仲田儀三郎

 更新日/2025(平成31→5.1栄和改元/栄和7)年.1.18日

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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【仲田儀三郎(なかた ぎさぶろう)履歴】
 1831(天保2)年5.25日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)生まれ。
 1886(明治19)年6.22日、出所間まもなく出直し(亨年56歳)。

 1831(天保2)年5.25日、大和国山辺郡豊田村(現・奈良県天理市豊田町)に生まれる。元の名前は佐右衛門だったが、明治になって衛門という名前が禁止されたことにより儀三郎と改名した。教内では「佐右衛門さん」叉は「さよみさん」と呼ばれていた。
 1863(文久3)年2月、33歳の時、妻かじ(きみ?)が長男岸松を生んだ後の産後の患いを助けられて入信。1カ月後、同村の辻忠作も入信し二人でよく教祖に仕えた。
 みきの取次によって守護を得たのを機に信仰の道に入って以降、毎日お屋敷でみきのお話しを聞かないと一日が終わらないほど熱心な信者となった。仲田儀三郎は教祖(おやさま)の最も古い信者の一人となリ、初期の信仰者の総代的役目を担っており、教史の重要な場面には必ずと言っていいほど彼の名が出てくる。
 1864(文久4)年8月頃、34歳の時、飯降伊蔵夫婦の入信をきっかけに教内初の参拝所普請が始まった。当時の信者の寄進が申し出られ、山中忠七と飯田善六が費用を(飯田善六が即座に30両を出した。当時、1両が7千枚の銅銭に替えられたので相当な金額ということになる)、伊降伊蔵は手間の引き受け、辻忠作は瓦一切、「仲田佐右衛門は畳六枚」、西田伊三郎は畳八枚と、それぞれ精神定めとなった。8.26日、お勤めが終わって一般参拝者の帰った後、重だった人々が寄付を持ち寄ると金5両となった。これが信者の醵金によってなされた本教最初の寄付金であった。

 儀三郎は、稿本天理教教祖伝や稿本天理教教祖伝逸話篇にたびたび登場し、教祖の側で教祖にいつも仕え、取次人として寄り来る人々に話を取り次ぎ、各地へ「お助け」に行ったり、「お手振り」を教えたり、また後に天理教弾圧の際には教祖のお伴をして警察や監獄に拘置されている。

 1864(元治元)年の春頃から、教祖は熱心に信心する人々に「扇のさづけ」を渡されていたが、儀三郎は山中忠七と共に、「扇・御幣・肥まるきりのさづけ」を頂いた。「扇の伺い」とは、授けられた扇を持って正座し、御祈願すると自然に扇が動き、それにより親神様のご神意を悟ることができるもので、おたすけの花形とも言うべき立場を神様から許されたことになる。

 1865(元治2)年、35歳の時、教内初の普請となった三間半(6.3m)に六間(10.8m)の約21坪(約69㎡)の参拝所「つとめ場所」建築の際には畳6枚を受け持った。完成後、教祖は終日、寄り集まる人々に親神の深い思惑を説き、「陽気暮らし」と「世の立替え、世直し」への道をじゅんじゅんと説き導かれた。こかんは「小さき神様」と仰がれ取次第一人者となっていた。つとめ場所ができ上がってからは伊蔵夫婦は毎日お屋敷に詰め切っており、山中忠七もしばしば手伝いにきていた。辻忠作、仲田佐右衛門らは住まいも近いので、これも又殆ど毎日詰め切ってつとめていた。「お道」では、これを「ひのきしんの通いつとめ」と云う。
 この頃の或る時、教祖が庄屋敷村から歩いても五、六分の豊田村の仲田邸屋敷に来られ、『しっかり踏み込め/\、末代までも、しっかり踏み込め/\/\』とお言葉を下されている。

 1873(明治6)年頃、亮・助・衞門廃止により右衛門を名乗ることができなくなり、仲田は佐右衛門から儀三郎へ、辻は忠右衛門から忠作へと改名した。教祖(おやさま)や周囲の人々は「さよみさん」、「ちよみさん」と呼んでいたといわれる。
 この頃、仲田儀三郎が、お屋敷から派遣される一のお助け人として働いていた。教祖は常々、「佐右衛門さんは、私の一の子供や」と仰せられていたと伝えられている。
 「人間の勝手」(昭和三年四月発行「教祖とその高弟逸話集」(天理教赤心社)より)。
 「ある時教祖は、高弟の仲田さんに向かって、『出来んことを人がせよと云ったら、どう言うか』と訊ねられた。すると仲田さんは、『そりゃ出来んと言います』と答えた。教祖は、『そしたら神様がせよと仰ったらどうする?』と訊かれた。仲田さんはたちどころに、『神様が仰るなら、そりゃ勿論やります』と言った。教祖は笑いながら、『そうしたら、それは人間の勝手というものやなあ』と仰せられた」。
 1874(明治7)年の「かぐら面」のお迎えの時、秀司や飯降伊蔵などと共に教祖のお伴をして前川家に行っている。
 1874(明治7).陰暦10月、「大和神社問答事件」が起こった。教祖は、仲田儀三郎、松尾市平衛の両人に対して「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と述べて大和神社へ遣わし、教義問答を仕掛けている。これによると、仲田が教内随一の理論家でもあったことが分かる。翌日、大和神社の神職が石上神宮の神職5人連れで教祖を訪問し、教祖との間で問答が行われた。これがあって、奈良県庁の社寺掛から呼び出しを受けることになる。
 この頃、仲田儀三郎は取次人としての役割を果たしていた。「教祖伝逸話篇36、定めた心」に増りんの取次記録が遺されている。
 1874(明治7).12.23(陰暦11.15)日、奈良県社寺係の命で、伏見宮文秀女王のおられる「山村御殿」へお出ましになることになった。教祖は呼び出しに応じ、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市平衛、柳本村の佐藤某、畑村の大東重平衛の5名が供をした。山村御殿では役人の要請に応えて、儀三郎は辻の歌に合わせ、おてふりを行った。これ以後県庁はお屋敷へ参拝人が出入りしないように厳重な取り締まりを始めた。
 1874(明治7).翌12.25(陰暦11.17)日、奈良中教院より、信仰差し止めの通知と辻、仲田、松尾の三名の呼び出し状が届いた。この頃、奈良中教院は興福寺金堂へ移転していたが、そこへ三名が出向くと、「転輪王という神はない」、「繰り返すが天理王という神などない。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら中教院を世話せよ」、「二度と再び、あの婆さんの教えを説いてはいかん」と、信仰差し止めの旨を勧告された。その足でお屋敷へやって来て、幣帛、鏡、みす等の祭具を没収するという事件が起った。これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、取締りは一層厳重を極めるようになった。これを「中教院事件の節」と云う。
 翌26日、教祖は「赤衣」を召されることになり、「一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と4人に直々さづけの理を渡された。
 1874(明治7).12.26(陰暦11.18)日、教祖は赤衣を召された。これ以後教祖は赤衣を脱ぐことは一切なく常に赤衣をお召しになられることになった。使いこなした赤衣は細かく裁断されて「証拠守り」とし、より来る信者に手渡されていくことになった。教祖は、更にその赤衣を召された同じ日に、「一に、息は仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざい手踊り辻、四に、しっくりかんろだい手踊り桝井」と、四名の者に、直々「おさづけの理」 をお渡しになられた。これが、「身上たすけ」の為に「おさづけの理」を渡された始まりである。「一に、息は仲田」とあることからして、この時点では、仲田儀三郎が一の高弟として「お道」の束ね役の立場にあったことが判明する。
 1875(明治8).6月、「かんろだいのぢば定め」が行われ同席。稿本教祖伝は次のように記している。
 「教祖は、前日に、『明日は二十六日やから、屋敷の内を綺麗に掃除して置くように』と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除して置いた。教祖は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなく成った地点に標を付けられた。然る後、こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助等の人々を、次々と、目隠しをして歩かされた処、皆な、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止った。辻ますは、初めの時は立ち止らなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなった。こうして、明治八年六月二十九日、陰暦の五月二十六日に、かんろだいのぢばが、初めて明らかに示された。時刻は昼頃であった」。

