泉田籐吉

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年10.08日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「泉田籐吉」を確認しておく。「天理教各教会の歴史探索」の「教会番号70番/中津大教会」その他参照。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【泉田籐吉の履歴】
 1840(天保11)年5.11日、父泉田富吉の二男として摂津国東成郡大今里村(現・大阪市東成区大今里)に生まれる。通称「熊書」と呼ばれる。
 1904(明治37)年4.26日、おぢばで出直し(亨年65歳)。
 泉田藤吉は「北大教会」(第14回)「御津大教会」(第32回)「大江大教会」(第48回)の中に登場している。北大教会の茨木基敬初代会長、御津大教会の小松駒吉初代会長、大江大教会の中西金次郎初代会長。後に天理教の大きな柱となる大教会の初代会長を多く導かれたのが「泉田藤吉」先生!さらに、宇佐大教会の宇都宮右源太初代会長、網島分教会の寺田半兵衛初代会長、それらの有名な本部直属教会の初代会長を導いたのも泉田藤吉だった!何より「中津大教会」は泉田藤吉ご自身が初代会長‼ 泉田藤吉に助けられ、お道に引き寄せられた方は一体どれほど居たのか。無名の方々も含めると数え切れない程だったのではないか、と推察される。

【泉田籐吉の履歴】
 1840(天保11)年5.11日、父泉田富吉の二男として摂津国東成郡大今里村(現・大阪市東成区大今里)に生まれる。
 4歳にして両親に死別し、東成郡猪飼野の山本家に預けられて同家の山本伊平と兄弟のようにして10歳まで育てられた。その間、子守奉公などに出されたが、腕白なため断られ月に15回ぐらい奉公先が変わったこともあった。
 10歳の時、東成区片江町の清水家の貴子となって成人したが、何かの事情で清水姓を名乗ることはできなかった。元来文字も書けず、両親の名前も知らず、自分の名前も「熊」より知らなかった藤吉は、大工や左官の手伝いをしたり井戸掘人夫として働き、その後、体格も良く腕力も強かったので西国巡りの強力となった。通称「熊書」と呼ばれる。
 1871(明治4)年2月頃、奈良の二月堂のお水取りに参詣し、その時、人の噂で教祖(おやさま)を知り、初めておぢばに参詣する。
 1877(明治10)年、酒の飲み過ぎから胃癌になり、もう助からないといわれていた時、天恵組三番の周旋の山本伊平が来て「貸し物借り物」の話を聞き、なるほどと思っている間にすっかり助かった。以来、熱心な布教師となる。
 泉田藤吉の猛烈な布教により信徒が増え 天恵組四番の講元となった。当時大阪の空堀に住み、蒸し芋屋を営む。藤吉のおぢば帰りは、商売を終え夕方大阪を出て夜中におぢばへ着き、官憲の迫害のきびしい中お屋敷の床下で1、2時間寝て、一言二言のお仕込みを頂いて、夜明け前おぢばを立って帰るという日々であった。商売も芋を売るのが目的でなく、病人捜し、においがけが目的であった。藤吉の布教は猛烈で、病人があるとちょっと隣りへでも行くようにおぢばへ帰ってお願いし、直ぐ大阪へ帰って病人におさづけを取り次いだ。
 1882(明治15)年6月、泉田藤吉が、小松駒吉のコレラをお助けする。同年7月、泉田藤吉が小松駒吉を連れておぢばがえり。
 同年10.20日、泉田藤吉が、大阪で事件を起す。泉田は当時天恵四番講元で大阪に住む熱心な布教者であったが、熱心のあまりに警官を相手に激論をしてしまった。そのかどで、10.27日、教祖は奈良警察署の取り調べを受けることとなった。その結果、10.29日、教祖はじめ5名の者が警察へ引致され、教祖は12日間、他の者は10日間の投獄に処せられた。この教祖の拘留の同じ原因となったものに我孫子事件がある。(天理教事典(1977年版) P48 )
 同年11.4日、泉田藤吉が、茨木基敬の瀕死の次女おたすけ。
 同年冬、小松駒吉が、泉田藤吉と意見を異にし天恵組4番を離脱する。
 1883(明治16)年4.22日、小松駒吉を講元とする天恵組5番 (後の御津大教会)が設立される。
 同年、寺田半兵衛が、長女たきの産後の患いと長男・城之助の労咳 (結核)おたすけを乞い泉田藤吉を訪問。その後、次男・卯之助が5才で急死したところから悟るところあり入信する。
