例えば、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年)は、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた「やくざ」の大親分であった。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920年(大正9年)出版の、平野楢蔵の伝記を含んでいる「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団の初期の雰囲気が、迫力をもって描かれている。
やくざ時代の平野楢蔵の悪行についても、「こんな(熊田註;喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない」(同上、p9)と正直に書かれている。「重い神経病」(幻覚と幻聴)を経て、「ない命を助けられ」やくざ稼業からきれいに足を洗い信心に打ち込むようになってからも、平野楢蔵は暴力と全く無縁になった訳ではなかった。教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には、平野楢蔵は対抗暴力に訴え、みきに「このものゝ度胸を見せたのやで」、「明日からは屋敷の常詰とする」(同上、p59)と、教祖の護衛に任命されている。こうした対抗暴力については、次のように説明されている。
これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る「道思ふ」てふ精神、「我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり」てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか(同上、p80)。
初期の天理教教団には、「人々は今更ながらに天理王命に敵うた不心得者の悲惨な末路に『いかほどの がうてき(熊田註;「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ かみのほうには ばいのちからや』(熊田註;教祖が書き残した原典「おふでさき」の一節)と口ずさんだ」(同上、p74-p75)という雰囲気があったようである。
また、諸井政一(1876年―1903年)が、教祖についての伝承を明治時代に記録した「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。
教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるものゝやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅう(熊田註;難渋)が助かるやろ。そやつて、身上(熊田註;健康状態のこと)もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)
現在の天理教教団は、「正文遺韻抄」は教祖についての「伝承」を収集した本で、史料的な価値は低い、と反論するだろう。私も、みきがこのような発言をしたとは思わない。しかし、知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、「ほんまに、それに違いございません」(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。
「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。
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