第47部 1873年 76才 明治新政府のその後の動きと教祖の対応
明治6年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「明治新政府のその後の動きと教祖の対応」を確認しておく。明治新政府の当初の宗教政策は、「官制「神随らの道」と教祖の教え」に記した。明治新政府のその後の宗教政策を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【明治新政府の動き/「神仏分離令政策からの転換」】

 「諸事一新」に力を入れた明治政府は、欧米文明、文化を吸収することに追われ、その影響を経て次第に宗教統制にも触手を伸ばし始めた。これを見ておく。

 
1870(明治3)年1月、神祇鎮祭ノ詔と「惟神の大道を宣布すべし」という「大教宣布の詔」を発布し、それまでの仏教国から神道国家へ切り替えることになった。これにより天皇の宗教的権威を基本とする神道的な国体観念に基づく国民教化が一段と進められた。

 
大教宣布運動が開始されてまもなく、大教院が開設され、ここに「天御中主神、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神」の四柱の神が祀られた。全国の各県県庁所在地には中教院が設けられ、その下には多くの小教院が全国神社社寺に置かれ、神官、僧侶、一般有志が一体となっての大教院運動が行われた。しかし、ほどなく大教院は廃止となり、替わって神道事務局が設立され、四柱の神がここに移されて、再び神道を中心とした国民教化活動が展開されることとなった。こうして、「神ながらの政治」を行い、神道を国教として民心を指導し、かつ国民教育をやろうとする大方針が確定された。

 1871(明治4)年には天孫降臨の神話を芝居のように演じて、明治天皇が天照大神の魂を受け継いだという大嘗祭を行っている。

 同年、社寺領の没収(官収)、全国の神社を官社・府県社・郷社・村社および無格社の5段階に格付けする社格制度の制定、氏子調べ制度の新設など神社の中央集権的再編成のための重要施策が相次いで実施された。

 同年、神社はすべて「国家の宗祀」である旨の太政官布告が出された。この太政官布告により、全国の17万余にのぼる大小の神社には公的性格を与えられると同時に国家行政機構の枠組みに一元的に変遷された。それ以後、天皇の神話的先祖である天照大神を祀る伊勢神宮が全国の神話の本宗と定められ、神社の中枢の位置を占めることになった。こうして、祭政一致の天皇制国家が唱導され、全国の神社は、天王家の祖神、天照大神を祭神とする伊勢神宮を筆頭に、その傘下に治められていく。

 官国弊社以下の社格の制定,祭祀や神職に関する制度の整備によって神社は国家の管理下に置かれ、尊王愛国・敬神崇祖の国民道徳を涵養する役割を担った。(普通、神道と云えば、伊勢神宮を頂点に、全国に役7900社の神社をさんかにおさめる神社本庁を指す。これが、戦前の国家神道からの流れを受け継ぐ神社神道であり、現在でも日本神道の顔となっている。このような国家神道の体制は1945(昭和20)年のGHQによるいわゆる「神道指令」によって解体されることになる。神道は政府の直轄機構 から切り離され、一宗教団体となった)

 同年、神道国教化政策は、以上のような一連の政府の諸施策によって積極的に推進されたが、他方、キリスト教弾圧や排仏毀釈といった深刻な間題を引き起こす原因となった。このような事態に対応するために、政府は、神道国教化政策を国民教化運動に転換し、これまでの大教宣布運動を、さらに神道、仏教、民間諸宗教を総動員して発展させる政策をとるようになった。


【明治新政府の動き/教部省の設置】

 1872(明治5)年3.14日、教部省が設置され、翌4月、宣教使を廃止して教導職が置かれた。教導職の大教正に三條の教憲を授けられ、その趣旨を国民に布教することと、宣教強化の為に中央講学機関として麹町紀尾井町に仮大教院が設けられた。こうして上からの一大国民教化運動としての天孫降臨教育が始められた。教部省は神官、僧侶を動員して、文部省は学校教育を通じて天理人道教育と称しこれを推し進めていった。教部省は、大教院を東京の芝の増上寺に移し、旧神祇官の八神殿が下賜され、これを神殿として天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大御神の四柱を奉斎した。大教院は神道の総本山としての皇道発揚の歴史的な役割を果たした。各府県の庁舎所在地に中教院、各郡・地域の神社、寺院に少教院を作った。伊勢神宮には神宮教院が設置されることが決められた。

