補足「明治新政府の天理教弾圧事情」考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖御苦労史」を確認しておくことにする。ここで云う「教祖御苦労」とは通常の意味での御苦労ではなく、教祖が拘引されたと云う意味での「御苦労」である。逸話篇はかなりサイトアップされているのに比して存外に「御苦労史」が確認されていない。母胎となる年表さえ詳しいものがない。2012.9.5日現在の検索で目にできるのは「天理教教祖伝参考年表」ぐらいのものである。これではイケナイと思う。

 2012.9.5日 れんだいこ拝


【教祖みきに対する弾圧史考】
 明治新政府の宗教弾圧は、天理教を集中的に取り締まっている感がある。これは何に起因するのか。その前作業として、ここで教祖みきに襲いかかった弾圧史を検証しておく。教祖は何と78歳の高齢時の収監を「最初のご苦労」として、以降89歳までの10余年の間に17、8回にも及んで、警察署や監獄署へ度々「ご苦労」(捜査、訊問、科料、拘引、収監、留置)されることになった。世間常識的に信じられないことであろうが「最後のご苦労」は89歳の身である。当然のことながら、罪科あってのことではない。教祖が、世界助けの道をお説きになる、不思議な助けが挙がると云うては拘引されることとなった。これは史実であり脚色ではない。これは、天理教にとって忝くも有難過ぎる財産ではなかろうか。れんだいこが注目するのは、そのことだけではない。もう一つ、教祖が、お道の弾圧に抗してどのように闘ったか、その様に感動を覚えている。これを確認しておく。

 1874(明治7)年、教祖77歳の時、奈良中教院が設置されている。明治維新政府の宗教政策は紆余曲折するが、この頃より明治新政府の宗教弾圧が公然化する。天理教は最も危険な宗教団体として公然たる弾圧を受けるようになる。この年の12.23日(陰暦11.15日)、「山村御殿問答事件」に遭遇している。これは官憲による弾圧ではない。その前段階の「奈良県庁からの呼び出し」である。これにつき詳しくは「山村御殿問答」に記す。「山村御殿問答事件」直後の12.25日(陰暦11.17日)、奈良中教院より、信仰差し止めの通知と「お道」の高弟の辻、仲田、松尾の三名の呼び出し状が届いた。この頃、奈良中教院は興福寺金堂へ移転していたが、そこへ三名が出向くと、「転輪王という神神などない。神を拝むなら大社の神を拝め。世話するなら中教院を世話せよ。二度と再び、あの婆さんの教えを説いてはいかん」と信仰差し止めの旨を勧告されている。これを「中教院の節事件」と云う。

 1875(明治8).9.24(陰暦8月25日)、教祖と秀司に対して、再び奈良県庁からの出頭呼出状が届けられている。教祖及びその付添いとして長女おまさ、秀司の代理として辻忠作が出頭した。これが教祖最初の「ご苦労」となられた。この時、この頃身上の障りを頂いていた教祖の末女にして「お道」の取次第一人者であったこかんが危篤に陥り、教祖拘留中の9.27日(陰暦8.28日)、39歳の身で出直した。教祖は特別の許可を受けてお帰りになられたが、こかんの臨終に立ちあうことさえ叶わなかった。

 1877(明治10)年、長男の秀司が、奈良警察に呼び出されている。

 1882(明治15).教祖85歳の時、奈良警察署により、「かんろだい」の石が没収される。10.29日(陰暦9.18日)、教祖はじめ5名の「お道」の高弟(山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、山本利三郎、森田清蔵)が奈良監獄に拘留されている。

 同年10.27日、警察が乗り込んできて、曼荼羅その他祭祀用具一切を取り払う事件が起こった。翌翌日の10.29日(陰暦9.18日)、教祖をはじめ5名の道人高弟(山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、山本利三郎、森田清蔵)が奈良監獄に拘留された。教祖は、10.29日から12日間、二度目の「ご苦労」をあそばされることとなった。「天理王の命という神は不敬な神であり、今後は何処までも圧制して倒してしまへ」との政府の命令での拘引であった。

 1883(明治16)年6.1日(陰暦4.26日)、この日は例祭の日であったが、お屋敷側より、参拝人取締りのために、警官の出張を頼んだところ、この警官達によって、権力を笠に着た調書捏造によって取調べが為された。巡査によって社や祖先霊璽が焼かれている。

 同年8.15日(陰暦7.13日)、村人の要請で「雨乞いづとめ」したところ拘引されることとなった。拘引事由は、「警察署の命令に背いて、多人数の集合を敢えてしたるは不都合なり。雨乞いづとめにより、近村へ降る雨まで皆三島領へ降らせてしまったのは水利妨害の罪に当る。街道傍でのおつとめは道路妨害罪に当たる」という科であった。その日の夜の9時頃、突然一人の巡査が、教祖も雨乞いつとめに出ていたとして、教祖を拘引しようとお屋敷にやって来た。お側についていた長女のおまさが、何故、老母をお連れになりますかと激しくさえぎろうとしたはずみに、巡査を押しのける結果となった。すると巡査は「何ゆえとは不都合千万である。老母に尋問の筋あって連れに来たのだ。しかるにその方は、何故、本官を叩いた。その方も老母と同道で来い」と言って共に連行した。これが「二度目のご苦労」となった。

 同年10.16日(陰暦9.16日)、巡査2名が尋問の筋ありと称してお屋敷に来て、いきなり教祖を引致し、教祖のお側にあった屏風と戸棚の中にあった毛布を違法証拠物として押収している。尋問の筋ありと称して教祖を引致した。これが「三度目のご苦労」になった。

 1884(明治17)年、教勢が拡がりその動きが活発になるに従い、勢いその地方地方の警察の目に止まるような問題も起こってきた。それが地元の奈良、丹波市の警察へ問いあわせや通報、連絡がやってくるので、所轄署では益々躍起となって取締りを強化することとなった。この時、「お道」の高弟/鴻田も連れて行かれることとなった。この時の拘引は、御供と鴻田が「こふき」を書いていたその書きものを証拠として、教祖は3.24日(陰暦2.27日)より4.5日(陰暦3.10日)までの12日間、鴻田は10日間の拘留が申し渡され、奈良監獄署へ護送された。これが教祖「四度目のご苦労」となった。

