天理教校は、増野氏が校長になって一新するまでは、教師の資格を取るための施設という性格が主で、本当の信仰をここで培うという気風はそう強くなかった。こうした中において、ぢばはそうした事務の取り扱いではなく、もっと真実の意味におけるぢば、すなわち、たすけ一条のやしきとならねばならないと強く感じたのは、本部員松村吉太郎氏であった。松村氏は、三十年祭の時は収監されていて、暗く寒い獄中で、一人しみじみと教祖のひながたを身に味わいつつ遥拝した。それだけに、来るべき四十年祭に対して心に期するものは深くそして強かった。氏のこの貴重な体験は、その心に真実の信仰心を燃え上がらせた。あるいは、神に目覚めた人となったと言ってもよいかもしれない。
大正九年、氏の提案が動機となって神殿における神前奉仕が始められた。これは神前に奉仕するとともに、参拝者に対して教理を取り次ぎ、神殿をたすけの道場たらしめんとするものであったが、そのもう一つ奥には、ぢばが名実ともにたすけ一条のやしきたる実を備えることを念願したものであった。これは教会中心の思想と違い、また布教中心の思想とも違った。教会をして教会たらしめ、布教を可能にする根本のもの、すなわち、親神・ぢばの理に仕えることによって信仰中心の気運を醸成し、親神の御力によって、すべてのことを図ってゆこうとする思想であった。
増野氏が教校の改心を目指したとき、それは松村氏と軸を同じくする思想の上に立っていた。松村氏がぢばが信仰の雰囲気に包まれることを念願したとするならば、増野氏は、教校が信仰の雰囲気に包まれることを第一としたのである。しかし、いかに信仰の雰囲気があっても、人々の心にそれを受け取るだけの心の理がなかったならば、一方的なものにすぎない。本部の意思と一般教会の意思が一つにならなければ、自由自在の理は見せていただけない。しかし、順序から言って、まず本部が率先してそうした信仰的な雰囲気を求め、親神の自由をお働きによって事を進めてゆこうという心になった以上、それはおのずと一般教会に映るのは当然である。果然人々の心はぢばへ向かい、教校別科生は倍加倍加というふうに増えていった。ぢば中心主義は、こうした姿においてその正しさを実証し、人々はまた心の目を新たに開くことになり、一つの信仰の転機を迎えることになったのである。
ところで、人間の心はそれぞれ皆違っている。その違っている心を一つにするためには、すべての人が自分中心の考えを捨て、神の心に合わしてゆかなければ、永遠に心が一つになることはできない。では、どうすれば皆銘々に違っている心を一つにし、すべての人々がぢば中心、信仰中心に立ち返ることができるのか。この点に、実は最大の課題と苦心があったのである。
当時、道友社編集主任でもあった増野氏は、大正九年六月号の『道乃友』に、「暗黒世界へ」と題するいささか文学的な表現を持つ、型破りな巻頭言を書いた。大正九年十月号の『道乃友』の冒頭に「街頭に立て」と題する一文を載せ、「巷に出て、天理王命の名を高く唱えようではないか」と唱導した。この呼びかけによって、東京、大阪でのろしが挙げられた青年による路傍講演の動きは、全教に広がり始めた。教校生も秋季大祭を期として、有志百五十人が八組に分かれて三日間、親里の各地に赤い高張を立てて街頭に立った。神戸、京都、四国、さらには朝鮮の京城においてもその火は広がった。
大正十年一月二十六日、教会本部は直属教会長を全員招集した。そして松村吉太郎、板倉槌三郎、高井猶吉の三本部員が出席して、教祖四十年祭を来たる大正十五年の一月に執行する旨の発表があり、その準備について種々相談するところがあった。五年も前に年祭の発表があるということは、本部が大きな決意をもって準備に当たろうとしていることを物語っていた。もっとも三十年祭は、九年も前におさしづによって打ち出された歴史がある。しかもこのときは、御本席の身上というふしがあり、また神殿建築という大事業が具体的な目標として示されていた。それに比すると、四十年祭の打ち出しには、そうした具体的な目標は示されていなかった。しかし松村吉太郎氏は、このとき大体二つの根本的な構想、方針を心に描いていた。その一つはぢばの拡張であり、もう一つは教勢の倍加であった。ぢばの拡張は、信仰的なぢば中心主義から出てくる根本方針であった。今は天理教人にとって確固不抜のよりどころとなるものは、ぢばの理をおいて他にない。したがって、ぢばの拡張に対して不満や疑念を抱く人はいないはずであった。