天理教教祖の抵抗暴力論

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年.1.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教教祖の抵抗暴力論」をものしておく。

 2018(平成30).4.19日 れんだいこ拝


【「天理教教祖の抵抗暴力論」について】
 熊おやじの日記」の2008.9.1日付けブログ「天理教教祖と<暴力>の問題系」を確認しておく。 「われわれは、宗教と暴力の関係について、根本的に再考する必要に迫られている」との問題意識から、「天理教の女性教祖の言行録、特に男性信者に対する信仰指導に、宗教と『暴力の問題系』という角度から新たな光をあてよう」と試みている。天理教の教義の基礎とされる聖典として、教祖直筆の1711首の和歌体で書かれた「おふでさき」、教祖が創案したつとめの地歌としての「みかぐらうた」、折々の伺いに対して下された教祖「おさしづ」の3原典に認められる暴力理論ないしは逸話を考察している。

 これに、れんだいこが対話する。意見申すべきところはその都度コメントする。もとより採り上げるということは論考を評価しているからであって、貶すことに意味を見出してはいない。より精度の高いに認識の共有の為のものであるので辛辣な表現のところはご容赦願いたい。

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.10.6日

【大塩平八郎の乱と天理教教祖】
 教祖みきが大塩平八郎の乱をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 3.大塩平八郎の乱と天理教教祖  
 みきには、「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を夢見た一種の女傑、「女頭目」(赤松1986)とでも呼びたい女性という側面があったように思われる(2)。1838年に最初の神がかりをしてからのみきの「引きこもり」の3年間は、1837年の「大塩平八郎の乱」の影響を受けて、みきが、「宗教と真の非暴力」とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないかと思う。「引きこもり」の3年間において、みきは、日本的な宗教文化の伝統に基づいて、「宗教と真の非暴力」について集中的に考え抜いたのだと思う。そして、教えを説き始めてからも、同じ問題を考え続けたのだと思う。
(私論.私見)
 みきが「大塩平八郎の乱」の影響を受けていることに着目するのは良い。問題は、みきが「宗教と真の非暴力」に関する思想について苦吟していたとしているところにある。なぜ「真の非暴力」とするのか、「宗教と暴力」、「抵抗と暴力」、「世直しと暴力」ついて苦吟していたと受け止めるのが普通だろう。みきが「暴力」をどのように見做していたのかを解析するのが有益なのに、「宗教と真の非暴力」の問題とするのは捻じ曲げのすり替え、だろう。
 数百万人の餓死者を出した「天保の飢饉」のさなかに大阪で起きた大塩平八郎の乱は、百姓ではなく幕府の側の役人が反乱(みきの言葉では「むほん」)を起こしたということで、日本全国に大変な衝撃を与えた(酒井一1998)。ましてや、みきは大阪の近隣の奈良に住んでいたのだから、取引のあった商人のネットワークを通じて、「幕藩体制の終わりの始まり」という側面があった大塩平八郎の乱について詳細な情報を入手していたはずである(村上1992)。みきは、大塩平八郎の乱に両義的な感情を強くもったであろう。自分自身は奉行所の与力という社会的に恵まれた立場にありながら、弱者救済(大塩の言葉では「救民」)の「世直し」を掲げた点では、みきは大塩に強く共感しただろう。
(私論.私見)
 ここの件の記述は良い。
 しかし、現在の大阪市の約五分の一を火の海にしたという対抗暴力の「むごさ」や、武士と町人の峻別を主張する身分意識(「へだてる心」)(高野2001)には、強く反発しただろう。
(私論.私見)
 ここの件の、みきが「現在の大阪市の約五分の一を火の海にしたという対抗暴力の『むごさ』」に対する強い反発を「しただろう」は無責任な推測でしかなかろう。れんだいこが知る限り、みきのそういう言行は見当たらない。

