上田ナライト押し込め事情考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.4日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「上田ナライト押し込め事情考」をしておく。 2018(平成30).4.16日 れんだいこ拝 |
【上田ナライト押し込め事情考】 | |
「おさしづに啓示された理の研究第6部 身上・事情」の「上田ナライト事情 ―天啓継承の問題―」、みちのだい10号(昭和32.4)の宇野たきゑ「上田ナライト抄伝 神一条に生きぬいた女性」、上田ナライト様について(その一)、上田ナライト様について(その二) 、上田ナライト様について(その三)、上田ナライト様について(その五)その他参照。
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【上田ナライト履歴考】 | ||
三島村から東南の山の中に、園原という村がある。ナライト様は、その村の中農の豊かな家庭で、父上田嘉治郎、母おたき、の二男三女の次女としてお生れになった。人一倍器用な質で、13才の時には一人前以上の機織(はたお)りをなされた。明治9年陰暦7月13日、納屋で機織りをしていて、急に泣き出されたので、父が尋ねると、「天井の方から石上の岩神さんが、がっそう(総髪(そうはつ)のこと。全体の髪を伸ばし頂で束ねて結った髪形。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけのものを言う。江戸時代、医者、儒者、山伏などが多く結った)のような頭髪をして下りて来はる、こわい」と言うようなことを言い出し、神経病のようになられた。父は、二月堂やひえだの大師等に願をかけたり、お灸をしたり、まじないをしたり、あらゆる手をつくして一心に全快を祈ったが一向良くならなかった。その時、隣の西浦弥平様から、「庄屋敷に結構な神様がござるそうな、どんな病気でも助けて下さる」という話を聞いた。始めは「新しい神様はきらいや」と言ってなかなか聞こうとしなかった父も、娘が今までのように機織りをしようともせず、機につっぷして泣いてばかりいるのでほとほと困りはてて、とうとう14才のナライト様を伴って庄屋敷村へお参りに来た。 教祖様は、『待った/\、五代前の叔母や、七代前の世に、身をもって命を助けてくれた恩人の魂や。一生極楽遊びをさせて恩返しをする。一身(いちみ)暮しを守ってくれ』と言うお言葉を下さった。その心定めをすると、三日のお願でお助け頂き親子ともども一心に信心されたのである。明治12年陰暦卯の2月23日の夜、教祖様のお言葉に、『奈良糸の身の内、神の方へ貰い受け、その上は、***)として人を助ける、それゆえあとなるは皆引き受ける』と仰せ下さったが、この時ナライトは17才であった。こうした道中があってナライトは教祖様の娘分としておぢばにお引寄せ頂き、教祖様のお傍で「一生一名暮し」(独身で通す)をして神様の御用をさせて頂く身となられたのである。同時に、当人のみならず上田家もおぢばに伏せ込む、とのお言葉を頂かれた。 ナライトが、教祖様の娘分としておぢばに来られる時には、「この娘は一生お嫁に行かないのやから、これがこの娘の嫁入りや」と言って、両親は丹波市の箱喜で、桐の箪笥(タンス)と鏡台を買って持たされたと云う。おぢばへ引寄せて頂いたナライトは、教祖様の御身の廻りの御用から、針仕事、炊事等何もかも勤めて、まめまめしくお仕えした。鳴物の***許しを頂き、胡弓の御手もつけて頂いた。赤衣様(教祖様のお召物)の針始めのお役もさせて頂いていた。「お守りつくりや、金平糖の御供を包むのを手伝わせて頂いた。おこたにおあたりとおっしゃるので、手を入れさせて頂いているとき、ひょいと教祖様の御手に触ったので、びっくりして引っこめると、その手をさぐってしっかり握って、遠慮せんとあたりや、と引きよせて下さった」と、なつかしそうに当時を述懐なされた。若い時のナライトは、日本髪が好きで特に紫色のてがら(手絡。婦人が日本髪を結ったとき、髷(まげ)の根もとに掛ける装飾用の色染めの布)の似合う、すっきりした美しく賢いお方で、背は高い方であった。古老のお話に、「ナライト様は、男の人とすれちがう時には必ず袖でお顔をかくして通られた」とあるが、何といじらしいお心根であろう。 かく深い御思召で教祖様のおそばへ引寄せられたナライトであったが、明治20年旧正月26日に教祖様が現し身をおかくしになった時は年25才であった。一生独り身で通す心定めも、教祖様におすがりしたならこそできたことであったのに、その頼みの教祖様亡き後のナライトの御心はどんなに心細くなられたであろう。