り言を言いつつ、お守の方々に連れて来るようにやかましくおっしゃった。又、家族の者が弟妹を叱ったりしていると、「小さい子を叱らんときや、先祖様が帰って来てはるのやから、大事にせんと申訳ない」とたしなめられるのだった。お若い時から大変働き者でいられたので、若い者が遊んでいるのを嫌われた。或る時、甥の娘達がお傍で仕えつつ、編物をしているのを見て、遊んでいると思われてか、「若い者が、そんなことをしてゝは勿体ない、機織りなとしいや」と仰言ったので、「はい、これは昔の機織りと同じで、着る物を作っているのです」と申上げたら、「そうか」とおっしゃって、それからは、編物をしていると、だん/\大きくなるのを見て喜ばれた。又、或る年、ナライト様のお宅の桜が見事に咲いて、塀の外を通る人々を慰めていた頃親類の先生が通りすがりに、丁度門口に立っておられたナライト様に、「桜の花が綺麗に咲きましたなあ」と声をかけられたら、「根を見よ」と、一言おっしゃったきりだったが、その方は、この一言が終生忘れられぬ教訓だった、と感銘しておられた。
 「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」の「身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…」。
 大正時代に入ると、身心の異常の度合いが激しくなった。これは大正3年の大正普請と呼ばれる膨大な費用をともなった天理教施設の竣工、第一次世界大戦の勃発や真柱中山真之亮の出直(病死)などが関係していたと思われる。同5年には教祖三十年祭が執行され、生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っていたナライトであったが、大正6年初夏に胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復。しかし翌年の大正7年3月23日にまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまったのである。ナライトは本席のように言葉による神示がほとんどなかった。そのため、その身体上に現れた障りを含む身振りや動作で神意を悟らなければならないのであるが、当時の天理教本部の中にはそれを解読できるような者はいなかった。

 このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。が、それ以上に茨木基敬の問題(茨木事件)が絡んでいたことは間違いない。ナライトの病気が革ったのは、茨木基敬が本部を去った翌日からなのである。茨木基敬は天理教の本部員で、天啓を取り次いでいたが、本部は彼を一方的に罷免し、放逐したのであった。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。そこで本部員会議を招集し、同年7月11日から教祖の孫に当たる中山たまヘ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの代理として「おさづけ」を渡すことが決定されたのである。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなくなった。

 同時にナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった、本部におけるナライトの公的な役割は終わったのである。つまり、中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトとつづいてきた天理教の霊統は、大正7年の段階で途切れてしまったわけである。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。

 大正13年に教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。

 昭和2年頃には天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあったようである。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。

 好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。

 時として啓示のような霊的な閃きをかいま見せてもいる。たとえば、ナライトの家の桜が見事に開花したときのこと。通りかかった親類が、門の近くにいたナライトに向かって「きれいに咲きましたなあ」と挨拶がてらに声を掛けると、「根を見よ」とだけいって、家に入ってしまったという。一見、華やかに見える現象には、すべて目に見えない根があり、その不可視の根の部分のほうが実は肝心要なのだというたとえである。それにしても何とも意味深い言葉ではないか。

【上田ナライト履歴考】
 「上田ナライト様について(その二十一)」参照。  
 ナライト様は、身上の為、14才から引寄せられて、45才まで、一身ぐらしを通られた。教祖御存命の時に御運びもらいうけになったこの一つの理を、どこどこまで貫き通された。これから十年間、ナライト様は、おさづけの理を渡す尊い御用を勤めきられた。始めの間一年余は、元の借家から御本部の御用場へお運びに通われたが、後は新しいお住いからお通いになった。この建物について、本席が早くから大変お急きこみになられていた。本席お出直しの二ヶ月程前から建築が始まった。本席様は御身上のはかばかしくない中を、少しでも御気分の良い時には、折りたたみ式の椅子に腰かけつつ、普請場の見廻りをなさって、色々と指図されていたが、完成を御覧にならずお出直しになった。

 この建物の場所は、布留街道に面した場所で、今(※昭和32.4現在)は本部の境内の東の手洗場のあたりになる。後に移転して現在和楽館となっている。お運びのある日は先生方がお迎いに来られてここから、真柱様のお宅に続くお運び場所へお通いになったが、後にこの住居の続きに、お運び場所を御本部からお建てになって、そこで御用をなさった。(現在は生琉里分教会の神殿になっている)

 お運びにお出ましの日は、お風呂へ入られ、すべて洗い清めた下着に着かえ、紋付の着物(夏は絽、冬はななこ、後に紬※1)に黒の丸帯(冬はしゆちん、夏は茶色の絽※1)をしめられた。髪は、総前髪の小さい蝶々に結っておられた(甥楢太郎の妻みちが何時も結っていた)が、後年に茶せんになさった。
 **はぶさいくなものや、だん/\十分になる。

 御本部から先生方がお迎いに来られても、お住居の門を出る時でさえ、先生方に先を譲ってなかなか出ようとなされず、暫くは、お先へお先へとの問答があったが、後には、さっさと先へお出になった、と聞いているが、この一事で万事の様子が見られる様である。

 このようにして、御母堂様が御用をお勤め下さるようになる迄の尊いつなぎの十年を無事果されたのであった。この間におさづけを頂かれた人の数はどれ程であったろう。教祖二十年祭も盛大に勤められ、三十年祭への歩みも活発に発足され、本教の教勢はいやが上にも延び拡がろうとする矢先、それにともなう多事多難な時、本席様のお出直しはさぞかし教信徒の上にも大きいショックをあたえたことであろう。その後を受けて立たれたナライト様の勤めの重大さは、言わずも知れたことであるが、この十年間におさづけを頂かれた方々が、今日のお道の元老として、中堅として活躍しておられる様子を見るにつけても、教祖様が、一人の女性の一生をかけてまでなし遂げられたお仕事の大きさをしみじみ思うのである。(つづく)

 ※1「絽(ろ)」‥織り目の透いた薄い絹織物。夏着の和服に用いる。
  「ななこ(魚子)」‥爐覆覆蛙キ瓩領。絹織物の一種。細かな方形の織り目が魚の卵を並べたように粒立って見える。魚(な)の子の意という。
  「紬(つむぎ)」‥つむぎ糸で織った絹布。
  「しゅちん(繻珍・朱珍)」‥繻子(しゅず)地に紋様を浮き織りした布地。中国語、またはポルトガル語からという。

【上田ナライト履歴考】
 「上田ナライト様について(その二十二) 」。
 ナライト様の御一生は、到底拙い筆で表わし得るものではない。御用の済んだ後のナライト様は、中山家の家内人として、手厚い待遇を受け、全教の方々の理を立てきられる中に、喜んで余生を送られた。御供の紙を折ったり、静かに針仕事や、畑に野菜を作ったり、時には手習いや読書に親しまれたり、三曲をひいておられる時もあった。
 上田ナライト様について(その二十三)
 人の心の中を見すかされることはおそろしいばかりで、心ににごりを持ちつつ調理した物は一式召上らなかったし、お守役の人が何か悩みを持ちつつお傍にいると、一言でぴしりとおさとしになるのでびっくりすることが度々あった。悪い病気が流行したり、騒しい事件がおこったりする前には、きまって御機嫌が悪く、お傍の人達が何かあるなあ、と思っていると必ず変ったことがあったと言う。又こんなこともあった。誰かが死ぬ前になるときまって、御自身の紙の茶せんの根元へ白い紙を巻かれるのである。お傍の人達は不気味で仕方ないので、後へ廻ってそっと取っておくのだったが、何時の間にか付けておられた。甥の娘の妊娠三ヶ月の頃、お腹の子供は女か男かのお伺いをした時、「女の子や」とおっしゃったが、もうお年も寄っておられるし、と不安に思って、又一ヶ月程して伺ったら、「お前は阿呆か、女と言うたら女や」と叱られたが、生れたのはやはり女の子であった。こうしたことは数えきれる程あったが、神一条に生きぬいた方であればこそ、と感じ入る次第である。
  お 出 直 し

 昭和11年の暮に、家人に、「わし、もういんで来るわな(※1)」。「どこへですか?」。「おばあ様の処へ、又じき帰って来るで」と言われた。年明けて一月の始めから、御気分勝(すぐ)れず、刻々重体となられた。11日の夜は横にならず、代り番に皆で後から抱いて夜を明かした。12日の明け方になって、右手で髪の毛をとかす手付をなされた。「お櫛ですか」と聞くとうなずかれた。櫛と鏡を持って来ると、ふるえる手付で髪を綺麗におとかしになった。次に、字を書く手付をなさった。半紙と筆と硯を持って来ると、半紙に、小さい松の枝と竹と、梅の花三輪を美しく書かれた。そして、その横へ、***納めまいらせ候、なら糸。と書き終るなり、ぐったりと後へもたれかかって来られて、間もなく静かに出直しされた。昭和12年1月12日午前2時25分、御年75才で、尊い御生涯を終えられたのであった。(委員)

 昭和32年4月発行「みちのだい 十号(神一条に生きぬいた女性 宇野たきゑ)」18~27ページより

 明治二十年正月、教祖様が御息を引取り遊さした直後、本席様のお口を通して、
 「‥‥ようききわけ、これまでにいふた事、実の箱へ入れておいたが、神が扉開いて出たから、子供かはいゆゑ、親の命を二十五年先の命をちぢめて、今から助けするのやで、しっかりみてゐよ‥‥さあこれまで子供にやりたいものもあった、なれどもようやらなんだ、又々これから先、段々に理がわたさう‥‥」。

 末代の宝物であるおさづけの理を可愛い子供に授ける為に、尊い親の御命を二十五年ちぢめてまでも、おせきこみ下された教祖様の御思召しが伝えられた。教内がこれを諒として、教祖の御教えの道がこうしてここに切れることなく続くことになった。


