第67部 1881年 84才 こふきをつくれ、秀司の出直し、かんろだい普請
明治14年

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「こふきをつくれ、秀司の出直し、かんろだい普請」を確認する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先のご執筆】
 1881(明治14)年、教祖は、4月よりお筆先十六号を執筆された。冒頭で甘露台のつとめの根本の理を明かされ、明治14年の初めから、その目標たる甘露台の石普請を急込まれた。
 このもとハ かぐらりよにん つとめハな  
 これがしんぢつ このよ始まり 
十六号3
 このたひの かぐらというハ にんけんを  
 はじめかけたる 親であるぞや
十六号4

【秀司の明心指導】
 2.20日より十日後、梅谷四郎兵衛は、2回目の参詣をした折に秀司に講名を伺うと、秀司は取次を通して次のように指導している。
 「明心は心やが講はいかん、組とせよ。天輪講にて、世界中にして、その下に組を幾組もするのや」(梅谷文書68頁)。

【教祖の「こふきを作れ」急き込み】 
 より詳しくは「別章【元の理】」に記す。

 教祖は、この頃から頻りに高弟達に「元始まりの話し」(以下、「元の理」と云う)をまとめるよう「こふきを作れ」とお急き込みされた。「元の理」の意義については早くよりお筆先に次のように記されている。

 今までも 神学こふき あるけれど
 元を知りたる ものはないぞや
三号69
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話しを 段々と
 聞いて楽しめ こふきなるぞや
三号149
 真実の こふきがでけた事ならば
 どんな事でも 月日広める
十号93

 教祖の「こふきをつくれ」を受けて、「お道」の高弟による「こふき」執筆が始まった。1881(明治14)年から1887(明治20)年にかけて32種以上の筆録本が作成された。内訳は、1881(明治14)年、12種類。明治15年-明治16年、8種類。明治17年から20年にかけて12種類、合わせて32種類となって伝存していると云う。これらの筆録本には和歌体と説話体とがあり、内容もそれぞれ特徴があり一様ではない。明治16年本からは説話体ばかりとなる。

 作成次第を確認しておく。1881(明治14)年、秀司の協力者として働く山沢良次郎が「明治14年3月これを記す、山沢良助」の表記のある和歌体の「この世始まりのお話控え」160首又は161首をまとめている。これを「山沢本こふき」と云う。これが最初のものと思われる。しかし、それは日暮れゆう貞の影響があり過ぎており、教祖が良しとするものではなかった。中山正善の「こふきの研究」(天理教道友社、1957年)に復刻されている。他に160首からなる「泥海古記」の題名の「明治14年和歌体本」である。但し、教祖は、これも「これでよし」とは認められておられない。

 次の高井猶吉の追懐談証言がある。

 「十四五年頃だったと思ふ。教祖様は、良助さんと佐右衛門さんと自分と三人にこふき話を書いて出せといはれた。良助さんは教祖様のお話の如く和歌態にして出された。仲田さんは話態に出された。が何れも教祖様の思召しには添わなかった。その差し出した書き物を下げて頂いたか否かは覚えていない。又教祖様の親しく筆をとってお書きになった泥海こふきはあらへん。第六号やその他に断片的に出てあるやろ。教祖様は、泥海こふきのお話を、ずっと続けてされたのやない。時々仰(おっしゃ)ったのを取次の者がまとめたのや」(中山、1964年61-2)。

 明治16年、桝井伊三郎が散文体の「桝井本こふき」をまとめている。しかし山沢本の影響を残したもので、教祖はこれも良としなかった。他にも「日本無双書物」、「この世始まりのお噺(はなし)控え」、「神の古記」、「古記」、「天輪王命」等の題名を付した諸本が作られている。いずれも定本の地位を獲得したものはない。(村上重良「ほんみち不敬事件」34P参照、詳細は別章【お道の理論研究】の「別章【元の理】」に記す)。

(私論.私見) 「こうき」考


【桝井伊三郎の秀司見舞い】
 桝井伊三郎が秀司の見舞いに訪れた時のやりとりが記されている。
 「御隠れになる時ももう一度御寿命をお延ばし下さるように神様にお願い申しませうかとお尋ね致しますると、先生は『ない寿命を御願いするのは、それは欲だすセ、理の欲と云うものだす』と仰せになって、更に御苦しみの御様子を拝見しませんでした(「みちのとも」第219号34-35頁、桝井本部員「中山秀司先生を憶ふ」、明治43.3.10日)。

【秀司の出直し】
 内蔵を建てることになり無事に棟上は済んだが、内作りのできないうちの前年の暮れ辺りから秀司の身上が勝れなくなり、この年4.8日(陰暦3.10日)、「転輪王講社」開設から半年余を経た頃、出直した(享年61歳)。この時、まつえは中山家に嫁いで来て13年、数え年31歳、一人娘のたまえは数え年5歳だった。

 山澤為造が、秀司出直しの様子を次のように記している。
 「仲田さん、辻さん、それに私の三人が、会えば村の某氏宅へお願い勤めに行っておりました。その頃の御願い勤めと申しますと、昼三度、夜三度、三日三夜勤めたものでありまして、その時もやっと一晩の勤めを済まし、第二日目の午前、一回の御勤めを済ませたところへ、秀司先生の御容態が悪くなったから早く帰れと、使いの方が云って来ました。明治14年の事です。私達は驚いて急ぎ帰りますと、お屋敷には他の先生方も皆な詰めかけて居られました。先生の御容態は大変お悪いようで、何でもその時、御教祖様にお願い勤めをさして頂きますと申し上げますと、『誰か身代わりに立つ者はないか』と仰せられたそうであります。これを聞いた一同は、一心に自分がその身代わりに立たせて頂きたいと思いました。願い勤めと申しましても、その頃は全く命懸けでありました。それは外ではありません。何時も親神が『真実の者が出てくれ、無理にすすめてはいかん。手一つ違っても、何時神が退くや知れんで』と仰せられていたからであります。こうした一同のただ親を思う命を懸けての真剣な願い勤めの甲斐もなく、秀司先生はとうとうお出直しになりました。皆、先生の枕元に坐って泣いて居りますと、御教祖様は上段の間から下りて来られました。そして、秀司先生の手と體(からだ)とを三度づつお撫でになりながら、『御苦労やった。じきに帰って来るのやで』と仰せられていましたが、その時親様のお目に、さすが肉親としての涙が一雫(ひとしずく)光っているのを見さして頂きました。御教祖様はそれきり上段の間にお座りになりましたが、そこにお座りになれば、もう親子の情は遥かにも通り越した厳然たる神様としておいでたのであります」(「みちのとも」昭和8年12.5日号、27-28頁)。

【秀司の出直し考】
 思えば、この間秀司は「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走し続ける日々であった。秀司は、「お道」人と云うよりも、常に中山家の立場から物事を見、教祖を母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から「お道」と関わり続けて来ていた風があった。

 これに対し、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供を助けたい一条の親心、月日の心であって、自己の心や中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これが、「お道」そのものにますます昇華する教祖と秀司の対立要因であったと拝察される。

 身のうちに どこに不足の ないものに
 月日いがめて 苦労かけたで  
十二号118
 年限は 39年も 以前にて
 心配苦労 悩み掛けたで
十二号119
 このたびの つとめ一条 止めるなら
 名代なりと すぐに退く
十五号88

 このお歌に、おつとめを進めようとする教祖と、おつとめをさせまいとする秀司との対立が窺える。教祖には、秀司が「お道」の妨害者の如く映じていた形跡が認められる。


(私論.私見) 秀司の一生考

 秀司の一生を確認しておく。秀司は、在村の有力農民の家柄であった中山家の跡取りとしてこの世にうまれた。してみれば何不自由なく過ごし得る将来が約束されていたことになる。ところが、天保8年に秀司の足痛が始まり、それが前兆とも媒介ともなって教祖が「月日の社」とおなり下されて以来、秀司は、父善兵衛の存命中は父の苦衷を横目に見ながら、善兵衛亡き後は戸主として中山家を切り盛りする立場となった。この時、教祖はひたすらに神一条による「貧のどん底」へ向かっており、その行程を共にすることを余儀なくされていた。この間、一家の生計を扶け、妹達を労りながら苦労を共々にして来た。その秀司は、「お道の道明け」時代に入るや、教祖の言に従うよりも「お道」の経営に勤しみ始めた。慶応の頃になるや、お屋敷に祈祷所を作り、ご利益営業を始めた。教祖は、「お道」という信仰の上から秀司に厳しい叱責を与えたが、秀司は自分の信仰の型を崩さなかった。ご利益営業は世上のどこでもやっていることであり、世上常識ではむしろ当たり前のことで、秀司が特段に悪いことをしたというものでもない。だが、そうした世上と教祖の思し召す世界とには大きな落差があった。この落差に対し、教祖と秀司には埋め難い溝があった。そういう意味での教祖らしさ、秀司らしさが終生続くことになった。秀司は、世の常識の眼からみれば、決して悪いという人間ではなかった。むしろ人にも好かれ人望もあった。問題は、教祖の説く「お道」が、助け一条の世界、陽気づくめの世界という、史上に例を見ない根底的な世直し、世の立替えを教理としていたことにあった。秀司は最後まで理解が及ばず、時には戸主として時には世情の論理で教祖の前に立ち塞がった。教祖は教祖で、お道の理は決して歪めず、この理を崩さなかった。教祖と秀司の確執がここにあった。この線を見ないと当時の「お道」の歩みが理解できない。