【アナーキズム的暴力論と天理教教祖】
 教祖みきがアナーキズム的暴力論をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 4.「暴力のアート」としての「力比べ」
 私は、アナーキストの向井孝にならって、「暴力」概念を、1.対話を拒否して、2.加害の意志をもって、3.物理的力を行使すること、と極めて抽象的に定義する(向井2002)。こう定義すれば、現在われわれがイメージしている「平和」状態とは、江戸幕府や近代国民国家が、軍隊や警察という形で「暴力」を独占していることの「効果」としての「疑似非暴力」状態にすぎず、「真の平和」ではない。誤解を招かないように言っておくが、私は、国家や国家暴力が悪だとか、廃絶すべきだと言いたいのではない。軍隊も警察ももちろん必要である。「国家=悪」と言いたいのではなく、いったん「暴力」概念を抽象化することで、社会現象の分析に新たな角度から光をあててみたいのである。
(私論.私見)
 この件の全体の趣意が今一つ分からない。アナーキストの「暴力」概念を持ち出すなら、もう少し説明を要するのではなかろうか。
 みきは、国家暴力と対抗暴力の無限連鎖からの解放(みきの言葉では「むほんの根(ねへ)を切る」こと)を、経験に基づいて日本の民俗宗教的な「親神の力」に求めるようになったのではないか。
(私論.私見)
 ここの件はこれで良いのだろう。
 「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を実現するためには、かつてのマルクス主義のような「暴力革命か絶対平和か」という単純な二分法に依拠することなく、人間は「暴力の大好きな生き物」(みきの言葉では「あざない」(=思慮の浅い)者)であることを直視して、「暴力の制御可能性」を生活のさまざまな側面とリンクさせながら高めていく「暴力のアート(術)」(酒井・萱野、同上)が必要である。みきの場合、そうした暴力のアートのひとつが、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」に5編も似たような話が記録されている、男性たちとの「力比べ」だったのだと思う。

 少なくとも老境に達してからの明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。「稿本・天理教祖伝逸話篇」に、同じような話が複数記録されているのはこの「力比べ」の逸話だけであることから考えて、老境に達した明治期には、みきは自分のもとを訪れる男性に頻繁に「力比べ」を持ちかけていたのだろう。天理教の原典(教典)である「おふでさき」の、みきが77才となった明治7年に書かれた部分である第3号第84首でもこう説かれている(<資料1>参照)。教団外部の自然科学者なら、男性たちはみきのカリスマ性を前にして暗示にかかったのだ、と説明するだろう。

 天理教教団は、他のいかにも宗教家らしい逸話とはやや異質なこうした「力比べ」の逸話に、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」と特別にコメントを加えている(「稿本・天理教教祖伝逸話篇」)。しかし、自分が生き神であることを示す方法なら他にいくらでもあったはずで、事実、「病気治し」を代表として、そうした逸話は数多く残されている。天理教教団のコメントは、説明になっていない。

(私論.私見)
 ここの件はこれで良いのだろう。
 みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか。
(私論.私見)
 この件の推理は、「宗教と真の非暴力」として理解しようとするのと同じ構図の「捻じ曲げのすり替え」だろう。みきは、強まりつつある明治政府の天理教弾圧に対して、信者が容易に腰砕けするのに対し、弾圧に屈しない教理と信者を求めていた、と受け取るのが素直だろう。みき教理に基づく信仰は神の道であり、明治政府の弾圧は人の道のものであるから心配するに及ばないということを「神の側には倍の力がある」例証として「力比べ」をして見せたのであり、動揺する信者を鼓舞するのに効果があったと受け止めるべきだろう。
 天保の飢饉の時代から、全国の百姓一揆は「世直し大明神」を掲げることが増えた。大塩平八郎も、世直し大明神のひとりとして位置づけられた(酒井一、同上)。それに続く「世直し」という時代の風潮や、明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、「生き神」の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する「対抗暴力」の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する「血気盛んな」男性も少なくなかったのではないか。
(私論.私見)
 そうこの件の理解で良い。
 そうした男性たちに、「力比べ」を持ちかけて簡単に負かして「神の方には倍の力」と説くことによって、みきは、「暴力に訴えることの空しさ」を暗にさとし、「力任せ」の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。
(私論.私見)
 この件も、みき教理の「悪しき捻じ曲げのすり替え」である。みきが、「暴力に訴えることの空しさを暗にさとした」言行は見当たらない。もとよりみきの暴力論はマルクス主義的な革命論に基づく暴力にまで迫ってはいない。この時点で認められるのは、弾圧にひるむな、毅然として抵抗せよの域の論である。この程度のことはみきが諭していたことを確認すべきで、「みきが暴力に訴えることの空しさを暗にさとしていた」と受け取るのは逆行だろう。