 明治二十年四月二十三日午後四時頃。神様よりしっかり治まりたと承り、
 この屋敷、四方正面、鏡屋敷である。来たいと思ても、来られん屋敷。来た者に往ねとは言わん、来ん者に来いとは言わん。この度は、洗い仕立てた上やで。ようこゝ聞かねばならん。さあ一寸言うておくで。年を切るような事を決めるやないで。一月に三日又戻り、三日又戻り、又九日。これ聞いて、真と思て居れば、真と成るで。
 (この御指図は奈良糸の二十五才の事と上田嘉次郎記しおきたり)

 明治二十二年十一月三十日(旧十一月八日)午前九時半、上田奈良糸様身上願(是れ迄一みくらし(独身生活)と言ふ事をお聞かせ下されしが、やはり一みぐらしで越すものでありませうや、夫を持って越すものでありませうや如何の願い)(上田ナライト様について(その四)
 ‥‥ぜん/\(前々)話し伝え、一身一人暮らしと云ふ、いついつまでも十分、いかなる道も通した、一つの道からどうならうと、日々一つの思案、前々理を伝へたる処、まあ一身暮らしで神の守(もり)と聞いたが、今の一時でどういふ理であろうと思ふやろう、じつ/\思案すれば、わからんやあろまい、理にかはりた理はあろまい、一身暮らしと言ふ理を諭してある、前々より話してあるを、事情がかはりたなあと思う心をださんやう。一身暮らしならば、一身暮らしの理は与えよう。一身一人の与へはいついつどうでもかうでも与へる。なれども心の理をあらためて、かうと思ふなら、又それだけの与へは渡そう。これから先が長い。一身ぐらしのあたへはどういふ事やろとおもふやらう。かげはみえん、姿は見えんと思うやろ。なれども一身ぐらしの理は立ててもらひたい/\。さあさぁ親に授け渡すで/\、さあさぁ受け取れ/\、授け渡そう。さあさぁ授け/\、かんろうだいの授けを渡そう、心おきなう受け取れ、かんろうだいの授け渡そう。

 桝井伊三郎より甘露台とはどういふ御手にやとお尋ねすれば
 さあさぁひながたどほり/\/\。

 (22.5.22)
 「扉を開いての働き、一代ではあろうまい。後々続いて又代という。後々代、それなくばなろうまい」。

 (22.11.30)明治二十二年十一月三十日(陰暦十一月八日)午前九時半、上田ナライト身上願い(これまで一身暮らし(独身生活)という事をお聞かし下れしが、やはり一身暮らしで越すものでありましようや、夫を持って越すものでありましようや、如何の願い)
 「さあさぁ実際/\、元より一つの話し、元々の話しというは、よう聞き取れ。前々話伝え、一身一人の暮らしという。いついつまでも十分、いかなる道も通した。一つの道からどう成ろうと、日々一つの思案。前々理を伝えたる処、まあ一身暮らしで神の守りと聞いたが、今の一時でどういう理であろうと思うやろう。実々思案すれば、分からんやあろまい。理に変わりた理はあろまい。一身暮らしという理を諭してある。前々より話してあるを、事情が変わりたなあと思う心を出さんよう」。

 桝井伊三郎より、かんろうだいとはどういう御手にやと御尋ねすれば、
 「さあさぁ雛形通り/\/\」。(575)

 (23.3.6)明治二十三年三月六日(陰暦正月十六日)午前九時、上田ナライト心いずむにつき、暫く本人の言う通りにして置いて宜しきや、又十分話を聞かしたもので御座りますや伺い。
 「さあさぁ日々の処いずむ。一つの心というは、心の理でいずむ。どういう理でいずむと思うやろう。これまで話を聞いて、幾年何年の理も聞いてある。楽しみやろう。前々生涯の理も諭しある。そば/\の心、はた/\の理、神一条の道は心に分かり有って分かり無い。内々の事情という。今暫くの処じいとさしておくがよい。もう今の間に勇んで出て来る日がある。この理をよう聞き分けて置け」(627)

 (24.4.20)明治二十四年四月二十日、上田ナライト身上事情願い。
 「さあさぁ尋ねる/\/\。尋ねる事は一つもあらせん。尋ねるまでのもの。この道いつ頃からの道、思やん。神はどうせにゃならん、こうせにゃならんとは言わん。理を聞いて成し来たる道。何でいずんで居る。何が間違う。人々心、面々の心、何程やろうと思ても嫌と言えばどうもならん。日々やろうまいと言うても、尽す理によって、与える一つ理が変わる。どうでも忘れられん。これ一つからどうでも退かん。誰がどうする、あれがどうする、何程尽してもどうもならん。多くの中誰々と治め難くい。ようこそという理は治まる。何程どうしてやりたいと思えど間違う。思い詰めたる理、代々一代経ち来たる危うき一つ、それより洗い替えよく分け。この道という、これ変わりた道とは言えまい。一つ/\理を諭して、理を治めて、いついつまで艱難の道通れと言うやない。それぞれ深き中、因縁の理を寄せて働き。これよう聞き取りて、諭してくれねばならん」(1028)。

 当分園原村の実家へ帰っておられた。次のようなお指図があった。

 明治二十五年二月十四日(旧正月十六日)夜、永尾よしゑ身上しきりにせまるにつき御本席赤衣をおめし下されてのお話し。
 「‥‥一つ/\の理もあらひ、たいてい身もをさまり、今一時又事情、心得んといふすみやかしらそ、もうさとりはいらん、取入りて取持ってくれるやう、長らえて月がかはればそらよいか、段々いかなる事と思う。早く連れてもどらにやならうまい、たてあい一つの不思議、何も案じる事はいらん、早く/\/\連れかいれ/\/\」。

 押して桝井伊三郎より早くつれかへれと仰せくだされますはどなたの事でござります哉。
 「さあさぁ奈良糸/\、奈良糸やで、さあ早く/\つれかへりたら、をひ/\のはなしするで」。

 押して、是非今晩はこばねばなりませんか、又明朝迄御猶予下されます哉。
 「さあさぁあすにちはなんでもけっこう、結講の利子を/\連れかいらにやならん、すぐと/\さあさぁはよう道を運べ/\」。

 その夜十二時二十分、永尾芳枝身上まだすみやかにせずに付願の処へ、桝井伊三郎、高井猶吉園原へ出越し、奈良糸様同道で帰り来りし故、その事情も併せて願い。
 「‥‥もう安心、さあ身の処事情、身のところ、さあさぁまあ一寸にはかうせいといへば案じるやろ、さあさぁ安心/\事情、‥」。

 (25.2.18)明治二十五年二月十八日夜、永尾よしゑ前おさしづより中山会長出席の上御願い。
 「さあさぁさぁさぁさぁさぁさぁ、段々/\聞き取れよ/\。さあさぁ事情/\/\/\、さあさぁいかなる事情、さあさぁ身の内/\という事情、誰にあるとも分からん/\。誰にあるとも分かろうまい。身上/\/\に事情も段々あるであるで。さあさぁ事情から一つ、さあさぁ始め掛ける/\。さあさぁさぁもう/\どんな事もこんな事も一時一つ指図をするで。さあさぁ一時一つの指図/\、指図も段々の指図、返やし/\くどう/\指図、これまで/\一寸よく聞き分け。どういう事指図するやら知れん。待ち兼ねた指図やで/\。待ち兼ねた事情から始め掛ける。いかなるも分かる、第一一つ事情身の内軽きと思えば軽き、指図から基づかにゃなろうまい。一つの指図は身上から段々指図。そんな事ほのかに聞いたるだけの話や。どんな運び方も尽し方もあると思うやろ。一つの理は聞き分けてくれにゃならん。どういう事治めるなら、存命一つほのかに聞いたる。前々の処よりくどう/\聞いて、今一時事情話するというは、俺はそんな事は聞かん、知らんと言う。まあ一寸身上仮宅という、一つ指図。休息所という、これ存命中指図。どんな事情も話し一条で世界仮家建ち、何処/\一時取り払い、あれは取れん、あれも放っておく事出けん、という事情より諭し掛けるから、休息所という。存命の事情から心を静めて聞け。一時/\休息所から、一つ守りという事情から定めて掛かる。あれも残しこれも残し、取りたら勝手がよいと尋ねたら、存命より指図の理によりて残したる休息所、よく聞き分け。指図ばかりではとんと分かり難ないやろう。よう聞き分け。存命中には一人暮らしと言うて貰い受けたる身がある。さあさぁよく聞き分け。なくばなく、知らにゃ知らんの事情ではどうもならん。ちゃんと一つの理が治まれば、万事治まる。そんな事と思うようでは分からん。さあ尋ね掛け」 。

 押して、上田ナライトの事情にて御座いますや願い。
 「さあさぁ話し掛けたら分かるやろ。休息所と言うて、これまで段々何心でなくよく聞き取れ。存命中楽しみ治まりたる休息所、三名/\の守りと言うて暮らしたる計り難ない。言葉一つの理というは、生涯の理に治めてくれにゃなろうまい。さあさぁ三名/\という。三名の守りが要ると言い言い/\、成らん/\の道のため言い遺し、話し掛けの処残しおき、第一の理に一つ治めたる処より聞き分け。初めより作りた十二下りという。十二下りというは元々に言うて止め一つ残したる。これ道/\聞き分けるなら聞き分けられん事あろうまい。三名と言うたる。一代一人暮らしと言うたは誰から言うたか/\。存命中言葉の理生涯これ治めてくれるなら一つ事情。さあさぁ夜々という、昼は昼とて夜という、変な事と皆な思うやろ。聞くよ聞くよ治めるなら、どんな事でも治めるで。どうも一時言うたる事情、よう/\一寸始まり掛けたる。これまで楽しんだる事情果たしてくれにゃならん。難しい事を言うやない。そこで守りと言えば、又一人付き添いと思うやろう。守りに守りは要らん。目に見えぬ存命中指図一つの理であるわいヽヽヽヽ」。