【秀司出直し譚】
 「秀司先生の出直について(その一)」(昭和8年12.5日号みちのとも「教長様御出直前後の模様」山澤為造(道友社刊)27-28Pより)。
 「仲田さん、辻さん、それに私の三人が、”あえば”村の某氏宅へお願い勤めに行っておりました。その頃のお願い勤めと申しますと、昼三度、夜三度、三日三夜勤めたものでありまして、その時もやっと一晩のつとめを済まし、第二日目の午前、一回のおつとめを済ませたところへ、秀司先生の御容態が悪くなったから早く帰れと、使いの方が云って来ました。明治14年の事です。私達は驚いて急ぎ帰りますと、お屋敷には他の先生方も皆つめかけておられました。先生の御容態は大変お悪いようで、何でもその時、御教祖様にお願い勤めをさして頂きますと申上げますと、『誰か身代りに立つ者はないか』と仰せられたそうであります。之を聞いた一同は、一心に自分がその身代りに立たせて頂きたいと思いました。願い勤めと申しましても、その頃は全く命懸けでありました。それは外でもありません。何時も親様が『真実の者が出てくれ。無理にすゝめてはいかん。手一つちがっても何時神が退くや知れんで』と仰せられていたからであります。こうした一同のたゞ親を思う命をかけての真剣な願い勤めの甲斐もなく、秀司先生はとうとうお出直しになりました。皆な先生の枕元に坐って泣いておりますと、御教祖様は上段の間から下りて来られました。そして、秀司先生の手と体とを三度づつお撫でになりながら、『御苦労やった、ぢきに帰って来るのやで』と仰せられていましたが、その時親様のお目に、さすが肉親としての涙が一しずく光っているのを見さして頂きました。御教祖様はそれきり上段の間にお座りになりましたが、そこにお坐りになれば、もう親子の情は遥かにも通り越した厳然たる神様としておいでたのであります」。
 「秀司先生の出直について(その二)」(大正11年10月発行「教祖と其の教理」(天理教同志会編)176~177ページより)。
 「3月10日、秀司氏は溘焉(こうえん。たちまちにの意味)として逝去せられた。この時、教祖は、傍らの高弟たちを顧みて、『身体は神様の借物であるから嘆くことはない。ちょうど古い着物をぬいで新しい着物と着換えるようなものや。古うなったらお返しして、又生まれ変ってくるのや』と仰せられた。そして秀司氏の亡骸をさすりながら、『おまえの霊魂(たましい)は何処へも行くのやない。このお屋敷に帰ってくるのやで。正善命(しょうぜんのみこと)という名を与えておく』と、さながら生きた人に物を言い含めるように諭し聞かされた。それから、教祖は、『神がつれてゆくのは秀司一人でない‥‥』という意味のことを神の啓示によって知らされた。翌年、松枝子の逝去に対する予感であった」。
 「秀司先生の出直について(その三)」( 昭和5年2.20日号みちのとも「秀司先生の御苦労の御一生」桝井孝四郎(道友社刊)21pより )。
 「明治14年旧3.10日の日でありました。秀司先生は61才を限りとして御出直し下さいました。秀司先生の御生涯、実に御苦労の御一生であらせられました。御教祖様の御艱難の道すがらに於て、その陰となり日向(ひなた)となりして共々にその暗がりの道を御通り下さいました。その御出直しの時、御教祖様はその死体を御撫でになって、『可愛相に 早く帰りておいで』と仰せになったそうであります。そして我が座に御教祖様が御帰り遊ばすと、御教祖様に神憑りあって、『私は何処へも行きませぬ、魂は親にだかれてるで、古着を脱ぎ捨てたまでや』と秀司先生が御教祖様の御口から御帰りになったそうであります」。
 「秀司先生の出直について(その四)」(昭和5年2.20日みちのとも「記憶に残る秀司先生のことども」記者、道友社刊、31-32pより)。
 「(前略)~こうして先生は教会公認の第一歩の労をお取り下さったのでありますが、その翌年の明治14年旧3.10日に御教祖に先立たるゝこと6年、61歳の天寿を保ってお出直しとなられたのであります。別に大した病気と云う程でもなく、楽に眠る様になくなられました。お出直の前に高弟などが、もう一度御寿命をお延し下さる様に神様にお願い申しましょうか、とお尋ね致しますと、先生は、無い寿命をお願いするのは、それは欲だすぜ、理の欲と云うものだす、と仰せになって、更にお苦しみの様子を拝見しなかったと云うことであります」。
 「秀司先生の出直について(その五)」(昭和3年7.5日号みちのとも「おさしづ」に就て」桝井孝四郎(道友社刊)12-13pより)。
 「これは私の叔母(村田すま)から聴いた話であるが、こうした御言葉が御教祖の口を通じてあったことがある。それは秀司先生が御帰幽になった晩、皆の者が中南で御休みになって居られる秀司先生の枕元で、御通夜をしてゐた時のことである。その時、御教祖の口を通じてその以前に御帰幽遊ばされてゐた御教祖の三女なる春子様(櫟本の梶本惣治郎氏妻女)なり、御教祖長男秀司先生の御二人が、御教祖の口を通じて御出ましになったことがあった。先に春子様が、『子供がみな帰ってゐるよって一寸私も帰って来ました』と御出ましになった。そしてその後で秀司先生が『私は今まで上を思ひ、世界を思ひ、村方を思ひして、神様の仰しゃる事を止めて来た。どうぞこれからは、之を雛形として神様の云ふことを守ってくれ。私はこんなになりました』と仰せられたのである。この御言葉は、御教祖を通じての御言葉ではありますが、春子様の時には、春子様の様な御言葉で、秀司先生の時には、秀司先生の肉声の様に御話があったのである。これは『おさしづ』と云ふべきものであるかないかはともかく、御教祖の御口から仰せになった御言葉である。で今の春子様の御出ましになった『子供がみな帰ってゐるよって、一寸私も帰って来ました』と仰せられたその子供が帰ってゐると云ふのは、春子様の御子梶本松次郎様なり、初代管長様(初代真柱)が丁度御屋敷へ来て居られたからである。その事を、その御話の済んだすぐ後で、村田すま叔母が勤め場所の方に御出になった松次郎様や、初代管長様なりに、お母様が今御帰りになりました、とその時の事を申上げると、『それは惜しい事をした、私も会いたかった』と仰せられたことである。こう云ふ風に御教祖の御口を通じての御言葉となって現はれたこともある。(後略)」。
 「秀司先生の出直について(その六)」(昭和5年2.20日号みちのとも「秀司先生の御苦労の御一生」桝井孝四郎(道友社刊)22-23pより)。
 「私の実母(おさめ)から秀司先生の事について、こう聞かして貰ったことがありました。『秀司先生と(私の)阿父(あふ。父を親しんでよぶ語。ここでは桝井伊三郎を指す)さんとは、それは/\話のよく合った方であった。そして桝井さん/\と云って下されて、それは優しいお方であった。と云って、阿父さんは何時も秀司先生の事を喜んで居られた。そして阿父さんに時々‘’なあ桝井さん考えて見てくれ、何にも止めたい事はないけれど、上を思い村方を思い、世界思い、それで止めるのや‘’と、こう仰ったそうや』という話を聞かされた事があります」。
 「秀司先生のエピソード①」(大正14年11.5日号みちのとも「仕込みの道(三)」春野喜市より )。
 「ある時、おやしきの普請の手伝いに辻忠作先生が参った。その中、かれこれ昼となった故弁当を頂こうと思っているが、肝心の秀司先生が少しも休む様子がないので、辻先生はとうとう我慢できずに、一人で持って来た弁当を食べてしまった。そのうち秀司先生は、休んでご飯をお上がりになるだろう、なるだろうと見ていたが、少しもそのような様子もなく、とうとう夕方となってしまったそうだ。それもその筈、秀司先生は二食で、しかもその二度の食事が二度とも茶粥であったのだ。後で分かった事だが、秀司先生は辻先生のその日の昼食をしているのを見て、おやしきの前の小川で水を飲んで、昼飯をしたためた様子をしていたそうだ」。
 「秀司先生のエピソード② 」(昭和2年8.5日号みちのとも「布教要旨(十四)」春野喜市より )。
 「我々が未だ青年をしておった年の行かぬ時に、辻先生のお話にこういう事があった。「こうしてなぁ、今ではお屋敷で箸を取ってよばれるのは何でもない様になったが、元という元を思うてみい。箸取って安心してよばれるようになる迄は、なかなか容易な事ではなかった。秀司先生が空風呂の事から世の中の誤解を受け、そうして奈良県の監獄へ三十日お入りになって御苦労下されて、秀司先生お帰りになってから、皆の人を寄せようとするに就いては色々の事をせなければならず、そこに世の誤解を受ける。人を寄せるために教祖様にも苦労をかけ、我々もいらぬ誤り迄受けねばならぬ。我々が寄りさえしなかったら、こう迄屋敷うちが苦労をする事はいらぬのである。この調子で行ったら、何処まで教祖様に苦労を掛けるかか分からない。どうしても当分は、来る人に来なと言うて事訳するより仕様がない。これから暫らくは戸締まりをして、人々を来ささぬような方針を取らなければならない。と言うので、暫らくこういう方針でおやりになった。処が神様は『来い来い』と仰るから、今日もひのきしんさして頂こうと思って、弁当持ちでやって来る。すると秀司先生に見付けられて、『忠作さん、今日は弁当持って来て一日おるつもりかい。それよりも自宅へ行って百姓をしてくれ。行(い)んでくれ、行んでくれ』と、こう言われる。神様は来いと仰るし、先生は行(い)ねと仰る。どちらを聞いていいのかしらん、と思う。そうやけれども、秀司先生は矢張り人間や。教祖様の仰る事は、こりゃ神様や。してみれば神様の仰る事をハイと聞いておいたらいいのやろう、と云うので、ハイハイと言うて一日働かして貰い、夜になると傍らに小さくなって持って来た弁当を食べる。それを秀司先生が見て、『忠作さん、弁当食べるのなら、茶沸いてるぜ』と言やはる。やっぱり真から行(い)なす気や無かったのやなあと思う。本席さんはそれを気兼ねされて、自宅へ行んでくるような顔をして門先へ行って、門口を流れている流れの傍の石に腰を掛けて、手で水を汲んで、その水で弁当を食べておいでなされた。自分の物を持って来て自分で食べるのでさいも、あちらへ逃げ、こちらへ逃げして食べなければならぬような時代もあったのじゃ。こうしてお屋敷で箸を取って、気兼ね無くよばれさして貰えるようになったのは容易な事ではなかった。」と、こういうお話があった」。
 「秀司先生のエピソード③ 」(昭和11年「第六回教義講習会講義録」「用木の使命」村田慶蔵より)。
 「先生には61歳でお出直し遊ばされたのでありますが、その出直しになりました晩、皆々の方がお通夜に出させて頂いてをられました、その場で御教祖様のお口を通じて、こうしたお話のあったことを、私はおすま叔母から聞いております。『私はこれまで道を思い、お上を思い、村方を思い、親を思うて通って来た。これから皆の者は親神様の仰せ通りに、しっかり通って貰いたい』とお話があったそうで御座います。秀司先生には身上をおかくしになってから、ほんとの腹をお打明けになっておられるのであります」。

【秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞】

 稿本天理教教祖伝は、こかんの出直しとの時と同様に「可愛いそうに、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司に代って「私は何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられた、と記している。これは、山澤摂行職証言「教祖は、秀司の枕元に立って、その額を三度撫でて、『早う帰って来るだで』と云って涙をぽろりと雫(しずく)して元の所へ帰られた」を基にしている。ところが、飯降伊蔵の息子の政甚が次のように異聞を証言している。(飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)

 概要「秀司が息をひきとった時、教祖は門屋の右側、十畳の部屋に一段高くして居られた。伊蔵が教祖に『親さん、先生(秀司)が今、息をお引き取りになりました』と知らせ、それを聞くと、教祖は、『あぁそうかい』と云って一段高いところから降り、別部屋に寝かされていた秀司の枕元にやって来て、額をゴロゴロとして、『もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや』と云い、伊蔵を振り返って『伊蔵さん、うちのざまを見ておくれ。金をためるとこの不始末やで』と涙一滴こぼさず云いなされ、元の所へ戻られた。その時、父の感慨は、何とも例えるにも例えることができなかった。親様の御精神はこういうところにあるのかと無量の感慨に打たれたと云うことを父から承りました」。
(私論.私見) 「秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞」について
 この時の教祖の言葉をこかんの時のそれと比較することが興味深い。こかんの時の場合には、その額を指がめり込むほど突いて語りかけていたと云う。それに比べて秀司の遺骸に接してのお言葉は「もう強情は張らせんやろ、張れるかい、張れるなら張ってみいや」である。稿本天理教教祖伝の「可愛いそうに、早く帰っておいで」の方が史実偽造であろう。

 この教祖の態度をどう拝察すべきであろうか。人間思案からすれば一見非情とも拝されるようにも思われる。しかし、裏返せば、身内意識よりも教えの実践躬行こそ第一にする教祖の教義への求道さを見て取れるのではなかろうか。つまり、教祖にとっては、天保9年の立教の時以来、世界一列がすべて可愛いい子供であり、血を分けた肉親であることに特別の意味はなかった。理を聞き分けた道人の手により、人間始めた元のぢばに甘露台を建て、神楽づとめを勤めることによって、世界一列を助けるのだと仰せになり、ただただ「つとめ」の完成をおせき込みになられるばかりであった。この理の前には、肉親との死別も、官憲の迫害も、一切無頓着であられた。かような教祖の様にこそ、まさに世界助けの親心が如何に切なるか、勿体ないほどはっきりと感得させて頂くことができるのではあるまいか。教祖ならではのひながたではなかろうか。

 以下、「天理の霊能者」の61Pを参照する。この「政甚異聞証言」が教内で大問題となり、激しく批判された。これに対して、政甚は次のように述べている。
 概要「(秘話を発表した理由について)教祖には我が子、人の子の隔てはない。公平無私の偉大な人格、偉大な精神を供えられていたことと、理と云うものは例え教祖の親族であろうが、因縁の魂であろうが、善をすれば善をしたよう、悪をすれば悪をしたように公平に廻って来ると云うこと、即ち天理と云うものは公平無私のものであり、因果応報の理は争うべからざるものであると云うことを語ったのです。天理教将来の為に何れが真で何れが偽りであるか大いに正しておく必要があると思う」(飯降政甚「新宗教」大正5年2月号における談話)。

 これに対して、山澤摂行職が次のように批判している。
 「教祖がもし政甚が話したようなことを云っていたとすれば、教祖も本席も詰まらない人である」。

 これに対して、政甚が次のように反駁している。
 「これは聞き捨てにならん言葉だと思う。(中略)自分の考えでは詰まらないどころではない。却ってこれによって教祖が神に近い人格を持って居られた方であったという荘厳無比の感に打たれるのです。(中略)自分は教祖の公平無比の偉大なる大精神を汲んで無量の感慨に打たれた本席その人を偉いと思う。これは自分の父であるから云うのではない。(中略)元来、天理教では今日まで悪いことは何でも隠そう隠そうの隠蔽主義一点張りで通って来たが、自分の考えではそれでは却って世間の疑惑を作る元だと思う。それだから事実はどこまでも事実だとして社会に発表して善悪是非の判断は社会に任せた方が良いと思う。自分が以上の事実を発表したのは、教祖は公平であり、天理も又どこまでも公平なものであると云う教祖の人格と天裁の俊厳とを知らせる為である」。

【秀司の妻まつえが「転輪王講社」を引き継ぐ】
 教祖は、先にこかんと別れて6年目の今、今度は秀司を失うことになった。教祖は、その妻まつえと、ようやく五歳になる孫のたまへとの三人暮らしの身となった。まつえが戸主となり、中山家を切り盛りしていくことになった。まつえは、里の小東家の助力も得て、「転輪王講社」を引き継いだ。とはいえ、「教祖伝史実校訂本下一」によれば、「秀司様がお出直しなされましたので、地福寺の出張所の事もそのままに打ち捨てられてしまいました」(復元第37号191-192頁)とある。

【秀司の庶子/音次郎が村田某の分家へ婿養子に行く】
 この頃、秀司の庶子/音次郎が質屋/村田某の分家へ婿養子に行っている。まつえは、そう豊かでない中から算段をしてたんす、長持ち、帳だんすの三荷と金百円、三段余の田地をつけて婿養子にやっている。音次郎は、勾玉村に居を構え、醤油屋などの商売を手掛けて失敗し、一両年中にすつきり財産をなくし、遂に明治16年に離縁されている。

【甘露台の石出しひのきしん】
 「正文遺韻」114 頁に「甘露台大阪へ注文」という 次のような話がある。
 明治14年、教祖様お神楽勤めをお急き込みの時、かんろふ台を据える心はなきやと、厳しく仰せられた。そこで、若江村の市兵衞様と、コシキダイ村の富さんといふ(本名久治郎)人と相談して、河内へ行き、山本様親子の人々とも相談して、同道にて大阪へ出で、或る石屋へ、甘露台の石を注文して、よろこび勇んで御地場へ帰り、この事、 神様へ申上げると、神様御立腹にて仰せらるゝには、『かんろふ台はな、一人や二人の腹でするのやないで、一列の心から据えねば何にもならんで』と、お叱りを蒙りければ、四人は案に相違して大いに恐れ入り、御詫びを申上げ、すぐ様注文を取消したる事ありと。
 5.5日(陰暦4.8日)、ぢばの東方10キロ程にある滝本村の山で教祖直々の「甘露台の石見」が行われ、続いて五月上旬から、大阪や兵庫で講社を結んでいた大勢の信者の9台の車による「石出しひのきしん」が始まった。

