第45部 | 1867〜68年 | 70〜71才 | 徳川幕府の崩壊前夜とお道の動き |
慶応3〜4年 |
更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年.1.18日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「徳川幕府の崩壊前夜とお道の動き」を確認する。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【「十二下りのお歌」の御作成】 |
1867(慶応3)年、教祖70才の時、教祖は、「座りつとめの地歌とその手振り」に続いて、正月から筆をお執りになられるようになった。正月より8月までの間に「お歌」120首をおつくり為されている。構成が「十二下り」からなり、各「下り」はいずれも数え歌の形式で十首づつ読み込まれていた。その「急き込み」のほどが拝察される。 この「お歌」にも身振りがつけられた。このたびの身振りは立ち踊りとなっており、教祖は、以後3カ年間、直に信者に教えることになった。「座りづとめのお歌」と区分する意味で「十二下りのみ神楽歌」と云われる。なお、後の明治3年になって「よろづよ八首」が御作成され、「十二下りのお歌」と「よろづよ八首」を併せての128首を「御神楽歌」と呼ぶようになった。 この「御神楽歌」と明治2年よりご執筆されるお筆先が、「お道」教義の核となる。教祖は、これより以降、現身をお隠しになるまでの20年間を、「お道」の信仰礼拝要領としての「おつとめ」の完成と、「つとめの理」を教えることを「急き込み」なされることとなった。姿形で云えば、「御神楽歌」と「手踊り」は姿に相当していることになる。この一連の「地歌と座りつとめ」と「十二下りのお歌と立ち踊り」は、教祖の最も重視した「おつとめ」であった。「いつも神楽や手踊りや、末では珍し助けする」と効能も明らかにされていた。「よろづ助けのつとめ」とも教えられた。こうして整備されていくことになった「おつとめ」の最高儀式が「神楽づとめ」となる。 「お歌」がつくられ始めたこの時期は、この頃世情の変辺激しく、討幕軍が江戸城に入場し、遂に幕府の権威が倒れ、急速に新体制づくりがはじまっていた。慶応4年9月は明治元年と改元、歴史の舞台は一転として新時代を迎え、江戸は東京と改められた。教祖は、こうした世情の変化に符節を合わせ、これに立て合うかのように「お道」教義の確立にお働きされて行くことになる。(「御神楽歌」の内容については別章「み神楽歌十二下り」で考察する) |
【お手振りのご指導】 | ||||||
教祖は、1867(慶応3)年正月に「み神楽歌」をお作り為された後、1868(慶応4、明治元)年から1869年(明治2)年正月にお筆先ご執筆に取り掛かるまでの2年の間に、「み神楽歌」の手振り、手踊りの節付けと振りつけをご指導されることになった。「明治元年にあしき払いのお手振りを教えられ、8月より『あしき払いのおつとめ』が初められた」とある。教祖70才から71才の頃の動きで、地歌執筆の終わった慶応3年8月から満3ケ年の時日が費やされている。
初めてお教え頂いたのは、歌は豊田村の辻忠作、前栽村の村田幸右衛門、喜三郎、手振りは豊田村の佐右衛門(中田儀三郎)、辻忠作、前栽村の喜三郎、今村善助、三島村の北田嘉一郎の面々であった。この時、村田幸右衛門は歌の節がうまかったようで、重宝にされたと伝えられている。明治に入って、お屋敷への官憲の干渉が厳しくなり「おつとめ」もままならぬことになった時には、前裁村の村田家に出向いておてふりの稽古をしたとも伝えられている。 |
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18「理の歌」。
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19「子供が羽根を」。
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74「神の理を立てる」。
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109「ようし、ようし」。
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「理の歌(その二)」(昭和五年一月五日号みちのとも「御教祖と御かぐら歌」桝井孝四郎より)
