第47部 | 1873年 | 76才 | 明治新政府のその後の動きと教祖の対応 |
明治6年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明治新政府のその後の動きと教祖の対応」を確認しておく。明治新政府の当初の宗教政策は、「官制「神随らの道」と教祖の教え」に記した。明治新政府のその後の宗教政策を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【明治新政府の動き/「神仏分離令政策からの転換」】 |
「諸事一新」に力を入れた明治政府は、欧米文明、文化を吸収することに追われ、その影響を経て次第に宗教統制にも触手を伸ばし始めた。これを見ておく。 |
【明治新政府の動き/教部省の設置】 |
1872(明治5)年3.14日、教部省が設置され、翌4月、宣教使を廃止して教導職が置かれた。教導職の大教正に三條の教憲を授けられ、その趣旨を国民に布教することと、宣教強化の為に中央講学機関として麹町紀尾井町に仮大教院が設けられた。こうして上からの一大国民教化運動としての天孫降臨教育が始められた。教部省は神官、僧侶を動員して、文部省は学校教育を通じて天理人道教育と称しこれを推し進めていった。教部省は、大教院を東京の芝の増上寺に移し、旧神祇官の八神殿が下賜され、これを神殿として天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大御神の四柱を奉斎した。大教院は神道の総本山としての皇道発揚の歴史的な役割を果たした。各府県の庁舎所在地に中教院、各郡・地域の神社、寺院に少教院を作った。伊勢神宮には神宮教院が設置されることが決められた。 |
1873(明治6)年2月、教部省は、教導職の採用範囲を、従来の神職、僧侶以外にも民間の宗教家、有力者、芸能家にまで拡大し、国民教化の要員に補充した。同月、「三条の教則」に加えて「11兼題」を布達した。「神徳皇恩の説、人魂不死の説、天神造化の説、顕幽分界の説、愛国の説、神祭の説、鎮魂の説、君臣の説、父子の説、夫婦の説、大祓の説」から構成されており、神道教義と倫理道徳の教えが一体化されていた。10月、教部省は、更に「17兼題」を布達した。これにより、説教内容がより詳しく規定された。「皇国国体。皇政一新。道、変わるべからず。制、時に随うべし。人、禽獣と異なる。教えざるべからず、学ばざるべからず」。しかしながら、仏寺の本堂に神道の造化三神(あめのみなか主、たかみむすび、かみむすび)を祀るという按配で更に改変されていくことになった。 |
明治6年、「教会大意」によって「教会」制度ができた。近世以来、比較的自由に組織されて いた講の再編成が進むこととなった。 |
【明治新政府の動き/拝み祈祷の禁止】 | |
1.9日、教部省輔/黒田清綱、教部大輔宍戸*が正院宛てに次のような梓巫の処遇について伺い書を提出している。
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1873(明治6)年1月、太政官布告で、「梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等の所業禁止」の達しをしている。
これは拝み祈祷の禁止条例であった。この背景に何があったのだろうか。仮に、明治政府が推し進めようとする天皇制教理に障害となったという理由があったとするなら、一般に非合理的教義と思われている天皇制教理の近代性という観点から着目されるに値するであろう。 私は、そういう理由ではないように思われる。この太政官布告の翌月、キリスト教が解禁されていることと関係があるように思われる。即ち、キリスト教解禁派が、日本古来の拝み祈祷、修験道、神楽神道等がキリスト教布教上の根強い邪魔になると見立てて維新政府に禁止せしめたのではなかろうかと考えている。こう窺うべきではなかろうか。 |
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「拝み祈祷各派」を具体的に見ると次のようになる。 「梓巫女」(あずさみこ)とは、特定の神社に属せずに各地を渡り歩く白い着物に赤い袴をはいた梓巫女が、武士が戦いに行くときに梓という木で作った弓を持って行く倣いの魔除けの梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱えて神懸かりし、生霊や死霊を呼び出して(口寄)、その霊に仮託して託宣や呪術を行う神語りの祈祷術を云う。主に東国を中心に活躍していた。津軽地方のいたこには弓の弦を棒で叩いて口寄せを行う者がおり、梓巫女と同系列であるとされている。三陸地方のオカミンの場合には「インキン」と呼ばれる鉦を鳴らして口寄せを行う者がいる。中世以後における八幡信仰や神明信仰の普及、語り物の発生、オシラ祭文などの伝承に梓巫女が深く関わっていたと考えられている。 「市子」(いちこ)も「梓巫女」(あずさみこ)とほぼ同様のものである。「市子、巫女、神巫」 |
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「梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等の所業禁止」の達しの中の「祈祷(きとう)」が注目されねばならない。ここで云う「祈祷(きとう)」は修験者のそれであり、翌月のキリスト教解禁の前に逆に修験者祈祷信仰を禁止したことになる。その理由を詮索せねばなるまい。これを逆に云えば、明治維新政府、それを操る陰の政府には、修験者祈祷信仰を禁止せねばならない理由があったと云うことになろう。ここを窺わねばなるまい。 2015.10.12日 れんだいこ拝 |