 1884(明治17)年4.20日、茨木基敬が、天恵4番より分かれて天地組 (後の北大教会) を設立する。
 1886(明治19)年2月頃、泉田藤吉が、中西金次郎の全身痛をお助け。同年3月、泉田藤吉が、中西夫妻を連れておぢばがえり。
 1886(明治19)年頃、泉田藤吉は、九州への布教を思い立った。しかし、この時、おさしづを伺ったところ「見合わせよ」とのお言葉があったため断念した。代わりに石工の北田某を熊本方面に送って布教をさせた。
 1887(明治20)年春頃、中西金次郎を講元とする天恵4番講分講として恵心組 (後の大江大教会)を設立する。
 1888(明治21)年頃、ランプを手広く売っていた商人の伏見長吉が病気勝ちになり、長男の三次郎(19歳)にこの年の仕入れを任せた。三次郎は、父に代わっていつもの馬関に行ったが、その年は思わしい品物がなかった。その時、卸屋の主人が大阪行きを勧めてくれて、卸問屋の川田音吉という人物を紹介してくれた。勧めを受けて三次郎は思い切って大阪に出た。卸問屋の音吉は、大阪に出てきた三次郎の世話をよくし、思い通りの品物を揃えてやった上、懇ろに慰労した。或る日、大阪の盛り場を見せようと「千日前にでも行こう」と誘った。ところが、三次郎は千日前を千日参りと聞き違えて「是非その参り所へ連れて行って下さい」と願った。音吉は、丁度その頃、音吉は天理教を信仰し始めていた。若いのに信心家の三次郎の素養に感心し、三次郎を梅谷四郎兵衛の明心組に案内した。三次郎は明心組で神様の話を熱心に聞いて感激した。 『みかぐらうた』1冊をもらって帰り、両親にこの話をくわしく聞かせた。
 1889(明治22)年頃、三次郎は自ら進んで大阪の船場分教会に参拝し、船場分教会の信者に「この有難い神様の話を是非中津にも伝えて下さい」と、父からの手紙も差し出して豊前中津への布教師派遣を懇請した。伏見長吉・三次郎父子は、豊前中津への布教師派遣を再三頼んでいたが、船場分教会からは行く布教師がなかなか見つからなかった。(「道〜天理教伝道史をあるく」(道友社編) P99)
 1890(明治23)年、泉田藤吉は、船場分教会伝聞で、豊前中津より布教に来てもらいたいと言って来ている信者がいるが、遠いので船場から行く人がなく、その返事に困っているという話を聞いた。泉田藤吉は、かねてからの思いを達成する良い機会だと合点し、「その話はわしが引き受けさしてもらおう」と申し出た。
 泉田藤吉の申し出により豊前中津へ布教師を派遣する話がまとまり、泉田藤吉は、自身が講元をつとめていた「天恵4番講」の講元代理に大江の中西金次郎を指名し、中津への布教に出ることになった。その後、今村斧太郎が天恵4番講を継承する事となり、中西金次郎は恵心組に専念することになった。➡ 恵心組は本部直轄になる。
 1890(明治23)年11.3日、大阪で当時「天恵4番」の講長として布教していた泉田藤吉が大分県中津町へ布教に赴いた。これが後の中津大教会、宇佐大教会(宇都宮右源太)を導くことになる。
 伏見長吉は自宅2階の1室を提供して泉田藤吉の布教を助けた。泉田藤吉は日中は昼食抜きで布教に回り、夜は人々に道の話を取り次いだ。中津は城下町で、階級意識がなお町民の中に潜在していたが、大兵で親分肌の藤吉のもとへ、様々な階層の人が寄り集まり自然に世話役と布教実働者とができた。
 その間、大阪から今村千賀子が応援に来た。元武士の家に育ち、なぎなたを振るう才女であった。お助けは名人であるが、こまめに育てるのは得意でなかった藤吉にとって、千賀子は信者をまとめ悩みを聞いては育てていくという実の人であった。こうして中津大教会は育っていく。

 宇佐町の宇都宮右源太は、代々の酒造業をやめて八面山犬ヶ丘にこもり、弟・徳太郎の経営する天然氷製造の仕事をしていた使用人の行動を不審に思い、ある日、後をつけてみた。
右源太は、そこで初めて耳にする藤吉の神様の話に感銘し即入信した。間もなく徳太郎が瘍で入院、藤吉のお助けで三日目に助かった。徳太郎の家の酒造の中に神様を祀って布教を奔走した。結果、不思議な助けが次々に現れ、難病の人も即座に助かった。大和から生き神様が来ていると口から口へ言い伝わり、伏見長吉がランプを売るのに困る程入れ代わり立ち代わり人々が集まり来て信仰する人が増えていった。