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「理の歌(その三) 」(昭和六十一年七月発行「父 佐蔵を語る」宮田爽美 24〜25ページより)
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【あまりの賑やかさに、多数の村衆が暴れ込んで乱暴を働く】 |
この道中は、連日連夜相当に賑やかであったことが想像され、慶応4年3月28日の夜、教祖の導きで、「手踊り」の稽古をしているつとめ場所に多数の村衆が暴れ込んで乱暴を働いたことが伝えられている。 |
【神楽づとめ、手踊り考】 | ||||||||||||||
教祖は、お筆先で、神楽づとめと手踊りの意義を次のように諭している。
神楽づとめの意義は、かんろだいを囲み、調和の取れた陽気づくめの世界を身振りの調和で現わし、陽気尽くめの理をつとめる。互いに助け合うおつとめにより元の理を味わい、人の喜びをみて楽しみ助ける心になることにある。人は調和の中から生まれて、天然自然の理に則って生きており、これから創るべき陽気づくめの世界は平等と助け合いの理を実現せねばならない。これを堪能するのがおつとめであり、その最高儀式がかぐらづとめである。 |
【応法の理の動きその1、天輪王明神】 | ||||
1867(慶応3)年、6月、秀司が、古市代官所を経て領主藤堂藩主の添書、当時庄屋敷村年寄「庄作」、庄屋敷村庄屋の「重助」(ほうそう事件の安達照之丞の伯父に当たる人物)の願書連名を貰い、守屋筑前守の付き添いのもと山沢良治郎を供に京都へ上り、吉田神祇管領家に「天神十二柱心」を勧請している。(服部庄左衛門/吉田神祇官領への出願に際し、古市代官所へ提出した添書願の宛名の人物。平右衛門/当時庄屋敷村の年寄。吉田神祇官領への公許を願い出た際に願書に連名)。 古市代官所へ願い出るために提出した願書「恐れながら口上の覚え」が遺されており次のように記されている。(一部現代語へ変換した)
秀司は、7日間かかって必要な業を修め、7.23日付けで京都吉田神祇管領家より中山秀司宛の「天輪王明神玉串納の事、木綿手すき(ゆうたすき)を許す」という認可を得た(裁許状取得)。道人信者は天輪王明神の氏子として届けられた。これで天下晴れて信仰活動ができるとことになった。 「改訂正文遺韻」42頁が次のように記している。
「中川庸三氏の談」が次のような経緯を述べている。
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京都からの帰途、秀司ら一行は、出願の時に親切にしてくれた古市代官所土砂方の中川茂三郎の家に寄った。中川庸三聞書には、「秀司らは面白い風をして、物どっさり背負うていた」とある。位記、綸旨、西京であつらえた装束、提灯、お屋敷の人々への土産物(みやげもの)をどっさり詰めていた筈である。秀司達は、夕飯を一緒に済ませて庄屋敷へ向けて帰って行った(復元第32号473頁)。 | ||||
秀司ら一行は上街道から行列をつくって庄屋敷へ入ろうと思っていたところ、いち早くその報を知って布留郷の石上神社の神職たちが嫌がらせの挙に出た。布留街道は我が方の参道であるから、もし一歩でも踏み込んだら容赦せぬとて、人を雇うて川原城村の石の鳥居の所で待ち伏せている、と報せがあった。止むをえず別所村から豊田村へと間道伝いに庄屋敷へ帰るというような一幕もあった。なお、石上神社側がこのような対応を見せた背景には若干の考察を要する。 こうして秀司達応法派は、京都まで出向き、めでたく「木綿手すき」という下級神職の称号ではあるが布教公認のお墨付けを頂いて帰ることに成功した。表の協力者は山沢良次郎−守屋筑前守ラインであり、陰の協力者は山中忠七だった。山沢は、教祖の話しも聞くが、義兄の忠七の顔も立てて秀司に協力せねばならないという微妙な立場にあった。これによって「天輪王明神」玉串奉納神事が許可されることになった。この後も幾度となくこの動きが為されるので、これを仮に「応法の理の動きその1」とする。 |
【教祖の「応法の理の動きその1、天輪王明神」対応】 | |
「応法の理の動きその1、天輪王明神」に対して、「御教祖伝史実校訂本中二」が次の註をしている。
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教祖は、応法派の喜びに対して、今暫くの間だけのことと見通しておられ、次のようなお言葉を残している。
