第82部 1887年 90才 教祖御身隠し
明治20年

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【最後のお伺い】

 2.13日頃、教祖は庭を歩かれている。

 2.17日(陰暦正月25日)の夜、再び教祖の身体が冷たくなる事態となり容態が悪化した。皆な驚いて伊蔵を通じてお伺いを立てた。伊蔵は次のように述べた。   

 「さあさあすっきりろくぢに踏み出す。さあさあ扉を開いて開いて、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあさあ扉を開いて地を均らそうか。扉を閉まりて地を均らそうか地を均らそうか」。

 「ろくぢ」とは「ろっくの地」、即ち大工用語で平らの地を意味している。この意味を真に理解した者はいなかった。この問いかけに対して、切迫した事態にあって、真之亮が直感的に「扉をひらいてろく地に均してくだされたい」と答えたところ、その時、伊蔵の伺いの扇がさっと開き、次のお言葉が為された。

 「成る立てやい、どういう立てやい。いずれいずれいずれ引き寄せ、どういう事も引き寄せ、何でもかでも引き取る中、一列に扉を開く開く開く。ころりと変わるで」。

 次に、「世界の事情運ばして貰いとうございます」と、教会設置の件を願い出たところ、

 「ならん、ならん、ならん、取り違えてはならん」

 とのお言葉が為された。伊蔵への伺いでも公認応法の道が問われ、峻拒された。こうして、応法派の道人には再び、神の教えを取るのか、人間思案を選択するのかを廻って身動きの取れない状況が生まれ、暗礁に乗り上げることになった。

 明けて2.18(陰暦正月26)日、教祖は爪の色をなくした。教祖は、にも関わらず「おつとめ」をせきこまれた。稿本天理教教祖伝は次のように記している。

 「明くれば2月18日、陰暦正月26日である。恰も、従来から毎月、つとめをしてきた日であるし、殊には、教祖の身上に関して、つとめをせき込みになっている。近郷近在からは多数の参拝人が詰め掛けておる。しかも、官憲の目は厳しく、一つ間違えば、お身上中の教祖をも拘引しかねまじい剣幕である。人々はこの板ばさみの中に立って、思案に暮れた」。

 一同は、息を殺して最後のお伺いを立てた。

 「さあさあいかなるも、よう聞き分けよ聞き分けよ。さあさあいかなるもどうも、さあ今一時、前々より毎夜毎夜毎夜伝える処、今一つのこの事情早うから、今からと言うたなぁ。さあ、今というところ諭してある。今から今掛かるという事を、前々に諭してある処、さあ今の今、早くの処急ぐ。さあという処、応分という処、待つという処あろう」。
 「さあさあ一つの処、律が律が怖いか、神が怖いか、律が怖いか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。前々より知らしてある。今という刻限、今の諭しじゃない。どういう処の道じゃな、尋ぬる道じゃない。これ一つで分かろう」。

 神意はこうであった。

 「その事は前々から、繰り返し繰り返し諭してきた通りである。もっと早くから言うておる。さぁ、今というたら今直ぐにかかれ。さぁ、早く急いで取り掛かれ。手続きをするから、それまで待ってくれ、というような悠長な事を言うておる場合ではない。一体、お前達は法律が怖いのか、親の話が尊いのか、どちらに重きを置いて信心しようとしているか、この点をよく考えよ。親神の思いがな奈辺にあるかという事は、前々から十分諭してある。説いてある。今の刻限は、もう尋ねて居る時ではない。これだけ言うたら分かるであろう」。

【教祖最後の祭典日の様子】
 陰暦正月26日、この日は毎月の祭典日であり、稿本天理教教祖伝は「つとめの時刻には参拝人が非常に多く、その数は数千に達した」(330P)と記している。

【「命を捨ててものおつとめ」決行】

 教祖の身上は迫っている。定命115才とはおっしゃってきたが、見るからに身上は切迫している。その教祖の最後の気力を振り絞ってのおつとめのせき込みである。ここに至って、真之亮は愈々覚悟を決めた。「おつとめ」遂行が決意されることとなった。49日にも及ぶ壮絶な教祖と道人との対話の末に心定めが為されたのである。真之亮は断を下した。次のような緊迫した采配を為している。

