第80部 1886年 89才 仲田儀三郎出直し、教祖のおつとめの急き込み
明治19年

 更新日/2019(平成31.5.1栄和改元).8.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「仲田儀三郎出直し」、「教祖のおつとめの急き込み」を確認しておく。「最後のご足労」後、取次第一と云われた教内随一の高弟/仲田儀三郎が出直した。教祖は悲しみに沈む暇もなくおつとめを頻りに急き込まれた。しかし、教内は割れ、真柱は応法の理的打開策に向かい、教祖の急き込みは適わなかった。ここでは、そのやり取りを窺うことにする。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【仲田儀三郎死の床に就く】
 仲田儀三郎は「教祖の最後のご苦労」を共にし、櫟本(いちのもと)警察分署で10日間拷問檻に入れられ苛酷な扱いを受けた。釈放後、病床に伏す身となった為、先の請書に仲田の署名はない。仲田は教理派の中でも取次第一と云われた教弟で、伊蔵と並ぶ教祖の覚えめでたい第一等の人だった。教祖はこの時期、「私は長らく道を説いてきたが、私を助けようとするものは一人もいない」と嘆いたことが伝えられている。この嘆きの真意が測りかねるが、恐らく正確に伝えられていない弁ではなかろうか。本当は、「最後のご足労」で廃人と化した仲田を見て、「あれほどの者を失うとするなら、代わるほどの者がいない」と惜別の辞を弁じていたのではなかろうか。

【仲田儀三郎が執念で「仲田版泥海こふき」口述する】
 仲田の道一条は真紅なものだった。この頃の仲田の様子が次のように伝えられている。仲田は、死の床にあって、「教祖のお待ちくださる『こうき』をまとめてから死にたい、どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と、「こうき」を書きあげることに執念の人となった。こうして、1886(明治19).4.9日、「仲田版泥海こふき」が書きあげられることになった。6.22日、ほぼ書きあげられた。教祖のお話をもっとも正確に綴っていたと評されている。

【増野正兵衛が仲田儀三郎の「こふき」口述を筆録する】
 増野正兵衛は、元士族で、教弟の中では最も筆達者と云われていた。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こふき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵の「お指図」を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こふき』は、いろいろな者がまとめているが未だ完全なものはない、今まで遅れ遅れになっている。急いでやってくれ」(兵神版お指図)と指図している。

 「増野家おさしづ」(大正10年8月発行・増野道興編3-4p)が次のように記している。

 明治十九年四月九日、中田左衛門氏より古記こしらへるから筆を持ってくれとの頼みにつき、八日より筆を持ちしは高慢でありますかの伺い。

 「さあさぁ一つ急ぐと云ふは、ほかのぎではなく、前々より後れ/\の所、さあ急ぐ古記の一條、これをすれば段々忙しくなる、たんとあるやうなれど、あちらこちら手が入る、そこで急ぐと云ふのや、また互いの助け合ひもせねばならんで、また筆もとらねばならん」。

(私論.私見) 増野正兵衛筆録考

 仲田儀三郎の死の淵での「こふき」口述、これを筆録したのが増野正兵衛と云うことで、増野の教内の立ち位置が分かり興味深い。増野正兵衛は応法派でもあるが教祖教理派からの信頼が厚かったことになる。他の人がそうではなかったとまでは云えないにせよ、増野の筆録能力が高く、故に請われたのは間違いなかろう。

 2018.6.27日 れんだいこ拝

【仲田儀三郎出直し】
 6.23日、教祖最後のご苦労から4ヵ月後にして「仲田版こふき」の筆記完了を見届けるかのようにして、「お道」の第一の高弟仲田儀三郎が出直した(享年56歳)。生前の仲田の気迫からすると、56才で寿命を閉じるような人ではなかった。

 「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が、その「こふき」を読んだところ、こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんなわざわいが及んで来るやらしれんと、父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。
「先人素描」(昭和54年4月発行、高野友治著・道友社新書4)8頁が次のように記している。
 「仲田は、生前いろいろ書き残したものがあったということですが、出直しの時、遺族の方が、その書きものをひつぎの中に入れて埋めてしまったということで、まことに残念なことであります」。