案の定、教祖出直し後、ナライトは“一身暮らし”に辛吟されることになった。その過程で、度々にわたって身上願いをしている。その都度、親心の上から尊い理のあるお言葉が下されている。このお指図は、明治20年代の初めから40年の百日指図に至るまで断続して36回以上頂かれている。 本席は、教祖は御身こそおかくし遊(あそば)されたが御魂はぢばにとどまり、御生前通りの守護をすると宣明し、教内がこれに安堵した。これを踏まえて「ナライトもらいうけの理」について尊いお指図を下されている。教祖ご存命中から“一身暮らし”として貰い受けられた理がいかに重い理であったかということがお指図を通して窺える。親心の上から、園原村の実家へ月の内三日位は帰ってもよい、とまでおっしゃっている。両親は、教祖からナライトが頂いておられるお言葉(一生独身で暮す)を守り通させる決心には変わりはなかったが、ナライト27歳の時、さすが親の情として偲びきれず、本席にお指図を願っておられる。年頃過ぎ行く娘を抱えた両親が、心いずんで苦しむ娘の様子にどれ程心を痛めたことであろうか。 1957(昭和32).1.12日、上田ナライトの二十年祭が、真柱様祭主のもとに厳かに執り行われた。当日は、本部神殿に於て先ず十二下りの手踊りがあり、後祖霊殿にて年祭が勤められた。本部在籍者、直轄教会長、管内学校職員生徒その他多数の参拝人で神殿はうずめられ、心から故人の徳を偲んだ。 みちのだい10号(昭和32.4)の宇野たきゑ「上田ナライト抄伝 神一条に生きぬいた女性」は次のように結んでいる。
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「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」の「身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…」。
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【上田ナライト履歴考】 | |
「上田ナライト様について(その二十一)」参照。
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【上田ナライト履歴考】 |
「上田ナライト様について(その二十二) 」。 |
ナライト様の御一生は、到底拙い筆で表わし得るものではない。御用の済んだ後のナライト様は、中山家の家内人として、手厚い待遇を受け、全教の方々の理を立てきられる中に、喜んで余生を送られた。御供の紙を折ったり、静かに針仕事や、畑に野菜を作ったり、時には手習いや読書に親しまれたり、三曲をひいておられる時もあった。 |
上田ナライト様について(その二十三) |
人の心の中を見すかされることはおそろしいばかりで、心ににごりを持ちつつ調理した物は一式召上らなかったし、お守役の人が何か悩みを持ちつつお傍にいると、一言でぴしりとおさとしになるのでびっくりすることが度々あった。悪い病気が流行したり、騒しい事件がおこったりする前には、きまって御機嫌が悪く、お傍の人達が何かあるなあ、と思っていると必ず変ったことがあったと言う。又こんなこともあった。誰かが死ぬ前になるときまって、御自身の紙の茶せんの根元へ白い紙を巻かれるのである。お傍の人達は不気味で仕方ないので、後へ廻ってそっと取っておくのだったが、何時の間にか付けておられた。甥の娘の妊娠三ヶ月の頃、お腹の子供は女か男かのお伺いをした時、「女の子や」とおっしゃったが、もうお年も寄っておられるし、と不安に思って、又一ヶ月程して伺ったら、「お前は阿呆か、女と言うたら女や」と叱られたが、生れたのはやはり女の子であった。こうしたことは数えきれる程あったが、神一条に生きぬいた方であればこそ、と感じ入る次第である。 |
お 出 直 し 昭和11年の暮に、家人に、「わし、もういんで来るわな(※1)」。「どこへですか?」。「おばあ様の処へ、又じき帰って来るで」と言われた。年明けて一月の始めから、御気分勝(すぐ)れず、刻々重体となられた。11日の夜は横にならず、代り番に皆で後から抱いて夜を明かした。12日の明け方になって、右手で髪の毛をとかす手付をなされた。「お櫛ですか」と聞くとうなずかれた。櫛と鏡を持って来ると、ふるえる手付で髪を綺麗におとかしになった。次に、字を書く手付をなさった。半紙と筆と硯を持って来ると、半紙に、小さい松の枝と竹と、梅の花三輪を美しく書かれた。そして、その横へ、***納めまいらせ候、なら糸。と書き終るなり、ぐったりと後へもたれかかって来られて、間もなく静かに出直しされた。昭和12年1月12日午前2時25分、御年75才で、尊い御生涯を終えられたのであった。(委員) 昭和32年4月発行「みちのだい 十号(神一条に生きぬいた女性 宇野たきゑ)」18~27ページより |
