増野鼓雪教理考その5

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「増野増野鼓雪教理考その5鼓雪教理考その5」をものしておく。「増野鼓雪と天啓」その他参照。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪教理5-1、甘露台は宝
 「甘露台は宝」と題して次のように述べている。
 凡そ人として自分の生命が、一日でも長くこの世にある様に願はぬ人はないのであります。死を望んでいる仏教の信者でも、さて今死なねばならぬ時は、必ず死を恐れて医者に治癒せられんことを欲するのであります。これは単に人間ばかりではなく、生物全体が有する本能であります。それならばこそ虫でも獣でも、死を恐れて逃げ走るのであります。
 

 かような訳でありますから、もしここに人間の生命が確かに全うせられる、即ち百十五歳の定命が与えれるという様な事が、事実の上に現れて来たならば、誰一人としてそれを欲せぬ者はないのであります。必ず我先にと走って、その薬を得んと欲するのは、病院へ患者が押しかけて行く様な事ではなからうと思います。もっと恐ろしい勢いで、世の中の人がお地場へ参集して来るに相違ないのであります。もしこうした日が現れて来たならば、お地場に於ける甘露台というものは、本教に於いて最も重大なる意義を持つに至るは云う迄もなく、恐らく日本にとっても、宝であるのみならず、世界の人類に取っても無二の至宝であろうと思うのであります。

 然るにこの甘露台の始めかけられた当時の人々は、この甘露台がそれほど重大なものであるという事を知らなかったのであります。それでこの甘露台が如何云うものであろうかと、思い惑うて居たのであります。その心持を御教祖が御知りになって居て、人々はこれを如何云うものだろうと思うているかと、仰せられたのであります。そして最後に「これは日本一の宝や」と仰せられたのであります。現在ではまだ甘露台が建設されて居ないのでありますから、是が日本の宝だというても、多くの人は信じる事ができませんが、それが実際にできあがったなら、成る程これは日本の宝に相違ないと、気づいて来る時があるのであります。


【増野鼓雪教理5-2、神の透見
 「神の透見」と題して次のように述べている。
 神の透見(一)
 人間の眼と云うものは妙なもので、暗い所からは明るい所がよく見えますが、明るい所からは暗い所が中々見えないものであります。日中に都会の小路を通りますと、簾でもつるしてあると、外から内の様子は少しも分からぬのでありますが、夜は家の内へ電灯が灯りますから、内から外は見えませぬけれども、外から家の内はよく分かるものであります。

 ところで人間はお互いにこうした明るい世界に生れ出して頂いて居るのでありますから、この世の事即ち眼で見える事については、何から何まで分かるのでありますが、この世と云う部屋の外の事になると、何一つ分かって居ないのであります。従って形のない神様が、どう云うものであるやら、いかなる働きをなさる方であるやらと、少しも分からぬのであります。これは要するに人間が、智慧を持って居るからであります。即ち知識の日を灯して、この世を明るくして居るからであります。然しその光を消して、眼を暗に慣れさせると、割合に暗い所も見えて来るものであります。

 こゝが御道で云う「
馬鹿や阿呆でなければ、道は分からぬ」と云われるところであります。ところが人間は馬鹿や阿呆になるのはきらいで、益々賢くなって火力を強めて行くから、暗は益々見えなくなって行くのであります。然るに神様は人間と反対に、暗い所から明るい所を見て御座るのでありますから、何一つ見えないものはありません。即ち人間のする事なら、どんな小さい事でも見残しなく、見ておいでになるのであります。その有様は丁度心の底に曇のない鏡を置いてあるのと同じで、凡てのことは皆な映って行くのであります。
 神の透見(二)

 そこで人間は外に向かって居る眼を内に転じて、その心の底にある鏡に映る自分の姿を見なければならぬのであります。そうすると人々が表でしている事の裏はどういう事であるかと云う事が、明らかに分かって来るのであります。すると神様が人間を御覧になって居るのは、こう云うものであるなと云う、神の心がひとり会得できてくるものであります。

 それでお道はその暗の世界に這入って行かねばならぬので、この道を一寸聞いた人は、お道とは大変にむつかしい道の様に思うのであります。なぜならこの信仰に這入る道は、極く/\細い道であって、人間の一切をなげ捨てて、唯本心即ち真実だけの心にならなければ、その間が通れないからであります。そこで真実でない心を、一切心から取り去らなければならぬので、それを世界並の人は窮屈に思うたりむつかしく思うたりするのであります。