【明治新政府の動き/神職演舞禁止令】 | ||||
1873(明治6)年頃、神職演舞禁止令が発布され、これにより神職による神楽舞が途絶えた。ところが、島根県大原郡(現雲南市)では旧来通り神職による神楽が残された。「大原神職神楽」が次のように記している。
「島根の神楽 芸能と祭儀」(島根県立古代出雲歴史博物館/編集2010.2)p.107が次のように記している。
壱岐でも旧来通り神職による神楽が残された。論文「壱岐の神楽と神職集団」(九州産業大学国際文化学部紀要第54号2013.3)が次のように記している。
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【明治新政府の動き/修験道禁止】 |
これについては、「修験道の歩み」の「明治政府の修験道禁止」の項に記す。 |
【明治新政府の動き/医薬妨げの禁止】 |
1874(明治7)年、「禁厭(きんよう)祈祷をもって医薬等を妨げる者の取り締まり令」が発布された。これも西欧的医薬を押しつける為に障害となる禁厭(きんよう)祈祷禁止令と受け止める必要があろう。薬害がはっきりしつつある今日の局面からの視点である。 |
【明治新政府の動き/「教派神道13派」】 |
こうした潮流の中で、日本列島各地に一種の神霊的な異変が起り始めた。真の神道を甦らそうとする胎動であった。国民教化運動のもとでは、その運動要員である教導職の資格をもたない者の布教活動が処罰されたため、民間の諸宗教は白主的活動を禁圧され、しぱしぱ弾圧の対象とされた。このような中で,民間諸宗教に政府の宗教政策に迎合する体質が形成されることとなり、民間の仏教系、習合神道系、山岳信仰系などの多元的な諸宗教は、神権天皇制の枠内に強引に組み入れられ、国民教化の一翼を担わせられることとなった。 |
【復古神道のその後、国家神道考】 |
以上から判明することは、明治政府は新たな神道体制を国を挙げて構築していったが、これがいわゆる近代国家神道とよばれるものである。近代国家神道とは、いわば明治維新期に歴史的に立ち現われた国策宗教であったということになる。 国民教化運動は、神権天皇制のイデオロギーの定着に一応の成果をあげたが、この運動は、国家権力が上からの布教によって新しい宗教をつくり出すという特異な性格を有していたことや運動の内部で、神道と仏教との抗争が激化したことから次第に仏教側から信教の自由を要求し、政治と宗教の混淆を批難する声が強まった。 1875(明治8)年、政府は、信教の自由を保障する旨の口達を出さざるを得なくなった。政府は、信教の自由と「国家の宗祀」とされた神社をどのように両立させるかという難間に直面することになった。これを打開する方策として、神社神道から葬儀行為などの宗教色を抜いて祭祀のみを残し、祭祀のみの神社は宗教のもっている一般的性格を欠くから宗教ではなく、従って政教分離を実現したことになるとしたうえで、国家神道を他の宗教に超越するものとして位置づけようとし始めた。政府は、明治10年代に、こうした国家神道の超宗教化の基本方針に基づいて神社行政を内務省に移管し、一般宗教としての教派神道を祭祀に限定された国家神道から明確に区別する形で独立させ、伊勢神宮と官社の神官に葬儀への関与を禁止し、さらに神仏教導職を廃止するなど国家神道の超宗教化のための法制面の準備をすすめて行くことになる。(以下、略) |
【靖国神社考】 |
この間、靖国神社が創建されている。これについては、「靖国神社の由来と歴史について」に記す。 |
【伊蔵、甘露台の模型を作る】 |
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1873(明治6)年、教祖は甘露台の模型(雛型)を作れと仰せになって、寸法書をお示しになり、伊蔵はそれによって雛型を作った。高さ6尺、直径約三寸の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ約三寸の六角の板の付いた甘露台ができあがった。「一寸のしながた」とされた。出来てからしばらく倉に納めた。お筆先に次のように記されている。
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【中山秀司宅にて大教院制度に基く神道講習会開催】 | |
1873(明治6).11.4日、中山秀司宅にて、大教院制度に基く神道講習会(天輪王明神という神社で)を開催している。 | |
「天理教学研究37」(1999.11.26日発行)所収の論文「『十柱の神』考(その二)―大教宣布運動とのかかわりに注目して(早坂正章著)」にも、「明治七年七月/巡回説教聴衆扣/石上神社」の史料が引用され、明治6(1873)年11月4日、お屋敷(庄屋敷村戸長仲山秀治宅)で石上神社の教導職によって「三条の教則」を内容とする説教が150名の聴衆を集めて行われたことを次のように記録している。
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(道人の教勢、動勢) | |