(私論.私見) 「仲田版こふき」考

 一体、「仲田版こふき」の内容はどのようなものであったのか。数ある「こふき」物とは画然別のものだったと証言されているが、であれば余計に知りたくもなる。れんだいこは、教祖の真意に最も叶っていたものであった可能性があると推理している。残念ながら、「お道」教本は陸前と続いているが、こういうところへの関心は向かわないようである。

 その後、応法の理の時代に入り、教団は自ら進んで「こふき」の廃棄の道へ踏み入った。復活するのは戦後になってであり、1949(昭和24)年に天理教教典が裁定された際に第三章で「元の理」として登場している。しかし、この「天理教教典式元の理」が定本の地位を獲得し得るものかというととても心もとない。当人が云うのは変だけれども、「れんだいこ式泥海こふき」の方がまだしもの感がある。

【仲田儀三郎出直しに際しての教祖の御言葉】
 教祖は、仲田の死去直前に於ける御伺ひに対し次のように述べたと筆録されている。
 「錦のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた。どんなものもって行っても、つぐにつがれん。どんな大河でも、越さしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、越すに越されんで」。

 参考記録112頁が次のように記している。
 「仲田様御逝去(4月頃より身上悩み、6.2日に死亡) 仲田左衛門様は、明治19年旧5月の末に御死去遊ばされ、死去の前、神様に御伺ひ申上げたる御さしづに、『にしきのきれと、みたてたものやけど、すっかりくさってしまふた。どんなものもって行っても、つぐにつがれん。どんな大河でも、こさしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、こすにこされんで』と仰せられしと。誠に悼ましき事の限りなりけり。すっかりくさってしまふたと仰有るは、如何なる過ちのありにしや。誠に口惜しき極みにこそ」。
(私論.私見) 「教祖の仲田の死去直前に於ける惜別の辞」考
 「教祖の仲田の死去直前に於ける惜別の辞」が教祖の直の御言葉であるかどうか疑わしい。「錦のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた」が仮に正確だったとすると、その場合でも直訳過ぎており、裏の真意が伝わってこない。教内随一の高弟/仲田儀三郎をかくまで廃人にせしめた当局の仕打ちに対する恨み節が吐露されていたはずのところ、こういう言辞にすり替えられているのではなかろうか。

 2018.6.27日 れんだいこ拝
 2018.3.21日付ブログ


 この「仲田様御逝去についての全文」が削除されている。本部のお道教理は、とかく議論の余地の多い下りを自己規制する傾向にあり、本件もその一例である。これは「逆復元」の流れであり叱責されるべきであろう。

 なお、「静かなる炎の人/梅谷四郎兵衛」の冒頭、解説一で、高野友治氏は次のように記している。

 「明治19年(1886年)、56才で出直したが、そのとき教祖は『にしきのきれと、みたてたものやけど…』と仰せられたという。『にしきのきれ』とは「錦の布」と思われる。織り物で「錦」が最上等である。おさしづの中で「錦」というお言葉が数回出てくるが、教祖の代理の本席(飯降伊蔵)を指している。教祖はこの仲田儀三郎を大変嘱望されていたと思う。仲田の書き遺した教義書は遺っていない」

【仲田儀三郎の履歴】(「仲田儀三郎」)
 仲田佐右衛門(仲田左衛門。後日、仲田儀三郎と改名)の履歴は次の通り。

 1831(天保2)年5.25日、豊田村(現天理市豊田町)に生まれる。左右衛門(さえもん)といい、「さよみさん」の名で親しまれた(明治になって改名)。

 1863(文久3年)年2月、33歳の時、
「お道」の黎明期のこの頃、妻かじの産後の患いから教祖を訪ね入信。後に、初期の信仰者の総代的存在となる。教史の重要な場面には必ずと言っていいほど彼の名が出てくる。早くより「扇の伺い」の許しを頂いている。「扇の伺い」とは、授けられた扇を持って正座し、御祈願すると自然に扇が動き、それにより親神様のご神意を悟ることができるもので、おたすけの花形とも言うべき立場を神様から許されたことになる。 