 宇都宮右源太は宇佐町に帰り、熱心に天理教の話を伝えて人を集めた。宇都宮右源太は 時には泉田藤吉にも来てもらって病人をたすけていったのでたちまち信者が多くなり、気がつけば 中津よりも 賑やかになっていった。伏見長吉も ランプ商をやめて布教を始めるようになり、また 他の主だった信者も 次々と教えを伝えていった。
 1891(明治24)年夏、信者となった大森豊が、この状態を見かねて大分県金谷町の自宅離れの6畳と8畳を空けて泉田藤吉を迎え入れた。そこには 毎日30人位の人がお助けを乞い集まったという。
 1891(明治24)年8.6日、本部に出た泉田藤吉は布教所設置の許しを受けようと願い出た。しかし、その時は、もう一度運びなおすように、とのお指図があって許されなかった。
 この年、伏見長吉も西海布教所設置として願い出ようとしたが、書面が整わず不備という事で却下されている。
 1892(明治25)年頃、天地組(後の北大教会)のこの頃には3,400余名の信者があった。茨木基敬は教会設置に当り、泉田藤吉を九州中津に訪ねて添書をもらっている。当時、泉田は本部の信用を失墜していた。本部では泉田の添書必要なしとしたが、敢て「理」の親を立てたものだろう。
 本部に出た泉田藤吉は布教所設置の許しを受けようと願い出た。しかし、その時は、もう一度運びなおすように、とのお指図があって許されなかった。またこの年、伏見長吉も 西海布教所設置として願い出ようとしたが、書面が整わず不備という事で却下されている。
 同年10.21日、寺田半兵衛を会長として網島分教会が設立される。
 1892(明治25)年、大分県宇佐町を中心に勢いを伸ばした宇都宮右源太の方でも伝道線が増々栄え、宇都宮右源太が泉田藤吉に布教所設置についての話を持ちかけた。自身の布教所設置願のお許しが出なかった泉田藤吉であったが、泉田は「よかろう」と、宇都宮右源太が布教所設置を出願することについて同意をしたので、宇都宮右源太は本部へ出願の運びをした。

 同年10.27日、宇都宮右源太を初代所長とする「宇佐布教事務取扱所」が許された。宇都宮右源太によって生まれた宇佐町の信仰共同体は本部直属となって中津を離れた。これが後の宇佐大教会となる。
 中津の人々は、宇佐布教事務取扱所の開設に強く刺戟されて、自分たちも早く布教事務所を設置しようとの熱意が高まった。そして泉田藤吉を担任教師として改めて教会設置を本部に願い出て許しを待ちわびていた。
 1893(明治26)年1.31日、ようやくにして「中津布教事務取扱所」のお許しがあった。泉田藤吉が中津布教事務取扱所(現中津大教会)初代会長に就任した。明治23年に伏見家2階の1室に始まった中津の道は、翌明治24年、大分県金谷町の大森家の離れに移り、明治26年に「中津布教事務取扱所」としてお許しを受けて活動することになった。
 1895(明治28)年6月、その後も信徒が増加し続け、大分県中津市殿町1425番地に1軒を借りて移転した。同年6.22日、「中津支教会」と改称した。この後、ここを中心に教線が展開し各地に伸びていった。
 1895(明治28)年12月、二豊布教所が所長・伏見長吉によって中津町に、宇野布教所が所長・鈴木喜市によって福岡県筑上郡宇野村に、都野布教所が直入郡都野村に喜泉建馬に、同時に3ヵ所の布教所が設置された。

 二豊布教所の伝道線は、北九州を目指し、福岡県若松に先ず教えが伝わり、そこから主に発展していき、現在、佐賀県・山口県・長野県にも教会が設置され、32ヵ所を数えている。 

 宇野布教所の伝道線は、更に鈴木が 福岡県田川郡後藤寺に教えを伝えるが、これが後に田川分教会となり、吉田まさが受け継いで、教えは、北九州から山口県・神奈川県にいき、更に韓国へも伝わり、のちに11ヵ所の教会が設置されている。


