増野鼓雪の履歴考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「増野鼓雪の履歴考」をものしておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪の履歴】
 増野鼓雪の鼓雪は雅号で、本名を道與(みちおき)と云う。明治23.2.13日、父を正兵衛、母をいととして出生した。その出生に先立って、本席が、正兵衛氏に「不思議な子を授けてやると神様がおっしゃっています」、「この子は将来、必ず道を興すので道興と名付けなさい」と云われたと伝えられている。

 増野家は代々長州の旧萩藩の藩士。父の正兵衛は、1884(明治17)年、妻いとがソコヒを患い、失明寸前となった時、幼なじみからにをいをかけられたのがきっかけで入信。その年初参拝。1887(明治20).5.4日、本席よりお授けを受ける。1889(明治22).12.31日、お屋敷に移り住む。仮住居として、安達源四郎(照之丞)方の離れ座敷を借りる。

 明治23年、教祖中山みきの高弟子の一人増野正兵衛の息子として生まれた。6歳頃、管長邸に起居し、天理教校、東京改正中学、天理教校、明治大学文科へと進んだ。明治42.9月、本部に勤める。

 同年10.9日、20歳の時、松村吉太郎本部員の息女つると結婚(大正2年、つるが出直す)。中山家と姻戚関係にあり、初代真柱とも歳が一歳違いで近く最も信頼し合っていた松村吉太郎は義父に当たる。


 大正5.1.24日、27歳の時、道友社編集主任を命じられ、同時に本部准役員に登用された。20代で早くも頭角を現わしていた増野鼓雪が教内のサラブレッドになったことを意味する。

 大正6.5月、松村吉太郎の息女つるの妹八重子と再婚する。

 大正7.11.26日、29歳の時、大正7年1月に茨木基敬父子が免職された後、天理教本部役員に29歳の若さで登用される。以後15年間に目を見はるような数々の業績を残す。

 大正9年、天理教校長に任ぜられる。

 大正10.3.23日、敷島大教会会長に任ぜられる。

 大正14年、道友社社長に任ぜられる。

 昭和3年11月、出直す(享年39歳)。茨木事件のあと、大正期後半、教内で活躍した人物であるが、39歳という若さで出直した。 
 天啓者を失い、沈殿した大正期の天理教団に、再生の息吹を与えたのたのが増野鼓雪であった。文筆と講演録が「増野鼓雪全集」(全23巻)に収められている。
 敷島大教会4代会長時代、教勢倍化運動の中で次のような発言をしている。
 「全教会はおぢばの為に存在しているのである。おぢばの御為に全敷島が亡んでしまったといえば、それで本懐ではないか。碌々瓦となって全うするよりも、玉となって散ろうではないか」。(おやさと研究所/天理教事典教会史編「敷島大教会」の項より)

 「空さんのホームページ」の「「北の理」シリーズ、 昭和二年一月五日のお詞」の中の増野鼓雪関連を転載しておく。
 平成十四年四月十五日 東京錦心講に於いてお話
 昭和二年一月五日  刻限  寿 命 薬   
 立教165年4月15日   東京錦心講 勉強会

 【解説】

 これは、昭和二年のお詞ですので、丁度、二代真柱様が成人になって、東京大学を終わって、正式な真柱にお就きになったという時期なのです。二代真柱様は、昭和三年に東京大学を卒業した。二代真柱が十一歳の時に、初代真柱様が亡くなったから、本当は既に真柱なのですけれど、実務の方は、摂行役の山澤為蔵さんがやっていた訳です。それが、段々成人して、東大を終えられると同時に真柱様になって、それで、お地場の方針がガラリと変わったのです。教祖四十年祭の時は、大正十五年で、道が一番張り切っている時なのです。これを、指導したのが、松村吉太郎さんだとか、増野鼓雪さんなどで、増野さんなどは、若い人から神様みたいに憧れられた本部員だったのです。

 教祖三十年祭から四十年祭に掛けては、疾風怒濤の時代と言って、教勢倍加運動を打ち出し、全教的に華々しい大運動が起こった。そうして、教祖四十年祭をやって直ぐの時時ですね。昭和二年ですからね。この時に増野鼓雪が、重要なポストから外されるのです。これは、有名な話なのです。松村吉太郎さんも外されるのです。ガラッと方針が変わったのです。