 
教導職は14階級からなり、最上級の大教正、権大教正には、神官から神宮祭主の近衛忠房、出雲大社大宮司の千家尊福(たかとみ)、僧侶から東本願寺法主の大谷光勝、西本願寺宗主の大谷光尊らが選ばれていた。8月、全神官が各級の教導職に採用され、東西両部に分属した。続いて、僧侶と尼僧も順次各級の教導職に採用され、神社祭祀への参加が認められた。この流れは、当初の神仏分離令に基づく廃仏毀釈運動からの転換であり、神道と仏教が神道優位の下で和合したことを意味する。それは仏教の近代天皇制国家を支える護国仏教化による適応であった。

 1873(明治6)年2月、教部省は、教導職の採用範囲を、従来の神職、僧侶以外にも民間の宗教家、有力者、芸能家にまで拡大し、国民教化の要員に補充した。同月、「三条の教則」に加えて「11兼題」を布達した。「神徳皇恩の説、人魂不死の説、天神造化の説、顕幽分界の説、愛国の説、神祭の説、鎮魂の説、君臣の説、父子の説、夫婦の説、大祓の説」から構成されており、神道教義と倫理道徳の教えが一体化されていた。10月、教部省は、更に「17兼題」を布達した。これにより、説教内容がより詳しく規定された。「皇国国体。皇政一新。道、変わるべからず。制、時に随うべし。人、禽獣と異なる。教えざるべからず、学ばざるべからず」。しかしながら、仏寺の本堂に神道の造化三神(あめのみなか主、たかみむすび、かみむすび)を祀るという按配で更に改変されていくことになった。
 明治6年、「教会大意」によって「教会」制度ができた。近世以来、比較的自由に組織されて いた講の再編成が進むこととなった。

【明治新政府の動き/拝み祈祷の禁止】
 1.9日、教部省輔/黒田清綱、教部大輔宍戸*が正院宛てに次のような梓巫の処遇について伺い書を提出している。
 「従来梓巫市子並ビニ憑祈祷狐下ゲ*相唱玉占口寄セ等ノ名目ヲ以テ妄リニ吉凶ヲ指示シ霊鬼ヲ招キ寄セ候ト称シ口問ヒ為シ致シ候*荒誕不経之甚キ愚民ヲ蠢惑シ智識ヲ抑*シ到底開化ノ進歩却退セシメ大二教義上ニ関係致シ候事故今般一切ニ禁止相成候様致シタク依テ各府県布達案取調ベ相伺候間至急御評決有之タク候也」。
 1873(明治6)年1月、太政官布告で、「梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等の所業禁止」の達しをしている。
 「従来梓巫市子並ビニ憑祈祷狐下ゲ*ト相唱玉占口寄セ等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止サレ候条各地方官ニオイテコノ旨ヲ相心得管内取締リ方厳重相立て候ベシ事」。


 これは拝み祈祷の禁止条例であった。この背景に何があったのだろうか。仮に、明治政府が推し進めようとする天皇制教理に障害となったという理由があったとするなら、一般に非合理的教義と思われている天皇制教理の近代性という観点から着目されるに値するであろう。

 私は、そういう理由ではないように思われる。この太政官布告の翌月、キリスト教が解禁されていることと関係があるように思われる。即ち、キリスト教解禁派が、日本古来の拝み祈祷、修験道、神楽神道等がキリスト教布教上の根強い邪魔になると見立てて維新政府に禁止せしめたのではなかろうかと考えている。こう窺うべきではなかろうか。
 「拝み祈祷各派」を具体的に見ると次のようになる。