明治二十年正月、教祖様が御息を引取り遊さした直後、本席様のお口を通して、
末代の宝物であるおさづけの理を可愛い子供に授ける為に、尊い親の御命を二十五年ちぢめてまでも、おせきこみ下された教祖様の御思召しが伝えられた。教内がこれを諒として、教祖の御教えの道がこうしてここに切れることなく続くことになった。 |
明治二十年四月二十三日午後四時頃。神様よりしっかり治まりたと承り、
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明治二十二年十一月三十日(旧十一月八日)午前九時半、上田奈良糸様身上願(是れ迄一みくらし(独身生活)と言ふ事をお聞かせ下されしが、やはり一みぐらしで越すものでありませうや、夫を持って越すものでありませうや如何の願い)(上田ナライト様について(その四) )
桝井伊三郎より甘露台とはどういふ御手にやとお尋ねすれば
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(22.5.22)
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(22.11.30)明治二十二年十一月三十日(陰暦十一月八日)午前九時半、上田ナライト身上願い(これまで一身暮らし(独身生活)という事をお聞かし下れしが、やはり一身暮らしで越すものでありましようや、夫を持って越すものでありましようや、如何の願い)
桝井伊三郎より、かんろうだいとはどういう御手にやと御尋ねすれば、
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(23.3.6)明治二十三年三月六日(陰暦正月十六日)午前九時、上田ナライト心いずむにつき、暫く本人の言う通りにして置いて宜しきや、又十分話を聞かしたもので御座りますや伺い。
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(24.4.20)明治二十四年四月二十日、上田ナライト身上事情願い。
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当分園原村の実家へ帰っておられた。次のようなお指図があった。 明治二十五年二月十四日(旧正月十六日)夜、永尾よしゑ身上しきりにせまるにつき御本席赤衣をおめし下されてのお話し。
押して桝井伊三郎より早くつれかへれと仰せくだされますはどなたの事でござります哉。
押して、是非今晩はこばねばなりませんか、又明朝迄御猶予下されます哉。
その夜十二時二十分、永尾芳枝身上まだすみやかにせずに付願の処へ、桝井伊三郎、高井猶吉園原へ出越し、奈良糸様同道で帰り来りし故、その事情も併せて願い。
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(25.2.18)明治二十五年二月十八日夜、永尾よしゑ前おさしづより中山会長出席の上御願い。
押して、上田ナライトの事情にて御座いますや願い。
押して、二名三名の処伺
押して、会長へ御受け申し上げなられ、
押して、給仕は日々三度ずつ致しますもので御座りますや。
暫くして
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(25.6.3)明治二十五年六月三日、五月三十一日のおさしづに「二つ三つ出すによって」とあるより一同相談の上願い。第一、本席他より招待の節一同相談の上、中山会長へ申し上げ順序正しくする事。
第二、本席に対し日々の扱いに付何か不都合ありますや伺い。
第三、上田ナライト教祖の守り事情の願い。
第四、村田長平大裏に入れてあるのが宜しくないので、本席身上障るのでありますや。
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(25.7.16)明治二十五年七月十六日、上田ナライト身上の処願い。
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(27.7.28)明治二十七年七月二十八日、上田ナライト気の間違いの如くなりしにつき願い。( こうして、おぢばへ連れ帰って来られたがナライト様のお心落着かずその都度父上の身上にてお諭しがあったり、様々の道中がある。次のお伺いでは、もともと十四才の時お引寄せ頂かれた時の身上の如くになり大いに驚いておられる様子が眼に見えるようである)