 この「ご苦労」以降、教祖は、信者の人々がおつとめ祭礼に集まってくる陰暦26日を中心に3日間、特別の理由もなく警察へ連行されることになった。教祖を連行し留置すること自体が目的であり、特段の取調べもせずしておつとめ祭礼後に帰宅させられた。道人の集まる26日に教祖を不在にさせる措置であった。この年4月の月は二度に亘って、5月、6月も陰暦16日前後は3ヶ日連続して丹波市警察分署へ「ご苦労」くた゜されることとなった。7月だけ無事で、8.18日(陰暦6.28日)、巡査が巡回に来て、机の引き出しにあったお守りを違法証拠物として丹波市分署へ拘引し、8.18日から30日(陰暦6.28日から7.10日)迄の12日間、奈良監獄へ拘留した。

 1886(明治19)年、教祖89歳の時、最後の「御苦労」をされることとなる。2.18日(陰暦正月15日)、講元上村吉三郎に引率された心勇組(敷島の前身)の講中のお手振りを咎として、教祖、真之亮、桝井、仲田が櫟本警察分署に引致された。真之亮は一晩で釈放されたが、仲田らは10日間、教組は12日間の拘留となった。但し、桝井と仲田は拷問用の檻に入れられ、「お道」の第一の高弟であった仲田儀三郎は、この時の苛酷な取調べによって息絶え絶えとなり、4ケ月後の6.23日、56歳で出直ししている。教祖は、「最後の御苦労」以来、体調が勝れずれ床に付すことになった。

 1887(明治20).2.18日(陰暦正月26日)、御身を隠された(亨年90歳)。「最後の御苦労」時の取調べにつき、本部教理では平穏な様子を記すが、八島教学では「巡査が教祖を無暗に打ち、ちゅうちゃく(打擲)すること甚だしく見るも涙の種、思うぞかしこき」様子を伝えている。

【明治新政府の天理教弾圧事情考】
 明治新政府の宗教弾圧は、天理教を集中的に取り締まっている感がある。これは何に起因するのか。これを解ける者は滅多にいないように思われる。その貴重人士と自負するれんだこが説いて見ようと思う。

 予備知識として明治維新論を確認しておく。明治維新は幕末から明治新政府の御代へ至る政治変動の一連過程を云う。通説歴史書は、この過程を一貫した流れとして捉えて明治維新としている。れんだいこ史観はここで異なる。明治維新は一括されるべきものではなく幕末維新と明治維新に識別せねばならない。なぜなら、幕末維新と明治維新の間には連続性と不連続性が認められからである。これを感知しない通説歴史書の史観は粗暴と云う他ない。まず、このことを確認しておきたい。


 みきが天理教教祖として登場してくる過程は、幕末維新、明治維新の歩みと軌を一にしている。みきの天理教創教運動は、幕末維新と連動しており、明治維新に於いては西郷派の流れと連動しており、いわゆる士族の反乱の最後の抵抗となった西南の役以降の西郷派平定後の明治維新とは鋭く対立している。みきの天理教創教運動は、このような歴史的位相の上に位置していたと確認せねばならない。

 これをもう少し詳しく説くならば、幕末維新は上からの幕末維新と下からの幕末維新のふた手に分かれている。上からの幕末維新は武士派の幕末維新であり、下からの幕末維新はいわば民衆側からの幕末維新だったと見なさねばならない。上からの幕末維新としての武士の幕末維新が政治権力を窺う武力革命だったのに対し、下からの幕末維新としての民衆側の幕末維新はいわば処世法的な精神的文化大革命だったと窺わねばならない。通説歴史書は上からの幕末維新としての武士の幕末維新を記して足りているが、下からの幕末維新としての民衆側の幕末維新をも記さねば片手落ちである。両派の幕末維新はいずれも当時の幕末時代が呼びこんだ大和民族の活力を示して余りあるものであり、世界史的に見て称賛的に評価されねばならないものである。かく史観を据えねばならない。これが、れんだいこ史観である。


 かく捉える時、みきの天理教創教運動弾圧史の真相が見えてくる。これを逆に云うと、かく捉えなければ見えてこない。幕末維新の渦が上からと下からと共に合流し明治維新を迎えた。これにより三百年近く体制化していた徳川幕藩体制が崩壊し、幕末維新派による新生権力が生まれた。これを明治新政府と云う。明治新政府は、徳川幕藩体制を崩壊せしめるのに功のあった薩長土肥の倒幕武士を中心とする権力であった。但し、この明治新政府内は、日本の土着系在地権力派と国際金融資本迎合派の拮抗と抗争を常としていた。この勢力関係が次第に国際金融資本迎合派を利して行くのがその後の流れとなった。つまり、明治維新は幕末維新の嫡出子ではあったが、本来の軌道から逸れ、時代の国際的潮流である国際金融資本帝国主義に籠絡させられていったことになる。これに抵抗したのが「士族の反乱」で知られる各地での決起であり、土着系在地権力派の盟主であった西郷派の反乱としての西南の役が鎮圧されたことにより幕末維新の理想が最後的に封殺された。


 返す刀で向かったのが「下からの幕末維新」の流れを汲む幕末創始宗教の弾圧であった。その幕末創始宗教の雄にして明治新政府の国際金融資本迎合派の諸施策に悉く屹立していたのが天理教であり、教祖みきであった。ここに天理教教祖みきが78歳の時の収監を「最初のご苦労」として以降89歳までの10余年の間に、17、8回にも及んで、警察署や監獄署へ度々「ご苦労」(捜査、訊問、科料、拘引、収監、留置)されることになった事情が見て取れる。かく観点を据えねばならぬ。

 では、天理教及び教祖みきが何故に目の仇にされたのか。これを確認しておく。全てはみき教義に関わっている。以下、これを検証する。


 みき教義を要約すれば、本書各章で説いたように、その教えはイエス教義、釈尊仏陀教義、陽明学教義、日本の古神道精神、幕末農政家教義、マルクス主義等の史上に英明な諸思想と親和するものであった。このことは褒められこそすれ批判されるべきものではないが、明治新政府の国際金融資本迎合派を操る国際金融資本帝国主義の信奉するネオシオニズムのそれと悉く鋭く対立するものであった。それが、人類創造譚である創世記からして対照的なものであることは「天地創造譚元の理考」で見てきた通りである。そのみき教義が全国津々浦々に浸透しつつあった形勢を見た明治新政府に危機感が生まれたことは想像に難くない。


