第50部 官制神随らの道と教祖の教え

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖の「上、高山」批判】

 この頃、教祖は、人間平等観を貴重にして、明治新政府の動きに対し次のように批判している。

 高山は 世界一列 思うよう
 ままにすれども 先は見えんで
三号48
 高山の 真の柱は 唐人や
 これが第一 神の立腹
三号57
 上(かみ)たるは 段々世界 ままにする
 神の残念 なんと思ふぞ
三号58
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を 聞いて思案せ
三号148

【官制神随らの道考】
 教祖が精力的にお筆先のご執筆を始めとして「お道」の教義体系の確立に取り組んだこの時期は、世上での明治維新と重なる。朝廷より「王政復古の大号令」が下された時期でもあった。新政府は当初、「王政復古による天皇親政、祭政一致」に則り諸施策を打ち出していくこととなったが、この方針には背景事情があった。そもそも三百年の間権力の座にあって天下を支配した徳川幕府を倒し、天皇親政の明治政府を樹立することを企図したのは、各地に蜂起した勤皇派の志士逹の活動によるところ大であったが、彼らを駆り立てた行動理念は、西洋列強による世界植民地化の波を見据えた国體護持にあった。その為の思想イデオロギーとして国学者が唱え始めた復古思想と同衾していた。この復古思想が次第に影響力を見せ始め、幕末維新、続く明治維新はこの思想に領導されていくこととなった。新政府が樹立されるや、復古思想が時代を風靡する支配思想となっていったのも成り行きであった。

 
1867年、新政府が維新直後に「祭政一致の布告」、1868(明治元)年に「神仏分離令」を布告した。これにより神仏分離を強行した。新たに再興された神祇官は、古代の神祇官にはなかった神道による国民教化を目的とする「宣教」の任務を担っていた。

 
新政府は、「王政復古」による「天皇親政」を実現し、更に「祭政一致」、「政教一致」へと進み、政治も、宗教も、教育も、一切をわが国固有の「神ながらの道」にのっとって行くことを目指すこととなった。その「神ながらの道」も、一切の夾雑物を交えない、純粋なものが要求されるようになった。かくては多年、その神ながらの道と習合して、大きな影響を与えてきた儒教、仏教をはじめ、その他一切の外来思想を徹底的に除染せよという極端な方向に走っていくこととなった。

 新政府の宗教政策は、この「王政復古による天皇親政、祭政一致、政教一致」とする国家神道−神社神道の理念を逆手に取っていた。これにより、天皇親政の政治基盤を固め、国民意識の統一をはかり、統一国家の建設を押し進め、やがて好戦政策に転じる際のイデオロギ−として最大限に利用し推進して行った。これが「近代国家神道」の始まりであり根拠である。「近代国家神道」は、
文明開化政策のもと西洋の思想や文化を積極的に取り入れ始め、西欧化と復古神道を天秤で御しながら歩み始めることになった。留意すべきは、「文明開化政策の下での西洋化」の真相が単に西欧諸般の文明の受容ではなく、近代西欧を席巻し支配するに至った国際金融資本帝国主義(これを仮に「国際ユダ邪」と命名する)の制度の導入であり、傭兵化であったことであろう。
 慶応4年3月28日付、神祇官事務局達は次の通り。
  「中古以来、某権現、あるいは牛頭天王の類、その外、仏語をもって神号に相唱え候神社少なからず候。いずれも、その神社の由緒、委細に書付、早々申出づべく候こと」。
 「仏像を以て神体と致し候神社は、以来相改め申すべき候こと。附り、本地等と唱え、仏像を社前に掛け、或は鰐口、梵鐘、仏具等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべきこと」
神仏分離令
 慶応4年4月10日、仏像などの破壊行為を戒めるこのような「太政官布告」を出している。
 「…旧来、社人と僧侶の仲は善くなく、氷と炭の如くであり、今日に至り、社人どもが俄に権威を得て、表向きには新政府の御趣意と称し、実は私憤をはらすようなことが起きては、御政道の妨げになるだけでなく、必ずもめ事を引き起こすことになる」。

【「廃仏毀釈運動」】

 鵜飼秀徳「仏教抹殺 サブタイトル/なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」その他参照。

 
「祭政一致の布告」、「神仏分離令」の布告の作用は一千年以上も続いた神仏混肴の状態を打ち破り、純然たる本来の神道の姿に戻す為、多年「神ながらの道」と習合して、大きな影響を与えてきた儒教、仏教をはじめ、その他一切の外来思想を強制的徹底的に排除するという極端な方向を生み出し、為に全国でいわゆる「廃仏毀釈運動」を引き起すこととなった。「廃仏」は仏を破壊し、「毀釈」は、釈迦の教えを壊すという意味である。

