このお歌の注釈は次の通り。
 「うちわけばしょとは、打ち分け場所で、将来は内、中、外に各々三十一ヶ所宛、都合九十三ヶ所出来ると仰せられた。如何に業病の者でも、その打ち分け場所を回っているうちに、病気を救けて頂くのであるが、そのうち一ヶ所は非常に辺ぴな場所にある。しかし、これを略するようでは救からない。又、たとい途中で救かっても、車やつえを捨てないで、結構に救けて頂いた事を人々に知らせて、最後にそれをおぢばに納めるので、もし途中でそれを捨てたならば、一旦救けて頂いても、又元通りになる。と仰せられた」。

 実際に教祖が打ち分け場所になると仰せられたとされる場所は、大縣大教会、高安大教会、旧郡山大教会、敷島大教会の四ヶ所である。前の三ヵ所は、稿本天理教教祖伝逸話篇の「四七 先を楽しめ」、「一〇二 私が見舞いに」、「一八九 夫婦の心」のそれぞれの話に記載されている。敷島大教会については、増野鼓雪全集5にこう述べられてある。
 「本部直轄の教会が多数ある中で、神様が打分け場所と仰せられたのは、我が敷島大教会と高安大教会の二ヶ所だけである。神様の御予言に、地場を中心に六里四方に内三十一ヶ所の打分け場所が出来ると仰せられてある。して見れば、九十三ヶ所の打分け場所の中、我が敷島は御地場に最も近い内三十一ヶ所の部に属するものである」。(「國への土産」 より)