「1873(明治6)年の信者たち」は次の通りである。 | |
山本利八(52歳)、その子利三郎(24歳) | |
1873(明治6)年、夏頃、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)の農業兼綿商/山本利八(52歳)、その子利三郎(24歳)の相撲の打ち身による3年越しの病を教祖に助けられたのが機縁で入信(後の中河大教会)。大阪中央市場の塩干物卸部に店をもっていた奥野道三郎の祖父の奥野伊平(大阪府南河内郡古市村)の妻は中河内郡柏原村山本家の出。稿本天理教教祖伝逸話篇「33、国の掛け橋」。
1904(明治37).5.4日、出直し(享年86歳)。利三郎は柏原分教会(現・中河大教会)初代会長。1895(明治23).11.13日、出直し(享年46歳)。明治20年1月26日のおつとめで「かぐら」、「てをどり」をつとめる。 |
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「山本利三郎」(「清水由松傳稿本」130-131p)。
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加見兵四郎(**歳)、その妻・つね(--歳) | |
笠間村(宇陀郡榛原(はいばら)町笠間)の加見兵四郎は、明治6年春に妻・つねと結婚した。その後、つねが妊娠し、兵四郎がおびや許しを頂きにお屋敷へ帰った時、教祖は次のようにおびや許しのお諭しをされている。
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【この頃の逸話】 | |
この頃、教祖が、一粒の籾種(もみだね)を持って飯降伊蔵に向い次のようにお諭しされている。
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この頃、教祖が、飯降伊蔵に山から一本の木を切ってこさせ、真直ぐな柱を作らせた。教祖が「伊蔵さん、定規を当ててみてくだされ」と仰せられ、曲尺(かねじゃく)に当ててみると隙間があった。そこで、「少し隙がございます」と申し上げた時、教祖は次のようにお諭しされている。
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この頃、教祖が、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせていただいた小阪村(磯城(しき)郡田原本町小阪)の松田利平の娘・やすに次のようにお諭しされている。
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(当時の国内社会事情) |
1873(明治6)年、1.10日、徴兵令が発布される。 |
1.19日、僧侶位階廃止令。 |
3月、越前で護法一揆。 |
5.5日、皇居で火災。 |
5月、前年の7月に参議兼陸軍元帥となり近衛都督に任ぜられていた西郷隆盛が、元帥が廃止されたことに伴い陸軍大将になる。 |
6月、征韓論起こる。 |
7.28日、地租改正条例を定める。 |
7月、朝鮮、大院君失脚。征韓論をめぐる対立で、反対派が優勢。 |
8.3日、西郷隆盛が征韓論をめぐる意見書を提出。 |
10.24日、明治天皇、朝鮮遣使を却下する。西郷隆盛、辞任し鹿児島へ帰郷する。10.25日、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣も辞任。軍人でも桐野利秋らが辞任。 |
11.10日、内務省を設置。11.29日、大久保利通、内務卿に就任。 |
12.1日、郵便葉書を発売する。 |
12.25日、島津久光、内閣顧問に任命される。 |
1870(明治3)年制定の中国の儒教思想による老人と子供を尊ぶ法律の新律綱領の改定律令が制定される。地方違式かい違条例も公布される。その後、1882(明治15)年、フランス刑法を基にした新刑法が公布され、改定律令は廃止されることになる。 |
この年、太陽暦が採用されて、12月3日をもって、明治6年1月1日と定められた。 |
(宗教界の動き) | ||
1873(明治6).1.15日、教部省達第2号で「梓巫、市子、憑祈祷、狐下げ等禁止」。(狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する) | ||
2月、約300年にわたるキリスト教禁制が解禁された。これにより全国のキリスト教禁制の高札が撤去された。「民族のルーツをさがす旅」の「部族完成摂理期間」が次のように記している。
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なかなか意味深ではなかろうか。 2015.11.17日 れんだいこ拝 |
大教院神殿が放火により全焼。ご神体は芝東照宮に仮遷座。 |
府県社の神官の月給を廃止。 |
政府は全国の招魂場の社地を免税とし、祭祀費用・招魂墳墓の修繕費の国家予算支出を定 めた。 |
2月、金光教弾圧。 |
3月、伊藤六郎兵衛(1829‐1894)が悟りを得て丸山教創始。5月、丸山教弾圧。 |
この年、大教宣布運動盛んになる。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1873年、ドイツ・オーストリア・ロシアが三国同盟を結ぶ。 |
(私論.私見)