1868年 慶応4年 71才 徳川幕府崩壊

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖が「かんろだい」を据えるお話しをなさる】
 1868(慶応4、明治元)年の頃、教祖より「かんろだい据え付け」のお話しがされていたと辻忠作が伝えている。「かんろだい据え付け」が今後の「お道」の眼目の動きとなる。

【教祖の山中宅出張り】
 3.7日、教祖は、豆越村の山中忠七宅へでかけられ、10日迄滞在された。こかんも同じく出掛け、9日から13日迄滞在した。

【飯降夫婦に又も子供授かる】
 飯降伊蔵夫婦の間に長男が誕生した。先の「よしゑ」に続いてのおめでたとなった。この子は政治郎と名づけられた(4歳で出直すことになる)。

 (道人の教勢、動勢)
 矢追治郎吉入信
 1868(慶応4)年、12月、伊豆七條村の農業/矢追治郎吉(喜多治郎吉、17歳)が、本人の眼病を手引きに、桝井伊三郎の匂いがけで入信。大病のご守護を頂いた。文部両道の背丈6尺を越す堂々たる体躯の持ち主であった。お屋敷に勤めては風呂焚きを手伝い、合間に教祖からじかに教えを受けた。後郡山藩の医師喜多源吾家の養子になるが、同家は寺の檀家総代の家柄であり、お道の信仰との狭間で苦しむこととなった。治郎吉は毎晩お忍びでお屋敷に通い、お手振りを習った。後に誠心講(後の治道大教会)の講元となる。「人間は正直でさえあれば、神様が必ず守ってくださるのや」と常に説いていたと伝えられている。
 喜多治郎吉()入信
 明治元年、桝井伊三郎と同じく治道村伊豆七條の出身の喜多治郎吉()が、同村白土の喜多およしさんの養子になり入信した。身長五尺六寸余、堂々たる偉丈夫で、色白で鼻下に美髯をたくわえ、柳生流の剣道に通じ、若い頃には草相撲の関取もされた力持ちであった。天理教教祖中山みきの口伝等紹介の「喜多治郎吉先生について」(「清水由松傳稿本」105~109p)が次のように伝えている。
 「明治三十五六年頃のことである。私が本席邸で青年をつとめていた時、当番でおいでになっている先生をつかまえ、 「先生は大分柳生流をお心得のように伺っていますが、一度どんなものか聞かして下さいませんか」 と伺うと、 「柳生流では只腕だけみがいても何にもならん。精神が出来てないといかんというのや。例えば宿屋へ泊っても、この間(室)はどっちから入って、どっちから出られるか、裏口はどこにあるか、まさかの時はどっちへ出たら良いか、ちゃんと見てとるだけの心構えでないといかん。風でも今日どっちからどっちへ吹いとるか。火事や非常の際にはこの風ではどっちへ逃げるようにするという具合に心得にゃならん。汽車にのってもこの車にはどういう人間がのっているか、ズット車中の人を見渡して見る。悪い人間は大抵その目付とか挙動とかですぐ分る。柳生流はそういうように、腕だけでなく心の持ち方を教える流儀や」 と仰言った。そういう風に始終心構えし又訓練の足った人で、本席様が他出なさる時は大抵喜多先生をおつれになった。そして、「喜多はんは何もかも心得ている人やから、あの人と一緒にいたら安心や。」 といつも仰言った位で、寔(まこと)に行届いた抜目のない賢い人であった。それでいて人えのあたりはとても柔和で物言いも柔かかった。当時の青年中にも、気むつかしい人やという者もあったが、それは注意して下さるのを有難くうける心がないからの事であって、気のついたことは青年にも遠慮なく良く言いきかせて下さる有難い先生であった。

