第70部 1882年 85才 泉田事件、我孫子事件考
明治15年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「泉田事件、我孫子事件考」を確認しておく。「フリーフォーラム」の「資料コーナー(1)」の「我孫子事件」、「我孫子事件」が事件の概要を伝えており、それらを参照する。泉田籐吉の履歴については
泉田籐吉」に記す。 


 2007.11.30日 れんだいこ拝


【コレラの流行】
 この頃教祖は、明治7年に発生した牛疫(「うしのさきみち」)をコレラの前触れとして次のように予告していた。
 今迄の 牛のさきみち をもてみよ
 上たるところ 皆な気をつけよふ
四号18

 果たして、その後、明治15年にコレラが流行した。教祖は、次のように宣べられた。
 世界には コレラと云うて いるけれど
 月日残念 知らす事なり
十四号22

 教祖は、「月日の残念の知らせ」であるとされた。

【我孫子事件】

 1882(明治15).10.20日(陰暦9.9日)の夜、お屋敷で連日連夜毎日づとめが勤められていたこの時、熱心な道人である泉田藤吉系譜の信者が、和泉国豊中村我孫子(現在の大阪府泉大津市我孫子町)で、熱心な信者の一人が病人を救おうとしたあまり、死なせてしまうという不祥事件が起こった。

 
事件は、豊中村の辻川岩松(当時21歳、新聞では岩吉)が、前年10月頃、信貴山詣りの途中で病気に罹り、天理教徒のお助けを頂き、以降熱心な信者となった。そこで、同村の渋田豊次郎(当時18歳)を誘って、翌15.7月、おぢばに帰参した。この時、両人は、教祖から御幣の神実様(新聞には、悪病除けの御札)を頂いた。岩松は、これを丁寧にお祀りしていたところ、病人がある度に祈願をかけると不思議に助かったので生き神様のように評判された。一方、豊次郎は御幣の始末に困って何気なく風呂場で焼き捨てたという。

 折しもこの時、コレラが全国的に流行・蔓延した。これに罹患した豊次郎は、岩松にお助けを乞うた。あちらがぷくっと膨れ、こちらがぷくっと膨れ、その膨れが身体中を動くので痛くてたまらない。“早く 切ってくれ!”と懇願した。岩松は「お前は取り返しのつかんことをした。生き神を焼き捨てた罪は逃れられん。お前の身体の中にはコレラ菌が入り込んでいるから、それをとり除けてやる」と言って、豊次郎の親族や信者の前で、本人の頼みに従って体中を移動する瘤状のものを剃刀であちこち削いでいった。その切り取ったものが平鉢にいっぱい盛られ、現場は惨状と化したが、豊次郎も居合わせた人々も“なむ天輪王命、なむ天輪王命”と唱える中、彼は絶命したという。これを我孫子事件と云う。

 明治15年9月30日付け「大阪朝日新聞」が我孫子事件の模様を次のように詳報している。
                                                 

【大阪朝日新聞の事件記事】
 1881(明治14).7.17日の大阪新報記事に続いて、翌年「我孫子事件」が大阪朝日新聞に大きく取り上げられた。フリーフォーラム」の「我孫子事件の新聞記事【資料】大阪朝日新聞 明治15年9月30日)」がサイトアップしており、これを転載する。(れんだいこ文法に則り表記及び編集替えした)
 「その愚は笑うべく、その状は憐れむべし。府下和泉国和泉郡我孫子の荘、宮村に鎮座まします穴師神社と申すは、同荘七ケ村の産土神にて、俗説この神を信ずれば力あくまで強くなるとて、力士なぞの願いをかけるもの多し。しかるに例年コレラ病といえば、この宮村より発し、同荘に蔓延し非命に倒れる者、沢なるを以って同村のT(記事は実名)徳治郎の舎弟岩吉22歳という壮年配、只管之を患い、こは全く名人敬神の道を知らず、神に非礼を加えるより甚だしく神を怒らせ玉い、かくは人々に災いするなれば、必ず謹みて信心すべきなりと村民を諭しなどしておりけり。