 5.14日(陰暦4.17日)大阪の明心組、真明組等の人達がこれに参加するなど賑やかなことであった。かくて石材も調うた。教祖伝逸話篇82「ヨイショ」に、この時の模様が次のように伝えられている。
 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から甘露台の石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。その石は九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、『ヨイショ』と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に心から感激した、という。

 なお、教祖自らが出向いて選ばれたその石は只の石ではなく、滝本村の東北に当たる山の頂上に「八つ岩」と呼ばれる神座があって、大昔、天から降ってきた神剣がその岩に当たって飛び散ったものの一つだったと云う「神の石(聖石)伝説」の口伝が遺されている。甘露台の石はどんな石でもよいというわけではなく見定められた甘露台石であったことが分かる。(「第四首 天理市のルーツをさかのぼる」参照) かくて、甘露台石がお屋敷に運ばれ、寸法通りの甘露台石普請が始まった。
 かんろ台の石普請に際して、石工の横田七次郎が現場責任者となった。盲目になった時におぢばに帰って助けられた人で 信者であったと思われる。「ひとことはな志その二」178、186Pに「七次郎には4カ月間での実働67日に対して36円50銭の賃金を受け取り、石工の道具も買い揃えてもらっています」とある。本格的な石出しが終わったのは明治14年の5.21日頃、そして9.17日に二段までできた(梅谷四郎兵衞手記及び山澤良治郎就-御尋手続上申書)。二段を作り終えるまでに4カ月程度かかっていることになる。なお、同年の9.25日に2回目の石出しをしている記録がある。
(私論.私見)
 教祖教理の核心を為すかんろ台建設の重要性を思えば、横田七次郎はよほどの腕利きであり且つ教祖の信任が厚かったと思われる。後の失踪事件に鑑みて横田七次郎を侮蔑する評がされているが、例えば「教祖の急き込みによる “ かんろ台 ”石普請を、なぜ頼りない石 工とその手下だけに任せておいたのか。なぜもっと多くの腕の利く石工を手配しなかったのか不思議に思える」とあるが、そういう評の方がお粗末と云うべきであろう。横田七次郎失踪に絡む余程の圧力を推理すべきであろう。

【官憲の尋問】
 6月頃、秀司の出直し後の日尚浅く、涙も未だ乾かぬこの頃の或る日の出来事として、真之亮の手記に次のように誌されている。
 「十四年六月、巡査六人出張し、上段間に松恵様を呼出し尋問の上、教祖様の御居間に至リ、種々尋問せし処、変りたる事なきより、説諭の上帰りたり。前夜、この事夢に見る」(復元第33号154頁)。

【初期兵神真明組のかっての一日譚】
 「異教徒の論難を指導された御教祖(その一) 」、「異教徒の論難を指導された御教祖(その二) 」。
 「明治十四年旧六月上旬の某日、大阪真明組の講元井筒梅治郎、同講員、立花善吉氏、その他六七名の講員の協力を得て、上田藤吉氏を講元とする初期兵神真明組が結成されていた。これはその頃の御話であります。

 その頃、講元上田藤吉氏の向い宅に、三好萬吉という按摩があった。18年前からの盲目ではあったが、その何者をも助けずにおかない本教信者の上田方とは向い合せであるという処から、早くから立花善吉氏の御世話になり、その頃はお陰で眼の隅の方だけ見えるという大利益を頂いていた。講社結成後間のない6月上旬の或る日であった。立花氏が引続いて、その萬吉方へお助けに運んでいた際、突如和田宮の神主と、大神宮(黒住教)の教会主と、同教会の信者の三人が出向いて来て、立花氏に質問に及んで来たのである。時に立花氏は、堺安竜町の種市という、最初大阪真明講講元井筒氏に匂いがけしたという人を伴うて来て居たが、彼種市氏は、和田宮の神主等の凄まじい質問の気迫と難問に、早くも恐れをなして何時の間にかその席から逃げ出していた。その他は上田講元を始め、めずらしい御利益を蒙った信者は数あったとて、異教間の論戦としては、物の役に立つ者のないのは勿論である。そこで立花氏一人彼らの矢面に立って質問に応じたが、立花氏とて、異教徒との問答などかって為したる経験なく、只有難い一念から助一条に勤めて居たので、論戦の用意などあろう筈がない。そういう訳であるので、彼らが歩調を合して奇襲して来る数々の質問に対しては、立花氏には殆んど何一つ返答ができなかった。そのために立花氏は、今までの先生の威厳もどこへやら、散々に悪口づかれて、その座に居たたまらん様にさえなった。そこで小用にかこつけて、密かに裏口から氏も亦抜けて出て、ハヤ船で大阪へ逃げ帰ったのである。しかしながらそれは我ながらに余りにも不覚であった。かくの如き様子では、折角の数月の苦心も、根底から覆されはしないかと思われるのであった。それが又残念至極で、神様に対しても何とも申し訳なき次第と思われてならない。その思いが自ずと氏の風貌に現われて憂色に満ちて居た。それを見た井筒講元は、『今日は立花はん、えろう顔色が悪いな』と尋ねられたが、あまりの不覚に話されもせず、『とにかくお地場へ帰って来ますわ』と答えたのみで、すぐにお地場へと帰っていった」。(つづく)
 「『立花はん、昨日は兵庫で具合わるかったな』。いきなり立ち迎えられた仲田左衛門先生から云われて、立花氏は度肝を抜かれてしまった。『エッ誰がそんな事云いましたか』と、どぎまぎしながらお尋ねすると、『今朝”親さん”が云わしゃったがな』とお答え下されて、すぐ御教祖様に御取次ぎ下さった。そこで立花氏は、御教祖に逐一(ちくいち)兵庫にありし事情を申上げたところ、御教祖様は、『立花はん、今度は、手帖に控えて去(い)ぬのやない。心に控えてゆきなはれ』と、先ず仰せ下さって、御親(おんみずか)ら懇ろに質問の角目角目をお教え下された。(※教祖が立花さんに話された話の内容は残念ながら伝わってはいないようです) そこで立花氏は、御教祖の御言葉どおり、その角目角目を、よく心に止めて大阪に帰り、それより直ちに兵庫に出向いて行った。然るに兵庫に来てみれば、さきの日の杞憂は事実としてあらわれていた。即ち、『天理王命は論評に負けた。駄目だ』という風評が立って、単純な浜の住民共は、大々的に反対に立ち、講社というも名ばかりで、殆んど叩きつぶされ、只僅かに上田藤吉氏と、三好茂八氏の妻かね女の二人のみが変らぬ信仰を持続して居てくれたに過ぎなかった。そこで立花氏は、再びその信仰の復活をはかろうとして、まずお講勤めを次々と進めてゆかむものをと、丁度あの事件のあった一週間目に、再びあの按摩の萬吉氏宅で、その御講勤めを始めたのであった。然るにその事を何処から聞いてきたものか、前質問者の一人、和田宮の神主が又やって来て、『どうもあんたは失礼やないか。前に質問に応じられず逃げて帰ったあんたが、どうして又天理王命のお勤めなぞをするのか』と、又も諤々(がくがく)の弁を振って詰問して来たのであった。然しながらこの度は、立花氏は、少しもたじろがなかった。わざとしらばくれて、『そんな事ありましたかな。もう一ぺん言うて見て下され』と、あの質問を繰り返さそうとした。彼は前回処女の如き無力の立花氏に、今竜攘の撃力(りゅうじょうのげきりょく)あるを知らない。やや憤懣(ふんまん)に堪えぬという態度を示しつつも、得意になって前回の質問を繰返しかけたのであった。立花氏の策戦は甘(うま)く図に当ったのである。氏は、『そんな事ぐらい何でもない。それはこうこういう事やで』と、先日御教祖に教えて頂いた通り、前回とは打って変って、すらすらと明答を与えて行った。かくて一問は一問と、見事に解釈されてゆく。その度毎に神主は、その豹変したる立花氏の叡智振りにすっかり感服してしまって、遂に神主自ら『天理王命を敬拝し、信者の世話をする』と兜を脱ぎ、論戦は立花氏の見事なる勝利に帰したのであった。しかも不思議な事には、御教祖の御教え下さった以外に、彼は何事も質問して来なかったという。これひとえに立花氏の純一熱烈なる信仰もさることながら、それを指導して下さった教祖様の驚くべき神智の致す所であった。(中略)熱血性の浜の住民は、この見事なる立花の勝利に、再び三好かね女の夫である角力(すもう)の取締、三好茂八氏は、最大の熱心家となって布教伝道に助力してくれたので、講社は益々多大に増加し来り、ここ兵庫今出在家町地方は、見るもの聞くもの、『天理王命はありがたい神様である』との風説を以て満たされた」。(昭和四十二年八月発行「史料掛報」第123号「おぢば参謁記(二)」白藤義治郎より)