当時、積極派の中心は松村吉太郎氏であり、さらに増野道興氏であった。ことに増野氏の信仰は、大正八年頃から十四年頃までが、その絶頂であった。四十年祭の打ち出しがあった同じ日の午前十時から、かんす山の校庭で、天理教校同窓会第二回総会が行われた。増野氏はその数日前の二十二日に、生後百日程で長女が出直すふしに遭い、悲しみの中に、いかなる神様のお知らせであるか判然とせぬまま心を悩ましていた。この日氏は、そういう個人的な事情も知って襟を正している同窓生を前にして、一場の講演を行った。これが四十年祭に対する直接の第一声であった。この講演は、感情に激した大声疾呼とは異なり、静かで深い口調であり、いくらか悲痛な色調を呈していた。氏は常々、大声疾呼して人を踊らせることを軽蔑していた。それで人はうごくものでないということを知悉(ちしつ)していたし、むしろ、深い心があるならば、うつむいて黙々と一人行くのが真の信仰者であると信じていた。講演の最後で氏は、あたかも自分に言い聞かせるようにこう結んだ。神様は「出来ん事出来るが神の道」(明治四十年四月九日)と仰せられている。自分でできると思うことは、そう思うことがすでに神様の力を無視しているから、かえってできぬことになる。できんと思うことは、神様にすがる心があるから、それは成り立ってくるのである。故に、自分の力ではできにくと思われるだけの、大きい心を定める必要がある。大体心定めをする上で、二つの重要なことがある。心定めをして、それが神様の御心に叶うたときは、心に勇んだ理が出てくる。故に心定めは、この喜びが心に湧くところまで定めなければならない。次に心を定めたなら、それが大きければ大きいだけ、苦痛も大きいのである。それは覚悟をしておかねばならない。しかし、苦痛の後には必ず神様が近寄ってきてくださるのだから、そこさえ通り越せば必ず幸福が与えられる。これを要約すれば、心定めは、内においては大なる喜悦を感じなければならず、外に対しては大なる苦痛を見なければならぬことを覚悟して、なるだけ大きい望みを持つことが必要である。それさえできれば、いかなる大事業も必ず完成し得る。私は心からその日の実現することを希望し、かつ憧憬するものであると。
大正十年三月二十三日、増野氏は敷島大教会長に就任した。長女の出直しは、このためのお知らせであったに違いないと心に悟った氏は、その頃「眠れる獅子」と呼ばれた敷島に乗り込んだ。当時の敷島は、大教会も部内教会もドン底にあえいでいて、おたすけ活動も鈍りがちであった。就任早々、増野氏は爆弾を投げ付けるような提言をした。大正十年中に、五十カ所の教会名称を設置すること、また教校別科生を百五十人募集することである。そのために四月には早くも講習会を開き、眠りを覚まさせようと真剣命懸けの努力を傾けた。氏の言わんとすることを簡潔にまとめると、「大教会の借金は会長が責任を持って片付ける。だから部内の者は、一意専心おたすけに渾身の力を注げ」ということであった。しかし、この決心は多くの人には、三十を越したばかりの経験のない会長が夢のようなことを言う、ぐらいにしか受け取られなかった。しかし、そういう気分こそ一新する必要があった。深い心を定めて一歩も退かない覚悟さえあれば、必ず神様が働いてくださる。どういう形で現れてくるかは分からないが、それまで持ちこたえ、通り切ることができるかどうか、そこが岐路だ。しかし、すでのさいは投げられた。前に進むより他に道はない。こうして増野氏は、講習会において「おぢばのために玉砕しようではないか」と叫んだ。神様は人に難儀さそう、不自由さそうとしてこの道をつけられたのではない。もし難儀し、不自由しているのであれば、それは神様の道を歩いていないからそうなったのである。しかし今日からは、神様のおっしゃる通りにやってみよう。それをやって、もし自分のところが潰れてしまうのであれば、潰れてもよいではないか。大体やりもしない先から心配するような小さい心では、神様のお働きを心で止めているようなものだ。やってみて、教理が本当であるかどうか試してみたらよい。そうしたら本当の神様の働きが分かってくる。この意味で、敷島が四十年祭のために、御本部のために倒れても満足である。なぜなら、神の道を立てるために敷島が立っているからである
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