 かくて、当春の事とか同荘池浦村のS(記事は実名)伝次郎の次男豊次郎18歳というが遊びに来たりしを強く勧めて、足曳きの大和国字国中に安置せる天輪王之尊に参詣し、共に悪病除けの御札を受けて帰り、岩吉は之を荒菰(アラコモ)の上に恭しく崇め祀り、清水を捧げ洗い米を供えなどしつ無暗矢鱈に信じおりし処、誰が流伝せしものか、岩吉も宅に祀れる天輪王之尊を信仰崇敬する輩は何に寄らず一つの願い事を聞き且つ、悪病を免れる事疑いを容れずとて、ここに歩を運ばせて加持を頼み、祈祷を乞いなど愚に惑わされる輩の日一日より加わりけり。 

 さて初夏の候ともなりしが、彼の宮村の中よりコレラ病の発し日に患者の増すにつけ、同村の者共額を集め、如何にしてこの災いを払はばやと、常に力士の外は詣るものなき穴師の神社にて神を勇めるためにとて、本月二十一日より三月の間、祭典を行い神楽を奏しけるが、その月より老若を論ぜず男女を問わず、社内に集い神の御前に群がり祈念する者夥しく、その帰路に歩をまげてTの宅に立ち寄り天輪王之尊に参拝するものあり。彼の豊次郎も同家に立ち寄り、この群れの中にありて頻りに額をつきて尊を拝みおり、当日岩吉は白衣を身に纏い、ものものしき出で立ちにて上座に占めおりしが、やがて豊次郎の相貌を見て、青き息を吹き、ああ危ういかな、危ういかな、今つくづくと貴公を相するに、突然コレラ病の発し果敢なく命を落とすの色あり。  

 されども貴公は我が天輪王を日頃信じるを以って、之が治術を施しなば、万に一つ危うき命を遁るるべし、兎にも角にも天輪王の指揮に従がい、療治を施し得さすべきかと言えば、この席に列席者は元より、豊次郎は大いに驚き、今日ここに詣でずば命を失うべかりしに、歩をまげたるが大いなる幸福疾その治術をなし玉へ、あら有難き尊やと、うなじを垂れて座を通う。

 そのとき岩吉は“いでいで”と言いつつも襷を十字に綾取りて、豊次郎の辺へ出で来しかば、人々口を開き、首を伸ばし、そのせん様を見てあれば、岩吉はやがて豊次郎の二の腕を手拭いにて堅く括り、剃刀を持ちて腕を一寸〔約3センチ〕計り切りしかば、何かは以って堪るべき鮮血淋璃として流れ出て、その痛みさへ烈しければ、豊次が身をもがき苦しむを岩吉は更に意となさず。

 この鮮血を出さずば、到底命は保たじとて、果ては参詣人に手伝わせて甚だしく身体を柱に縛りつけ、祝詞を上げながら、今度は出刃包丁を以って鶏の料理をする如く、肉を削ぎ最も残酷な治術を施すに誰とて之を怪しむ者なく、却って疫病神をはらすなれど、苦痛のために泣き叫ぶをも頓着せず、八方を取り囲みて荒き療治をして居る折柄、このことを早くも聞き込みけん豊次の父伝次郎及び、近村なれば大津村の警察署より巡査五名駆け付けられ、現場に臨みて、之を見るに憐れむべし、豊次は血汐に染まりて、既に息絶え居り、父の伝次之を見て、咄嗟と計り死骸の上に伏しまろび、前後も知らず泣き悲しみ、何咎ありて倅をこのように切り殺せしぞ。元のようにして返せ。アラ恨めしの岩吉殿と絶ち入るばかり嘆くにぞ。警官は左もこそと直ぐ医を招きて療養を加えしが、今更その験なければ死骸をそのまま下げ渡されぬ。

 さる程に警官は岩吉は元より之に係りし宇右衛門及び重蔵という者、その他十名ばかりの者共を数珠繋ぎに縛りて警察署へ拘引し、今猶取り調べ中なりと、その挙動如何にも奇怪にして、若し故意なければ狐狸のために化かされたるものか、何にしても怪しき限りなり」。