 押して、二名三名の処伺

 「さあさぁ尋ねる/\、三名と言うた。存命中にさえ三名の事情治め難くい。第一一人暮らしと言うたる。守りというは一人暮らし、夫婦連れではどうもならん。一人の事情聞き分け治めたる。そこで暫くの処万事の処、これから改めて運ぶなら、後後日々という」。

 押して、会長へ御受け申し上げなられ、

 「さあさぁ理が治まれば又一つ話し掛ける。一寸守りという。存命中話し掛ける。年限の事情刻限の事情から話し掛ける。夜昼離れずと言えば、一日の日柄生涯と言えば運び難ない。一つは代わり/\、それぞれ心得の事情を以て代わりという。守りと言うてどうして居る。休息所日々綺麗にして、日々の給仕、これどうでも存命中の心で行かにゃならん。古く/\結ぼれ、互い/\の事情の理が分かり来たによって、諭すという」。

 押して、給仕は日々三度ずつ致しますもので御座りますや。

 「さあさぁ心々、心やで。心を受け取るのやで。一度の処を二度三度運べばそれだけ理が日々増すという。これ日々楽しんでくれにゃならん」。

 暫くして

 「さあさぁもう/\話が詰んで/\どうもならなんだ。追々話する程に。道が付けば一度の席に聞き分けねば分かり難ない。存命中同然の道を運ぶなら、世界映す又々映す。さあさぁ勇もう/\/\/\。さあさぁ一人の事情も定まり、宵の間は灯りの一つの処は二つも点け、心ある者話もして暮らして貰いたい。一日の日が了えばそれ切り、風呂場の処もすっきり洗い、綺麗にして焚いて居る心、皆それぞれ一つの心に頼みおこう」(1350)。

 (25.6.3)明治二十五年六月三日、五月三十一日のおさしづに「二つ三つ出すによって」とあるより一同相談の上願い。第一、本席他より招待の節一同相談の上、中山会長へ申し上げ順序正しくする事。
 「さあさぁ一度二度、事情段々諭しおいたる一つの事情、よう聞き分けて、それそれ談示ともいう。遠く所へ出越す処、心も治まれば、又一つ後々の理を諭さにゃならん。どういふ理を諭すなら、これよう聞き分け。何年以来という、年は何年経ったという。日々ともいうであろ。多くの中にはいろ/\ある。今日という今日にもあろ。明日にもあろ。よう聞いて置かんならん。一日の事情という、又日々という。日々の中にいろ/\の心という。一つは世界という中にいろ/\。一日と言えば、朝結構という中に、明日という。寄り来る中にいろ/\段々ある。どれだけの中と言えば治めにゃならん。いついつまで危なきでは、先々案じるやろ。今日は曇り無き、明日は分かろうまい。十分運んで、十分と言えば楽しみ。身に不足あれば案ぜにゃなろうまい。万事一つの心が第一。綺麗の中からむさくろしい理は聞かさんよう、見せんよう。理は鏡屋敷やで。日々諭しおいたる。どうも曇りありては晴れやかとは言わん。しっかり聞き取りてくれ。日々の席を休めばどうであろ。勤まった日は夕景安楽という。明日日どうも日々の処聞き分け。しいかりと皆聞き分けて、皆な聞き分け。難しい道のように思う。楽しみの道やで。一度許しおこうと言えば、怖わき危なきないという。これよく聞き取らにゃならん」 。

 第二、本席に対し日々の扱いに付何か不都合ありますや伺い。

 「さあさぁ尋ね掛けるであろ。理も分かるであろう。尋ね掛けたら理を諭そう。鮮やか理を諭そう。一日の日は怖わき恐ろし諭したる。どんな事情世界という、諭したる。よう聞き分け。幾人居る家内、何人住む。日々楽しみ、心の楽しみ、日々御礼一つの理を聞き分け。家内子供は、付き添いは当り前、間に足る足らんは目に見て分かるやろ。これ聞き分け」。

 第三、上田ナライト教祖の守り事情の願い。

 「さあさぁ七度事情の諭をしよう/\。何度運んで何度事情、七度事情の理に諭そう。今の処ではとんと分かろまい。どういうものと思う。十分内々、何度の尋ね暫く止め置くと言うたる。七度/\の諭、どういうものであの者何程の者であろ。なれど存命一つ定め置いたる事情ある。それより七度事情、鮮やか諭し、いんねん事情。人の事は分からせん。自分の事は尚更分からん。これ一つ諭すによって」。

 第四、村田長平大裏に入れてあるのが宜しくないので、本席身上障るのでありますや。

 「さあさぁ心を尋ねる/\、皆心に掛かる。日々掛かる事情あろう。何処へ行たとて同じ事。暫くの処、あのまゝじっと諭して置くがよい。何っ処へ行たとていかせんで。どういう事言う、あゝいう事言う。そんな事ぐらいやないで。まあ暫くそのまま、じっとさしておくがよい」(1456)。

 (25.7.16)明治二十五年七月十六日、上田ナライト身上の処願い。
 「さあさぁ尋ねる処/\、幾重も尋ねる/\、幾重の事も尋ねる。さあ日々の処にて難しい事運び、思い前より伝えてある。諭すれど心間違いどうもならん。これだけ運ぶが尽すが、日限通りどうもならん。何が攻める来ると心で思う通りになる。一日の日勤めさしたる心になれば、何も言う事がない。面々心で拵えば何ぼ言うて聞かした処がどうもならん。前々諭したる。一時思い立ちたる処、日々どうであろう、よう聞き分け。何が来る何出る。日々言う事思う事、心で思えば鬼も蛇もいつという、長くという。心で思うだけの理であろう。何かほうと打ち忘れ、いついつという理が無い。心治まろまい。よう聞き分け。頑是無き理であろうまい。頑是無き者ではあろうまい。一時どうもならん。面々心で思う理口で出る。何程言うて聞かしても、これまで重々諭し何度諭したる。人間と/\の理も運んであろう。皆めん/\恨み、どれだけのもの遣ろと言うても、逃げて了えばどうもならん。これだけ一つ諭しおこう。楽しみなくばどうもならん」 。
 「どうなろか知らん/\。面々拵えていずんでならん。楽しみなくばいずむよりなき。よう/\道始まり、先の道を楽しんで、やれ/\身上不足なき者、外へ誰どう、事情に事情拵えるのや。よう聞き、十分伝えてくれるよう」(1500)。

 (27.7.28)明治二十七年七月二十八日、上田ナライト気の間違いの如くなりしにつき願い。( こうして、おぢばへ連れ帰って来られたがナライト様のお心落着かずその都度父上の身上にてお諭しがあったり、様々の道中がある。次のお伺いでは、もともと十四才の時お引寄せ頂かれた時の身上の如くになり大いに驚いておられる様子が眼に見えるようである)
 「さあさぁまあまぁ一寸には治まらん。幾重これまで一寸見える。後へ代わりであろう、そうであろう。一寸ではどういう事やろう。皆んなこれまでの古い理では、おかしい事言い、憑きものであろうかと言うた事何ぼあったや知れん。たゞ/\ようようの治まりは一つの事情と言う。席と定めた事情は、心に映してある。他に一つの心と言う、一人限り一人の事情を以て暫く長らく間、何ぼうの事とも分からん。親子の中の理を以て一人暮らし、一時の事情に治まらん。代わりの者と言うたる処行こうまいが。たゞ一度の話にて事情速やか。それさえ帰りて、気の間違いでない程に。一寸知れん。たゞ、又入り込まん。何処へ入り込むやら知れんと言うたる。三才子供の事情、言葉の分かり掛けも同じ事。心休ますよう。一日二日じっと見て居るがよい」。
 「‥‥みんな是迄のふるい理ではおかしい事いゝつきものであらうかといふたこと、なんぼあったやしれん、たゞ/\やう/\のをさまりは一つの事情といふ、席とさだめた事情は心にうつしてある、‥‥親子の中の理をもって一人ぐらし、一時の事情にをさまらんかはりのものといふたる処いこうまいが、たゞ一度のはなしにて事情すみやか、それさへかへりてきのまちがひでないほどに、一寸しれん、たゞ又入こまんどこへ入込むやらしれんといふたる、三歳こどもの事情ことばのわかりかけもおなじ事、心やすますやう、一日二日ぢっとみてゐるがよい」。

 同時、押して園原へ連れて帰らして頂く事願い。
 「さあさぁ一寸なあ、一日二日又々戻りて、さて、今夜は迎いに来たという理を、運んでやってくれるがよい」(2121)

 明治二十七年十一月三十日、父上田嘉次郎は、ナライト様のことを心にかけつつ六十五歳で出直した。これで上田家の大黒柱が失われたことになる。長男でナライト様の兄になる上田楢吉はすでに亡く、忘れ形見の甥楢太郎は二才、女ばかりの寂しい家庭になった。教祖様には、常にお心にかけておられるナライト様のことにつき、いよいよはっきりと、何が為の一人ぐらしか、ナライト様に何のおもわくをおつけなされているかについて、刻々と身上を通してお説きになっているが。

 (28.5.22)(明治二十八年五月二十二日朝、第二、本部会計一手の事情。
 「さあさぁそれは/\よく/\の理を集めてくれた。それは十分待って居たわい/\。遅れてあるから、こういう事になったのやわい/\。それはよう集めてくれた/\。さあさぁ許そう/\」 。

