第58部 1874年 77才 「山村御殿問答」、「中教院の節」
明治 7年

 更新日/2019(平成31→5.1日、栄和改元).9.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【山村御殿問答】

 「大和神社、石上神宮神職との神祇問答」の余波として、奈良県庁から、仲田、松尾、辻の3名に対して差紙が届けられた。当時、奈良県庁は、興福寺一乗院の建物に仮住まいしていたが、3名がその県庁へ出頭すると、社寺掛の稲尾某が待ち受けており、3名を別々に取調べ、信心するに至った来歴を問いただした。

 こうした折、県庁より、12.23日(陰暦11.15日)に、取調べをするから教祖に出頭せよとの呼出し状が届けられることになった。場所は、県庁ではなくて山村御殿が指定されていた。山村御殿とは円照寺といい、臨済宗系の尼寺で、中宮寺、法華寺と並ぶ大和の三大門跡寺と称される名刹(めいさつ)で、奈良県添上郡帯解村大字山村にあり、北大和一帯ではもっとも格式の高いとされている寺院であった。後水尾天皇の皇女・文智女王以来、代々皇女が門跡となられていた。但し、天皇の御養子手続きを要した。これにより、明治天皇の伯母に当たる方となる伏見宮邦家(くにいえ)親王の第五女の伏見宮文秀女王(1844(弘化元)年生まれ)が、1860(万延5)年、19歳の時、孝明天皇の養女となられ、大和の円照寺門跡となられていた。門跡とは、代々皇族が住職となる寺院あるいは住職自身のことを云う。京都の仁和寺(にんなじ)や青蓮院(しょうれんいん)などがその代表だが、時代が下るに従って、皇族以外の高級な公家の子弟なども入れるようになった。してみれば、門跡とは、寺院の格付けを言い表しており、「超Aクラス」ということを意味していることになる。

 こうして教祖は、奈良県社寺係の命で、伏見宮文秀女王のおられる「山村御殿」へお出ましになることになった。顛末は次の通り。教祖は呼び出しに応じ、いそいそとお出かけになったが、この時お供したのは、辻忠作、仲田儀三郎、松尾市平衛、柳本村の佐藤某、生駒郡平群町畑村の大東重平衛の5名であった。お供の面々にしてみれば、県庁の呼び出しともあれば、一体どんなことになるのであろうか、と薄気味悪い不安で一杯であった。時も折、教祖は、途中田部村の小字車返しという所で、ふと躓いてお転びになり、下唇に怪我をなすった。ただでさえ不安一杯の人々の間には、言いようのない狼狽とざわめきが起こった。教祖は平気な顔で、下唇に怪我をなさったことについては、「下からせり上がる」と仰せになり、血のにじんでいることについては、「明るいところへ出るのやで」と、いとも朗らかなご様子で少しも気になさらなかった。不安のままに出向きつつある一行は教祖の無頓着さに安堵した。先方へ着き、荘厳な門をくぐり奥まった圓通殿と云われる持仏堂(じぶつどう)まで足を踏み入れると、不安と緊張でのどがからからになった。

 この時もみきは、菊花紋の紋付をきていた。取り調べたのは社寺係・稲尾仙造、これを中にして石上神宮の大宮司・菅正友と他一名の神職が立会い、まさに威嚇の態勢だった。御簾の向こうには伏見宮文秀女王が控えていた。稲尾は居丈高になって、「その方たちの云う神とはいかなる神ぞ」と尋ね、ここから問答が始まった。教祖は、元始まりの話を諄々と宣べ(辻忠作手記による)、その一区切りに平然と、

 「親神にとっては世界中は皆な我が子、その子らが難儀している姿を見て、このたび天下った。一列を一人も余さず救けたいのや」

 と答えられた。この時の問答が概要として伝えられている。それによると、教祖は次のように仰せられた。

 概要「この世を始めた本当の神は天輪王であり、この神が親神である。国が教えている神というのは皇室の先祖神に過ぎない。天皇もその先祖も天照大神も親神の子、百姓も親神の子、世界一列は皆な兄弟です。私はその真実に基づいて、親神の働きを分けて演ずるつとめ人衆に神名をつけて、つとめの理を教えている。こうして天輪王の心になって人助けをするのが私達の信仰です。高低のある世界が何にもまして神の残念です」。

 稲尾某は、「そこまで、お前の神が真実の神だというのなら、この方が4,5日他を廻って来る間に、この身に罰をあたえてみよ」と云った。その途端、教祖は次のように言い放たれた。

