泉田籐吉

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「泉田籐吉」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【泉田籐吉の履歴】
 1840(天保11)年5.11日、父泉田富吉の二男として摂津国東成郡大今里村(現・大阪市東成区大今里)に生まれる。通称「熊書」と呼ばれる。
 1904(明治37)年4.26日、おぢばで出直し(亨年65歳)。
 泉田籐吉の履歴は次の通り。
 1840(天保11)年5.11日、父泉田富吉の二男として摂津国東成郡大今里村(現・大阪市東成区大今里)に生まれる。
 4歳にして両親に死別し、東成郡猪飼野の山本家に預けられて同家の山本伊平と兄弟のようにして10歳まで育てられた。その間、子守奉公などに出されたが、腕白なため断られ月に15回ぐらい奉公先が変わったこともあった。
 10歳の時、東成区片江町の清水家の貴子となって成人したが、何かの事情で清水姓を名乗ることはできなかった。元来文字も書けず、両親の名前も知らず、自分の名前も「熊」より知らなかった藤吉は、大工や左官の手伝いをしたり井戸掘人夫として働き、その後、体格も良く腕力も強かったので西国巡りの強力となった。通称「熊書」と呼ばれる。
 1871(明治4)年2月頃、奈良の二月堂のお水取りに参詣し、その時、人の噂で教祖(おやさま)を知り、初めておぢばに参詣する。
 1877(明治10)年、酒の飲み過ぎから胃癌になり、もう助からないといわれていた時、天恵組三番の周旋の山本伊平が来て「貸し物借り物」の話を聞き、なるほどと思っている間にすっかり助かった。以来、熱心な布教師となる。
 天恵組四番の講元となり、当時大阪の空堀に住み、蒸し芋屋を営む。藤吉のおぢば帰りは、商売を終え夕方大阪を出て夜中におぢばへ着き、官憲の迫害のきびしい中お屋敷の床下で1、2時間寝て、一言二言のお仕込みを頂いて、夜明け前おぢばを立って帰るという日々であった。商売も芋を売るのが目的でなく、病人捜し、においがけが目的であった。藤吉の布教は猛烈で、病人があるとちょっと隣りへでも行くようにおぢばへ帰ってお願いし、直ぐ大阪へ帰って病人に当たり助けに歩いた。
 1890(明治23)年、大阪の道を人にまかせて大分県中津町へ新しく親神の教えを広めに出発し、今の中津大教会の道をはじめ、宇佐大教会の宇都宮右源太を導いた。
 1893(明治26)年、中津布教事務取扱所(現中津大教会)初代会長。
 小松駒吉(御津大教会初代)、茨木基敬(北大教会初代)、寺田半兵衛(綱島分教会初代)、中西金次郎(大江大教会初代)等を導く。泉田の功績は計り知れなく大きい。
 教祖逸話篇(十)が、この頃の教祖の在りし日々の様子を伝えている。これを確認する。
 「泉田籐吉と中西金次郎に纏わる逸話が次のように伝えられている。3月中頃、入信後間もない中西金次郎は、泉田籐吉に伴われて、初めておぢばへ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、お寝みになっていたが、天恵四番、泉田籐吉の信徒、中西金次郎が帰って参りました、との取次が為されると、直ぐ、『はい、はい』とお声がしてお出まし下された。同年8月17日に帰った時、お目通りさせて頂くと、月日の模様入りのお盃で、味醂酒を三分方ばかりお召し上がりになって、その残りをお盃諸共、お下げ下された。

 同年9月20日、教祖にお使い頂きたいと、座布団を作り、夫婦揃うて持参し、お供えした。この時は、お目にはかかれなかったが、後刻、教祖から、『結構なものを。誰が下さったのや』と、お言葉があったので、側の者が、中西金次郎でございます、と申し上げるとお喜び下され、翌21日、宿に居るとお呼び出しがあって赤衣を賜わった。それはお襦袢であった」。

 教祖と泉田籐吉の厚い信頼関係が伺われる逸話である。
 1903(明治36)年、山澤為造の方針で「天皇と天皇の先祖が神、我々民とは魂が異なる」という「天理教教典」を作った際、それに反対し、教祖信仰一途派の泉田籐吉は教会本部の方針と次第に衝突し始め、天理教教師を辞任させられることになる。
 1904(明治37)年、4.26日、おぢばで出直し(亨年65歳)。

【泉田藤吉逸話】
 114「よう苦労して来た」。
 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、3人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい」と言って、頭を上げると、3人の追剥は、影も形もない。余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ」と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。
 

【泉田藤吉評伝】
 「泉田藤吉」(「清水由松傳稿本」128-129p)。
 無学文盲、滅茶苦茶なところがあったが、なかなか記憶の良い、他に追随を許さぬ布教の上手な人で、当時その点では北大教会の木村、河内の林と共に三羽烏と謳われていた先生である。本席様が泉田先生のことをよく話して下されたが九州の或る警察署へ引張られた時、「貴様は教導職があるか」 、「フン、教導職なしで誰が布教できるか」とうそぶいて、敬々しく辞令をとり出した。「何と書いてあるか読んでみい」、「何と書いてある!勿体なくも神道管長閣下から頂いたものだ。こんなもの読めんようなものに読んで聞かして何になる」と一蹴してしまった。一字も読めないのにまるで警察官を呑んでしまってる気概であった。お助けや道のことにかけてはこの通り、威勢のよい人であったと仰言っていた。自分の匂い掛けやお助けしたものを、助けっぱなしにしといて次から次へと、どこまでもお匂い掛けお助けされて、一所にとどまれる事なく、もし一ところに永逗留される時は、大概因縁の為に失敗されることが多かった。中津、宇佐、大分市、安東などの直轄教会は、この先生の開かれたものである。

 お息の授けを頂いて居らないのに、平気で女性の陰部に、火吹竹ようの竹筒をもってお息をかけて、お助けされた。人間心を少しでももっていたらできることではない。一人娘のおとらさんに養子をとり、その間にできた息子が現在大分市分教会長の泉田徳蔵さんである。明治三十七年四月廿六日六十六才で出直しされた。




(私論.私見)