 「よし、命を捨ててもという者だけでも、おつとめをさせてもらおう。命捨てても構わんもんはおつとめをせよ」。
 「監獄は、えらく寒い。みんなパッチも足袋も二枚ずつはいとけよ」。

 真之亮が覚悟の程を伝えた。真之亮の決意を受け、「うちも腰巻二枚重ねました」と覚悟の程が遣り取りされた。真之亮は、続いて「お道」の後先を配慮する次のような指示を与えている。

 「梅谷サン、増野さん、皆なが逮捕されたあとで、教祖万一の時は、大事な日がある。教祖大切とおもうなら、つとめをしないでくれ」。

 当時11才であった秀司の娘たまへには、「嬢(いと)、今日はお前もおつとめに出よ」と言い渡している。このお屋敷内の様子は、門前に駆けつけていた道人に的確に伝わっており、「警察よりいかなる干渉があろうとも、命捨ててもという心の者のみ、おつとめせよ」との触れが打ち出された。異常な興奮が道人を襲った。お屋敷内の決意と同時に、道人たちが一斉に屋敷内になだれ込んだ。竹の結界が何の役に立たなかった。官憲の静止も効き目がなかった。こうして午後一時頃、おつとめが鳴物入りで始められた。つとめ人衆が「ぢば」を囲み、本づとめが始まった。

 この時のつとめ人衆は次の面々であった。

地方   泉田藤吉、平野樽蔵
神楽  中山真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田與之助(宮森與三郎)
手振り  清水与之助、山本利三郎、高井猶吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田與之助(宮森與三郎)
鳴り物  中山たまへ(琴)、飯降よしえ(三味線)、橋本清(つづみ)
 
 これに、「家事取り締まりの任に当たりたる者、梅谷四郎兵衛、増野正兵衛、梶本松治郎。以上総人数19人」。
(私論.私見) 「地方/泉田藤吉」考
 真之亮が最後の最後の段で命懸けの神楽つとめに踏み切った。これを仮に「真紅の神楽つとめ」と命名する。この、教史的に最重要な「真紅の神楽つとめ」の地方を務めたのが、泉田藤吉と平野樽蔵だった。稿本天理教教祖伝は、泉田藤吉に対して好意的に記していない。「教内に於ける泉田藤吉の果たした役割と意義を廻る地位評価」は今後の課題として残されていると云うべきだろう。

 2018.6.27日 れんだいこ拝

【「扉をひらいて」教祖御身隠し】

 丹精込めた「坐りつとめ」から始まり、「十二下り」へと進んだ。教祖は、鳴り響いて来る陽気なおつとめの歌声や鳴物の音を満足にお聞きなされていた。「十二下り」の最後のおつとめが終った頃、教祖の身がかすかに動いた。側についていた孫娘のひさが気づき、「お水ですか」と伺った。教祖は「うーん」と小さな声で仰せられた。そしてひさが差し出す水を三口、静かに召し上がった。ひさが、「おばあ様」と声をかけた。しかし声がなかった。教祖は、片手をひさの胸に当て、片手を自分の胸に当てて、安らかに息を引き取られていた。享年90才。 

 この時の様子が次のように伝えられている。この時の知らせを為したものが誰であるかは語られていないが、おつとめ人衆に「教祖様、今息お引き取りになりました」との知らせがもたらされた。一同は、「唯ワァと一言云ったばかりや。後は何とも言葉を出す者がなかった」(高井猶吉伝)、「涙もろき女性達は、その場所に打ち倒れて、唯泣くばかりであった」(永尾芳枝伝)。その時誰かは判然とせぬが、「何時や」と尋ねる声に応じて、増野正兵衛が「二時や」と答えたと云われている。