 中世以降江戸時代まで神道と仏教が混淆していた。寺と神社双方が祈祷、念仏、祓(はらえ)、雨乞いをし、同じ境内地に共存して大権現化していた。それが神仏分離令により、「神社に祀(まつ)られていた仏像・仏具などを排斥、神社に従事していた僧侶に還俗(僧侶をやめて俗人に戻ること)を迫り、葬式宗教への切り替えなどを命じた。新政府が打ち出した当初はあくまでも神と仏の分離であり、寺院の破壊を命じたわけではなかった。だが、時の為政者や市民の中から神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などを悉(ことごと)く壊していった。

 廃仏毀釈運動は激烈に行われ、全国に燎原の火の如く伝わった。神道家(神職・官吏ら)に率いられた一部民衆が寺院に押しかけ、搭堂を打ち壊したり、仏像、仏具、経巻、什器などを破壊焼却して廻った。その為、多くの寺院が廃寺状態に陥った。神仏分離と廃仏毀釈は、日本における国家公認の宗教をそれまでの仏教から神道に転換させることにあった。7年余の運動を通じて、その目的はほぼ達せられた。


【発端になった日吉大社神官の蜂起】

 全国の発端になったのは仏教の一大拠点であった比叡山の麓(ふもと)の日吉大社(滋賀県大津市坂本)神官の蜂起だった。日吉大社は全国に3800社以上の日吉、日枝、山王と名のつく神社の総本宮である。 社伝では第10代天皇の崇神天皇の時代(3−4世紀頃?)に、比叡山の山頂から現在の大津市坂本の地に移されて日吉大社が創祠され、その後、天智天皇7年(668)に大津京鎮護のため三輪山を神体とする大神(おおみわ)神社の大物主(おおものぬし)神が勧請されている。そして延暦7年(788)に最澄(さいちょう)が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉大社を天台宗・延暦寺の守護神として崇敬したという。このようにして比叡山では山岳信仰と神道と天台宗が融合していって、鎌倉期には山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとする山王神道の教学が形成されていた。1868.4.1日、太政官布告からわずか4日後、四十数人の武装した神官たちが日吉大社に乱入し、延暦寺側の責任者に社殿の鍵の引き渡しを要求した。押し問答の末、神官らは本殿になだれ込み、祀られていた仏像や経典、仏具などに火を放った。その数、124点に及んだ。暴徒の中には神官から雇われた地元坂本の農民100人も含まれていた、とされている。日吉大社は延暦寺に支配されており、神官らは僧侶に虐げられているという意識があった。坂本は延暦寺が支配していて、小作人に重い年貢を背負わせてきた延暦寺への反感が噴出したという見方もあるようだ。

 羽根田文明氏の仏教遭難史論にはこう書かれている。

 「王政維新の際、すべて世襲の官職を廃し、職員は人材登用となり、先ず最初に…神祇官の設置となった。この神祇官は古例のごとく、太政官各位の上位にある独立の官衙である。慶応4年すなわち明治元年2月、神祇官最初の総督は白川三位、大輔が亀井茲監(かめいこれみ:前に排仏主義を実行せる、津和野藩主)。その他、正権判事も、みな排仏家の国学者、儒者であったから、神祇官は、あたかも排仏者の集合団体の如くであった。さて、日吉山王権現の社司、樹下(じゅげ)、生源寺二家は、伝教大師以来親近の者であったゆえに、一山より扶持を給して家来の様にしてあったから、権現について何等の勢力もなく、法親王、座主宮に面謁することさえ憚る卑官であった。その樹下石見守茂国という人、年来、社僧の下風に立ち、下役に使われるのを憤慨していたが、なにぶん当時比叡山延暦寺は寺領5千石の領主にて、三執行代という政務所あって領内人民を支配し、地頭の権威を以て山王の全権を握っているから、如何ともすること能わず涙を呑み、窃に時機の至るのを待っていた」。
 「ここに、天運循環して王政維新の春を迎え、神祇官の再興となり、樹下茂国は神祇官権判事に登用せられた。時に神仏混淆禁止の朝令が発せられ、3月28日には、仏像を以て神体とする神社は以来相改め申すべき旨布告せられ、同時に大津裁判所(滋賀県の前身)より、山王社も相改め申すべしと、社司へ達せられた。ここにおいて茂国は、時こそ至れ、今ぞ年来の宿憤を晴らすべき時節到来せりと雀躍りして立った。さて山王権現とは、大宮、二宮、聖眞子、十禅師、八王子、客人子、三宮の七社*を併称して言うのである。そして七社とも、いずれも天台の一實神道で祭られ、みな仏式に依られている。ゆえに、仏像または僧形の木造の神体にしたものがあり、かつ七社とも、社前に鰐口がある社殿に仏影の扁額あって、経巻および仏器、法用具等が、神殿の内外に多くおいてあった」。
*山王七社(上七社):大宮、二宮、聖真子、八王子、客人、十禅師、三宮の七社を「山王七社」と呼んでいたが、明治以降は西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾神社、白山姫神社、樹下神社、三宮神社と社名が変更されている。
 「時は四月朔日(ついたち)、社司樹下茂国、および生源寺等の社司より、延暦寺三執行代に通知して神殿の鍵の引渡しを申し込んだ。執行代は、これを一山の大衆に通知したによりて、衆徒の大会議となったが、衆議沸騰して、たちまち一山の騒動となり、あまつさえ殺気を帯びるに至った。ゆえに委細を座主法親王宮に言上して、指図を仰ぐ事となり、双方ともに問答往復して、容易に解決するに至らなかった。ここに社司方は、もはや猶予するに及ばず。武力を以て実行に着手せんとて、樹下茂国、生源寺社司、ならびに部下の祝部に同志の壮士、三四十名に槍、棒等の兵器を携えさせ、これに坂本村の人夫数十名を加えて一隊となり、山王権現の神域内に乱入し、神殿に昇り、神扉の錠を捻じあけて殿内に入り、神体なる仏像・僧像はもちろん、経巻、法器等、いやしくも仏に係る物品は悉く取り除きて、之を階下に投げ出した。七社ともこのごとくであるから、その取り除いた仏物は数多あったが、これを二宮社前*に積み上げ、あまつさえ土足で蹴り、或は槍の石突もて突き砕きなど、種々の乱暴狼藉の上、ついに火を放ちて一時に焼き捨てたが、その中には千年以来の法宝、珍器もあって、今より見れば貴重なる国宝となり、世界に誇るべき古美術、逸品もあったであろうに、何の容赦もなく、悉く灰燼に委してしまったのは、実に惜しいことであった。時に山僧の談に二宮社殿内にあった、紺神金泥の法華経は、八巻で余程の重みのあるほどに金泥の多く用いてあった経巻であったという。当時社司樹下茂国は弓矢を取り、仏像の面部を的に之を射貫き、大いに快哉を叫んだということである」。