 当時は、道の子弟のなかに秀才が沢山出たのです。二代真柱に年齢が近い人たちに、ね。皆有名な大学に入った。東大だとか、何だとかという大学に、本部の青年さん達がみな入ったのです。そういう学閥みたいなもので、固めたのです。それで、増野鼓雪などは、明治大学ですから、学閥の外だった訳です。でも人気はあった。そして、二代真柱を教育したのが、姉崎教授という人で、日本の一流の宗教学者だったのです。そういう背景があった訳です。その時代を、神様はどのように思し召されていたか、という事を、このお詞の前半に言っているのです。

 「天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著」 、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著」、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著」、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(終)」 木村牧生(西村輝夫)著」参照。
 大正五年一月二十四日、増野道興は本部准員を命ぜられ、同時に道友社編集主任となった。二十六才という若さであった。この頃、「教勢の推移」と題して大胆にして深刻な講演をしている。これを確認しておく。
 「明治四十一年、天理教は念願の一派独立を成すことができた。これは外面的には天理教の大発展であるには相違ないが、こうしたことが信仰の第一義であるかどうかについては、なお疑問の余地がある。しかし、これをもって、教会制度の基礎が出来上がったことは事実である。

 しかるに数年前から、信徒の心に一つの疑問が起こった。それは、現在のごとき天理教が果たして教祖の理想とせられたものであったかどうかという疑問であり、また、教祖の歩まれた道と現在の教会長、教師の道が一致しているかどうかという疑問である。それが一致していないから、〝教祖にかえれ〟ということが叫ばれ始めた。この声に対して教師は弁解に忙しかった。そこへ社会の動揺とともに、天理教外のいろいろな思想が入ってきた。この間に真の教理は忘れられ、従って不思議なおたすけも少なくなった。そこに苦しみが生じた。そしてその苦しみから何か新しいものを求め始めた。そのとき、管長公のお出直し、松村教正の投獄というふしがあり、何となく気の抜けた三十年祭になってしまった。

 ところで三十年祭後の本教はどこに向かって進んでゆくだろうかというと、おさしづにも示されてあるごとく、海外布教に向かうことになるであろうが、現在の教師のごとき弱卒では到底この大任に耐えることはできない。そこにどうしても神の手入れが始まらねばならないということになる。この神のていれは、従来の誤った信仰、思想に対するていれではあるが、一面、天理教を大きく発展せしめんがための準備である。

 こうしたていれが四、五年あって、そのどん底から再び天理教が勢い立つならば、そのときこと驚天動地の大活動が演ぜられるであろう。この間、本部の中心は動揺するであろう。そしてそれは若き真柱のご成長まで続くであろう。天理教の進路は、本部員会議で諮られることになろう。

 地方教会はこの間、経済問題で苦しむであろう。神殿は完成したから、各教会は内部を整理する必要を生じた。それまで本部中心の思想できたのが、各教会中心の思想になって整理しなければならなくなるであろう。その結果、三十年祭後三、四年にして、直属教会の全盛時代というべきものが来るであろう。それはやむを得ぬことであり、むしろ喜ばしきことである。その日の早く来たり、早く去ることを欲する。しかし教会中心の思想はやがて行き詰まる。窮してくる。しかしこれは真実に達するためには通らねばならない必然的な過程である。そこまで教会が窮していって、再び本部に新しい力が現れる。そして全天理教の思想を一新し、ぢば中心主義に立ち返り、海外布教にその勢力を集中するに至るであろう」。


 増野道興(当時26歳)氏の大正五年八月号のみちのとも寄稿文。
 「今更云うまでもなく、教祖の一生は主として内的生活の高調であった。……その当然の結果として総ての形式的なことは否定せらるるに至った。それ故に当時の信仰者は、物質的な要求を排して真実の生活に生きんと極度の努力を注いだのである。

 然るに教祖帰幽後に、天理教会が組織せらるるに至った。此の教会組織は、本教徒の内心への物質の必要を感ぜしめる種を始めて蒔いたのである。その後本教は、一面に於いては真実心の開発にしたがうと共に、その他面に於いて教会組織の完全を望むあまり、幾分形式的に流れたことは事実である。