 「梓巫女」(あずさみこ)とは、特定の神社に属せずに各地を渡り歩く白い着物に赤い袴をはいた梓巫女が、武士が戦いに行くときに梓という木で作った弓を持って行く倣いの魔除けの梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱えて神懸かりし、生霊や死霊を呼び出して(口寄)、その霊に仮託して託宣や呪術を行う神語りの祈祷術を云う。主に東国を中心に活躍していた。津軽地方のいたこには弓の弦を棒で叩いて口寄せを行う者がおり、梓巫女と同系列であるとされている。三陸地方のオカミンの場合には「インキン」と呼ばれる鉦を鳴らして口寄せを行う者がいる。中世以後における八幡信仰や神明信仰の普及、語り物の発生、オシラ祭文などの伝承に梓巫女が深く関わっていたと考えられている。

 「市子」(いちこ)も「梓巫女」(あずさみこ)とほぼ同様のものである。「市子、巫女、神巫

か書かれイチコ「」と読む。本来は、前に奉仕して神楽(かぐら)を奉納する神楽女(かぐらめ)、神女(みこ)を云う。

 「憑」(より)とは、修験者や巫子 (みこ) が、神霊を乗り移らせる童子や人形を使って神降ろしをし、それに憑かれて常人にあるまじき言動を為す神懸りの祈祷術を云う。

 「祈祷」(きとう)というのは、代表的なものが阿闇梨(アジャリ)が護摩を焚いて占うもので、密教系で広く取り入れられていた。

 「狐下げ」(きつねさげ)というのは、お稲荷さんの使いだと言われる狐の憑き方により何らかのメッセージを送る宗教活動のことを云う。こうした在来的の迷信的おまじない的民間宗教の非科学性が問題とされ禁止されるに至ったということである。

(私論.私見)

 「梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑(より)、祈祷(きとう)、狐下ヶ(きつねさげ)等の所業禁止」の達しの中の「祈祷(きとう)」が注目されねばならない。ここで云う「祈祷(きとう)」は修験者のそれであり、翌月のキリスト教解禁の前に逆に修験者祈祷信仰を禁止したことになる。その理由を詮索せねばなるまい。これを逆に云えば、明治維新政府、それを操る陰の政府には、修験者祈祷信仰を禁止せねばならない理由があったと云うことになろう。ここを窺わねばなるまい。

 2015.10.12日 れんだいこ拝

【明治新政府の動き/神職演舞禁止令】
 1873(明治6)年頃、神職演舞禁止令が発布され、これにより神職による神楽舞が途絶えた。ところが、島根県大原郡(現雲南市)では旧来通り神職による神楽が残された。「大原神職神楽」が次のように記している。
 「明治以降も神職のみが伝承した点で奥飯石神楽や、広島比婆郡高野町の比婆神楽に似る。中国山脈の山中では明治期の禁止令もあまりまもられなかったものと思われる」。
 「この神楽(「奥飯石神楽」)の特色は、明治の神職演能禁止の令にもかかわらず、今日なお神職のみで演じていることで、付近の神楽が農民神楽になったのに付し、昔のままを残している」。

 「島根の神楽 芸能と祭儀」(島根県立古代出雲歴史博物館/編集2010.2)p.107が次のように記している。
 「明治初期に出された神職演舞禁止令にもかかわらず、式年の祭りに神職のみで神楽を執行してきた所が出雲には二カ所あった。その一つが大原神職神楽…」。

 壱岐でも旧来通り神職による神楽が残された。論文「壱岐の神楽と神職集団」(九州産業大学国際文化学部紀要第54号2013.3)が次のように記している。
 概要「壱岐神楽は、神職によってのみ舞や楽が奉納される点が特徴的とされる。明治四年御達写等の記録からは、明治四年(1871)八月神楽禁止の県庁通達以後も、神職によって神楽が奉納され続けていたことが確認できる」。