 或る時、汽車で本席様に松田音次郎さんと二人でおともされた。ところが松田さんが懐中時計を盗まれたと大騒ぎを始められた。すると喜多先生が「これとちがうか」といって差出された。すりが盗むところを喜多先生は目ざとく見てとって、黙ってその腕をつかまれたので、時計を放して落したのを拾いあげて持っていられたのである。それほど目の早い何事にも油断のない人であった。
 御教理は桝井梅谷両先生には及ばなかったが、熱心親切に人によく納得するように余り深いむつかしい話はなさらず、じゅんじゅんと噛んで含めるようにお説きに成った。酒は常には余り飲まれなかったが、さあという時にはいくらでも飲まれ、どんなに飲まれてもくづされる事なくとても確乎(しっか)りしておられた。先生方の新年宴会の時に年によっては競飲されることもあったが、どんな時でも倒れられることはなかった。その点山中彦七先生などは、常に飲(い)ける口であったが、そいう際には弱くてすぐ酔いつぶれられた。諸井国三郎先生も清水の父も(与之助)常には飲まず、さあという時には皆相当飲(い)けた。
 大二階の縁側に重い荷物が置かれていて、青年二人の手で動かしかねている時など喜多先生がやって来られて、ちょっとあげて見ようといって羽織ぬいで袴をはいた侭で、笑い笑いさげられた。三十貫位のものは片手で軽々と肩へ挙げて平気でおられた。古い先生方で力の強かったのは平野楢蔵先生であったが、恐らく喜多先生が一番強かったように思う。

 后年島ヶ原分教会が負債の為に萬田会長が辞職し、初代真柱様の御命でその整理に付かれた時の話に、「私は文無しの身やから、どうする事も出来ん。だから借金返す為にこの教会へ来たんやない。教会は皆が教理を治めて出来て来たのや。借金できるのは皆が教理を実行せんからである。しっかり教の理を治め、教祖様雛型ふんで一手一つに通れば、何ぼ借金あっても心配ない。それだけの精神造る為に来さしてもろうたのや、精神たおれてるのを起しに来たのや。精神立ちさへすれば親神様は御守護下さる。借金の為に肝心の心倒してはいかん」と仰言ったと聞いている。当時島ヶ原は、郡山詰所西側にあった詰所も借金の為にとられてしまい、先生の私宅東北にあった空地を島ヶ原の詰所として、長らくの間苦労され整理はなかばで出直され養子の秀太郎さんがそのあとをうけて、整理を完了された。

 先生は本部の会計もおやりになり、又早くから九州の教会組合長をつとめられ、九州は先生の受持のようになっていた。その后大阪の教務支庁長もおつとめになった。又治道大教会の育ての親、肥長大教会の生みの親でもある。私の知っているのはこれ位である。養子の秀太郎さんは、梅谷四郎兵衛先生の二男で、清水の父与之助がお世話さしてもらった」。

【この頃の逸話】
 1868(慶応4)年5月中旬、毎日大雨が続き大洪水となり、山中忠七の持ち山が崩れ、田地が1町歩ほども土砂に埋まる被害が発生した。かねてから忠七の信心を嘲笑していた人々から馬鹿にされた忠七が教祖に伺った時のお言葉。
 「さあさあ結構や結構や。海のどん底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構な事やで」。

 忠七は、大難を小難にしていただいたことを心から御礼申し上げた。

 (当時の国内事情)  
 1868(慶応4)年、1.3日、鳥羽伏見の戦いが起った。戌辰戦争とも呼ばれる。幕府側と反幕府側との戦争の全体の呼び名で、1868年が干支で戌辰の年にあたるところからこう呼ばれる。鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍が交戦。旧幕府軍が敗退する。1.8日、徳川慶喜、大阪城を出て江戸に戻る。

 1.11日、神戸事件。岡山藩兵、神戸でフランス人を殺傷。

 2.9日、新政府、有栖川宮熾仁親王を征東大総督とする。
 2.13日、徳川慶喜、寛永寺で謹慎。
 2.15日、堺事件。土佐藩兵、堺でフランス人を殺傷。
 3.6日、新選組、甲陽鎮撫隊を組織し、甲斐の柏尾で新政府軍と戦い敗退。
 3.13日、祭政一致の達し。
 3.13日、勝海舟と西郷隆盛が直会談。