 これによれば、教祖のかんろ台のぢば定め後、「こかん、仲田、松尾、辻ます、檪枝村の与助」順に確認歩きしていることになる。仲田が、教祖、こかんの次に歩いていることで、この時点での教内の立ち位置が分かろう。
 1876(明治9)年、大和国川東村小坂の松田利平の願いによって、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、村田幸右衛門、堀内与助等の人々が、雨乞いの願いによりかぐらつとめを執行した。その時、雨は降らなかったけれど旱魃に拘らず、田の収穫は例年以上であって、人々は神の恩寵を感謝して止まなかった。また、「雨降らぬ時ほど人の田に水をの心を定めなさい」と教祖がおっしゃっていたと山本利雄が山本利三郎さんの話として伝えているのは、この時の事である。この頃、仲田儀三郎が「教祖の一の弟子」として取次の立場であった。
 明治八、九年頃、扇伺の許しが止められた。扇伺を許された人は五六十人もいたが、「心得」までの為に許されていたが、許された者が神の力を持つと高慢の理が出始めた為に取り止めることになったと云う。但し、止められたのは全員ではなく、大工の伊蔵と仲田左衛門の二人だけは止められなかった。(明治23年6月21日)お指図が次のように述べている。
 さあ/\扇の伺い/\と云うは、心得までのため。これは古きの道や。わづか年限はしれてある。教会を治めているなら、世界からどうであろうと心がけていやう。おれもみやうか、今の一時むつかしい処、古き処で留め置きたる処もしばらくという。用いる者が悪いのや。面々からは出やしやうまい。それだけの心の理が分からねばどうもならん。扇の伺いは言葉では云わん。それから遂には高慢の理がでる。そこで皆なとめた事情は古き事情・・・。

 教祖より「一に息、仲田」と言われて「息のさづけ」を頂いている。「息のさづけ」を頂いたのは高井直吉と仲田左衛門の二人だけである。「改定正文遺韻」には次のように記されている。

 「元治元年春より扇伺を熱心の人々に渡し給う。頂きたる人々は五六十人もありしと。明治八九年の頃に至りて、すっきり止め給ひ。ふしん一条は大工にまかせ、身上伺は左衛門にまかす、と御咄しあり。御二人丈は伺の御許しありといふ」(「改定正文遺韻」P34【註】)。


 ここで注目すべきことは、「身上伺は左衛門にまかす」という文言である。つまり「身上たすけ」は仲田左衛門が任されたとある。

 教祖から「一の子供」と言われ、寄り集う信者達の「おてふりの師匠」としても活躍した。いわば教祖の側近中の側近で、こかんと並ぶ「理の取次人」という最も重要な神様の御用も勤めている。「理の取次人」を担う者は神様の目に適った人物でなければならず、こかん、仲田儀三郎、飯降伊蔵のラインが列なっている。数ある教弟の中でも取次第一と云われた教理派で、伊蔵と共にみきの教えを説き続けようとした第一等の人だった。

 1876(明治10)年11月2日夕刻、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。
 「『お屋敷のお掃除をみんなでさせて頂きたいと申し上げた処』、日々通る中に心にもない通り方をしてはいかんで。この道は人にさせる道やないで、めい/\一人/\が自分からつとめさせて貰う道やから、人がどうのこうのと言うやないで。人間は(女の人は)自分がすると、人にもさせたくなるものやが、何ぼ人にさせようと思うてさせても何にもならん、人がさせて頂かなけりゃと思う心になるようにしてやってくれ。それには時というものがあるで、時ということよく心に治めておかにゃいかん、時をはずして何をしても何もならん。種を蒔くときには種をまかにゃいかん。さむいあついと言うて、今忙しいからというて時をはずしたら、いい芽はでてこないで。時をはずさぬよう、よく教えてやってくれ。自分がつとめさせて貰う時でも、人にもさせようと思う心持ったらいかんで。人には借りものという事わからせてやったらつとめて貰える。なんぼさせようと思うても、借りものという事わからねばなんにもならん。めい/\が運ばして貰い、つとめさせて貰うておるうちに人はついてくるで」。
 1876(明治10)年11月3日朝方、辻忠作、仲田儀三郎、山澤良治郎。(願いの筋なし)
 「人にあゝさせようこうさせようと思う心使うて通っていたら、我が身が立たなくなるで。人にさせる道やない、自分からさせて頂く心にならにゃいかん。自分がつとめさせて貰うから人がついてくるのやで。つとめると言うても人にするのやない、神様につとめさせて貰うのやで、神様にやで。人間はなあ、人が人をどうするこうすると言う事は出来ないのやから、なんぼさせようと思うていても動かすこと出来ん。だから自分からつとめさせてもろうて、その理をうつしてやるよりほかにないで。自分がつとめさせてもらうと言う理ほど結構なことないで」。
 1876(明治10)年、「明治十年 仲田儀佐ヱ門先生大阪へ行くと申されましたので、私(註/増井りん)はさようで御座りますか、さようならば、私が御案内さして頂きますから・・・」。
 1877(明治11)年4月頃、文久、元治の頃より教祖の「講を結べ」の御言葉があり、この頃お急込みされ、これを受けて秀司を講元とする真明講が結ばれた。親神のお急込み通り人々の喜びを一つに結ぶ講ができた。その世話人として「仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衞、中尾休治郎」とあり、仲田が筆頭に記されている。

