第67部 | 1881年 | 84才 | こふきをつくれ、秀司の出直し、かんろだい普請 |
明治14年 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「こふきをつくれ、秀司の出直し、かんろだい普請」を確認する。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【お筆先のご執筆】 | ||||
1881(明治14)年、教祖は、4月よりお筆先十六号を執筆された。冒頭で甘露台のつとめの根本の理を明かされ、明治14年の初めから、その目標たる甘露台の石普請を急込まれた。
|
【秀司の明心指導】 | |
2.20日より十日後、梅谷四郎兵衛は、2回目の参詣をした折に秀司に講名を伺うと、秀司は取次を通して次のように指導している。
|
【教祖の「こふきを作れ」急き込み】 | |||||||||
より詳しくは「別章【元の理】」に記す。 | |||||||||
教祖は、この頃から頻りに高弟達に「元始まりの話し」(以下、「元の理」と云う)をまとめるよう「こふきを作れ」とお急き込みされた。「元の理」の意義については早くよりお筆先に次のように記されている。
教祖の「こふきをつくれ」を受けて、「お道」の高弟による「こふき」執筆が始まった。1881(明治14)年から1887(明治20)年にかけて32種以上の筆録本が作成された。内訳は、1881(明治14)年、12種類。明治15年-明治16年、8種類。明治17年から20年にかけて12種類、合わせて32種類となって伝存していると云う。これらの筆録本には和歌体と説話体とがあり、内容もそれぞれ特徴があり一様ではない。明治16年本からは説話体ばかりとなる。
明治16年、桝井伊三郎が散文体の「桝井本こふき」をまとめている。しかし山沢本の影響を残したもので、教祖はこれも良としなかった。他にも「日本無双書物」、「この世始まりのお噺(はなし)控え」、「神の古記」、「古記」、「天輪王命」等の題名を付した諸本が作られている。いずれも定本の地位を獲得したものはない。(村上重良「ほんみち不敬事件」34P参照、詳細は別章【お道の理論研究】の「別章【元の理】」に記す)。 |
|||||||||
|
|||||||||
【桝井伊三郎の秀司見舞い】 | |
桝井伊三郎が秀司の見舞いに訪れた時のやりとりが記されている。
|
【秀司の出直し】 | |
内蔵を建てることになり無事に棟上は済んだが、内作りのできないうちの前年の暮れ辺りから秀司の身上が勝れなくなり、この年4.8日(陰暦3.10日)、「転輪王講社」開設から半年余を経た頃、出直した(享年61歳)。この時、まつえは中山家に嫁いで来て13年、数え年31歳、一人娘のたまえは数え年5歳だった。 山澤為造が、秀司出直しの様子を次のように記している。
|
【秀司の出直し考】 | ||||||
思えば、この間秀司は「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走し続ける日々であった。秀司は、「お道」人と云うよりも、常に中山家の立場から物事を見、教祖を母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から「お道」と関わり続けて来ていた風があった。
これに対し、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供を助けたい一条の親心、月日の心であって、自己の心や中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これが、「お道」そのものにますます昇華する教祖と秀司の対立要因であったと拝察される。
このお歌に、おつとめを進めようとする教祖と、おつとめをさせまいとする秀司との対立が窺える。教祖には、秀司が「お道」の妨害者の如く映じていた形跡が認められる。 |
|