 けれども一度思い切って、その細い道を通り抜けてしまうたら、今度は広々した所へ出られるのであります。そして今迄家の内から外を見て居た様なのが、今度は家を出て外から内を見る様に何かの事が分かって来るから、この道の楽しみが分かって来るのであります。それは世の中の人の苦労してたり、難儀したりする理が明らかに見えて来るのであります。そうなればこうもいうてあげたら、あの人も助かるこの人も助かると云う事が分かって来ますから、我知らず人を助ける様になり、又我が身も助かる道がついて来るのであります。それが御道というのであります。我々も神様が人間を御覧になる様に、不思議な理を見せて頂く様に努めて行かなければなりません。そういう人が一人でも多く出れば、それだけ神一条の理が、この世に早く現れて行くのでありますから、道の者は先ず自らそうした、神一条の世界に這入る様な人にならなければなりません。


【増野鼓雪教理5-3-1、神一条の道一
 「神一条の道一」と題して次のように述べている。
 神一条の道一(一)
 神一条の道と云うのは、人間心でないものを云うのであります。すべて何事を見ていても聞いてもそこに神を見出すと云うのが、即ち神一条であります。たとへ野の花草の一葉を見てもそこに神を見出す。又家庭の事情を見て、身上の障りを見てもそこに神を見出すと云う如く、世の中の総てのことに神を見出すことができれば、それが神一条と云うのであります。又神一条によって現れて来ること、成って来ることが分かったら、その人は神一条の世界に入っている人であります。

 教組に天保9年に神憑りがあったのは、神一条の世界をこの世に現したいと云う神様の御心だったのであります。神を知り神に近づく人が道の人で、その他は世界の人であります。けれども、この道を信仰していると云っても、神を目的としないものは偽善者であり、又神を偽るものであります。この道はどこまでも神を目標とし、神に近づいて行く道であります。人間が神に近づいて行く道は、教祖のつけられた道であります。この教祖のつけられた道すがらを通らせて頂けば、人間は神に近づくことができるのであります。どうしても私らはこの道を通るべきであるか、この道はどこにあるのであるかと云へば、この道は各人の心の中にあるのであります。
 神一条の道一(二)
 外に道を求めるのではなく、目に見えぬ心の中に求むべきであります。目に見える世界の道はいくらでもあります。けれども一名一人限りの心を運ぶ道、神に到達する心の道はただ一つのであります。そこでこの道はうわべの道ではありません。心一つを治めて行く道であります。けれどもその心は、道すがらを踏まないことには治まらないのであります。これを解り易く言いますと、「めい/\の濁った心-人間心や物心-を去って、清水の心にならなけばならならない」のであります。この道すがらがお道であります。けれども濁った心をすますと云うことは、実地に当って見ると中々難しいことであります。人を見てハッと思うことがありますが、それではいけないのであります。何故いけないかと云いますと、それは前生通った因縁があるからであります。その因縁が濁った心を出させるのであります。例えば酒呑みが酒を呑んだら悪いと云うことが知っていながら、酒屋の前を通ると、酒が呑みたくなる。又女狂いをする者が、これは悪いと知りつゝも、夜火がつくと落ち付かなくなる様に、因縁がこうせしめるのであります。因縁と云うものは丁度鏡にこのコップが写った様なものであります。拭いても拭いてもその影は消えないのであります。これを少しも解り易く話しますと、例へば神戸の元町の様な繁華な路を歩いていると、ぢきにあれが買いたいこれが買いたいと云う心になるのであります。この原因は自分の懐中に金があるからであって、これは金銭について因縁であります。けれどもその金をどこかで落してしまへば、もうあきらめがついて、買いたいと思わない様になるものであります。

 又めい/\に埃を積んでいるから、心に間違いが起り易いのであります。心に間違いがあるから、心が悪くなるのであります。清水の心になってこそ、どんなものでも洗へるのであります。この清水の心とは、神の心でありますから、神様に自分の濁った心を洗って貰はなければならないのであります。それを洗って貰う道は「教祖五十年の道」であります。

【増野鼓雪教理5-3-2、神一条の道二
 「神一条の道二 」と題して次のように述べている。
 神一条の道二(一)
 この教祖五十年の道が分かっていても、分かっているだけでは何にもならぬのであります。この道を習って行かなければ、その道の尊さは現れて来ないのであります。どんな立派な手本があっても、それを習はなかったら何にもならないのであります。それを習うから結構なのであります。天理教が結構だと云うのも、何が結構なのであるかと云へば、自分の心が誠になればそれだけ結構なのであります。神様は人間が誠一つなることを望んで居られるのであります。「誠一つは天の理」と仰せられてあります。で神様は誠の心だけをお受取り下さるのであります。