 この頃から官憲の取り締まりが厳しくなり、教祖やお屋敷の人々と共に度々引致、拘留、科料などを受けた。
 1879(明治12).6.21日、「明治十一年六月二十日 大和国、若井村の松尾市兵衞様身上に就き仲田佐右ヱ門先生、辻忠作先生、私りん三人でお助けに出さしていたゞきました」(「史料掛報」第116-118号 「仲田佐右ヱ門先生に就て」より)。
 1879(明治12).6月、教祖が、毎晩のお話の中で、「守りが要る、守りが要る」と仰せになった。この時、取次の任に当たっていたのが仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等であった。秀司、仲田、増井りんの三名が教祖に伺ったところ、教祖は、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあさあ楽しめ、楽しめ。どんな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあさあ早く、早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ」とお言葉を下された。りんはその夜から、明治20年、教祖が御身をかくされるまで、お側近くお守役を勤めさせて頂くことになった。
 1879(明治12)年、後に高安大教会を創始する松村さく子病気につき地場より仲田、辻両氏来り神楽勤をなす。
 1881(明治14).12.26日、教祖が仲田儀三郎に「心の澄んだ人の言うことは聞こゆれども、心の澄まぬ人の言うことは聞こえぬ」との御言葉を下されている。
 1882(明治15).2月、「二月の御苦労」があり、稿本教祖伝に次のように記されている。
 「そばの者が、どういう事が見えて来るのか知ら、と心配して居ると、二月になって、教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の人々に対して、奈良警察署から呼出しが来た。その結果、教祖には二円五十銭、その他の人々には、一円二十五銭宛の科料の言渡しがあった。この時、警官は、本官がいか程やかましく取り締るとも、その方等は聞き入れない。その方等は根限り信仰致せ。その代りには、本官も根限り止める。根比べする、と言うた」。

 奈良警察署が「教祖はじめ、まるゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎」を呼出している。
 1882(明治15).4.5日、梶本松治郎、仲田儀三郎、岡田与之介。(願いの筋なし)
 「借りものという理心に治ったなら、どんな中でも神様はつれて通って下さるのやで。いくら口で説いたとてその心にならにゃ何にもならん。心に治まったなら無い命でもつないで下さるで、心配いらん。日々通る心の持方がむつかしいのや。日々通る心の持方は自分勝手な心使い、気ずい気まゝな心使いでは御守護は頂けないで。気ずい気まゝな心使いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない、こんなことはわかっているやろ、ここの処よく思案してくれ。借りものという理心に治まれば、身上でも事情でも御守護頂けるのや。借りものということよくしっかり心に治めてくれ。借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りていると言うことをよく心に治める事やで。これがわかればそれでよいのや。よく心に治まれば、どうして御礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えて来たことを供えさせてもろうのや」。
 1883(明治16).11月(陰暦十月)、御休息所が落成し、教祖がお移りされた。この時、仲田儀三郎が、梅谷四郎兵衞その他高弟に対し、教祖の召し物の裾分けをしている。
 義太夫(ぎだゆう)の心得があって、警察に連行される時でも、身ぶり手ぶりで語って周囲を笑わせた。教祖とともに拘留された事もしばしば。
 1883(明治16)年、三島村から頼まれて行った雨乞づとめにも参加し、この時も警察に引致され、後、科料されている。
 1884(明治17)年頃から、教祖に「ご苦労」をかけたくないとの思いから教会設置に尽力した。
 1886(明治19).2月18日(陰暦正月15日)、教祖は89才の高齢で最後の「御苦労」を務めた。この時、一緒に拘留され、桝井と仲田は三十年振りの厳寒の中、櫟本警察分署の拷問用の雁木牢(組牢)という小さい檻に入れられた。十日間責められた。釈放された時、仲田は立つこともできず、戸板に乗せられて帰還した。釈放後も病の床に付すことになった。 
 この頃の仲田の様子が次のように伝えられている。仲田は、死の床にあ って、「教祖のお待ちくださる『こうき』をまとめてから死にたい、どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と、「こうき」を書きあげることに執念の人となった。増野正兵衛は、元士族で、教弟の中では、もっとも筆達者と云われていた。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こうき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵の「おさしず」を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こうき』は、いろいろな者がまとめているが、未だ完全なものはない、急いでやってくれ」(兵神版おさしず)と指図した。こうして、明治19年4月9日、「こふき」が書きあげられることになった。
 1886(明治19)年6.22日、ほぼ書きあげられたと同時に仲田は息を引き取った(享年56歳)。生前の仲田の気迫からすると、56才で寿命を閉じる ような人ではなかった。「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が、その「こうき」をよんだところ、こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんなわざわいが及んで来るやらしれんと、父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。

 教祖は、仲田の出直しを非常に惜しまれ、「錦のきれと見立てたものやけど」と仰せられている。その後、「私は長らく道を説いてきたが、私を助けようとするものは一人もいない」と嘆いたことが伝えられている。仲田の道一条は真紅なものであったように思われ、教祖の目には「教理の仲田、至誠の飯降」の評価があったように思われる。

 2008.1.2日 れんだいこ拝

【仲田儀三郎、死の前後の事情考】
 仲田儀三郎は「教祖の最後のご苦労」を共にし、櫟本(いちのもと)警察分署で10日間拷問檻に入れられ苛酷な扱いを受けた。釈放後、病床に伏す身となった為、先の請書に仲田の署名はない。仲田は教理派の中でも取次第一と云われた教弟で、伊蔵と並ぶ教祖の覚えめでたい第一等の人だった。教祖はこの時期、「私は長らく道を説いてきたが、私を助けようとするものは一人もいない」と嘆いたことが伝えられている。この嘆きの真意が測りかねるが、恐らく正確に伝えられていない弁ではなかろうか。本当は、「最後のご足労」で廃人と化した仲田を見て、「あれほどの者を失うとするなら、代わるほどの者がいない」と惜別の辞を弁じていたのではなかろうか。
 仲田の道一条は真紅なものだった。この頃の仲田の様子が次のように伝えられている。仲田は、死の床にあって、「教祖のお待ちくださる『こうき』をまとめてから死にたい、どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と、「こうき」を書きあげることに執念の人となった。こうして、1886(明治19).4.9日、「仲田版泥海こふき」が書きあげられることになった。仲田儀三郎執念の「仲田版泥海こふき」口述であった。
 6.22日、増野の手によりほぼ書きあげられた。教祖のお話をもっとも正確に綴っていたと評されている。増野正兵衛は、元士族で、教弟の中では最も筆達者と云われていた。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こふき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵の「お指図」を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こふき』は、いろいろな者がまとめているが未だ完全なものはない、今まで遅れ遅れになっている。急いでやってくれ」(兵神版お指図)と指図している。「増野家おさしづ」(大正10年8月発行・増野道興編3-4p)が次のように記している。