【明治新政府の動き/修験道禁止】
 これについては、「修験道の歩み」の「明治政府の修験道禁止」の項に記す。

【明治新政府の動き/医薬妨げの禁止】
 1874(明治7)年、「禁厭(きんよう)祈祷をもって医薬等を妨げる者の取り締まり令」が発布された。これも西欧的医薬を押しつける為に障害となる禁厭(きんよう)祈祷禁止令と受け止める必要があろう。薬害がはっきりしつつある今日の局面からの視点である。

【明治新政府の動き/「教派神道13派」】

 こうした潮流の中で、日本列島各地に一種の神霊的な異変が起り始めた。真の神道を甦らそうとする胎動であった。国民教化運動のもとでは、その運動要員である教導職の資格をもたない者の布教活動が処罰されたため、民間の諸宗教は白主的活動を禁圧され、しぱしぱ弾圧の対象とされた。このような中で,民間諸宗教に政府の宗教政策に迎合する体質が形成されることとなり、民間の仏教系、習合神道系、山岳信仰系などの多元的な諸宗教は、神権天皇制の枠内に強引に組み入れられ、国民教化の一翼を担わせられることとなった。

 
1874(明治7)年頃になって、末端の宗教信仰や行事などを取り締まる細則ができ上がり、この頃に至って本格的な宗教統制の動きが強められて行くことになった。こうして、設立の日浅い新興宗教各派は、独立公認にむけての運動を余儀なくされることとなった。まず、「神道」黒住派と「神道」修成派が承認を得た。次々と独立を求める「神道」系教団が現われ始めた。政府は、国民教化政策の一環として、その中から最終的に13派を選んで別派独立の承認を与えた。いわゆる「教派神道13派」と称された。それらは、独立順に、黒住教、「神道」修成派、出雲大社教、扶桑教、実行教、「神道」大成教、神習教、御嶽教、「神道」本局、禊教、金光教、天理教であった。これら13派は、政府の承認を受ける為に、「天皇崇拝」に合わせた教義の変更を余儀なくされた。つまり、政府が、これら教団を民衆意識をまとめて下から国を支える教え導く役として利用せんとしたところにあったからである。

 その勢いの赴くところ、「近代国家神道的神ながらの道」と真っ向から対立するいわば「縄文神道的神ながらの道」を打ち出している「お道」が、他の諸教に増して政府の弾圧を食う運命にあったことは云うまでもない。この政府の方針からすれば、明治維新となるや直ちに、「お道」への弾圧が始まっていても当然であるのに、新政府が樹立されて7年も経過した1874(明治7)年頃に至って、初めて迫害が始められたというのが遅過ぎるくらいである。これは明治維新政府内の内部統制化に所要時間を費やしたことによると思われる。「お道」の信仰者は、主として百姓や職人が多く政治知識が十分ではなかった。故に、こうした問題に関しては無知で、官憲の動きなど知る由もなかった。


【復古神道のその後、国家神道考】
 以上から判明することは、明治政府は新たな神道体制を国を挙げて構築していったが、これがいわゆる近代国家神道とよばれるものである。近代国家神道とは、いわば明治維新期に歴史的に立ち現われた国策宗教であったということになる。

 
国民教化運動は、神権天皇制のイデオロギーの定着に一応の成果をあげたが、この運動は、国家権力が上からの布教によって新しい宗教をつくり出すという特異な性格を有していたことや運動の内部で、神道と仏教との抗争が激化したことから次第に仏教側から信教の自由を要求し、政治と宗教の混淆を批難する声が強まった。

 1875(明治8)年、政府は、信教の自由を保障する旨の口達を出さざるを得なくなった。政府は、信教の自由と「国家の宗祀」とされた神社をどのように両立させるかという難間に直面することになった。これを打開する方策として、神社神道から葬儀行為などの宗教色を抜いて祭祀のみを残し、祭祀のみの神社は宗教のもっている一般的性格を欠くから宗教ではなく、従って政教分離を実現したことになるとしたうえで、国家神道を他の宗教に超越するものとして位置づけようとし始めた。政府は、明治10年代に、こうした国家神道の超宗教化の基本方針に基づいて神社行政を内務省に移管し、一般宗教としての教派神道を祭祀に限定された国家神道から明確に区別する形で独立させ、伊勢神宮と官社の神官に葬儀への関与を禁止し、さらに神仏教導職を廃止するなど国家神道の超宗教化のための法制面の準備をすすめて行くことになる。(以下、略)

