天理教と布留遺跡との浅からぬ関係考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.12.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教と布留遺跡との浅からぬ関係考」をものしておく。

 2010.7..23日、2010.8.7日再編集 れんだいこ拝


【教祖と大神大社との関係その1】
 前おやさと研究所長・井上昭夫「まえがきにかえて〜鋳型と雛型・天理砂岩と御座所」参照。
 概要/黄土色の砂岩が天理砂岩(豊田砂岩)。斉明天皇(在位 655 〜 661)の時代に飛鳥でつくられた亀型湧水遺構に天理砂岩が要石としてつかわれていた。2000年、考古学的発見が各新聞紙上でおおきく写真いりで掲載された。飛鳥のローマのコロシアムを想起させるような階段状の石組亀型湧水遺構の要石・豊田砂岩は、わが国最初の貨幣といわれる「富本銭」の鋳型にもつかわれていた。鋳型と雛型は脚韻でつながり、天理教教祖中山みきの「ひながた」の道にもつながっている。鋳型と雛型は単数が複数をうむ元型である。「みかぐらうた」に「一せん二せんでたすけゆく」と詠われる「せん」(銭)も、火水風土の力で練磨された型からつくられている。

 三輪山の北隣にならぶ龍王山の中腹のおおやまとの萱生環濠集落に住居をかまえる古老が所有する柿畑やミカン畑の一角に10数メートルもある楠・樟(くすのき)の古木が泰然と屹立している。くすのきは樟脳を産出するゆえか開花時には特異な芳香を放つ。日本最大の巨木は鹿児島県の八幡神社の「蒲生の大楠」(幹周24.2 メートル)で神木としてあがめられ国指定の特別天然記念物に指定されている。虫害や腐敗に強いため古来から船の材料として重宝されていた。大阪湾沿岸からは楠製の古代時代の船が何艘も出土している。そのさまは古事記の「仁徳記」に登場する快速船「枯野」の逸話からもうかがうことができる。室町から江戸時代にかけては軍船の貴重な材料にもなったといわれる。

  飛鳥の酒船遺跡からみつかった石垣遺構や、隣接する亀型湧水遺構に天理砂岩がつかわれていた。南の三輪をながれる初瀬川の海石榴市を出発点とする古代「山の辺の道」を、その道の北の終着点である天理市の豊田山。亀はいにしえから神仙界のつかいともいわれ、世界創造の神話とも関係がふかい。天理の人間世界創造・救済説話である「元の理」では、「くにさづち」の「つなぎ」の象徴でもある。中国の殷代にはすでに亀甲をもちいて卜占をおこない、その結果を文字で刻んだ甲骨文がある。「かしこね」(鰈)の「いきふきわけ」 (文字の仕込み)の守護と、ぢば甘露台を中心とした「つとめ」 の配置において両者は東西方向で照応している。「奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に」という 教祖中山みきの「道」の予言。くすのきとおなじく神木としてあがめられてきた槻木(つきのき)というニレ科の落葉高木が飛鳥にある。古代「けやき」ともいわれ、昔おもに弓の材料とされた。飛鳥寺のけやきの下で、中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新の相談をし、大化の改新がおわったさいは、孝徳天皇一族の結束をそこで誓ったりしたと言われる。女帝斉明天皇朝の「両槻宮」関連遺構で ある最古の湧水遺構の近辺からは、日本最古の「富本銭」も数多く出土している。

 日本書紀は斉明天皇二年条(656)で「観(たかどの)を起つ。號けて両槻宮(ふたつきのみや)とす」と語りかける。彼女は飛鳥の東に聳える多武峰の2本のけやきの麓に道教の「道観」をたて「両槻宮」とし、それを「天宮」 とも呼んだ。女帝は道教でいう仙人の住む不老不死の天上の宮のユートピア(理想郷)を、飛鳥の地に再現しようとしたらしい。

 飛鳥と天理市の古代史へのロマンの延長線上に、中山みき教祖誕生の地が「おおやまと」といわれる由緒ある場所にある。道の駅「山の辺の道中央駅と七陽古代庭園」とかりに名づけて、未来の「道の交差点」つまり古代の人たちが呼んでいた「チマタ」構想なるものを立ちあげた。2000年に発見された亀型石造物と斉明天皇が7世紀に豊田山から「狂心渠」(日本書紀斉明2年)と揶揄された運河をつくり、豊田山の天理砂岩を200艘の船で飛鳥まで運ばせたと解釈される 「石」のさまざまな情報。


 「みかぐらうた」の八下り目の第一節 「ひろいせかいやくになかに いしもたちきもないかいな」という歌の「くになか」ということばの意味。「く になか」(国中)とは、国々(諸国家)の 「中」(地域)を意味しているのではなく、山間部の山中「さんちゅう」に対して、大和の盆地平野にあたる特殊な場所を指しているはずである。「国中」の天理市三昧田出身の精神医学者である 中井久夫氏の『治療文化論―精神医学的再構築の試み』(岩波書店)のなかにある盆地がもつ文化精神的な特徴を説明してくれた。図(52 ~ 53 頁)の30数カ所の「国中」、「山中」の地理・精神的要素がコスモロジカルに解説してあり、 みきの生地としての三昧田も、天理おやさとやかた、大和神社、石上神宮もある。

 中井氏の「国中」の象徴的な解説文を紹介しておこう。盆地においては 鉄道は必ず国中のへりを走り、唐招提、薬師の二寺以外のすべての聖地は鉄道の山側にある。聖地に参る人は決して鉄道を降りて国中側へと行くことはない。笠置山脈の内陣(「国中」からみえず異界として予感されている)。三輪山は古代人がもっとも秀美とした山で山全体が神体で山上の岩むらが内障中の内障である。二上山(ふたかみやま。現在、にじょうさん。特異な二峰で、その中間に日が没し、西方浄土よりアミダが来迎するとされた)。天理教原典にみられる「国中」や「石」という言葉も、単なる空間としての場所や鉱物を指すとして説明するだけでは不満である。そのレベルに定着するかぎり神意の核心にせまりえない。また教義の思想化も視野に入ってこないであろう」。

 布留遺跡は天理教本部にある。天理参考館での企画展「布留遺跡の歴史―物部氏より前から後まで―」で布留遺跡から出土された有名な小型丸底壺を見た。目に留まったのは、杣之内北池地区出土品で見覚えのある形の小型丸底鉢。「東四国系か」と表記されているが、小型丸底鉢とは書かれていない。徳島県埋蔵文化財センターで見かけた小型丸底鉢(弥生終末期)とそっくりな形の小型丸底鉢。杣之内北池地区の弥生時代終末期?の土坑から出土したものかな。阿讃人の大和進出時期がわかるかも。天理参考館は意外と中国の銅鏡、青銅器など様々なものがある。





(私論.私見)