第22部 1838年 41才 みきの内蔵隠り
天保9年

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「みきの内蔵隠り」を確認しておく。「みき」は「神の社」として差し出されたが、その後の「みき」はいきなり教祖になったのでもなく神に昇格したのでもなかった。以降、「みき」と神との長い練り合いが始まった。これにより、天理教ではこの「練り合い」が信仰上の生命線となっているが、そのように認識されているのかどうか覚束ない。その最初は「みきの内倉こもり」であった。稿本天理教教祖伝では、この史実が出てこない。つまり、意図的に隠蔽されていると云うことになる。ここで、その様を見ておくことにする。

 2007.11.28日 れんだいこ拝


【神懸かり後のみき1、みきの内蔵隠り】
 連日三日にわたって緊迫したやりとりを終えた中山家に元の静けさが戻った。但し、神懸かり後の「みき」に顕著な変化が現れることとなった。かの日の問答以来、あれほど家業に丹精され、大勢の奉公人を抱えた大所帯を見事に切り盛りし、「主婦の鏡」の名声を得ていた「みき」が世事にとんと関心を示さなくなつた。

 その様子は例えば、朝日を受けて太陽の登るのをじっと眺めてみたり、昼間から出掛けたり、闇夜に庭へ出て天空にまたたく星を見つめて佇んでみたり、これが「みき」の身辺に現れた最初の変化であった。家庭的にも良く夫に仕え、子供たちの世話にも行き届いていた「みき」が、どうしたことであろうか。善兵衛は、先に「みき」との問答の挙げ句、「みき」を神様の御用に差し出す旨誓った手前、こうした「みき」の変化に対して様子見せざるをえなかった。


 そうこうしているうち、「みき」は黒の紋付に着替えて内倉に隠ることが多くなった。内倉に隠る「みき」をソッと窺えば、鬼気迫るご様子で一心不乱熱心に書を読み耽っており、時に端座したまま冥想して思案を凝らしていた様子であった。一心に祈念されている折節もあった。又或る時は、余人には見えない相手と話し合いをしているかの如くにつぶやき為されていることもあった。こうした「みきの内倉隠り」は、この後凡そ3年間にわたった、と伝えられている。

(私論.私見) 「みきの内倉隠り」考

 稿本天理教教祖伝は、この「みきの内倉隠り」を記さない。これを記す解説本があったとしても大抵が「瞑想時間」と捉えている。れんだいこは違うと思う。普通に拝すれば、「内倉隠り」の意味は「読書」、「思想問答」、「教理錬成」の為のひと時となっていたのではなかろうか。こう解することによって、「みき」が、この時期、大変な集中力で「元の神、実の神」絡みの史書、後にかの「泥海譚元の理」として知られることになる、ユダヤキリスト教圏内の創成記に勝るとも劣らない唯一無二の人類のふるさと創成記を生み出す元となる原書を読み通し、これと対話していた御姿、これと思う霊能寺社への参詣の御姿が見えてくるのである。

 推理になるが、そう云えば「みき」の父親の前川半七正信は大変な読書家であり屋敷にそうとうなる蔵書を抱えていた。「国学」の章で触れたが、半七は、国学の泰斗本居宣長と同時代人であるばかりか、宣長の居住した伊勢松阪とは地理的にも遠くなく、読書好きであった半七に宣長の学問的成果が伝えられていたことが容易に想像される。「みき」は、この時期、この国学に興味を抱き、必要に応じて生家に戻り、父親の蔵書の中のこれと思う国学書を借り受けては読み耽っていたのではなかろうか。あるいは「みき」の母方の実家・長尾家が、大和朝廷以前のヤマトを統治していたと推定し得る出雲王朝系の霊能師「長尾市」直系の末裔であり、「長尾市」以来、何代にも亘って大和神社、大神神社の巫女を輩出している家系であった縁で、それらの神社より門外不出の史書を借り受け、これらにも目を通していたのではあるまいかと拝されよう。この指摘も初見であろう。