 第三、本席の宅を政甚の名前に切り換える願い。
 「さあさぁ尋ねる処/\、一屋敷/\幾重の棟数、一屋敷/\幾重の棟数々々、どうしたさかいに誰の物と言うやない。なれど、世上世界の理もある。又人間には一名一人の理のあるもの。それから聞き分け。一時尋ねる処、どうせいこうせいとは言わん。どちらへした処が同じ事、中にそれぞれ合う合わんという理はどんならん。こうというは理である。席という万事の処聞かせ置いて、事情一寸暫くの処、扉を開いての働き、一代ではあろうまい。後々続いて又代という。後々代、それ無くばなろうまい。一時一つどうという、堅き理を諭するにはこうならこう。今日の日は子供に一つの事情、一寸一日二日三日が早い。治まったら早くするがよい」。

 続いて御諭
 「もうこれ程無うの旬の日が来たるから、早く見分け聞き分け。こうと言えば理を運んでくれ/\。一年の間どんな苦労を見せたやら分からせん」。

 第四、梶本、まさゑの事情願い。

 「さあさぁ指図/\、前々の掛かり一つ縁談皆諭したる。誰々との縁はない。あちら伝えこちら伝え、やれ嬉しいと理が合えば、十分の縁と知らしてある/\。それが生涯の縁と言う。一時尋ねる処、将来の理に治まらねば治まろうまい。このやしき十分と思うた中に、どういうものと思うやろ。無理という理は治まらんと言う。一つ話の理になるやろ。神様のさしづならばと言うても、後々事情拵えば止めるに止められん。こういう事になれば、ほどいて了うてやれ。あゝいう風になりても後後は親切やい、成程という。夫婦の中切れたという。夫婦の縁は無くとも互い/\兄弟という縁は結んでくれ。鏡やしき、これまで夫婦の中罪の絶えも無き日を送りた。なれど、十分なら運ぶがよかろう、と諭したる。なれど、よかろうと思うた理が悪くなる。不承々々の理は治まらん。すっきりするがよい/\。ぢばならこそなあという。親切やい、互い/\これが第一である。こうと言えばそうするがよかろう」。

 第五、上田ナライトの事情

 「さあさぁこれも/\埋れたる/\。埋れたるも埋れさしたのや。こういう道であると、二度三度も運んでくれるがよいで」。

 第六、山中忠七居宅の事情

 「さあさぁ尋ねる処/\、もうこれ先々の日は分かりてある。知れてある。そこで綺麗な所気楽な所拵えてやってくれ。前々の掛かり、掛かりの道という。これ喰べたいと言えば喰べさし、飲みたいと言えば飲まし、寝る事出来りゃよい。日々の日、大抵気楽にしてやってくれるがよい。(2279)」。

 (28.10.11)明治二十八年十月十一日、同時、上田ナライトの事情。
 「さあさぁ尋ねる処/\、尋ねてくれねば分からせん。一名の女/\、何程の理何程の者、どれたけの理と思う。何遍の指図繰り返し/\諭す処、これまでの事情とんと分かり難ない。よう聞き分け。育てば育つ。前々の理に諭してある。育て方皆んな頼む/\。女一人貰う理は他にないで。他に貰い替えはならんわい/\。年限経てばついつい分かりてある。何でも彼でも伝わる理を拵えておかねばならん。神の指図という。皆同じ事を諭すのや。なれど、一つの理に治まる処を聞き分け。これだけ諭せば分かる。又後々続く理を拵えておかねばならん。続かんような事ではこの道遅らすか、曇らすかの道より見えやせんで/\。人という、どれだけの者と言うやなし、皆な同じ人間である。なれど、事情の理から見れば、疑う理はあろうまい。よう聞き分け。入り込んで話をすれば、人が替わりてあるだけやで。理は同じ一つの理である。これよう聞き分けてくれ」 。
 上田ナライト様について(その七)「あとあと つゞく理」)
 本席様の後につづく者をお育てになっている深い御心であることがよく解ると同時に、周囲の方々に育て方を特におたのみになっているあたり、その頃の周囲の方々がナライト様をどのように見ていたかが伺われ、その間の教祖様のお心使いの察しられるおさしづである。ナライト様がどうでも本席様の後をつぐお方であるとすれば、早くその事情運びをしなければならない、と言うので次のお伺いがされてある。

 同時、上田ナライト内々の治め方願い。
 「さあさぁまあまぁ軽く言うてまあ当分という。治め掛けたら治まる。まあまぁ遊びがてらというような事情と治めてくれ。十分治まりたら、往のうと言うても往ならせん。これだけ諭しおこう」。

 (28.11.6)明治二十八年十一月六日、増野正兵衞前お指図に基づき願い。
 「さあさぁ尋ね掛ける処/\、前々以て皆な知らしたる。どうなるこうなる知らしたる。皆な心得、心得まで皆な諭したる。万事の事情諭し置く。悠るりと書き取りて思やんしてくれ。この道元々ありて変わらん。どういう理、名義見えん。諭し掛ける理見えてある。見えてあるは中、内々中一つ芯ありて又ありて三つ治めたる。三つ理どういう事と思う。分からん先から諭したる。疑う事出けん。おら聞いて来たと言えまい。何でも彼でも治めくれ。どういう理、いついつ続く理諭す。余儀なく指図皆な一つの理に留まる。留まれば日々の事情、日々の事情は年々事情になる。よう聞き分け。日々尽して居るは受け取る。その中一つ理ありて育てば育つ、育たねば育たん。この理いついつにも出てある/\。大望出掛ける。禍は下から。その理聞き分け。出掛けたら堅い処でも砕ける。よう聞き分け。嘘やない。どうしたらよかろう。今日の日疑う理あろうまい。又々の理添えるからいろんな事添う。皆な澄み切りた理は集める。濁りた理は寄れん。ひながたあるで/\。嘘やない言うたる道出てある。どういう事成るも神の働き、神の働き諭す。台一つ/\書き取りたる。読み返やすも同じ事。間違た事言わん。それぞれ談じようて、真の心に善いひながた出さにゃどむならん。ひながた聞き分け。面々脱いでも構わん。出そと思てならん。刻限で諭したい。なれど、刻限諭されんから、あちらへ障り付く。段々尋ねば一寸諭す。又席諭す理、ひながた通り成りてはあろうまい。育てば育つ、この理難しい。禍は下から。この理聞き分け見分けてくれ。いついつも出てある。詳しく出してある。旬待てども外れる。旬外れるから取り返やしならんようになる。よく定めてあの者/\どういうものと思わず、よう聞き分けて皆な楽しみ。どうしたいどうしたらというは、鏡屋敷とは言わん。長い指図、指図の理一段区い切りて又一段、悟りないほんに取り違うて居たかと言う。諭す理は遠い近い言わん。理のないものないもの、こら言わいでも分かる。小さいとこから説き掛ける。よう聞き分け。年明けば十年祭ある。どういう大き事と大半分かる。これも諭す。その日/\皆なそれぞれ運んで居る。運んで居る中、それぞれあたゑ年分皆なあたゑ、要らんといえどあたゑが楽しみ。同じ働く者、働く者は見てやらにゃならん。これとは言えん。男女言わん。男ばかりやない、女にもある。どういう重い役持たすや分からん。女でも世上一つ集まる。親持って中途から滑り落ちて居る。今日でどうむならん。この理聞き分け。遠い所やない。皆分かる。軽い者軽い理運び、重い者重い理運び、刻限と思えどどうむならん。古き/\古きばかりではならん。よう聞き分け。皆な諭しようて、ほんにと通らにゃならん、と諭しおこう。又席変わりてと諭しおこう」。

 三つの理、押して上田ナライトに段々運びつけて帰りて貰いますようにと願い。
 「さあさぁ尋ねる処、一人の処、存命中しいかり貰い受けたる。なれど、これどうむならん。治まり心にほうと思うた理、ほんに一つ捌けんから、そこで一度戻り、又間あけて又一つ呼び、運び方は事情として、それは心日々治まり、これやれ/\見えてある。後々聞き分けてくれ。秋という理、これで皆心に浮かむ。育てば育つ、これ台として聞き分けてくれ」。(2362.2363.2364)

 (29.5.21) 明治二十九年五月二十一日、押して、安心と仰せ下さるは飯降まさゑの事情でありますや。
 「さあさぁ皆んな掛かり掛けたら一つ、思い掛けたら一つ、いつまでも放っておいてはなろまい。何処へ放って了えという訳にも行こうまいし、内外隔てはない。刻限は定められんなれど、皆引き寄せて了う」 。

 押して、上田ナライトの事情でありますや。

 「さあさぁ何ぼ急げども急ぐ程いずむ。いずむ処はいずむ理、事情というものは、治まり掛けたら治まる。騒々しいから治まらん。怪しい処まで行かにゃ治まらん。又又追々に話を伝えば、自由という理治まるやらも分からん」(2677.2678)。

 (30.6.3)明治三十年六月三日、安堵村飯田岩治郎事情願い(事情は神様下がると言うに付将来治め方につき願い)
 「人足という、あちらこちら古い事情にて、あちらへちょい/\しておいた。前々の道と、道と/\の理を聞き分け。聞き分けにゃ分からん。話し、あちらこちらちょい/\聞いて居る。聞いて居る中に、一寸何才なる者が、この者いついつまで貰い受けたる中に、そのまゝ捨ておいたる。これ分かるか分からんか。所々で一寸/\言葉下ろしてある。すっかり貰い受けたる事情聞き分け。事情皆な埋もれたる。年限経つ、見て居るようなもの」。

