第20部 「天啓」考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天啓考」を確認しておく。かくて、「みき」は「神のやしろ」として貰い受けになられたわけであるが、「神のやしろ」(立教)に表れた様々の特徴を考察しておくことは、意味のないことではない。ここまでの「みき」の歩みを時代考証的に見てきたが、ほぼ内在的な欲求として「神懸り」に至る道程が明らかにし得たであろうか。

 2007.11.28日 れんだいこ拝


【本部教理の「三つの因縁論」】
 天理教本部教理では、このたびの天啓には三つの因縁があったと説く。「一つは旬刻限(しゅんこくげん)の理、二つは屋敷の因縁、三つは魂の因縁」。これらの因縁は「元の理」(泥海古記)に源を発している。「旬刻限の理」とは、人間創造の際に、親神が9億9万9千9百9十9人の子数を宿し込まれ、その子数と同じ年限の9億9万9千9百9十9年の月日が経った時、親神の胸の内が明かされることになっており、丁度みきが神がかりした日の天保9年10.26日がその日に当るとする教説である。「屋敷の因縁」とは、親神が人間宿し込みされた場所が、現在の天理教本部神殿のある敷地内のかんろ台の据えられている場所、これを教理では「ぢば」と云うが、この「ぢば」が人間宿し込みされた場所の地点であるとする教説である。当時の中山家がその場所にあったところから、これを「屋敷の因縁」と云う。「魂の因縁」とは、「みき」はそもそも人間宿しこみの母役の因縁を持ってこの世に再現したお方であり、神の思惑の予定通りに神掛かりしたとする教説である。これにより、そういう「魂の因縁」をお持ちの方であられたから、「みき」の生き様の道すがらが親神の思し召しに叶うことになる。かく解釈をするのが本部教理である。

【天啓考】
 「みき」が「神の社(やしろ)」となられる経過に立ち表れた啓示に対して、これを、「自我忘失的神秘神懸かり」的要素を強めて受け取るのと、「理説き、聞き分け的問答神懸かり」的要素を強めて受け取るのと二つの理解の仕方がある。れんだいこは後者の面を考究しようと思う。前者の理解に立った場合であれ、それが他の宗教の「神懸かり啓示」と如何に様子が違うものであるのかを明らかにさせようと思う。道人は、後の天理教団も含めてこの点の識別が弱いように思われる。

 宗教一般に云えることであるが、「神懸かり現象」に立ち表れる「神秘的な体験」や「霊的世界との接触にまつわる出来事」をいかに捉えるかは根幹的な問題で、各宗派によりそれぞれの特質をもって語られている。本来は内在的理解が望まれるのに比してむしろ逆に曖昧方向で脚色されている嫌いがある。「みき」の場合も然りで、本部教理によれば、「元始まりの理」により年限が至り、教理的には順当に神懸りが為されたとしている。この系譜で稿本天理教教祖伝が作成されており、諸氏の研究もほとんどがこの叙述方法を踏襲している。

 しかし、れんだいこの観点も然りだが、八島教理、島園進氏の研究等々も天理教の発生を非突発的に捉え返そうとしているように見える。この識別が何故重要かというと、端緒における神懸かりの受け取りようの秘密が、教祖のその後の歩みの理解にも関係してくるからである。ここで、「神秘をより強く認識する方向」で理解を強めれば、教祖のその後の歩みもお言葉も全て同様の理解で受け取るのが相応しくなる。逆に、「理性的な問答をより強く認識する方向」で理解を強めれば、教祖のその後の歩みもお言葉も全て同様の理解で受け取るのが相応しくなる。つまり、二股のレールが敷かれているのに等しく、どちらのレールに乗るのかという問題として設定されている。

 このことにつき、「内在的理解の方法的地平とは何か─島薗進の中山みき研究再考─」には次のように記述されている。
 「みきの信仰は突然の悟りや超自然力の介入によってもたらされたのではなく、徹底した孤独な問いかけ(神懸かり以後、十数年に渡って教えが説かれていないばかりか、数度彼女は自殺を試み、また内ぐらに籠もるという特異な行動を採っている: 筆者註)と生活のゆっくりした歩み(最初の救け─おびや許し─を行うのは神懸かり後15年以上を経てからであり、また、その10年後になって信徒集団らしきものが形成されている: 筆者註)によって徐々に形成されたものであり、そのことが疑いや絶望に絶えうる(天理教という思想の:筆者註)強靱さと奥深さをつくりあげた」。

 この指摘は貴重ではなかろうか。本部教理の「中山みき突然神掛かり説」(「突発説」)に対する島薗氏の「中山みき徐々教祖化説」(「過程説」)は正しい。但し、熊田一雄(宗教文化学科准教授)氏の「熊おやじの日記」の2008.9.1日付けブログ「天理教教祖と<暴力>の問題系」によれば、島薗氏の「過程説」は、「みきが、神がいるならばなぜ長男・秀司の身体障害を救けないのか?、という神義論的問いに回答を出すまでの内的葛藤の期間であった」としているらしい。これはナンセンスな推論だろう。「熊おやじの日記」は次のように推理している。
 「みきの『引きこもり』の3年間は、1837年の大塩平八郎の乱の影響を受けて、みきが、『宗教と真の非暴力』とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないかと思う。『引きこもり』の3年間において、みきは、日本的な宗教文化の伝統に基づいて、『宗教と真の非暴力』について集中的に考え抜いたのだと思う。そして、教えを説き始めてからも、同じ問題を考え続けたのだと思う」。

 これについては、「当らずとも遠からず」の評が相応しいように思う。「日本的な宗教文化の伝統に基づいて、『宗教と真の非暴力』について集中的に考え抜いた」とする論もまだるっこい(ぬるい)。れんだいこ推論は、ズバリ教義形成期間であったと解している。この時期、みきは、実家の父の蔵書、大和神社や大神神社の秘蔵書を手にし、寸暇を惜しむかのように食い入るかの如くに読み通しつつあったと推理したい。この「実家の父の蔵書、大和神社や大神神社の秘蔵書」の咀嚼から紡(つむ)ぎ出されたのが「中山みき教理」であり、系譜的には日本神道の古神道、即ち出雲神道即ち縄文神道と云われるものに列なるもののように思われる。であるとするなら、天理教本部教理は恐らく意図的故意にこの方面との絡みを不通にしている点で早晩改編されねばならないように思われる。

 2015.11.14日 れんだいこ拝

【「理」概念考】
 「神」、「理」につき、これを語源的に確認しておく。但し歴史的経緯による意味が付与されているので留意を要する。

 「理」という字は、象牙に入っている筋のことを云う。象牙で珠をつくると表面に象牙の筋が模様を為す。その模様を表わしたのが「理」という文字である。ここから、「理」には筋、筋道という意味が出てくる。又目に見えて分かるということから、理解という意味もある。「理」というのは筋道、真理を指す。自分が理解できる、自分が理解したものを筋道たてて伝えれば相手を理解させることができる。それを「説得」と云う。

 漢和辞典には次のように記されている。1・おさめる。治、修。イ.みがく、ロ.ただす、ハ.さばく、ニ.はからう、ホ.つくろう、ヘ.区別する、ト.かざる。2・おさまる。3・きめ。イ.玉の筋、ロ.木の木目、ハ.肌のきめ。4・すじ。5・みち。6・ことわり。7・わけ。8・宇宙の本体。9・天性。

【「神」概念考】
 永松和郎*「『 神』を語る方法─ タイにおける天理教の教義翻訳の事例を中心に」その他参照。
 「神」という字は、「シメスヘン」に「申す」と書くが、「申す」は稲妻を表わしている。「シン」という音には「震える」という意味もある。稲光の持つ得体の知れない恐さが「神」という字の起こりということになる。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神と日本の神々を同じ「神」の語で表現するところに問題が宿されている。一神教と多神教という違いだけではなく、そもそも神と人間との関係の仕方が異なる。即ち「神概念」そのものが異なる。「神」を論ずるに当ってはこの違いを踏まえておかねばならない。

