岡田与之助(註、後の宮森与三郎)

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


岡田与之助(後の宮森与三郎)
 1857(安政4)年3.5日、大和国式下郡檜垣村(現・奈良県天理市檜垣町)生まれ。
 1936(昭和11)年1.25日、出直し(享年80歳)。

 1857(安政4)年3.5日、大和国式下郡檜垣村(現・奈良県天理市檜垣町)生まれ。岡田善九郎の三男。
 1877(明治10)年、教祖に左腕の痛みを助けられたことから入信。以来、毎日お屋敷へ通い、後に入り込む。
 明治13年、金剛山地福寺へ秀司のお供をする。
 明治14年、おさづけ。
 明治15年、宮森家の養子となる。この時、與三郎と改名する。
 山城地方で布教し、梅谷、田原の教会の基礎を築く。明拝初代会長、梅谷2代会長。本部員。
 1936(昭和11)年1.25日、出直し(享年80歳)。

【岡田与之助(後の宮森与三郎)逸話】
 教祖伝逸話篇40「ここに居いや」、69「弟さんは、尚もほしい」、83「長々の間」、95「道の二百里も」、131「神の方には」。
 教祖伝逸話篇40「ここに居いや」
 明治7年、岡田与之助18才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや。」と、にをいをかけてくれた。当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めて、お屋敷へ帰らせて頂いた。そして、教祖にお目通りすると、「与之助さん、よう帰って来たなあ」と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に、腕の疼きは、ピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって桧垣村へもどった。ところが、家へもどると、又、腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねて、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、不思議にも、腕の疼きは治まった。こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、「与之助さん、ここに居いや」と、仰せ下されたので、仰せ通り、お屋敷に寝泊まりさせて頂いて、用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。
 教祖伝逸話篇69「弟さんは、尚もほしい」
 明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた頃、教祖は、「心の澄んだ余計人が入用」と、お言葉を下された。余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居ても居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もなく、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せになったものと思われる。又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていたら、「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは、尚もほしい』と仰っしゃりますねで。」と、お聞かせ下された。
 教祖伝逸話篇83「 長々の間」。
 宮森与三郎が、お屋敷の田圃で農作業の最中、教祖から急にお呼び出しがあった。急の事であったので、「何事かしら」 と、思いながら、野良着のまま、急いで教祖の御前に参上すると、その場で、おさづけの理をお渡し下された。その上、「長々の間、御苦労であった」と、結構なねぎらいのお言葉を下された。

 註 宮森与三郎がおさづけを頂いたのは、明治十四年五月のことである。
 教祖伝逸話篇95「 道の二百里も」。
 明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。家族一同心配しているうちに、年が明けて明治十五年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。そこで、音羽山詣りはやめにして、三月五日に、夫婦とりきの三人連れでおぢばへ帰らせて頂き、七日間滞在させて頂いた。その三日目に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され」と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて十六日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ」との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか」と、教祖に伺うと、「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし」との仰せであった。このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、三月十七日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。
 教祖伝逸話篇131「 神の方には」。
 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、「力試しをしよう」と、仰せられ、御自分の腕を、「力限り押えてみよ」と、仰せられた。けれども、どうしても押え切ることはできないばかりか、教祖が、すこし力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて、力が抜けてしまう。すると、「神の方には倍の力や」と、仰せになった。又、「こんな事出来るかえ」と、仰せになって、人差指と小指とで、こちらの手の甲の皮を、お摘まみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なされたこともあった。これは、宮森の思い出話である。




(私論.私見)