秀司論

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「秀司論」をものしておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【秀司の出直し】
 内蔵を建てることになり無事に棟上は済んだが、内作りのできないうちの前年の暮れ辺りから秀司の身上が勝れなくなり、この年4.8日(陰暦3.10日)、「転輪王講社」開設から半年余を経た頃、出直した(享年61歳)。この時、まつえは中山家に嫁いで来て13年、数え年31歳、一人娘のたまえは数え年5歳だった。

 山澤為造が、秀司出直しの様子を次のように記している。
 「仲田さん、辻さん、それに私の三人が、会えば村の某氏宅へお願い勤めに行っておりました。その頃の御願い勤めと申しますと、昼三度、夜三度、三日三夜勤めたものでありまして、その時もやっと一晩の勤めを済まし、第二日目の午前、一回の御勤めを済ませたところへ、秀司先生の御容態が悪くなったから早く帰れと、使いの方が云って来ました。明治14年の事です。私達は驚いて急ぎ帰りますと、お屋敷には他の先生方も皆な詰めかけて居られました。先生の御容態は大変お悪いようで、何でもその時、御教祖様にお願い勤めをさして頂きますと申し上げますと、『誰か身代わりに立つ者はないか』と仰せられたそうであります。これを聞いた一同は、一心に自分がその身代わりに立たせて頂きたいと思いました。願い勤めと申しましても、その頃は全く命懸けでありました。それは外ではありません。何時も親神が『真実の者が出てくれ、無理にすすめてはいかん。手一つ違っても、何時神が退くや知れんで』と仰せられていたからであります。こうした一同のただ親を思う命を懸けての真剣な願い勤めの甲斐もなく、秀司先生はとうとうお出直しになりました。皆、先生の枕元に坐って泣いて居りますと、御教祖様は上段の間から下りて来られました。そして、秀司先生の手と體(からだ)とを三度づつお撫でになりながら、『御苦労やった。じきに帰って来るのやで』と仰せられていましたが、その時親様のお目に、さすが肉親としての涙が一雫(ひとしずく)光っているのを見さして頂きました。御教祖様はそれきり上段の間にお座りになりましたが、そこにお座りになれば、もう親子の情は遥かにも通り越した厳然たる神様としておいでたのであります」(「みちのとも」昭和8年12.5日号、27-28頁)。

【お筆先の秀司言及考】
 教祖は、秀司を念頭において、優しく諭し、且つ次のように厳しく叱責している。
 病いとて 世界並みでは ないほどに 
 神の立腹 今ぞ表わす
一号25
 今までも 神の云うこと 聞かんから 
 是非なく表て 表わしたなり
一号26
 こらほどの 神の残念 出てるから 
 医者薬も これはかなわん 
一号27
 こればかり 人並やとは 思うなよ 
 何でもこれは 歌で責めきる 
一号28
 このたびは 屋敷の掃除 すきやかに 
 したゝてみせる これを見てくれ
一号29
 掃除さえ すきやかしたる ことならば 
 知りて話して 話しするなり
一号30
 これまでの 残念なるハ 何の事 
 足のちんばが 一の残念
一号31
 この足ハ 病とゆうて いるけれど
 病でハない 神の立腹
一号32
 立腹も 一寸(ちょっと)のことでは ないほどに
 積もり重なり 故(ゆえ)のことなり
一号33
 立腹も なにゆへなるど ゆうならハ
 悪事がのかん ゆへの事なり
一号34
 この悪事 すきやかのけん ことにては 
 普請の邪魔に なるとこそ知れ
一号35
 この悪事 何ぼしぶとい ものやとて 
 神が責めきり のけてみせるで
一号36
 この悪事 すきやかのけた 事ならバ
 足のちんばも すきやかとなる
 