 2015.11.5日 れんだいこ拝

【みきの宗教的精神史足跡行程12、みきの内倉隠り】

 「みき」の「内倉隠り」を、どのように拝察すべきであろうか。教理では、「みき」は神懸りの時点より即時即身的に、「神のやしろとなり、天より神様の御心入り込んで、みきの口を借りて、よろづの教えを説かれることとなった」とされるが、「みき」の「内倉隠り」の経過を見る限り、そうした教祖的立場がいきなり確立されたわけではないと考えた方が史実に即しているのではなかろうか。それが為か、教団の教義史の側からは、「みき」の「内倉隠り」について触れることが少ない。これは、「みき」自身の生成発展を見ようとしない立場からすれば不整合な行為に映るということでもあろう。逆に、「みき」の行跡を神そのものへと昇華していく過程として内在的に捉え、その行程を追証して行く立場に立つ時、「みき」の「内倉隠り」は必要な経過であったことのように思われる。このことに触れて、小滝氏は「おやさま」の中で次のように指摘している。

 「偉大な宗教家や思想家が誕生する時−そこには、内面的な沈黙が必ずあるということだ。その中で何が生起するかは様々あろうが、この沈黙の期間が要ることだけは確かである。この時、彼らは、ふつふつと沸き立つ内面からのエネルギーに身を委ねる。身を委ねて自身の行く末を決定する。そして、再び戻ってきた時、彼らは全く新たな生を得て蘇っているのである。教祖の場合もそうであった」。

 こうして神一条の生活を得て「内倉隠り」に漕ぎつけた「みき」であったが、神懸りが、「みき」自身の内的欲求の果てにもたらされたものとはいえ、既に見て来たように用意周到に降ってきたわけではなく、まさに神懸りによって突如「みき」に降臨されたことにより、天啓後の足跡については、事前の準備も道筋なぞ何もない手探りの状態のまま念願の神一条の身へと昇華したのではなかったか。神一条の生活が天啓によって俄かに達成されたが故に、「みき」にとって何を為すべきかとなると一切はこれからであった。

 この時点でみきにわかっていることは、極論すれば、一中山家の繁栄を担う道ではなく、世界助けに向かおうとする強い意思と、その為には既成既存の如何なる神仏も頼りにならない、頼りにしないということであった。先の問答で、今まで聞いたこともない「元の神」、「実の神」と「みき」が云い為した所以のところは、既に歴史の垢に塗(まみ)れている神仏をもあてにせ、「みき」に既に手応えのあるもっと根本的に系統的な働きを持った神を渇望しており、次第にこの神の輪郭が味得されつつあったという思いに支えられていた言葉ではなかっただろうか。

 ということは、この時点における「みき」は、この「元の神」、「実の神」を充分に味得するにも、又言葉で表現するにも、伝えるにも、「みき」は、内倉に隠ることによって、研ぎ澄まされた精神力を持って思いを練る必要があったのではなかろうか。そして、今後進めて行くべき道筋を思案したのではなかったか。そうであったが故に、いわば今後の「みき」自身の指針をさぐる準備期間、想いを練る期間、「元の神、実の神」との対話を為す期間として、この「内倉隠り」が必要であったのではなかろうか、と拝察しうる。こうして三年に及ぶ熟考を経て、やがて一つの行動を促すことになるが、その次第は次章で明らかにされるであろう。これを、「みき」の宗教的精神史の第12行程として確認しておこうと思う。 


【みきの内倉こもり拝察諸説考】
 「熊おやじの日記」の2008.9.1日付けブログ「天理教教祖と<暴力>の問題系」を参照しつつ問答を試みる。私の関連サイトは「教祖の力比べ、神には倍の力論、撃剣論」、「天理教教祖の抵抗暴力論」。
 「島薗は、1838年の最初の神がかりをもって中山みきは突然教祖(「神の社」)となった、とする天理教教団の『突発説』を斥け、中山みきは最初の神がかりをきっかけとして徐々に独自の教えを説く宗教家になったのだ、といういわば『過程説』の立場をとる。そして特に、最初の神がかりから中山みきが人々に教えを説くまでの『空白の3年間』に注目する(島薗1998)。それまで、庄屋で豪農であった中山家の模範的な嫁であったみきは、最初の神がかりから約3年間、嫁の仕事を一切放棄して、内蔵にひとり引きこもり、なにやらぶつぶつと神との孤独な問答を続けていた。私は、島薗の『過程説』にも、みきの宗教家としての自立までの『空白の3年間』の重要性を主張する点にも賛成する。みきは、自分が抱える様々な深い葛藤を解決するために、3年間の神との問答を必要としたのであろう」。