 日本の古来よりの「神」概念は、「かみ(神)」、「おに(鬼)」、「たま(霊)」、「もの(物)」とした。古代日本社会において信仰された霊的存在は「チ」、「タマ」、「カミ」などと表現され、いずれも超自然的な力を示すものとしての霊魂、神霊である。日本語の「神」を語源から論じようとする試みもある。日本語における「神」の語源に関して諸説あるが、木、石、山、川など自然物をご神体とする自然神、日本神話に出てくる人物を祭神とする神話神、英雄を祭神とする英雄神、抽象的な力や観念を神とする観念神に分類できる。日本ではアニミズム、神話、天皇神などに発展した霊的存在が複数存在し、それぞれを個別の呼称で神観念を表してきた。しかし、それらの諸観念は、歴史的変遷の過程で徐々に「神」という語彙に集約されていつた。

 キリスト教が日本で伝道活動を開始した当初はキリスト教の「神」は「大日」、「でうす」、「天主」などと訳され、日本的な「神」概念とは一線を画していた。しかし、明治期以降の近代化の中で、聖書をはじめ“God”の訳語には「神」が採用されるようになり、それが定着した。このことが、それ以降の日本の新宗教の神観念にも大きな影響を与えたと考えられる。キリスト教的「神」の要素を含んだ神観念が輸入されはじめたのが明治期からとなると天理教の神の呼称にも影響があったと考えられるが、天理教教祖・中山みきは、神の性質について、「紋型ないところから人間世界を造り、永遠にかわることなく万物に生命を授け、その時と所を与えられる、人類を創造した元の神・実の神にています」と述べ、「神」をあらわす呼称として「天理王命」(てんりおうのみこと)、「かみ(神)」、「月日」、「親神」、「をや(親)」と様々に使い分けている。教祖は信仰者の間では「親神様」(おやがみさま)と呼ばれている。しかしながら、この教祖・中山みきの神論が次第にキリスト教的「神観念」の下で教理化されていった節がある。今や、この辺りのことを客観化せねばならない。これが本来の意味での「復元」であろう。

【「啓示」、「悟り」考】
 「啓示」と「悟り」とはいかなる類似と相違があるのであろうか。「啓示」の「示」は、「シメスヘン」であり、この「シメスヘン」は精神的なものを表わす。つまり神を意味する漢字である。従って、「啓示」とは、「神によって啓かれた真理」と云う意味になる。西欧思想的にはギリシア語で「Aποκάλυψις」、英語で「revelation」と書き、「神または超越的な存在より、真理または通常では知りえない知識、認識が開示されること」を云う。天啓、神示ともいわれる。「啓示」によって真理が開示され、それによって信仰が成立する宗教を「啓示宗教」と呼ぶ。

 「悟り」とは、主として仏教用語で使われ、知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくこと、迷妄を去った真理を云う。「覚り」とも書く。「覚悟」、「開悟」、「菩提」と表記されることもある。これの取得を「解脱」と云う。

【降臨現象としての「神懸かりと天下りの違い」考】
 降臨現象としての「神懸り」と「天下り」について考察しておく。「神懸り」は、何かに憑かれた状態で伝えられることを云う。憑依の「憑」は、字義のつくりが「にすい」に「馬」と「心」。馬は馬上に乗った人の命令をよく聞く。こういう言葉で命令通りに動くのを「神懸り」と云う。この場合、馬に責任はなく、御者に責任があることになる。世界大百科事典は次のように解説している 。
 「神憑りとは、憑依現象の一種で、心霊が人間に憑くこと。シャーマニズムの基本形態で、一般に楽器や薬物などを用い、激しい身体的動作によって、忘我状態に入り、神託、霊告を行う」。

 新版精神医学事典には次のように記される。
 「神がかりは、憑依性精神病ないし憑依性症候群の一つに数えられ、数分から数時間、ときに数日間持続する一過性の人格変換を来たし、本人の帰属する民族及び民族文化の信仰する神に相当する言動を示し、いわゆるこの発作が終わると元の人格に戻るもので、神がかりは超自然的存在、心霊が特定の人間の身体に憑入してその人間に一人称で語らせ、神意を人々に告げ知らせるものである」。

 「天下り」とは、天然自然の理をしっかりと理解し自分の意志で、自分の責任で、自分の言い方で人に伝えるのを態度とする。仮に天上から地上に降り来たるというように、神の移動のことを云う。当事者には自主性があり責任があるということになる。つまり、「天下り」には自主性が備わり、「神懸り」は自分で理解できない言動を為すので当人の意志に関わらず伝達されて行くということになる。このたびの「神の社」は、その中間的形態と思料される。 「諸井政一「正文遺韻抄」」12-13頁正文遺韻抄は次のように記している。
 「( そこで神様のお話に、)この屋敷へ、木仏、金仏、石仏を据えたところで、神が入り込んで ものを言わする訳にいかんで。元なる親の魂に、人間五体の生を受けさして、神が天より その心を見澄ましていた、と伝えられる」。

 結果的に、みきは、祈祷による降神現象という神懸かりの「天啓」により、三日三夜の問答を経て、思惑の通りに「神一条」を達成した。このみきの「天啓」は、現世での救済を志向して止まない、みきの宗教的な精神の精進の足跡が、遂に時代の渦と邂逅したことによってもたらされたものであったものと拝察される。

 記紀では神懸りの話がたびたび出てくる。神功皇后が神憑りした時は楽器として琴が用いられた。天の宇受売の命は、天の岩屋の前で心霊が乗り移って忘我状態で舞踏(ダンス)をしたことが記されている。天武天皇紀に、高市の県主の許梅(こめ)が神憑りした記述があり、崇神天皇紀では、倭迹迹日百襲姫が神憑りした話が記されている。こうみると、高市の県主の許梅以外は皆女性であり、女性に神憑りすることが多いようである。 女性に神憑りする伝統は、その後も日本文化の底流として存在する。神憑りして天理教をはじめた中山みき、大本教をはじめた出口ナオ、「おどる宗教」の北村サヨなどはみな女性である。東北地方で、口寄(神憑りして霊魂を呼び寄せその意志を告げ伝えること)をする「いたこ」も巫女である。(「第271回講演会/卑弥呼の鬼道と原始神道」参照)


【シャーマニズム考】
 降臨現象としての「神懸り」と「天下り」についての考察は、併せてシャーマニズムのそれを必須とする。みき天啓時の「神がかり問答」に於けるシャーマニズム性を問う研究である。この時の「神と人との談判」が果たして忘我的であったのか、理知的であったのか、その際のシャーマニズム性の質を問う研究である。

 残念ながら、この種の研究は為されていない様である。天理教教理の「突発説(中山みきの神懸かりを天理教発生の決定的出発点と捉える立場・説明)」、「非突発説」如何を問う研究が島薗氏の「神がかりから救けまで」、「疑いと信仰の間」の二論文で為されているようであるが、みき天啓時の「神がかり問答」に於けるシャーマニズム性を問うものではないようである。してみれば、残された課題となっているのではなかろうか。
 以下、「ウィキペディア(Wikipedia)シャーマニズム」を参照する。

 シャーマニズムあるいはシャマニズム(英: Shamanism)とは、シャーマン(巫師・祈祷師)の能力により成立している宗教や宗教現象の総称であり、宗教学、民俗学、人類学(宗教人類学、文化人類学)等々で用いられている用語・概念である。巫術(ふじゅつ)などと表記されることもある。

 シャーマニズムとは、シャーマンを中心とする宗教形態で、精霊や冥界の存在が信じられている。シャーマニズムの考えでは、霊の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えているとされる。シャーマンとはトランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことである。 「シャーマン」という用語・概念は、ツングース語で呪術師の一種を指す「šaman, シャマン」に由来し、19世紀以降に民俗学者や旅行家、探検家たちによって、極北や北アジアの呪術あるいは宗教的職能者一般を呼ぶために用いられるようになり、その後に宗教学、民俗学、人類学などの学問領域でも類似現象を指すための用語(学術用語)として用いられるようになったものである。 シャーマニズムという用語で、上記の現象自体に加えて、その現象に基づく思想を呼ぶこともある(ミルチャ・エリアーデなど)。広義には地域を問わず同様の宗教、現象、思想を総合してシャーマニズムと呼ぶ。