 扇伺を許された人は五六十人もいた。が、約十年後の明治八、九年頃に扇伺の許しが止められた。扇伺は「心得」までの為に許したが、許された者が神の力を持つと高慢の理が出始めた為に取り止めることになった。但し、止められたのは全員ではなく、大工の伊蔵と仲田左衛門の二人だけは止められなかった。お指図が次のように述べている。
 「さあ/\扇の伺い/\と云うは、心得までのため。これは古きの道や。わづか年限はしれてある。教会を治めているなら、世界からどうであろうと心がけていやう。おれもみやうか、今の一時むつかしい処、古き処で留め置きたる処もしばらくという。用いる者が悪いのや。面々からは出やしやうまい。それだけの心の理が分からねばどうもならん。扇の伺いは言葉では云わん。それから遂には高慢の理がでる。そこで皆なとめた事情は古き事情・・・」(明治23年6月21日)。

 教祖より「一に息、仲田」と言われて「息のさづけ」を頂いている。「息のさづけ」を頂いたのは高井直吉と仲田左衛門の二人だけである。「改定正文遺韻」には次のように記されている。

 「元治元年春より扇伺を熱心の人々に渡し給う。頂きたる人々は五六十人もありしと。明治八九年の頃に至りて、すっきり止め給ひ。ふしん一条は大工にまかせ、身上伺は左衛門にまかす、と御咄しあり。御二人丈は伺の御許しありといふ」(「改定正文遺韻」P34【註】)。


 ここで注目すべきことは、「身上伺は左衛門にまかす」という文言である。つまり「身上たすけ」は仲田左衛門が任されたとある。

 教祖から「一の子供」と言われ、寄り集う信者達の「おてふりの師匠」としても活躍した。いわば教祖の側近中の側近で、こかんと並ぶ「理の取次人」という最も重要な神様の御用も勤めている。「理の取次人」を担う者は神様の目に適った人物でなければならず、こかん、仲田儀三郎、飯降伊蔵のラインが列なっている。数ある教弟の中でも取次第一と云われた教理派で、伊蔵と共にみきの教えを説き続けようとした第一等の人だった。

  義太夫(ぎだゆう)の心得があって、警察に連行される時でも、身ぶり手ぶりで語って周囲を笑わせた。教祖とともに拘留された事もしばしば。明治19年の、いわゆる「最後の御苦労」にも教祖と一緒に拘留され、三十年振りの厳寒の中、櫟本警察分署に十日間留置、檻に入れられた。この年の六月二十二日、五十六歳で出直す。


【教祖のおつとめのせき込み】
 7.21日、教祖は突然、「四方暗くなりて分かりなき様になる。そのとき、つとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ」と仰せられた。「四方暗くなりて分かりなき様になる」とは、まことに容易ならん重大な時の迫っていることを告げている。その日の為に、甘露台のつとめの手を確かに覚えるようにお急き込みになられ、道人の「心定め」を促された。教祖は、この情況下で道人に対して、「おつとめ」を通じての「理」の成人を促し続けた。いかに反対されようと、攻撃されようと、「おつとめ」 に対する教祖のせき込みは断じてせき止められるものではなかった。思えば、人々が教祖のお言葉に耳を傾けるようになってこの方、教祖は、20数年にわたって「おつとめ」を教え始め下され、口で説き、手振りで教え、口で説いただけでは忘れるからとて、わざわざ筆をとって、親の思いをお筆先にお誌し下されて説き続けてこられた。「おつとめ」こそが「よろづ助けの道」であり、「陽気暮らしへの道」であることを懇切に教え諭し、その勤行をせき込み続けてこられた。

 お筆先は、おつとめの理の尊さを教え、その勤行をせき込む上からお書き下されている。お筆先十七号の全巻に溢れでているものは、これほどまでにしてお教え頂いても、なお充分にその思召しのほどがさとれなかったり、また、分かってはおりながらも、心ない官憲の反対攻撃を思って躊躇逡巡する人々に対して、まさに、がんぜない子供を育み育てるようになだめたり、すかしたり、怒ってみたり、諭してみたり、驚くばかりの愛情と根気強さをもって、同じ一つのことを繰り返し繰り返し教え続けて下さっている様が伺える。のみならず、ただ口や筆によってお説き下さりるばかりでなく、激しい迫害の嵐が吹き始めるや、「節から芽が出る」、「高山への匂いがけ」の合言葉と共に、心配する人々を励まし、勇気づけながら、真正面から嵐の中へ突入してこられた教祖であった。如何に取締りが強化されても、迫害が激化しても、後へ退けるものではなかった。