一号37
 その後は 病まず死なずに 弱らずに
 心次第に いつまでもいよ
四号37
 また先は 年限たちた ことならば
 年を寄るめは 更にないぞや
四号38
 身のうちに どこに不足の ないものに
 月日いがめて 苦労かけたで  
十二号118
 年限は 39年も 以前にて
 心配苦労 悩み掛けたで
十二号119
 このたびハ どんなためしを するやらな
 これでしいかり 心さだめよ
一五号6
 こらほどに 残念積もりて あるけれど
 心次第に 皆なたすけるで
十五号16
 如何ほどに 残念積もりて あるとても
 踏ん張りきりて 働きする
十五号17
 今までハ 四十三年 已然から
 足をなやめた これが心配
十五号24
 このたびハ なんでもかでも これをはな
 元の通りに してかやすでな
十五号25
 この話し なにを月日が ゆうたとて
 どんな事ても 背きなきよふ
十五号26
 この元わ 四十三年 以前から
 ゑらい験(ため)しが かけてあるぞや
十五号41
 これさいか しっかり承知 したならば
 どんなことをが かなわんでなし
十五号42
 この話し 四十三年 以前から
 ゑらい験しが これが一条
十五号50
 この先は 谷底にては 段々と
 多く陽気が 見えてあるぞや
十五号59
 段々と 用木にては この世を
 始めた親が 皆な入り込むで
十五号60
 この話 四十三年 以前から
 胸の残念 今晴らすでな
十五号81
 それ知らず 内なる者は 何もかも
 世界なみなる 様に思ふて
十五号82
 この道は 四十三年 以前から
 まこと難渋な 道を通りた
十五号83
 このたびの つとめ一条 止めるなら
 名代なりと すぐに退く
十五号88
 この話し 何と思うて 傍(そば)なもの
 もうひと息も 待ちていられん
十五号89
 早々と 鳴り物なりと たしかけよ
 つとめばかりを せへているから
十五号90
 この助け どういうことに 思うかな
 病まず死なずに 弱りなきよに
十七号53

 大意。秀司の足痛は病ではなく神の立腹である。この立腹は悪事が除かないためである。 悪事さえすっきり解決したら足もすっきりとなる。秀司はこのことを分かろうとしない。「あくじ」というのは、秀司の信仰の営利化の動きを指すと思われる。

 みきは明治十三年に日を仕切った。その頃、乙木村の山本吉次郎から、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があった。これに対して、教祖は、「そんな事すれば、親神は退く」と、話をした。秀司は、わしは行くとて出掛けた。同年九月二十二日、転輪王講社の開筵式を行い、門前で護摩を焚き、僧侶を呼んで来て説法させた。その後、秀司は身上すぐれずとなり、翌十四年四月八日、六十一歳で死亡した。
 (飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)には、「そんなことすれば月日退く」を踏まえて、みきがその本質をズバリ告げている記録が残されてある。(「神への批判は、切れ言葉という事。お知らせしておく」参照)


【秀司の出直し考】
 お歌に、おつとめを進めようとする教祖と、おつとめをさせまいとする秀司との対立が窺える。教祖には、秀司が「お道」の妨害者の如く映じていた形跡が認められる。

 思えば、この間秀司は「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走し続ける日々であった。秀司は、「お道」人と云うよりも、常に中山家の立場から物事を見、教祖を母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から「お道」と関わり続けて来ていた風があった。

 これに対し、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供を助けたい一条の親心、月日の心であって、自己の心や中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これが、「お道」そのものにますます昇華する教祖と秀司の対立要因であったと拝察される。


(私論.私見) 秀司の一生考
 秀司の一生を確認しておく。秀司は、在村の有力農民の家柄であった中山家の跡取りとしてこの世にうまれた。してみれば何不自由なく過ごし得る将来が約束されていたことになる。ところが、天保8年に秀司の足痛が始まり、それが前兆とも媒介ともなって教祖が「月日の社」とおなり下されて以来、秀司は、父善兵衛の存命中は父の苦衷を横目に見ながら、善兵衛亡き後は戸主として中山家を切り盛りする立場となった。この時、教祖はひたすらに神一条による「貧のどん底」へ向かっており、その行程を共にすることを余儀なくされていた。この間、一家の生計を扶け、妹達を労りながら苦労を共々にして来た。その秀司は、「お道の道明け」時代に入るや、教祖の言に従うよりも「お道」の経営に勤しみ始めた。慶応の頃になるや、お屋敷に祈祷所を作り、ご利益営業を始めた。教祖は、「お道」という信仰の上から秀司に厳しい叱責を与えたが、秀司は自分の信仰の型を崩さなかった。ご利益営業は世上のどこでもやっていることであり、世上常識ではむしろ当たり前のことで、秀司が特段に悪いことをしたというものでもない。だが、そうした世上と教祖の思し召す世界とには大きな落差があった。この落差に対し、教祖と秀司には埋め難い溝があった。そういう意味での教祖らしさ、秀司らしさが終生続くことになった。秀司は、世の常識の眼からみれば、決して悪いという人間ではなかった。むしろ人にも好かれ人望もあった。問題は、教祖の説く「お道」が、助け一条の世界、陽気づくめの世界という、史上に例を見ない根底的な世直し、世の立替えを教理としていたことにあった。秀司は最後まで理解が及ばず、時には戸主として時には世情の論理で教祖の前に立ち塞がった。教祖は教祖で、お道の理は決して歪めず、この理を崩さなかった。教祖と秀司の確執がここにあった。この線を見ないと当時の「お道」の歩みが理解できない。

