小西定吉&イエ

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【小西定吉(こにし さだきち)】
 安政3年、生れる。
 昭和23年、出直し(享年94歳)
 安政3年、生れる。
 明治15年、教祖から、妻イエのをびや許しと共に自身の腹膜、肋骨、腸、肺病を助けられて入信。
 豪農であった家、屋敷を売り払い、村中から笑われながら信仰と布教に励む。
 明治29年、宇陀教会設立、副会長。その後、会長代行を務める。
 明治42年、二代会長に就任。敷島部属。
 昭和23年、出直し(享年94歳)
 100「人を救けるのやで」。

【小西定吉逸話】
 100「人を救けるのやで」。
 大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。又、妻イヱも、お産の重い方であったが、その頃2人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治15年3月頃のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイヱがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様は、をびやだけの神様でございますか。」と、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と、仰せられた。それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」と、お尋ねした。すると、教祖は、「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に喰い込んで、定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて、全部を妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所へ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、「心一条に成ったので、救かったのや」と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と、伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と、お尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を2、3合下された。そして、「これは御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや」と、仰せられた。そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た。




(私論.私見)