 明治十九年四月九日、中田左衛門氏より古記こしらへるから筆を持ってくれとの頼みにつき、八日より筆を持ちしは高慢でありますかの伺い。

 「さあさぁ一つ急ぐと云ふは、ほかのぎではなく、前々より後れ/\の所、さあ急ぐ古記の一條、これをすれば段々忙しくなる、たんとあるやうなれど、あちらこちら手が入る、そこで急ぐと云ふのや、また互いの助け合ひもせねばならんで、また筆もとらねばならん」。
(私論.私見) 増野正兵衛筆録考
 仲田儀三郎の死の淵での「こふき」口述、これを筆録したのが増野正兵衛と云うことで、増野の教内の立ち位置が分かり興味深い。増野正兵衛は応法派でもあるが教祖教理派からの信頼が厚かったことになる。他の人がそうではなかったとまでは云えないにせよ、増野の筆録能力が高く、故に請われたのは間違いなかろう。

 2018.6.27日 れんだいこ拝
 6.23日、教祖最後のご苦労から4ヵ月後にして「仲田版こふき」の筆記完了を見届けるかのようにして、「お道」の第一の高弟仲田儀三郎が出直した(享年56歳)。生前の仲田の気迫からすると、56才で寿命を閉じるような人ではなかった。

 「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が、その「こふき」を読んだところ、こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんなわざわいが及んで来るやらしれんと、父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。「先人素描」(昭和54年4月発行、高野友治著・道友社新書4)8頁が次のように記している。
 「仲田は、生前いろいろ書き残したものがあったということですが、出直しの時、遺族の方が、その書きものをひつぎの中に入れて埋めてしまったということで、まことに残念なことであります」。
(私論.私見) 「仲田版こふき」考
 一体、「仲田版こふき」の内容はどのようなものであったのか。数ある「こふき」物とは画然別のものだったと証言されているが、であれば余計に知りたくもなる。れんだいこは、教祖の真意に最も叶っていたものであった可能性があると推理している。残念ながら、「お道」教本は陸前と続いているが、こういうところへの関心は向かわないようである。

 その後、応法の理の時代に入り、教団は自ら進んで「こふき」の廃棄の道へ踏み入った。復活するのは戦後になってであり、1949(昭和24)年に天理教教典が裁定された際に第三章で「元の理」として登場している。しかし、この「天理教教典式元の理」が定本の地位を獲得し得るものかというととても心もとない。当人が云うのは変だけれども、「れんだいこ式泥海こふき」の方がまだしもの感がある。
 教祖は、仲田の死去直前に於ける御伺ひに対し次のように述べたと筆録されている。
 錦のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた。どんなものもって行っても、つぐにつがれん。どんな大河でも、越さしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、越すに越されんで」。

 参考記録112頁が次のように記している。
 仲田様御逝去(4月頃より身上悩み、6.2日に死亡) 仲田左衛門様は、明治19年旧5月の末に御死去遊ばされ、死去の前、神様に御伺ひ申上げたる御さしづに、『にしきのきれと、みたてたものやけど、すっかりくさってしまふた。どんなものもって行っても、つぐにつがれん。どんな大河でも、こさしてみせるはずやけど、このたびは、小さい河なれど、こすにこされんで』と仰せられしと。誠に悼ましき事の限りなりけり。すっかりくさってしまふたと仰有るは、如何なる過ちのありにしや。誠に口惜しき極みにこそ。
(私論.私見) 「教祖の仲田の死去直前に於ける惜別の辞」考
 「教祖の仲田の死去直前に於ける惜別の辞」が教祖の直の御言葉であるかどうか疑わしい。「錦のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた」が仮に正確だったとすると、その場合でも直訳過ぎており、裏の真意が伝わってこない。教内随一の高弟/仲田儀三郎をかくまで廃人にせしめた当局の仕打ちに対する恨み節が吐露されていたはずのところ、こういう言辞にすり替えられているのではなかろうか。

 2018.6.27日 れんだいこ拝
 諸井政一(モロイ マサイチ)氏の「正文遺韻」は三種類あり、これを確認しておく。
 (2018.3.21日付ブログ「仲田様御逝去についての一考察」参照)
「正文遺韻」 諸井政一稿 昭和12年6月26日発行。初代会長二十年祭記念/天理教山名大教会。
「改定正文遺韻」 諸井政一遺稿 昭和28年2月26日発行。諸井政一五十年祭記念/天理教道友社。
「改定正文遺韻」 諸井政一遺稿 平成26年11月23日復刻発行。教祖百三十年祭記念/天理教山名大教会。


 この「仲田様御逝去についての全文」が削除されている。本部のお道教理は、とかく議論の余地の多い下りを自己規制する傾向にあり、本件もその一例である。これは「逆復元」の流れであり叱責されるべきであろう。

 なお、「静かなる炎の人/梅谷四郎兵衛」の冒頭、解説一で、高野友治氏は次のように記している。

 明治19年(1886年)、56才で出直したが、そのとき教祖は『にしきのきれと、みたてたものやけど…』と仰せられたという。『にしきのきれ』とは「錦の布」と思われる。織り物で「錦」が最上等である。おさしづの中で「錦」というお言葉が数回出てくるが、教祖の代理の本席(飯降伊蔵)を指している。教祖はこの仲田儀三郎を大変嘱望されていたと思う。仲田の書き遺した教義書は遺っていない。

【教祖逸話に於ける教祖と仲田儀三郎逸話】
 教祖伝逸話篇36「定めた心」、39「もっと結構」、41「末代にかけて」、47「先を楽しめ」、132「おいしいと言うて」、136「 さあ、これを持って」、138「物は大切に」、176「心の澄んだ人」。
 教祖伝逸話篇36「定めた心」。
 「明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる。」 という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」 と、家族一同、堅い心定めをした。

 りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」 と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。

 りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。『さあさあ一夜の間に目が潰れたのやな。さあさあいんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう』と、仰せ下された。

 その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。『さあさあいんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならんかったなあ。さあさあいんねん、いんねん。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあさあ勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。面々の心次第やで』と、仰せ下された。

 その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、『遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあさあその定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあさあ着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあさあ楽しめ、楽しめ、楽しめ』と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった」。
 教祖伝逸話篇39「もっと結構」。