【秀司出直し譚】
 「秀司先生の出直について(その一)」(昭和8年12.5日号みちのとも「教長様御出直前後の模様」山澤為造(道友社刊)27-28Pより)。
 仲田さん、辻さん、それに私の三人が、”あえば”村の某氏宅へお願い勤めに行っておりました。その頃のお願い勤めと申しますと、昼三度、夜三度、三日三夜勤めたものでありまして、その時もやっと一晩のつとめを済まし、第二日目の午前、一回のおつとめを済ませたところへ、秀司先生の御容態が悪くなったから早く帰れと、使いの方が云って来ました。明治14年の事です。私達は驚いて急ぎ帰りますと、お屋敷には他の先生方も皆つめかけておられました。先生の御容態は大変お悪いようで、何でもその時、御教祖様にお願い勤めをさして頂きますと申上げますと、『誰か身代りに立つ者はないか』と仰せられたそうであります。之を聞いた一同は、一心に自分がその身代りに立たせて頂きたいと思いました。願い勤めと申しましても、その頃は全く命懸けでありました。それは外でもありません。何時も親様が『真実の者が出てくれ。無理にすゝめてはいかん。手一つちがっても何時神が退くや知れんで』と仰せられていたからであります。こうした一同のたゞ親を思う命をかけての真剣な願い勤めの甲斐もなく、秀司先生はとうとうお出直しになりました。皆な先生の枕元に坐って泣いておりますと、御教祖様は上段の間から下りて来られました。そして、秀司先生の手と体とを三度づつお撫でになりながら、『御苦労やった、ぢきに帰って来るのやで』と仰せられていましたが、その時親様のお目に、さすが肉親としての涙が一しずく光っているのを見さして頂きました。御教祖様はそれきり上段の間にお座りになりましたが、そこにお坐りになれば、もう親子の情は遥かにも通り越した厳然たる神様としておいでたのであります。
 「秀司先生の出直について(その二)」(大正11年10月発行「教祖と其の教理」(天理教同志会編)176~177ページより)。
 3月10日、秀司氏は溘焉(こうえん。たちまちにの意味)として逝去せられた。この時、教祖は、傍らの高弟たちを顧みて、『身体は神様の借物であるから嘆くことはない。ちょうど古い着物をぬいで新しい着物と着換えるようなものや。古うなったらお返しして、又生まれ変ってくるのや』と仰せられた。そして秀司氏の亡骸をさすりながら、『おまえの霊魂(たましい)は何処へも行くのやない。このお屋敷に帰ってくるのやで。正善命(しょうぜんのみこと)という名を与えておく』と、さながら生きた人に物を言い含めるように諭し聞かされた。それから、教祖は、『神がつれてゆくのは秀司一人でない‥‥』という意味のことを神の啓示によって知らされた。翌年、松枝子の逝去に対する予感であった。
 「秀司先生の出直について(その三)
( 昭和5年2.20日号みちのとも「秀司先生の御苦労の御一生」桝井孝四郎(道友社刊)21pより )。
 明治14年旧3.10日の日でありました。秀司先生は61才を限りとして御出直し下さいました。秀司先生の御生涯、実に御苦労の御一生であらせられました。御教祖様の御艱難の道すがらに於て、その陰となり日向(ひなた)となりして共々にその暗がりの道を御通り下さいました。その御出直しの時、御教祖様はその死体を御撫でになって、『可愛相に 早く帰りておいで』と仰せになったそうであります。そして我が座に御教祖様が御帰り遊ばすと、御教祖様に神憑りあって、『私は何処へも行きませぬ、魂は親にだかれてるで、古着を脱ぎ捨てたまでや』と秀司先生が御教祖様の御口から御帰りになったそうであります。
 「秀司先生の出直について(その四)
(昭和5年2.20日みちのとも「記憶に残る秀司先生のことども」記者、道友社刊、31-32pより)。
 (前略)~こうして先生は教会公認の第一歩の労をお取り下さったのでありますが、その翌年の明治14年旧3.10日に御教祖に先立たるゝこと6年、61歳の天寿を保ってお出直しとなられたのであります。別に大した病気と云う程でもなく、楽に眠る様になくなられました。お出直の前に高弟などが、もう一度御寿命をお延し下さる様に神様にお願い申しましょうか、とお尋ね致しますと、先生は、無い寿命をお願いするのは、それは欲だすぜ、理の欲と云うものだす、と仰せになって、更にお苦しみの様子を拝見しなかったと云うことであります。
 「秀司先生の出直について(その五)
(昭和3年7.5日号みちのとも「おさしづ」に就て」桝井孝四郎(道友社刊)12-13pより)。
 これは私の叔母(村田すま)から聴いた話であるが、こうした御言葉が御教祖の口を通じてあったことがある。それは秀司先生が御帰幽になった晩、皆の者が中南で御休みになって居られる秀司先生の枕元で、御通夜をしてゐた時のことである。その時、御教祖の口を通じてその以前に御帰幽遊ばされてゐた御教祖の三女なる春子様(櫟本の梶本惣治郎氏妻女)なり、御教祖長男秀司先生の御二人が、御教祖の口を通じて御出ましになったことがあった。先に春子様が、『子供がみな帰ってゐるよって一寸私も帰って来ました』と御出ましになった。そしてその後で秀司先生が『私は今まで上を思ひ、世界を思ひ、村方を思ひして、神様の仰しゃる事を止めて来た。どうぞこれからは、之を雛形として神様の云ふことを守ってくれ。私はこんなになりました』と仰せられたのである。この御言葉は、御教祖を通じての御言葉ではありますが、春子様の時には、春子様の様な御言葉で、秀司先生の時には、秀司先生の肉声の様に御話があったのである。これは『おさしづ』と云ふべきものであるかないかはともかく、御教祖の御口から仰せになった御言葉である。で今の春子様の御出ましになった『子供がみな帰ってゐるよって、一寸私も帰って来ました』と仰せられたその子供が帰ってゐると云ふのは、春子様の御子梶本松次郎様なり、初代管長様(初代真柱)が丁度御屋敷へ来て居られたからである。その事を、その御話の済んだすぐ後で、村田すま叔母が勤め場所の方に御出になった松次郎様や、初代管長様なりに、お母様が今御帰りになりました、とその時の事を申上げると、『それは惜しい事をした、私も会いたかった』と仰せられたことである。こう云ふ風に御教祖の御口を通じての御言葉となって現はれたこともある。(後略)。