【平野楢蔵的暴力論と天理教教祖】
 教祖みきが平野楢蔵的暴力論をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 例えば、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年)は、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた「やくざ」の大親分であった。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年(大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。

 やくざ時代の平野楢蔵の悪行についても、「こんな(熊田註;喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない」(同上、p9)と正直に書かれている。「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」やくざ稼業からきれいに足を洗い信心に打ち込むようになってからも、平野楢蔵は暴力と全く無縁になった訳ではなかった。教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、みきに「このものゝ度胸を見せたのやで」、「明日からは屋敷の常詰とする」(同上、p59)と、教祖の護衛に任命されている。こうした対抗暴力については、次のように説明されている。

 これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る「道思ふ」てふ精神、「我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり」てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか(同上、p80)。

 初期の天理教教団には、「人々は今更ながらに天理王命に敵うた不心得者の悲惨な末路に『いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ かみのほうには ばいのちからや』(熊田註;教祖が書き残した原典「おふでさき」の一節)と口ずさんだ」(同上、p74-p75)という雰囲気があったようである。

 また、諸井政一(1876年―1903年)が、教祖についての伝承を明治時代に記録した「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。

 教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅう(熊田註;難渋)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)

 現在の天理教教団は、「正文遺韻抄」は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。

 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。

(私論.私見)
 そうこの件の記述の理解で良い。著者はこの件の記述を紹介したくて、それまでの記述を意図的に穏和にカムフラージュしていたのかも知れんなと思う。
 みきの「力比べ」を見聞した男性たちは、親神の前では人間の暴力など無に等しいことを知り、それからはもはや、江戸幕府や明治国家に対する対抗暴力はもちろん、妻に対するドメスティック・バイオレンスを含めて、力任せに暴力に訴えることができにくくなったであろう。みきは、「力比べ」によって社会の底辺に生きる「荒くれ男」たちの手綱を見事にさばいて見せたのだと思う。「真の非暴力」の教えを我が身でもって具体的にわかりやすく説いたのが、みきの「力比べ」だったのではないか。みきは、近代日本において、日本的な「無抵抗・不服従」運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う(池田2007)。
(私論.私見)
 ここの件の記述は駄文である。引用先の「みきは、近代日本において、日本的な『無抵抗・不服従』運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う(池田2007)」と評するのは愚昧である。
 教祖伝逸話篇188「屋敷の常詰」は次の通りである。これを確認する。
 明治19年8月25日(陰暦7月26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ」と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢がなだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる」と、口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼らは台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駈け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、6人の暴徒を、旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。
(私論.私見)
 この逸話は、教祖みきが、官憲暴力に対して敢然と防戦し、暴徒に懇々と説諭した平野に対して、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」と最大級に称賛していることをそのまま評するべきだろう。教祖みきは、官憲暴力に対して毅然と立ち向かう平野のような人物を欲していたと窺うべきだろう。
 みきは力だめしをした多くの人々の中で、梅谷四郎兵衛に自分の「空白の3年間」について、次のような詳しい話をしている(3)。「正文遺韻抄」はあくまで教祖についての「伝承」を記録した本であるが、この部分は、伝聞先が明記されているので、史料としての信憑性が高い。

 この道の最初、かかりにはな、神様の仰せにさからへば、身上に大層の苦痛をうけ、神様の仰有る通りにしようと思へば、夫をはじめ、人々に責められて苦しみ、どうもしやうがないのでな、いっそ、死ぬ方がましやと思ふた日もあったで。夜、夜中にそっと寝床をはひ出して井戸へはまらうとした事は、三度まであったがな、井戸側へすくっと立ちて、今や飛び込もうとすれば、足もきかず、手もきかず、身体はしゃくばった様になって、一寸も動く事ができぬ。すると、何処からとも知れず、声がきこえる。何といふかと思へばな、「たんきをだすやないほどにゝ、年のよるのを、まちかねるゝ、かへれゝ」と仰有る。(諸井1970、p139)