 天理教団に対する弾圧に対して、「いのち永遠に−教祖中山みき」を著書している小滝透・氏は、れんだいこと同様の所見を披歴している。これを確認すると次のように云える。「天理教の成立は明治維新政府の天皇制国家神道形成過程と一致する。教祖の後半生は、明治政府が性急且つしゃにむに日本国家と国民をつくらねばならなかった時代背景と一致する。それ故に政府は、別のイデオロギーを持って社会改変を企てる社会集団を許せなかったと思われる。天理教が、何ほどかの政治的抵抗を企てた訳ではない。しかるに教団が認定されず、信仰が妨害され、最終的には教祖が80歳の高齢の身にも関わらず数限りなく拘引されるに至った理由は、この国民国家形成運動の疎外要素と見られたからだと思われる。


 政府は当初から疑いの眼を持って天理教団を見つめていた。その疑いは天理教の増大とともに膨らみ、遂には直接的な弾圧をかけるようになった。教祖の最晩年とはまさにそのような時代であり、理不尽にひるまない教祖派と政府の闘いは、教祖が没するまで続いていくことになった。天理教の「元の理」(創世記神話)は国家神道の「記紀神話」とぶつかった。「助け合い陽気暮らし観」は「皇国史観」とぶつかった。「最高神としての天理王命」は「現人神天皇の存在」とぶつかった。両者がぶつかる思想的根拠がまさにここにあった。天理教は、新政府の押し進めようとする神道統一政策、全国神社の格式規制化、敬神愛国精神、天理人道精神を称揚する国民教化政策にとって目の上のコブのような存在になっていた。その勢いが増せばなおそうなるという理屈であった」。


 その頃、国際金融資本迎合派系明治新政府は、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムと親和する皇国史観を生み出しつつあり、これを真っ向から否定しているみき教義に敵愾心を抱き、徹底弾圧を指示している。これは、1896(明治29)年4.6日、内務省秘密訓令第12号で確認できる。天理教の日清戦争に対する非協力ぶりが問題となり、言いがかりをつけてでも潰してしまえというものであった。これにより天理教の弾圧強化が指令された。天理教は淫祀邪教であるから、何かと難癖つけて潰してしまえという内務省訓令が警察の元締めである内務省から各警察に発令された。内務省訓令は次の通りである。
 「近来天理教の信徒を一堂に集め、男女混交ややもすればすなわち風俗を乱れるの所為に出で、或いは神水神符を付与して愚昧を狂惑し、遂に医薬を廃せしめ、もしくはみだりに寄付を為さしむる等、その弊害漸次蔓延の傾向あり。これを今日に制圧するは最も必要の事に候条、将来は一層警察の視察を厳密にし、時宜に依っては公然会場に臨み、もしくは陰密の手段を以て非行を抉摘し、その刑法警察令に触れるものは直ちに相当の処分をなし、又そのしからざるものは、必要によりては祈祷説教を差し止め、もしくは制限する等臨機適宜の方法を用いて、その取締りを厳重にして、殊に金銭募集の方法については最も注意を周密にし、且つその状況は時々報告すべし。なお、神仏各宗派にして禁厭祈祷、風紀並びに寄付金に関し天理教会に譲らざる弊害あるものも可有り。これまた同様の取締りを為すべし。明治29.4.6日 内務大臣芳川顕正」。

 みき教義は、1887(明治20)年のみき昇天後も「存命の理」の下で「お道」の導きの星となり、天理教の勢いは燎原 の火の如く燃え盛って行った。内務省秘密訓令第12号は、これに対抗するものである。 

 2012.3.14日 れんだいこ拝

【「応法の理」運動考】
 但し、「お道」が、事態をこのように捉えていた訳ではない。天理教団史は、みき存命中より教祖みきの厳命を無視し公認化運動へ突き進んでいる。教理では、これを「応法の理」と云う。これの仔細は「天理教教祖中山みきの研究」の各サイトに譲るが、ここでは流れを一覧で確認することにする。

 1866(慶応2)年、教祖69才の時、秀司派による参詣所としての公認化運動が始まっている。これが「応法の理」の始まりであり仮に「応法の理の動きその1」とする。政治権力との妥協を図る「応法の理」運動はこの時に端を発し以後様々に形を変えつつ「お道」の歴史の上に何度も繰り返されることとなる。教祖は、この動きに対し、親神の教えを広めるのに公許を受けねば広められぬなどというのは教えの根幹に触れるとして退け続けた。確認すべきは、「お道」創草期とでも呼べるこの時点で、存命中の創教者の指示に服さぬ動きが為されたことであろう。このこと自体珍しい。「お道」は早くも草創期に於いて、教祖及び教祖忠誠の教祖派と、教祖の意に反してでも「応法の理」に向かおうとする応法派と、両派の様子を見守る中間派という三派に分かれていたことになる。


 1867(慶応3年、6月、秀司らの応法派が京都の吉田神祇管領家に勧請し、7.23日付けで「天輪王明神玉串奉納神事」の認可を得た。これにより、「お道」信者は天輪王明神の氏子として届けられ、天下晴れて信仰、布教できるとことになった。これを仮に「応法の理の動きその2」とする。この時も教祖は、応法派の喜びに対して冷視している。


 この頃、幕末動乱の世となり、徳川政権が崩壊し明治維新となる。これを概略確認するに、1866(慶応2)年、10.14日、討幕の密勅が薩長に下った奇しくも同じこの日、慶喜が大政奉還を願い出て、翌日勅許される(「徳川慶喜が大政奉還の上表」)。1867(慶応3)年、「王政復古の大号令」。1868(慶応4、明治元)年、1.3日、「鳥羽・伏見の戦い」の幕が切って落とされ「戊辰戦争」が始まる。3.14日、新政府が樹立され、政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布する。これにより、天皇を最高権威とする太政官制が敷かれることになった。4.11日、江戸城が無血開城される。この後、明治維新政府の新政策が次々と打ち出されることになった。