 日本語における「シャーマニズム」、「シャマニズム」の区別(母音の長短)は、研究者の学問分野と密接な関係がある。北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏の研究者の多くは「シャマン」、「シャマニズム」という表記を用いてきた。ツングース語の発音は「シャマン」に近いとされる。一方、沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏の研究者の多くは「シャーマン」「シャーマニズム」の表記を用いてきた。また欧米の民族学・人類学・宗教学の研究を紹介する際の翻訳語としては、「シャーマニズム」「シャマニズム」が任意に用いられている。堀一郎の場合、「シャーマニズム」という表記にはこの対象を世界的視野で捉えようという意図が込められているという指摘がある。

 シャーマニズムの定義

 シャーマニズムの定義は学者によって様々である。 まず地域であるが、北アジアに限られるとする説と、世界中の他の地域で見られる諸現象を含める説がある。 また超自然的存在と交信する際、脱魂と憑依(憑霊)のどちらを基本と捉えるかについても意見が分かれている。エリアーデは脱魂(ecstasy)のほうを本質的だとするが、マッカロック(J. A. MacCullock)は憑依(possession)を重視し、I. M. ルイスは一方を強調することを批判する。例えばシベリアなど北東アジア研究者は脱魂を重視し、東南アジアや南米の研究者は憑霊を重視し、日本や朝鮮半島の研究者は憑霊ないし折衷説をとる傾向がある。多くの学者は地域・民族・文化などの相違によってそのいずれかが積極的な意味をもつものと考えている。パウルゾン(I. Paulson)は、脱魂と憑依を区別しつつ、脱魂ではシャマンはトランスの中でみずから行動するのでトランスが解けた後で体験内容を説明することができるのに対して、憑依ではシャマンに憑依した精霊や死霊が活躍するのでトランスから覚めても彼は何事が生じたのか説明できないとした。

 佐々木宏幹は、シャーマニズムには次のような3つの要素があるとする。1・トランスという特別の精神状態において脱魂(ecstasy)または憑依(憑霊)(possession)が行われる。2・神仏・精霊などの超自然的存在と直接接触・交流・交信。3・社会的に一定の役割を持つ信仰と行動の体系。

 トランスは、ある種の異常心理状態ではあるが、平常の社会人と半ば交流できる状態でもある。また演技的なものもあると考えられている。「脱魂」とは、ある人物の霊魂が身体を離脱することであり、「憑依(憑霊)」とは、神霊・精霊がある人物の身体に憑くことである。脱魂したシャーマンは、その間、超自然的存在と交流していて、その事情を報告する場合もあるが、憑依されたシャーマンは、その間のことを正気に返った時にまるで覚えていない場合が少なくない。また「憑霊(憑依)」はトランス状態になくても起こっていると考えられる場合がある。 (トランスパーソナル心理学変性意識状態も参照。) なお上記の定義からも分かるように、シャーマニズムという概念は、別の学術的概念「アニミズム」にも分類可能な要素を含んでいるので、一般に、実際の宗教はただシャーマニズムである、ということにはならない。

 シャーマンの種類

 ジェームズ・フレイザーは、霊媒(medium)、予言者(prophet)、見者(seer)、呪師(sorcerer)としていたがその多くはシャーマンに分類される。佐々木宏幹は少なくとも5つに分ける必要性を主張している。

脱魂型  シャーマンの霊魂が身体を離脱して霊界に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たす。広義の精霊統御者型の一種。
精霊統御者型  補助霊を駆使してもろもろの役割を果たす。
霊媒型・憑霊型  シャーマンが神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンは神霊自身として一人称で語る。
予言者型・霊感型  シャーマンは神霊・精霊と直接交信し、その意思を三人称で語る。シャーマン自身の個人的意志がある。
見者型  神霊の姿が見え、或いは声が聞こえる。神霊の意思を三人称で語る。

 日本の場合、これらのうち複数の役割を1人で兼ねている場合が多いとされる。また若い頃は「霊媒」であったが、年を重ねるにつれて「予言者」→「見者」へと変わっていったと述懐する例が多い。

 人がシャーマンと認められる過程にはいくつかの種類がある。社会によっても異なる。

召命型  ある日突然心身の異状(巫病)として現れ、神霊によって選ばれたものと見なされる。選ばれようと願っていてもなれるものではないが、選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することも困難。沖縄県周辺の「ウマレユタ」など。
世襲型  血統により選ばれる。霊的資質、人格が継承されると考えられる。沖縄県周辺のノロなど。
修行型  身体的理由(特に盲目)や経済的事情等からシャーマンになるための修行・学習を積む。沖縄県周辺の「ナライユタ」、日本の東北の「イタコ」など。

 アブラハムの宗教における預言者も、神や天使などが憑依すると考えれば一種のシャーマン(予言者型)と見ることもできる。だが強い倫理観に基づき、神の意思として当時の社会を批判している点で特異である。

 日本のシャーマン

 古来「巫女」と呼ばれる職能者が政治や軍事などの諸領域で活躍したことはよく知られている。三国志魏書東夷伝の倭人条、いわゆる魏志倭人伝に記述された邪馬台国女王の卑弥呼が用いたという「鬼道」もシャーマニズムと言われている。また日本書紀の、神代巻の天照大神、崇神紀の倭迹迹日百襲姫、垂仁紀の倭姫、仲哀紀の神功皇后(気長足姫)などもシャーマンの例として挙げられる。いずれも卑弥呼に比定する有力説のある人物である。

 山上伊豆母は、4世紀の三輪王朝、5世紀の河内王朝、そして崇仏派の蘇我氏による大化の改新によって律令制国家となる以前の大和朝廷は、三輪氏や太氏といった巫を司る一族と政を司る大王の共同統治が行われてきたと主張している。その後も壬申の乱に至るまで、常世神など縁起不詳の神が顕現し世を騒がす事件が起きている。日本書紀には壬申の乱の際に、生霊神という神が顕現し大海人皇子(天武天皇)を守護すると神語したという記述がある。

 現代でも、アイヌの「トゥスクル」、下北半島の恐山におけるイタコ、沖縄県周辺のユタ(ユタ(シャーマン)とノロ(祭司)とは役割が異なる)など、各地域にシャーマンに当てはまる事例がある。また都市においてもみられる。また小口偉一は、日本の宗教信仰の基底にシャマニズム的傾向があるとし、新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした。新宗教の教祖らの中には召命型シャーマンの系統に属すると思われるような人がいるのである。

 2014.10.26日、「あこや姫の巫女説」参照。

 「再生の巫女」という話がある。記紀に、八上比売(ヤサカヒメ)をオオナムチにとられた八十神(やそがみ)は、怒りオオナムチを殺してしまうという場面がある。その時、焼死したオオナムチを治したのが「貝」と名前のつく巫女。キサカヒヒメ(赤貝)とウムカヒヒメ(蛤貝)であった。貝殻をけずった粉をウムカヒヒメの汁で溶かし、母の乳汁と呪詞を唱えて塗ると蘇生するという話。猿田彦神が最後のシーンで貝に手を挟まれて亡くなるという話は、巫女による呪術的な意味があり、後からきた海洋系?巫女によって葬られたと考えられる。それがアメノウズメで、猿田彦も男の巫女だったのだが、アメノウズメの方が強かったことになる。こうした話は、貝を食べていた先住民族=海の縄文人と関係があると思われる。