同時、押して園原へ連れて帰らして頂く事願い。
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明治二十七年十一月三十日、父上田嘉次郎は、ナライト様のことを心にかけつつ六十五歳で出直した。これで上田家の大黒柱が失われたことになる。長男でナライト様の兄になる上田楢吉はすでに亡く、忘れ形見の甥楢太郎は二才、女ばかりの寂しい家庭になった。教祖様には、常にお心にかけておられるナライト様のことにつき、いよいよはっきりと、何が為の一人ぐらしか、ナライト様に何のおもわくをおつけなされているかについて、刻々と身上を通してお説きになっているが。 |
(28.5.22)(明治二十八年五月二十二日朝、第二、本部会計一手の事情。
第三、本席の宅を政甚の名前に切り換える願い。
続いて御諭
第四、梶本、まさゑの事情願い。
第五、上田ナライトの事情。
第六、山中忠七居宅の事情。
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(28.10.11)明治二十八年十月十一日、同時、上田ナライトの事情。
同時、上田ナライト内々の治め方願い。
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(28.11.6)明治二十八年十一月六日、増野正兵衞前お指図に基づき願い。
三つの理、押して上田ナライトに段々運びつけて帰りて貰いますようにと願い。
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(29.5.21) 明治二十九年五月二十一日、押して、安心と仰せ下さるは飯降まさゑの事情でありますや。
押して、上田ナライトの事情でありますや。
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(30.6.3)明治三十年六月三日、安堵村飯田岩治郎事情願い(事情は神様下がると言うに付将来治め方につき願い)
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(30.9.26)明治三十年九月二十六日 夜園原村上田たき身上願い。
押して、上田ナライトの事情でありますや願い。
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明治三十二年三月十五日、園原上田たき身上願い(七十才)。 (上田ナライト様について(その十)参照) |
(32.6.27)明治三十二年六月二十七日、第三、上田ナライトの事情願い(おぢばへ連れ帰る事)
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◆本部の人々がお指図通りナライト様の理を立てず、そのため何度か家へ帰られたり心を迷わされいずまれたときのお指図。
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(32.7.24)明治三十二年七月二十四日、園原上田ナライトの運び方の事につき願い。(◆本席の理の継承を説諭されたお指図)
押して、上田嘉治郎存命の時にこの家毀って了て家内中引き越して貰うたなら、ナライトも治まるやろか、と御話もありた、との事なれど、やしきにいんねんあると教祖より聞かして貰うて居りますから、如何であろうかと尋ねに付、心得のため願い。
又押して、あとの処どういう都合に運ばして貰いますが宜しう御座りますや、心得のため願い。
又、前の事情万事詳しく申し上げ願い。
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上田ナライト様について(その九) 一日も早く家内中揃っておぢばへ来るようにとのお指図は何度も何度も下っているが、なかなかその決心がつかなぬところ、明治三十二年十一月十七日に、甥楢太郎十七才身上願(※1)の時も、三十三年二月(※三月の間違い)十五日母たき七十才身上願(※2)の時も、ナライト様を一日も早く、おぢばへつれもどすようとそれのみせき込んでおられる。この頃、ナライト様は母おたき(七十才)妹ならとめ(八才の時、守役とのお言葉を頂き二十四才で寺田家へ嫁ぎ、後夫に死に別れたがお言葉によりナライト様の守役として最後まで勤めきった人)と、兄、楢吉の遺児楢太郎(十七才)との四人で園原の実家におられた。度々の教祖のおことばであったが、当主はやっと十七才で後は女ばかり、なかなかおぢばへ出て来る決心もつかずぐずぐずしておられたのには、さぞかし苦しい事情もおありの事とお察しする。ところが、神様のお急きこみはますます厳しく、次々と家内中に身上のお手入れが続くのであった。 明治三十二年十一月十七日、上田楢太郎十七才身上願い。