 「正文遺韻抄」では「年のよるのを、まちかねる」を「一つには、四十台や、五十だいの女では、夜や夜中に男を引きよせて、話をきかすことはできんが、もう八十すぎた年よりなら、誰も疑う者もあるまい。また、どういう話もきかせられる。仕込まれる。そこで神さんはな、年のよるのを、えらう、お待ちかねで御座ったのやで」、「八十すぎた年よりで、それも女の身そらであれば、どこに力のある筈がないと、だれも思ふやろう。ここで力をあらはしたら、神の力としか思はれやうまい。よって、力だめしをして見せよと仰有る」(同上、p140-p141)と説明している。

(私論.私見)
 みきの貴重なひながた紹介の記述である。
 みきの「力比べ」が「暴力のアート」のひとつ、「荒くれ男たちの手綱さばき」であったという私の解釈を裏付ける有力な証拠である。
(私論.私見
 「みきの力比べが荒くれ男たちの手綱さばきであった」との解釈はいわば勝手だが、私は、「みきの説く信仰の神の道への精進に向けてのエールであった」と拝する。

【ドメスティック・バイオレンスと天理教教祖】
 教祖みきがドメスティック・バイオレンス的暴力をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 5.天理教教祖とドメスティック・バイオレンス
 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(=「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。

 「稿本・天理教教祖伝逸話篇」には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている(<資料3参照>)。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。しかし、中山みきが存命の頃の天理教信者同士の夫婦の場合、夫が妻に対して身体的暴力を振るうことは、そもそもありえない話だったのではないだろうか。

 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で「稿本・天理教教祖伝逸話篇」の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。

 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう(4)。逸話三二は、世間の男性の基準(「男の中の男」のイメージ、専門用語を用いれば覇権的男性性、近代の日本人男性の場合は「集団主義」と「意地の系譜」を特徴とする(熊田2005))から、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。


【宗教と「暴力の問題系」 と天理教教祖】
 教祖みきが宗教と「暴力の問題系」 をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 6.おわりに―宗教と「暴力の問題系」
 「はじめに」で述べたように、現在、宗教と暴力の関係を根本的に再考することが、地球規模で要求されている。この論文では、「暴力か平和か」という単純な二分法を離れて、人間は暴力が大好きな生き物であることを直視し、生活のさまざまな側面とリンクさせながら暴力の制御可能性を増大させていく「暴力のアート」が重要であり、天理教教祖の場合は、神(親神)に対する信仰に基づいた「力比べ」がそうした暴力のアート(手綱さばき)のひとつだったのではないか、と主張した。

 「稿本・天理教教祖傳」が大塩平八郎の乱についてひと言も触れず、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」がみきの「力比べ」について説明になっていないコメントをつけている理由は、もちろん教団が教祖の独自性を強調したかったからであろう。しかし、それだけではなく、やや挑発的な発言を付け加えるならば、これらの教典が編集されたころには、天理教の教学者たちが、みきが「引きこもり」の3年間に、当事者性をもって真剣に考え抜いたほどには「宗教と真の非暴力」の関係について深く考えておらず、天理教は常に「平和」的な(私に言わせれば「疑似非暴力」的な)教団だったと、外部社会にアピールしたかったことにもよるのではないだろうか(5)。

 <註>
(2)島薗は、「みきは生涯強い父の面影を追っていた」と解釈しているが、この説は実証的根拠に欠ける(島薗1977)。
(私論.私見)
 みきが生家の父と強い信頼の絆で結ばれていたのは事実であるが、「みきは生涯強い父の面影を追っていた」と評するよりも、「みきが父が垣間見ていた世の中や歴史、宗教の世界をさらに突き進め、かの教理の水準まで高めた」と評する方が自然だろう。
(4)池田士郎は、教祖・中山みきだけではなく、教祖の夫・善兵衛や長男・秀司を含めて、教祖の一家全員を「ひながた」(信仰の模範)とみなす解釈を提出している(池田、同上)。
(私論.私見)
 もし、そのような説を唱えているとするなら愚昧である。





(私論.私見)