 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい」 と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

 教祖伝逸話篇41「末代にかけて」。
 ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め」と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで」と、仰せになった。

 後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔(めんちょう/おでき)が出来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにすっきりとお救け頂いた。

 註 年寄り達とは、中田しほと、その末妹上島かつの二人である。しほは、儀三郎の長男の嫁。


 「みちのだい第33号「教祖特集号」29-30頁」の「 」の中田みちゑ (本部婦人) の「信仰の地固め」。
 深みゆく大和(やまと)の秋景色のなかでも、特に一葉々々と散りゆく柿の木になる色鮮やかな実が、いっそう大和の秋の趣きを深めております。 わけても古い農家には、御所柿(ごしょがき、現奈良県御所(ごせ)市周辺原産の完全甘柿品種)が、門の内ら(内側)の屋根に覆いかぶさるように立っているのが大和らしい姿です。教祖ご誕生にゆかりある、三昧田の前川家の内庭にも、古い柿の木が植わっています。私の家でも、信仰の初代、儀三郎(ぎさぶろう)祖父(別名:左右衛門/さえもん)の時代からあったという、古い御所柿の木が前庭にあり、ある年には「虫」のため、二つ三つ、申しわけ程度の時もあり、また、枝が折れんばかりに、たわわに実る年もあります。

 この古い柿の木と調和するように、奥まった所に、これまた百年はゆうに過ぎた古家があります。初代当時からのもので、真っ黒に煤(すす)けきった天井や柱に、文久の初めから教祖にお救け頂き、手塩にかけてお導き頂いた、初代の信仰の息づかいが秘められているようです。その昔、年代ははっきりしませんが、教祖が、庄屋敷村から歩いても五、六分とかからない豊田村の、この屋敷へ来られて、『しっかり踏み込め/\、末代までも、しっかり踏み込め/\/\』とお言葉を下されたそうです。祖父は、この尊い親心のにじみ込んだ屋敷を、末代永く子孫に伝えんがため、二代、三代に、くどくど言い伝えておりました。そして信仰とは、その場限りの、一代限りの短いものではなく、生涯末代に続くものであることを、敷地の地固めをすることによって、お教え下さった教祖の御心を、今日も新たに私たちは味あわせて頂いています。

  教祖は晩年、十八回にも及ぶ獄舎へのご苦労のお道すがらがございますが、明治十九年の櫟本分署での最後のご苦労中、朝方になってもランプの灯が点いていたので、教祖は、つと立って、ランプの灯を吹き消されたお話がありますが、やはり、監獄ご苦労中のこと、教祖ご自身、使い古した罫紙(けいし)を差し入れさせられて、それで紙縒り(こより)を作られ、一升瓶(いっしょうびん)ぐらいの入る網を作られたのを、祖父に下されました。この網袋(あみぶくろ)を見させて頂くにつれ、『お齢を召された教祖が、よくもまあ、こんな細かい細工物を作られたなあ……』と、改めて感嘆させられるのでありますが、『どんな小さいものでも、大切に生かして使う』という、温かい心遣いが偲ばれるのであります。いづれも中田家に、いんねん結んで下されたればこそ。今日も教祖の御心が実感として味あわせて頂けることに、喜びをいっぱいに感じさせて頂いております。
 教祖伝逸話篇47 「先を楽しめ」。
 「明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、『教祖が、よくお話の中に、“松は枯れても、案じなし”と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが』と言ったので、増井りんは、『お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人人が申します』と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、『さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に』と、仰せ下され、しばらくしてから、『屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所』と、重ねてお言葉を下された」。
 教祖伝逸話篇132「おいしいと言うて」。
 仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをとって来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや」と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する道理やろ」と、仰せになり、更に又、「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで」と、お教え下された。各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これと同じように仰せられた、という。
 教祖伝逸話篇136「 さあ、これを持って」。

 教祖が、監獄署からお帰りになった時、お伴をして帰って来た仲田儀三郎に、監獄署でお召しになっていた、赤い襦袢を脱いでお与えになって、「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も救かるで」と、お言葉を下された。儀三郎は、大層喜び、この赤衣を風呂敷に包んで、身体にしっかりと巻き付け、おたすけに東奔西走させて頂いた。そして、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、その赤衣で病人の患うているところを擦すると、どんな重病人も、忽ちにして御守護を頂いた。

 教祖伝逸話篇138「物は大切にしなはれや」。
 教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も数度お伴させて頂いた。そのうちのある時、教祖は、反故になった罫紙を差し入れてもらってコヨリを作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。それは、実に丈夫な上手に作られた袋であった。教祖は、それを、監獄署を出てお帰りの際、仲田にお与えになった。そして、『物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ』と、お言葉を下された。
 教祖伝逸話篇176「心の澄んだ人」。

 明治十八年十二月二十六日、教祖が仲田儀三郎に下されたお言葉に、「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事は、聞こえぬ」と。


【教祖問答余聞】
 或る時、仲田儀三郎が教祖に、人間は九億九万九千九百九十九人の人数と聞かせられるが、中に、牛馬に落ちている者もあるとのことなれば、人間の数は現在増えておりますか、又減っておりますかとお尋ねしたところ、教祖は、『それは増えてある』と仰せられて、次のようにお諭し下された。『元は、九億九万九千九百九十九人の人数にて、中に、牛馬に落ちて居る者もあるなれど、この世始めの時より後に、生き物が出世して、人間と登りている者が沢山ある。それは、鳥でも、獣でも、人間を見て、ああ羨ましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変りして、段々に効能を積むで、そこで、天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間に生まれて来るのやで。そういうわけで、人間に引き上げてもろうた者が沢山あるで』。(「正文遺韻抄」153P)

【仲田儀三郎先生評伝】
 「仲田儀三郎先生について(その一) 」。(大正八年四月号みちのとも「天理教婦人会十周年を迎えて」記事中の本部理事/高井つね様の御話部分の抜粋)
 妾(私)の父は三島の直ぐ近くにある豊田村のもので、仲田儀三郎と云い俗に左衛門と呼んで居りました。父が信仰を始めましたのは、万延元年でありまして、信心を止めて百姓の仕事を手伝おうと思うと身上に御障りを頂くので毎日/\お地場へ通って信心して居りました。それでも弁当持ちで通うのですから、家の者に気兼ねして、時々仕事の手伝いなどをすると、すぐ御障りを頂きました。或る時、田植の時に田の中へ手を入れると、手が上ったきり下りません。そこで兄にも話しをして得心してもらい御地場へズッと勤めるようになりました。ですから二三日も御地場へ行かないと、秀司先生が心配して尋ねに来てくれたこともありました。勿論、その時分は御承知でもございましょうが、警察の取締りが厳しい沿(※)で、不意に警官が来られて、窓から逃げ帰ったこともあるそうです。明治十六年の有名な旱魃は水一升米一升という位でございました。その時に雨乞い勤めをして雨を降らし、勤めに出たものは、みな警察へ引かれました。その時、警官が「仲田儀三郎は又来ているやろう」と言って、みなの面を取らしますと、案の定居たものですから「あれほど信心を止めたのに、まだやめぬか」と鞭で擲(なぐ)られたこともありました。(つづく)