【まつえの転輪王講社、蒸し風呂、宿屋引継ぎ】
 7.11日、まつえが山澤良治郎、村田音次郎との連名で地福寺に転輪王講社引継ぎ願いを出し認可されている。この時の依頼書(復元第37号209-210頁)を確認しておく。
 「依頼書 大和国山辺郡三嶋村」 死亡/中山秀司 跡名/同松恵 
 一、転輪王講社結社成られ申し候につき、その真言宗教会副社長拝命つかまつり、且つその教会出張所と相定め置かれ候ところ、右中山秀司義死亡後、方今女戸主に御座候ゆえ、何事も相心得申さず、甚だ不都合につき、向後(こうご)講社及び教会等の儀、その御当院御定規の通りしかるべきよう御指揮成り下されたく、この段連署をもって御依頼申し上げ候
 明治14年7月11日 
 右 中山松恵 同郡新泉村講社取締/山澤良治郎 同郡勾田村親類惣代/村田音次郎 
 宇智都(郡)久留野村 地福寺真言教会社長 少講義 日暮宥貞殿

 ※山澤良治郎は、当時、後見役のように家事万端の取り締まりに当たっていた。村田音次郎は秀司の庶子で、勾田村の村田テイの養子となっていた。

 まつえは、転輪王講社だけでなく、秀司の遺した蒸し風呂、宿屋もそのまま引継いでいる。

 この頃、養子に行っていた音次郎が信者総代として加担し始めた。まつえの義兄の小東政太郎を事務長格に据え、みきの甥にあたる前川半七などの親戚達が営業を目的につながり始めた。こうして見ると、この頃既にお道の内部では、増え続けていく道人を廻っての「収益取り扱い」が発生しつつあったことが知れる。この利権派は親族身内派と幹部信徒派とから構成されて行くことになるが、その次第は追って見ていくこととする。

【明治14年9月の節】
 9.14日、山沢良治郎が、丹波市警察署に次のような上申書を提出した記録が遺されている。(れんだいこ文責で現代文に書き換えする)
 就御尋手続上申書 大和国山辺郡新泉村平民 山沢良治郎

 一、当国山辺郡三嶋村の平民中山まつゑの祖母みきなる者、赤き衣服を着し、家には転輪王命と唱え祭り候始末につきの御尋問、左に申し奉り上げ候。この段、去る明治12年5月頃、私は咽詰病に罹り悩み候につき、医薬を相用い種々養生し候えども、頓と功験なきにつき転輪社ヘ参詣し、その旁で入湯し候ところ、早速全快し候につき、明治13年1月頃迄1ケ月に1度宛参詣致し居り候。しかるに、前病気中、自分相応の世話致すべくの心願につき、前1月頃より1ケ月中2日数15日の蒸気湯の世話致し居り候ところ、前年8月来、右中山まつゑの夫中山秀治存命中に、中山秀治宅を転輪王講社並びに当国宇智郡久留野村地福寺教会出張所と設定と成り候につき、而うして私ヘ転輪講社取締並びに講社出納方を地福寺社長より申し付けられました。これにつき、辞令証も所持罷在り候。且つ中山秀治は足痛にて引籠居候義につき、前人より依頼により日々詰居り候ところ、右秀治は本年4月10日に病死となりその後は前人家内始め親族より依頼につき、家事万端賄いを仕居り候義に御座候。

 然るに、右詰中老母みきより兼て申され候には、44年以前に我れ月日の社と貰い受け体内ヘ月日の心入り込みあり、この世界及び人間初め生じたるは月日両人の拵える故、人間の身の内は神の貸し物なる。この貸し物と云うは、目の潤いは月さま、これクニトコタチノ命。暖は日さま、ヲモタリノ命。皮繋ぎはクニサツチノ命、骨はツキヨミノ命、飲み喰い出入りはクモヨミノ命、息はカシコネノ命、右六神の貸し物なる故、人間には病気と云うは更になくと候得ども、人間は日々に貪、惜、憎、可愛、恨しい、立腹、欲、高慢これ八つの事あり故に親の月日より異見なる故、悪しきところを病として出る。この神を頼めば何れも15歳より右八つの心得違いを讃下して願い上げれば何事も成就することと申され候。

 甘露台と老母みき申され候には、人間始めの元は地場の証拠。これは人間の親里なる故に甘露台数拾三創立する所、明治14年5月より本日迄に二台でき上リありのところ、甘露台は石を以って作リ、下石軽(マヽ)三尺弐寸、上石軽(マヽ)壹尺貳寸六角、高さ八尺二寸に御坐候。然るに私共に於ては参詣人に対し前記老母みき申され候義を咄し致し候。既にて祈祷許し候様は、決してしまじく候。右御尋につき手続書を以ってこの段有体に申しあげ奉り候也

 明治十四年九月十八日  右  山沢良治郎

 9.16、17日(陰暦閏7.23、24日)、止宿人届の手違いを理由に警察の捜査の手が入った。当時、蒸風呂兼宿屋業の鑑札を受け、これを秀司名義にして居たので、宿泊した者は一々届け出ることになって居たが、この頃は参詣人が急に殖えて来た為に、忙しくてその暇がなかった。9.16日、大阪から、この年2月に信仰し始めた梅谷四郎兵衞、岸本久太郎(現大阪市西区阿波座の人。明心組の信者)外11名、17日夜には長谷与吉外5名等が帰って来て泊ったが、それを届け出なかった。

 このことが忽ち警察の知るところとなって、直ちにまつゑはじめ主だった人々を呼び出した。しかし、まつゑは櫟本へ行って不在のため、秀司の出直後、後見役のように家事万端の取締りに当って居た山沢良治郎が呼び出されて、9.18(陰暦7.25)日付手続書をとられ、同月26(陰暦8.4)日付けで75銭の科料に処せられた。又、まつゑの実家の小東政太郎は、まつゑ不在の旨を断りに行った処、時刻が遅れたとて手続書をとられ、まつゑの実印を代って捺したと言うては叱られた。

【真之亮が入籍】
 9.23日、真之亮が、まつえの養子となり中山家の人として入籍の手続きを完了した。当時、お屋敷に常住されたのは、84歳の教祖、31歳のまつえ、16歳の真之亮、5歳のたまえ、梶本ひさで、外に仲田、辻、高井、宮森らがあるいは夜分、あるいは月の中20日ほど、あるいは毎日と勤めていた。

【明治14年10月のご苦労】
 10.7日(陰暦8.25日)、丹波市分署が、多数の人々を集めて迷わすとの理由によって、中山まつゑ、小東政太郎、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎(佐右衛門)の面々を拘引し、手続書の提出を命じた上、それぞれ50銭宛の科料に処した。教祖(84歳)をも拘引し、手続書をとり50銭の科料に処した。当時、常にお屋敷に居た者は、教祖、まつゑ、真之亮、たまへ、梶本ひさ(後の山沢ひさ)の親族。外に仲田、辻、高井、宮森らの面々であった。但し辻は主として夜分、高井は月の中20日位、山本は大てい布教に廻って居た。この明治14年の節は、明治8年の御苦労以来、6年振りの出来事であった。

【この頃の中山家の資産状況】
 10.8日、中山マツエ、外四名の丹波市分署宛、手績上申書(止宿人届の手違いを理由に教祖ほか主だった人が警察に拘引された時に作成された書類)が次のように記している。(天理教管長家古文書)(復元30号P239)
 自分宅ハ廿五六ケ年以前ハ素卜相當之百姓ニテ耕地モ三町程所有致居候所追々衰弊ニ及ビ、其末貳町餘り之耕地是アリ候處、夫亡中山秀治成ル者足痛ニシテ農業挊相営兼候ヨリ綿商仕并ニ米商致居候處微運ニシテ追々損失ラ生シ候ニ付、其迩来壹町六七反之地所内、質物ニ差入成シ年期附売却等致シ、三反餘リ之耕地ラ残シ置聊生活ヲ相図リ、貳三ヶ年休業罷在候處、其後復タ残耕地ヲ抵富二差入該金ヲ以商法資本金トシ、再ヒ綿商法相営ミ候處商法上萬事利運ニ向イ云々。

【教祖、お召下ろしの赤衣をお分けさせられる】
 この年の或る日、教祖は、当時5歳のたまへに、「子供は罪のない者や、お前これを頒けておやり」と仰せられて、お召下ろしの赤衣で作った紋を、居合わせた人々に頒けさせられ、「親神様からこれを頂いても、銘々の心次第で返さんならん者もあるで」と、つけ加えられた。
 以下、「つとめ人衆と菊紋について」参照。
 これに関連して正文遺韻の「御紋のはなし」が次のように記している。
 明治十四年、増井おりん様を、はりのしんとして、山澤おひさ様と両人に、十二の菊の紋を拵う事を御命じ被遊、七十五人の人衆の印として、御下げになりたる事あり。そのおさげ被下前晩に御咄あり。 『多くの人がおはりすれば、誰が人中ともわからぬ程に、明日は人中の印を渡す。渡す事は渡すが、持ちて居られる者と、持ちて居られぬ者とあるで』と仰有って、翌日、五歳なる小人、玉恵様に御紋をお渡しになり、玉恵様より、銘々へ御下げ被下しと云ふ。此時数十名御紋を頂き、残りの紋は、今おやしきに宝蔵しあると云う。