 「秀司先生の出直について(その六)
(昭和5年2.20日号みちのとも「秀司先生の御苦労の御一生」桝井孝四郎(道友社刊)22-23pより)。
 私の実母(おさめ)から秀司先生の事について、こう聞かして貰ったことがありました。『秀司先生と(私の)阿父(あふ。父を親しんでよぶ語。ここでは桝井伊三郎を指す)さんとは、それは/\話のよく合った方であった。そして桝井さん/\と云って下されて、それは優しいお方であった。と云って、阿父さんは何時も秀司先生の事を喜んで居られた。そして阿父さんに時々‘’なあ桝井さん考えて見てくれ、何にも止めたい事はないけれど、上を思い村方を思い、世界思い、それで止めるのや‘’と、こう仰ったそうや』という話を聞かされた事があります。
 「秀司先生のエピソード①
 (大正14年11.5日号みちのとも「仕込みの道(三)」春野喜市より )。
 ある時、おやしきの普請の手伝いに辻忠作先生が参った。その中、かれこれ昼となった故弁当を頂こうと思っているが、肝心の秀司先生が少しも休む様子がないので、辻先生はとうとう我慢できずに、一人で持って来た弁当を食べてしまった。そのうち秀司先生は、休んでご飯をお上がりになるだろう、なるだろうと見ていたが、少しもそのような様子もなく、とうとう夕方となってしまったそうだ。それもその筈、秀司先生は二食で、しかもその二度の食事が二度とも茶粥であったのだ。後で分かった事だが、秀司先生は辻先生のその日の昼食をしているのを見て、おやしきの前の小川で水を飲んで、昼飯をしたためた様子をしていたそうだ。
 「秀司先生のエピソード②
(昭和2年8.5日号みちのとも「布教要旨(十四)」春野喜市より )。
 我々が未だ青年をしておった年の行かぬ時に、辻先生のお話にこういう事があった。「こうしてなぁ、今ではお屋敷で箸を取ってよばれるのは何でもない様になったが、元という元を思うてみい。箸取って安心してよばれるようになる迄は、なかなか容易な事ではなかった。秀司先生が空風呂の事から世の中の誤解を受け、そうして奈良県の監獄へ三十日お入りになって御苦労下されて、秀司先生お帰りになってから、皆の人を寄せようとするに就いては色々の事をせなければならず、そこに世の誤解を受ける。人を寄せるために教祖様にも苦労をかけ、我々もいらぬ誤り迄受けねばならぬ。我々が寄りさえしなかったら、こう迄屋敷うちが苦労をする事はいらぬのである。この調子で行ったら、何処まで教祖様に苦労を掛けるかか分からない。どうしても当分は、来る人に来なと言うて事訳するより仕様がない。これから暫らくは戸締まりをして、人々を来ささぬような方針を取らなければならない。と言うので、暫らくこういう方針でおやりになった。処が神様は『来い来い』と仰るから、今日もひのきしんさして頂こうと思って、弁当持ちでやって来る。すると秀司先生に見付けられて、『忠作さん、今日は弁当持って来て一日おるつもりかい。それよりも自宅へ行って百姓をしてくれ。行(い)んでくれ、行んでくれ』と、こう言われる。神様は来いと仰るし、先生は行(い)ねと仰る。どちらを聞いていいのかしらん、と思う。そうやけれども、秀司先生は矢張り人間や。教祖様の仰る事は、こりゃ神様や。してみれば神様の仰る事をハイと聞いておいたらいいのやろう、と云うので、ハイハイと言うて一日働かして貰い、夜になると傍らに小さくなって持って来た弁当を食べる。それを秀司先生が見て、『忠作さん、弁当食べるのなら、茶沸いてるぜ』と言やはる。やっぱり真から行(い)なす気や無かったのやなあと思う。本席さんはそれを気兼ねされて、自宅へ行んでくるような顔をして門先へ行って、門口を流れている流れの傍の石に腰を掛けて、手で水を汲んで、その水で弁当を食べておいでなされた。自分の物を持って来て自分で食べるのでさいも、あちらへ逃げ、こちらへ逃げして食べなければならぬような時代もあったのじゃ。こうしてお屋敷で箸を取って、気兼ね無くよばれさして貰えるようになったのは容易な事ではなかった」と、こういうお話があった。
 「秀司先生のエピソード③
 (昭和11年「第六回教義講習会講義録」「用木の使命」村田慶蔵より)。
 先生には61歳でお出直し遊ばされたのでありますが、その出直しになりました晩、皆々の方がお通夜に出させて頂いてをられました、その場で御教祖様のお口を通じて、こうしたお話のあったことを、私はおすま叔母から聞いております。『私はこれまで道を思い、お上を思い、村方を思い、親を思うて通って来た。これから皆の者は親神様の仰せ通りに、しっかり通って貰いたい』とお話があったそうで御座います。秀司先生には身上をおかくしになってから、ほんとの腹をお打明けになっておられるのであります。

【秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞】
 稿本天理教教祖伝は、こかんの出直しとの時と同様に「可愛いそうに、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司に代って「私は何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられた、と記している。これは、山澤摂行職証言「教祖は、秀司の枕元に立って、その額を三度撫でて、『早う帰って来るだで』と云って涙をぽろりと雫(しずく)して元の所へ帰られた」を基にしている。ところが、飯降伊蔵の息子の政甚が次のように異聞を証言している。(飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)
 概要/秀司が息をひきとった時、教祖は門屋の右側、十畳の部屋に一段高くして居られた。伊蔵が教祖に『親さん、先生(秀司)が今、息をお引き取りになりました』と知らせ、それを聞くと、教祖は、『あぁそうかい』と云って一段高いところから降り、別部屋に寝かされていた秀司の枕元にやって来て、額をゴロゴロとして、『もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや』と云い、伊蔵を振り返って『伊蔵さん、うちのざまを見ておくれ。金をためるとこの不始末やで』と涙一滴こぼさず云いなされ、元の所へ戻られた。その時、父の感慨は、何とも例えるにも例えることができなかった。親様の御精神はこういうところにあるのかと無量の感慨に打たれたと云うことを父から承りました。  
(私論.私見) 「秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞」について
 この時の教祖の言葉をこかんの時のそれと比較することが興味深い。こかんの時の場合には、その額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。それに比べて秀司の遺骸に接してのお言葉は「もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや」である。稿本天理教教祖伝の「可愛いそうに、早く帰っておいで」の方が史実偽造であろう。