 この時、教祖の居間には、おまさとおひさがいた。次の間に飯降伊蔵、梶本松次郎、梅谷四郎兵衛、増野正兵衛の4名が居たと伝えられている。真柱真之亮を先に立てて教祖のお休息所の8畳の部屋へ伺った。あまりの衝撃に誰も彼もうつむいたまま、暫しの間言葉を出す者もなかった。茫然自失、あるのはすすり泣きと嗚咽であった。


【山田作治郎(後の南海大教会初代)のこの時の逸話】
 明治20年秋、三重の山田作治郎(後の南海大教会初代)は胸を患い、「大和の生神様」の噂を聞いて、お屋敷に参ろうと向かった。途中の茶屋で、「大和の生神様は正月おかくれになった」と聞かされた。落胆したが、せっかくここまで来たのだからお参りしておこうとおじばへ向かった。お屋敷の官憲の目は厳しく、お屋敷からも参拝者を断る雰囲気があり、あきらめて帰ろうとしていた時、「おまはんら、どこくから来なはったんや」と声をかける人があった。作治郎が応答すると、「そら、遠いところからよう帰らはった。天理王命という神様は、ない人間、ない世界をつくらはつた元の神.実の神やで。どんな難しい病気でも、皆助けて下さる」と熱心に説き、「まぁ、あがんなはれ」と招き入れ、おさづけを取り次いだ。その人が辻忠作であった。心実講が明治25年城法支教会(後大教会)になり、喜三郎は初代会長。

【教内の動揺】
 道人の中には、教祖出直しのショックから立ち直れないものも少なくなかった。宮森与三郎の「教祖の足跡」の中に「教祖は、〈私が百十五歳になったら盃(さかづき)をして隠れる〉と常々仰せになっていた」とある。「教祖は常々115才までは生きられるとゆうてはった。そやのに、なぜ、25年も早く命を縮めてしまわれたのか」という疑問が支配した。同時に近くにいて親しく語りかけてくれる親を失った悲しみが道人の心を襲った。後の郡山大教会を創始した平野樽蔵は、「信者達に115歳の定命を説きつづけてきた手前、俺は家へ帰れん。神さんの話に滅多に違いはない。きっと良くなって下さると信じていると、人にも話してきた。もし違うたら俺の首やろ、とまで言うてきたんや」と茫然自失の態であった、と伝えられている。教祖の御守り役・増井りんは驚きのあまり卒倒、葬式にも出られなかった。俄然、教祖は予定を繰り上げて現身をお隠し遊ばされたのかという疑問が教内を襲うことになった。

 稿本天理教教祖伝は次のように記している。

 常々、百十五歳定命と教えられ、余人はいざ知らず、教祖は必ず百十五歳までお居で下さるものと、自らも信じ、人にも語って来たのみならず、今日は、こうしておつとめをさして頂いたのであるから、必ずや御守護を頂けるに違いないと、踏み切っていただけに、全く驚愕し落胆した。


 後に郡山大教会初代会長となった平野樽蔵は、教祖の御身隠しの際の心境を次のように語っている。
 俺は家には帰れん---教祖様は115歳が定命やとおっしゃった---キット良くなってくださると信じていたし、又人々にも話して来たんや。もし違(ち)ごたら俺の首やろと云って来たんや。

【伊蔵のお指図】
 一刻後、「いつまでもこうして居ってはどうもならん。伊蔵さんに願い指図を仰ごう」と誰となく言い出し、一同は起ちあがって内蔵の2階に上がり、神意を伺うことになった。真之亮は、落ちる涙を払いながら一同を代表して願った。
 皆一様に願う心は、教祖さまには、まだ御身にぬくみがありますから、どうかもう一度お身上を元の身体にしてください。