(私論.私見)

 熊田一雄氏は、島薗氏の、みきの神がかりにつき天理教本部教理の突発説に対し過程説で捉えようとする観点に同意してコメントしている。私も同意する。

 ところが、「空白の3年間に中山みきが抱え込んでいた葛藤の内容」について、島薗氏、熊田一雄氏、私と見方が分かれる。これを確認する。熊おやじ氏論考「天理教教祖と<暴力>の問題系」によると、島薗氏は、概要「みきが、神がいるならばなぜ長男・秀司の身体障害を救けないのか?という神義論的問いに回答を出すまでの内的葛藤の期間であった、というのが島薗のみき理解の基本である」としている。これに対し、熊田一雄氏は、「みきの内的葛藤がそれだけだったのかは、疑問である」、「仏教的な因縁論と異質なそうした説明をつけるのに3年間も必要だったとは思えない」としている。私も、熊田一雄氏の疑問に同意する。

 その熊田一雄氏は、「空白の3年間」をどう解き明かしているのだろうか。要約すると、「神がかりをしてからのみきの引きこもりの3年間は、1837年の大塩平八郎の乱の影響を受けて、みきが、『宗教と真の非暴力』とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないか」、「みきは、国家暴力と対抗暴力の無限連鎖からの解放(みきの言葉では「むほんの根(ねへ)を切る」こと)を、経験に基づいて日本の民俗宗教的な『親神の力』に求めるようになったのではないか」と述べている。

 私の見解は違う。「宗教と『真の非暴力』とは何かという問いも含めて、後に語り始める諸々の教理、その教理の体系を生み出すまでの教理発酵期間」としたい。こう幅広く受け取りたい。

 付言しておけば、「みきは、国家暴力と対抗暴力の無限連鎖からの解放」に関する名答を打ち出し得ていない。しかも、打ち出したのは、大方の予想する非暴力主義方向への教理ではなく、未分明ながら「国家暴力に対する抵抗暴力」方向への教理である。ここは肝要なところであるように思う。これについては「教祖の力比べ、神には倍の力論、撃剣論」、「天理教教祖の抵抗暴力論」で考察する。


【みきの「自律」足跡行程8、みきの内蔵隠り】
 先の神懸り問答は、「みき」が世情救済を志向して神一条になる為に、しがらみであった世事雑般からの解放を廻って、その是非を廻っての三日三夜の「談じあい」であった。つまるところ、「みき」を貰い受け、神一条の身にさせようとする神と夫善兵衛他との談判であった。夫善兵衛が、「みき」を「神の社」として差しだした瞬間より、「みき」は今後一切の行動を、「みき」自身の判断によって対処しえる自律を得ることとなった。この自律による神懸かり以降の最初の歩みが、「みき」の内倉隠りとして発現することとなった、と拝察される。とはいえ、この行程における自律も又依然として限定的である。但し、「みき」が神一条の世界に没入する自律を得たという点では、明らかに質的な違いを見せているものと思われる。これを「みき」の自律足跡第8行程とする。

 こうして、この段階以降の自律については、神一条の自律を妨げるものとの闘争という意味において、「確執」の行程として叙述しようと思う。「みき」の「内倉隠り」は、その第一行程となる。「みき」の「内倉隠り」における確執は、「みき」が神一条の世界に没入することの是非を廻って取りざたされている「みき」きの神一条の生活とは、それまでの世事一切からの開放という点に意味があった。「みき」は、当時幼子こかんを抱えており、中山家は村役としても忙しく、又家業も隆盛の一途をたどっており、使用人も多く、何かと世話が大変であった。こうした事情の只中から、「みき」は世事一切を放棄する身へと転身することとなったのである。夫善兵衛との間に確執が生まれなかった訳がないともいえる。但し、先の神問答の約束により、「みき」は神一条の生活を手にしていた。従って、「みき」の世事一切の放棄については、問題とはいえ、約束されていた許容範囲のことであったと思われる。従って、「みき」が内倉隠りするについても、夫善兵衛はただ見守るという関係であったものと拝察される。





(私論.私見)