 ※「沿(えん)」、「ふち(淵)」。なかなか浮かび上がることのできない苦しい境遇のたとえ。(小学館「現代国語例解辞典」より)

 「清水由松傳稿本」(昭和28年十二月発行。橋本正治編集。芳洋会発行)の79~135P「十、古い先生方の俤」の「中田儀三郎先生について」。
 中田儀三郎
 お道で一番古い入信は、文久三年二月の豊田村中田さよみ(儀三郎)先生あたりであるが、この方は早く出直されたので(明治十九年六月廿二日)印象に残っていない。息のさづけを頂かれた。豊田でその次に古い入信は辻忠作先生で幼名を忠右エ門と言い、三代目の忠作をつがれた。明治十九年の六月頃、右のお二人が一緒に大患にかかられ、辻先生は助かり、中田先生が出直されたが、その前に高井猶吉先生がお息のさづけを頂かれた時、中田奥さん(おかじさん)が、新泉の山沢の家へたづねて来られ、「うちの人はもうあかんと思う」と話しておられたのを覚えている。家の因縁の為に生涯を早められたのは惜しいことであった。その長男の岸松さんはおとなしい人で無学であったが、こつこつと本部の大裏で農事をつとめて生涯を終り、その長男の吉蔵さんは、幼少から百姓奉公にばかりやられて学問することもできず、親のあとをついで大裏の百姓をつとめていられたが、山澤摂行者の時分に本部員にして頂かれた。(「清水由松傳稿本」79ページより)

【取次人仲田佐右ヱ門評伝】
 2015年11月10日「取次人仲田佐右ヱ門についてその一
 「佐右衞門さんよく/\聞かしてやってくれまするよう/\」。前記事を見て頂ければ分かるよう、稿本天理教教祖伝逸話篇三六 「定めた心」について、この時の増井りん先生への話の取次人は仲田佐右衞門であったのは皆な分かると思うが、実は、今私はこの文章がこの逸話に於いて、とてつもなく大事な言葉であるように思う。それは、仲田佐右衞門の「取次人」という立場である。まず、この「定めた心」の話は明治7年、この年、教祖は初めて身上助けのさづけを渡されている。それは、稿本天理教教祖伝第六章を見れば分かるよう、「こうして、教祖は、赤衣を召して、自らが月日のやしろに坐す理を明らかに現わされた上、一に息ハ仲田、二に煮たもの松尾、三にさんざい手踊り辻、四にしっくりかんろだい手踊り桝井、と、四名の者に直々さづけの理を渡された」とある通りである。つまり、取次人は「聞く人に『さづけ』の理を戴くにふさわしい心を治めさせる」人衆であることからも、お助け人の筆頭として挙げられる仲田先生が、増井りんへの取次役として選ばれたのも頷けると思う。

 しかし、取次人とはいわば「神の代言者」である。今でいう別席・仮席の取次ぎを行う人が取次人と言われるように、当時ならば、「こふき話」の取次人こそが「取次人」であったようにも思う。何故なら、教祖が「こふき話」を側の人々に話したのは、「取次人」を仕込むところに主眼があったとされるからである。そして、今に残る「こふき本」は明治14年が一番古いものであるが、教祖がいつから取次人を仕込む上で「こふき話」をされていたのかというのは不明とされる。しかし、「定めた心」の逸話を読んでいくと、稿本天理教教祖伝逸話篇では、代参した為八は、「取次の方々から教えの理を承り、その上、角目角目を書いてもらって、戻って来た」とある。また、その書いて貰った教理の中身としては、「神様からお言葉がありまして世話方から『身の内は神の貸物借物。因縁の理か斯く/\、八つの埃はこうやで』と一々丁寧に教へてくだされましたが、(中略)幾太郎がそれを受取って判讀いたしますると、そこには、身のうちの理、貸物借物の御教理、八つの埃、その他の御教理が細々と認(したた)められ、三日三夜お願いをなさる時は必ずこの御教理を胸におさめてからなさる様にと添へ書きしてありました」(「みちのとも」昭和三年十二月五日号、増井りん 「長いことつとめるのやで」より)と、後に増井りん先生自身が教話としてそれを仰せられている。察するに、これは「こふき話」か、或いはその類の物であるとも考えられやしないだろうか・・・当然その「角目角目を書いてもらった」書物に「元初りの話」があったという根拠は何一つないが、ちょうど「おふでさき」第六号が書かれたのも同年の「明治七年十二月ヨリ」(六号表紙 参照)であることからも、この時教祖が「元初りの話」を断片的にも話された可能性は十分あるとも考えられるのではないか。そうならば、この逸話のお言葉は、教祖が「取次人」として、さっそく仲田佐右衞門先生を遣わせた一例の話、と読み取ることもできるわけである。

 また、以下余談でもあるが、一つふと思い浮かぶ話がある。中山正善 『ひとことはなし その三』に書かれてある高井猶吉の追懐談である。「十四五年頃だったと思ふ。教祖様は、良助さんと佐右衞門さんと自分と三人に、こふき話を書いて出せといはれた。良助さんは教祖様のお話の如く和歌態にして出された。仲田さんは話態に出された。が何れも教祖様の思召には添はなかった」。読み方によっては、それ以前より「こふき話」をされていたとも考えられる。また上記の通り、山澤良治郎は和歌体で、仲田佐右衞門は話体(説話体)で教祖に提出されたとある。ところが、何故か仲田先生の「こふき本」は未だに発見される事なく、その存在は明らかとなっていないのである。
※(今回の記事は私自身の悟りではなしに、或る先生より聞かせて頂いた話を私が調べて纏めたものである。)
 2015年11月25日「取次人仲田佐右ヱ門についてその二」。
 投稿が遅れてしまった、今回は「その二」とあるが、前記事の補足や解説が中心となるかと思う。さて前回、仲田佐右衞門の「取次人」という視点を述べたと思う。まず、その取次人について一つ述べておきたい。前記事の内容からみても、取次人は「つとめ人衆」よりも先に拵えられるものであることが窺える。その理由としては、取次人は「つとめ人衆」を集めることも、その役目として持っていたからである。それは「おふでさき」より、
 一寸したるつとめなるとハをもうなよ 三十六人にんがほしいで   (十 26)
 そのうちになりものいれて十九人 かぐらづとめの人ぢうほしいで  (十 27)
 しんぢつに心さだめてしやんせよ とりつぎの人しかとたのむで   (十 28)