 伊蔵は言下に叱った。「そらいかん、なにをゆうぞ」。続けて次のように陳(の)べた。
 さあさあろっくの地にする、ろっくの地にする。皆々揃うたか揃うたか、よう聞き分け。これまでに云うたこと、実の箱に入れて置いたが、神が扉を開いて出たから、子供可愛いゆえ、親の命を25年先の命を縮めて、今から助けするのやで。しっかり見ていよ。今までとこれから先としっかりみていよ。扉開いてろっくの地にしようか、扉閉めてろっくの地に。扉開いてろっくの地にしてくれ、と云うたやないか。思うようにしてやった。さぁこれまで子供にやりたいものもあった。なれどもようやらなんだ。又々これから先、段々に理が渡そう、よう聞いておけ」(お指図、明治20.2.18日午後、陰暦正月26日午後)。

 道人はこの時、「扉を開く」の神意を知らされ、愕然とした。それに同意したことを悔やんだ。その後に続いた「お指図」が、教祖の現身を隠された事態の受け取りようを決定し、お道のその後を指針させた。伊蔵に乗り移った神意の鮮やかなお諭しであった。「教祖が、子供可愛いその故に、心の成人を促して、25年の定命を縮めた」とのみ言葉によって、信仰のある人は段々と気力を蘇らせていった。

 稿本天理教教祖伝336pは次のように記している。

 一列子供を救けたいとの親心一条(おやごころひとすじ)に、あらゆる艱難苦労(かんなんくろう)の中を勇んで通り抜け、万人たすけの道をひらかれた教祖(おやさま)は、尚その上に、一列子供の成人を急込む(せきこむ)上から、今ここに二十五年の寿命を縮めて現身をかくされたが、月日の心は今も尚、そしていついつまでも存命のまま、元のやしきに留まり、一列子供の成人を守護されて居る。日々に現われて来るふしぎなたすけこそ、教祖が生きて働いて居られる証拠である。

 2.18日、伊蔵は、これらの人々に対して「今からたすけするのやで」と述べている。

 2.24日、伊蔵は、次のような「お指図」をした。

 さあさあ分からん、分からん、何も分からん。115才(の定命を)、90才(に縮めたのか)、これも分からん。25年不足(しているが)、どう(いうこと)であろう。これも分からん。どうしても、こうしても、すうきり分からん。故に25年を縮め(て)、助けを急ぎ、扉を開いて世界をろくぢに踏み均(な)らしに出た(と拝したい)。神でのうてこの自由自在は出けようまい。止めるに止められまい。神は一寸(ちょっと)も違うたことは云わん。よう聞き分けてくれ。これから先というは、何を聞いても、どのよの事を見ても、皆な楽しみばかり。楽しみや。よう聞き分け。追々刻限話しをする。

 伊蔵はかく、「教祖は、真実を説けば弾圧で長生きできないことはわかっても、真実を説かねば世界は助からぬ、世界助ける為には教えをゆがめねばならぬ。このジレンマを解決するために命を縮めたのだ。世界助けたいという神の心なればこそ、神の心なればこそ、25年命を縮めて正しい道を護ったのだ。神の社でなければ、この自由自在はできまい、よく聞き分け」と諭した。

 合わせて、「扉が開き、現身を隠された教祖は、今後存命のままで世界救済を続けていくこととなった」とする「教祖存命の理」を説き、これにより、教祖生き続けの新たな道の歩みが指し示されることになった。

 さあさあこれまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日々の道を見て思案してくれねばならん。(中略)姿は見えんだけやで、同んなじ事やで、姿がないばかりやで(お指図、明治23.3.17日)

 ここに、永遠に生き続け、世界救済をせき込まれ、陽気暮らしを促される教祖の生き通し観が確定した。教祖は存命として昇華された。


【「教祖御身隠し=教祖存命の理」考】

 「教祖存命の理」の諭しは、「教祖は亡き後も生前同様に働いてある」とする教理を生み出すことにより、当時動揺する道人を得心させた功績はある。但し、「お道」教理からは問題がある。これは古来よりの神道的祖先崇拝の御霊観に根ざしているのであろうが、教祖の直のみ言葉ではない。しかしながら、「お道」は、この「教祖存命の理」に基づき教祖伝、祖霊殿のお社を祀り、霊祭を執行していくこととなった。

