第70部 | 1882年 | 85才 | 泉田事件、我孫子事件考 |
明治15年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「泉田事件、我孫子事件考」を確認しておく。「フリーフォーラム」の「資料コーナー(1)」の「我孫子事件」、「我孫子事件」が事件の概要を伝えており、それらを参照する。泉田籐吉の履歴については 「泉田籐吉」に記す。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【コレラの流行】 | ||||
この頃教祖は、明治7年に発生した牛疫(「うしのさきみち」)をコレラの前触れとして次のように予告していた。
果たして、その後、明治15年にコレラが流行した。教祖は、次のように宣べられた。
教祖は、「月日の残念の知らせ」であるとされた。 |
【我孫子事件】 | |
1882(明治15).10.20日(陰暦9.9日)の夜、お屋敷で連日連夜毎日づとめが勤められていたこの時、熱心な道人である泉田藤吉系譜の信者が、和泉国豊中村我孫子(現在の大阪府泉大津市我孫子町)で、熱心な信者の一人が病人を救おうとしたあまり、死なせてしまうという不祥事件が起こった。 |
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明治15年9月30日付け「大阪朝日新聞」が我孫子事件の模様を次のように詳報している。
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【大阪朝日新聞の事件記事】 | |
1881(明治14).7.17日の大阪新報記事に続いて、翌年「我孫子事件」が大阪朝日新聞に大きく取り上げられた。「フリーフォーラム」の「我孫子事件の新聞記事(【資料】大阪朝日新聞 明治15年9月30日)」がサイトアップしており、これを転載する。(れんだいこ文法に則り表記及び編集替えした)
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【我孫子事件に対する教祖の御言葉】 | ||
「大阪朝日新聞」に続くマスコミパッシングに際して、教祖に尋ねたところ次のように宣べられた。
次のように評されている。
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これを思案するのに、教祖の我孫子事件に対する御言葉は、世間常識とは異なっていよう。マスコミの天理教一斉パッシングに対して、むしろ天理教が世間に名を広める絶好機会と捉えており、そういう意味ではマスコミの天理教一斉パッシングの目論見を逆手に取っている。 | ||
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稿本天理教教祖伝の「我孫子事件」観は、事件関与者・泉田藤吉を「信仰の浅い信者」と記しているが、真相と齟齬する。泉田藤吉は当時教祖派にして教祖の覚えめでたい「荒き棟梁」そのものであった。稿本天理教教祖伝は、その泉田を「信仰の浅い信者」と評する点で端から記述が曇っている。「事件が伝えられた当夜の教祖お伺い」を素直に読めば、教祖が泉田籐吉らの跳ね上がりをむしろ激励督励していたと受け取るべきであろう。この時期教祖は、「お道」と世間との軋轢に対して、より活動的であることに意見されることはなかった、むしろ教祖は満足であったお言葉こそ残されているというのが史実である。 泉田藤吉評で特筆べきことは、命懸けの教祖崩御間際の立て合い神楽つとめの際、地方(じかた)を務めたのが泉田藤吉だったことである。この栄誉を称えない教理は無効だろう。稿本天理教教祖伝は、泉田藤吉に対して好意的に記していないが、泉田の名誉の為にも早晩書き換えられねばならない。「教内に於ける泉田藤吉の果たした役割と意義を廻る地位評価」は今後の課題として残されていると云うべきだろう。かく指摘しておく。 |
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我孫子事件は、お道教義のファンダメンタリズム(教条主義)が医療否定の論理に至り、「お道」信仰の日にち浅い者が、勢いだけでお道教義をストレートに適用した結果、これが裏目に出て病者が死亡した事件であった。ともすれば「信仰が汝を癒せり」となりがちで、ある意味で、治癒信仰と世直し信仰を合体させているお道理論の必然的な発生であった。これを少し検証してみる。 お道教義においては、人の寿命は元来115歳を定命とするように仕込まれている。本来長寿で健康である筈の人間が何ゆえ病魔に冒されるのか。病魔は、身上(病気)と事情(困難)とに分かれるが、「病の元は心から」と諭されており心得違いが原因であるとされている。但し、心得違いとは、罪とか罰とか因縁という強力で考える必要はない。「惜しい、欲しい、憎い、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢」の「八つの埃」から生まれている。とすれば、病気平癒は、この埃をいかに払うのかに掛かってくる。この払いの道が教祖の教えであり、教祖の教えと「ひながた」を学ぶのがお道の信仰である。道人信仰者には「日々のつとめ」が基本とされており、これに一定の成人を為した者に与えられるのが「授け」である。この「授け」の霊能により、病気治癒効果が期待でき、現に多くの奇跡が生まれている。このお助け能力を持つ道人を芯として世直し、世の立替に向かい陽気暮らし世界を創出する。凡そこういう教義体系になっている。 我孫子事件は、その教義をストレートに適用し、これが裏目に出て病者が死亡した事件であった。それが、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。それは、治癒信仰を基調とする宗派なら必ずお見舞いさせられ経由しなければならない関門であろう。 2006.10.24日 れんだいこ拝 |
【泉田事件】 | ||
この頃、お道信仰は、お屋敷で護摩を焚き、その他の人策も加わり、応法の道を余儀なくされていた。お屋敷(本部)は官憲指導に従い、教祖と道人の接点を失わせ、教義も当局に許容されるべき改造しつつあった。こうした折、和泉国泉北群豊中村我孫子(現、大阪府泉大津市 我孫子町)で、いわゆる我孫子事件が発生した。 1882(明治15).9.9日節句の夜、大阪で泉田籐吉が警察に拘引され、熱心のあまり堂々と所信を披瀝し、警官を相手に激論する事件が発生している。これを「泉田藤吉所信表明事件」と云う。事件は、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。当時のマスコミは得たりとばかり口を極めて攻撃し、これを大々的に取り上げて全国的な報道となった。 事件が伝えられた当夜、教祖にお伺いすると次のようなお言葉を発した。稿本天理教教祖伝第9章・御苦労(237-241P)は次のように記している。
このお言葉は次のように受けとめられた。この当時から丸2年前より、金剛山地福寺に属する「転輪王講社」が開設されて、お屋敷内では「応法の理」による神仏混淆の礼拝が続けられていた。官憲の目をごまかす手段であったとはいえ、神が「むさくるしい」との思いにあることも至極当然であり、従って「神が取り払う」とは、「転輪王講社」の閉鎖を意味するものであろうと受止められ、道人はその日の近いことを知ることとなった。稿本天理教教祖伝第9章・御苦労(240P)は次のように記している。
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【泉田事件、我孫子事件に対する大阪府指令】 | |
この我孫子事件と泉田の両事件が痛く警察を刺激して、大阪府から奈良警察署へ次のような指令が届くことになった。
すなわち、教祖の御言葉からすると、金剛山地福寺配下としての転輪王講社も蒸風呂兼宿屋業も、官憲の手で取り払わせるしか取り払いようがない、神がさせているのだと諭しておられる。我孫子事件のように、一見教理の取り違いのために種々の迷信が行われているとした当時の見解に対して、お言葉では敢えてそのようには指摘されていない。 |
【事件関係者の裁判の行方】 |
事件のその後、岩松は、直ちに殺人容疑で逮捕され、検察送りとなり、正式な裁判を受ける身となった。(泉田も殺人罪で起訴されることになる、とのこと) 但し、同情すべき点もあったことから、審理の結果最終的に無罪判決を受けることになる。が、検察の上告が続き大審院まで持ち込まれている。 |
(私論.私見)