 世界のなるものは皆な神様のものであります。めい/\のものを云うのは心だけであります。心には、埃の心と、正味の心とがありますが、神様はその正味の心、即ち誠の心をお受け取り下さるのであります。私らは誠になると外に神に近づく道はないのであります。誠になればなるだけ神様に近寄っているのであります。神はどんなに勉強したからと云って、見えるものではないのであります。誠より外に神の姿を確認する法はないのであります。誠の心になって神に近づき最後に神様の心と悟らして頂く様になれば、そこで信心の効が現れて来るのであります。御言葉にも「こゝまで信心してからは、一つのこうを見にやならぬ、十ドこのたびみえました 扇のうかがいこれ不思議」と仰せられてありますが、これが信仰の究極であります。最後の到達点であります。扇にうかがいと云うのは、今日ではありせんが、それは教祖から扇を頂いて、それによって神意をうかがうと云うのであります。

 神一条の道二(二)
 ある時にある人が、暑い日の照っている時に、傘を以て高下駄をはいて外出したのであります。それを見た人々は、この好天気に傘を持って高下駄をはいて歩く人がいると云って笑っていたのであります。ところが今まで良かった天気ががらりと変って、大粒の雨が降って来たことがありますが、これは扇のうかがいで雨になることが分かっていたのであります。つまり扇によって神意を知ることができたのであります。お道の布教者は教理を説くのみはいけないのであります。神様の心を人に伝へて、そこの天の理が働いて来なければならのであります。

 このことをもって分かり易く、もう一段奥へ入ってお話しますと、「勤め一条、話一条、助け一条」の三つとなるのであります。勤め一条と云うのは、私ら神様のためにお勤めさせて頂くことであって、それにはめい/\勝手の心を使ってはいけないのであります。神様の御心を受けず、自分の心でやったことは人から見てどんな立派なものであっても、神様に対する勤めができているのではありません。人がほめてくれても、神の心によってできたものではなくては駄目であります。神様の言葉である以上は、それが分ろうが分かるまいが、神様の御言葉のまゝに一生懸命に働かさせて貰うと云うのが勤めであります。この勤めをしている間に、道が分かって来るのであります。勤めをさせて貰っている間に神の心が分かって来るから、人に話をしても理を次ぐことができるのであります。神様と人間との間に心が行き合う様になっていてできるのであります。神様と人間との心が行き合う様になっているのが取次人であります。

 御言葉にも「さとし違いのないよう、さとり違いのないよう」と云うことを仰せられていますが、こゝで話一条の道が現れて来るのであります。勤めをすることが助けの元となるのでありますから、勤めを完全にしてをかないと、完全な話はできないのであります。勤めさへ完全にできていれば、話をしても親の心に添った話ができるのであります。親の心に添った話であったならば、沢山お話をせなくても、一言でも人が助かるのであります。総て理のある人の言葉は、一言で腹の中に治まるものであります。教組は人が集まって来ても、ダラ/\と長い話はせられなかったのであります。ただ「やさしい心になるのやで」と云うような一言の話であったが、それで人が助かったのであります。兎に角勤め一条ができ、話一条ができて、元一つの理が分かれば、助け一条となるのであります。神様は「元一つの理」を云うことを仰せらていますが、沢山の教会多数の教師は、教祖五十年の御苦労の理からできて来ているのであります。この理が天理王命であって、お道は汎神教でもなけば、多神教でもないのであります。天理王命は神が教祖にお与えになった名であります。けれども人間に神名をつけては、はたが承知しないだろう云うので、地場にその理を下されたのであります。それで地場が即ち天理王の命であります。それで私らが地場に尽すことは、即ち天理王命に尽すことになるのであります。

【増野鼓雪教理5-3-3、神一条の道三
 神一条の道三(一)
 教会の発達と云うことも、つまり御地場に尽した理が現れて来るのであります。又地場は教祖五十年の理の伏せ込んである所でありますから、お地場に現れて来ることは、皆な神様がおさせになるのであります。神様は「屋敷から打出す言葉は天の言葉」と仰せられてある如く、お地場に現れて来ることは、みな神様に旬時をもっておさせになるのであります。ですから、お地場に現れてくる事に力を入れて、これをなし上げるのが私らの勤めであって、これが天理王命に尽す理であります。