 (30.9.26)明治三十年九月二十六日 夜園原村上田たき身上願い。
 「さあさぁ尋ねる事情/\、身上から事情尋ねる。身上一ついかなる事情いかなる事、尋ねる事情、もうこれ何でも彼でも一寸の事情に、一つ何でも彼でも話々の理の通り、一人事情々々存命中言葉一つの理諭したる。日々遅れ、月々遅れ、年々遅れたる。何でも彼でも急いで早くと思えど、どうもならん事情から遅れ/\てある。後後長らえて続く事情ばかり、もう過ぎたるものは何と思うてもなろまい。急いではならん。皆んな/\心一つの理、間違い/\どうもならん/\の事情、存命の間一つの楽しみ見せにゃならん。もうであろうか/\、思い/\長い間待ち兼ねたやろう。他所事やないで。遠くの事やないで。皆んな頼むで/\」 。

 押して、上田ナライトの事情でありますや願い。
 「さあさぁ尋ねるまでやない。急いでならんから諭す。送れるから皆な先々までも遅れる。他人事のように思って居たら違う。存命中一つ理は皆な知らんやない。続き話し/\、皆んな心繋いで早くと言えば早く、内々屋敷早く迎え、早く呼べ。満足早くの事情という」(2821)。

 明治三十二年三月十五日、園原上田たき身上願い(七十才)。上田ナライト様について(その十)参照
 「さあさぁ尋ねる事情/\、尋ねる事情は、余儀なく事情を尋ねると思うやろ/\。尋ねる一つ事情から道理一つ事情諭す。もう年取りた者、何をしょう彼をしょうとはあろまい。なれど、段々事情は古い事情、聞いた事情もあろ。なれど、思うよう成らんと思うは日々であろ。又一つ一度二度三度、どうでもこうでも一つ運び、急ぐ事あろ/\。前々諭したる。一時早く取り決まり、先は女ばかり、どうしょうこうしょうと言うた処が、思う成ろまい。よう聞き分け。存命中、一つ年限諭したる。どうでも何でも、治まり取ってくれ。治まり取って、運んでくれにゃならん。事情一つ諭す。どういう事諭すなら、後々控えなくば、どうもならん。尋ねる理ばかりではならん。尋ねる事情、後の控え。早くこれまで、一身暮らしと理を添えたる。前々運び方なく、道遅れ/\てならん/\。事情今に言うて今に成るものやない。見習い/\、年限から見習い、十分治まって来にゃならん。どうでもこうでも話し急いで掛かりてくれにゃならん。どうで後々控えという理なけにゃならん。さあと言うたらさあ。当分、どうしょうこうしょう、成ってからどうもならん。さあと言うたらうろたえにゃならん。前々諭す。こうしたらこうなろ、どうしたらどうなろと仕切りて治まり。事情後々、事情控え一つ、今日言うて今日に成らん。一時成らん。成らんによって、前々から運んで、後々控えなくばならん。前々貰い受けたる。これ第一である。年限は長いようでもつい経つもの。これよく聞いて、早く急いでくれ。身上一時どうではない。なれど、余程迫り、人にもほんにそうやなあと、早く運んで。今日の処、これだけ諭しおく。うっかりして居られんで。成るよう行くようの道運んでくれ。縺れたる処運んで、どうでもこうでも早く連れ戻らにゃならん」。

 (32.6.27)明治三十二年六月二十七日、第三、上田ナライトの事情願い(おぢばへ連れ帰る事)
 「さあさぁ皆なこれまで/\、時々に戻りてそれぞれまあまぁ当分と言うて、順序運び掛けたる。前々心にこれはっと思た一日の日がある。この理がどうも解けんから、戻ろうと思えども戻る事出けん。心に、はぁと思うから戻れん。よう聞き分け。存命中から一つの理を授けたる処、面々身に何一つの粗相もなく、今日までという。六年以前、これはと思た一つの理から、明らか事情に治めて早く運んでくれ。道のため一つの理を授けたる者が、邪魔になるように思て居ては、どんな事出けるやら知れんで。どうにもこうにもならん、というような事情になってからには、どんならんで。早く一つの道を運べ」(3279)。

 ◆本部の人々がお指図通りナライト様の理を立てず、そのため何度か家へ帰られたり心を迷わされいずまれたときのお指図。
 「道のため一つの理を授けた者が邪魔になるように思て居ては、どんな事出けるやら知れんで」(32.6.29)。

 (32.7.24)明治三十二年七月二十四日、園原上田ナライトの運び方の事につき願い。(◆本席の理の継承を説諭されたお指図
 「さあさぁ尋ねる/\、段々尋ねる。一度やない二度やない。時々を以て急ぐ急ぐという。古い事情と言うて急ぐ。いつまで見て居た処が同じ事、仕切りて順序運ぶ/\。どうでもこうでも存命話し掛けたる。時によりて遅れる。その場運ばにゃならんは残したる理、人間心と思たら違う。元は気違いかいなあ、というような事から追々及ぼしたる、何ぼう及ぼしたる処、その時人という、何ぼどうしてやろ、こうしてやろ、と思うても、どうも顔も見せん、そこへも来ん。どうもならん。道という、その理治めて居れば、どうでもこうでも成りて来れば理、よう聞き分け。中に一つ聞き分け/\。治め方に一つ事情、運び方に一つ事情、怖め恐れしてはならん。人間の運びと見てはならん。神の心人間心とは違い、何でも彼でも出て来にゃならん。よう聞き分け。はあと思た理からいずんだ。いずんだ処何でも彼でも発散さゝにゃならん/\。言葉の理から成ったれば、何でも彼でも承知さゝにゃならん。気の間違いと思うような処から始まったる。誰も天理王命と知った者無い。元は憑きものか知らんという処から出けて来た。人は知らんから思う。何か順序暇が要ってならん。言葉一つで始まったる。善き事も悪い事も日さえ経ったらどうや。それではならん。道にありて心寄りて来れば寄りて来る道無くばならん。来なと言うても来る。又来いと言うても出て来ん。来なと言うても来る。道は心という理ありて寄る。これ聞き分け。存命より一名暮らしと言うた理、なか/\の理であるで。又、人足社、又、入り込むという。この理聞いて居る。人足代々続いて又々という。切れてはならん。今一時の処勤めて居る。なれど、よう聞き分け。いつまでと思うたら違う。又後々役目何でも彼でもさしづ、指図役なくばならん。たゞ人間は一花咲いても理がない。俺しようと言うても、言葉出るものやない。この理よく聞き分けにゃならん

 押して、上田嘉治郎存命の時にこの家毀って了て家内中引き越して貰うたなら、ナライトも治まるやろか、と御話もありた、との事なれど、やしきにいんねんあると教祖より聞かして貰うて居りますから、如何であろうかと尋ねに付、心得のため願い。
 「さあさぁ尋ねる処/\、さあさぁもうこれ万事の処という。一名暮らしと言うたる。年限を繰りてみよ。人足社と言うて貰い受けたで、と言うたは、もう何年経つか。よう聞き分け。治めてやらにゃならん。話す/\段々十分引き合い掛け合い/\伝え/\、どうでもこうでも治める程に/\」

 又押して、あとの処どういう都合に運ばして貰いますが宜しう御座りますや、心得のため願い。

 さあさぁ尋ねる処/\、まあどうも談示一寸付こまい。二度三度でも治め付こうまい/\。なれど、どうでもこうでもそれぞれ家内の心、傍々若き処も治まれば、何時にても/\。

 又、前の事情万事詳しく申し上げ願い。

 「さあさぁ段々尋ね返やす処、たゞ一人と思たら違う。親々順序一日と言うた日ある。貰い受けた一人暮らしという日がある。その理及ぼさにゃならん。後々理無くばならん。いつまでもと思たらならん。指図変えるで/\。おい俺しようと言うた処がいかん。今代わりしようと言うていかん。一つの言葉で分かる。何でも彼でも年限から成り立ったもの。何でもかんでも、皆んなの心に解きほどきてくれにゃならん」。(3279.3281.3282)

 上田ナライト様について(その九)  
 一日も早く家内中揃っておぢばへ来るようにとのお指図は何度も何度も下っているが、なかなかその決心がつかなぬところ、明治三十二年十一月十七日に、甥楢太郎十七才身上願(※1)の時も、三十三年二月(※三月の間違い)十五日母たき七十才身上願(※2)の時も、ナライト様を一日も早く、おぢばへつれもどすようとそれのみせき込んでおられる。この頃、ナライト様は母おたき(七十才)妹ならとめ(八才の時、守役とのお言葉を頂き二十四才で寺田家へ嫁ぎ、後夫に死に別れたがお言葉によりナライト様の守役として最後まで勤めきった人)と、兄、楢吉の遺児楢太郎(十七才)との四人で園原の実家におられた。度々の教祖のおことばであったが、当主はやっと十七才で後は女ばかり、なかなかおぢばへ出て来る決心もつかずぐずぐずしておられたのには、さぞかし苦しい事情もおありの事とお察しする。ところが、神様のお急きこみはますます厳しく、次々と家内中に身上のお手入れが続くのであった。

 明治三十二年十一月十七日、上田楢太郎十七才身上願い。
 「さあさぁ身上一つ尋ねる。身上事情尋ねる。身上より先に一つ事情諭さにゃならん。どういう事、身上から理を尋ねる。身上は後へ一つ、身上はこれから一つになる。まあ内々事情長らえて事情、良い処の事情些かもない。どうでも日々事情、どういう事で、日々事情であろう。歳々思い/\どうも心治まろうまい。頼り/\又外れ外れ、外れると思う。必ず外れると思うな。古き理にいんねんという理諭してある。神の道成るようにはっちゃ成らん。道筋の道を聞きて、内々ほんになあ、第一思やん。あちらこちら定まって、悪いという、悪いだけすっきり通り了う。若き身上に掛かって、主も心得んと思うやろ。どういう頼りも、何故外れて、外れてはないで。心にしっかり、どんな難儀も茨畦も不自由も通り抜けて、楽しみと思え。これさい心に治まったら。これしっかり聞き分け」。