 「巫女の歴史 日本宗教の母胎 山上伊豆母著」が次のように記している。
 神話に登場する女帝たちは、ほぼシャーマンであり、日本のシャーマニズムは氏族の特徴や影響を多く受けているという。西洋の自然や動物の入魂とは異なる。巫女の系統をもつ家系の特徴としては、血統的に家系により相続され、古代では依り代となり、神の嫁になることが多く、聖婚する。一生独身であったということもあり、カミ以外の人と結婚することはタブーだった。巫女の地位は、姉から妹へ受け継がれる例がある。他にも、巫女の継承は、・盲目など身体障害からの克服により巫業につく。・南西はユタ、北東アジアのシャーマン、朝鮮のムーダンなど。・病により神がかりから巫職につく(突然、発熱するといった症状がある)・東北のイタコ、母から娘へ(南島のノロ)といったものがある。柳などの聖樹は、朝鮮系ルートにあり、シベリアやモンゴルからと考えられます。

 また、琴が上手だったというのもシャーマンの特徴で、琴は「コトヒキ」のことで、降臨楽器であり神がかりの際に使われるもの。琴平神社がありますが、琴はシャーマンのことで、航海の守り神をいわれるのは、琴により嵐を鎮める人であったことを伝えているものです。降臨の芸術・・・「奥山に繁弾く音の聞こゆるは、アメノワカミコの召す音ぞよ」(581年)。天孫降臨の場面だが、楽器の琴や笛の演奏に作製されている。これは、何らかの神意や予兆を示すように感じるため、何かの物音が山奥から響いている。(天降りの気配)

 あこや姫伝説は巫女の系統であったことを示している。琴を弾くことで、松の精霊との交信を行っていた人と考えられ、姉から妹への継承などは巫女の特徴を表している。あこや姫の姉といわれる中将姫は、異母から逃れるが、巫女の家系だとしたら家を出たのは巫女の継承を受け継ぐためだったかもしれない。東北地方で、その妹としてあこや姫を登場させたのは、「中将姫の後を継ぐ人」であったからであろう。役小角が一緒に連れていた葛城の前鬼・後鬼、四国の犬神家などは、巫女の系統であるといわれている。福島県にも鬼つく地名が数多くある。特に阿武隈山系は巨石群の山であり、田村市は坂上田村麻呂の伝承が多く残っている。ここには、あぶくま洞窟があり、裏手には鬼穴がある。その背後に大滝根山。滝の根なのだから水神。御室(オムロ)といい、ウタキのような祈祷をしていた巫女がいた場所を御室という。室は胎内のことを示している。お籠りとは洞窟に籠り再生を行う呪術的な祈祷場所のことを指す。アイヌ人が熊の遺体を洞窟に葬るのは、そのような深い意味がある。坂上田村麻呂の鬼征伐とは巫女征伐のことであり、原始から行われていた母系社会の衰退が目的だった。殺された巫女も多くいた。

【「神のやしろ」について】
 「身体は人、その中に入りこんだものは神そのもの」という立場。普通、「やしろ」は神社にある建物を称して云われているが、お道の場合、「教祖の全存在=やしろ」となられた点で異色である。
 何事も このところには 人間の
 心は更に あると思うな
六号67
 どのような 事を云うにも 筆先も
 月日の心 指し示すばかりで
六号68
 思案せよ 口で何事 云うたとて
 確かな証拠 なくばいかんで
十号73
 月日より 胎内よりも 入り込んで
 自由自在(じゅうようじざい)の 指図証拠や
十号74
 今なるの 月日の思う 事なるわ
 口は人間 心月日や
十二号67
 しかと聞け 口は月日が 皆な借りて
 心は月日 皆な貸している
十二号68
 このところ 人間心 更になし
 月日の思う 事ばかりやで
十二号107
 その事を 誰でも知らぬ ことやから
 分かりないのが 神の残念
十二号108
 今までは 月日何事 云うたとて
 皆な疑うて 云い消すばかり
十三号66
 月日には 第一これが 残念な
 何でもこれを しかと決めるで
十三号67

 お指図では次のように述べられている。
 「神が入り込んで教祖教えたもの。その教祖の言葉は天の言葉や。どうやろこうやろうと、そこへ教祖入り込み、天より直ぐと映したのや」(34.5.25)

 これを他の諸宗教創始者のそれと比べることは意味のないことではない。イエスキリストの例を見る。古来より、セム系一神教では、人は神になれず予言者として君臨してきた。キリスト教は、この論理構図に挑戦したことになる。キリスト教では発祥直後より、イエスの神性をめぐり論争を交わしてきた。「イエスは神そのものなのか、どうか」。この問題は宗教思想上最大の懸案でもあった。果てしない論争に決着がつけられたのは、二ケアの宗教会議とその二ケア教条を確認したカルヶドンの宗教会議であった。西暦325年、小アジアの二ケアにおいてローマ皇帝コンスタンチヌスは、この論争に決着をつけるべく宗教会議を開催した。これが二ケア公会議である。

 当時、イエスと神との一致を説くアタナシウス派とそれを否定するアリウス派は、互いに相手の信条を認めず、真っ向から激突していた。アレキサンドリアの長老アリウスは次のように主張した。神の規定を厳格に維持する立場から「神の本性はいかなる分割もありえない」。故に、「キリストは神から放射されたもの、従ってキリストは神に従属するものでなければならない。キリストの本性は、神聖であっても、神性そのものではありえない。その本性は神の本性とは異質のものである」(キリスト教史1)。これに対して、アタナシウスは激しく反駁してこういった。「哲学的、論理的であろうとなかろうと、キリストは本当の神性を持ち、まさに神自身と全く同質である」。つまり、アリウス派が神とイエスの一致を否定し、アタナシウス派はそれを肯定した。この論争の勝ち負けは、政治的に決着が付けられた。コンスタンチヌス帝が介入し、アタナシウス派に軍配を挙げた。こうして公権力の介入で決着がつけられた。二ケアの宗教会議は圧倒的多数でアタナシウス.ドグマ(神とイエスの一致)を支持した。この結果、アリウス派は異端として追放された。続いてカルヶドンの宗教会議は、このアタナシウス.ドグマをカルヶドン信条として最終的に確認した。かくして、イエスは神となった。ユダヤ教教義からの飛躍でもあった。

 予言者との関係については、どうなるか。予言者は、あるトランス状態において神の言葉を伝える。このトランス状態を抜けたときは人である。イスラームのムハンマドは預言者であり、神の啓示を告げる者であった。その啓示の集大成がコーランである。

 みきの場合は、トランス状態を抜けたときも神であった。いついかなる場合も神性を帯びているというか神が直接入り込んだ「生き神」であった。という点で、「神のやしろとしてのみき」と予言者とは相違する。
 ちなみに、天皇、皇后について次のように説かれている。「神の社論」として、幹のそれと比べて興味深い。
 「 天皇皇后両陛下は月日に象りて御位に即かせ給い、現われ給うものにして、即ち神の顕現御名代。神入り込み給うて国家の主宰親様。国土を統治し給う」。

【「屋敷の因縁」について】
 「人間始め出したる屋敷なり、その因縁で天下りたで」(4.55)とある。

 ここは この世を始め出した「元のぢば」なるいんねんある屋敷であり、教祖は人間創造時のイザナミの命(伊弉冊命、いざなみのみこと)の御魂を持つ人間元創(はじま)りの親様であらせられる。そういう「元の親」なる「魂のいんねん」の者である。月日親神は、この世の真実を何もかも人間に知らしたいがゆえに、それらを見澄まし、旬刻限(しゅんこくげん)を待って、教祖に天降ったのである、としている。

【「即身成仏」について】

 日本文化の脈絡では、人が神になる、生身のまま神(仏)になることは、それほど奇異なことではない。否、日本にあっては宗教カリスマの極致は神(仏)になって当然という認識がある。敢えて言えば、神や仏になれぬ者はたいした宗教者ではないという思想がある。真言密教の「即身成仏」思想はその典型である。


【「天啓者の資質」について】
 小滝透・氏は、「いのち永遠に-教祖中山みき」70pで次のように記している。
 「49年の前半生で様々な試練を受け、磨きに磨かれたみきの魂は親神の要り込みに相応しいものとなっていた。そして、その魂の持ち主へ舞い降りるのである」。

