第52部 1870年 73才 お道教義の骨格完了と元の理仕込み
明治3年

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).9.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「お道教義の骨格完了と元の理話し仕込み」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「お道」教義の骨格完了】

 1870(明治3)年、教祖は、「座りつとめ」に新たに「ちょとはなし」のお言葉と手振りを教えられた。この頃「よろづよ八首」が御作成されている。こうして作り上げられた一連の「おつとめ」が総称されて「神楽(かぐら)つとめ」となった。


【教祖が「元の理話し」(泥海こふき譚)を仕込む】
 この頃、教祖は、「元の理話し」(以下、「元の理」と云う。「泥海古記」とも云われる)を仕込まれている。これについては別章「元の理」で考察する。

【お秀出直し】
 1870(明治3).3.15日、秀司の娘子のお秀が18才にして出直しした。母親の名前はおやそ。これより以前、教祖が、お秀に「これは、つとめのどうしんやで、何も心配すること要らんで」と度々お聞かせ下されていた。お迎え取り後にまた仰せられるには、「身代わり同様やで/\。周婆の命(しゅうばあのみこと)と名づけておく」とお聞かせ下されている。寺の方の戒名は「光誉明照禅定尼」とあるが、中山家では「周婆の命」と諡(おく)り祀っている。(「昭和22年6月25日発行、諸井政一集前篇(のちの正文遺韻抄)、道すがら外篇一、御秀様死去」参照、

 この年、吉田神祇管領が廃止されている。
 (道人の教勢、動勢)
 「1870(明治3)年の信者たち」は次の通りである。
 山本利三郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「33、国の掛け橋」。
 「河内国柏原村の山本利三郎は、明治3年秋、21才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。明治6年夏のことである。その時、同じ柏原村のトウという木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが匂いをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、『この屋敷は人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで』と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎は、大和の神様へお詣りしたいと言い出した。家族の者は、とても大和へ着くまで持たぬだろうと止めたが、利三郎は、それでもよいから、その神様の側へ行きたいと、せがんだ。あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれども、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので一旦は引き返した。しかし、家に着くと不思議と息を吹き返して、死んでもよいからと言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつけて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。一行は翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、『案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら必ず救かるのや』と仰せ下され、続いて、『国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁々々々々』とお言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、『早く風呂へお入り』と仰せ下され、風呂を出て来ると、『これで清々したやろ』と仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎は、少しも苦しまず、かえって苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温かい親心により、利三郎は六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、柏原へもどって来た。その元気な姿に村人達は驚歎した、という」。
 孫の中山しゅうが18歳で死去。

【この頃の逸話】

 (当時の国内社会事情)
 1870(明治3).1.26日、奇兵隊で騒動が勃発。2.11日、奇兵隊、鎮圧される。
 1月、国旗「日の丸」を制定布告。
 4月、種痘法を全国に行う。
 9月、平民苗字許可令。
 10.9日、岩崎弥太郎、土佐商会を設立。
 11月、右大臣岩倉具視をリーダーとする欧米使節団がアメリカ、ヨーロッパに向けて出発した。メンバーは、岩倉を全権大使とし、参議・木戸孝允、大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らを副使とする48名。1858(安政5)年の日米修好通商条約の改正準備交渉をもかねていた。一行が外遊中、政府は西郷を首班とする留守政府が預かった。メンバーは、太政大臣・三条実美(さねとみ)、参議・大隈重信、板垣退助、司法卿・江藤新平らであった。留守政府と使節団との間には、重要政策や重要人事をみだりに行わないなどの12か条の「約定書」が取り交わされていた。が、実際には、学制改革、地租改正、太陽暦の採用、徴兵令などの重要政策が次々と着手されていった。
 大教宣布の勅令発布される(神道の国教化)。
 中国の儒教思想による老人と子供を尊ぶ法律の新律綱領が制定される。
 吉田神道本所が廃止される。
 北海道に屯田兵が入植する。
 西田幾多郎(‐1945)出生。
 (田中正造履歴)
 1870(明治3)年、30歳の時、江刺県花輪支庁(現秋田県)の役人となる。

 (宗教界の動き)
 大教宣布の詔。
 権現、明神、菩薩などの仏教的な神号を廃止すること、神社から本地の仏像を取り除き、仏具を神社に置くことが禁止された。この政策は仏教を廃し、釈迦の全てを否定して壊す「廃仏毀釈」となり、これまで、僧侶の下に置かれていた神官が政府の威をかりて廃仏毀釈に走って行った。1870(明治3)年から4年にかけて頂点に達した。これらの政策により宗教界は大混乱となった。
 閏十月、土御門家が主宰する朔旦冬至が廃止される。

 閏10月下旬、明治政府が天社神道(陰陽道)廃止の布告。
 「従来天社神道門人ト唱ヘ土御門家免許ヲ受ケ候者ドモ両刀を帯シ絵符ヲ建テ宿駅通行之由甚ダ以テ謂レナキ事ニツキ自今右等之所業差シ止メラレ候ニツキ厳重申シ達スベシ。尚今後門人免許一切禁ジラレ候旨今般土御門和丸エ御沙汰相成リ候条府藩県ニ而コノ旨相心得管内取締マリ致スベシ事 ごう午閏十月 太政官」
 
 10.27日、京都星学局出張所廃止。
 12.9日、土御門を大学の御用掛から罷免。大学の中に星学局が設置され、幕府天文方で活動していた内田五観らが採用され、編暦の担い手の目処がついたところで、土御門家の諸権限が奪取された。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)





(私論.私見)