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明治三十三年三月十五日、園原村上田たき七十才身上願い。
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(33.3.21)明治三十三年三月二十一日 、上田ナライト建物の願(上田たきの身上障りから神様へ御願い申せしそのおさしづに、上田ナライト仕切りて引き寄せるよう運べと仰せ下されしに付、詰員一同相談の上本部長へ申し上げ、建物北の大裏の石屋の仕事場のそばあたりへ建てという事でありますから御許し願い)
家内中共引き越しますのでありますや如何願い。
押して、ナライトヘ十分運びまして、その上もう一度御願い申します事でありますや。
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このお指図があったが急にその運びも出来ず、同年四月に園原から、家族もろ共引寄せて頂かれた時は、今の西手洗場のあたりで、当時は三島村の一番賑やかな通りの近くに御本部の借家があり、その中の六畳二間程の所に入れて頂かれていた。その後もナライト様の建物を建てるようとのお指図は度々出されている。 |
(33.3.21) 明治三十三年三月二十一日、本席御身上御障りに付かんろだいへ本席の身上速やか快復次第お伺い申して、そのおさしづ通り、何か運ばして貰いますからと御願してありますが、その事今日まで延行相成り右事情の願い。
押して、控えと仰せ下されますは、上田ナライトの運び方の事でありますや願い。
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と、国々処々から帰り来る道の子供達に本席様御身上にてお授けを渡す理がかけて、幾万の者に何日も/\指おり待たすようなことがあっては、世界にどうひゞくか、あとへつづく為にひかえをつくる上から、多くの中つれもどりた者に早く運びをつけるよう、とせき込んでおられる。今日まで何度もそのことにつきお指図があっても、なかなかその段取りがならなかったが、いよいよ上田家の者達にその心を聞かれたところ、明治三十三年四月三日には、上田家の者達の決心をはっきり申上げておられる。「たとえどんな苦労あるとも結講であります」、の返事により、大変御満足のお指図があり、いよいよ上田家はおぢばへお引き寄せ頂かれた。上田家の屋敷は、人間生みおろしの時の御一服場所として理がある、とのお言葉により屋敷はそのまま御本部の管理をうけることとなった。 |
(33.4.3) 明治三十三年四月三日 、上田ナライト運び方につき願い(園原上田ナライト運び方につき、先方の心聞いてこうという処を聞いて、その上尋ねてまあ一度尋ねとの事に付、先方には家内一同寄せて貰い度く、たとえどんな苦労あるとも結構でありますからとの事でありますが、又後の家屋敷の処如何致しまして宜しきや、先方の御話してありますから、この辺御願いの上の事と申し置きましたが如何と願い)
押して、仰せの通り先き様の心にこうとおっしゃる通りに運ばして貰います。
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(34.6.17)明治三十四年六月十七日
、教祖御休息所掃除は、若井はる西田コト月交替か、日々交替か押して願い。(◆本席の代理としてさづけを渡す準備を急き込まれた指図)。
押して、松村さくの事尋ね、
押して、桝井伊三郎の尋ね、
押して、はる、コト月替りとして、とよを残して見習いでありますや。
鍬の芯村田幸助とも聞いて居りますが、山中栄蔵とも聞いて居りますが、如何でありますや願い。
上田ナライトの見習いは、御休息所の方か本席の方へか。
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「‥‥存命の間に親と親とにもらひうけたる、休息所/\守のしんといふたであらう、ようわかりたか/\‥‥」とのお言葉あり。 |
(35.8.4) 明治三十五年八月四日、上田ナライト昨夜より腹痛につき願い。
押して、事務始まりましたら、見習として御席へ出て下さるように、本人に伝える事でありますか、と申し上げ、
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(私論.私見)