 ここでその宗教政策を確認すると、水戸学に始まる国学、その粋である皇国史観で読みとるだけでは理解不能な動きが垣間見える。「王政復古の大号令」により天皇親政が始まり、1867年、「祭政一致の布告」、1868(明治元)年、「神仏分離令」、1870(明治3)年1月、神祇鎮祭ノ詔と「惟神の大道を宣布すべし」という「大教宣布の詔」が発布され、それまでの仏教国から神道国家へ切り替えることになった。これにより天皇の宗教的権威を基本とする神道的な国体観念に基づく国民教化が一段と進められた。1872(明治5)年、3月、教部省が設置され、翌4月、宣教使を廃止して教導職が置かれた。この頃、上からの一大国民教化運動としての天孫降臨教育が始められた。教部省は神官、僧侶を動員して、文部省は学校教育を通じて天理人道教育と称しこれを推し進めていった。教部省は、大教院を東京の芝の増上寺に移し、旧神祇官の八神殿が下賜され、これを神殿として天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大御神の四柱を奉斎した。大教院は神道の総本山としての皇道発揚の歴史的な役割を果たした。各府県の庁舎所在地に中教院、各郡・地域の神社、寺院に少教院を作った。伊勢神宮には神宮教院が設置されることが決められた。「伊勢神道式秩序化による国家神道の創出」が企図される。


 1873(明治6)年、1月、太政官布告で、「梓、市子等の所業を禁止」している。これは拝み祈祷の禁止条例であった。2月、金光教弾圧。2月、キリスト教解禁される。2月、教部省は、教導職の採用範囲を民間の宗教家、有力者、芸能家にまで拡大し、国民教化の要員に補充した。同月、「三条の教則」に加えて「11兼題」を布達した。「神徳皇恩の説、人魂不死の説、天神造化の説、顕幽分界の説、愛国の説、神祭の説、鎮魂の説、君臣の説、父子の説、夫婦の説、大祓の説」から構成されており、神道教義と倫理道徳の教えが一体化されていた。大教宣布運動盛んになる。1874(明治7)年、祈祷禁厭によって医薬を妨げる者の取り締まり令が発布された。この頃になって、末端の宗教信仰や行事などを取り締まる細則ができ上がり、この頃に至って本格的な宗教統制の動きが強められて行くことになった。こうして、設立の日浅い新興宗教各派は、独立公認にむけての運動を余儀なくされることとなった。


 1875(明治8)年、政府は、信教の自由を保障する旨の口達を出さざるを得なくなった。政府は、信教の自由と「国家の宗祀」とされた神社をどのように両立させるかという難間に直面することになった。これを打開する方策として、神社神道から葬儀行為などの宗教色を抜いて祭祀のみを残し、祭祀のみの神社は宗教のもっている一般的性格を欠くから宗教ではなく、従って政教分離を実現したことになるとしたうえで、国家神道を他の宗教に超越するものとして位置付けようとし始めた。


 1876(明治9)年、教祖79才の時、秀司が宿屋、蒸風呂の営業鑑札を受けている。これを仮に「応法の理その3」とする。この頃の社会事情として自由民権運動の全国的な拡がりがあった。政府は、これを圧迫する為に集会そのものを規制し始めた。これにより、各府県に神仏の名を借りて個人の邸宅内に人々を参拝させてはならないという「府県令」が出されていた。この規制は強まり、1880(明治13)年には集会条例が出され、人が三人以上寄って話しをすることが禁じられることとなった。この為に合法的な人寄せの口実を考えなくてはならないとの考えから思いついたのが蒸風呂と宿屋の営業であった。ところが、この年の末頃、秀司は無許可営業で検挙され、10日間取調べを受けた末、奈良監獄署で30日間拘留されている。この後も布教の自由を目指す「応法の理」運動が延々と続いて行くことになるが、応法により順応していけばいくほど今度は順応の仕方の科により取り締まられるという悪循環を為して行くことになる。


 明治10年代、維新政府は、こうした国家神道の超宗教化の基本方針に基づいて神社行政を内務省に移管し、一般宗教としての教派神道を祭祀に限定された国家神道から明確に区別する形で独立させ、伊勢神宮と官社の神官に葬儀への関与を禁止し、さらに神仏教導職を廃止するなど一国家神道の超宗教化のための法制面の準備をすすめた。

 1880(明治13)年、教祖83歳の時、秀司らの応法派の動きが強まり、こたびは金剛山地福寺の傘下に入り「転輪王講社」を設置することによって合法的な布教を目指そうとした。これを仮に「応法の理その4」とする。この当時布教が公認される為には、神道か仏教かキリスト教に属さねば許可されないという宗教統制が敷かれており、適宜な寺院.神社の配下になろうと探した結果、金剛山地福寺との関係取り持ちができた。9.22日(陰暦8.18日)、金剛山地福寺住職の日暮ゆう貞を講社社長、秀司を副社長とする「転輪王講社」(天理如来という仏式の講社)の開莚式を行なう。開莚式の日、修験者の祈祷の続く中大護摩がたかれ、日暮れゆう貞が山伏の法衣で戒刀を抜いて盛んに祈祷を勤めた。この時も、教祖の冷視が伝えられている。

 つとめ場所には、仏像だけでなく、星(転輪王)曼陀羅が飾られることになり、真言宗の象徴である輪宝が染め抜かれた紫の幕が張り廻らされ、転輪王講社と書かれた提灯が釣り下げられた。全くお寺風の雰囲気になり、お屋敷内では、社長としての日暮れゆう貞によって、星曼陀羅に祈祷して良い運命に帰るという理論に基づく説教が始まることとなった。日暮の説教は、真言蜜教と「お道」教義を折衷させた出色のものであった。俗耳に入りやすく、その後「お道」教義は「日暮教理」とでも云える方向へ変質させられて行くこととなる。但し、「おつとめを通じて世の立替え、世直しに向かう」と云うみき教義の眼目が去勢されており、且つ拝み祈祷的なものに回帰させられていた。教祖は、こうした「お道」の変質化に対し「残念、立腹」の激しいお言葉を発している。翌1881(明治14).4.8日(陰暦3.10日)、「転輪王講社」開設から半年余を経た頃、応法派のリーダーであった秀司が出直した(亨年61歳)。


 1884(明治17)年、教祖87歳の時、この頃、真柱の真之亮が応法派のリーダーとなり、教会設置運動に奔走し始めた。教祖ご足労が度重なる中、これ以上教祖にご迷惑を掛けず布教活動を堂々と行えるようにする為の公認化運動であった。これを仮に「応法の理その5」とする。この頃、教内では講元が個々に応法の動きをしていた。中でも、大阪南区の北炭屋町では天恵組の信者が中心となって竹内未誉至(みよし)、森田清蔵の二人を代表者として「神学道話講究所」を作っており、この年の9月、北炭屋町に「大日本天輪教会」を設置した。これを一元的全国的な組織にせんとして天恵組、真心組等の大阪の講元、続いて兵庫、遠江、京都、四国まで呼びかけ、竹内らの計画は次第に全国的に広がって行った。