(私論.私見)

 この見方に私も同意する。

【「予言」と「預言」について】
 「予言」と「預言」はユダヤ-キリスト教圏で問題になる。読みは一緒であるが漢字表記が異なる。当然、意味も異なる。

 「予言」とは、未来を予測して言うことを意味する。「予」は「豫」の略字であり、元々は「あらかじめ」という意味を持つ。「将来こういうことが起こるぞ!」と予告する人が「予言者」である。

 「預言」とは、神から受けた啓示を人々に伝えることを云う。「預言者」は、神の言葉を「預かり」、これを人々に伝えることを指名された人を指している。ユダヤ-キリスト教圏では、神が自身の意志を述べられる時には、それをまず預言者に伝えると考えられていたことによる。なお、預言者が王を誰にするかを決定した。預言者が油を注いだ者(聖別したもの)が王となった。更に、預言者は国政の御意見番として時には王に対しても遠慮ない直言を浴びせていた。但し、預言者の忠告が無視され、時には迫害され、死に至らしめられることもあった。

【木村林蔵の五種のこふき関連文書「神之古記  神の下りし由来」考】
 「天理教教理を学び神意を悟る」の2015年09月17日付け「 」の「
資料⑤矢持辰三  稿本天理教教祖伝入門十講  昭和59年6月1日発行 第二章 生い立ち たすけ一条の台」。
 資料⑥ 天理教校研究所  天研 第十三号  218〜220頁  2011年3月26日発行
 木村林蔵の五種のこふき関連文書/神之古記  神の下りし由来  明治拾六未歳 四月上浣書之
 本文
   抑(そもそも)この元は、われ中山善兵衛妻のみきという者なり。三十一歳の時、わが子三人あり、しかるに当村の足達源左衛門 倅(せがれ)照之丞(てるのじょう)と申す者、一歳の時、乳不自由にて世話を致し居りおりから、四月二日より疱瘡に取り合い(罹り)案じて、同十二日より黒疱瘡とあいなり、もっとも医者にかかり候(そうら)えども、「この疱瘡は難しくと申さるる、とても敵わず」と言うにつき、わが乳世話中に死々てさせては、何とも申し訳これなくと思いつき、この子を本復(ほんぷく 病気を全快)させたい一心で、 わが夫へも知らさず、一心不乱に氏神へ百日のあいだ裸足詣りして願をかけ、なおまた奈良の二月堂観世音様へ願い、一ヶ年三月(みつき)のあいだ月一度まいり参詣の願い、また稗田大師様へも願いかけ、 武蔵村大師様へも同様の願い。すなわち願の儀(祈願の旨)は、 「わが子ども三人これあるうち一人をのこして、あとの二人子どもの命と、預かり子の命と代えて下され」と。 もっとも、 「預かり子は、八十歳までの寿命を下され」と願いをかけ、「もし、二人の子どもの寿命にて不足あいなる時は、わが望み満ちたる上は、われの命も差し上げ奉(たてまつ)る」と願えば、預かり子疱瘡は無難にて全快致し、この人、只今に至りても存命なり。 その後に至り、わが三十四(正33満齢32)歳にて娘八重(※)四(満齢3)才にて死々てす。なおまた三十四(正36満齢35)歳の時、また女子つね出生する。なおまた、つね三(満齢2)才にて死々てする。  
 (※) 八重(やえ)‥次女おやす様の別名か、誤筆写か。 

  その後、四十歳の時、長男 善右衛門、農業致し居るに俄(にわ)かに足痛み、医者にかかりて、色々と手をつくし候えども全快せず難渋するおりから、山辺郡長滝村山伏市兵衛なる者を雇い、加持祈祷を致しくれ候えば宜(よろ)しく、またまた痛む前のごとく致せば宜しく、しかるに、勾田(まがた)村のそよなる者を頼み、幣(即ち御幣)を持って祈祷をすること度々なり。祈りは市兵衛するその時に、四十一歳の時、十月二十四日、初めてみきに幣を持たせば、それより三日のあいだはみき夢中とあいなり、そのところ向かって俄かに音高く、荒振る神のお降(くだ)りたまうに尋ねるところ、 「われは天の将軍」と宣(のたま)わく、「このたびは、その方の、みきの心鉢(心体、身体)神の社(やしろ)ともらい受けたい」との、「われは〝くにとこたちの神〟よ」のお言葉なり。「また代わりてくる」とも仰せてお上りたもうて、しばらくすると、また代わりてお降りたもうて、「『御話しある」と仰せられ、誠に恐ろしく勢いなり。また神の宣わく、「われ神は〝をもたりのみこと〟わが姿を顕(現)せば恐ろし」と宣わく、「われは、頭(かしら)十二の大蛇なり」と宣わく、「今より、親子また屋敷とも諸共(もろとも)に神の社にくれ」 と仰せられ、いかにも恐ろしくゆえに、「神様荒ぶるゆえに、退きたまえ」と願えば、大いに怒りたまい、「この屋敷諸共にくれ候えば、三千大世界を救ける。気なくば、この家断絶に及ばす」との仰せにつき、拠(よんどころ)なく夫善兵衛も是非なく「差し上げましょう」と言うにつき、それより、人間には神名を付け置かれぬゆえに、地名に〝転輪王命〟の名を授け置く。これは、この屋敷は人間最初にはじまる〝屋敷の因縁〟あるがゆえに、天より天降りたもうて、みきの魂は〝いざなみのみこと〟魂なり。これすなわち天の教えなり。なおまた〝天輪王命〟と名を付ける心、天の理に適うによりて〝天輪王命〟と授かりたまうなり。

 最終見直し 2015.10.2  14:00

【神がかり考】
 「日本のカミがかり」を転載しておく。
 ■ カミがかりの元祖

 この章では、ギリシア的な熱狂に続いて、日本古来の「巫女のカミがかり」について考えてみたいと思います。日本の巫女のカミがかりと聞いて、私が真っ先に思い出すのは、アメノウズメノミコトです。古事記(上巻)の「天の岩屋戸こもり」の箇所に、アメノウズメノミコトの話があります。

 高天の原(たかまのはら)でスサノオノミコトが乱暴を働いて機織りの女を殺す出来事が起こり、アマテラスオオミカミ(天照大御神)が弟の乱暴に怒って、岩屋の中に身を隠してしまいます。太陽が出ないので、高天の原も葦原の中国(なかつくに)も真っ暗になって、国中にさまざまな災いがはびこりました。そこで神々が集い、鏡と勾玉(まがたま)を造らせ、榊(さかき)の枝に勾玉の玉飾りと八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、さらに白い幣(ぬき)と青い幣とをかけました。そしてアメノコヤネノミコトが祝詞(のりと)をあげ、岩屋の戸の側にアメノタジカラヲノカミが潜んで待ちかまえます。その時、アメノウズメノミコトが、日陰蔓で編んだ襷(たすき)をかけて、正木の葛(まさきのかずら)を髪飾りにし、天の香具山にある笹の葉を束ねて手に持ち、岩屋の前に桶を伏せ、その上に立って、桶を踏み鳴らして大きな音をたてながら舞い歌うと、「神懸(かむがか)りして」乳房も陰部も露わにして踊り狂いました。すると岩屋の中にいたアマテラスが、暗い中でアメノウズメがどうして賑やかに踊って神々が笑っているのだろうといぶかって、岩屋の戸を少し開けると鏡に自分の姿が映り、それがもう一つの太陽に見えたのでしょうか、驚いてその姿をのぞき見ようとしたところを、アメノタジカラヲノカミが、その手を取って外へ引き出し、二度と岩屋に入らないように注連縄(しめなわ)を張ったので、再び天にも地にも太陽が戻ったという話です。