 「天輪王は人間に罰を与えるような神ではない。しかし、誤った方針にすすめば火水風共に退くと知れ」。

 しかし、護身のために汲々として、自分の職責を事なく進めたい以外に何ものもない俗吏などに、真実の親の心がわかろうはずがない。恐れを知らぬ教祖の態度は、かえって神経病としか思えなかったらしい。立会いの医者に脈をとらすと、医者は驚いて、「この人は老体ではあるが、脈は十七、八歳の若さである」と言った。この一言は、お供の面々にとって、どんなに大きな喜びであっただろう。まさに、教祖が常人ではないことを、医者の診断によって証言されたのである。「我々の教祖は、何時何時までも変わらぬ若さとお元気で、我々をお導き下さるのだ」と、この信念が、どれほど当時の人たちに力強い思いを与えたことであろう。

 尋問は打ち切られ、風聞されている手踊りに関心があったのか「今日は芸のあるだけを許す」と告げられた。教祖ら一同は思いがけぬも支度に移った。辻の地歌で、仲田が、いとも陽気に手踊りのつとめを始めた。仲田は義太夫の心得があり、よく周囲の者を笑わせ和ませる才の持ち主であったと伝えられている。四下り目まで踊り終えた時、「もう宜しい」と止められた。「まだあと八下りあります」と続けようとしたら強いて止められた。宮殿下の心に何ものか通ずるものがあったのか、 茶菓の御馳走にまで預かり、丁重なおもてなしを頂いて帰るところとなった。

 こうして、どうなることかと思われた不安の出来事も、全てを明るくさとることをお教え下された教祖のお導きによって、帰りはかえって意気軒昂、かつまた常人に見られぬ教祖の健康の様子を知らされ、まさに 「節から芽が出る」とのお言葉さながらの結果を見ることができて一同の心は喜び一杯であった。教祖は、「山村御殿へのお出まし」の翌日の朝、次の句を詠まれた。これらはいずれも「お筆先」号外とされている。

 日々に 心つくした ものだねを
 神が確かに 受け取りている
お筆先号外
 真実に 神の受け取る もの種は
 いつになりても くさる目わなし
お筆先号外
 段々と このものだねが 生えたなら
 これ末代の こふきなるぞや
お筆先号外

(私論.私見) 「伏見文秀女王の山村御殿への呼び出し」考

 「伏見文秀女王の山村御殿への呼び出し」につき、通説教理は次のように説いている。

 「このたびの呼び出しは、教祖が、折にふれ人間の常識を越えた不思議な力をお見せなったりすることを、当時の迷信的な考えから狐狸の類と同一視し、高貴なお方の前に引き据えたらその威光の前に正体を暴露するであろうというような、威光を借りてとっちめようとの幼稚極まる考えであったらしい」。

 しかし、伏見文秀女王の履歴を確認するに、事はそう簡単なものではない。「孝明天皇と宗忠神社」(真弓常忠、神楽岡・宗忠神社発行、1992.10.18日初版)によれば次のことが判明する。伏見文秀女王は皇室内の熱心な黒住教の庇護者兼帰依者であられた。後に備前岡山大元の宗忠神社の社名額を書かれている御方である。あるいは他にも宗忠詠歌の道歌を認(したた)められている。してみれば、黒住教の庇護者兼帰依者としての伏見文秀女王が、「中山みき教理」に対する関心を深め、直々に確認したいとの要望もあり、「山村御殿への呼び出し」となったと拝するべきではなかろうか。それ故に「教祖が元始まりの話しを諄々と宣べられ」、「今日は芸のあるだけを許す」と相なったのではなかろうか。そういう意味で、通説教理の底浅さを確認すべきだろう。天理教史及び天理教教理を理解するのに同時代の創始宗教との関連をも見ながらでないと正確な理解にならないことを肝に銘ずるべきだろう。

 2014.1.16日 れんだいこ拝


【中教院の節】
 翌12.25日(陰暦11.17日)、奈良中教院より、信仰差し止めの通知と辻、仲田、松尾の三名の呼び出し状が届いた。興福寺金堂の奈良中教院へ三名が出向くと、「転輪王という神はない」、「繰り返すが天理王という神などない。神を拝むなら、大社の神を拝め。世話するなら中教院を世話せよ」、「二度と再び、あの婆さんの教えを説いてはいかん」と、信仰差し止めの旨を勧告された。その足でお屋敷へやって来て、幣帛、鏡、みす等の祭具を没収するという事件が起った。これから後、県庁は、お屋敷へ参拝人が出入りしないよう、取締りは一層厳重を極めるようになった。これを「中教院事件の節」と云う。

