上原佐吉&上原佐助&さと

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.2.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「上原佐吉&上原佐助&さと」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【上原佐吉(うえはら さきち)】
 1816(文化13)年、現岡山県笠岡市生まれ。笠原儀七の長男、のち上原家創設。
 明治13年(1880)、教理に感じて入信。
 明治23年、出直し(享年75歳)。

【上原佐助(うえはら さすけ)】
 1850(嘉永3)年4.4日、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)生まれ。 
 1912(明治45).3.11日、出直し(享年63歳)。
 1850(嘉永3)年4.4日、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)生まれ。
 幼名・政太郎、のち儀七。
 明治5年、家業を捨て伯父上原佐吉を頼り大阪へ行き、生家笠原家より上原家の養子となり佐助を名乗る。
 明治7年、川合とよ(後にさとと改名)と結婚。
 1880(明治13)年、妹のイシが心臓病の御守護を頂き、にをいをかけられる。翌年初参拝。
 1883(明治16)年、教祖より赤衣を戴く。
 1885(明治18)年、店をたたみ、家族と別れ(さとらは笠岡へ)東京布教に出る。
 1887(明治20)年、東京真明講社(東の前身)を結成する。
 1889(明治22)年、東教会(現大教会)を設立、初代会長。
 1891(明治24)年、本席より「清水のさづけ」を戴く。妻のさとは笠岡大教会設立、初代会長。
 1894(明治27)年、部内の日本橋教会が分離する。
 1912(明治45)年3.11日、出直し(享年63歳)。

【上原佐助逸話】
 稿本天理教教祖伝逸話篇127「東京々々、長崎」
 稿本天理教教祖伝逸話篇127「東京々々、長崎」
 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。この時はからずも、教祖から、「東京々々、長崎」というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。

【上原佐助評伝】
 「上原佐助先生について 」。
 岡山縣笠岡出身、元大阪で畳屋を営業、身長五尺一寸体重廿四貫、明治十八年七月入信。東京のしるべをたよって布教の為上京、食うに食なく三年ほどどん底の単独布教の結果、漸く北稲荷町の現在東大教会所在地に落ちつかれた。明治廿一年、教会本部設置につきその地を本部の手で買収、后更に東(あずま)に譲って頂いたのである。当時は上原先生もまだまだやっと糊口をしのぐ時代で、本部からの先生方を賄う力もなく、先生方は皆自費で賄われた。そして上原さんの信徒で裕福であった中台勘蔵さんがとても力を入れた。その為本部設置后中台さんの日本橋は分離して、直轄の理を頂いた。

 上原先生は親切な人で食道楽というほうであった。気まめに家で美味しいものを拵らへては、まづ真柱様や本席様にさしあげられるのであった。非常に甘いものがすきで、当番の時などよくおはぎを拵らえて振舞われた。あまり肥満しておられた為夏は随分苦しかったらしく、「泣きぐらしや」とよく冗談をいわれ、一日に七遍位入浴された。最初の東詰所は布留の板の古紡績工場買うて建てられ、それ迠は高井先生の家を一部借りて住居し、信徒は皆豆腐屋に泊っていた。明治三十二年頃今の敷地を求めて前記古家を移築したのである。なかなかの経済家で薪炭米穀などの購入は手に入ったものであった。本部員になられたのは割合遅く、明治廿八年頃で、教祖様の十年祭まえ、おさしづによって理を頂かれた。晩年咳に苦しまれ、本席様からよく飴を頂いては、昼当番だけつとめられた。明治四十五年三月十一日六十三才で出直されたが、米も薪も葬式に入用なだけは、ちゃんと用意されていたので、時の人達は、「上原さんは用意の良い人や、自分の葬式の入用迠ちゃんとしといてゆかはった」と噂したものであった。先生の出直し后は、義彦さんが若かったので、役員の椿卯之助さんが十年程会長代りで一切をきりもりした。先生が東大教会の創設者であることは余りにも周知の事であるが、東、日本橋両教会の今日あるのは、又一面山沢為造、高井猶吉両先生が世話役で丹精されたおかげでもある。(「清水由松傳稿本」125~126ページより )




(私論.私見)