「明治三十五六年頃のことである。私が本席邸で青年をつとめていた時、当番でおいでになっている先生をつかまえ、 「先生は大分柳生流をお心得のように伺っていますが、一度どんなものか聞かして下さいませんか」
と伺うと、 「柳生流では只腕だけみがいても何にもならん。精神が出来てないといかんというのや。例えば宿屋へ泊っても、この間(室)はどっちから入って、どっちから出られるか、裏口はどこにあるか、まさかの時はどっちへ出たら良いか、ちゃんと見てとるだけの心構えでないといかん。風でも今日どっちからどっちへ吹いとるか。火事や非常の際にはこの風ではどっちへ逃げるようにするという具合に心得にゃならん。汽車にのってもこの車にはどういう人間がのっているか、ズット車中の人を見渡して見る。悪い人間は大抵その目付とか挙動とかですぐ分る。柳生流はそういうように、腕だけでなく心の持ち方を教える流儀や」
と仰言った。そういう風に始終心構えし又訓練の足った人で、本席様が他出なさる時は大抵喜多先生をおつれになった。そして、「喜多はんは何もかも心得ている人やから、あの人と一緒にいたら安心や。」
といつも仰言った位で、寔(まこと)に行届いた抜目のない賢い人であった。それでいて人えのあたりはとても柔和で物言いも柔かかった。当時の青年中にも、気むつかしい人やという者もあったが、それは注意して下さるのを有難くうける心がないからの事であって、気のついたことは青年にも遠慮なく良く言いきかせて下さる有難い先生であった。
或る時、汽車で本席様に松田音次郎さんと二人でおともされた。ところが松田さんが懐中時計を盗まれたと大騒ぎを始められた。すると喜多先生が「これとちがうか」といって差出された。すりが盗むところを喜多先生は目ざとく見てとって、黙ってその腕をつかまれたので、時計を放して落したのを拾いあげて持っていられたのである。それほど目の早い何事にも油断のない人であった。
御教理は桝井梅谷両先生には及ばなかったが、熱心親切に人によく納得するように余り深いむつかしい話はなさらず、じゅんじゅんと噛んで含めるようにお説きに成った。酒は常には余り飲まれなかったが、さあという時にはいくらでも飲まれ、どんなに飲まれてもくづされる事なくとても確乎(しっか)りしておられた。先生方の新年宴会の時に年によっては競飲されることもあったが、どんな時でも倒れられることはなかった。その点山中彦七先生などは、常に飲(い)ける口であったが、そいう際には弱くてすぐ酔いつぶれられた。諸井国三郎先生も清水の父も(与之助)常には飲まず、さあという時には皆相当飲(い)けた。
大二階の縁側に重い荷物が置かれていて、青年二人の手で動かしかねている時など喜多先生がやって来られて、ちょっとあげて見ようといって羽織ぬいで袴をはいた侭で、笑い笑いさげられた。三十貫位のものは片手で軽々と肩へ挙げて平気でおられた。古い先生方で力の強かったのは平野楢蔵先生であったが、恐らく喜多先生が一番強かったように思う。
后年島ヶ原分教会が負債の為に萬田会長が辞職し、初代真柱様の御命でその整理に付かれた時の話に、「私は文無しの身やから、どうする事も出来ん。だから借金返す為にこの教会へ来たんやない。教会は皆が教理を治めて出来て来たのや。借金できるのは皆が教理を実行せんからである。しっかり教の理を治め、教祖様雛型ふんで一手一つに通れば、何ぼ借金あっても心配ない。それだけの精神造る為に来さしてもろうたのや、精神たおれてるのを起しに来たのや。精神立ちさへすれば親神様は御守護下さる。借金の為に肝心の心倒してはいかん」と仰言ったと聞いている。当時島ヶ原は、郡山詰所西側にあった詰所も借金の為にとられてしまい、先生の私宅東北にあった空地を島ヶ原の詰所として、長らくの間苦労され整理はなかばで出直され養子の秀太郎さんがそのあとをうけて、整理を完了された。
先生は本部の会計もおやりになり、又早くから九州の教会組合長をつとめられ、九州は先生の受持のようになっていた。その后大阪の教務支庁長もおつとめになった。又治道大教会の育ての親、肥長大教会の生みの親でもある。私の知っているのはこれ位である。養子の秀太郎さんは、梅谷四郎兵衛先生の二男で、清水の父与之助がお世話さしてもらった」。
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