 諸井政一「正文遺韻抄」87頁「中教院へ呼出」は次のように記している。
 「その後まもなく、また奈良中教院へ呼び出しになりました。その頃、諸所で神道(しんとう)の説教を政府が干渉してさせまして、教導職も只今とは違いまして、なかなか位(くらい)が ようござりまして、大いに神道を引き起こしました。それについて取り締まる所が即(すなわ)ち中教院。それへ辻様、松尾様、仲田様と三名にてご出頭になりますと、だんだん説諭(せつゆ)を加えられまして、 『宗旨(しゅうし)は これまで通りの宗旨に従え。信心したくば大社へ信心せえ。狐とも、狸とも、気違いとも解らぬ者に信心して何になるぞ。近い所に布留(ふる)の大社(石上神宮)もあるではないか』と種々様々に申して信心させまいと致します。三名はただ『はい、はい』と言うたのみで お帰りになりましたそうでございます」。

 「辻忠作文書」は次のように記している。
 「その後、奈良中教院というへ、仲田、辻、松尾 三人呼び出され尋問を受けました。『その方ら、天理王命を信心する。そんな信心するより、石上神宮〈が〉側にある。病気なら医者にかかれ。世話するなら、中教院の世話〈を〉せよ』と色々説諭せられ、そのうえ地場(ぢば)に祀りありし幣(へい)、御簾(みす)、鏡(かがみ)等一切取り上げられました」。
 (大正9年4月25日、道友社発行「本部員講話集中」辻忠作「ひながた」〕より)
 「後、奈良の中教院へ呼び出され、仲田、松尾、辻 三人行きて色々尋問の上、説諭をなした上、御地場(おぢば)に祀(まつ)りありし鏡(かがみ)、弊(御幣/ごへい)、簾(御簾/みす)などを取り上げになりました。 それより神様からおふでさきにお出しなされたは、
 『このところ たすけ一条 止められて 何でも返やし せずに居られん』(六 114)
 『この返やし 大社高山 取り払い みな一れつは 承知していよ』(六 115)
と仰せありました」。
 (辻忠作文書、初代真柱様へ提出の「別席之御話」(明治31年)〕より。 【註】復元 第31号「天理教教祖傳叢書一」においては、「ひながた」と題されている)

 教祖は、この中教院の干渉に関して、

 月日より つけた名前を とりはらい
 この残念を 何と思うぞ
六号70
 真実の 月日立腹 残念は
 容易なる事で ないと思えよ
六号71

 と、月日親神の「立腹残念」であるとのお言葉を誌されている。

 「辻忠作文書初代真柱様へ提出の別席之御話」(明治31年)は次のように記している。
 「…後、奈良の中教院へ呼び出され、仲田、松尾、辻 三人行きて色々尋問の上、説諭をなした上、御地場(おぢば)に祀(まつ)りありし鏡(かがみ)、弊(御幣/ごへい)、簾(御簾/みす)などを取り上げになりました。それより神様からおふでさきにお出しなされたは、『このところ たすけ一条 止められて 何でも返やし せずに居られん』(六 114)、『この返やし 大社高山 取り払い みな一れつは 承知していよ』(六 115) と仰せありました」。

【教祖、「月日」と改める】 
 教祖は、「山村御殿問答」、「中教院の節」を受けて、12.21日のお筆先より、それまで用いられた「神」の文字表現を「月日」と改め一段と親神の理を明かされた。明治13年に「をや」と改めるまで使われることになる。「月日」とは、「天地日月、森羅万象」を縮めたもので、新政府の天皇神との違いを際立たせる必要からの表現変更であったとも拝察される。この頃のご執筆と思われるが、お筆先第六号には次のように誌されている。
 このよふの 月日の心 真実を
 知りたるものは 更にあるまい
六号9
 このよふの 真実の神 月日なり
 あとなるは皆な 道具なるぞや
六号50
(私論.私見) 「月日」考
 教祖が、「神」を「月日」と改められた背景には、「山村御殿問答」、「中教院の節」の遣り取りで、神表現は天皇家の祖先を崇める為に使われるものであって、教祖の説くがごとき転輪王を神と唱えるのは不敬であるとの達しが為されたのではなかろうか。教祖もまた維新政府が押し進める天皇制神道教理との紛らわしさを避けるため「月日」と表現を改めることになられたのではなかろうか、と拝察させていただく。





(私論.私見)