 1985(明治18)年、教祖88歳の時、竹内らの計画が次第に全国的なものとなり、3.7日、真之亮、その側近、教外者をも含む約十名の人々が豆腐屋の一室で教会設置の会議を開いた。教祖派の中田儀三郎、桝井伊三郎、辻忠作、山中忠七、鴻田忠三郎、前川菊太郎、前川喜三郎、飯降伊蔵などは出席していない。但し、会議は、会長、幹事の人選方法、役員の月給制を廻って紛糾した挙句に頓挫している。この時も教祖は良しとしていない。

 これ以後、公認化運動はお屋敷の道人達の手で為されていくことになった。東京と大阪での公認化運動が始まり、教導職の資格をとることが先決ということになり、神道本局の管長宛に、真之亮はじめ十名の人々の教導職補命の手続きをした。ここに初めて「お道」信仰史上「天理」という名が登場することとなった。明治5年以来、文部省、教部省の勧める「三条の教憲」で「天理」が詠われていた。「三条の教憲」の第一条は、敬神愛国の旨を体すべき事。第二条は、天理人道を明らかにすべき事、第三条は、皇上を奉戴し朝旨を順守すべき事とあった。ここで云う「天理人道」とは、天つ神系の高天原の天照大神の御言葉にもとづいて、天皇の子孫を世界の君主として仰ぎ奉り、そこに従って生きるのが人民の道であるという諭しであった。この「近代天皇制的天の理」と「本来の天の理」には隔てがあるが、「近代天皇制的天の理」をもって「天の理」とするのが明治新政府の意向となっていた。「お道」は、語呂の不思議な一致に合わせて、それまでの転輪王信仰を天理王信仰に切り替えた。このことは同時に、「お道」が、教導職資格取得の為に、天皇家の先祖を神として祭祀しなければならなくなったことを意味する。これが、公認化の代価であった。

 4.29日、東京での動きと並行して、天理教会結収御願設立願書を大阪府知事宛に提出した。これは、教会規約、十二下りのお歌一冊、おふでさき第4号及び第10号、この世元始まりの話一冊と合わせて4冊の教義書を添付していた。ところが、これに対する地方庁の認可は容易に下りなかった。この頃、教外の藤村成勝と寸田種市の二人が活躍し始め、この二人が奈良、三輪、大阪を行き来して根回しし、東京の神道事務局(明治19年以後は神道本局)と折衝し始めた。5.9日、藤村、寸田両名による神道事務局への働きかけの結果、5.20日付けで真之亮に試補が授けられ、5.22日付をもって、中山新治郎様ほか十名に教導職の訓導補命辞令が下った。翌5.23日付で神道本局直轄部属の六等神道天理教会設置の認可が下がった。更に、その他の人々の補命も聞き届けられた。こうして、つとめ場所に天輪王明神以来のお社が再び祀られることとなった。今度は完全な神道式だった。

 こうして東京の神道本局の許可はとれたが、地方庁の大阪府からの許可をとるのが難しかった。約2カ月を経た6.18日、4.29日に提出されていた大阪府宛「天理教会結収御願」が却下された。「願いの趣聞届け難し」というだけで却下理由は明らかにされなかった。7.3日、大阪府道明寺村土師(はじ)神社の神主・今園国映(いまぞのくにはえ)男爵をはじめ、大神教会の会長小島盛可(もりよし)、役員守屋秀雄、笠松古輝、寸田種市、藤村成勝の諸氏の名を賛成教師ないし担任教師として連署せしめて「神道天理教会設立御願」を再び大阪府知事あてに提出した。10.8日(陰暦9.1日)、2回目に提出した願書が、3カ月も経過しているのに一向になんらの沙太もないまま、教会設立事務所で、真之亮も出席の上、講元らを集めて教会設置の会議が持たれている。10.28日、二度目の出願から約4カ月の後、大阪府へ願い出た願書が又々聞き届け難しとの一言で却下の指令が届いた。却下の指令が来た時、これについて教祖の思し召しを伺うと、「しんは細いものである、真実の肉まけばふとくなるで」という前回同様のお言葉が為されている。

 1886(明治19)年、教祖89歳の時、真之亮に呼出状が来た日から3日後の5.28日(陰暦4.25日)、神道本局の取調官がお屋敷へ来て査察している。時の神道管長・稲葉正邦の代理として権中教正・古川豊彭(とよみち・富岡八幡宮司)、その随行として権中教正・内海正雄(阿夫利神宮宮司)が、大神(おおみわ)教会会長・小島盛可を伴っていた。これは、「お道」が神道本局直轄の六等教会として認可されたことによる。一行は、彼らは信仰の専門家だけあって教理を聞き分けせんとして当日は取次から教理を聞いて予備知識を作り、翌29日、教祖にお目にかかって種々の点について質問をしている。教祖は床についたままであったが、諄々として教えの理をお説きになられた。こうして、教祖から直接種々なお話しを伺った後、「かぐらづとめ」、「お面」、「手踊り」を検分している。

 こうして、取調官は、綿密な聴聞と調査によって得られ知識を下に、官制神道を唱導する彼らの方針に照らして厳に注意を要すると感じた点を数カ条を抽出し、「お道」信仰に制限を課すことを指示するところとなった。神道管長代理権中教正・古川豊彭宛ての次のような「請書(誓紙)」が提出せしめられ、中山新治郎、飯降伊蔵、桝井伊三郎、山本利三郎、辻忠作、高井直吉、鴻田忠三郎が署名している。この面々を見れば、当時の「お道」の高弟達が知れることになる。仲田儀三郎が健在であれば名を列ねるところであろうが、この時既に床に伏していた。

 「請書(誓紙)」は、「一、奉教主神は神道教規に依るべき事」、「一、創世の説は記紀二典に依るべき事」として、明治維新政府の定める国家神道の神を認め、創世の説は記紀二典に拠ることを厳命していた。「一、人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事」として、教祖の創世神話「元始まりの話」を説くことの禁止、仮に説く場合にも「記紀神話」に適合させた上で説かれるべきこと、人間一列同魂説を説くことの禁止を厳命していた。「神命に託して医薬を妨ぐべからざる事」として、医薬による病気直しを妨げてはならず、教祖から信徒へ下されるカリスマの分与的意味を持つ「おさづけの理渡し」をも禁止していた。「教職は中山新治郎の見込を以って神道管長へ具申すべき事、但し地方庁の許可を得るの間は大神教会に属すべき事」として、真柱の中山新治郎を神道教会の会長とすること等、「お道」の人事まで容喙していた。