秀司の一生を確認しておく。秀司は、在村の有力農民の家柄であった中山家の跡取りとしてこの世にうまれた。してみれば何不自由なく過ごし得る将来が約束されていたことになる。ところが、天保8年に秀司の足痛が始まり、それが前兆とも媒介ともなって教祖が「月日の社」とおなり下されて以来、秀司は、父善兵衛の存命中は父の苦衷を横目に見ながら、善兵衛亡き後は戸主として中山家を切り盛りする立場となった。この時、教祖はひたすらに神一条による「貧のどん底」へ向かっており、その行程を共にすることを余儀なくされていた。この間、一家の生計を扶け、妹達を労りながら苦労を共々にして来た。その秀司は、「お道の道明け」時代に入るや、教祖の言に従うよりも「お道」の経営に勤しみ始めた。慶応の頃になるや、お屋敷に祈祷所を作り、ご利益営業を始めた。教祖は、「お道」という信仰の上から秀司に厳しい叱責を与えたが、秀司は自分の信仰の型を崩さなかった。ご利益営業は世上のどこでもやっていることであり、世上常識ではむしろ当たり前のことで、秀司が特段に悪いことをしたというものでもない。だが、そうした世上と教祖の思し召す世界とには大きな落差があった。この落差に対し、教祖と秀司には埋め難い溝があった。そういう意味での教祖らしさ、秀司らしさが終生続くことになった。秀司は、世の常識の眼からみれば、決して悪いという人間ではなかった。むしろ人にも好かれ人望もあった。問題は、教祖の説く「お道」が、助け一条の世界、陽気づくめの世界という、史上に例を見ない根底的な世直し、世の立替えを教理としていたことにあった。秀司は最後まで理解が及ばず、時には戸主として時には世情の論理で教祖の前に立ち塞がった。教祖は教祖で、お道の理は決して歪めず、この理を崩さなかった。教祖と秀司の確執がここにあった。この線を見ないと当時の「お道」の歩みが理解できない。 |
【秀司出直し譚】 | ||||||||||||||||||
|
【秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞】 | ||||||
稿本天理教教祖伝は、こかんの出直しとの時と同様に「可愛いそうに、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司に代って「私は何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられた、と記している。これは、山澤摂行職証言「教祖は、秀司の枕元に立って、その額を三度撫でて、『早う帰って来るだで』と云って涙をぽろりと雫(しずく)して元の所へ帰られた」を基にしている。ところが、飯降伊蔵の息子の政甚が次のように異聞を証言している。(飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)
以下、「天理の霊能者」の61Pを参照する。この「政甚異聞証言」が教内で大問題となり、激しく批判された。これに対して、政甚は次のように述べている。
これに対して、山澤摂行職が次のように批判している。
これに対して、政甚が次のように反駁している。
|
【秀司の妻まつえが「転輪王講社」を引き継ぐ】 |
教祖は、先にこかんと別れて6年目の今、今度は秀司を失うことになった。教祖は、その妻まつえと、ようやく五歳になる孫のたまへとの三人暮らしの身となった。まつえが戸主となり、中山家を切り盛りしていくことになった。まつえは、里の小東家の助力も得て、「転輪王講社」を引き継いだ。とはいえ、「教祖伝史実校訂本下一」によれば、「秀司様がお出直しなされましたので、地福寺の出張所の事もそのままに打ち捨てられてしまいました」(復元第37号191-192頁)とある。 |
【秀司の庶子/音次郎が村田某の分家へ婿養子に行く】 |
この頃、秀司の庶子/音次郎が質屋/村田某の分家へ婿養子に行っている。まつえは、そう豊かでない中から算段をしてたんす、長持ち、帳だんすの三荷と金百円、三段余の田地をつけて婿養子にやっている。音次郎は、勾玉村に居を構え、醤油屋などの商売を手掛けて失敗し、一両年中にすつきり財産をなくし、遂に明治16年に離縁されている。 |
【甘露台の石出しひのきしん】 | |
「正文遺韻」114 頁に「甘露台大阪へ注文」という 次のような話がある。
|
|
5.5日(陰暦4.8日)、ぢばの東方10キロ程にある滝本村の山で教祖直々の「甘露台の石見」が行われ、続いて五月上旬から、大阪や兵庫で講社を結んでいた大勢の信者の9台の車による「石出しひのきしん」が始まった。 5.14日(陰暦4.17日)大阪の明心組、真明組等の人達がこれに参加するなど賑やかなことであった。かくて石材も調うた。教祖伝逸話篇82「ヨイショ」に、この時の模様が次のように伝えられている。