 とあるように、神様はつとめ人衆には最低三十六人の人数がほしいと仰せられる。またそれは、「取次の人にしかと頼む」と仰せられているのである。 だとすれば、明治20年のおつとめを勤めるに当たっての「心定めの人衆定め」は、それまで教祖が「こふき話」を側の人々の心に覚えさせ、取次人を仕込んではいったものの、その取次人たる人々も、自らが拘引される恐れと、また高齢の教祖が監獄に連れて行かれるのを耐え兼ねた上、親神様の話を聞き分けた人間の中から、さらにつとめの人衆を集める事はきわめて困難であったといえる。「つとめ」をする人衆として、真実の心定めをする人間をつくる事が、つとめ完成への最終最大の難題であった。それが取次人の課題であったかのようにも思う。その時の「心定めの人衆定め」は、親神様からの余儀なき御言葉だったのかもしれない。これを当時の取次人の責任とは言わぬが、結局は、神様の思召し通りに成人し得なかった、我々人間の力不足であった事がいえるのではないか。

 さて長くなるので、この話は以上とし、次に述べたいのは仲田先生と増井りん先生の深い関わりについて、「明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、『松は枯れても、案じなし』と仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているのですが」と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れる。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてしまう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人々が申します」と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、「さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけれども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何と言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に」と仰せられて、しばらくしてから、「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所」と、重ねてお言葉を下された」(稿本天理教教祖伝逸話篇四七「先を楽しめ」)。

 「明治十年 仲田儀佐ヱ門先生大阪へ行くと申されましたので、私はさようで御座りますか、さようならば、私が御案内さして頂きますから・・・」略、「明治十一年六月二十日 大和国、若井村の松尾市兵衞様身上に就き仲田佐右ヱ門先生、辻忠作先生、私りん三人でお助けに出さしていたゞきました」(「史料掛報」第116~118号 「仲田佐右ヱ門先生に就て」より)

 増井りん先生は、道の御用において仲田先生と共に通られた人の中でも、特に深い関わりがあったといえる。増井りん先生の信仰というのは、もちろん元一日救けて頂いた、教祖第一の信仰であったが、それは、まさに仲田佐右衞門先生の教理や信仰を受け継いだものだったといえるかもしれない。信仰において「恩義」もまた欠かせぬ心である。加えて、逸話篇四七の話で教祖が増井りん先生の屋敷松の事を伝えるのに、仲田先生を介しているの事をみても、仲田先生が増井りん先生にとって専属の取次人だったといえるのかもしれない。そうした私の勝手な思案として、二人の「息のさづけ」という共通点は見逃せないものである。元より、そうした共通の「いんねん」があったからこそ、増井りん先生の取次に佐右衞門先生が選ばれたのか、あるいは、後になって、増井りん先生が「取次人」として仲田佐右衞門の継承者たる話医者となることを神が見定め、息のさづけを渡されたのか・・・それは分からないが、二人の子弟のような間柄には深いものが感じられる。ただし、今回、私自身仲田先生に関する資料はほとんど見ていない。増井りん先生の話を調べれば、仲田先生の名前も自ずと出てくるのである。(これは逸話篇も例外ではない)その中で特に、増井りん先生の記録に「仲田佐右ヱ門先生に就て」という口述筆記文がある。今回のような二人の接点を見る上では、非常に重要かつ貴重な資料であったと思う。このように、「佐右衞門さんよく/\聞かしてやってくれまするよう/\」の部分だけでも、天理教の歴史的視点において、非常に有力な資料の一つと見る事ができる。あまりの深読みかもしれないが、逸話篇「定めた心」は、こうした多面的に読むこともできると思うのである。そして、それはこの話だけとも限らないようにも思う。

【和歌体こふき話にみられる八人の記述考】
 2017年06月11日「和歌体こふき話にみられる八人の記述について」。
 「秀司先生は月よみのみことの魂のいんねんだ」とか「たまへ様はくもよみのみことの魂だ」という話は皆よく聞くと思う。これの話は一体どこから広まっていった話なのだろうか。色んな先人の教話にも見られるが、一番根拠として考えられるものは、こふき話の和歌体に記されてある八人の記述といわれている。以下にその御歌を記そう。
 

  それゆへに神名をつけてだいじんぐ これなる神ハいざなぎのかみ

  この神ハどこにいるとなおもうなら とふねん巳の十六才

  ぞんめいでをハしますなりこの神ハ 元の屋敷の一の神なり

  なハしろにつこふたこれで一の神 いざなみのかみいせてハげゑく

  この神ハ人間なるの元の親 この親様ハどこにござると

  思うならとふねん巳の八十と 四才にてこそやまべのこふり


  くにさつちこの神様ハ親様の たいないこもり抱きしめござる

  今年から三十年たちたなら なあハたまひめ元の屋敷へ 

  連れ帰りそのうゑなるハいつまでも よろづ助けの守護くたさる

  つきよみハしやちほこなりこれなるハ 人間骨の守護ふの神

  この神ハとふねん巳の六十と いゝ才にてぞあらハれござる


  くもよみハうなぎなるなりこの神ハ 人間の食い飲みの守護神

  この神ハとふねん巳の五才にて ぞんめいにてぞをハしますなり

  かしこねハかれいなるなりこの神ハ 人間息の守護の神

  この神ハとふねん巳の八才で ぞんめいにてぞをハしますなり

  ていしよくてんのみことハ ふぐなるぞ このものこゝろあじハいをみて

  人間の死に生きの時ゑんをきる これハこのよの挟みなる神

  この神ハとふねん巳の三十と 二才にてこそをハしますなり

  をふとのべじきもつの神これかみハ くろぐつなとて引き出しの神

  この神ハとふねん巳の十六 ぞんめいにてぞをハしますなり

    (『こふきの研究』所載山澤筆「此世初りの御噺控」より)

 

 これがつまり、以下の方々を記していると考えられるのである。

   いざなぎのみこと、当年16歳 → 前川菊太郎

   いざなみのみこと、当年84歳 → 教祖

   くにさづちのみこと、→ 30年後にたまひめとして生まれる。

   月よみのみこと、当年61歳 → 中山秀司

   くもよみのみこと、当年5歳 → 中山たまへ

   かしこねのみこと、当年8歳 → 飯降政甚

   たいしょく天のみこと、当年32歳 → 小東まつゑ

   をふとのべのみこと、当年16歳 → 中山眞之亮

 ただし、この記述自体、和歌体本が一番まとまっているわけで、他の文書にないわけではない。他のこふき本の中では、木村林蔵の「神之古記」にその記述の一部として以下の記述がみられる。