 この話にはすでに、鏡、勾玉をはじめ、榊、注連縄、御幣、祝詞など、巫女のカミがかりの儀礼に関わる道具立てが全てそろっています。また、太陽が隠れるという不作・凶作を象徴する出来事に続いて様々な災いが国を襲ったこと、この災いを「祓(はら)う」ために、歌舞の祭儀がおこなわれ、そこに神が降って巫女がカミがかりになり、再び世の中が明るくなるという、アマテラス信仰に基づくカミがかりの祭儀と、これが生じた社会的な背景が国レベルで語られています。乳房と陰部を露わにするのは、自然の生命力を取り戻すことを象徴しています。スサノオノミコトが機織りの女を殺したとありますが、織物は、古代のヘブライやギリシアでも、霊感の象徴として語られています。ここでも殺された機織り女が、霊感すなわちカミがかりと関係があるとすれば、スサノオの乱暴〔注によれば彼のした乱暴は農耕社会の掟を破ることでした〕のために凶作・飢饉などもろもろの災いが生じたことになります。アメノウズメノミコトのカミがかりについては、「神霊が霊媒者に乗り移り、この忘我の状態で神託を述べる」〔『古事記・上代歌謡』日本古典文学全集、小学館、1982年〕という注がつけられていますから、彼女は、国の政(まつりごと=政治)に関わる重要なお告げをする巫女であったと思われます。
 ■近代日本のカミがかり

 時代が降って近代になりますと、現在もなお活動を続けている宗教団体の教祖のカミがかりが生じています。その一人が天理教の教祖中山みき(1798~1887)です。この人は今の奈良県の田舎にある三昧田という部落で生まれ、13歳で庄屋の中山家へ嫁入りさせられました。家は農家で名字帯刀を許された、今でいう中の上くらいの家庭でした。彼女の家の近くには大和神社があります。しかし、両親は浄土宗の熱心な信者で、みきも信心深く、嫁入りの時に毎晩念仏唱名をする許しを得た上で嫁いでいます。結婚後しばらくは子供が産まれなかったり、夫の身持ちの悪さ、子どもの病死などのために心労が重なったようです。1838年に息子の善右衛門が足の痛みを患い、これの治癒を祈願するために修験者を呼んで加持祈祷をおこないました。その折りに、たまたま自分もその加持に加わり、突然カミがかり状態に入りました。みきが40歳の時です。しかもそれが、通常の霊や八百万(やおよろずの)の神々の霊ではなく、「天の将軍」と名乗るカミでした。このカミは、
この世の 始まり出しは 泥海のその中よりも 泥鰌(どじょう)ばかりや
この泥鰌 何の事やと 思うている これ人間の 種であるぞや
とあるように、天地創造のカミであったから周囲の人たちは驚きました。これがいわゆる「天理王(てんりおう)のみこと」です。このカミは、みきの口を通じて、中山家に「因縁あるこの屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい……返答せよ」と迫ります。 直ちに家屋敷を神の社にせよとお告げを受けたわけです。ついに婚家の中山家もこれを承諾しました。彼女は、貧しい人たちに施しを始めますが、その後もみきのカミは、家族を含む周囲の人たちに受け入れらないまま歳月が経っています。みきが59歳の時に、娘の出産にまつわる霊験があり、またいざりの娘を癒して立たせたのがきっかけとなって、ようやく世間に受け入れられるようになり、本格的な布教活動を始めました。カミがかりからなんと25年も経っています。

 もうひとつのカミがかりは、金光教の教祖香取源七(1814~83)です。この人は、岡山県金光町の農民の子で、養子に行きましたが、家族を失ったり、自分も42歳の時に大病を患っています。そのことがきっかけでカミ信仰を始め、1859年に、天地金之神(てんちかねのかみ)のお告げを受けて、「お取り次ぎ」を始めました。源七45歳の時です。その時から70歳でなくなるまで、「人は皆生きガミとなる」と説きつつ「人と人との助け合い」を説きました。その教えは安政から明治維新にかけて、混乱期にある人たちを励ましたと言われています。

 さらに今一人は、大本教の教祖出口なお(1836/7~1918)です。彼女は、京都府の福知山で生まれましたが、家が貧しくて寺子屋へ通うこともできませんでした。19歳で綾部にいた叔母の養女となり、大工の政五郎と結婚、8人の子供を産み育てました。52歳で夫と死別した後に、長男が行方知れずになり、次男が戦死、娘の2人が精神異常に陥るという不幸に見舞われます。56歳の節分の夜に突然カミがかり状態になり、本人の意思とは関わりのない声が口から出始めました。なおが56歳の時です。やがて「筆をもて」というお告げがあって、和紙にその文字を書き留めだしたのです。その後亡くなるまでの27年間に、その「筆先」は20万枚に及ぶと言われています。彼女は、自分に降った神を「艮(うしとら)の金神」すなわち国常立尊(くにとこたちのみこと)であるとし、病気治しの祈祷をおこない、やがて「みろくの世」が到来するであろうと宣言しました。もしも彼女一人であったならば、おそらく庶民の中の隠れた一教祖として終わったことでしょう。ところが上田喜三郎(1871~1948)という人が、綾部を訪れ、開祖なおのカリスマに惹かれて、教団の組織化と拡大を図りました。彼は出口王仁三郎と改称して、亀岡にある高熊山で一週間の修行し、その後開祖なおの「筆先」を漢字交じりの教典とし、なおと組んで、綾部を祭祀の中心とした大本教の教祖となったのです。この教団は、1921年と1935年に、当時の軍国主義政府から厳しい弾圧を受けたことで知られています。

 以上3人の代表的な庶民信仰の教祖のカミがかりを見ますと、幾つかの特徴があることに気がつきます。それらは、それぞれ事情は異なるもののカミがかり前に不幸な体験をしていること。カミがかりが比較的遅く中年あるいはそれ以降に生じていること。3人ともそれぞれ自分の家や住んでいる土地にゆかりのカミが降ったと宣言していること。中山みきの「天理王のみこと」の場合は、一見そうでないように見えますが、彼女の宣託に「いざなぎと いざなみが 一の神 これ天照皇(てしょこ)の 大神宮なり」とあるように、実家近くの大和神社にゆかりのカミであると見ることができます。彼らのカミは、いずれも神道系であるけれども、みきは浄土宗に熱心でありながら、加持の最中にカミがかりを体験しています。出口なおは、自分の理想郷を「みろくの世」と述べています。このように、神仏の境がはっきりしないこと。カミがかりが突然に起こっていること。しかも、それが、みきの突然の宣言やなおの「筆先」から判断するなら、自分と全く異なる霊力によって全人格的に支配されていて、いわばその霊の命じるままに動かされているのがわかります。出口なおの場合、「今夜あたりはお降りあるかもしれない」と言って、信者たちが待ちかまえていたと伝えられていますから、カミがかりがいつ起こるのか本人でさえ予知できない仕方で生じていたと考えられます。そのカミがかりが、周囲に受け入れられ、宗団として認められるまでにかなり長い時間がかかっていること。中山みきの場合は25年という長い期間があり、出口なおは組織力のあるマネジャーを得ることで初めて宗団として成長することができました。
 ■現代日本の巫女

 以上に述べた古代から近世に至る巫女へのカミがかりの伝統は、ほとんどそのまま現在の日本にいる巫女たちにも受け継がれているようです。この意味で日本は、先進国の中でも珍しい国であると言えます。私自身は、直接に巫女のカミがかりを見たことも体験したこともなく、いわゆる教祖様を信仰している人や天理教徒の人たちなどを身じかに見知っているにすぎません。そこで、この問題を扱った本、川村邦光著『憑依の視座』巫女の民俗学Ⅱ(青弓社、1997年)を基にして、私なりの考察を加えてみようと思います。この本の著者は、現在大阪大学の大学院で民俗学の講座を担当しておられる教授です。