 以上が、明治新政府の官制神道の見地にたって見た場合の「お道」の問題点であったものと見做される。一見して「応法の理」をあからさまにした誓紙であることに気づかされる。要点は、教祖の教えを通俗化させること、教祖の地位の後継を家系的血筋的に取り込むことを指示していたところにあった。これが布教公認の代価であった。こうして、官憲側よりする取締りは、次第に「お道」教義の内容に迄立ち至って来ることになった。「お道」に対する取り締まりを法律的に為すだけではなく、教義の中味に立ち入り、「お道」信仰の眼目であり象徴である「元の理」を取締りしていた。こうして「請書」が踏み絵となった。応法派にとっては了承済みの内容であったが、教祖一途教理派にとっては受け入れ難いものであった。これに構わず強行して行くのがこの後の応法の理運動となる。そしてそれが次第に見る影もないほどの教義変質まで定向進化していくことになる。してみれば、「御請書事件」はその元一日であり、その理の是非を深く思案せねばならないことのように思われる。

 1888(明治21)年、お道の公認化を求める流れは既に勢いであった。教祖1年祭を終え、神道教会設置がいよいよ本格的になった。教祖派にして教祖没後に本席として法灯を継承していた伊蔵にも止めることのできないなりゆきになっていた。この年の3.9日、安堵村の飯田宅で、真之亮を中心に教会設置の話が重ねられることになる。3.14日、清水、諸井の二人が上京し、本局の篠原教正に面談した。3.20日、古川教正、内海教正に面談した。この間、真之亮は、守屋秀雄を仲介役、松村吉太郎(中山たまへといとこ関係、のち高安大教会長)を交渉役として大神教会の添書を得るため奔走している。

 3.30日、真之亮は、東京で駄目なら二度と西へ向いて帰らんという決意で教会設立の為東京へ出発した。大阪で大神教会の添書を受け取り、3.31日、平野楢蔵、松村吉太郎を従者として出航した。4.3日、篠原教正、阿部教正、大畑教正、古川教正を訪問し、3.4日、神道本局の稲葉管長邸を訪ねた。3.5日、、神道本局管長の添書を得て、4.5日、願書を提出した。4.7日、東京府庁に出願した。この事業を松村吉太郎が推し進め、ほぼ一ヵ月後の4.7日、教会設立願書を東京府庁に提出した。4.10(4.21)日、神道直轄天理教会(奉教主神は十柱大神)が、東京府知事(高崎五六)より、当時の下谷区北稲荷町42番地(現・東大教会所在地・台東区)で認可された。これにより朝夕のつとめに「天理王命のつとめ」(「悪しきを払うて、たすけ給い、天理王命」)が行われることになった。7.23日、真之亮は、橋本清を帯同して奈良県庁へ出向き移転届けを提出し、天理教会本部がお屋敷に移転された。11.29(陰暦10.26)日、神道直轄天理教会本部開筵式を盛大に祝った。開筵式を期に「みかぐらうた」が初めて本部から公刊された。前川菊太郎の名で出されたが、天理王命の神名が初めて登場した。11.30日、秋季大祭。この時、神道天理教会規約が制定された。12.1日、月次祭。こうして、三日間打ち続く盛大な祝典が執り行われた。ここにひとまず大っぴらに布教活動が可能になった。

 1889(明治22).2.11日、明治憲法(大日本帝国憲法)が、翌明治23年には教育勅語が発布された。国家神道路線から外れる宗教.思想の弾圧政策が強化された。天理教は公認されていたが、官憲の迫害干渉が止むことはなかった。それは、天理教教義が、明治憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」、第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」、第4条「天皇は国の元首にして統治権を総攬す」と規定した天皇主権、教育勅語の「もって天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の皇室賛美、皇国史観に抵触して居るからであった。明治憲法の基本原理は、いわゆる国体原理を天皇制に求め、「我国の建国以来、天皇は、天孫降臨の際に天照大神が下した天壌無窮の神勅に基づいて我国を統治する地位にあり、臣民は、本来的にこの天皇の統治に無条件に隷従すべく運命づけられている」としていた。こうした皇祖・天照大神を頂点として再編した国家神道イデオロギーによる天皇主権による天皇の日本統治の正統性がイデオロギー的支柱となり、遂には「八紘一宇」を唱えて世界支配までを胚胎するようになり、これが後々の大東亜戦争の聖戦イデオロギーに化していくことになる。「豊葦原」、「瑞穂」の国の国家観、国産み神話、天孫降臨神話、神武天皇御東征神話、天皇の万世一系観、これらが大日本帝国憲法に結実していくことになる。これが国体観を生み出すことになる。あたかも、ヨーロッパのユダヤーキリスト教的帝国主義の世界支配に対抗する為にアマテラス帝国主義で対抗せんとして神惟の道を採用したかの如くであった。

 この皇国史観に幕末に生まれた教派神道は次々と組み込まれていった。これを確認すると、1875(明治 8)年に神道事務局が設置され、黒住教、神道修成派、出雲大社教、扶桑教、実行教、神道大成教、神習教、御嶽教、神道大教、神理教、禊教、金光教の順に一宗独立が許可されている。最後に、1908(明治41)年、11.27日、天理教が、神道本局の傘下から離れ一派独立を認可される。ここに天理教は悲願の天皇制政府公認の神道教団となった。5回目の独立請願に対して、神道本局は漸く独立を許可したことになる。「神道直轄天理教会本部」は「天理教教会本部」と改められた。11.28日、真柱の真之亮が天理教管長に就任した。11.30日、教会の名称を、大教会、教会、分教会、支教会、宣教所に組織分けしている。但し、公認の代償は大きかった。天理教教典第一章敬神章には、「天地地祇の神を代表する、天照大神を含む天皇の先祖十柱の神を総称して『天理大神』という」と記されたように、教祖の御教えの上に御教えと反する皇国史観国家神道を置く形でのみ公認宗教の座に連なることができたことになる。その後の天理教団は、この歪みと共に歩むことになり、多くの異端生み出す要因ともなった。