 古来、こうした場面に直面した様々な宗教教団の代表例に、キリスト教がある。キリスト教は、イエスの死後三日後に復活させている。父なる神はイエスを犠牲にすることにより、人類の原罪を贖罪されたとする概念を打ち立てている。現在のキリスト教の源流はこの認識に基づいている。他方、ユダヤ教やイスラム教はこうした考えをもたない。巨大なカリスマも予言者もその死は死として受止める。但し例外はある。再臨思想がそれである。世界は漆黒の暗闇に入った。光り輝くメシア(救世主)が降臨してくる日がある。それを恋焦がれ、その救いを絶望の中で待ち受ける信仰を確立することになった。天理教教義は、そのいずれとも違う解釈を得た。教祖は現身を隠したものの、今なお生き続けて守護されているという「存命の理」観点を打ち立てた。

 この「存命の理」と真言教団の開祖空海の「大師入定信仰」との類似性につき、小滝透氏が次のように言及している(「いのち永遠に−教祖中山みき(P204)」)。

 天理教にとって幸いであったことは、教祖みきの後に本席伊蔵に啓示が引き継がれたことである。通常、こうした例は稀で、偉大な教祖が逝った場合、同時に啓示が途絶えるのが通例である。為に大きな混乱が起こる。天理教の場合、多少の混乱があったものの、本席の立ち働きにより最小限に食い止めることとなった。そして後真柱体制へのソフトランディングとなった。

【教祖の埋葬】
 2.20(陰暦正月28)日、小二階の楼上で、講元、取次ぎが集まって会議を開いた。教祖の御遺骸の埋葬地を廻って甲論乙駁となった。まずどこに埋葬するかにつき、1・お屋敷にお埋めする、2.村内の適当な場所に新墓地を設けるとする村内埋葬、3.村外の頭光寺の中山家の墓地埋葬、4.頭光寺の中山家の墓地へ一旦埋葬し、新墓地の許可があり次第改葬するという案に分かれた。更に、埋葬するのか火葬にするべきかでも議論が分かれた。

 村人が関心を示し、委員を作って、是非お屋敷内に埋葬して頂きたい、さもなくば村内のどこかへ埋葬して貰いたい、それができねば火葬にして、骨を村内にとどめて欲しい云々の意見を申して来た。村人の申し出に対し、真之亮が次のように返答したと当時の文献にある。
 「ここに至って激怒、答えて曰く、氏ら妄説を吐くなかれ。そもそも我が教祖は婦人たりといえども、斯道に於いての始祖伝道主なり。天下又求むるも一人無し。かくの如き御方を火葬にするが如き酷甚なることは、予らに於いて忍びざるところなり。氏ら又言ことうなかれ。教祖を埋葬するは予の自由にして他の容喙を受けざるなりと」。

 真之亮が、「天下一人ノ我恩人、老母ヲ火葬ノ如キ酷葬ニ致シ難シ」と述べたことにより火葬案は却下された。お指図を伺うと、「埋葬ノ地ノ如キハ何処ニテモ苦シカラズト」との御言葉を頂いた。その意は、5年祭の当日の御墓参りの時のお指図、「何もこれ古き処、古きものを脱ぎ捨てたるだけのものや。どうしてくれ、こうしてくれる事も要らん。存命中の心は何処へも移らんさかい、存命中で治まりて居るわい」(M24.2.22)に明示されているように、墓地の理に執着することなくもっと大切な存命の理に目を向けるようとのお諭しにあった。

 「ひとことはなし その二」73Pは次のように記している。
 「身はかくすが魂はこの屋敷に留まって生前同様に万助けをする。この身体は丁度身につけている衣服の様なもの、古くなったから脱ぎすてたまでの事。捨てた衣服には何の理もないのだから何処へすてゝもよい」。

 これにより頭光寺の中山家の墓地(勾田村善福寺)に埋葬されることになった。

 この後は、「別章【お道その後伝】」に記す。





(私論.私見)