 現在この国で巫女と言われる人たちは、寺社に仕える「神社の巫女」と民間で加持祈祷をおこなう「口寄せの巫女」とに大きく分類されるようです。口寄せの巫女たちは、さらに死者の霊が憑依するいわゆる「イタコ」と呼ばれるタイプとカミがかりする「カミサマ」との二つのタイプに分けることができます。中山みきや出口なおなどが、「カミサマ」の典型的なタイプです。「神社の巫女」は教団などの組織の中で訓練と指導を受けて巫女になるのですが、口寄せの巫女たちの場合は、ごく普通の庶民としての暮らしの中で、突然に憑依あるいはカミがかりを体験して、それが病気癒しや予言などの霊験を現すことで周囲の人々の信仰を集め、次第に巫女として職業的な役割をはたすようになっていきます。もっとも、カミサマの場合は、ある特定の教団から承認されて、その教団の「看板」をもらうことで組織の分教会になる道があります。

 私は主として口寄せの巫女たちのほうに関心があり、これについて自分なりの考察を述べてみます。これらイタコやカミサマのいろいろなケースを読みながら、まず私が感じるのは、先に指摘したように、カミとホトケ(ホトケはしばしば死人を意味する)との境界がはっきりしないこと、いわゆる神仏混淆の宗教形態にあることです。例えばある巫女の場合は、お稲荷さんが憑いたと言われた子どもの病気を治そうと仏壇の前で祈祷を始めます。すると六部さんというカミが出羽三山から降ってきて、カミがかりします。彼女の曾祖父が、法華経を寺に奉じる出羽三山の行者だったという因縁があったからでしょう。しかし彼女は、それ以後も祝詞を唱えながら行商を続けています。46歳の時に初めて病気治しの霊験を現して、ある教団から教師の免許を与えられます。それから「昭和大神」というカミが降って、六部さんから大神へとカミサマの位が上がることになります。〔川村43-45〕
 憑依霊の名称

 しかし、私が最も興味深く思ったのは、憑依(ひょうい)する霊の呼称、すなわち名前に関してです。ほとんどの巫女は、それぞれに苦しい体験をした後で突然に憑依を体験します。しかし、憑依した霊がどのような霊なのかは、当初本人にもわからない場合が多いようです。憑依霊とこれの名前については、次のような幾つかの例があげられます。ある場合は、憑依した巫女が狂乱状態になって、いわゆる「暴れ巫女」になります。この場合、その霊がただの「もの憑(つ)き」なのか「邪霊」なのかそれとも「カミサマの霊」なのかは、必ずしも定かでありません。例えばある巫女の場合、真言宗の僧侶と結婚して、護摩火を焚くようなことをしているうちに、「眼はヒカヒカ光って」暴れ巫女となり柱に縛り付けられています。〔川村81〕 場合によっては、本人がどこそこのカミの霊が降ったと称しても、周囲の人々からただの「もの憑き」と見られたり、既成の教団から「邪霊」扱いされたりする場合があります。しかしその場合でも、病気癒しなどの霊験が現れると、周囲の人たちに認められて、やがていわゆる「人助け」のカミサマとして承認されるようになります。ただし、そのようなカミサマとして承認されるまでに、人によってはずいぶん長い期間がかかることがあります。また、たとえ承認されても、教団などの組織に加わらなければ、職業的な巫女として生活するのはなかなか難しいようです。

 ある巫女は、教団での修行に参加している最中に「伊勢の皇大神」が憑依して「口開き」すなわちお告げを受けます。しかし教団はそれを認めず、彼女には「マガミ(魔神)」が憑いたと認定されます。彼女は教団を去りますが、そのためか病気になっています。またある巫女は、湯殿山の黒龍のカミに憑かれたと称して暴れ回ります。彼女の母や教団の人たちは、邪霊が憑いたと熱心にお祓いをしますが、暴れて手におえません。結局彼女は「湯殿山の主、黒龍」に祀られている湯殿山大権現が降ったと「自分が自分で納得して起きあがった」と言っています。その後で彼女の予言が当たったことで、母親もついに彼女の霊能を認めるようになりました。ところが、その後、彼女には伊勢神明が宿って、「私の胸のなかに言いに来るのは、伊勢神明だよって、お前は伊勢神明だということは、私が私自身で悟っていた」というようになります。〔川村88-91〕

 ここに見られるように、六部さん、千手観音、石原薬師、毘沙門天、天照大神、伊勢神明〔川村108〕など、巫女によって様々な名称の憑依霊が降ります。しかも同一の巫女でも、その霊の呼称が時には変化する場合があります。降った当初から憑依霊が自分の名称をお告げで知らせる場合もあるのでしょうが、今あげた例から見ますと、その名前は当人でも憑依した後もしばらくはわからないと思われます。「憑依霊が名をもって立ち現れるためには、相応の時を要する」〔川村107〕のです。また自分の主張するカミの名前と周囲の人たち、特に組織の教団が下す判定とが違ったり対立したりする場合があります。

 憑依霊の多様性は、それらが、それぞれの巫女のイエや土地に因縁なりゆかりがあることと関係していると思われます。また、霊の呼称が変わるのは、霊の位と秩序に関係しているように思われます。一般的に、一地方のカミよりもより広範囲な信仰を集めるカミやホトケが上位にあり、特に伊勢のアマテラスを一つの頂点とする神々の序列によって、霊位が決まるようです。もっとも、最近では、「世界救世(メシア)教」のように、世界規模のカミ名称を用いる教団がありますが、この名称などは明らかにキリスト教の影響を受けていると考えられます。 以上ように、巫女によって降る霊の呼称が神仏様々であること、降るまでは本人にもどのような名前の霊かが全くわからないこと、憑依の後でも、その霊の呼称について必ずしも一定しないこと、場合によってはお告げによって霊の呼称が変化することなどが注目すべき点であると思います。
■憑依と巫女の人格

 しかし、なによりも重要なのは、憑依の際に生じる巫女の内面的な状態です。ほとんどの巫女は、憑依によって完全に自己喪失の状態に陥ると思われます。
「一所懸命、お願いするんです。そうすっと、お降りになられるんです。心はね、何だかさっぱりわかんなくなるの。カミサマ、お呼びして、拝んでいるときはわかります。だけど、カミサマ、お降りになったとき、自分の気持ちはこう夢見た様なんだわね、何にも映んなくなって、(依頼者が)病気のときは、自分の体に、脳溢血の人は、(巫女自身の)頭、病むんですね。そのとおりに、こうかぶされると思って、そのたんび、しゃべるんですね。自分の胸のとこ、苦しくなって、自分がべらべらとしゃべるわけなんです。それは覚えてるつうわけにはいかないんです。…」〔川村146〕

 この様子から判断すると、この巫女は自分の理性も感覚も喪失した状態にあって憑依していることがわかります。そこまでいかなくても、多くの巫女では、自分の意志や判断が停止した状態にあると考えられます。例えば中山みきも出口なおも、そのお告げやお筆先の状況から判断すると、憑依霊に完全に支配されていて、自分の意志や理性の働く余地が全くなくなっていると考えられます。ただし、この場合本人の理性や意志がどの程度自由な状態にあるのか定かには見えてきません。「カミサマ、憑くと、ひどい、うんと荒立ってね、拝むのいやだったんだ、だけど拝まないと、カミサマ、許さない」〔川村136〕というある巫女の言い方から判断すると、彼女自身は、その意志も理性もはっきりしていて、いわば憑かれた霊に引きずり回されている様子がうかがわれます。出口なおの信者たちが、「今晩は降るのではないか」と話し合って待っていたということも、その霊がいつ何時巫女に臨むのかが、全く予想できなかったことをうかがわせていて、それは本人の意思と無関係な状況で生じていることがわかります。

