教祖と大神大社との浅からぬ関係考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.12.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
教祖中山みきと大神大社との浅からぬ関係が気になりだしたので書きとめておく。以下追々に記すが、大神大社の境内地入り口近くに天理教敷島大教会がある。これは偶然だろうか。あるいは偶然かも知れぬが、教理的には、どちらが寄せたのかは別として「お導き」なのではなかろうか。こういう眼で思案を廻らすと、みき教理の根底が大神(大三輪)信仰教理と通底していることに気づく。みき教理の「元の神、実の神信仰」とは、近代天皇制的皇国史観以前の「本当の神信仰」に覚醒せよとするメッセージが込められていたのではなかろうか。更に、教祖晩年の公認化運動の際に、大神神社系の神主が尽力していることにも気づかされる。「大神神社系の神主の尽力」は、案外と開明的なものであり、それほど非とする介入ではなかったのではなかろうか。後の教義変更までしての公認化運動に較べれば、むしろ善意の協力だったのではなかろうか。本部教理は、この辺りを意図的故意に語らない。仮に語るとすれば、「非なる動き」として逆記述するのを常としている。果たしてそう理解すべきだろうか。本章で、そこら辺りを考えたい。 ネット検索で「教祖中山みきはシャーマン卑弥呼の生まれ変わりか?」と云う文句に出くわした。サイト「ローリングウエスト(^-^)>♪逍遥日記」の紀行文「大和路の旅」文中の見出しで使われている。本文を覗くとそれらしい記述はない。故に、見出しのみの「教祖中山みきはシャーマン卑弥呼の生まれ変わりか?」と云うことになる。ところが、れんだいこは、この文句をいたく気に入っている。れんだいこは偶々(たまたま)邪馬台国考をも手掛けている。長年、その比定地を廻って思案してきたが、次第に三輪王朝本家説に傾きつつある。現在、「纏向(まきむく)遺跡群」が調査され、尋常でない遺物が次々と発掘されつつある。つまり、考古学的に裏付けられつつあるのだが、文献学的にも解明されつつある。 即ち、大和王朝創建以前に、この地において出雲系三輪王朝が存在しており、記紀神話その他によると神武東征軍により征服された。その時期は3世紀頃と推定され、邪馬台国の卑弥呼女王亡きあとを継いだ台与女王の御代に当たる。かく了解すると、丁度この辺りの地域から生まれた中山みきは1千ン百年後に化身した卑弥呼の再来と考えることもできない訳ではない。中山みきの家系は恐らく母方の血筋がそうであろうが、崇神天皇の御代に三輪山の大神神社復興の任に請じ入れられた霊能者オホタタネ子の霊統を継いでいる可能性がある。そういうことを考え合わせると、「教祖中山みきはシャーマン卑弥呼の生まれ変わりか?」とは云い得て妙な名言と云うことになる。してみれば、みき教理に於ける「元の神、実の神」とは卑弥呼時代の信仰神を指しているとも考えられ、妙にリアリティーを持つことになる。 この方面の研究はこれからのことになる。他の者ではなかなか進まないかも知れない。 2010.7..23日、2010.8.7日再編集 れんだいこ拝 |
【教祖と大神大社との関係その1】 | |||
教祖と大神大社との関係について関心を持っているところ、次の一文に出くわした。
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【教祖と大神大社との関係その2】 | ||
ネット検索で「宗教教団情報データベース」の「大神教(おおみわきょう) 」に出くわした。これによると、大神教は、天理教教祖の度々の拘引の際に、身元引き受けの役を引き受けている。次のように記されている。
大神教(おおみわきょう)の概要は次の通り。
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大神教会が天理教教祖の身元引き受けに至る背後の因果関係が解明されていない。偶然ではあるまい。れんだいこは、公認天理教史には出ていないが、天理教教祖中山みきが教義形成上、大神教会と並々ならぬ関係にあったことが遠因ではなかろうかと推測している。即ち、天理教教義の背景に大神教会系教義との相関が認められるということになる。この解明はこれからである。 2010.7.23日 れんだいこ拝 |
【教祖と大神大社との関係その3】 | |
大神教会が次に出てくるのは、1886(明治19)年、教祖89歳の時の「御請書事件」である。天理教応法派の公認化運動が強まるさなかの5.28日(陰暦4.25)、神道本局の取調官に査察されることになった。時の神道管長は稲葉正邦であったが、その代理として権中教正・古川豊彭(とよみち、富岡八幡宮司)が、権中教正・内海正雄(阿夫利神宮宮司)、大神(おおみわ)教会会長・小島盛可を随行させてお屋敷へやって来ている。れんだいこは、「真之亮の苦悩と『御請書事件』神道管長他との問答」で、次のように記している。