なお、教祖自らが出向いて選ばれたその石は只の石ではなく、滝本村の東北に当たる山の頂上に「八つ岩」と呼ばれる神座があって、大昔、天から降ってきた神剣がその岩に当たって飛び散ったものの一つだったと云う「神の石(聖石)伝説」の口伝が遺されている。甘露台の石はどんな石でもよいというわけではなく見定められた甘露台石であったことが分かる。(「第四首 天理市のルーツをさかのぼる」参照) かくて、甘露台石がお屋敷に運ばれ、寸法通りの甘露台石普請が始まった。 |
|
かんろ台の石普請に際して、石工の横田七次郎が現場責任者となった。盲目になった時におぢばに帰って助けられた人で 信者であったと思われる。「ひとことはな志その二」178、186Pに「七次郎には4カ月間での実働67日に対して36円50銭の賃金を受け取り、石工の道具も買い揃えてもらっています」とある。本格的な石出しが終わったのは明治14年の5.21日頃、そして9.17日に二段までできた(梅谷四郎兵衞手記及び山澤良治郎就-御尋手続上申書)。二段を作り終えるまでに4カ月程度かかっていることになる。なお、同年の9.25日に2回目の石出しをしている記録がある。 | |
![]() |
|
教祖教理の核心を為すかんろ台建設の重要性を思えば、横田七次郎はよほどの腕利きであり且つ教祖の信任が厚かったと思われる。後の失踪事件に鑑みて横田七次郎を侮蔑する評がされているが、例えば「教祖の急き込みによる “ かんろ台 ”石普請を、なぜ頼りない石 工とその手下だけに任せておいたのか。なぜもっと多くの腕の利く石工を手配しなかったのか不思議に思える」とあるが、そういう評の方がお粗末と云うべきであろう。横田七次郎失踪に絡む余程の圧力を推理すべきであろう。 |
【官憲の尋問】 | |
6月頃、秀司の出直し後の日尚浅く、涙も未だ乾かぬこの頃の或る日の出来事として、真之亮の手記に次のように誌されている。
|
【初期兵神真明組のかっての一日譚】 | ||
「異教徒の論難を指導された御教祖(その一) 」、「異教徒の論難を指導された御教祖(その二) 」。
|
【まつえの転輪王講社、蒸し風呂、宿屋引継ぎ】 | |
7.11日、まつえが山澤良治郎、村田音次郎との連名で地福寺に転輪王講社引継ぎ願いを出し認可されている。この時の依頼書(復元第37号209-210頁)を確認しておく。
※山澤良治郎は、当時、後見役のように家事万端の取り締まりに当たっていた。村田音次郎は秀司の庶子で、勾田村の村田テイの養子となっていた。 まつえは、転輪王講社だけでなく、秀司の遺した蒸し風呂、宿屋もそのまま引継いでいる。 この頃、養子に行っていた音次郎が信者総代として加担し始めた。まつえの義兄の小東政太郎を事務長格に据え、みきの甥にあたる前川半七などの親戚達が営業を目的につながり始めた。こうして見ると、この頃既にお道の内部では、増え続けていく道人を廻っての「収益取り扱い」が発生しつつあったことが知れる。この利権派は親族身内派と幹部信徒派とから構成されて行くことになるが、その次第は追って見ていくこととする。 |
【明治14年9月の節】 | |
9.14日、山沢良治郎が、丹波市警察署に次のような上申書を提出した記録が遺されている。(れんだいこ文責で現代文に書き換えする)
9.16、17日(陰暦閏7.23、24日)、止宿人届の手違いを理由に警察の捜査の手が入った。当時、蒸風呂兼宿屋業の鑑札を受け、これを秀司名義にして居たので、宿泊した者は一々届け出ることになって居たが、この頃は参詣人が急に殖えて来た為に、忙しくてその暇がなかった。9.16日、大阪から、この年2月に信仰し始めた梅谷四郎兵衞、岸本久太郎(現大阪市西区阿波座の人。明心組の信者)外11名、17日夜には長谷与吉外5名等が帰って来て泊ったが、それを届け出なかった。 このことが忽ち警察の知るところとなって、直ちにまつゑはじめ主だった人々を呼び出した。しかし、まつゑは櫟本へ行って不在のため、秀司の出直後、後見役のように家事万端の取締りに当って居た山沢良治郎が呼び出されて、9.18(陰暦7.25)日付手続書をとられ、同月26(陰暦8.4)日付けで75銭の科料に処せられた。又、まつゑの実家の小東政太郎は、まつゑ不在の旨を断りに行った処、時刻が遅れたとて手続書をとられ、まつゑの実印を代って捺したと言うては叱られた。 |
【真之亮が入籍】 |