 殊に教祖帰幽後十五、六年頃から、この形式を尊ぶ思想が非常に優勢になって、爾来日を追うて信仰と直接関係のない種々なる施設方法が天理教の名の下に講ぜられた。これがために天理教が改められたことは非常なもので、最後に独立を認可せらるるに至ったのである。而してつづいて本部建築が落成し、茲に本教の形式は残りなく完成された。……同時に今まで少なからず等閑視されていた信仰に目覚めようとする気運が、人心に領域を広めつつあった。更に之を換言すれば、教祖時代の燃ゆるような信仰を衷心から憧憬するに到ったのである。

 此の思想の転換期に、前管長様は突然死去せられた。一葉落ちててんかの秋を知るご如く、前管長の出直しは本教大勢の変化を暗示されたる神意である。

 教祖の御帰幽後、天理教会が組織せられたる如く、管長の帰幽後、熱烈な信仰の燃ゆるは、自然の経路と見るべきである。……三十年祭の捧げ物は神殿であった。然し本教の内容が神意と相反すれば、神の失望は火を見るより明らかである。かくて三十年祭の捧げ物は、五百万信徒の真実の宝より外はない。……」


 大正七年、本部員/増野道興の意見。
 「現在の青年諸君の信仰を大観しますと、次第に信仰が薄弱になってきたように思うのであります。何事も真剣になって、神様に御奉公という心持ちがなくなってきたように思われます。これでは本教将来のために大いに愁えなけれなりません。近年、信仰の衰退とともに、青年尾思想が信仰を離れて、社会的の標準によって何事もする傾向が現れてきました。これは一見甚だ良いようにでありますが、神意をもって生活の標準にする信仰生活とは、ほとんど矛盾するものであります」。

  「ひのきしん」という課目が正科として取り入れられたのは、増野氏が初めて校長になって指導した第二十四期からである。これに対して多少面白くないと感じた者もいたらしい。あるとき氏はこう言った。 「お前たち、ひのきしんしたくなかったらしなくてもかまわぬが、その後お前たちがどうなるか考えてみろ」。「お前たちは、土持ちしたらひのきしんで、それでいんねんが切れると思っているが、そんなら土方は毎日いんねんが切れていることになるな」。こんな調子で、生徒の常識、固定観念をかき回し、混乱に落し入れ、そこで各自に考えさせた。また考えさせる力を持っていた。教理を決して説明しなかったし結論を言わなかった。そこで生徒はいつも黙って考え込んで、休憩時間になってもたばこを吸うのを忘れる者が少なくなかった。しかしこんなことは、要するに方法にすぎない。ただともかく氏は、常識や人間思案に覆われた人間の心の茂みの中を分け入り、土足でズカズカとその中に芦を踏み入れようとしていたのである。道は真剣勝負であり、体裁も何も要らないというのがその信念であった。人間思案を破壊すれば、そこに真実に触れてくるものがある。では真実に触れたとき、人間はどうなるか。「そのとき人間は、怒るか、泣くか、笑うか、三つのうち一つだ。これ以外は皆うそだ」。実際増野氏は、人を怒らせ泣かすことの多かった人であったかもしれない。しかしそれでも恐れずに、頭ではなく心に向かって常に勝負を挑んだ。氏に向かってある人がこう言った。「先生のように、やることなすことすべて当たるのなら、相場師になったら良かったですな」。そのとき氏は胸を張ってうそぶいた。「なあに、俺は人間を相手に相場を張っているのだ」と。

 しかし、こんなところに氏の教育の秘密があったわけではない。信仰の世界にそんな秘密などない。もしあるとすれば、別科第二十四期生を送り出した際、次のように述べたところにあるのかもしれない。「……心霊の開発ということのみを目的としては、大きな燃えるような信仰が生まれてこないことを実地の上から知ることができた。それで今度は、できるならば今一歩進めて、一切を神様にお任せ申して、神様によって教育していただこうと思うのである。これは、ちょっと考えると甚だ無責任のようであるが、自己というものの意義を真実に自覚した方々は、私の申すことは十分理解していただけると思う……」。

 この「一切を神様にお任せ申す」という信仰の中に、実は氏の面目があったと見るべきである。しかしこれには、多少の解説がいるかもしれない。例を挙げていうと、こういうことがあった。第二十五期生に対して、氏はあるときこう言った。「二十四期では、在学中に三分の一くらいが身上を頂いた。今度は二十五期だが、お前たちはこれでいくと半分は身上になるだろうな」。そして、あっけに取られている生徒に、なおもこう続けた。「しかし、お前たちは別にびくびくしなくてもいいし、勝手なことをしてもよい。俺は監督なんかしない。ほったらかす。神様が監督してくださるだけだ。しかし、もし俺が本当に誠真実になれば、お前たちは片っ端から、皆バタバタと倒れてしまうな」。