 「しきのり物語 2」 (5~6頁)が次のように記している。
 前略 かくして、明治13年陰暦8月26日、女鳴物も初めて揃って、おつとめがつとめられたが、そのとき、教祖は、『男は黒衣裳、女は赤衣裳。これは先のまなびやで、ひながたや』と仰せられて、十二弁の菊柄の張り付け紋を授けてくださり、前川喜三郎はそれを黒衣の背に張り付け、おつとめに出させて頂いた。このご紋について、教祖は、『これから先になったら、心澄み切ったら、75人の人数揃うたら、この紋をつけておつとめをするのやで』と仰せになった。

※前川喜三郎長女きみからの高野友治氏聞書をまとめ六踏会編『前川喜三郎翁略伝』による。

 
「誠真実の道・増井りん」の「十二菊の紋のこと」(91~97頁)が次のように記している。
 前略 お遷りになってから、三十一軒のうちみやであります。そのうちみやへお渡しになる菊の紋、神様のお居間の上段の間の中にてお襖を閉めて、神様には御正面にてりんとおひさ様と二人両方に置き、神様よりのおさしづには、この菊の紋は中の芯が白の布にて綿を入れた芯でありまする。一れつに渡すのは、白紙にて白の布を着せましたなれども、三十一軒のうちみやへお渡しになるのは、芯は綿を入れまして、この菊の紋は三十一軒のうちみやへお渡し遊ばされまするのでございまする。九十三でありまするとの仰せでありましたなれども、出来上がりまして数をお調べ申しましたところが、九十四ございました。神様へりんがお申し上げまするれば、神様がしばらく神様へお伺いの上、それでよろしいとの事でありました。・・・ 中略 ・・・この三十一軒のうちみやへお渡しの菊の紋は、神様のお居間の御殿が出来まして、そうして神様がお遷りになった後にて、神様が上段の間の上にて襖を閉めて誰一人もお入れにならず、りんとおひさ様と二人を両方に置き下されまして、神様のおさしづにて出来上がりましたのでございました。増井りん 中田佐右衛門 辻忠右衛門 村田幸右衛門 桝井伊三郎 山本利八 上田嘉助 西浦弥平 上田ならいと 村田いゑ 一えだこと 西浦志を これだけの人衆が寄り合って中南の門、西側の神様のお居間の間の台の上から、神様のおさしづにて、一れつの子供にお渡し下されまする、菊の紋が出来たのでございました。

【教祖、伊蔵の伏せ込みを強く促す】

 秀司の出直し後、お屋敷では男手がないところから、山沢良治郎が世話取りしていたが、教祖は、頻りに伊蔵の住み込みをおせき込みになられた。「神様が日本一の大工にしてやろうと仰るのに、一文銭拾うて歩いている」と仰せになられたこともあった。この頃、伊蔵は仕事中に事故にあい腰が抜けて動けなくなった。戸板に乗せられてお屋敷に参ると、教祖は突如として「神が落としたとおっしゃるで」と仰せられ、

 「案じることいらんで。伊蔵さん、わしがいつも言うように、早くこの屋敷に住み込んだら、このようなことがないのに、神の言うようにせんからやで。わし一人に任せておくから、このような困ることができるのやで。今度は是非とも皆を連れて帰っておくれ」

 と仰せられた。「それではさようさせていただきます」と返事はしたもののぐずぐずしていると、一人息子の政甚が俄かに口が利けなくなり7日もそのままの姿になった。次女のまさえは眼病になり一夜のうちに目がタニシの茹でたようになった。おさとは大いに驚き、教祖にお願いに参ったところ、教祖は住み込みをせき込まれた。この時、次のような会話が為されてたと伝えられている。おさとは二人の子供を連れてお屋敷へ参った。

教祖  「お里さん、政次郎の事を知っているか」。
おさと  「承知しております」。
教祖  「政次郎の事を知っておればよいけど、この後もしっかりしいや」。
おさと  「一日も早く、お屋敷へ帰らせていただきたいのは山々でございますが、何分櫟本の人たちは余り惜しがってくれますから、その親切を振り放す袖もございませず、人情やむなく、お道のことを思いつつも、日を過ごしているような次第でございます。どうぞ悪しからずお許しください」。
教祖  「人が好くから神も好くのや。人に惜しがられる間は神も惜しがるのやで。人からあれは年寄りや、余計な者やといわれるようになったら、神も望みはない。人の好く間は神も楽しみや」。
おさと  「何分子供がありますから、子供の成長するまでお待ちください」。
教祖  「子供があるのが楽しみやで。親ばかりでは楽しみがない。早く引き上げて帰りておくれ」。

 その他種々やり取りがなされたが、家へ帰ると二人の子供の病気が回復していた。それでも逡巡していた。お筆先に次のように記されている。

 今までも 神の口説きは 段々と 
 色々と説いて 来たるなれども
十六号48
 如何ほどに 口説いたとても 誰にても 
 聞き分けがない 親の残念
十六号49

【大阪新報に教祖の噂話載る】

 7.17日、大阪新報第1076号に教祖の噂話が載る。これが新聞の出始めとなる。

 近頃奇怪なる一老婆こそ現れたり。処は大和国丹波市辺(あたり)に齢九十有余の老婆あり。自から転輪王帝と号し、昼間は何処(いずこ)へ潜伏なすものか更に影だに見せざるも、毎夜十二時を過ぐる頃忽然と現れ出で、頭(かしら)には蓬々たる霜髪(しらが)を振り乱し、身には皎々たる白衣を纏い、諸所を徘徊しながら『万代の世界一れつ見はらせば棟の分かれた物がないぞや』と妙音を発して口吟し、且つ我が宗門の徒に帰するものは一百五十年の長命を授くべしと、あられもなき妄言を吐くにぞ。

 近郷の愚民等は、これぞ天より降り玉いし神女ならねば山より出で玉いし仙人なるべしと神仏は棚に上げ、一心不乱に此の老婆を信仰する者、現に該(その)地方には三百名余名もあり。その影響は遠く我が本田及び九条辺へも波及し、この邪説に惑わされ妄信者となりしものまた二百余名に至りたる。のみならず、その内五十余名は丹波市地方に出張し、親しく老婆の体を拝み、日夜これを守護するよし。また近々妄信者一同申し合わせ甘露台と名づくる高さ三丈余の物を石にて造り老婆に奉納せんと協議中なるが、世には愚民も多きものなりとの投書を得たり。信憑はもとより保証せざるも記して該地方の人に問う。

(私論.私見) 大阪新報記事について


【中山まつえが手続書をとられる】
 9月、止宿届けを忘れたため中山まつえは手続書をとられる。
 10.7日、多数の人々を集めて迷わすとの理由で、教祖、まつえ他4名が丹波市分署に拘引され、それぞれ手続書が取られ、科料に処せられている。

【村田幸右衛門の長男・長平がお屋敷の南側で豆腐屋開業】

 この頃、大阪の村田幸右衛門の長男・長平は、前栽村の居所を引き払って、お屋敷の南側に居を構え、豆腐屋と宿屋を営み始めた。


【伊蔵一家、お屋敷へ伏せ込む】

 11月(陰暦12.17日)、おさとは意を決してまさえ、政甚を連れ、風呂敷包みを抱えてお屋敷へ引き移った。櫟本の家には伊蔵とよしえと弟子たちが残されたが、当時よしえは17歳になっていたので、家事の手伝いをして暮らした。伊蔵は昼はお屋敷の二階建てや内蔵の内造りを行っていた。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「87、人が好くから」。
 教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。ところが、やがて二女のマサエは眼病、一人息子の政甚は俄に口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分にも櫟本の人たちが親切にしてくだいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過ごしているような始末でございます、と申し上げると、教祖は、『人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人が好く間は神も楽しみや』と仰せ下された。おさとは重ねて、何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ、と申し上げると、教祖は、『子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早う帰って来いや』と仰せ下されたので、おさとは、きっと帰らせて頂きます、とお誓い申し上げて帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連れて、明治14年9月からお屋敷に住まわせて頂くこととなった。

【教会公認の手続書を提出】

 12月、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何らの返答もなかった。


【増井りんが「針の芯」に任命される】
 この年、増井りんが、「針の芯」に任命されている。上田ナライトが「守りの芯」であり、これに次ぐ芯となった。これにより、りんは、教祖が着る赤衣を仕立てる為の縫い始め、甘露台づとめの奉仕者の紋章となる菊紋の製作を委ねられることになった。菊紋とは、十二弁の菊型の赤地に白の糸を縫い付けたもので、中心が月を、周りが日を表わし、月日の紋とも云われる。