9.23日、真之亮が、まつえの養子となり中山家の人として入籍の手続きを完了した。当時、お屋敷に常住されたのは、84歳の教祖、31歳のまつえ、16歳の真之亮、5歳のたまえ、梶本ひさで、外に仲田、辻、高井、宮森らがあるいは夜分、あるいは月の中20日ほど、あるいは毎日と勤めていた。 |
【明治14年10月のご苦労】 |
10.7日(陰暦8.25日)、丹波市分署が、多数の人々を集めて迷わすとの理由によって、中山まつゑ、小東政太郎、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎(佐右衛門)の面々を拘引し、手続書の提出を命じた上、それぞれ50銭宛の科料に処した。教祖(84歳)をも拘引し、手続書をとり50銭の科料に処した。当時、常にお屋敷に居た者は、教祖、まつゑ、真之亮、たまへ、梶本ひさ(後の山沢ひさ)の親族。外に仲田、辻、高井、宮森らの面々であった。但し辻は主として夜分、高井は月の中20日位、山本は大てい布教に廻って居た。この明治14年の節は、明治8年の御苦労以来、6年振りの出来事であった。 |
【この頃の中山家の資産状況】 | |
10.8日、中山マツエ、外四名の丹波市分署宛、手績上申書(止宿人届の手違いを理由に教祖ほか主だった人が警察に拘引された時に作成された書類)が次のように記している。(天理教管長家古文書)(復元30号P239)
|
【教祖、お召下ろしの赤衣をお分けさせられる】 | |||
|
|||
以下、「つとめ人衆と菊紋について」参照。 | |||
これに関連して正文遺韻の「御紋のはなし」が次のように記している。
「しきのり物語 2」 (5~6頁)が次のように記している。
「誠真実の道・増井りん」の「十二菊の紋のこと」(91~97頁)が次のように記している。
|
【教祖、伊蔵の伏せ込みを強く促す】 | |||||||||||||||||||
秀司の出直し後、お屋敷では男手がないところから、山沢良治郎が世話取りしていたが、教祖は、頻りに伊蔵の住み込みをおせき込みになられた。「神様が日本一の大工にしてやろうと仰るのに、一文銭拾うて歩いている」と仰せになられたこともあった。この頃、伊蔵は仕事中に事故にあい腰が抜けて動けなくなった。戸板に乗せられてお屋敷に参ると、教祖は突如として「神が落としたとおっしゃるで」と仰せられ、
と仰せられた。「それではさようさせていただきます」と返事はしたもののぐずぐずしていると、一人息子の政甚が俄かに口が利けなくなり7日もそのままの姿になった。次女のまさえは眼病になり一夜のうちに目がタニシの茹でたようになった。おさとは大いに驚き、教祖にお願いに参ったところ、教祖は住み込みをせき込まれた。この時、次のような会話が為されてたと伝えられている。おさとは二人の子供を連れてお屋敷へ参った。
その他種々やり取りがなされたが、家へ帰ると二人の子供の病気が回復していた。それでも逡巡していた。お筆先に次のように記されている。
|
【大阪新報に教祖の噂話載る】 | |
7.17日、大阪新報第1076号に教祖の噂話が載る。これが新聞の出始めとなる。
|
|
|
|
【中山まつえが手続書をとられる】 |
9月、止宿届けを忘れたため中山まつえは手続書をとられる。 |
10.7日、多数の人々を集めて迷わすとの理由で、教祖、まつえ他4名が丹波市分署に拘引され、それぞれ手続書が取られ、科料に処せられている。 |
【村田幸右衛門の長男・長平がお屋敷の南側で豆腐屋開業】 |
この頃、大阪の村田幸右衛門の長男・長平は、前栽村の居所を引き払って、お屋敷の南側に居を構え、豆腐屋と宿屋を営み始めた。 |
【伊蔵一家、お屋敷へ伏せ込む】 | |
11月(陰暦12.17日)、おさとは意を決してまさえ、政甚を連れ、風呂敷包みを抱えてお屋敷へ引き移った。櫟本の家には伊蔵とよしえと弟子たちが残されたが、当時よしえは17歳になっていたので、家事の手伝いをして暮らした。伊蔵は昼はお屋敷の二階建てや内蔵の内造りを行っていた。 |
|
稿本天理教教祖伝逸話篇「87、人が好くから」。
|
【教会公認の手続書を提出】 |
12月、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が、真心組とも話し合った上、大阪阿弥陀池の和光寺へ、初めて教会公認の手続書を提出した。しかし、何らの返答もなかった。 |
【増井りんが「針の芯」に任命される】 |