つまり、吉田家を神祇管領とする制度そのものが崩壊する時の近いことを予見しておられたことになる。この予見がまもなく当る。他方、認可を得たことの意味は大きく、道人は喜び、この後暫くは乱暴者が来ることもなくなり、親神の思召の弘まって行く上に躍進の一歩を進めるものと思われた。一同勇んで日夜「手踊り」の稽古に励む「明るい日々」が続いた。 |
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この頃は「天輪王神」と唱えていたことが分かる。 |
【教祖の予言】 | ||||
慶応3.8月頃、世間では、「御祓いさんが降る」と、騒いだが、当時お屋敷は、お手降りの稽古でにぎわっていた。慶応2年の夏頃から、「ええじゃないか」の踊りと、世直し運動の波が高まっていた。このような当時の社会的拝啓との関わりについて興味がもたれるところである。道人は、一体何が起こるのかしらと気がかりであったところ、翌慶応4年正月3日から鳥羽伏見の戦いが起こった。幕末維新が明治維新へと転換しつつあるさ中、教祖は次のように仰せられている(「正文遺韻」その他参照)。
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【教祖の「神が変るで、神が変るで」】 | |
「かみが変わる 」(昭和七年十月発行、新第四巻第四輯「三才(特集号)−教祖を思ふ」三才社「かみがかはる」山瀬實より)
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(道人の教勢、動勢) |
「1867(慶応3)年の信者たち」は次の通りである。この頃、慶応3.4.5−5.10日までのほぼ一カ月間の参詣者の願人及び願い事を記録した御神前名記帳に2千余人の名が記されている。大和150余ヵ村、山城3ヶ村、河内1ヶ所、大阪3ヶ所、阿波国1ヶ所の地名が記載されている。講名として矢部村講中、七条村講中が記されている。既にこれほどの賑わいを見ることができるようになっていたことになる。(高野友治 天理教史参考年表 参照)。 |
中でも、奈良の木辻町京屋平吉が参詣に来ていることが注目される。京屋とは木辻町の遊女屋の株仲間15軒の内の一軒である。なお、庄屋敷村の隣村とも言える丹波市の遊妓屋の主の名前も見出される。この筋からの参詣も為されていたようである。 |
この年の御神前名記帳には35日間に36名の皮膚病の病人が教祖の下を訪ねている。ハンセン病、疥癬病患者が含まれていたとも考えられる。伝承によれば、教祖は、そうした病人に唾をつけた手で撫で、「なむてんりおうのみこと」と唱えて癒したようである。教祖の救いが、社会から見捨てられた人々をほっておけない御性情に貫かれていたということであろう。 |
【この頃の逸話】 |
(当時の国内社会事情) | ||||||||
和暦の慶応3年正月(1月1日)は、西暦のグレゴリオ暦で1867.2.5日、西暦のユリウス暦で1867.1.24日である。 | ||||||||
1867(慶応3)年、1.9日、明治天皇、践祚。 |
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1.11日、徳川昭武、欧州に特使として出航。 |
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1月中旬、長崎で、坂本竜馬と土佐藩家老後藤象二郎が密談し、これを期に土佐藩は旧来の公武合体路線から倒幕路線へと転換していくことになった。さて、愈々徳川幕府は崩壊して行くこととなった。その経過を追って見ることとする。より詳しくは「幕末回天運動の研究」の「幕末通史3(薩長同盟から大政奉還まで)」、「幕末通史4(大政奉還から幕府解体、王政復古まで)」を参照のこと。 | ||||||||
2.6日、将軍・徳川慶喜、大阪城でフランス公使・ロッシュと会談。 | ||||||||
2.27日、パリで万国博覧会開催。幕府、佐賀藩、薩摩藩が出品。 | ||||||||
4月、坂本竜馬が脱藩罪を許され、土佐藩の資金援助を得て土佐商会と亀山社中を吸収合併し、土佐藩付藩の「海援隊」を設立する。海援隊誕生を支援したのは、土佐勤皇党と激しく対立した後藤象二郎や福岡孝弟らで、土佐藩金の梃入れもあった。 | ||||||||
4.23日、いろは丸事件起きる。 | ||||||||
