山本利三郎

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山本利三郎(やまもと りさぶろう)】
 1850(嘉永3)年1.13日、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)生まれ。  
 1895(明治23)年11.13日、出直し(享年46歳)。
 1850(嘉永3)年1.13日、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)生まれ。
 1873(明治6)年、相撲で胸を傷め三年越しの病床に就いていたところをたすけられ入信。
 河内一帯に布教して講社取締役となる。
 明治14年頃から教祖の側で取次人としてお仕えした。
 明治20年1月26日のおつとめで「かぐら」「てをどり」をつとめる。
 明治23年、柏原分教会(現・中河大教会)設立の許しを頂き、初代会長。
 1895(明治23).11.13日、出直し(享年46歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇33「国の掛け橋」

【山本利三郎】
 「山本利三郎先生について」。
 父の利八さんと共に明治六年入信された。河内の柏原村出身である。利八さんは只入信が古いだけで別に道の又(※「為」の誤りと思われる)働いた人ではないが、息子の利三郎先生は本部員としても元老であり、中河の会長もつとめ、又そのやり方も一風変った人で、よく馬に乗って走り歩いた人であった。晩年少し精神に異常を来して明治廿八年十一月十三日四十六才で出直されたが、こうまん狂人の〇〇長平さん(※2)のように長い間座敷牢に入って出直されはしなかったが、とても元気の良い人で、演説にもなかなか覇気があり、度胸もあるかたであったが、惜しいことに仲田左よみさんと同じ因縁持ちであった。別に学問はなく、もとは角力とりをやった人だとも言い、やせて背の高い人であった。橋本清さんや永尾楢次郎さんと、破佛演説に各地へ出かけられた時は、なかなか颯爽たるものであった。
 (「清水由松傳稿本」130~131ページより)





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