この年、増井りんが、「針の芯」に任命されている。上田ナライトが「守りの芯」であり、これに次ぐ芯となった。これにより、りんは、教祖が着る赤衣を仕立てる為の縫い始め、甘露台づとめの奉仕者の紋章となる菊紋の製作を委ねられることになった。菊紋とは、十二弁の菊型の赤地に白の糸を縫い付けたもので、中心が月を、周りが日を表わし、月日の紋とも云われる。 |
【最初期に印刷された「明治14年版『拾弐下り御勤之歌』」の登場】 | |
みかぐら歌で最初期に印刷されたのが「明治14年版『拾弐下り御勤之歌』」(大阪天恵組発行)。高野友治「ご存命の頃」p.310-311によれば、「拾貳下り御勤之歌」(天恵組、明治14年)は、天恵一番の村上文治郎が出版したという。高野氏は、天理教の文献が活字本として出された最初だと推測している。大阪の「天恵組(てんえぐみ)」は、茨木基敬が講長を務めていて、教祖から許された講(こう)で、その名称も教祖が与えている。後に北大教会へと名称を変えていく。(「明治14年『拾貳下り御勤之歌』大阪天恵組発行」その他参照) 天理図書館の天理教文献室が「最も古い印刷物」と題して次のように記述している。
明治14年といえば、教祖がご在世の時であり、慶応3年からみかぐら歌が教え始められ、各地の教会でもおつとめの練習が盛んになり始めた頃である。当時の天理教は「踊る宗教」と揶揄されていた。同時に、天理教への迫害弾圧も激しさを増した時代だった。 |
(道人の教勢、動勢) | |
「1881(明治14)年の信者たち」は次の通りである。この頃、講元が続々結成され始めている。まずは心実講。講元は前川喜三郎。宮森與三郎、鴻田忠三郎らはこの講から出ている。心実講が明治25年城法支教会(後大教会)になり、喜三郎は初代会長。 明治14年頃には堺や京都を加えて21の講名が記録されている。即ち、大和国の天元、誠心、積善(講元/飯田岩次郎)、心実、心勇、河内国の天徳、栄続、真恵、誠神、敬神、神楽、天神(後に守誠)、平真、大阪の真心、天恵、真明、明心、堺の真実、朝日、神世、京都の明誠等である。 |
|
この年の11.1日、奥六兵衛(1850(嘉永3)年-1911(明治44)年)が、教祖から、「月日の言ば成り」というお言葉により「明誠」の講名を貰い、京都の富小路松原下ル神明町の立川和助宅の一室で明誠社の講社を開いている。 | |
1881(明治14)年12月17日(陰暦十月26日)、出屋鋪村で八戸/即ち山田伊八郎、山本与平、田中徳平、上田音松、辻善十郎、谷田喜平、阪口勘平、北浦喜市郎の八戸(※この内山本、辻、阪口の三軒は山田家の親戚である)をまとめて講社を結成することとなり、教祖から心勇組の講名をいただき(※※)、伊八郎がその講元としてお許しをいただいている。明治15年3月改のお屋敷の講社名簿に「倉橋村出屋鋪方講中心勇組」と銘記されている。 | |
この年、大阪明心組の梅谷四郎兵衞が阿弥陀池の和光寺に公認の手続書を提出。但し返答なし。 | |
梅谷四郎兵衛(35歳) | |
1881(明治14)年、河内国古市郡東坂田村(現・大阪府羽曳野市東阪田)の左官/梅谷四郎兵衛(35歳)が兄浅吉の眼病を手引きに入信(佐官業の弟子の父親から話を聞き初参拝)。明治16年、教祖より赤衣。明治20年、本席より息のさづけ。船場分教会(現大教会)初代会長。妻たね。(稿本天理教教祖伝逸話篇92「夫婦揃うて信心しなはれや」、106「蔭膳」) 1919(大正8).5.29日、出直し(享年73歳)。浦田家の養子。勝蔵から四郎兵衛に改名。浦田家から離籍、梅谷に戻る。三男・梅次郎(2代会長)。 |
|
稿本天理教教祖伝逸話篇92「夫婦揃うて信心しなはれや」
|
|
稿本天理教教祖伝逸話篇123「やさしい心になりなされや」
|
|
「梅谷四郎兵衛」(「清水由松傳稿本」127-128p)。
|
|
山田伊八郎(34歳) | |
5月頃、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎(34歳)が山中忠七の長女こいそ(いゑに改名)と結婚したのを機に入信。この頃、山中忠七の娘こいそが教祖の側に仕えていたが、倉橋村出屋敷(現桜井市倉橋出屋敷)の山田伊八郎からの再三の要請により再婚した。(稿本天理教教祖伝逸話篇「84、南半国」、「101、道寄りせずに」) 稿本天理教教祖伝逸話篇「84、南半国」は次の通り。
山田伊八郎は敷島大教会初代となる。明治20年9月、教祖より赤衣。本席よりおさづけ。城島分教会(現・敷島大教会)理事、2代会長、別席取次人。 1916(大正5).8.21日、出直し(享年69歳)。 |