【最初期に印刷された「明治14年版『拾弐下り御勤之歌』」の登場】
 みかぐら歌で最初期に印刷されたのが「明治14年版『拾弐下り御勤之歌』」(大阪天恵組発行)。高野友治「ご存命の頃」p.310-311によれば、「拾貳下り御勤之歌」(天恵組、明治14年)は、天恵一番の村上文治郎が出版したという。高野氏は、天理教の文献が活字本として出された最初だと推測している。大阪の「天恵組(てんえぐみ)」は、茨木基敬が講長を務めていて、教祖から許された講(こう)で、その名称も教祖が与えている。後に北大教会へと名称を変えていく。(「明治14年『拾貳下り御勤之歌』大阪天恵組発行」その他参照)

 天理図書館の天理教文献室が「最も古い印刷物」と題して次のように記述している。
 教祖の原本をお借りし、書き写した人もあれば、先輩信仰者の筆写本を借りて書き写した人もあった筈です。こうして次々に書き写すことを「転写」といいます。当然書き漏らし、書き誤りが生じます。「みかぐらうた」を筆写して所有している人には借用希望者が大勢やって来ますが、貸し出し中で応えられないこともあります。となると当然、印刷したいとの思いにかられます。おそらくこうしたことから印刷されたであろう「みかぐらうた本」の最も古いものが『拾貳下り御勤之歌』です。明治14年、大阪の「天恵組(てんえぐみ)」という講から出版されました。現在のところ、本教の最も古い印刷物です。

 本教で一番最初の印刷物という「名誉」は大阪の一つの講が持っているんです。天恵組は当時、おてふり練習が盛んに行われ、おてふりを踊ることが一種の羨望として見られていた節があります。まだ教会制度が始まる前ですが、この講を母体として、後の分教会が誕生するのは、さらに十年ほど経てからのことになります。
 

 明治14年といえば、教祖がご在世の時であり、慶応3年からみかぐら歌が教え始められ、各地の教会でもおつとめの練習が盛んになり始めた頃である。当時の天理教は「踊る宗教」と揶揄されていた。同時に、天理教への迫害弾圧も激しさを増した時代だった。
 『明治14年巳五月本』では、2代真柱の中山正善も『続ひとことはなし その二』で書かれているように、今のみかぐら歌の第5節が最初に教えられており、第1節と第3節が合一された「あしきはらいたすけたまい いちれつすますかんろだい」が後に表記されている。今のみかぐら歌の第1節のもとになる「あしきはらたすけたまえ てんりんおうおふのみこと」(「明治15年鴻田本」)へ至る原資料になっており、天理教の「みかぐら歌」成立の歴史を探るうえで興味深い。


 (道人の教勢、動勢)
 「1881(明治14)年の信者たち」は次の通りである。この頃、講元が続々結成され始めている。まずは心実講。講元は前川喜三郎。宮森與三郎、鴻田忠三郎らはこの講から出ている。心実講が明治25年城法支教会(後大教会)になり、喜三郎は初代会長。

 明治14年頃には堺や京都を加えて21の講名が記録されている。即ち、大和国の天元、誠心、積善(講元/飯田岩次郎)、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。
 この年の11.1日、奥六兵衛(1850(嘉永3)年-1911(明治44)年)が、教祖から、「月日の言ば成り」というお言葉により「明誠」の講名を貰い、京都の富小路松原下ル神明町の立川和助宅の一室で明誠社の講社を開いている。
 1881(明治14)年12月17日(陰暦十月26日)、出屋鋪村で八戸/即ち山田伊八郎、山本与平、田中徳平、上田音松、辻善十郎、谷田喜平、阪口勘平、北浦喜市郎の八戸(※この内山本、辻、阪口の三軒は山田家の親戚である)をまとめて講社を結成することとなり、教祖から心勇組の講名をいただき(※※)、伊八郎がその講元としてお許しをいただいている。明治15年3月改のお屋敷の講社名簿に「倉橋村出屋鋪方講中心勇組」と銘記されている。
 この年、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が阿弥陀池の和光寺に公認の手続書を提出。但し返答なし。
 梅谷四郎兵衛(35歳)
 1881(明治14)年、河内国古市郡東坂田村(現・大阪府羽曳野市東阪田)の左官/梅谷四郎兵衛(35歳)が兄浅吉の眼病を手引きに入信(佐官業の弟子の父親から話を聞き初参拝)。明治16年、教祖より赤衣。明治20年、本席より息のさづけ。船場分教会(現大教会)初代会長。妻たね。(稿本天理教教祖伝逸話篇92「夫婦揃うて信心しなはれや」、106「蔭膳」)

 1919(大正8).5.29日、出直し(享年73歳)。浦田家の養子。勝蔵から四郎兵衛に改名。浦田家から離籍、梅谷に戻る。三男・梅次郎(2代会長)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇92「夫婦揃うて信心しなはれや」
 「明治14年2月20日、入信して間のない頃、大阪阿波座(大阪市西区阿波座)の梅谷四郎兵衛は初めておぢば帰りをした。教祖にお目にかかると、『夫婦揃うて信心しなはれや』とお諭しされた。。家に帰ると、さっそく妻のタネに『この道というものは、一人だけではいかぬそうであるから、おまえも共々信心してくれねばならぬ』と話したところ、タネは素直に従った。そこで、先輩に教えられた通り、茶碗に水を入れ、おぢばに向って、なむてんりおうのみこと、と三遍唱えて、その水を二人で分けて飲み、誓いのしるしとした」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇123「やさしい心になりなされや」
 「教祖は、入信して間もない梅谷四郎兵衛に、『やさしい心になりなされや。人を助けなされや。癖、性分を取りなされや』と諭された」。
 「梅谷四郎兵衛」(「清水由松傳稿本」127-128p)。
 「河内國西浦村阪田生れ、大阪で左官職していたが、明治14年入信し、大阪市内で布教、神戸の増野先生は親戚であり、又清水の父も大阪を通っておぢばへ往復するので特に心易く、始終一緒に本部へ運んだ。親切熱心で真実で固まったような人、一面几帳面で気むつかしい堅いところがあり、学者でも辯者(弁者)でもなかったが、教の理に深かったことは桝井伊三郎先生と雙壁(双璧)と言われ、しっくり真実咄とお指図にも言われている。本部では元老の一人として、初代真柱様の御信用もあつく何くれとなく機密に参画し、晩年には会計始め京都和歌山等の支庁長もつとめられた。そして55、6才の時肺を病んで、本席様さへ、もうむつかしい、と仰言る位に迫ったが、その堅い信仰によって不思議なお助けを頂かれ、よく73才迠の寿命を保たれた。その創設になる船場大教会は、倫敦(ロンドン)布教の為経済的破綻を来し、その教会も取消されようとする迠立ちいたったが、その手堅い信仰によってよく持ちこたえ今日にいたっている。大正8年5月29日、73才で出直された」。
 山田伊八郎(34歳)
 5月頃、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎(34歳)が山中忠七の長女こいそ(いゑに改名)と結婚したのを機に入信。この頃、山中忠七の娘こいそが教祖の側に仕えていたが、倉橋村出屋敷(現桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎からの再三の要請により再婚した。(稿本天理教教祖伝逸話篇「84、南半国」、「101、道寄りせずに」)

 稿本天理教教祖伝逸話篇「84、南半国」は次の通り。
 「明治14年5.30日(陰暦5.3日)、山中こいそ(31歳)が、倉橋村出屋鋪(でやしき、桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎へ嫁入りする時、父の忠七が、この件を教祖にお伺いすると、『嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道弘めに出す。なれども、本人の心次第や』とお言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こいそは、神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きますると言うて嫁入った。すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、5年余りも足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水を頂かせる、というふうにしてお助けさせて頂いていたところ、翌年、山中忠七が来た時に、不思議な助けを頂き、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、田中ならぎくという娘があって、目が潰れて7年余り盲目であった。これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたところ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立った、盲も目が開いた、と言って大層な評判になって、こいそを尋ねて来る者が次から次へと出て来るようになった」。

 山田伊八郎は敷島大教会初代となる。明治20年9月、教祖より赤衣。本席よりおさづけ。城島分教会(現・敷島大教会)理事、2代会長、別席取次人。

 1916(大正5).8.21日、出直し(享年69歳)。
 深谷源治郎(39歳)
 9月頃、京都市東山区古川町三条下る進之町の鍛冶/深谷源治郎ら(39歳)が富川久吉の手引きで教理の明朗さに感じて入信。明治20年9.9日、おさづけ。河原町分教会(現大教会)初代・3代会長。妻・ハナ。

 1923(大正12).10.17日、出直し(享年81歳)。
 鴻田忠三郎(54歳)
 河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)の農業/鴻田忠三郎(54歳)が次女りきの眼病を手引きに初参拝、入信。生家高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村‐現・奈良県天理市檜垣町)の養嗣子となる。眞之亮の後見役。明治20年のおつとめで、神楽をつとめる。(稿本天理教教祖伝逸話篇95「道の二百里も」)