 氏は信じていたのである。人間が真にさんげに徹し、真実の心定めをすれば、その心に必ず喜びが湧く。喜びが湧くということは、神様にその心を受け取ってもらった証拠である。神様に受け取ってもらえると次に何が起こるかというと、必ず困難が起きてくるのである。それが、神様の近づいてこられるしるしだと。困難というのは、人間にとって身上事情を意味する。すでに「一切を神様にお任せ申した」以上は、氏は生徒に何も要求しなかった。ただ責任者である自分が、真実を供えるだけであった。それは、生徒に代わってするものであったに違いない。すると神様は必ず生徒に身上のしるしを付けて仕込んでくださる。単なる人間から、神のようぼくとして生まれ替わるよう急き込んでくださる。だから自分としては、そのように神様が働いてくださるよう、真実さえ尽くしていけばそれで良いのだ。おそらくこれが底流にあった信仰信念であったに違いない。そのためには、容易ならぬ心定めがあったと想像されるのであるが、それはもはや、詮索すべきものではないであろう。信念がそこにある以上、氏の態度は極めて単純であった。何を生徒に対して話そうとしたのか。それは一つしかなかった。「誠真実になれ」ただこれだけであった。氏は、頼るべきものは心一つであるということに徹底していた。形の上の教会というものなど信じていなかった。もとより教会の数というものも、頼るべきものではなかった。もし頼るべきものがあるとするならば、名称の理の芯である教会長の心一つ、布教師、ようぼくのお心一つだけであった。その心が人間思案に覆われ、物質に追い回され、真実を喪失しているならば、それは教会でもなければ、布教師でもない。もとより神様の働きがあろうはずがない。言わんや神一条であるはずもない。その心一つを起こし、その心を真実にすること、それだけが信仰の目的であり、これが四十年祭の本当のささげ物であらねばならぬと信じていたのである。だから氏は別科生に向かっても、やたらに布教せよというようなことを口にしなかった。それは、当時の気風が布教へと向かっていたから、そうした反論的な態度になったとも思われるのであるが、本当は誠真実の心をつくることを忘れて布教してみたところで、信仰の世界においては何もできるものではないと信じていたからである。外なるものから内なるものへ。そうした方向の転換の中に、氏は「よなおり(世直り)」の意味を見いだそうとしていた。「よなおり」とは、世の中の客観的状態が立て替わるのではなく、一人ひとりの心が立て替わるということであり、この意味で「よなおり」とは、実は「天理教のよなおり」であった。「よなおり」したらそこに神一条の世界が開け、神意が悟れ、理の働きを如実に受けることができる。そして再び不思議なたすけも続出するであろう。そのために、人間として成すべきことは、ただ一つ、誠真実の心をつくることだけである。これが氏の主眼とした、いかにして神の働きを得るか、ということの内容であった。そのために破壊すべきもの、それと戦わねばならぬものとして、二つのものを見いだしていた。一つは、あまりに教会中心的、形式的に堕しつつあった当時の思潮と、もう一つはあまりに理知的、客観的に流れようとしている教理研究の態度であった。前者に対しては教会の行き詰まり、困窮を神のてびきとして、その中からぢば中心主義の神意を悟らしめ、また人間思案の枠から引っ張り出して再び混沌の中に投げ込むこと。すなわち、安定した教会生活、教会思想から、どう転ぶか分からない不安の中へ人々を投げ込むことであった。後者に対しては、教理はあくまで主観的なものであり、真実の心をつくるためのものであるということを強調し、教理即実行の世界へ突入せしめようとした。誠真実の、神に対する関係が神一条ということであると考えていた氏は、神一条の実現を四十年祭の目的としていたことが分かるのである。そしてそれは、氏にとっては復元であったに違いない。この実現のためには人間思案および新しい思潮との対決が必要であった。この対決とその推移が、実は四十年祭の主要テーマであったといって差し支えはないであろう。