【我孫子事件に対する教祖の御言葉】

 「大阪朝日新聞」に続くマスコミパッシングに際して、教祖に尋ねたところ次のように宣べられた。

 「さあ海越え山越え々々、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで」。

 次のように評されている。
 「ここまで教祖は、いかなる節も皆芽の出る『活きぶし』としてお連れ通りくださった。その教祖によるお言葉であった事から、これほどの悪評の流れも、かえって親神の御名を天下に伝える『活きぶし』として活かせて下さるのであろうと、道人は愁眉を開いた」。
(私論.私見) 教祖の我孫子事件に対する御言葉考
 これを思案するのに、教祖の我孫子事件に対する御言葉は、世間常識とは異なっていよう。マスコミの天理教一斉パッシングに対して、むしろ天理教が世間に名を広める絶好機会と捉えており、そういう意味ではマスコミの天理教一斉パッシングの目論見を逆手に取っている。
(私論.私見) 「我孫子事件」に対する教祖の対応考
 稿本天理教教祖伝の「我孫子事件」観は、事件関与者・泉田藤吉を「信仰の浅い信者」と記しているが、真相と齟齬する。泉田藤吉は当時教祖派にして教祖の覚えめでたい「荒き棟梁」そのものであった。稿本天理教教祖伝は、その泉田を「信仰の浅い信者」と評する点で端から記述が曇っている。「事件が伝えられた当夜の教祖お伺い」を素直に読めば、教祖が泉田籐吉らの跳ね上がりをむしろ激励督励していたと受け取るべきであろう。この時期教祖は、「お道」と世間との軋轢に対して、より活動的であることに意見されることはなかった、むしろ教祖は満足であったお言葉こそ残されているというのが史実である。

 泉田藤吉評で特筆べきことは、命懸けの教祖崩御間際の立て合い神楽つとめの際、地方(じかた)を務めたのが泉田藤吉だったことである。この栄誉を称えない教理は無効だろう。稿本天理教教祖伝は、泉田藤吉に対して好意的に記していないが、泉田の名誉の為にも早晩書き換えられねばならない。「教内に於ける泉田藤吉の果たした役割と意義を廻る地位評価」は今後の課題として残されていると云うべきだろう。かく指摘しておく。

(私論.私見) 我孫子事件考

 我孫子事件は、お道教義のファンダメンタリズム(教条主義)が医療否定の論理に至り、「お道」信仰の日にち浅い者が、勢いだけでお道教義をストレートに適用した結果、これが裏目に出て病者が死亡した事件であった。ともすれば「信仰が汝を癒せり」となりがちで、ある意味で、治癒信仰と世直し信仰を合体させているお道理論の必然的な発生であった。これを少し検証してみる。

 お道教義においては、人の寿命は元来115歳を定命とするように仕込まれている。本来長寿で健康である筈の人間が何ゆえ病魔に冒されるのか。病魔は、身上(病気)と事情(困難)とに分かれるが、「病の元は心から」と諭されており心得違いが原因であるとされている。但し、心得違いとは、罪とか罰とか因縁という強力で考える必要はない。「惜しい、欲しい、憎い、可愛い、恨み、腹立ち、欲、高慢」の「八つの埃」から生まれている。とすれば、病気平癒は、この埃をいかに払うのかに掛かってくる。この払いの道が教祖の教えであり、教祖の教えと「ひながた」を学ぶのがお道の信仰である。道人信仰者には「日々のつとめ」が基本とされており、これに一定の成人を為した者に与えられるのが「授け」である。この「授け」の霊能により、病気治癒効果が期待でき、現に多くの奇跡が生まれている。このお助け能力を持つ道人を芯として世直し、世の立替に向かい陽気暮らし世界を創出する。凡そこういう教義体系になっている。