 都野布教所の伝道線は、大分から熊本にぬける豊肥線一帯に伝わった教えが元であるが、後「大分市分教会」となり、大分市分教会は、昭和2年に中津より分離して本部直属となった。
 小松駒吉(御津大教会初代)、茨木基敬(北大教会初代)、寺田半兵衛(綱島分教会初代)、中西金次郎(大江大教会初代)等を導く。泉田の功績は計り知れなく大きい。
 1903(明治36)年、山澤為造の方針で「天皇と天皇の先祖が神、我々民とは魂が異なる」という「天理教教典」を作った際、教祖信仰一途派の泉田籐吉はそれに反対し、教会本部の方針と次第に衝突し始めていた。(後に天理教教師を辞任させられることになる)
 1904(明治37)年2.26日、中津初代会長・泉田藤吉が本席宅へ立寄った時、「一人の孫ができますが、その泣き声だけでも聞いて出直し」いと話した。それは永年苦労して何千の人をたすけ、「はだしの講元」とまで言われ、伝道に尽くした泉田藤吉初代会長のささやかな希望であった。それに対して、本席・飯降伊蔵からは「この道は生きどおしの道や。お前が生まれるのやから、あんたが息引き取らねばできはせん。孫の顔見て死にたいなどと思いなはんな。安心していたらよいとのお話があった。 その翌日から泉田藤吉初代会長は寝込んでしまった。
 1904(明治37)年4.26日、泉田藤吉がおぢばで出直した(亨年65歳)。
 その後まもなく孫が生まれた。泉田徳蔵3代大分市分教会長その人である。

 教祖逸話篇(十)が、この頃の教祖の在りし日々の様子を伝えている。これを確認する。
 泉田籐吉と中西金次郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。3月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田籐吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、天恵四番、泉田籐吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました、との取次が為されると、直ぐ、『はい、はい』とお声がしてお出まし下された。同年8月17日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。

 同年9月20日、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、『結構なものを。誰が下さったのや』と、お言葉があったので、側の者が、中西金次郎でございます、と申し上げるとお喜び下され、翌21日、宿に居るとお呼び出しがあって赤衣を賜わった。それはお襦袢であった。

 教祖と泉田籐吉の厚い信頼関係が伺われる逸話である。

【泉田藤吉逸話】
 教祖伝逸話篇114「よう苦労して来た」。
 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、3人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい」と言って、頭を上げると、3人の追剥は影も形もない。余りの素直さに薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ」と仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

【泉田藤吉評伝】
 「泉田藤吉」(「清水由松傳稿本」128-129p)。
 無学文盲、滅茶苦茶なところがあったが、なかなか記憶の良い、他に追随を許さぬ布教の上手な人で、当時その点では北大教会の木村、河内の林と共に三羽烏と謳われていた先生である。本席様が泉田先生のことをよく話して下されたが九州の或る警察署へ引張られた時、「貴様は教導職があるか」 、「フン、教導職なしで誰が布教できるか」とうそぶいて、敬々しく辞令をとり出した。「何と書いてあるか読んでみい」、「何と書いてある!勿体なくも神道管長閣下から頂いたものだ。こんなもの読めんようなものに読んで聞かして何になる」と一蹴してしまった。一字も読めないのにまるで警察官を呑んでしまってる気概であった。お助けや道のことにかけてはこの通り、威勢のよい人であったと仰言っていた。自分の匂い掛けやお助けしたものを、助けっぱなしにしといて次から次へと、どこまでもお匂い掛けお助けされて、一所にとどまれる事なく、もし一ところに永逗留される時は、大概因縁の為に失敗されることが多かった。中津、宇佐、大分市、安東などの直轄教会は、この先生の開かれたものである。

 お息の授けを頂いて居らないのに、平気で女性の陰部に、火吹竹ようの竹筒をもってお息をかけて、お助けされた。人間心を少しでももっていたらできることではない。一人娘のおとらさんに養子をとり、その間にできた息子が現在大分市分教会長の泉田徳蔵さんである。明治三十七年四月廿六日六十六才で出直しされた。