 明治三十三年三月十五日、園原村上田たき七十才身上願い。
 「さあさぁ尋ねる事情/\、尋ねる事情は、余儀なく事情を尋ねると思うやろ/\。尋ねる一つ事情から道理一つ事情諭す。もう年取りた者、何をしょう彼をしょうとはあろまい。なれど、段々事情は古い事情、聞いた事情もあろ。なれど、思うよう成らんと思うは日々であろ。又一つ一度二度三度、どうでもこうでも一つ運び、急ぐ事あろ/\。前々諭したる。一時早く取り決まり、先は女ばかり、どうしょうこうしょうと言うた処が、思う成ろまい。よう聞き分け。存命中、一つ年限諭したる。どうでも何でも、治まり取ってくれ。治まり取って、運んでくれにゃならん。事情一つ諭す。どういう事諭すなら、後々控えなくば、どうもならん。尋ねる理ばかりではならん。尋ねる事情、後の控え。早くこれまで、一身暮らしと理を添えたる。前々運び方なく、道遅れ/\てならん/\。事情今に言うて今に成るものやない。見習い/\、年限から見習い、十分治まって来にゃならん。どうでもこうでも話急いで掛かりてくれにゃならん。どうで後々控えという理なけにゃならん。さあと言うたらさあ。当分、どうしょうこうしょう、成ってからどうもならん。さあと言うたらうろたえにゃならん。前々諭す。こうしたらこうなろ、どうしたらどうなろと仕切りて治まり。事情後々、事情控え一つ、今日言うて今日に成らん。一時成らん。成らんによって、前々から運んで、後々控えなくばならん。前々貰い受けたる。これ第一である。年限は長いようでもつい経つもの。これよく聞いて、早く急いでくれ。身上一時どうではない。なれど、余程迫り、人にもほんにそうやなあと、早く運んで。今日の処、これだけ諭しおく。うっかりして居られんで。成るよう行くようの道運んでくれ。縺れたる処運んで、どうでもこうでも早く連れ戻らにゃならん」。

  (33.3.21)明治三十三年三月二十一日 上田ナライト建物の願(上田たきの身上障りから神様へ御願い申せしそのおさしづに、上田ナライト仕切りて引き寄せるよう運べと仰せ下されしに付、詰員一同相談の上本部長へ申し上げ、建物北の大裏の石屋の仕事場のそばあたりへ建てという事でありますから御許し願い)
 「さあさぁ尋ねる事情/\、段々事情、一つ/\の事情を、段々それから、皆々事情以て、一時こうと順序始め掛けたる。待ち兼ねた/\。成っても成らいでも、そのまゝ心運ぶ処、待ち兼ねた。一つどうするこうする。重々諭して、十分の道運んで順序という。これこゝまでと言う。成っても成らいでも一名暮らしと諭したる。これ運ぶ処、十分受け取ったる。尋ねる処一寸仮家という。建てる処、十分運ぶ処、辺所の処は不都合、そこで席退いたらそうやなあどうやなあと、心に浮かますによって、その理に留まって了う」。

 家内中共引き越しますのでありますや如何願い。

 「さあさぁ尋ねる処/\、あら/\の理を以て、どうかこうか伝え。そんならそうしょうか、どうしょうかと、前運ぶ理受け取って、理伝えてそんならという処から、一日の日を尋ね出るがよい」。

 押して、ナライトヘ十分運びまして、その上もう一度御願い申します事でありますや

 「さあさぁ尋ねる/\。十分に尋ねにゃならん。もう踏み損うてならん。これまで仕切りた理分からなんだ。重々諭す理である。そこで、しっかり聞き分けて、しっかり運んでくれるがよい」。
 このお指図があったが急にその運びも出来ず、同年四月に園原から、家族もろ共引寄せて頂かれた時は、今の西手洗場のあたりで、当時は三島村の一番賑やかな通りの近くに御本部の借家があり、その中の六畳二間程の所に入れて頂かれていた。その後もナライト様の建物を建てるようとのお指図は度々出されている。

 (33.3.21) 明治三十三年三月二十一日、本席御身上御障りに付かんろだいへ本席の身上速やか快復次第お伺い申して、そのおさしづ通り、何か運ばして貰いますからと御願してありますが、その事今日まで延行相成り右事情の願い。
 「さあさぁ尋ね掛ける/\。さあさぁ尋ね掛ける。前々から一寸身上に、一寸障りを掛け、それから尋ねにゃ分かろまい/\。身上に一寸障り、障りは、神の自由で付けたる障り。身上の障りありても、その重い勤めさしたる。早く諭したい事情ある。さあさぁ身上不足あれば、成る事成ろまい/\。一日の日もこれ一つ理を欠かさず、時々十分勤めさしたるは、神の自由さしたる。明日はどうやろうかこうやろうか、思う処ずつなみ( ずつない。疲れる、術ない、シンドイ、エライと云う意味の奈良県方言)知らず勤める処、皆んな惣々に心なくばならん。心で勤めさしたる。勤まらなんだら、幾万の者に申し訳ない。帰って来てる者が、もう十日なる二十日なる三十日なると指を繰って言うようでは、世界響くか響かんか、聞き分け。道という理しっかり定めてくれ。諭したる処もう控えという理出るからには、よう聞き分け。控え後へ一つ繋がにゃならん。この一つの道理、刻限話仕難くかった。連れ帰ったる者のため、身上障りの中、勤めさしたる理聞き分け。うっかりして居られん/\。取り締まりた理分からん。多く中、連れ戻りたる中、速やかたんのうの理を以て、頼もしいや結構やと、国々へ帰る理思てくれ。一時話し掛けたる。どうでもこうでも早く取り締まらにゃならん/\。これ十分聞き分け」。

 押して、控えと仰せ下されますは、上田ナライトの運び方の事でありますや願い。

 「さあ何かの事、善急いで掛からにゃならん。運ばにゃならん。又一つ/\の道理から、よう考えてみよ。後々控えなくては楽しみあるか。そらと言うたら直ぐと出るは、控えである。これ、よう聞き分けてくれにゃならん。この一つの道理、 刻限話仕難くかった。連れ帰ったる者のため、身上障りの中、勤めさしたる理聞き分け。うっかりして居られん/\。取り締まりた理分からん。多く中、連れ戻りたる中、速やかたんのうの理を以て、頼もしいや結構やと、国々へ帰る理思てくれ」(3752.3753)。
 と、国々処々から帰り来る道の子供達に本席様御身上にてお授けを渡す理がかけて、幾万の者に何日も/\指おり待たすようなことがあっては、世界にどうひゞくか、あとへつづく為にひかえをつくる上から、多くの中つれもどりた者に早く運びをつけるよう、とせき込んでおられる。今日まで何度もそのことにつきお指図があっても、なかなかその段取りがならなかったが、いよいよ上田家の者達にその心を聞かれたところ、明治三十三年四月三日には、上田家の者達の決心をはっきり申上げておられる。「たとえどんな苦労あるとも結講であります」、の返事により、大変御満足のお指図があり、いよいよ上田家はおぢばへお引き寄せ頂かれた。上田家の屋敷は、人間生みおろしの時の御一服場所として理がある、とのお言葉により屋敷はそのまま御本部の管理をうけることとなった。

 (33.4.3) 明治三十三年四月三日 、上田ナライト運び方につき願い(園原上田ナライト運び方につき、先方の心聞いてこうという処を聞いて、その上尋ねてまあ一度尋ねとの事に付、先方には家内一同寄せて貰い度く、たとえどんな苦労あるとも結構でありますからとの事でありますが、又後の家屋敷の処如何致しまして宜しきや、先方の御話してありますから、この辺御願いの上の事と申し置きましたが如何と願い)
 「さあさぁ尋ねる事情/\、さあ段々事情/\、長い事情よう/\の日/\。それ何ぼでもどうも仕切りた事情運び難くい/\。段々言葉通り浮かましたる浮かましたる。運び掛けたら段々運び順序出来にゃならん。成って一つ治まりという。又内々後々どうしておいたらよかろう、こうしておいたらよかろう。治まろまい/\。後が有ったさかいにどう、ないさかいにどうとはない。たゞ治まるが台。そら台。どうはよいこうはよい、又内々一つ心があるによって委せおこう。どうしたらよい、こうしたらよいと言わん。後々早く取り捌いて運びするがよい」。

 押して、仰せの通り先き様の心にこうとおっしゃる通りに運ばして貰います。

 「さあさぁ心に委せおこう/\」。

 (34.6.14)明治三十四年六月十四日、六月一日より本席御身障りに付七日間御休みに相成る、よって種々相談の結果、本部員一同神様へ御願い申し上げしには、御身上速やか御成り下さればおさしづを頂き、おさしづによってどのような事も運びますと御願いにつき、如何の事でありますや願い。
 さあさぁさぁ段々どういう事情も重なり、いかなる事情も重なり、重なるからどうもならん。重なりて/\重なりて、もうやろうか/\と良い事待つ。良い事待つは道理あろ。道理の中に道理取り違いありては、どうもならん。これ一つ、しっかり聞き分け。段々話し掛ける。一時に話し尽す事出けん。一つ/\の理しっかり伝えて、心にしっかり聞き分けてくれ/\。何でもない事と思へば何でもない。神何処に居ると思う。明らかなる剥いた話をする。この道というは、年限数えば長い年限、年限困難ありて、もうどうなろうか知らん/\という道通りて来た。もう一時の処にては、一寸世界の道から始め掛け。世界の道はどうなりと出ける。出ける筈や。出けるように持って掛かるから出ける。この道紋型ない処から、知らず知らず惣々通り、もう何処からなりとも、彼処からどうなりても、付け所ない処からだん/\通りて出来た道。そこで今日まで組み立てゝ来た通り、よい/\道通り難くい中道理ある。この道理聞き分けにゃならん。皆んな道は一つ。一つよりない。ない筈や。皆な道から出けたもの、道から出けたものなら違わん、という事、前々諭し置いたる。皆な承知せにゃならん。