 樹下茂国は幕末の頃から岩倉具視の命を受けて動いていた形跡が認められる。この事件が原因で解職された後、後半生は岩倉具視邸に身を寄せて、晩年には修史館につとめ皇親系図の編修にかかわっている。廃仏毀釈も岩倉が裏で糸を引いていた可能性がある。

【上地令(あげちれい)】

 こうした混乱にあわてた新政府はすぐ仏教施設の破壊を戒める太政官布告を出すが、破壊の勢いはとどまらなかった。一方で、仏教勢力の弱体化を図りたい政府は上地令(あげちれい)という土地召し上げ令を出す。上地令は1871年と1875年の2度にわたって出され、とりわけ京都や奈良の大寺院が被害を被った。京都市編纂の「京都の歴史」によると、清水寺は10分の1以下、東本願寺も半分以下の面積になった。約500メートルの新京極通も多くの寺院の整理によって出現した。奈良も同様で、興福寺は今も大伽藍を擁するが、奈良国立博物館、奈良県庁、奈良地裁や奈良ホテルなどはすべて興福寺の寺領に建っている。東京も同様だった。徳川家の菩提寺・増上寺は広大な寺域を抱えていたが、上地令で寺領を大幅に減らした。その地に後に芝公園や東京プリンスホテルなどができた。東京郊外の高尾山も例外ではなかった。高尾山薬王院は上地令で、「寺領720余町歩のうち、境内地10町歩を残して没収され、高尾山の大部分は国有林になってしまった」。

 教育県として知られている長野県の松本市にある旧開智学校は国の重要文化財で、代表的な明治初期の学校建築物として国宝に指定される見込みだ。この建物の一部は廃仏毀釈で廃寺になった寺の木材を利用してできたものだ。明治初期に実施された文部省調査によると、全国の約4割の小学校が寺院を利用したものであったという。近代教育の礎は、寺院の犠牲なくして成立し得なかった。その被害は、維新の原動力になった薩摩(鹿児島)、長州(山口)から宮崎、長野、岐阜、佐渡(新潟)、隠岐(島根)、伊勢(三重)、東京、京都、奈良など全国に及んでいる。逆に廃仏毀釈が最低限に抑えられたのが浄土真宗王国の加賀国(石川県)。

