稿本天理教教祖伝逸話篇158「女の月のものはな、花やで」。
或る時、教祖の御前に山本利八が控えていると、教祖が、『利八さん、外の方を見ておいで』と仰せになられた。警察の取り締まりの厳しいときのことゆえ、それについての仰せと思い、気をつけて辺りを見廻りましたが誰も居なかった。戻って来て、神さん、何にも変わりありゃしません。向うのあの畑には南瓜(かぼちゃ)がなっています。この畑には茄子(なす)が沢山でけました、と申し上げると、教祖は、膝を打って、次のようにお諭し下された。『それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実ができるのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で云うけれども、何も不浄なことありやせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女と云うものは、子を宿さにゃならん。一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何にでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで』」。 |
ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、「利八さん、外の方を見ておいで」と、仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったから、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが、誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはありゃしません。向こうのあの畑には、南瓜がなっています。この畑には、茄子が沢山出けました」と申し上げると、教祖は、膝を打って、「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで」と、お教え下された。
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