6.9日、坂本竜馬は京都に向かう途上の長崎から兵庫に向かう土佐船夕顔丸の船中で、「船中八策」を構想する。土佐藩の採るべき方針として後藤象二郎に提示したものであるが、これが「五箇条のご誓文」の下敷きになる。
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6.22日、龍馬と中岡立ち会いのもと、京都の料亭にて、薩摩-土佐会談が持たれ、「薩摩・土佐盟約」が成立した。6.26日、芸州(広島)も加わり「薩摩・土佐・芸州三藩盟約」が成立、王政復古に向けて密約された。 | ||||||||
6月、東海、近畿でええじゃないかが流行。8月頃、東海地方に「お祓いさんが降る」との噂が無がれ、京都を始め各地で男も女も躍り狂う「ええじゃないか踊り」の騒ぎが拡がりを見せる等、世間が騒がしくなりつつあった。「ええじゃないか」踊りの歌詞は一定していないが、例えば「よいじゃないか、ええじゃないか、臭いものには紙を張れ、破れたら又張れ、ええじゃないか、ええじゃないか、日本の世直りはええじゃないか、豊年踊りはおめでたい、おかげ参りすりゃええじゃないか、はあええじゃないか」という大衆扇動的な文句を連ねており、世直し一揆や尊皇倒幕運動と軌を一にしていることに特徴があった。 |
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10.3日、土佐藩藩主山内容堂の手により大政奉還の建白書が幕府に提出される。10.5日、土佐藩、幕府に大政奉還の建白書を提出。10.13日、徳川慶喜、二条城で大政奉還の諮問を行う。10.14日、徳川15代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還を奏請。政権を朝廷に返上することとなった。いわゆる大政奉還である。これによって、源頼朝が鎌倉に幕府を創始して以来682年に及ぶ武家政治は終焉することとなった。 | ||||||||
10.14日、討幕の密勅が薩長に下った奇しくも同じこの日、慶喜が大政奉還を願い出て、翌日勅許された。これにより、15代続いた徳川政権による江戸幕府が幕を閉じることとなった。 | ||||||||
10.15日、明治天皇、大政奉還を勅許。10.24日、徳川慶喜、朝廷に将軍職返上を奏請。11月、「新政府綱領八策」を起草。 | ||||||||
11.15日、坂本龍馬(33歳)と中岡慎太郎(30歳)が、京都瓦町の醤油屋近江屋新助方の2階で、共に暗殺された。この日はくしくも龍馬33歳の誕生日だった。 坂本龍馬は、海運業と貿易を営む亀山社中をつくり、幕府の第二次長州征伐の際には、長州の海軍を指揮した。後、亀山社中は海援隊と名を改めた。一方、中岡慎太郎は、竜馬と同じ土佐藩の武士で、武市瑞山(たけちずいざん・半平太)の元で土佐勤皇党に加盟し、脱藩。陸援隊を組織し、竜馬共々薩長同盟に奔走した同志であった。 |
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12.7日、兵庫港、開港。 | ||||||||
12.12日、徳川慶喜、大阪城へ移る。 | ||||||||
12.9日、倒幕朝廷軍が「王政復古の大号令」を発布する。 |
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農民一揆、打ち壊しが燃え広がり、一段と激しさを加え慶応3年は終わった。 | ||||||||
長崎でキリシタン68人が捕まえられる。貿易額が輸入超過。福沢諭吉、『西洋事情』初編。 |
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小説家の夏目漱石(‐1916)出生。 | ||||||||
1867年、開港、開国により貿易額が輸入超過状態になる。海外貿易で物価が高騰し、一揆や打ちこわしもより多く発生した。開国は、政治的に混乱を招き、幕府は窮地に置かれることになる。 |
【赤報隊秘史】 |