【伊勢神道式秩序化による国家神道の創出】

 神祇官制度の復活により、徳川幕藩体制下では吉田、白川家に委託していた神祇職は廃止となり、両家に所属していた全国の神社は一部を除いて政府の直轄と定められた。注目すべきは、天皇の祖神である天照大御神を祀る伊勢神宮を神社の中での最高位に置いたことである。それまでの日本神道は、大和王朝建国後の神道のみならず、それまでに形成されていたいわば古神道と共存していた。古神道では、山の奥地にある巨石を祀り、何らかの祭祀を行ったとみられる跡が数多く発見されている。広島の葦獄山や、富士山の南隣に位置する愛鷹山、大和の三輪山などには、古代の日本人が、祭祀の目的で祀ったり築いたりしたと見られる巨石が今でも存在する。こうした信仰は、長い年月の間に神の概念、神話、祭事法、道義、倫理観などを形成していった。そして、有史に入ると、やがて神道として体系化されるに至ったという経過がある。こうした様々な特徴特性を持つ神道が、この時期新政府の方針の下に伊勢神道を頂点とする一元的支配が確立されたことが着目される。

 上代には天社 (あまつやしろ) ,国社 (くにつやしろ) の別があり,律令が制定されると,官幣の大社、小社、国幣の大社、小社の別が立てられていたところ、この時期に全国の神社は伊勢神宮を頂点とする官社(官幣社の大社、中社、小社、国幣社の大社、中社、小社)、別格官幣社、諸社(府社、県社、郷社、村社、無格社)という社格で秩序化され、ピラミッド型に編成、統合された。

 また、神官の教導職兼補は廃止となり、神社は完全に一般の宗教とは別な扱いになり、国家の一元的な管理下に置かれることとなった。
ここに、「神社神道」と「国家神道」が一体のものとなった。これを仮に「近代国家神道」と命名する。これにより異端宗教が排撃の対象となり、神社は国民の意識を束ねる精神的統合の象徴として政治的に利用されることになった。神祇官の下に、宣教使(後の教導職)制度が創設され、神道精神をあまねく交付する為の任に就くことになった。神職の世襲否定と補任制の確立、全神社への社格制の導入等々が矢継ぎ早に施行されていった。
 

 天皇は、都を京都から東京に移転させ、それまでの仏教的影響を受けた存在から純神道的なあらひと神(現身神)になり、神道の宗家となった。宮城(皇居)内に、天照大神以前の神々を祀る神殿と皇祖天照大神の賢処と、歴代の天皇の霊を祀る皇霊殿という神社を創設して、宮中三殿と称した。京都御所にはこうした神社はなく、真言院というお寺とお黒戸という仏間しかなかったことを考えると様変わりであった。

 日本書紀の用明紀に「天皇、仏法を信じ、神道を尊ぶ」とある。仏教が、古来よりの伝統に対する新たなイデオロギー的なものであった点も見落とせない。古くは聖武天皇が「三宝の奴」と名乗り、又、弘法大師が密教を伝えたときに、嵯峨天皇が大日如来となって政治を行うと*かん頂を行っている。それ以降天皇は仏弟子ということになって来ていた。この伝統が廃棄され、「伊勢神道式秩序化による国家神道の創出」が押し進められていったことになる。


【教祖の「神随らの道」】

 明治維新は政体の改変を通じて当然のことながら旧価値観の動揺と新価値観の創造と言う動乱時代の招来でもあった。この時代に教祖は厳然と、「明治新政府の唱える近代王政復古」とは異なる、古来よりの伝統的な醇風美俗な古神道的な生活規律を現代風に焼き直した道筋を指し示そうとしていた。これの詳細は、別章【お道の教理研究別章【教理各論原形回天論各論に記す。

 「王政復古」よる「近代国家神道」の誕生は、伊勢神道の下に神道を序列化せしめ、明治天皇がその神に仕えることによってその権威で現世的支配権を得させ、それを明治維新政府が政治利用して行くと云う構造を見せていた。教部省、文部省の天皇制イデオロギー、各種の神話(国産み神話、国譲り神話、天孫降臨、天照大神の神勅、神武天皇東征、八紘一宇の詔勅)等々は、これによる政策物であった。教祖は、この論理式を真っ向から否定する教理を生み出し、道人を結集せしめつつあった。これが弾圧の背景となる。


【教祖の「自主性信仰」の教え】
 教祖は、「み神楽歌」九下りで次のように記している。
 五つ いづれの方も 同じ事
 思案定めて 付いて来い
み神楽歌九下り
 六つ 無理にでようと 云うでない
 心定めの つくまでは
み神楽歌九下り
 七つ なかなかこのたび 一列に
 しっかり思案を せにゃならん
み神楽歌九下り

 
その含意を読み取れば、自身の意志での自主的な信仰を促していることになる。命令だから動くというような信仰ではないことが知れる。 

【教祖の「理信仰」の教え】
 教祖は、理信仰とも云える新宗教を指針させている。
 助けでも 拝み祈祷で 行くでなし
 伺い立てて 行くでなけれど
三号45
 
 教祖は、明治新政府の天皇制絶対主義、天皇制軍国主義への誘導に対し、次のように宣べ批判している。
 天皇も人間、我々百姓も同じ魂。




(私論.私見)