 天理教校は、増野氏が校長になって一新するまでは、教師の資格を取るための施設という性格が主で、本当の信仰をここで培うという気風はそう強くなかった。こうした中において、ぢばはそうした事務の取り扱いではなく、もっと真実の意味におけるぢば、すなわち、たすけ一条のやしきとならねばならないと強く感じたのは、本部員松村吉太郎氏であった。松村氏は、三十年祭の時は収監されていて、暗く寒い獄中で、一人しみじみと教祖のひながたを身に味わいつつ遥拝した。それだけに、来るべき四十年祭に対して心に期するものは深くそして強かった。氏のこの貴重な体験は、その心に真実の信仰心を燃え上がらせた。あるいは、神に目覚めた人となったと言ってもよいかもしれない。

 大正九年、氏の提案が動機となって神殿における神前奉仕が始められた。これは神前に奉仕するとともに、参拝者に対して教理を取り次ぎ、神殿をたすけの道場たらしめんとするものであったが、そのもう一つ奥には、ぢばが名実ともにたすけ一条のやしきたる実を備えることを念願したものであった。これは教会中心の思想と違い、また布教中心の思想とも違った。教会をして教会たらしめ、布教を可能にする根本のもの、すなわち、親神・ぢばの理に仕えることによって信仰中心の気運を醸成し、親神の御力によって、すべてのことを図ってゆこうとする思想であった。

 増野氏が教校の改心を目指したとき、それは松村氏と軸を同じくする思想の上に立っていた。松村氏がぢばが信仰の雰囲気に包まれることを念願したとするならば、増野氏は、教校が信仰の雰囲気に包まれることを第一としたのである。しかし、いかに信仰の雰囲気があっても、人々の心にそれを受け取るだけの心の理がなかったならば、一方的なものにすぎない。本部の意思と一般教会の意思が一つにならなければ、自由自在の理は見せていただけない。しかし、順序から言って、まず本部が率先してそうした信仰的な雰囲気を求め、親神の自由をお働きによって事を進めてゆこうという心になった以上、それはおのずと一般教会に映るのは当然である。果然人々の心はぢばへ向かい、教校別科生は倍加倍加というふうに増えていった。ぢば中心主義は、こうした姿においてその正しさを実証し、人々はまた心の目を新たに開くことになり、一つの信仰の転機を迎えることになったのである。

 ところで、人間の心はそれぞれ皆違っている。その違っている心を一つにするためには、すべての人が自分中心の考えを捨て、神の心に合わしてゆかなければ、永遠に心が一つになることはできない。では、どうすれば皆銘々に違っている心を一つにし、すべての人々がぢば中心、信仰中心に立ち返ることができるのか。この点に、実は最大の課題と苦心があったのである。

 当時、道友社編集主任でもあった増野氏は、大正九年六月号の『道乃友』に、「暗黒世界へ」と題するいささか文学的な表現を持つ、型破りな巻頭言を書いた。大正九年十月号の『道乃友』の冒頭に「街頭に立て」と題する一文を載せ、「巷に出て、天理王命の名を高く唱えようではないか」と唱導した。この呼びかけによって、東京、大阪でのろしが挙げられた青年による路傍講演の動きは、全教に広がり始めた。教校生も秋季大祭を期として、有志百五十人が八組に分かれて三日間、親里の各地に赤い高張を立てて街頭に立った。神戸、京都、四国、さらには朝鮮の京城においてもその火は広がった。