 

「則名わ雲読之命なりこの霊をなじ屋敷ゑ生ている

則名わたまゑ当未年の七年にて存命なり」

 

 また、「おふでさき」においても、

このものハとこにあるやとをもうなよ としわ十一二人いるぞや  (十二 148)

この人ハ人間はじめかけたると りうけいゝさい守護ふ道具や  (十二 149)


 と、この御歌が書かれた当時歳が十一歳の中山眞之亮と前川菊太郎の二人について述べられている。つまりは、山澤良助、堀内與蔵による二種類の和歌体本と、木村林蔵の説話体本、そして「おふでさき」の記述から、思ったよりもこの話は神の話としてあったという信憑性は高いといえるのではないか。では、仮にこれが確実に教祖が話されたものだとしたら、この記述には一体どういった意味があるのだろうか。

 2017年06月18日「和歌体こふき話にみられる八人の記述について その二」。
 前回の続きである。この記事だけで何の話をしているのか分からないという方がいれば、前回の「和歌体こふき話にみられる八人の記述について」を流す程度に読んで頂けたらと思う。さて、では何故こふき話等に、八人の記述がされているのだろうか・・・その八人の記述について、二代真柱様は『ひとことはなし その三』において、「此十四年本の中に、つとめ人ぢうの氏名が窺はれるのであります。それによりますと、八名の方々が選定されてゐる事が推測されるのであります」(129頁)と述べており、これが仮に選定された十人の「つとめ人衆」となるべき方々を示しているとしている。しかし、ここで同時に疑問がいくつか出てきている。それは・・・
  ①教祖様を他の人々と同じくつとめ人衆と考えてよいか。
  ②その頃未だ生まれていない「たまひめ」が記されている事について。
  ③「十人」人衆のうち、月日両神を除いた「八人」では不足のように思われること。

 また、これらについて、安井幹夫氏も以下のように同様の疑問を示している。「たとえば、飯降政甚先生は、かしこねのみことのお役にしかお出にならなかったと聞かせていただいたことがあるが、それは、「こふき話」に、
  かしこねハかれいなるなりこの神ハ にんげん息の守護ふの神
  この神ハとふねん巳の八才で ぞんめいにてぞをハしますなり
と記されていることによる。つまり、「当年巳の八才で存命でいる」という記述が、飯降政甚先生を指示していると了解されていたからにほかならない。しかしながら、もし、つとめ人衆が「こふき話」で記述された、魂のいんねんある方たちに限定されるのであるならば、くにとこたちのみこと、をもたりのみことに該当する方たちに触れられていない。これは当然の事である。しかも、くにさづちのみことが、三十年経ったならお屋敷に帰ってくるたまひめとされること、さらに、おやさまがいざなみのみことの魂のお方であることからして、物理的に、つとめ人衆は揃わない。将来的にも、常時十人の人衆が揃うことはない、といえる。したがって、「こふき話」における記述は、単につとめ人衆に相当する理と役割を明らかにされたというより、もっと別の意味があるものとして、区別して考えられるべきであろう」(『おふでさきを学習する』 308‐309頁より)。

 さらに加えて、『天理教校論叢』所載の澤井勇一「和歌体十四年本「こふき話」をめぐる問題」によれば、

  にち/\に神の心わせゑたとて 人ぢう十人そろいなけねば       (六 20)
  だん/\と人ぢうそろふたそのゆへで しんぢつをみてやくわりをする (十 38)
  やくハりもとふゆう事であるならば かぐら十人あといなりもの       (十 39)


 「このように「おふでさき」を見てくると、つとめ人衆の資格の問題は「しんじつをみてやくわりをする」とか「人ぢう十人そろいなけねば」という力に力点がある。(中略) 「おふでさき」を見れば、教祖は「つとめをせよ」と急き込まれている。魂のいんねんある十人のつとめ人衆が揃っていないにもかかわらず「つとめをせよ」と促されたというのは少しおかしいということになる」(64‐66頁より)

 と述べられ、また教祖がおつとめに上がられた伝承がないという事例も取り上げている。ただ、『ひとことはなし その三』に「仲田左衛門さんが教祖様の役割を桝井伊三郎さんが秀司祖父様の役割をよく代られた」との話がある。そこで、「よく代わられた」との伝承から推察すると、教祖も十人のつとめ人衆に加わっておられたのではないかという事も考えられる。逆に「よく代わられた」というのならば、なおさら和歌体14年本の記述の八人に「つとめ人衆」が限定されることもないと考えられるのである。

 「…ともあれ、以上の如く見てくると、前掲の和歌体本に記載の八人しかつとめ人衆の資格がなかったとは言い切れない。だが「代わって勤める」ようになったのは、いわゆる明治十五年の「模様替え」以後であるという反論も予想される。しかし、前述の明治七・八年の「おふでさき」における「真実を見て役割をする」というつとめ人衆の役割の態度とか、明治十四年のある日、教祖は当時五才のたまへ様につとめ人衆の印といわれる紋を人々に預けさせられ、「親神様からこれを頂いても、めん/\の心次第で返さんならん者もあるで」と、つけ加えられたという史実、(中略)既に明治十五年以前から真実をみてつとめ人衆の役割をされ、代りあってつとめられていたことを物語っており、魂のいんねんある方々しかつとめ人衆に列せられなかったとは考えられない。かくして、「模様替え」とつとめ人衆の問題との関連はあまり重要ではないのではないか」(68頁より)とのように述べられている。

 つまり、従来まで、この和歌体十四年本に記された八人の記述が明治十六年本以降になって記されなくなったのには、その間の明治十五年のかんろだい没収と「模様替え」が関係していると考えられてきた。その大ふしを起因として、以後「つとめ人衆」を限定する必要がなくなったのではないかと。しかし、上記の見解をみていけば、「つとめ人衆」との関係はあまりないように思われる。即断は許されないが、「つとめ人衆」とは別の何かを示しているとも十分考えられるだろう。前振りが長くなってしまった。次回、この八人の記述について、様々な資料と見解を基に、神意を探ってみたいと思う。


【仲田かじ(なかた かじ)履歴】
 仲田儀三郎の妻。文久3年、長男・岸松を出産した後、体の具合を悪くし、教祖に助けられて入信。夫と共に信仰に励んだ。




(私論.私見)