赤報隊をひきいた相楽総三(さがら・そうぞう、1839〜68)とはどのような人物であったのだろうか。下総(現茨城県)の郷士出身で本名を小島四郎といい、父の代に財を成し江戸赤坂に移り住む。剣術・歌学・平田派国学を学び、やがて尊皇攘夷派の武士と交友を結んで関東での武装蜂起や江戸市中での騒擾にも関わり、草莽の志士へと変貌していく。相楽は薩摩藩の西郷吉之助と関係が深かった。相楽は浪士を集め、幕末の江戸市中を中心にさまざまな挑発行為を幕府に仕掛けていた。それらの活動が後の薩摩藩邸焼き討ち事件、さらには鳥羽伏見の開戦へとつながる。 京都では、67年10月の大政奉還から12月の王政復古の大号令により徳川幕府は崩壊する。翌68年1月3日鳥羽・伏見で戦端が開かれ旧幕府軍が敗走する。新政府はただちに征討軍を編成して江戸へ進軍する。この時、本隊に先駆けて東海道・東山道(中仙道)・北陸道などへいくつかの先鋒隊を派遣する。赤報隊もそのひとつであった。 西郷が相楽に、滋野井公寿(きみひさ)・綾小路俊実(としざね)という若い二人の公卿が京都を脱出し、近江で東征軍の先鋒隊を結成することになっているので、それに加わって働いてくれと依頼したと伝わる。江戸騒乱の後、海路江戸を脱出した相楽は京へとむかう。そして、薩摩藩と公家の支援のもとで近江の地で赤報隊を結成した。隊士は百姓出身者が非常に多かった。公家を擁して結成されるが、1番隊に相楽総三とその同志、2番隊に鈴木三樹三郎ら新撰組脱退グループ、3番隊に油川練三郎ら近江水口藩士たちとほとんど何の関係もない寄り合い所帯であった。 |
三重県史資料編(近世4下)には、「赤報隊一件」として各種の記録が採録されている。それによれば、1868年(慶応4)1月25日夕刻、滋(しげ)野井(のい)侍従を大将とする総勢300人ほどの赤報隊の軍勢が美濃方面から桑名へやってきた。また、綾小路(あやのこうじ)卿を擁する別の一隊も名古屋から海路桑名に到着した。このとき既に桑名藩は新しい藩主を立てて恭順の意を示し、28日には亀山藩などが桑名城を接収する。東海道鎮撫総督府軍は四日市・桑名に進駐しており、街道筋は騒然とした状態であった。そこへ赤報隊が現れた。京都には赤報隊に金品を略奪されたという風評が伝わっており、公卿以外は処罰せよとの命令が届く。亀山藩や肥前(現長崎県)大村藩によって捕縛され、四日市三滝川原で7名が斬首されたことが記録されている。主だった者が京都へ呼び返され、ほかは追放された。これが北勢での赤報隊事件の概略である。 |
四日市で処刑されたのは2番隊・3番隊の一部である。相楽の1番隊は伊勢方面へは来ず、嚮導隊(きょうどうたい)と称して東山道を木曽から信濃へと下り東山道を江戸へと向かう。その直前、相楽たちにある勅定書が下される。「是迄幕領之分総テ当分租税半減」、つまり年貢を半減≠キるという内容のものだった。相楽自ら建白し裁可された年貢半減令を村々へ触れ、天領や幕府側諸藩に勤皇の誓詞を提出させ、食糧や軍資金や武器の提供を受けている。相楽の言動は急速に世直しへと先鋭化していった。赤報隊が発した年貢半減≠ヘ各地で熱狂的に支持された。 「太政官としては、租税を減免したのでは、財政に欠陥が出てくる。で、相楽に与えた租税減免についての一切を取消さねばならないが、既に相楽は通過した村々で、租税のことを発表し、民心を旧幕府から引きはなすのに努力していた」。この頃、赤報隊はにせ官軍で略奪や暴行をしているという噂がたった。これは故意に流されたものだともいわれている。赤報隊としては身に覚えのないことであると、京都まで使者を出し弁明したが効果はなかった。遂に、二月一〇日赤報隊をとりおさえよという命令が、岩倉具定(具視の子)を総督とする東山道総督府から信濃諸領主に発せられた。新政府は赤報隊を切り捨てる行動に出た。赤報隊を偽官軍≠ニ呼び相楽たちの捕縛命令を出した。 赤報隊は東へ進みながら、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府軍が、関東をさして落ちのびるのを待ちかまえて、武器・食糧を没収し、食糧は地元の窮民に施したりした。また彼等は年貢半減の高札をたて、庶民が安心して生産に励むように訴えた。さらに沿道諸領主と交渉し新政府に忠誠を誓わせ、武器・金穀を献納させた。赤報隊が下諏訪で掲げた高札には「是迄、慶喜の不仁に依り、百姓共の難儀も少からざる義と思召され、当年半減の年貢に成下され候間、天朝の御仁徳厚く相心得申すべし」とあった。赤報隊は多くの藩を天朝方にひっくり返しながら木曽路を進んで行き、 小諸藩の領地にまでやって来た。小諸藩では藩が取る年貢が七割で、大変に率が高く、さらに、地主に小作料を取られるので、小作人には極めて苛酷な状態だった。上田、高遠といった近辺の藩でも同じような状況だった。そういう小諸なので、年貢半減政策を支持する農民の声に藩も動揺して 天朝方に就こうかということになった。 各地で草莽隊の活動が進み、いよいよ天朝方の勝利が見えた時、京都の新政府は突然、年貢半減令は嘘だ、という布令を出した。