 一列は年限の道の上の理の兄弟である。道の上に兄弟の理が分からいではどうもならん。兄弟に年限あれば立てるは道、立てる道は言わいでも立てにゃならん。善い事知って居る。知って居れば、皆なそれぞれの心に持って研究して、どうであるこうであると、この精神上定めて貰いたい。ちょいちょい許したる事出けて来る。来る。許さん限り出けん。皆なこうして下され、どうして下され、これもこうしてくれと言えば、親が許そうと言うたら明らかなもの。これ一つ皆な感じてくれ。段々一時に説き尽す事できん。国々という理を以て、遠い所又近い所からも、道運ぶ処、この理に見計ろうてやらにゃならん。年限/\なくば、ざあとしたもの。年限の内/\苦労という道知らんか。知らいでは道とは言えんで。

 さあさぁこうして理を説き掛けたなら、どうでもこうでも説き切らにゃならん。まあ一つ、内々事情屋敷以内、この一寸話し掛ける。話し掛けるから、取り計ろうて、皆々治めてくれにゃならん。よう聞き分け。これまでの処もう十年あと/\、何か証拠/\なかった。難儀苦労困難から、どうせいと言うた処が、ならんから、ほんの一寸路銀渡したようなもの。そこでどうなりこうなりの日を送りて来た。屋敷連れ帰る中/\、成程と言うて来るから日が経つ。どうやろかこうやろかと言うような事では、何しょうと言うた処が、できん/\。中に、年限の内に古い者、一代かと思えば二代、余程年取れたらなあという者、楽しみ付けてやらにゃならん。長い年限、そんならどれだけ働きあるか/\。残らず道具良い道具ばかりでも働きできん。良い道具悪しき道具合わせて出ける。日々働きから分かりて来る。よう聞き分け。どういう者もこういう者も、皆んな持ち合いという理聞き分け。持ち合いという理分からいではならん。    

 何程高い所へ留まりた処が、実がなくば腹淋ぶしうなる。持って来るこの理聞き分け。高い所へじっと坐って居た処が、取り扱う者なければ、どうする事も出来ようまい。これより皆んなそれぞれ小首傾け、どうやらにゃならん、こうやらにゃならん、と急いで取り計ろうてやってくれ。あら/\の話では取り計らう事できん。日々守りと言う、又掃除と言うたる。その理段々篤としっかり心取り計ろうてやってくれ。又日々煮炊場/\、古き/\下な道具。年限という、下な道具あればこそ、上の道具分かる。これ早うして、今日と言うたら今日、今日教祖守りという。日々であろう。
貰い受けたる人足社と言うたる。年限じっといずみ居る。時々見習い、しんの台、教祖しんに付いた理。神の人足社と言うて貰い受けたる。席言うてだん/\諭したる。一日よい二日よい、もう幾日なる/\。道分かり難ない。道一寸見えたる。早く思案して取り計ろうてやってくれ。又守り掃き掃除、人々は幾人でもないではない。なれど、押せ/\では皆な勝手が出る。一度二度は越せる。それではどうもならん。そこで人と言う、若井はる、コト、これを又交替/\、月替わり/\/\、承知したか。又一つ、道理では分からん。今の処一寸四名一時後より三名交替。最初一名残し、日々月々見習い、これ一寸楽しみ、十分楽しましてやってくれ」。

 一人残して交替と申しますは、松村さくかと相談の処へ。

 「違う/\。後から来た者ある。一人残せ/\。手替わり/\、手替わりさすがよい」。

 押して、井筒とよでありますか、と申し上げ

 「手替わりあれば、一寸勝手覚える。日々一つ経ったら、十分覚える。そうしてみよ。皆な勝手分かる。未だ、一つあるで/\。さあさぁさぁ未だ一つあると言うは、どうでもこうでも一つ用いらにゃならんで。月日祭典/\/\という。そこで一つ勤め/\というは、役員と言うたる。本部員というたる。本部員は人間の付けたもの。臨時見習いと言うて一寸説いたる。本部員というは、世上の理取って付けたる。これ違うか違わんか。違えば違うと言うて見よ。一寸路銀と言うて渡したる。誰と/\本部員と言うて許したる。許さしょまいがな。これ返答してみよ」。

 皆々相談して御願いに出ます、と申し上げ、

 「さあさぁ違う/\。違えば違うと一言答えるがよい/\。さあさぁ違う事/\、承知が出けにゃ言うたらよい。遠慮は要らん。遠慮は先になって枷になる。道の曇りになる。一寸退かす/\。一寸退かすで」。

 しばらくしてから

 「さあさぁ改める/\。改め掛けたら、すっきり改める。さあさぁこの掛かりというものは、楽しましたる。時々言い聞かしたる。刻限にも聞かしたる、楽しましたる。そこで、どうなるやろ、こうなるやろうと、楽しましたる。どうして忘れて居た。忘れて居たというは理や。その心あれば明らか。たゞ一つ/\勝手ばかりではならん。百姓/\鍬の芯と言うたる。それは楽しんでせい/\。皆な我が事になると言うたる。日々勤め/\と言うたる。今の処、日々は行こうまい。今十分どうもならんからほんの路銀を渡したる。行かにゃならん。怖わい所危ない所を楽しみ通りたる。手替わり/\、それもどれもと行こうまい。同じようには行こうまい/\。一度出たらなあ/\と、その心あればこそ立って来たる。年限までは未だ/\、年限は長い/\。年限楽しみ無けにゃならん。未だ行けん/\。皆それ??見立てゝやれ。月々手替わり出ける者楽しみ、教祖存命言われた事に、満足与える事出来ん。とかく満足々々は道の肥/\、又けたいな事やなあと言う者中に思やしょうまいが/\。なれど、人間勝手で言うやない。教祖存命、身をかくした処から聞き分け。ほんにそうやなあ、出さにゃならん。日々うとっと思うまい。人間心で成程入り込んでの話通りや/\。心に嵌まりたか/\。なあ百姓の中からからけ無いとも言えん。百姓下の中からでも勤めて居る。先々ほんにそうやなあと見せてある。年限経って一年に二度三度そこえ/\出してやってみよ。どれだけ満足するとも分からん。満足は楽しみの花が咲く程に。十分の実がのると、諭しておく」。

 一同の中で話して居る処へ、

 「さあさぁさぁその話というは、後々で悠っくりと出ける。席諭したる。席の身早く聞き取りて、それぞれ心合わせて、成程と一点の心分かりたらよし、こりゃどうそりゃこうと、一つ/\不足あれば、不足の理答えるがよい。そりゃ一時に成ろまい。さあさぁ未だ/\急いだ事ある。母一つ重々勤め、一時すっきり隠れ、一代勤めて置いたる。この人はもう早く、一時万事早く取り立てゝやってくれ。取り立てゝやってくれるがよい」。

 仲田楢吉の事かいなあと、話して居る処へ

 「さあさぁ段々一代を尽し切り、教祖存命日々勤め、よう/\かくれ、それから一つ代替わりて、尚も進んで来る。これ一つの理に早く取り立てゝやってくれ/\。誰かと思えば、名民蔵々々、親二人早く暮れて了た。さあさぁ大西/\/\、親から尽し、二代目替えて尽す理/\、早く理/\/\。又々当分一つ順序々々、皆役と言うてして居る。一時早く/\」。

 準員に願う事に運ばして貰います、と願い。

 「さあさぁ一寸は見習いから始め掛け/\。もう一時早く諭さんならん事、直きに出る/\。さあさぁこうして一つ/\理を洗い切ったら、どんな事も用いってくれにゃならん。こうすれば、皆談示の上言うて出てくれ。そうすれば、どんな解きほどきもする程に/\。めったにほどかんと言やせん。どんなほどきもする程に」。

 篠森準員にする事御許し下されますか、と願い。

 「さあさぁそれは心までに許しておこう。しっかりどうこう言わん。そりゃ取り扱いだけしてやれ。すれば満足であろ。真にどうと言えん。ならんと言わん。そりゃ無理やと言わん。言うたら皆なの心困る。真からどう、又こうしてやってくれ、どうしてやってくれというは、皆なの心から養うてやってくれ。これだけ聞いたら分かるやろ」。

 職人本部にて宿泊させず酒も飲まさぬその代りとして、一人に付金三銭ずつやる事にきめましたが、御許し下されますや願い。

 「さあさぁそらもうこうした事、こうしたらどうと尋ねる。そらどうしてやれ、こうしてやれとは言わん。そら喜ぶ者半分、なあと思う者半分、半分/\なら、それで治めておくがよかろ/\」。

 本部の会計から本部員家内一人一日十銭ずつ手当として、それを積んで本部員中難儀な者生じたる節手当にする事御許し下されますか、と願い。

 「さあさぁどんな事も、心に浮かぶ事は言わにゃならん。心に浮かんで道理に適う適わん。たゞ救けるというは、望む/\。救けるというより一つ道はない。救ける事なら、どんな事でもならんと言わん。そら、十分受け取っておく/\」。