【明治新政府の天理教弾圧事情考その2】

 総まとめとして、明治新政府の天理教弾圧事情を確認しておく。天皇制イデオロギーの称揚根拠について、次のように捉えることができるようである。「いのち永遠に−教祖中山みき」p117を引用する。多少異論もあるが参考にして良い文章である。

 近代日本は、激しい西欧列強の圧力のもとにさらされていた。それは、政治的.軍事的.経済的.社会的.文化的.宗教的な一切合財の圧力である。この激しい圧力に抗し、自国の独立を守り、近代国民国家を形成するのは、それこそ至難の業であった。ほとんどの国はそれに失敗した。アジアの名だたる世界帝国(オスマントルコ帝国.ムガール帝国.清帝国)でさえ自国の独立を保てなかった。オスマントルコ帝国は次々とその領土を切り刻まれ、小アジアの一部(アナトリア)に押し込められた。ムガール帝国は、セポイの乱に敗北し、ヨーロッパの一島国たるイギリスの植民地になった。中国はかろうじて独立は保ったものの、群がる西欧列強の攻勢に拠り、虫食いのようにその領土を割譲させられた。

 彼らが負けた理由ははっきりしている。オスマントルコ帝国にもムガール帝国にも清帝国にも、トルコ国民、インド国民、中国国民という人間集団は未だいなかった。あるのはただバラバラに存在する各種の社会集団や共同体の寄せ集めだけであった。西欧の列強はそうした社会集団や共同体を分断し、各個撃破していったのである。アジアの封建国家群は持ちこたえられずに崩壊した。そして、西欧列強の格好の餌食となった。

 日本の場合にも、基本的には他のアジア諸国と同じであった。そこには、薩摩人や長州人や会津人はいた。武士や農民や職人や商人はいた。しかし、「日本国民」はいなかった。そして、彼らはその直接的な忠誠をバラバラな対象に投げかけていた。幕府も朝廷も未だ人々と直接的なつながりを持っていなかった。繰り返すが、この時点で日本国民は存在していなかったのである。従って、明治維新が成立した時、新政府が最も力を入れたのは、この日本国民の形成である。薩摩人を、長州人を、会津人を解体し、溶解し、再編して日本国民につくり変えなければならなかった。武士や農民や職人をことごとく鋳型にはめて押しつぶし、日本人という国民にしなければならなかった。

 新政府はその一点を目指し、階級性(士農工商)をぶち壊した。廃藩置県を強行した。義務教育制を施行した‐‐‐。その時、新政府が思想的根拠としたものこそ、国家神道(新たなる天皇の物語)だったのである。一つの神話(記紀神話)、一つの歴史物語(皇国史観)、一人の現人神(天皇)−これが、国民国家形成に向けた維新体制のスローガンである。維新新政府は、国家神道を鋳型にして、有無を言わさず日本国民をつくり上げた。新たな日本国民の誕生には、それに見合う強力な国家宗教物語が必要だったのである。

 これを踏まえて補足すれば、次のように云えるのではあるまいか。

 天理教の成立は、近代国家神道の成立過程と一致する。教祖の晩年は、特に明治政府が、性急に、且つしゃにむに日本国民をつくらねばならなかった時代背景と一致する。明治政府が、維新政府の青写真を阻害する社会集団を許せなかったのは、ある意味で当然のことだった。政府は当初から疑いの眼を持って天理教団を見つめていた。その疑いは天理教の増大とともに膨らみ、遂には直接的な弾圧をかけてくるようになった。教祖の最晩年とはまさにそのような時代であった。天理教が、何ほどかの政治的抵抗を企てた訳ではない。しかるに、教団が認定されず、信仰が妨害され、最終的には教祖が80歳の高齢の身にも関わらず数限りなく拘引されるに至った理由は、この国民国家形成運動の疎外要素と見られたからであるとする説は正しい。 

 特に、天理教の「元の理」(創世記神話)は国家神道の「記紀神話」とぶつかった。「助け合い陽気暮らし観」は「皇国史観」とぶつかった。「最高神としての天理王命」は「現人神天皇の存在」とぶつかった。両者がぶつかる思想的根拠がまさにここにあった。天理教は、新政府の押し進めようとする神道統一政策、全国神社の格式規制化、敬神愛国精神、天理人道精神を称揚する国民教化政策にとって目の上のコブのような存在になっていた。その勢いが増せばなおそうなるという理屈であった。

 但し、この観点だけでは説明がつかない。と云うか表相的なように思われる。明治維新政府の青写真をも規定していた背後の国際金融資本帝国主義のネオシオニズムとの思想上の摩擦を顧慮はなければ片手落ちではなかろうか。ならば、ネオシオニズムとは何者か。これを本稿で記すには紙数の余裕がないので轄愛する。詳しくは以下のサイトに記す。

 「ユダヤ主義考」
 (judea/)


 結論的に確認すべきは要するに、天理教弾圧の背景にあったものは、黒船来航以来のネオシオニズム勢力による日本思想、精神の統制、溶解ではなかろうか。天理教がネオシオニズムと最も鋭角的に対立する思想、宗教であったが故に容赦なく弾圧をお見舞いされたと云う史観が欲しい。この観点に得心できぬ者は次のことに留意すれば良い。明治維新政府の親国際金融資本派は、国際金融資本帝国主義の指示に従い、用意周到に日本の日本思想、宗教統制に乗り出している。この時代にみきは、維新政府の政策と異なる道筋を指し示した。お筆先には次のように記されている。

 「高山の、お池に沸いた水なれど、出端は濁り五目混じりで」(2.25)
 「これからは、高山池へ飛び入り、 いかな五目も掃除するなり」(2.29)
 「唐人が、日本の地へ入り込んで ままにするのが神の立腹」(2.32)
 「段々と、日本助ける模様だて、唐人、神のまゝにするなり」(2.33)
 「この先は、唐と日本を分けるでな、これ分かりたら世界治まる」(2.34)
 「今までは、上たる心分からいで、世界並みやと思うていたなり」(2.35)
 「珍しい、この世創めの甘露台、これが日本の治まりとなる」(2.39)
 「高山に、火と水とが見えてある、誰が目えにも、これが見えんか」(2.40)
 「高山の、日本のものと唐人と、分けるもよふも これも柱や」(2.46)
 「唐人と日本のものと分けるのは、火と水とを入れて分けるで」(2.47)