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これによれば、大神教会は、 1・教祖中山みきの当局弾圧の際の身元引受人として再三再四にわたり庇護者になっている。 2・六等教会の許可の際に大神教会の添書を付けて力を貸している。 3・「御請書事件」では天理教教義の説明役を引き受けていることが認められる。 となると、「教祖中山みき及び天理教と大神教会との浅からぬ関係」を見て取るべきではなかろうか。天理教研究に於いて、この方面の研究が為されていないことは不自然過ぎるのではなかろうか。れんだいこは、天理教教祖中山みきの教理に大三輪信仰が深く関わっていることを思う。即ち、天理教教祖中山みきの教理の源泉は大三輪信仰にあるのではなかろうかと思う。今は言及をこれぐらいにとどめておく。 2010.7.23日 れんだいこ拝 |
【天理教祖・中山みき様の生前の言「伊勢の大神様は、三輪へ帰られる」の伝】 | |
「初詣 〜其の二〜 三輪山 檜原神社」を転載しておく。
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【大神大社と天理教敷島大教会との関係】 | |||||||
大神大社の鳥居の南に天理教敷島大教会がある。敷島大教会は何故にこの地にあるのだろうか。これが偶然である訳がなかろう。これを推定して見る。 敷島大教会の前身は、心勇組講である。心勇組は、1886(明治19).2.18(陰暦正月15)日、講元上村吉三郎に引率された心勇組の講中が7里の道を遠しともせず参詣にやって来て、「十二下り」をおつとめさせて頂きたいと御願いしたところ、お屋敷では警備取り締まりの厳しい折柄、この由を話し聞かせて断わったのに対し、一同が二階が信徒の宿泊所になっていた門前の豆腐屋こと村田長平方に引き揚げ、自然にお手振りが始まり声高らかに唱和し始め、これが原因で「教祖最期の御苦労」になったことで知られている。 本部教理では心勇組の勇み足を咎める記述の仕方になっているが、教祖の受け取り方は違っていた。教祖は、心勇組のお手振りの声を聞いて、「心勇組は一の筆やなぁ」と取次ぎの者に仰せられたと伝えられている。ここで確認すべきは、当時のお道の教徒、講中が「応法の理」に従い、教祖の意向に反して逼塞していたところ、心勇組が唯一、教祖に一筋心になり匂いがけ、お助けに東奔西走していた講であったことである。 これより先、1882(明治15).10.20(9.9)日、熱心な道人である泉田藤吉系譜の熱心な信者の一人が、和泉国豊中村我孫子(現在の大阪府泉大津市我孫子町)で、病人を救おうとしたあまり死なせてしまうという不祥事件が起こして警察沙汰となった事件がある。これを「我孫子事件」と云う。事件の責任者であった泉田は、大阪で警察に拘引された際に堂々と所信を披瀝した。これを「泉田藤吉所信表明事件」と云う。事件は、当時の大坂朝日新聞等に大々的に取り上げられ、激しい非難を浴びせられることになった。当時のマスコミは得たりとばかり口を極めて攻撃し、これを大々的に取り上げて全国的な報道となった。我孫子事件は格好の天理教パッシングの材料になった。お道内にも動揺がひろがった。 本部教理では「信仰の浅い信者達が起した我孫子事件」として否定現象事件として記述しているが、この時、教祖は、「さあ海越え山越え、海越え山越え、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで」と述べ、揺るぎのない信仰に基づく更なる布教の道を指針させている。この逸話から、本部教理の説くのと違って、教祖は泉田籐吉らの跳ね上がりをむしろ激励していたと受け取るべきであろう。 この系譜が敷島大教会創出へと向かっていることが判明する。その敷島大教会が他の大教会と違ってなぜ大神大社の入り口に居を構えたのかが問われねばならない。何らかの繋がりがあると読むべきであろう。 敷島大教会の初代は、山田伊八郎(やまだ いはちろう)である。山田は、1848( 嘉永元).3.14日、大和国十市郡倉橋村出屋鋪(現・奈良県桜井市倉橋出屋敷)にて誕生し、1881(明治14)年、山中忠七の次女こいそ(いゑに改名)との結婚により信仰を始めている。同年末、教祖より名付けられた心勇組の講元となる。教祖より赤衣を授けられる。明治17年、上村吉三郎が入信し心勇組の講元を譲る。明治20年9月、本席よりおさづけを戴いている。別席取次人となる。1899(明治32)年、城島分教会の2代会長の許しを受ける。1900(明治33)年、城島分教会を三輪町金屋886に移転する。城島を敷島と改名する等の許しを受ける。明治42年、敷島分教会が大教会に昇格改称する。明治44年、天理教教会本部役員に任命される。1916(大正5).8.21日出直している(享年69歳)。この履歴からは、敷島大教会が何故に大神大社の入り口脇に設置したのか特段のことは判明しない。しかし、何か強い因果関係があったものと思われる。追々確認して行くことにする。 |
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ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。(「第二節 山田伊八郎」)
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ネット検索で次の一文に出くわしたので転載しておく。(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」)
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(私論.私見)