 巫女に降った霊が、邪霊かそうでないかは、その霊威によって病気治しなどの「人助け」がおこなわれるかどうかが決め手となるようです。しかもその人助けは、行商をやりながら出会った病人であったり、近所の人であったり、巫女の生活圏で直接ふれあう人たちが多いようです。しかし、たとえ邪霊と判断された場合でも、そのこと自体で、巫女としての霊的な資格を失うことにはなりません。彼女が、その邪霊を「祓う」、すなわち浄めたり鎮めたりする方法を体得することによって、巫女の資格をいっそう高めることも可能だからです。そのような方法としては、修行道場にこもる、祝詞を唱える、お遍路参りをする、水垢離(みずこり)をとる、太鼓をたたくなどがあります。巫女は、教団などで訓練を受けたり、自分自身で経験を積んでいくうちに、しだいに憑依霊を自分でコントロールする術を身につけて、意図的に自分から憑依状態へと移っていくことができるようになります。巫女はこのようにして、自分に憑く霊が、悪い霊か善いカミかを判別することを体得していきます。こういう訓練を重ねることによって、すなわち自分の意識的な努力によって、「人助け」のカミへと霊を浄めていくことができるようになります。この場合、始めは自分の意志や思いと全く無関係に降った霊を、次第に自分の意志によって意図的に変容させていく術を身につけたことになります。すなわち、自分の人格を完全に操っていた憑依霊を自分の主体性によってコントロールすることが可能になるわけです。したがって、この段階で、憑依霊と巫女の人格との間の関係が逆転していることになります。
 ■憑依(ひょうい)を解釈する

 最後に大切な問題として、憑依とこれに対する「解釈」があります。憑依した霊が邪霊であるかカミサマの霊であるかは、巫女自身がこれをどのように「解釈する」かに大きく依存しています。例えば霊が巫女の首を締め付けるというように、憑依は身体的な兆候を示します。こういう場合には、それがどのようなゆかりの霊であるかを判断することが、巫女にとってきわめて重要な意味を持つことになります。この段階で、それがある種の精神病であるという「医学的な解釈」が与えられると、精神科の医者の治療を受けることになるでしょう。しかし、それでも治癒しない場合は、宗教団体による宗教的な解釈に従って、その枠組みの中で悪霊を祓い浄める修行を積むことになります。

 たとえ巫女が、ある特定の名称を持つカミからのお告げを受けても、周囲の人たちがこれを受け入れない場合があります。この場合は、巫女自身が、自分の解釈と周囲の解釈との間に立たされます。すなわち彼女は、それが邪霊であるという周囲の解釈と闘わなければならないのです。それが邪霊だとする解釈と闘うためには、その霊がカミ(善霊)であることを証明する必要に迫られるのです〔川村124〕。このような場合には、病気癒しなどのなんらかの霊験を示すことで、初めて共同体に認知されることになります。日本では、巫女としての認知が、その家族や周囲の人たちのように、まず限られた周辺の人たちから始まるのが特徴です。また、先に見たように、自分に降った霊が、次第にその霊位を高めていく傾向があり、これによって霊の呼称も変化します。

 しかし、憑依の状態を主体的にコントロールして、邪霊から善霊へと移行ないしは変容させる手段は、宗教団体などのシステマティックな指導を受けている者のほうが容易であると言えます。例えば、ある巫女は、教団で一週間、水垢離をとったりして拝むことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなっています。彼女は「そうすっと、おれの体、楽になんだね。そのサバキがなかなかむずかしい。そういうのを修行すんだね。そうでないと、カミ様、なかなか乗り移ってこないからね」〔川村128〕と述べています。

 この例のように、邪霊と善霊を識別する身体感覚が追求されるのが行の中心課題になるようです。幻聴、幻覚をともなうマモノでも、このような過程を経ることで、精神分裂、幻覚妄想、祈祷性精神病、精神異常などの「医学的解釈」を受け入れることなく、また近所の「気違い」解釈に支配されることもなく、宗教団体の「行」によって、そういう幻聴や幻覚自体も、霊の祓いのために生じる事態と「解釈される」ことによって克服されていく過程をここに見ることができます。

 これでわかるように、病気あるいは悪霊をどのように「解釈する」のかは、それの治療法と直結しています。宗教的な治療では、祓いや祝詞など、儀礼という隠喩的な媒介によって病気の原因を排除し、心身の回復をもたらそうとするのです〔川村180〕。この場合、どちらの解釈を受け入れるのか、あるいは宗教的な解釈を信じるか否かは、個人の意志によって決められるべきで、強要することはできません〔川村182〕。

 またある場合には、巫女自身の憑依霊に対する解釈と周囲の人、特に教団が下す霊位とが食い違うことがあります。そのような場合、巫女と教団との間で対立が生じます。そこで、巫女が自分の呼称する霊の力を発揮して霊験を現す必要に迫られることになります。このように、憑依霊がどのような性質のものであるかは、その憑依の「解釈」に大きく依存しています。その解釈は、第一に憑依を受けた本人によっておこなわれるものですが、同時に、周囲の人々、あるいは教団などの「解釈」が大きく関わっていることがわかります。この意味で憑依とは自分を意味づける文化的なコンセプトであるだけでなく、他者の評価も伴う社会的なコンセプトであると言えます〔川村106〕。

 どの巫女にも共通して見られるのは、自分の憑依体験が、避けることのできない因縁ないしは定めであったと解釈していることです。もっともこのような「生まれ」意識〔川村94〕は、体験直後からあったわけではなく、長い間の経験を経るうちにそういう解釈へとたどり着いたと見る方が正しいかもしれません。自分の霊能についても、実際は自分なりに努力したり教団での訓練を受けていたりで、いろいろと試行錯誤を繰り返しているのに、結果的には、それが「自然に身についた」と語る巫女が多いようです。
 ■先祖の霊との共存

 死霊はしばしば「ホトケ」と呼ばれます。特に顕著なのは先祖霊の供養あるいは祓いの場合です。先祖の霊は、恩恵をもたらす場合もありますが、巫女への憑依という状況では、むしろ怨念や祟りをもたらします。したがって、祖霊は、善悪どちらの可能性をも秘めていて、恩恵と祟りとが表裏をなしていると見ることができます。そのホトケが、悪い因縁をもたらす場合には、カミの霊威によって、ホトケの因縁〔病気の原因〕を取り除く必要が生じてきます。つまり先祖の「罪を祓う」必要があるのです。「先祖の罪つうのは恐ろしいものである。それから、世を救うためには、先祖の罪を先にお清めして、先祖つうのを先にしなければ、そなたの運勢は開けない」〔川村129〕と告げられることになります。こうして悪い霊を浄めてから、初めて正当なカミが降るのです。ただし一般的に、カミサマの場合は、先祖やホトケの因縁を祓う行事はおこないますが、死者を呼ぶ「ホトケ降ろし」はしないようです〔川村193-94〕。

 ここには、先祖からの因縁が自分の「障り」となる、すなわち現在の自分の病気あるいは不幸は、その原因が過去の先祖の罪障から来ているという信仰があります。先祖の罪障なり苦しみが、そのまま子孫の苦しみとなって今に現れるという解釈です。つまり死者の住むあの世と現在自分がいる世界との間に「交流」あるいは「呼応」が存在していると解釈するのです。したがって、現在の病人に対しては、イエと先祖の身代わりとして苦しみを受ける、いわば「先祖の犠牲」という意味づけが与えられます〔川村180〕。日本の祖霊信仰には、このようにして、あの世の先祖と関係を結ぶことによって、病気や災いだけでなく、子孫の家庭の無事平安を回復するという意義付けがなされています。そこでは死は、個人の問題ではなくて、イエの問題であり、家族を中心とするその共同体全体の問題と解釈されるのです。仏教の檀家制度などは、このような宗教的背景なくしては理解することができません。

 先祖の霊は恩恵と祟りが表裏をなしていますが、この祖霊信仰は、そのまま死者との交霊あるいは共存という日本古来の風習によるところが大きいと思われます。これが、先祖だけではなく、恨みを抱いて死んだ人や死んだ動物の霊などが取り憑くと信じられる根拠にされています。このような死霊との交流は、霊魂の生まれ変わりあるいは輪廻の思想がその背後にあると考えることができます。生者と死者とのこの二つの世界の霊媒こそが、巫女の機能であり、巫女の存在理由であると言えましょう。





(私論.私見)