 
さて、警察の迫害気運が動き始めた明治7年、教祖は、この頃の1月から4月の間にご執筆下されたお筆先3号に次のようにお誌しになられている。
 十一に 九がなくなりて しん忘れ
 正月 二六日をまつ
三号73
 このあいだ しんもつきくる よくハすれ
 人衆そろふて つとめこしらゑ
三号74

 
本部教理では、この頃の事態に対して次のような悟りをしている。
 「明治20年正月26日に、教祖が現身をお隠し下さることを暗に匂わして、人衆を揃えてのおつとめの勤行をおせき込み下されている。けれども事柄が事柄だけにか、あまりにも象徴的にお書き下されているので、当時の人々には、長らくこのおうたの真意は読み取れなかった」。

 時が遥かに経過して、すでに教祖が現身をお隠し下されて後の明治22.3.10日のお指図では次のように述べられている。
 「さあさあ最初初めというものは、難し処より始め掛け。さあさあ世界ではもう取り払いや取り払いやと言うた日も、幾度も幾度もある又取り消した、又差し止めた事もある。さあさあ正月二十六日と筆に付けておいて始めかけた理を見よ。さあさあ又正月二十六日より、やしろの扉を開き、世界ろくぢに踏み均しに出て始め掛けた理と、さあさあ取り払うと言われてした理と、二つ合わして理を聞き分けば、さあさあ理は鮮やかと分かるやろ、と。よく聞き分けてすれば、分からんやあろまい。世界ろくぢに踏み均しに出ている。疑いもあろまい」。

 
このお言葉によって、初めて正月26日をまつと、お筆におつけくだされていたのは、やしろの扉を開いて、世界をろくぢに踏み均しにお出まし下さることであって、教祖が現身をお隠しくださることであったのか、ということが覚れたのであった。従って、当時の人々は誰一人として、教祖の身に異変が起ころうなどとは、思いも及ばなかった。

【おつとめか恭順か】
 この当時、教祖は再々度にわたって「おつとめ」をお急き込み為された。「お道」の信仰の上で、「おつとめ」こそは「世界一列助け一条の道の眼目」であり、当局の如何なる達しありとはいえ否故にいよいよ「おつとめ」に精励するようにというのが、「月日のやしろ」におわします教祖の厳命であった。しかし、教祖のこの「せき込み」にも関わらずおつとめが為されなかった。かくて、「お道」は、お屋敷内外において一段と混迷を深めて行くこととなった。この時、道人は三派に分裂し、相互に竦(すく)む状態に陥っていた。そういう意味で、「子供の成人がどこまで教祖の仰せについていけるか」が問われていた。教祖一途派は、たび重なる節に却って揉まれ、教祖目標に水火も辞せぬほどの強固なものとなり堅く結束しており、教祖の仰せとあらば身を粉にしてもお受けしようという真実を見せていた。これに対して、応法派は、教祖への尊敬と思慕の情を高めてはいたが、それ故にと言うべきか教祖の身を案ずる余りに、教祖にこれ以上のご苦労をおかけすることがこの上もなく申し訳ないことと思う気持ちによってか、教祖が一番おせき込み下さる、但し警察が一番神経を尖らす取締りの対象となっている「おつとめ」に踏み切れないという矛盾に陥っていた。中間派は、まさに中間的で、教祖一途派と応法派の顔色を見るばかりであった。「お道」内部の三派体制が、それぞれに「お道」の行方を案ずる故に立ち往生するといういわゆるジレンマ事態に陥ることになった。

【泉田籐吉証言/教祖の味醂酒】
 8.17日、(泉田籐吉が)お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共お下げ下された。この逸話は、教祖が如何に泉田籐吉を信頼していたかを知らせている意味で貴重である。あたかも仲田儀三郎の理の後継の観がある。