 本部に十年以上尽した者に、借家建て貸す事願い。

 「さあさぁまあ心に/\ほっと心に出るは余の者の話やない。入り込んでのさしづ。そこで皆んな成程感じるは理。そこで、門内ではならん、門の外で、これは何処でもだんない。さあと言うたら直きに取り払うて了う/\。そこで、ざあとしておけば、何処でも構わん/\」。

 二間半に両庇、四畳半と六畳とに押入付のものを並べてさして貰います、と願い。

 「さあさぁもう何も十分の事は要らん。これない処から、苦労して価を出して人の家借りて居るは、日々の処見難くてならん/\。今日来た者やあろまい。古く/\身代売り払て道のためと思やこそ/\、国々運ぶ者数々ある。安楽は未だ/\である。二十年三十年間同じよう通りたとて、理がなくば何もなろまい。十年の者でも、二十年三十年に向かう理もある。これ聞き分け。皆な来る者優しい言葉掛けてくれ/\。道には言葉掛けてくれば、第一/\屋敷には優しい言葉第一。何も知らん者、道はこんなものかと思てはならん/\。年取れたる又若き者も言葉第一。愛想という事、又一つ屋敷に愛想のうては道とは言わん。男という女という男女に限りない/\。言葉は道の肥、言葉たんのうは道の肥/\。皆な見習え/\。強うするは道。早く道洗うて/\、知らん者に言うて聞かせ/\。十年あとにはこんな道やない。艱難苦労の固まりの道という。上に立つ者から言うて聞かせ/\。遠慮気兼は要らん。遠慮気兼はほこりのもとやで。いついつまで艱難通るやない。理が世界にある。たんのう楽します道もある。第一言葉愛想、満足は言葉に限る。たゞ言葉と言うた処が、第一人に愛想たんのう知らずしては、道失うて了う/\。見習え/\。上から言葉掛けて優しいは道。事見習え。何を見習う。これ聞き分けて、皆々惣々治め。これ一列口説き/\の話である程に。返やし/\の話である程に」。(4008.4011)

 (34.6.17)明治三十四年六月十七日 教祖御休息所掃除は、若井はる西田コト月交替か、日々交替か押して願い。(◆本席の代理としてさづけを渡す準備を急き込まれた指図)
 「さあさぁ尋ねにゃ分からん/\。あらあらは分かりある。さあさぁこれまで拭き掃除して居る。よう思案してみよ。何のためか。これこれ容易で何かの理、それそれ分からにゃならん。一つの理取り分けるから諭し切らにゃならん。いつまで親に抱かれて居てはならん。何でも彼でも、年限数えてみよ。善い事どうなる、どうなろうという日もあったであろう。古きの理、どうでも/\心を運び来たる日から、成り立つ者ある。今では何もならんように思う。ならんでないで」。
 「さあさぁちゃんと調べてみよ。月々交替にするがよい。用のない者居やせんで/\。用のない者ないで。皆なそれぞれ双方の用がある」。
 「さあさぁ古い者から交替として、改め出る者。交替なるが道理である。人間心でしたもの、一つもありゃせんで。人間心で出来たもの何にもない」。

 押して、松村さくの事尋ね

 「さあさぁ未だそんな事言うて居るか。何を尋ねるのや。総計の月々交替、皆な同じ交替やで。何故付き添わにゃならんで」。

 押して、桝井伊三郎の尋ね

 「さあさぁこれは分かりてある/\。さあさぁよう聞き分けにゃならん。誰と/\月月に残さにゃならん。これは皆勝手の理である。隔ては一つもないで。明らかにして、皆な楽しまそうと言う/\。そこ、よう聞き分けにゃならん」。

 押して、はる、コト月替りとして、とよを残して見習いでありますや

 「さあさぁ早々分かりたか/\。交替/\皆な楽しませば、三十日を一月と言うであろう。もう何ぼう日経ったら交替、結構々々中にもしんどい日もあろう。楽しみ付けてやらにゃならん。年限という理の味わい皆知らん。人間心を持って居る。道とは言わりゃせん」。
 「さあさぁ芯は分かりて居る/\。一時こうと言うて出来難ない/\。一人残して一寸見習いと言う。前々後から入った者、大抵見習い出来てある。一つ三十日一日の日も勤めてくれるよう、言い聞かしてくれるよう」。
 「さあさぁ惣々分かりた/\。そうして三十日経ちたら、皆な分かりて来る。そうすれば、三十日/\交替すれば、分かるであろう」。

 鍬の芯村田幸助とも聞いて居りますが、山中栄蔵とも聞いて居りますが、如何でありますや願い。

 「さあ幸助は早くから付けてある。存命から付けてある。後々控えなければならん」。

 上田ナライトの見習いは、御休息所の方か本席の方へか

 「さあさぁなあ日々詰めて居れば十分なれど、どうもならん/\。いずんで年限は遅れて/\ある。今日席が当分悪い/\。日が遅れ来た。日々急いで/\、年限経ち、遅れて来た。見習い/\これは言うまでやない。今改めたなら、聞き損いとも言う。存命の間にをやと親とに貰い受けたる。休息所々々々、守りの芯と言うたであろう。よう分かりたか/\。一日の日から日々どうで出来ようまい。見習いとも言うたる。もういつ/\どうもならんで。なれど、どんな日もありて、立ち遅れた。どういう事、世界から一日今と言うたら今という心に、取り運ぶように運んでやってくれにゃならん」。
 「さあさぁよう聞き分け。教祖存命一つ/\鮮やか理。どんとどうもならん/\日が重なり来て、早々年限を縮め、これから一つの理も聞き分けにゃならん/\。どうかこうか日々細道を変えて、どうなりこうなり日々働いたもの。日々付けた道、どうでも入り込み働かして居ればこそ、日々どんな理も働いて居りゃ出来て来た。この理分からにゃ、どんな日見えるやら分からんで。どんな暗闇を見ようとまゝやで。これをしっかり聞き分けてくれ」。
 「さあさぁ何時直ぐそのまゝよかったなあと、後で世上へ一つ十分に満足与える台を拵える。さあ/\よう聞き分けくれにゃならん。人足社、どうでも始める。一寸初め、一寸気の間違い、何ぞ憑きものとも言う。一人容易で出来やせんで。年限通らにゃ出来やせんで。世上へ出す事出来ようまい。これをよう聞き分け」。(4022)
 「‥‥存命の間に親と親とにもらひうけたる、休息所/\守のしんといふたであらう、ようわかりたか/\‥‥」とのお言葉あり。

 (35.8.4) 明治三十五年八月四日、上田ナライト昨夜より腹痛につき願い。
 「さあさぁさぁ尋ねる事情/\、尋ねる事情にも一つ段々事情、さあ身上の処へ掛かる処、いかなる事と思うやろ。さあさぁどうもこうも何でもどうも言えん。話にも伝えられん事情/\、よく聞き分けにゃならん。もういずみ切って/\どうもならん。いずみ切って、もう一人という、一つの理、何程急げどもどうもならん。いずみ切って身上指図という。言わずでも他に指図なけにゃならん。尋ねるから指図。もう一人/\段々急いで/\。なれど、とんといずみ切ってどうもならん。いずみ切って居れば、どういう理、皆々思う。たゞ一人の処聞き分け。道と世界と一つの理立て合い、これ聞き分け。面々年限伝うた理、どうでもこうでも立てにゃならん/\、立てさゝにゃならん。立てさゝにゃならんが、よう聞き分け。もう一箇月何ぼう日、もう段々日が近づいてある。又半季の掛かりという。皆な聞き分けにゃならん。もう僅か/\、これより席という授けという、又指図という、又勤めにゃならん、勤めさゝにゃならん。もういずみ切った処心晴らすはどういう事。もう一人の心速やか晴れにゃならん。もう後々もうあれだけ一人暮らして、年取れさしたる処、容易やない/\。もうこの元々というは、どうにもこうにもならん処から立って来たる。もう一人の処、十分運び切ってくれにゃならん。もうならん/\で一つ減り二つ減り、減って/\減って了たらどうなるか。もう段々拵えるには暇が要る。それでは皆の者気の毒や。前々にも諭したる。もう百年も生まれ子も同じ事/\、心持ってくれにゃならん。もう席始まれば、席度毎に運んで、見習いの心なくばならん。又一つ十分/\運ばにゃならん。運び切ってくれ。一人になってからどうもならん。年限いずみ/\、いずめば道盛んとは言えまい。心も盛んは道の盛ん。もう楽しみの心十分持ってくれにゃならん。こゝから一言聞き分け。席始まる、聞き習い見習いという理ある。その事情よく聞き分け。いずみいずんではならん。席一日の日という、何ぼ切なみでもどうでもこうでも勤めさしたる。もう後々定め掛けてくれにゃならん。長い心ではならん。長い心で油断はつい遅れ易いものである。心に夜の目も合わんというは、一日の日も長い。これより治まりたら心治まるやろ。これだけ諭しおくによって、身上の処案じる事要らん。一人の者あゝと言うようではならん。よう思案してくれ。一人暮らし容易やない。人間に一人暮らしという理聞き分けてくれ。貰い受けたる理あればこそ、一日の日通りたる。もうどうや知らん/\ではならん。一つ理治まらにゃならん/\理ある。人間心というは、とんといずましたる理から心に掛かりたる。これよく聞き分け。もうどうや知らん/\と言うてはならん。もうなってからどうもならんで。これをよく聞き分けてくれ」。

 押して、事務始まりましたら、見習として御席へ出て下さるように、本人に伝える事でありますか、と申し上げ

 「さあさぁ皆な尋ねにゃ分からん。最初から一つ同席は行こまい。一間隔て仕切りて、それぞれ心と/\付き添いて、どうやでこうやでと、心に得心さしてくれるがよい」。(4454)






(私論.私見)