 1903(明治36).7.29日、出直し(享年76歳)。
 松井けい(31才)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「85、子供には重荷」。
 「明治14年晩春のこと。ここ数年来、歯の根に蜂の巣のように穴があき、骨にとどいて、日夜泣き暮らしていた松井けい(当時31才)は、たまたま家の前を通りかかった鋳掛屋夫婦の匂いがけで、教えられた通り、茶碗に水を汲んで、なむてんりわうのみことと唱えて、これを頂くと、忽ち痛みは鎮まり、二、三日のうちに、年来の悩みがすっかり全快する、という不思議な助けを頂いた。そのお礼詣りに、磯城郡耳成村木原から、三里の道のりを歩いて、おぢばへ帰り、教祖にお目通りした。教祖は、三升の鏡餅を背負うて来た、当時8才の長男忠作に、お目をとめられて、『よう、帰って来たなあ。子供には重荷やなあ』とお言葉を下された。忠作は、このお言葉を胸に刻んで、生涯忘れず、いかなる中も通り切って助け一条に進ませて頂いた」。
 上原佐助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「81、さあお上がり」。
 「上原佐助は、伯父佐吉夫婦、妹イシと共に、明治14年5.14日(陰暦4.17日)、おぢば帰りをして、幸いにも教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、大層お喜び下され、筍と小芋と牛蒡のお煮しめを、御手ずから小皿に盛り分けて下され、更に、月日に雲を描いたお盃にお神酒を注いで下され、『さあ、お上がり』とおすすめ下された。この時、佐助は、三十代の血気盛りであった。教祖は、いろいろとお話し下されて後、スッとお手を差し伸べられ、佐助の両手首をお握りになって、『振りほどくように』と仰せられたが、佐助は、全身がしびれるような思いがして、ただ恐れ入りました、と平伏するばかりであった。妹のイシ(後に辻川イシ)が、後年の思い出話に、その厳かな有様は、とても口には言えません。ハッとして思わず頭が下がりました、と語っている。この時、教祖の温かい親心とお力を、ありありとお見せ頂いて、佐助は、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうとの、確固たる信仰を抱くようになった」。
 この年、後に東大教会初代となる上原佐助が、教祖の言葉により大阪から関東布教に出た。やがて「東京真明講社」を設立し東京八講社の基礎を固める。

【この頃の逸話】
 岡田輿之助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「83、長々の間、ご苦労であったと、おさづけの理拝戴」。
 「明治14年5月、岡田輿之助(後の宮森輿三郎)が、お屋敷の田圃(たんぼ)で農作業をしていると、教祖からお呼び出しがあった。野良着のまま急いで教祖の御前に参上すると、教祖がおさづけり理をお渡し下された上で、『長々の間、ご苦労であった』と、ねぎらいのお言葉を下された」。
 岡本重治郎の長男善六と、その妻シナ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「86、大きなたすけ」。
 「大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、7人の子供が授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男榮太郎と末女カンの二人で、その間の5人は、あるいは夭折したり流産したりであった。明治12年に、長男榮太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は、大きく成人したのであったが、同14年8月ごろになって、シナにとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約1里ある小路村で6町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衛の家から使いが来て、長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何とか預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございますが、まげて承知して頂きたい、との口上である。その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受けるわけにもゆかず、お気の毒ですが、引き受けるわけには参りません、と断った。しかし、そこをどうしても、と言うので、思案に余ったシナは、それなら教祖にお伺いしてから、と返事して、直ぐ様お屋敷へ向かった。そして、教祖にお目にかかって、お伺いすると、『金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても、直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない』と仰せになった。この時、シナは、よく分かりました。けれども私はもう乳が出ないようになっておりますが、それてもお世話できましょうか、と押して伺うと、教祖は、『世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで』とのお言葉である。これを承って、シナは、神様におもたれする心を定め、お世話さして頂く、と先方へ返事した。すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。8ヶ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育てられていたためか、生まれて百日余りにもなるというのに、やせ衰えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものではない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうなる事かと、一時は心配した。が、そうしているうちに、2、3日経つと、不思議と乳が出るようになって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、引き続いて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下されて、『シナはん、善い事をしなはったなあ』とおねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通るところに、親神様様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを身に沁みて体験した。シナ26才の時のことである」。
 土佐卯之助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「88、危ないところを」。
 「明治14年晩秋のこと。土佐卯之助は、北海道奥尻島での海難を救けて頂いたお礼に、船が大阪の港に錨を下ろしたその日、おぢばへ帰って来た。そして、かんろだいの前に参拝して、親神様にお礼申し上げると共に、今後の決心をお誓いした。嬉しさの余り、お屋敷で先輩の人々に、その時の様子を詳しく話していると、その話に耳を傾けていたある先輩が、話をさえ切って、おい、それは何月何日の何時頃のことではないか、と言った。日を数えてみると、全く遭難の当日を言いあてられたのであった。その先輩の話によると、その日、教祖は、お居間の北向きの障子を開けられ、おつとめの扇を開いてお立ちになり、北の方に向かって、しばらく、『オーイ、オーイ』、と誰かをお招きになっていた。それで、不思議なこともあるものだと思っていたが、今の話を聞くと、成る程と合点が行った、とのことである。これを聞いて、土佐は深く感激し、たまらなくなって教祖の御前に参上して、ない命をお救け下さいまして、有難うございました、と畳に額をすり付けて、お礼申し上げた。その声は、打ちふるえ、目は涙にかすんで、教祖のお顔もよくは拝めないくらいであった。その時、教祖は、『危ないところを、連れて帰ったで』とやさしい声でねぎらいのお言葉を下された。この時、土佐は、長年の船乗り稼業と手を切って、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうと、心を定めたのである」。
 村田イヱ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「89、食べ残しの甘酒」。
 「教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。明治14年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ5才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、あの甘酒を買うてお祖母さんに上げよう、と言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。イヱは、それを見て、いと、これは、教祖にお上げしてはいけません、と言って茶碗をお返し願った。考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである」。

 この頃、村田幸右衛門は、坐骨神経痛を助けられたお礼につき、教祖に「どうお礼をさせて貰ったらよろしいのでせうか」と尋ねたところ、次のように諭されている。

 「金や物でないで。助けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで助けて欲しいと願う人を助けに行くことが、一番の御恩返しやから、しっかりとお助けするように」。

 山沢為造
 稿本天理教教祖伝逸話篇「69、弟さんは尚も欲しい」。
 「1881(明治14)年頃、新泉村(にいずみむら、天理市新泉町)の山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時、教祖が次のようにお諭し下された。『為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、“弟さんは尚も欲しい”と仰(お)っしやりますねで』」。

 山沢為造は山澤良治郎とのぶ夫婦の次男。安政4年生まれ。明治11年、身上のお手引きをいただき、父に勧められてお屋敷へ帰り、快方に向かう。明治16年、父の出直しを機にお屋敷への入り込みを決意。明治20年、初代真柱の姉・梶本ひさと結婚。初代真柱出直し後、大正4年から同14年まで管長職務摂行者を勤める。昭和11年、出直し(享年80歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「90、一代より二代」。
 「明治14年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、『神様はなあ、親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている、と仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで』、とかようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました」。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「96、心の合うた者」。
 「明治14、5年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、『神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで』、と仰っしゃりますねで』、と」。
 岡本シナ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「91、踊って去ぬのやで」。
 「 明治14年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、『シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ』、と仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有り難いやら、それは、忘れられない感激であった。その後幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が『ようお詣りなされたなあ。さあさあ帯を解いて、着物をお脱ぎ』と仰せになるので、何事が心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召し物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。その時の勿体なさ、嬉しさ、有り難さ、それは、口や筆で表すことの出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで、丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、『着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれを着て、踊って去ぬのやで』と仰せられた。シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。そんな事をすれば、町の人のよい笑ものになる、また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、今日は家へ去ぬことが出来ぬかもしれん、と思った。ようやく、覚悟を決めて、先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい、と教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりしながらかえった。気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナは、ホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の感激に打たれ、シナは、心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった」。

 (当時の国内社会事情)
 2.7日、堺県が廃止されて、大阪府に合併された。
 10.12日、「明治23年に国会開設」の勅諭が出る。
 10.18日、自由党が結成される。初代総理は板垣退助。(明治17年、解党する)

 この年、集会条例(政治集会・結社の許可制、官吏・軍人・教員・学生生徒は参加禁止、警察官の解散権)公布される。斬首刑が廃止される。


 (宗教界の動き)
 1881(明治14)年.2.3日、東京で、神道大会議開かれる。神道事務局規定を定め、有栖川宮を総裁に仰ぐ。10月、神社寺院以外での葬儀や参拝を禁じる。
 この年、明治10年より教導職を管轄していた内務省が、神官と 教導職の分離方針を打ち出した。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1881(明治14)年、パスツールが、狂犬病予防法を発見。





(私論.私見)