【平野楢蔵を屋敷の常詰にする】
 幸いにというべきか、この年は、5月以降にはこれというほどの警察沙汰もなかったが、8.25日の夜、三輪村の博徒、木屋天こと外島市太郎という者が、数名のならず者を伴って乱入してきた騒動が発生している。この事件の時、幸いにも大勢の人々が二階で会議をしていたので、これらの人々が異様な物音を聞くや否や、梯子段を駆けおりて防ぎ止めたし、また、この騒ぎを聞きつけた村人たちが、手に手に提灯を持って駆けつけ、鎮圧に一役買ってくれた。暴徒の中には、教祖のお部屋にまで乱入しようとした者もあったが、これは平野樽蔵、山本利三郎、桝井伊三郎、宮森与の助の人々が必死になって防ぎ止めたので事もなく取り静めることができた。

 次のようにも伝えられている。8.25日(陰暦7.26日)昼頃、奈良警察署の署長と名乗る背の低いズングリ太った男がお屋敷へ来て、教祖にお目にかかって帰って行った。その夜、お屋敷の門を破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ」と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢がなだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる」と口々に叫びながら、台所の方へ乱入した。よしゑの通報で平野楢蔵がやって来るや暴徒を取り押さえ、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上帰した。この日、教祖は、平野に、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。

(私論.私見) 教祖の平野楢蔵登用考

 この逸話は、教祖が、平野楢蔵の武勇に対し、これを咎めるのではなくむしろ「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」と賞賛して登用しているひながたを遺している点で貴重である。かく評する教祖論にお目にかかったことがないのは残念である。本稿より以降は、この評を避けては通れまい。

【教祖が先を楽しみに勇んで通れと仕込む】
 平野楢蔵夫妻がお屋敷の常詰になられたのが明治19年の夏の終わり頃。その頃、のちの兵神大教会の初代会長・清水與之助、船場大教会の初代会長・梅谷四郎兵衞、郡山大教会の初代会長夫人・平野トラが、教祖の前で「なかなか講社が思うようにいきませんなぁ」と口々にボヤかれていた。この当時は官憲の取り締まりが非常に厳しくなっていた時期で、お屋敷の門前には巡査が立って、参拝者を追い返したり、脅かしたりして、自由な信仰を妨げていた。また、お屋敷のみならず各地の講社でも官憲の取り締まりや、世間からの反対・攻撃・嫌がらせが激しくなっていて、各地の布教師方は大変な苦労をされていた。兵神真明講の講元・端田久吉はじめ主だった幹部も、警察から言い掛かりをつけられて、明治19年4.25日より27日に至る3日間、当時の兵庫夢野の監獄に収監された。さらに、翌4月28日には講社の人々が集まる寄所を取り払い処分に処せられた。そうしたことが、信仰の浅い講社の人々に多大な衝撃を与え、それが故に退講する者も続出した。講社全体がいずんだ空気に覆われていたと想像される。

 この時、教祖は、「焦らんでもよい。今はただ、たんのうして、先を楽しみに勇んで通れ」とお仕込みくだされている。兵神の三代会長・清水由松は、兵神の会長になられる前、御本席宅専属の青年として長らくおつとめになられた。稿本天理教教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」というお話の中で教祖が、「陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで」と仰っておられる。教祖は「裏表のない心で通れ」と仕込まれている。

【飯降お指図】
 10..25日(陰暦9.28日、飯降が次のようにお指図している。
 飯降様に御願い、神様の仰せ

 明治十九年旧九月二十二、三日頃より、父山田伊平左の手首〔に〕一寸したる物がでけ、段々と大きなり、同二十五日の日、神様〔へ〕参詣いたし、新立(しんだち)の田村長平様父幸右〔ヱ〕門様死亡被致(いたされ)たる日にて世話方〔の〕御方混雑にて直様戻り。同二十六日父、神様参詣被致、その晩より段々大変の事になり。又、同二十八日拙者、神様へ参詣いたし、飯降様に御願、神様の仰には、「さあさぁさぁ内々それぞれのところに、ふじ〔ゆ〕うしている者がある。さあ何年になる。もふあきそふな者や(※もうよくなりそうなものや。もう目も開いて清眼になりそうなものや)。色々に思い、その親/\のところ、それぞれのところ、すふきりと違ひ、こゝをよふ聞わけにやならん。一寸の事が大変な事になる」。

 昭和48年8月発行「山田伊八郎文書」(天理教敷島大教会史料集成部編)200-201pより(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「
山田伊八郎文書より(その十九)」)





 

(私論.私見)