第50部 | 官制神随らの道と教祖の教え |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「官制神随らの道と教祖の教え」を確認する。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【教祖の「上、高山」批判】 | ||||||||
この頃、教祖は、人間平等観を貴重にして、明治新政府の動きに対し次のように批判している。
|
【「廃仏毀釈運動」】 |
鵜飼秀徳「仏教抹殺 サブタイトル/なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」その他参照。 廃仏毀釈運動は激烈に行われ、全国に燎原の火の如く伝わった。神道家(神職・官吏ら)に率いられた一部民衆が寺院に押しかけ、搭堂を打ち壊したり、仏像、仏具、経巻、什器などを破壊焼却して廻った。その為、多くの寺院が廃寺状態に陥った。神仏分離と廃仏毀釈は、日本における国家公認の宗教をそれまでの仏教から神道に転換させることにあった。7年余の運動を通じて、その目的はほぼ達せられた。 |
【発端になった日吉大社神官の蜂起】 | |||
全国の発端になったのは仏教の一大拠点であった比叡山の麓(ふもと)の日吉大社(滋賀県大津市坂本)神官の蜂起だった。日吉大社は全国に3800社以上の日吉、日枝、山王と名のつく神社の総本宮である。
社伝では第10代天皇の崇神天皇の時代(3−4世紀頃?)に、比叡山の山頂から現在の大津市坂本の地に移されて日吉大社が創祠され、その後、天智天皇7年(668)に大津京鎮護のため三輪山を神体とする大神(おおみわ)神社の大物主(おおものぬし)神が勧請されている。そして延暦7年(788)に最澄(さいちょう)が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉大社を天台宗・延暦寺の守護神として崇敬したという。このようにして比叡山では山岳信仰と神道と天台宗が融合していって、鎌倉期には山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとする山王神道の教学が形成されていた。1868.4.1日、太政官布告からわずか4日後、四十数人の武装した神官たちが日吉大社に乱入し、延暦寺側の責任者に社殿の鍵の引き渡しを要求した。押し問答の末、神官らは本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。暴徒の中には神官から雇われた地元坂本の農民100人も含まれていた、とされている。日吉大社は延暦寺に支配されており、神官らは僧侶に虐げられているという意識があった。坂本は延暦寺が支配していて、小作人に重い年貢を背負わせてきた延暦寺への反感が噴出したという見方もあるようだ。
樹下茂国は幕末の頃から岩倉具視の命を受けて動いていた形跡が認められる。この事件が原因で解職された後、後半生は岩倉具視邸に身を寄せて、晩年には修史館につとめ皇親系図の編修にかかわっている。廃仏毀釈も岩倉が裏で糸を引いていた可能性がある。 |
【上地令(あげちれい)】 |
こうした混乱にあわてた新政府はすぐ仏教施設の破壊を戒める太政官布告を出すが、破壊の勢いはとどまらなかった。一方で、仏教勢力の弱体化を図りたい政府は上地令(あげちれい)という土地召し上げ令を出す。上地令は1871年と1875年の2度にわたって出され、とりわけ京都や奈良の大寺院が被害を被った。京都市編纂の「京都の歴史」によると、清水寺は10分の1以下、東本願寺も半分以下の面積になった。約500メートルの新京極通も多くの寺院の整理によって出現した。奈良も同様で、興福寺は今も大伽藍を擁するが、奈良国立博物館、奈良県庁、奈良地裁や奈良ホテルなどはすべて興福寺の寺領に建っている。東京も同様だった。徳川家の菩提寺・増上寺は広大な寺域を抱えていたが、上地令で寺領を大幅に減らした。その地に後に芝公園や東京プリンスホテルなどができた。東京郊外の高尾山も例外ではなかった。高尾山薬王院は上地令で、「寺領720余町歩のうち、境内地10町歩を残して没収され、高尾山の大部分は国有林になってしまった」。 |
教育県として知られている長野県の松本市にある旧開智学校は国の重要文化財で、代表的な明治初期の学校建築物として国宝に指定される見込みだ。この建物の一部は廃仏毀釈で廃寺になった寺の木材を利用してできたものだ。明治初期に実施された文部省調査によると、全国の約4割の小学校が寺院を利用したものであったという。近代教育の礎は、寺院の犠牲なくして成立し得なかった。その被害は、維新の原動力になった薩摩(鹿児島)、長州(山口)から宮崎、長野、岐阜、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、伊勢(三重)、東京、京都、奈良など全国に及んでいる。逆に廃仏毀釈が最低限に抑えられたのが浄土真宗王国の加賀国(石川県)。 |
【伊勢神道式秩序化による国家神道の創出】 |
神祇官制度の復活により、徳川幕藩体制下では吉田、白川家に委託していた神祇職は廃止となり、両家に所属していた全国の神社は一部を除いて政府の直轄と定められた。注目すべきは、天皇の祖神である天照大御神を祀る伊勢神宮を神社の中での最高位に置いたことである。それまでの日本神道は、大和王朝建国後の神道のみならず、それまでに形成されていたいわば古神道と共存していた。古神道では、山の奥地にある巨石を祀り、何らかの祭祀を行ったとみられる跡が数多く発見されている。広島の葦獄山や、富士山の南隣に位置する愛鷹山、大和の三輪山などには、古代の日本人が、祭祀の目的で祀ったり築いたりしたと見られる巨石が今でも存在する。こうした信仰は、長い年月の間に神の概念、神話、祭事法、道義、倫理観などを形成していった。そして、有史に入ると、やがて神道として体系化されるに至ったという経過がある。こうした様々な特徴特性を持つ神道が、この時期新政府の方針の下に伊勢神道を頂点とする一元的支配が確立されたことが着目される。 |
【教祖の「神随らの道」】 |
明治維新は政体の改変を通じて当然のことながら旧価値観の動揺と新価値観の創造と言う動乱時代の招来でもあった。この時代に教祖は厳然と、「明治新政府の唱える近代王政復古」とは異なる、古来よりの伝統的な醇風美俗な古神道的な生活規律を現代風に焼き直した道筋を指し示そうとしていた。これの詳細は、別章【お道の教理研究】の別章【教理各論原形】の回天論各論に記す。 「王政復古」よる「近代国家神道」の誕生は、伊勢神道の下に神道を序列化せしめ、明治天皇がその神に仕えることによってその権威で現世的支配権を得させ、それを明治維新政府が政治利用して行くと云う構造を見せていた。教部省、文部省の天皇制イデオロギー、各種の神話(国産み神話、国譲り神話、天孫降臨、天照大神の神勅、神武天皇東征、八紘一宇の詔勅)等々は、これによる政策物であった。教祖は、この論理式を真っ向から否定する教理を生み出し、道人を結集せしめつつあった。これが弾圧の背景となる。 |
【教祖の「自主性信仰」の教え】 | ||||||
教祖は、「み神楽歌」九下りで次のように記している。
その含意を読み取れば、自身の意志での自主的な信仰を促していることになる。命令だから動くというような信仰ではないことが知れる。 |
【教祖の「理信仰」の教え】 | |||
教祖は、理信仰とも云える新宗教を指針させている。
教祖は、明治新政府の天皇制絶対主義、天皇制軍国主義への誘導に対し、次のように宣べ批判している。
|
(私論.私見)