第21部 | 「立教」考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「立教考」をしておく 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【みきの宗教的精神史足跡行程(十)みき立教す】 | |||||
かくて立教の運びとなったわけであるが、この立教に表れた様々の特徴を考察しておくことは、意味のないことではない。先の三日三夜の談じ合いを経て、夫善兵衛が、「神によるみき貰い受け」を承知した瞬間より、「みき」は、それまでの農家の主婦、中山家の嫁妻という立場を解き放たれて、「神一条の生活」に入ることとなった。「みき」を「神の社」として入りこんだ神とは、時に応じて「親神」、「月日」、「をや」と云い為され、この世をお造り下された「元の神」、「実の神」、であるとされた。みきはこれより以降、
と云われる身になった。「みき」は、従前の身体を纏うとも、月日親神入り込んで、「みき」を「社」に貰い受け、その思いは、「『一に百姓助けたい』の気持ちから、世界をろっくの地に踏み均し、世界助けの転輪王の心になって、難渋を助け、陽気づくめの世に世直しする」という「三千世界一列の救済」に向けられることとなった。「よろづよの 世界一列 見はらせど 胸の判りた 者はないから」(お筆先1号1)、「その筈や 説いて聞かした 事はない 何も知らんが 無理でないそや」(お筆先1号2)、「このたびは 神が表い 現われて 何か委細を 説いて聞かする」(お筆先1号3)と、「みき」のこの度の教えが、真実の世界助けの「だめの(最終の)教え」であることも宣言された。かくて、今日における天理教(以下、「お道」とも記す)が始められることとなった。
「みき」は、以降「親神の教え」を説いていくことになる。但し、単にその教えを説いたのではない、自らが「一人で万人に向かう決意」で身をもって「万人助かる道」を歩み、人の生きる手本「ひながた(雛型)」を示していくこととなった。貧富や身分差別のない四民平等の世の中、家族制度に於ける女権の確立、世直し、世の立替に挑戦していくこととなった。その壮絶なまでの「五十年にも及ぶひながた」が天理教の貴重希少財産となっている。 |
【「転輪王信仰=世直し、世の立替」考】 |
「みき」の思想は、「転輪王信仰の道を通る」にあり、ひながたはその実践であった。弟子達はそのひながたを手本として「お道」を通るという構造.関係にあった。「みき」は、転輪王信仰を通して、一人も余さず助けるという思想と助け合い社会の実現を志向し、その理論的根拠と体系を創説せんとした。 |
【同時代の他宗教との違い】 |
天理教には、富士講のように「天下・将軍・主・親の恩」を唱え、封建体制のヒエラルヒーを承認する教義はなかった。黒住教のように徳川体制に抵触する活動を差し控え、内面の転換のみをもって救済とする思想もなかった。また、如来教のように、現世での救済を放棄して、来世における救済を願う思想も持たなかった。天理教には、明確な現世的な世界救済の物語、つまり世の立て替え思想が含まれていた。その思想は、現代においても通用する驚くべき内容を含んでいた。いよいよ、幕末維新期最大の宗教セクト天理教がその姿を現わして来たのである。(小滝透「神々の目覚め」参照) |
【みきの前に屹立していた課題とは】 |
1、徹底した弥勒阿弥陀的自他愛の確立と衆生救済。 他のいかなる男性教組と比べても封建制と烈しく対立した。政治的に対峙したのではなく、家庭内に食い込んでいた様々な封建的慣習、因習、男尊女卑の男女関係、家中心の血縁関係等々と対峙した。天理教は、この一点をもって、新宗教の中においても、最も際立った思想的先鋭さを持つに至った。 |
「新儀異流の禁令」。既成宗派からの攻撃。
【みきの神がかりの背景と真相】 |