【靖国神社考】

 この間、靖国神社が創建されている。これについては、「靖国神社の由来と歴史について」に記す。


【伊蔵、甘露台の模型を作る】

 1873(明治6)年、教祖は甘露台の模型(雛型)を作れと仰せになって、寸法書をお示しになり、伊蔵はそれによって雛型を作った。高さ6尺、直径約三寸の六角の棒の上下に、直径約一尺二寸、厚さ約三寸の六角の板の付いた甘露台ができあがった。「一寸のしながた」とされた。出来てからしばらく倉に納めた。お筆先に次のように記されている。

 今なるの かんろふだいと ゆうのはな
 一寸のしながた までの事やで
九号45

【秀司が庄屋敷村の戸長を務める】
 1873(明治6)年6月、秀司が庄屋敷村の戸長を務めた。翌明治7年4月には副戸長の役に就いている。

【中山秀司宅にて大教院制度に基く神道講習会開催】
 1873(明治6).11.4日、中山秀司宅にて、大教院制度に基く神道講習会(天輪王明神という神社で)を開催している。
 「天理教学研究37」(1999.11.26日発行)所収の論文「『十柱の神』考(その二)―大教宣布運動とのかかわりに注目して(早坂正章著)」にも、「明治七年七月/巡回説教聴衆扣/石上神社」の史料が引用され、明治6(1873)年11月4日、お屋敷(庄屋敷村戸長仲山秀治宅)で石上神社の教導職によって「三条の教則」を内容とする説教が150名の聴衆を集めて行われたことを次のように記録している。
 「この中で明治六年十一月四日、聴衆百五十名、庄屋敷村春日神社とあるが、『明治七年七月/石上神社』には、 (明治七《原文のママ》年)十一月四日於荘屋敷村戸長仲山秀冶宅/講師同上/聴衆百五拾人と記されている。実際には戸長宅で行われた説教も、大教院への届には春日神社と記載したものと思われる。中山家での説教に百五十人の聴衆を収容したとなると、恐らく〈つとめ場所〉が使用されたのではなかろうか。 『明治七年七月/巡回説教聴衆扣/石上神社』の中から庄屋敷村での説教の記録をたどると、次の通りである。
(明治七年)十二月一日庄屋敷邨 足立亀蔵宅/太田常山/御舩八百重/同(聴衆)七拾九人。
(明治八年)二月二十一日於荘屋敷村/植嶋頼政/太田常山於荘屋敷村/密尾成業/同六拾人。三月二十二日於庄屋敷村/太田少講義/太良館権訓導/聴衆四拾名。四月二十二日庄屋敷村/太良館権訓導/密尾権中講義/聴衆五拾名。
 明治八年の庄屋敷村での説教は、その場所が記されていないが、前例からして中山家で行われたとも考えられる。とにかく以上の記録からみても、村々で頻繁に説教が実施されており、聴衆の動員数もかなりの人数に達している。 明治八年、神仏合同布教が廃止され、以降は「三条教則」を遵奉して自今、各自教院を設けて布教に勉励せよという方針の転換がはかられたが、この地方における教導職の説教が退潮の流れの中にあって、なおも続けられていたことが、『明治十年一月ヨリ/説教講師並聴衆人員留/神道事務局』(天理図書館所蔵近世文書)によっても窺われる。 とにかく以上の記録は、たまたま今日まで保存された文書の一部であり、しかも石上神社に限られたものである。このほか大和における他の社寺(小教院)でも同様の活動が行われており、更に密度の差はあれ全国的に展開された国民教化事業であったので、当時の民衆に与えた影響は少なからぬものがあったといえよう」。