 「高山は世界一列思うよう、ままにすれども先は見えんで」(3.48)

 「高山の真の柱は唐人や、これが第一神の立腹」(3.57)
 「上たるは段々世界ままにする、神の残念何と思うぞ」(3.58)
 「今までは、唐(から)が日本をままにした、神の残念何としょやら」(3.86)
 「この先は、日本が唐をままにする、みな一列は承知していよ」(3.87)
 「同じ木の根と枝とのことならば、枝は折れくる根は栄え出る」(3.88)
 「今までは、唐は偉いと言うたれど、これから先は折れるばかりや」(3.89)
 「日本見よ、小さいように思うたれど、根が表れば恐れいるぞや」(3.90)
 「今の道、上のままやと思うている、心違うで、神のままなり」(3.120)
 「上たるは、世界中をままにする、神の残念、これを知らんか」(3.121)
 「高山にそだつる木も、谷底にそだつる木も、みな同じ事」(3.125)
 「今までは、高い山やと云うたとて、用木見えた事はなけれど」(3.140)
 「この先は、高山にても段々と、用木見出す模様するぞや」(3.141)
 「高山の 説教聞いて 真実の 神の話を 聞いて思案せ」(3.148)
 「日々に、神の心の急き込みは、唐人コロリこれを待つなり」(4.17)
 「段々とよろづ助けを皆教え、唐と日本を見分けるばかや」(4.57)
 「日々に唐と日本を分ける道、神のせき込みこれが一条」(4.58)
 「この子供、何も教えへて早やばやと、神の心の急き込みをみよ」(4.64)
 「段々と、子供の出世待ちかねる、神の思惑こればかりなり」(4.65)
 「子供さへ、早く表へ出したなら、唐(から)を日本の地にするなり」(4.66)
 「この道を、通り抜けたらその先は、唐は日本の地にしてある」(4.102)
 「唐の地を、日本の地にしたならば、これ末代の行き通りなり」(4.103)
 「今迄は、高い山やと云うていた、谷底にては意見ばかりを」(4.120)
 「今までは日本が唐に従うて、ままにせられた神の残念」(4.128)
 「この返し、神の働きこれを見よ、如何なものでも真似はでけまい」(4.129)
 「日本に(も)古記が出けた事ならば、何でも唐をままにする(なり)」(5.32)
 「今までは、唐や日本と言うたれど、これから先は日本ばかりや」(5.41)
 「枝先は、大木に見えてあかんもの、構えば折れる先を見ていよ」(5.42)
 「見えるのも、何の事やら知れまいな、高い山から往還の道」(5.57)
 「この先は、なんぼ唐やと云うたとて、日本が負けるためしないぞや」(5.84)
 「高山は、何を云うても思うにも、皆人間の心ばかりで」(6.69)
 「今までは高い山やとはびかりて、何かよろづをままにしたれど」(6.72)
 「これからは月日替わりてままにする、何かの事を真似をしてみよ」(6.73)
 「この返し、大社高山取り払い みな一列し承知していよ」(6.115)
 「この世界、何かよろづを一列に、月日支配をすると思えよい」(7.11)
 「この話し、どういう事に思うかな、これから先の道を見ていよ」(7.12)
 「どのような高い山でも水かつく、谷底やとて危なげはない」(7.13)
 「月日よりとびでるとこる一寸話し、高いところや遠いところへ」(9.21)
 「段々と、月日体内入り込んで、縦横自在をして掛かるでな」(10.5)
 「したるなら、なんぼ唐やと云うたとて、日本のものに これは敵(かな)わん」(10.6)
 「これからは、日本のものは段々と、月日引き立て、これを見ていよ」(10.9)
 「日本には、柱を立てる事ならば、病まず死なずに、弱りなきよに」(10.11)
 「今までは、唐やと云うてはびかりて、ままにしていた、今度返しを」(10.12)
 「日本にも、こふきを確かこしらへて、それ広めたら唐はまゝなり」(10.88)
 「しかと聞け、高山にても谷底も、見れば月日の子供ばかりや」(13.26)
 「世界中一列は皆兄弟や、他人と云うは更にないぞや」(13.43)
 「この元を知りたる者はないのでな、それが月日の残念ばかりや」(13.44)
 「高山に暮らしているも谷底に、暮らしているも同じ魂」(13.45)
 「それよりも段々使う道具わな、皆月日より貸しものなるぞ」(13.46)
 「それ知らず皆人間の心では、なんど高低(たかひく)あると思うて」(13.47)
 「月日には、この真実を世界中へ、どうぞしっかり承知さしたい」(13.48)
 「月日より真実思う高山の、戦い災禍治めたるなら」(13.50)
 「しかと聞け、高山とて谷底を、ままにしられた事であれども」(13.56)
 「これからは月日かわりに出るほどに、ままにしようならすればしてみよ」(13.57)
 「今までは何か文句が違うでな、これから先は神のままやで」(13.58)
 「高山でどのよなものがはびかるも この真実を誰も知ろまい」(13.97)
 「このはなしどこの事とも云わんでな 高山にても谷底までも」(13.109)
 「今日までは大社高山はびこりて、ままにしていた事であれども」(14.30)
 「これからは親が替わりてままにする、これ背いたらすぐにかやすで」(14.31)
 「今までは高山やとてけんけんと、ままにしていたことであれども」(15.57)
 「これからは如何ほど高い山でもな、谷底ままに更にでけまい」(15.58)
 「この先は世界中どこまでも 高山にても谷底までも」(**.**)
 「日本のものを引き立てる。どのような事も皆教え、知らん事がないようにする」(**.**)
 「どのよふな大社高山油断しな なんどき月日飛んで出るやら」(*.**)
 「高山がはびこる、唐がはびこる」(**.**)

 「王政復古」は、超自然的支配者としての伊勢神道系の神を措定し、明治天皇がその神に仕えることによってその権威で現世的支配権を得ることになり、実践的に維新政府下での絶対的君臨者としての特別な存在に位置づけられるという論理構造を見せていた。みきは、この論理から生み出された教部省、文部省の天皇制イデオロギー、各種の神話(国産み神話、天孫降臨、天照大神の神勅、神武天皇の御東征、八紘一宇の詔勅等々)と大きく異なる教えを述べ始めた。これが弾圧の背景となる。

 (最新見直し2006.1.23日)






(私論.私見)