 この地場から流れた理に無理があると思うのは、我が心に勝手があるからであります。神様の言葉に無理はないのでありますが、我が身から思案するからそれができないのであります。めい/\から思案をするからそれができないのであります。めい/\から思案をする時には、地場から流れる理が無理の様に思へるのであります。けれども、教祖在世中は何事によらず教祖自らが試してから、世界にお説きになったのであります。それで神様の仰せに無理はないのでありますが、行かへんとか通れんとか云うのは、みなめいめいの心が行はないのであります。故にめい/\の難儀苦労の云うことは、皆な自分の心から出るのであります。でどんなことであっても地場から出る言葉、地場の理に添わして貰うと云う心でなければならないのであります。お地場の理の添って行くから末が栄えるのであります。又一面お地場は因縁の報じ場所であります。又地場に現れてことは旬刻限の理によって現れるのであります。人間がしようと思っても、旬が来なければどうすることもできないのであります。

 この道は教祖によって開かれてから八十三年になりますが、教祖御在世中に「七十五年経てば日本国中道あら/\」と神様が仰せられていますが、その七十五年の年限はもはや過ぎ去って、今日では日本国中何処からでお地場へ帰る道はついています。けれども道はこれで仕舞ではありません。神様は「それから先は世界すみからすみまで」と仰せられてあります。それで道がつきかけてより七十五年経ってから、朝鮮満州支那と方々に教会ができだしたのであります。只今朝鮮にでも三十餘ケ所に教会がありますが、なほこれからは道は、世界すみからすみまで広がって行くのであります。その前途は洋々としているのであります。この神様の御心を神様は如何にして働かされるか、即ち誠の精神のある者を足場として働かれるのであります。

 神一条の道三(二)

 教組は御在世中に多くの人を助けておられるが、助けられたからと云って皆ついて来たかと言へば、殆どついて来なかった者ばかりだったのであります。ついて来た人は僅か二十人位に過ぎなかったのであります。その二十人の者が教祖の精神を受けついで、道を立てねばならんと云う誠の精神で、道を通られたのであります。神様はその誠の精神のある者を道具として、「日本あら/\の道」をつけられたのであります。

 けれども、日本あら/\の道をつけるために連れてお通りになった二十人の真実の人は、年と共になくなられているが、それと反対に、神様が世界一列に踏みならざるべき年限の理は、年と共に迫って来るのであります。又古い先生は皆な苦労の道を通っておられるから、しっかりした方であるが、若い者には苦労がしていないから頗る頼りないのであります。現在では、この世界一列すます足場になるべく、頼りのあるものが誠に少ないのであります。

 それで神様も「ひろい世界や国中に石も立木もないかいな」仰せられてあります様に、石なり立木なりになる人を、常に求めて居られるのであります。立木と云うのは理をたて切る人であり、石とは、どんなことに出会って辛抱し、どんな苦労をも堪へしんで通るものであって、この二つの者がない以上教会は立ち行かないのであります。それで教会はどんな難儀をしても辛抱する人と、理を立て切って行く人とがあれば必ず発達するのであります。この必要な材の要る時に、神様は青年会を与えて下さったのであります。

 お屋敷からこの青年会が現れたと云うことによって、神様の思召しがはっきりと、私らの胸の中に分かって来るのであります。即ち天理教会青年会は「道の有用の材を作る道具である」と云うことができるのであります。でありますから、皆さんがだん/\修行して、誠の心になって行けば、神の意思が分かって来るのであります。そうすれば教会の内に座っていても、神と人との間に立って取次ができる様になるのであります。またそうすれば、この青年会を通じて、先人の後継者となり得ることができ、神様の思召しが達せられるのであります。それで今の所ではこの青年会のために尽すと云うことが、神に対する唯一の御奉公であると思うのであります。


【増野鼓雪教理5-4、澄心の理】
 神様が人間を始めて御造りになった時は、この世は泥海であった。ところが人間が三尺迄成人した時に天地が分かれたのであります。それから次第に成長して知恵の仕込みも受け、学問の仕込みも受けて来たのであります。ところが「学問の仕込みには三千年」と仰せになりました。これを事実の上から見ましても、世界の最も古い国であるエジプトの開けたのは、四千年程でありまして、文字の記録のあるのは三千年以後であります。かように人間は神様から、時に応じ旬に従って種々御育て頂いたのでありますが、これは丁度人間がこの世に生まれて通る道筋と同じであります。