勝ち戦が目に見えるや、新政府はもはや草莽隊の利用価値はないと判断した。情勢の変化を見通した京都方は、最初の方針を変更して、綾小路・滋野井両卿に対して、これ以上の前進を禁止し京都へ帰るよう命じた。相楽のひきいる一隊は、東海道を西進しようとする綾小路卿の一隊と別れ、中山道を進んだ。信濃の諸領主が赤報隊士を捕えた。 68年3月3日、相楽の1番隊は軍規違反を理由に下諏訪で東山道総督府に捕縛され、斬首される。相楽たち多くの者が偽官軍≠フ汚名をかけられたまま処刑された。新政府は相楽たちに新政府軍の証し(印)を与えていなかったともいう。真相を知っているはずの相楽はいっさい抗弁することもなく処刑された。処刑場に引き据えられた相楽は、赤報隊の同志が役人に「岩倉を出せ、参謀を呼べ」と、大声であびせるなかで、ひとり静かにいた。相楽の孫(木村亀太郎)が、祖父の名誉回復を求めて明治政府の高官たちの間を奔走した。相楽を知っていながら、またその偽官軍≠フ汚名をなぜ被ることになったかを知っているがゆえに、重い口を開かない政府の顕官たち。相楽の名誉が回復されたのは昭和に入ってからだった。 赤報隊処分については、表向きの理由とは別に、新政府高官の隠された意図があるとの指摘もある。70(明治3)年、早くも墓碑建設請願書が伊那県(現長野県)から兵部省へ提出され、許可されたことも単なる「偽官軍」ではないことの傍証の一つと考えられる。埋もれた草莽たちの復権と再評価が待たれる。下諏訪で処刑された8名の中に西村謹吾という人物がいる。西村は、相楽とは関東以来の同志で、赤報隊結成後は1番隊に属して最後まで相楽と行動を共にした一人である。信州大学高木俊輔教授の研究によれば、伊勢亀山藩脱藩の武士で、本名は山本鼎(かなえ)という。しかし、わずかな墨蹟が残ること以外はほとんど不明であり、新資料の発見と研究の深まりが期待される。 歴史を動かしたものは「明治維新の偉業は公卿と藩主と藩士と、学者、郷士、神道家、仏教家戸からなったのかごとく伝えられがちであるが、「士・農・工・商という称呼で代表している、全日本のあらゆる級と層から出て明治維新の大業がなったのが実相」である。「明治維新には博徒すら起(た)っている。更に極端な例を引けば盗賊すら心身を浄めて御報告に精進」した。 |
長谷川伸はその著「相楽総三とその同志」の中で「相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のものと死刑に処された関東勤王浪士と、その同志であり又は同志であったことのある人々の為に、十有三年間、乏しき力を不断に注いでここまで漕ぎつけた此の一冊を『紙の記念碑』といひ、『筆の香華』と私はいっている」とし、作品の随所に作者のこの作品に注いだ熱意が汲みとれる。そして「歴史の流れに押しつぶされ、あるいは意識的に下積みにされた人々を堀り起し、その事蹟を顕彰するのが、紙碑の目的であった」とし相楽らの功績を高く評価している。赤報隊は長い間、偽官軍として扱われていたが、正当な理想を持って倒幕運動をした人達だとしてその名誉が回復されたのはずっと後の昭和になってからのことであった。
諏訪湖のすぐ近くにはその人達の「 |
(宗教界の動き) | ||
1867(慶応3)年2.20日、(金光教関連)浅井藩庁より添書を受け、白川家に願い出、金神社神主金光河内(文治のこと)に補任される。その許状には、「今般、依願被補神主、神祇道拝揖式被授與訖。因、冠斎服浅黄差貫着用、神拝之節可令進退之旨、者。本官所候也。仍執達如件」 とある。こうして金光河内は神主職となり、金光教の布教が公認された。(『白川家の門人』P417. 金光英子.私家版.2011〈1971年国学院大学卒業論文〉)。その際、神拝の時に般若心経をあげることについて、白川家の役人は「これは経文じゃ。仏のほうのもの。しかし、とめもせん」と了承している。また、神前の装飾や紋章についても文治の思いを通している。この年、金光大神は自らの代人として教弟を白川家へ遣わして入門させている。 | ||
1867(慶応3)年12.9日、王政復古の大号令。明治天皇の名によって天皇親政が宣言された。
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(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1867(慶応3).12.9日、ドイツで、マルクスが「資本論」発刊する。アメリカがロシアからアラスカを購入する。 |
(私論.私見)