ここで「みきの神がかりの背景と真相」について確認しておく。みきの履歴については、「天理教教祖中山みきの研究」の「教祖中山みき略伝」に於いて年次式に詳細に論じているので、興味のある方は丹念に読めば良いと思う。 「天理教教祖中山みきの研究」 (nakayamamiyuki/) 本稿で特に論ずるのは、何故にみきに神がかりがあり、どういう経緯で立教に至ったのかの真相、背景事情の解析である。天理教本部の稿本教祖伝、天理教典では窺い知れぬ奥行きがあると思われるので、これについて確認してみたい。 みきの幼少よりの滋悲深い御性情については「教祖中山みき略伝」の随所で確認できる。問題は、天保9年のこの時期に何故に神がかりしたかである。本部教理では天地創造譚の「元の理」に於ける親神の思惑により、丁度この時が親神登場の約束の年限であるとする予定調和的な信仰観で説いている。筆者はこの説は採らない。むしろ、先行して勃興した一尊如来きのの如来教、井上正鉦(まさかね)の吐菩加美(とほかみ)神道、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎の金光教その他のいわゆる幕末創始宗教(後の教派神道)との絡みで捉えたい。 1798(寛政10)年、みきが誕生しているが、既にこの頃は江戸幕藩体制の根幹が揺らぎ始めていた。全国各地で百姓一揆が群発していた。1837(天保8)年、みき41歳の時、大塩平八郎の乱が発生し、幕藩体制秩序崩壊の狼煙となった。いわゆる時の体制が全般的危機状況に入ったと窺えば良い。こうした世相を反映して、民衆レベルにおいて逸早く精神流動が起り始めていた。いつの時代でも、この精神流動こそが重視されねばならない。 人々はただ霊験あらたかだと噂のある七福神、八幡様、稲荷様、地蔵様、天狗、幽霊まで拝んで巡礼、千社詣りをし始めていた。これは習俗信仰と云われる。これとは別に「お陰参り」として知られるお伊勢参りも盛んになっていた。並行して日本全国各地の霊地霊山参りが流行していた。霊峰富士、善光寺、成田不動尊、大峰山、高野山、金毘羅大権現、出雲大社など有名寺社仏閣詣り、西国三十三カ所の観音巡礼、四国八十八カ所の大師霊場巡礼等々も然りで、その為の講が組織される程であった。今時の流れで云えば「霊能スポット廻り」が流行していたと思えば良かろう。 みきは、この時代の流れに感応する。特に山伏修験道の隆盛との絡みが注目される。幕末期の混乱した世相の中、山伏修験者による加持祈祷が活況であった。その理由は、既成宗教寺院勢力が檀家制度による徳川幕府の支配の道具に利用せられて生命力を失っていたのに比べて、彼らは庇護を受けない分却って勢力を増しており、その法力で民衆の願いに応えた現世ご利益的な無病息災、治療、授福、開運を祈祷し霊験あらたかであった。従来の神仏信仰にものたりない人々の思いを背景として、新たな救済を志向する者たちの鬱憤が山伏修験道の好評価に向かったものと思われる。 その山伏修験道は、古来よりの日本の民の信仰様式であるいわば出雲神道、縄文神道に根差している。出雲神道、縄文神道では山峰自体がご神体であり、山そのものを神聖な場所として崇めていた。山は神々が鎮座する場所であり、同時に死者が祀られている場所でもあった。生と死が過去から連綿と引き継がれており霊気(宇宙的エネルギー)が交錯する場所である。修験者は、そうした山奥に分け入って修行を積み重ねることにより、山々の霊気を体一杯に浴び、これにより生の根源的な息吹を得た。里人の前に帰ってくるや霊能者として崇められた。修験者は病気治癒に霊験が期待され、体内に充満する霊気を吐き出して病直しをした。勤行、和讃、念仏、真言、座禅、護摩、回峰行等等、皆なこのセンテンスで捉えることができる。山伏修験道は、古来からの山岳信仰、特に富士山と木曽御嶽山、大峰山詣り信仰を復興しつつあった。山伏修験道の霊験を求めて、民百姓が白衣を着て、金剛杖をついて、鈴を鳴らして、六根清浄と唱えながら登山するという修験に加わり始めていた。 ここで、富士講に触れておく。霊峰富士の信仰は古来より続いているたが、この時期それまでの素朴な山岳信仰とはいささか趣の異なる富士講が誕生していた。開祖は長谷川角行(1541−1646)で、奥州での山岳修行者の一人であったが、「汝は天下兵乱を治め、万民を助け、衆生を済度するため、この世に出生した」、「それは汝の父母の熱烈な願いでもあったのだ」、「志は誠に見事。だが、その志を果たすには天地開闢・世界の御柱たる駿河の富士に赴いて、その人穴にて大行を果たさねばならない。