 3.14日、明治新政府が樹立され、五箇条の御誓文が発布された。

一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一、 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
一、 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一、 知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし
 3.28日、神仏判然令。
 4.2日、甲陽鎮撫隊・近藤勇、新政府に投降。4.25日、元新選組局長・近藤勇、斬首。閏4.8日、近藤勇の首級が京に晒される。
 4.4日、西郷は、勅使ら数十人と共に入城した。田安慶頼(よしのり)が徳川家を代表して迎え、4.11日の正式明け渡しと定め、引継ぎの儀式を執り行った。
 4.11日、江戸城が無血開城された。
 閏4.17日、新政府、浦上キリシタンを弾圧する。
 4月、福沢諭吉、慶応義塾を開塾。
 5.3日、奥羽越列藩同盟。会津藩、仙台藩などの奥羽、越の諸藩が同盟を締結。
 5.15日、彰義隊、上野で新政府軍と戦い敗退。
 7.17日、江戸を東京と改称する。
 8月、徳川慶喜が駿府城に入り、駿府宝台院に謹慎する。勝海舟、山岡鉄舟が駿府藩幹事役に就任する。
 8.19日、旧幕府海軍総裁・榎本武揚ら、軍艦八隻を率いて脱走。
 8.23日、新政府軍、会津若松城を攻撃。白虎隊自刃。
 9.8日、年号が改元され明治と改める。
 明治元年9月20日、明治天皇が江戸に向かう。
 9.22日、会津藩降伏。
 10.13日、江戸城を皇居とする。明治天皇が江戸城入城、ここを東京城と改名する詔を出す。
 10.25日、榎本武揚ら、五稜郭を占拠。
 12.22日、明治天皇が京都に戻る。12.28日、一条忠香の娘美子(はるこ,皇后になる以前の名前は寿栄姫)を皇后として立て戊辰戦争で慌ただしい中一通りの祝儀が行われる。
 (田中正造履歴)
 1868(明治元)年、28歳の時、六角家改革事件により入獄11か月。

 (宗教界の動き)
 3月、明治新政府の統治機構となる太政官のなかに神祇・ 祭祀をつかさどる神祇官再興の布告が出され、祭政一致の制度を復活する神祇官が設置された。諸神社神主等は神祇官に附属するものされ、全国の神社神職は神祇官の管理化に置かれた。神祇事務科の設置。すぐに神祇事務局に改称。更に神祇事務局を改め古代の律令制にならって神祇官とする。それに伴い、 吉田家、白川家などの執奏家の役割が終わる。
 切支丹邪宗門禁止。
 3.17日、神祇事務局達で「諸国神社ににおいて僧形(そうぎょう)で神勤している別当(べっとう)・社僧は復飾(還俗、げんぞく)せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤すること」とした。
 3.28日、太政官(だじょうかん)の神祇官事務局達で「神仏分離令」が発布された。「○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと」とした。長年吉野山で行われてきた神仏習合の信仰が禁止され、寺院は廃寺になるか、神社に名を変えて生き延びるほかなかった。これは修験道にも受難であった。修験道絡みの建物や文化財の多くが破壊された。中でも石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が徹底的に破壊された。(要するに、神祇官事務局を操作する魔手により、修験道が目の敵にされ、危険視して粛清され始めたことになる。これは1872年の太政官布達第273号でもっとはっきりする)
 4.1日、近江(おうみ、滋賀県)の比叡山麓坂本の「日吉(ひえ)山王社の事件」。日吉社へ120人ほどが押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊した。廃仏毀釈の最初の暴挙となった。
 4.10日、太政官が、神仏分離の実施には慎重を期すよう命じた。しかし、政府の威令がいまだ行き届かず、苗木(なえぎ)藩(岐阜県)や富山藩などの各藩や政府直轄地では、地方官がこれを無視して強硬な抑圧・廃仏策を進めたため、寺院の統廃合など神仏分離を超えた廃仏棄釈(きしゃく)とよばれる事態が1874(明治7)年頃まで続いた。
 1868(明治元)年、井出国子(井出クニ)5歳の時、母親に連れられて兵神大教会(当時は神明組)の三木支教会に頻繁に参拝。女鳴物(楽器)を覚える。
 この年、太政官が、日蓮の「法華経を広むれば釈迦仏の使いぞかし。僅かの天照大神、正八幡なんぞと申す神は、この国には重けれど、小神ぞかし」(「種種御振る舞い御書」)の記述を問題にし、日蓮宗諸本寺に対して、日蓮の本尊曼荼羅における天照大神の位置の低さを取り消すよう通告した。日蓮宗諸本寺はこれに従った。
 12.20日、「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)

 1867(慶応3).12.9日、ドイツで、マルクスが「資本論」発刊する。





(私論.私見)