お筆先は全部で「17号まで1711首」からなる。執筆年代は「おつとめ」が整備されて行った年代と一致する。即ち、「おつとめ」の整備は1866(慶応2)年に始まり、1882(明治15)年までかけて完結されたが、お筆先は、それより2年遅れて1869(明治2)年正月、72才で筆を起こされたものの、同じく「おつとめ」の完成した1882(明治15)年、85才でもって終わっている。このことを思案すれば、お筆先は、時に「おつとめの理」を説き、時に一刻も早く教え通りに「おつとめ」を為すよう「せき込み」くだされる立場から、「おつとめの台」としてお誌しくだされたものと伺うことができる。ご執筆の年次は次の通りである。
年代陽暦 |
年代和暦 |
号数 |
1869 |
明治2年 |
一号と二号の二号 |
1870 |
明治3年 |
なし |
1871 |
明治4年 |
なし |
1872 |
明治5年 |
なし |
1873 |
明治6年 |
なし |
1874 |
明治7年 |
三、四、五、六号の四号 |
1875 |
明治8年 |
七、八、九、十、十一号の五号 |
1876 |
明治9年 |
十二号 |
1877 |
明治10年 |
十三号 |
1878 |
明治11年 |
なし |
1879 |
明治12年 |
十四号 |
1880 |
明治13年 |
十五号 |
1881 |
明治14年 |
十六号 |
1882 |
明治15年 |
なし |
1883 |
明治16年 |
十七号 |
これをみれば、「お歌」の数は、年次的に平均しているのではなく驚くばかり不揃いである。明治2年は2号誌されたものの、明治3、4、5、6年の4年間はご執筆なく、明治7、8年の2カ年に精力的にご執筆されお筆先全号の半分以上をお書きになられている。この時期は、「おつとめ」の整備という上から見れば神楽面ができたり、「ぢば」を定めて「つとめの場所」を明らかにされたり、「かんろだい」の据え付けを目標にされる等、「おつとめ」を整えていかれる上での眼目とでも申すべき親神の思召しを次から次へと明かされていった年である。これに応じて、「おつとめ」のよってきたる、この世の元を明らかにしなければならぬし、お話は勢い根本教理に触れて、口でも説けば、筆にも誌すという具合にお筆先のご執筆量も増えていくこととなった拝される。ちなみにこの時期に「士族の反乱」が起っており、やがてその最終決戦である西南の役が戦われている。この政治史が立て合っていたと拝される。明治9、10年は各1号ずつ、明治11年はご執筆なく、明治12、13、14、15年の各年は各1号ずつとなっている。
なお、お筆先には正冊と外冊がある。本部の方に揃ってある十七冊の原本を正冊と呼んでいる。教祖の自筆でありながら重複して他家にあるものを外冊と呼んでいる。
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