さすれば、角行よ。汝に神力あること疑いなし」との霊示に従い、富士篭りの身となる。 角行は、難行の満願の日に神(仙元大菩薩)が現れ、啓示を告げる。この教えを文字と図形に著したのが「御身抜」(おみぬき)で、護符「おふせぎ」と共で富士講の誕生となる。その教義は、「欲心の捨象、人の救済、妬みの否定、悪口の抑制、疑心の放棄」の五道の実践により、絶対原理に身を委ね、「現世の利益」と「来世へのより良い生まれ変わり」を願うことにあった。この系譜から後に扶桑教や丸山講などが生まれ出ることになる。富士講が注目される所以は、修験の中に明確な民衆救済を持ち込んだ近世初の宗教ではなかったかというところにある。この富士講が代々受け継がれ、みきの時代にますます隆盛しつつあった。 中山みきは、履歴で確認できるように預かり子の病気快癒の為に近隣各地の寺社に詣でている。これが定向深化して、始発の浄土宗より転じてどうやら真言宗へ向かった形跡が認められる。みきをして何故に真言宗へ向かわしめたのか。それは、真言宗教義に秘められた霊能の錬磨に対する畏敬であったと思われる。仏教各派の信仰にあって、真言宗こそ「即身成仏」を基調として現世救済を志向する色の濃い宗派である。開祖空海が、日本で最初の庶民の学校であった種芸種智院を開設したり、潅漑用の満濃池を修築したり等の事蹟で明らかなように、もともと民衆福祉を目的とした社会活動に積極的な姿勢を持つ教えであり、その原理は、現実を離れて理想を求めず、現実の社会に生きる一切衆生に対して限りない慈悲心を持ち、その物心両面にわたる救済を行として内在化せしめた密教思想を特徴としていた。この当時のみきの心境は、「世の立替え、世直し」に役立つ真実の教義を求めて彷徨しており、それ故に各地所の寺社廻りに向かい、その末に辿りついたのが真言蜜教系の教義へと辿り着くことになったと拝察させて頂く。 みきが三十代半ばの頃より修験祈祷の世界に足を踏みいれた形跡を伺うことができる。この過程で山伏修験者にして祈祷師の市兵衛との頻繁な折衝が為されることとなったようである。市兵衛とは大峯山を行場とする山伏修験者であり、西の日光と云われる大峯山を行場とする修験者の一人であり、権僧都阿闍梨理性院聖誉明賢法師という、いかめしい法号を持つ当時46才の壮年で、大峯山十二先達の一人として名声高く、殊に加持祈祷の法力においては大和、伊賀十里四方にこの人と肩を並べるもののないという評判の人であった。 その市兵衛が修行した大峯山とは、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)の山上ヶ岳(1719m)を中心とした山々の集まりで、吉野山、金峰山を抱え奈良県吉野町南部一帯の連峰の聖地として信仰の聖域であった。中でも金峰山は「金の御嶽」と呼ばれ、弥勒信仰の広がりとともにその浄土の地ともされていた。金峰神社がその象徴であった。山上ヶ岳山頂には大峯山寺があり、「鐘掛岩」(かねかけいわ)、「西の覗(のぞ)き」などの行場が点在する。「大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)」と呼ばれる霊場があり、「吉野・大峰」と「熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)」を南北に結ぶ修行道となっている。標高千数百メートルの険しく起伏に富んだ山岳地帯の道で、随所に行場がある。7世紀末に役行者(えんのぎょうじゃ)によって拓かれたと伝えられているが、古来の山岳信仰と仏教が結びついた日本独自の修験道の根本道場の地位にある。未だに日本最後の女人禁制の霊場でもある。 修験者は、「兜巾をかぶり、篠懸及び結袈裟を着け、笈を負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らし、山野をめぐり歩いて修業する者」(広辞苑、岩波書店)を云う。当時の民衆は、病気を金神(陰陽道で祭祀される方位の神のことで、嫁、養子とりの縁談、旅立ちなどの伺に、少なからぬ影響を持っていた当時の民間信仰の神であった)、荒神、生霊、死霊などの祟りか障りと考え、こうして山伏の仕事は、病気が何のしわざかを明らかにして、これに有効な祈祷を通してその退散を願った。