|
深谷源治郎(39歳) | |
9月頃、京都市東山区古川町三条下る進之町の鍛冶/深谷源治郎ら(39歳)が富川久吉の手引きで教理の明朗さに感じて入信。明治20年9.9日、おさづけ。河原町分教会(現大教会)初代・3代会長。妻・ハナ。 1923(大正12).10.17日、出直し(享年81歳)。 |
|
鴻田忠三郎(54歳) | |
河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)の農業/鴻田忠三郎(54歳)が次女りきの眼病を手引きに初参拝、入信。生家高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村‐現・奈良県天理市檜垣町)の養嗣子となる。眞之亮の後見役。明治20年のおつとめで、神楽をつとめる。(稿本天理教教祖伝逸話篇95「道の二百里も」) 1903(明治36).7.29日、出直し(享年76歳)。 |
|
松井けい(31才) | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「85、子供には重荷」。
|
|
上原佐助 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「81、さあお上がり」。
|
|
この年、後に東大教会初代となる上原佐助が、教祖の言葉により大阪から関東布教に出た。やがて「東京真明講社」を設立し東京八講社の基礎を固める。 |
【この頃の逸話】 | |
岡田輿之助 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「83、長々の間、ご苦労であったと、おさづけの理拝戴」。
|
|
岡本重治郎の長男善六と、その妻シナ | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「86、大きなたすけ」。
|
|
土佐卯之助 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「88、危ないところを」。
|
|
村田イヱ | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「89、食べ残しの甘酒」。
|
|
この頃、村田幸右衛門は、坐骨神経痛を助けられたお礼につき、教祖に「どうお礼をさせて貰ったらよろしいのでせうか」と尋ねたところ、次のように諭されている。
|
|
山沢為造 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「69、弟さんは尚も欲しい」。
山沢為造は山澤良治郎とのぶ夫婦の次男。安政4年生まれ。明治11年、身上のお手引きをいただき、父に勧められてお屋敷へ帰り、快方に向かう。明治16年、父の出直しを機にお屋敷への入り込みを決意。明治20年、初代真柱の姉・梶本ひさと結婚。初代真柱出直し後、大正4年から同14年まで管長職務摂行者を勤める。昭和11年、出直し(享年80歳)。 |
|
稿本天理教教祖伝逸話篇「90、一代より二代」。
|
|
稿本天理教教祖伝逸話篇「96、心の合うた者」。
|
|
岡本シナ | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「91、踊って去ぬのやで」。
|
(当時の国内社会事情) |
2.7日、堺県が廃止されて、大阪府に合併された。 |
10.12日、「明治23年に国会開設」の勅諭が出る。 |
10.18日、自由党が結成される。初代総理は板垣退助。(明治17年、解党する) |
この年、集会条例(政治集会・結社の許可制、官吏・軍人・教員・学生生徒は参加禁止、警察官の解散権)公布される。斬首刑が廃止される。 |
(宗教界の動き) |
1881(明治14)年.2.3日、東京で、神道大会議開かれる。神道事務局規定を定め、有栖川宮を総裁に仰ぐ。10月、神社寺院以外での葬儀や参拝を禁じる。 |
この年、明治10年より教導職を管轄していた内務省が、神官と 教導職の分離方針を打ち出した。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1881(明治14)年、パスツールが、狂犬病予防法を発見。 |
(私論.私見)