 (道人の教勢、動勢)
 「1873(明治6)年の信者たち」は次の通りである。
 山本利八(52歳)、その子利三郎(24歳)
 1873(明治6)年、夏頃、河内国志紀郡柏原村(現・大阪府柏原市)の農業兼綿商/山本利八(52歳)、その子利三郎(24歳)の相撲の打ち身による3年越しの病を教祖に助けられたのが機縁で入信(後の中河大教会)。大阪中央市場の塩干物卸部に店をもっていた奥野道三郎の祖父の奥野伊平(大阪府南河内郡古市村)の妻は中河内郡柏原村山本家の出。稿本天理教教祖伝逸話篇「33、国の掛け橋」
 「柏原村(大阪府柏原市)の山本利三郎は、村相撲で胸を打ってから三年間、病の床に伏していた。1873(明治6)年、24歳の夏には、いよいよ命旦夕(めいたんせき)に迫っていた。父の利八がお屋敷へ代参(だいさん)すると、教祖から『この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも助からんことはない。早速に息子を連れておいで』と、結構なお言葉を頂戴した。そのことを利三郎に伝えると、『大和の神様へお詣りしたい』と言い出した。家族は『とても大和へ着くまで持たぬだろう』と止めたが、利三郎があまり頼むので、戸板に乗せて門を出た。途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまった。家へ引き返すと不思議と息を吹き返し、『死んでも良いから』と頼む。そこで再び大和へ向い、夕方遅くにおぢばへ到着し、お屋敷の近くの家で泊めて貰った。翌朝、死に瀕している利三郎を教祖の御前に運ぶと、教祖は、『案じることはない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず助かるのや」、『国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるが、差し上げんか。荒き棟梁荒き棟梁』と仰せになられた。続いて、『早く、風呂へお入り』とお命じになり、風呂から出て来ると、『これで清々したやろ』と仰せ下された。利三郎は、教祖の温かい親心により、六日目にはお助けいただき、一ケ月間、お屋敷に滞在した後、柏原へ戻った。その元気な姿を見た村人たちは大層驚いた」。

 1904(明治37).5.4日、出直し(享年86歳)。利三郎は柏原分教会(現・中河大教会)初代会長。1895(明治23).11.13日、出直し(享年46歳)。明治20年1月26日のおつとめで「かぐら」、「てをどり」をつとめる。
 「山本利三郎」(「清水由松傳稿本」130-131p)。
 「父の利八さんと共に明治6年入信された。河内の柏原村出身である。利八さんは只入信が古いだけで別に道の又(※為)働いた人ではないが、息子の利三郎先生は本部員としても元老であり、中河の会長もつとめ、又そのやり方も一風変った人で、よく馬に乗って走り歩いた人であった。晩年少し精神に異常を来して明治28年11.13日、46才で出直されたが、こうまん狂人の〇〇長平さんのように長い間座敷牢に入って出直されはしなかったが、とても元気の良い人で、演説にもなかなか覇気があり、度胸もあるかたであったが、惜しいことに仲田左よみさんと同じ因縁持ちであった。別に学問はなく、もとは角力とりをやった人だとも言い、やせて背の高い人であった。橋本清さんや永尾楢次郎さんと、破佛演説に各地へ出かけられた時は、なかなか颯爽たるものであった」。
 加見兵四郎(**歳)、その妻・つね(--歳)
 笠間村(宇陀郡榛原(はいばら)町笠間)の加見兵四郎は、明治6年春に妻・つねと結婚した。その後、つねが妊娠し、兵四郎がおびや許しを頂きにお屋敷へ帰った時、教祖は次のようにおびや許しのお諭しをされている。
 「このお洗米(せんまい)を、自分の思う程(ほど)持ってお帰り」、「さあさあそれはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへ帰りたら、その一つ分を家内に頂かし、産気づいたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒忌み要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りで良いのやで。少しも心配するやないで。心配したらいかんで。疑(うたご)うてはならんで。ここはなあ、人間始めた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したると言うたら、許したのやで」(「逸話篇34話」)。