特に幕末のこの頃は、社会不安を背景に隆盛を見ており社会的にも信頼され重宝がられていた。その修験道は1872(明治5)年、政府により廃止された為、苦難の道を余儀なくされることになる。修験道がなぜ禁圧されねばならなかったのか一考を要するが、ここでは省くことにする。 もとへ。稿本天理教教祖伝においては、突如として長男秀司の足痛の治癒祈祷師として長滝村の修験者市兵衛なる人が登場するが、史実は、みきがこの市兵衛と極めて昵懇となり、同方に49日の御こもりをするなど相当頻繁に通いつめた様子が明らかにされている(「復元三十号、17頁)。但し、みきが修験祈祷に接近した背景は少し異相であった、と拝察させて頂く。これを世間並みの利益信心として縋ろうとしたのではなく、修験祈祷のいわば思想的核を為す「転倫王」信仰に興味を覚えていたのではなかったか、と拝察させて頂く。 「転倫王」信仰とは、「三千世界の人々一人をも余さずに助けたいという一筋心」の転倫王教義のことを云う。みきが真言密教の奥義に傾倒していった背景には、この「転輪王」信仰が彼女の意を捉えていたのではなかったか、「転輪王」の「三千世界の人々一人をも余さずに助けたいという一筋心を持った、有難い仏王」としての御姿がみきの心を捉えて離さなかった。「転輪王」の働きの理こそ「衆生救済、世の立替、世直し」を渇望するみきの胸中に最も相応しかった。これこそみきの探し求めていたものであった。こうして、みきの心に占める「転輪王」の姿は次第に力強いものへと成長を遂げていくこととなったのではないかと拝察させて頂く。 この時代の二ューマがみきの霊性を覚醒させ、数年間の自問自答の末に神がかりしたものと拝したい。稿本天理教教祖伝では、みき御年41才の時の1838(天保9)年10月23日よりの神がかり、以降三日三夜の劇的な談じ合いが劇的に記されている。これについては「教祖中山みき略伝」の以下のサイトで三部構成で確認している。 「秀司の足痛と加持祈祷」 「みき神がかり、天啓問答」 「みき、「神の社」に貰われる」 留意すべきは、この事件の要点はドラマ性にあるのではない。この談じ合いを通じて、みきが神一条の信仰生活に転換したと云うことにある。これにより、みきはそれまでの家事全般の労働から解放され、信仰一途の生活即ち神一条の道へ没入することができた。三日三夜の談じ合いの真価はここにある。かく踏まえねばならない。従って、みきが神がかりによって手に入れたのは、神一条に入魂し得るようになった生活であり、神がかりによってみきがいきなり開教したのではないことを知るべきである。みきは、以来、教義を模索し始め、蔵籠り三年を費やしている。他にもあちこちの神仏に詣で教理を会得したものと思われる。この辺りは稿本天理教教祖伝には出てこない裏史実である。こういう面を確認しなければならない。 みきの神がかり、神一条生活の背景事情はかくの通りであるが、もう一つの側面、即ちみきが何故に先行する諸幕末創始宗教とは別に自ら新宗教を開教せねばならなかったかにつき解析してみたい。先行していたのは一尊如来きの如来教、井上正鉦(まさかね)の吐菩加美(とほかみ)神道、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎の金光教であるが、みきがその信徒にならず新宗教の道を訪ねることになった背景は何だったのだろうか、かく問いたい。 思うに、みきは、一尊如来きの如来教、井上正鉦(まさかね)の吐菩加美(とほかみ)神道、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎の金光教の動きを知らなかった訳ではなく、否知ってなお不足を覚え、それらと違うみきの思うような意味での真宗教打ち出しの必要を感じていたのではなかろうか。これが天理教創出の直接的な背景事情であると思われる。みきの真宗教打ち出しの真意については、「邪馬台国女王卑弥呼との接点考」の章で解析したい。 2012.3.14日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)