 我孫子事件は、その教義をストレートに適用し、これが裏目に出て病者が死亡した事件であった。それが、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。それは、治癒信仰を基調とする宗派なら必ずお見舞いさせられ経由しなければならない関門であろう。

 2006.10.24日 れんだいこ拝

【泉田事件】
 この頃、お道信仰は、お屋敷で護摩を焚き、その他の人策も加わり、応法の道を余儀なくされていた。お屋敷(本部)は官憲指導に従い、教祖と道人の接点を失わせ、教義も当局に許容されるべき改造しつつあった。こうした折、和泉国泉北群豊中村我孫子(現、大阪府泉大津市 我孫子町)で、いわゆる我孫子事件が発生した。

 1882(明治15).9.9日節句の夜、大阪で泉田籐吉が警察に拘引され、熱心のあまり堂々と所信を披瀝し、警官を相手に激論する事件が発生している。これを「泉田藤吉所信表明事件」と云う。事件は、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。当時のマスコミは得たりとばかり口を極めて攻撃し、これを大々的に取り上げて全国的な報道となった。  

 事件が伝えられた当夜、教祖にお伺いすると次のようなお言葉を発した。稿本天理教教祖伝第9章・御苦労(237-241P)は次のように記している。
 「さあさぁ屋敷の中々。むさくるしいてならんならん々。すっきり神が取り払うで払うで、さあ十分六だい何にも言うことない、十分八方広がる程に。さあ、この所より下へも下らぬもの、何時何処へ神がつれて出るや知れんで」。

 このお言葉は次のように受けとめられた。この当時から丸2年前より、金剛山地福寺に属する「転輪王講社」が開設されて、お屋敷内では「応法の理」による神仏混淆の礼拝が続けられていた。官憲の目をごまかす手段であったとはいえ、神が「むさくるしい」との思いにあることも至極当然であり、従って「神が取り払う」とは、「転輪王講社」の閉鎖を意味するものであろうと受止められ、道人はその日の近いことを知ることとなった。稿本天理教教祖伝第9章・御苦労(240P)は次のように記している。
 「この頃、大阪府泉北郡で、信仰の浅い信者達の間に、我孫子事件が起こって、警察沙汰となった。当時お屋敷では、人々が大そう心配して、親神の思召を伺うと、『さあ海越え山越え、海越え山越え、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで』との事であった。これを聞いて、一同は辛うじて愁眉を開いた」。

【泉田事件、我孫子事件に対する大阪府指令】
 この我孫子事件と泉田の両事件が痛く警察を刺激して、大阪府から奈良警察署へ次のような指令が届くことになった。
 「神降し又ハ稲荷下ケノ類ハ、豫テ不相成旨布達モ候処、近来、天輪王ノ命ト称シ、之ヲ信仰スルモノ 諸人ヲ集メ、神ノ告ケ杯ト怪異ノ説ヲ唱ヘ、人ヲ眩惑セシムルモノ有之、既ニ和泉国泉郡豊中村ニ於テ人ヲ死ニ致シタル義モ有之候條、各署ニ於テ一層注意シ、右等衆ヲ集メ、眩惑セシムルノ処為アルモノハ、布達(和河泉ハ旧堺県明治十三年甲弟二十四号)違背ノ廉ヲ以テ処分可致、此段及通達候也 大阪府警察部長 大浦兼武」

 すなわち、教祖の御言葉からすると、金剛山地福寺配下としての転輪王講社も蒸風呂兼宿屋業も、官憲の手で取り払わせるしか取り払いようがない、神がさせているのだと諭しておられる。我孫子事件のように、一見教理の取り違いのために種々の迷信が行われているとした当時の見解に対して、お言葉では敢えてそのようには指摘されていない。

【事件関係者の裁判の行方】

 事件のその後、岩松は、直ちに殺人容疑で逮捕され、検察送りとなり、正式な裁判を受ける身となった。(泉田も殺人罪で起訴されることになる、とのこと) 但し、同情すべき点もあったことから、審理の結果最終的に無罪判決を受けることになる。が、検察の上告が続き大審院まで持ち込まれている。






(私論.私見)