 大正十年一月二十六日、教会本部は直属教会長を全員招集した。そして松村吉太郎、板倉槌三郎、高井猶吉の三本部員が出席して、教祖四十年祭を来たる大正十五年の一月に執行する旨の発表があり、その準備について種々相談するところがあった。五年も前に年祭の発表があるということは、本部が大きな決意をもって準備に当たろうとしていることを物語っていた。もっとも三十年祭は、九年も前におさしづによって打ち出された歴史がある。しかもこのときは、御本席の身上というふしがあり、また神殿建築という大事業が具体的な目標として示されていた。それに比すると、四十年祭の打ち出しには、そうした具体的な目標は示されていなかった。しかし松村吉太郎氏は、このとき大体二つの根本的な構想、方針を心に描いていた。その一つはぢばの拡張であり、もう一つは教勢の倍加であった。ぢばの拡張は、信仰的なぢば中心主義から出てくる根本方針であった。今は天理教人にとって確固不抜のよりどころとなるものは、ぢばの理をおいて他にない。したがって、ぢばの拡張に対して不満や疑念を抱く人はいないはずであった。当時、積極派の中心は松村吉太郎氏であり、さらに増野道興氏であった。ことに増野氏の信仰は、大正八年頃から十四年頃までが、その絶頂であった。四十年祭の打ち出しがあった同じ日の午前十時から、かんす山の校庭で、天理教校同窓会第二回総会が行われた。増野氏はその数日前の二十二日に、生後百日程で長女が出直すふしに遭い、悲しみの中に、いかなる神様のお知らせであるか判然とせぬまま心を悩ましていた。この日氏は、そういう個人的な事情も知って襟を正している同窓生を前にして、一場の講演を行った。これが四十年祭に対する直接の第一声であった。この講演は、感情に激した大声疾呼とは異なり、静かで深い口調であり、いくらか悲痛な色調を呈していた。氏は常々、大声疾呼して人を踊らせることを軽蔑していた。それで人はうごくものでないということを知悉(ちしつ)していたし、むしろ、深い心があるならば、うつむいて黙々と一人行くのが真の信仰者であると信じていた。講演の最後で氏は、あたかも自分に言い聞かせるようにこう結んだ。神様は「出来ん事出来るが神の道」(明治四十年四月九日)と仰せられている。自分でできると思うことは、そう思うことがすでに神様の力を無視しているから、かえってできぬことになる。できんと思うことは、神様にすがる心があるから、それは成り立ってくるのである。故に、自分の力ではできにくと思われるだけの、大きい心を定める必要がある。大体心定めをする上で、二つの重要なことがある。心定めをして、それが神様の御心に叶うたときは、心に勇んだ理が出てくる。故に心定めは、この喜びが心に湧くところまで定めなければならない。次に心を定めたなら、それが大きければ大きいだけ、苦痛も大きいのである。それは覚悟をしておかねばならない。しかし、苦痛の後には必ず神様が近寄ってきてくださるのだから、そこさえ通り越せば必ず幸福が与えられる。これを要約すれば、心定めは、内においては大なる喜悦を感じなければならず、外に対しては大なる苦痛を見なければならぬことを覚悟して、なるだけ大きい望みを持つことが必要である。それさえできれば、いかなる大事業も必ず完成し得る。私は心からその日の実現することを希望し、かつ憧憬するものであると。

 大正十年三月二十三日、増野氏は敷島大教会長に就任した。長女の出直しは、このためのお知らせであったに違いないと心に悟った氏は、その頃「眠れる獅子」と呼ばれた敷島に乗り込んだ。当時の敷島は、大教会も部内教会もドン底にあえいでいて、おたすけ活動も鈍りがちであった。就任早々、増野氏は爆弾を投げ付けるような提言をした。大正十年中に、五十カ所の教会名称を設置すること、また教校別科生を百五十人募集することである。そのために四月には早くも講習会を開き、眠りを覚まさせようと真剣命懸けの努力を傾けた。氏の言わんとすることを簡潔にまとめると、「大教会の借金は会長が責任を持って片付ける。だから部内の者は、一意専心おたすけに渾身の力を注げ」ということであった。しかし、この決心は多くの人には、三十を越したばかりの経験のない会長が夢のようなことを言う、ぐらいにしか受け取られなかった。しかし、そういう気分こそ一新する必要があった。深い心を定めて一歩も退かない覚悟さえあれば、必ず神様が働いてくださる。どういう形で現れてくるかは分からないが、それまで持ちこたえ、通り切ることができるかどうか、そこが岐路だ。しかし、すでのさいは投げられた。前に進むより他に道はない。こうして増野氏は、講習会において「おぢばのために玉砕しようではないか」と叫んだ。神様は人に難儀さそう、不自由さそうとしてこの道をつけられたのではない。もし難儀し、不自由しているのであれば、それは神様の道を歩いていないからそうなったのである。しかし今日からは、神様のおっしゃる通りにやってみよう。それをやって、もし自分のところが潰れてしまうのであれば、潰れてもよいではないか。大体やりもしない先から心配するような小さい心では、神様のお働きを心で止めているようなものだ。やってみて、教理が本当であるかどうか試してみたらよい。そうしたら本当の神様の働きが分かってくる。この意味で、敷島が四十年祭のために、御本部のために倒れても満足である。なぜなら、神の道を立てるために敷島が立っているからである  







(私論.私見)