 この教祖の態度をどう拝察すべきであろうか。人間思案からすれば一見非情とも拝されるようにも思われる。しかし、裏返せば、身内意識よりも教えの実践躬行こそ第一にする教祖の教義への求道さを見て取れるのではなかろうか。つまり、教祖にとっては、天保9年の立教の時以来、世界一列がすべて可愛いい子供であり、血を分けた肉親であることに特別の意味はなかった。理を聞き分けた道人の手により、人間始めた元のぢばに甘露台を建て、神楽づとめを勤めることによって、世界一列を助けるのだと仰せになり、ただただ「つとめ」の完成をおせき込みになられるばかりであった。この理の前には、肉親との死別も、官憲の迫害も、一切無頓着であられた。かような教祖の様にこそ、まさに世界助けの親心が如何に切なるか、勿体ないほどはっきりと感得させて頂くことができるのではあるまいか。教祖ならではのひながたではなかろうか。

 以下、「天理の霊能者」の61Pを参照する。この「政甚異聞証言」が教内で大問題となり、激しく批判された。これに対して、政甚は次のように述べている。
 概要「(秘話を発表した理由について)教祖には我が子、人の子の隔てはない。公平無私の偉大な人格、偉大な精神を供えられていたことと、理と云うものは例え教祖の親族であろうが、因縁の魂であろうが、善をすれば善をしたよう、悪をすれば悪をしたように公平に廻って来ると云うこと、即ち天理と云うものは公平無私のものであり、因果応報の理は争うべからざるものであると云うことを語ったのです。天理教将来の為に何れが真で何れが偽りであるか大いに正しておく必要があると思う」(飯降政甚「新宗教」大正5年2月号における談話)。

 これに対して、山澤摂行職が次のように批判している。
 教祖がもし政甚が話したようなことを云っていたとすれば、教祖も本席も詰まらない人である。

 これに対して、政甚が次のように反駁している。
 これは聞き捨てにならん言葉だと思う。(中略)自分の考えでは詰まらないどころではない。却ってこれによって教祖が神に近い人格を持って居られた方であったという荘厳無比の感に打たれるのです。(中略)自分は教祖の公平無比の偉大なる大精神を汲んで無量の感慨に打たれた本席その人を偉いと思う。これは自分の父であるから云うのではない。(中略)元来、天理教では今日まで悪いことは何でも隠そう隠そうの隠蔽主義一点張りで通って来たが、自分の考えではそれでは却って世間の疑惑を作る元だと思う。それだから事実はどこまでも事実だとして社会に発表して善悪是非の判断は社会に任せた方が良いと思う。自分が以上の事実を発表したのは、教祖は公平であり、天理も又どこまでも公平なものであると云う教祖の人格と天裁の俊厳とを知らせる為である。





(私論.私見)