【泉田籐吉出直し後の中津支教会の歩み】
 1906(明治39)年3.4日、今村熊太郎が2代会長として就任した。
 1908(明治41)年、 海外布教に出る者が相次いだ。大塚安馬は、韓国・仁川に道をつけ、更に 中国の青島・上海にも それぞれ教会を設置した。仁川の道は 京仁分教会となり、福岡市に引き揚げた部内教会もそれぞれ復興し、6ヵ所が、大分県・山口県・岡山県などに点在している。青島・大連・上海は、大分市分教会に所属している。
 1922(大正11)年10.29日、今村熊太郎2代会長の長男・今村弁次郎が3代会長を継いだ。中津支教会の人々は、初代泉田藤吉の生まれ代わりとまで聞いている孫の泉田徳蔵を中津分教会の会長に推したいと願っていた。その時、泉田徳蔵は18歳の青年で時期を待つことにした。
 1923(大正12)年、天理教は大正15年に執行される教祖40年祭を目前に控え、教勢倍加運動に活発に動いていた。中津分教会においても、教勢倍加運動に呼応した活動に伴って教会が次々に増加していった。
 1923(大正12)年7.25日、それまでの教会が手狭となってきたため大分県中津市殿町の郡役所跡を買って移転した。
 1924(大正13)年5.2日、教会移転した翌年、詰所も建築したために中津分教会の借財が重なっていった。この頃から役員の間で意見が揃わなくなってきた。それに伴って中津分教会内に伏在していた会長問題が表面化した。当時、初代会長・泉田藤吉の孫の泉田徳蔵は20歳であった。彼はおぢばで育てられ、17歳の時に中津分教会に来て以来住み込み青年として勤めていた。
 時が過ぎ、今村弁次郎3代会長から次の会長へ引き継ぐこととなった時、中津部内教会の一部には、初代泉田藤吉にゆかりある泉田徳蔵を4代会長に推す声があり、教会内での意見が分かれた。結局、中津分教会内部では折り合いがつかず、天理教教会本部に相談することとなった。
 1927(昭和2)年7.25日、教会本部の裁定により、中津分教会を分轄して、泉田藤吉の孫の泉田徳蔵を会長に推す人々による「大分市支教会」を新設することとなった。その大分市支教会は本部直属となり、安東支教会を含む10ヵ所が「大分市支教会」部属として中津分教会より分離した。この一件はかく落着することとなった。
 1935(昭和10)年6.28日、中津分教会はその後、中教会に昇格した。
 1940(昭和15)年4.30日、中津中教会が中津大教会に昇格した。
 1950(昭和25)年10.26日、今村正典が4代会長に就任した。
 今村正典が4代会長に就任して10年近く経過した頃、部内教会の方はその3分の2の教会が神殿建築をすませていたが、中津大教会は設立以来70年近くの間一度も普請をしていなかった。その間5回にわたって移転などをしていたものの、その都度、借家ということもあり古家の増改築によってことをすませてきていた。泉田藤吉初代会長を始め先人の方々は、口に尽くせない苦労の中、あえて言挙げすることもなく部内教会67ヵ所の理の栄えを優先させていた。

 1960(昭和35)年頃、中津大教会神殿の老朽化が著しい状況になり、修理に手のほどこしようもないほどになっていた。教恩をうけた理の子供達の中から、「報恩の道は 只一つ。人だすけの精神に精進を求め教勢を一段と盛り上げて、先祖先輩に応えさせて頂く他にない。初代の頃の心にかえって、一手一つに助け普請『神殿建築』にかかろう」との声が起こった。
 同年6.20日、そのような声を受け、中津大教会はいよいよ大教会神殿普請の「心定め」を行った。同年9月、大分県中津市内を見渡す下池永の高台に2,100坪 (6,942平方米) の敷地を買収することができ、ぢばの方向に向けての地取りもでき上がった。
 1962(昭和37)年6.21日、「仮神殿」の建築がすみ、大教会を中津市下池永に移転させた。時は、昭和41年に執行される 教祖80年祭を目前にした頃であった。今村正典4代会長は、 「ここは教祖の80年祭をしっかりつとめよう、親の御用が先だ」と一同を激励し、中津の神殿普請を一端中止させた。
 1964(昭和39)年2月、隣接地547坪 (1,707平方米) を買収し、先を見据えた動きを着実に積み重ねていった。
 1966(昭和41)年4.26日、教祖80年祭を無事つとめ終えた後、中津神殿普請第2期工事に移った。
 1968(昭和43)年5.6日、様々な節を乗り越えて見事に普請を完成させ、真柱の臨席を受け神殿落成奉告祭を執行した。
 今村正典4代会長は、会長就任およそ20年後、教会本部海外伝道部より東南アジア方面の「布教地拠点作り」任務を委ねられ、かなりの長期間シンガポールへ出張した。その期間 (昭和44年6月26日〜同47年10月26日)、会長夫人・今村三千代が 会長代務者としてつとめた。
 天理教事典1977年版出版当時の中津大教会の部内教会は、大分県15、福岡県36、山口県9、熊本・佐賀・岡山・兵庫・京都・岐阜・長野・群馬の各県に1ヵ所、海外では韓国の釜山に11カ所である。
〔現住所〕〒871-0011 大分県中津市下池永519番地 
〔電話〕 0979-22-1890
 〔出版物〕
昭和25年8月25日に青年会中津分会 『天恵』発行 (1号で終わる)。
昭和36年2月、『なかつ月報』発行 (昭和47年6月『天恵わらじ』に題名 変更)。
昭和48年4月1日、中津大教会史料集成部『神殿ふしんと道のあゆみ』発行 (付 大教会略史・年譜)。




(私論.私見)