【この頃の逸話】
 この頃、教祖が、一粒の籾種(もみだね)を持って飯降伊蔵に向い次のようにお諭しされている。
 「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百粒から三百粒になる。二年目には何万と云う数になる。これを一粒万倍(いちりゅうまんばい)と言うのやで。三年目には大和一国に蒔く程になるで」(「逸話篇30話」)。
 この頃、教祖が、飯降伊蔵に山から一本の木を切ってこさせ、真直ぐな柱を作らせた。教祖が「伊蔵さん、定規を当ててみてくだされ」と仰せられ、曲尺(かねじゃく)に当ててみると隙間があった。そこで、「少し隙がございます」と申し上げた時、教祖は次のようにお諭しされている。
 「その通り、世界の人が皆な、真直ぐやと思うている事でも、天の定規に当てたら、皆な狂いがありますのやで」(「逸話篇31話」)。
 この頃、教祖が、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせていただいた小阪村(磯城(しき)郡田原本町小阪)の松田利平の娘・やすに次のようにお諭しされている。
 「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、云われるような男でも、家に帰って、女房が、貴方お帰りなさい、と叮嚀(ていねい)に扱えば、世間の人も、わしらは阿呆と云うけれども、女房がああやって叮嚀に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と云うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで」(「逸話篇32話」)。

 (当時の国内社会事情)
 1873(明治6)年、1.10日、徴兵令が発布される。
 1.19日、僧侶位階廃止令。
 3月、越前で護法一揆。
 5.5日、皇居で火災。
 5月、前年の7月に参議兼陸軍元帥となり近衛都督に任ぜられていた西郷隆盛が、元帥が廃止されたことに伴い陸軍大将になる。
 6月、征韓論起こる。
 7.28日、地租改正条例を定める。
 7月、朝鮮、大院君失脚。征韓論をめぐる対立で、反対派が優勢。
 8.3日、西郷隆盛が征韓論をめぐる意見書を提出。
 10.24日、明治天皇、朝鮮遣使を却下する。西郷隆盛、辞任し鹿児島へ帰郷する。10.25日、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣も辞任。軍人でも桐野利秋らが辞任。
 11.10日、内務省を設置。11.29日、大久保利通、内務卿に就任。
 12.1日、郵便葉書を発売する。
 12.25日、島津久光、内閣顧問に任命される。
 1870(明治3)年制定の中国の儒教思想による老人と子供を尊ぶ法律の新律綱領の改定律令が制定される。地方違式かい違条例も公布される。その後、1882(明治15)年、フランス刑法を基にした新刑法が公布され、改定律令は廃止されることになる。
 この年、太陽暦が採用されて、12月3日をもって、明治6年1月1日と定められた。

 (宗教界の動き)
 1873(明治6).1.15日、教部省達第2号で「梓巫、市子、憑祈祷、狐下げ等禁止」。(狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する)
 2月、約300年にわたるキリスト教禁制が解禁された。これにより全国のキリスト教禁制の高札が撤去された。「民族のルーツをさがす旅」の「部族完成摂理期間」が次のように記している。
 「キリスト教が解禁されたので、この時代から『日ユ同祖論』が唱えられるようになったのである」。
 「1873年、『切支丹邪宗禁制高札』の撤去がなされ、横浜公会を母体とした日本基督公会が 発足することになり、日本キリスト教の公式路程が始まったのであった。以後1945年の敗戦に至るまで(の73年間)、キリスト教と国家神道の闘いが続いたのである」。
(私論.私見)
 なかなか意味深ではなかろうか。

 2015.11.17日 れんだいこ拝
 大教院神殿が放火により全焼。ご神体は芝東照宮に仮遷座。
 府県社の神官の月給を廃止。
 政府は全国の招魂場の社地を免税とし、祭祀費用・招魂墳墓の修繕費の国家予算支出を定
めた。
 2月、金光教弾圧。
 3月、伊藤六郎兵衛(1829‐1894)が悟りを得て丸山教創始。5月、丸山教弾圧。
 この年、大教宣布運動盛んになる。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
1873年、ドイツ・オーストリア・ロシアが三国同盟を結ぶ。





(私論.私見)