 人間がこの世に生まれた時は、皆な明らかな眼を持って居りましても、何事の見分けもつかないので、それは丁度もやの中に人間が住んで居たのと同じであります。それから少し成人して、物の見分けが付き始めると、第一に分かるのは両親であります。これは人間が三尺まで成人した時、天地が分かれて、重い物は沈んで地となり、軽い澄んだ物は天となって分かれたのと同じであります。それから子供はだん/\と様々な事を覚えて行くので、それは神様が知恵の仕込みをせられたのと同じであります。そしてそれから学問の仕込みをせられた様に七八歳なったら学校へ行って、文字の仕込みを受ける様になるのであります。かように元々の理も今の人間の理も同じ道を通って行くのであります。

 更にこれを御道の上から考えましても、この道へ始めて信仰して這入った時は、丁度子供が生れた時と同じでありまして、何が何やら分からんのであります。これを例えましたら、明るい所から活動写真の小屋に這入った時の様であります。真っ暗で何も分かりませんから、案内者に手を引いて貰はなければ少しも歩けませんが、席に付いて暫くすると、自然に眼が慣れて周囲の有様が分かって来るのであります。すると、始め手を引いて貰はなければ歩けなかったのが、我ながら馬鹿らしく思へて来るものであります。それも同じで始めの間は、物事がよく分かりませんが、道に這入って年限を通って居ると、自然に天の理が分かる様になるのであります。それは子供が成人して見分けが付いて来るのと同じで、心が澄んで来ると理が映るのであります。

 かように凡ての事が映って来るには、心を静めて澄さねばならんのであります。何故なら濁った水には、物が映らぬからであります。澄んだ水なら底まで見えるから、物が映るのであります。又いくら澄んでも波が立って居ては、心が左様になったら必ず鮮やかに、理は映って来るのであります。近頃徹底という言葉が流行致しますが、この言葉は禅宗の言葉でありまして、即ち心を澄まして底まで見えるという意味で、お道でいへば理が映るようになったのをいうのであります。それは恰も鏡の曇りを取ったのと同じでいりまして、何事も映るから、その前へ来た者は、別段改まって教理を説かなくとも、相手がその鏡に映る自分の見悪い姿に恥じて、姿を改める様に自然に我が心を改めて行くのであります。これは土地所々の雛形といわれるのであります。故にこうした悟りを開いた人が、一人でも出たならばその周囲の人は自然に助けられて居るのであります。それを西洋の人は哲人が現われて悲劇がないというて居るのであります。されば道を信仰する以上、此所まで成人させて頂かねばならぬのでありまして、年限長らく通っても、この心の成人がなかったら、何の役ににも立たんのであります。故に神様に仕込みを受けて、理が映る様、理が働く様、神様の仰せられた寝て走る事のできる様にさせて貰はなければならぬのであります。

【増野鼓雪教理5-5、寸言禄
 「寸言禄」と題して次のように述べている。
 寸言禄(一)
 教会を盛んにしようと思へば、皆が喜び勇んで通って居れば、独りでに盛んになって来る。小むつかしいことを云うからいけない。この頃のこの教会を見てもよく分かるが、会議も何もせないが、段々盛んになって来ている。小むつかしいことを云うから折合いが悪くなって、喧嘩しなければならないことになる。喧嘩をするから、勇むことも、喜んで行くこともできなくなる。喧嘩をすることが一番いけない。両方からハハァと笑ってしまへば良いのである。そううすればいつも円く治まって、次第に盛んになって行く。

 昔は神様と友達の様にしていたのである。ある時ある教会の役員が、御本席御本席と皆が云っているので、きっと尊い方だろうと恐る/\と行ったところが、襖の後ろに御本席がおいでになって驚いた云う話もある。 御本席は一生大工の時代をお忘れならず、彼岸の日中には必ず法隆寺の会式に参詣せられたが、こゝが御本席の偉いところである。
 寸言禄(二)

 ある教会の信徒に、永らく精髄を患って起きられない人があった。そこへお助けに行った人が、詰所の建築の話をして「あなたの詰所の普請に力を入れたらどうです。何千人の人が助かるとも知れないことだが」と云ったのである。病人も人が助かって下さることなら、私の罪ほろぼしをさせて頂きますと云って千円の献金をした。その後間もなくその病人は助かった。ところが他の地方で、同じく脊髄病の人があって、そこへお助けに運んでいる人が前の話を聞き伝えて「あなたも千円お上げになったら助かる」と話したのである。そこで病人も、助かるものならと云うので千円の献金をしたが、その病人は助からなかった。

 神様は金を望んでおられるのではなく、心を受け取り下さるのである。前者は因縁を果たしていただくこと云うことを主として、自分の身上と云うものを思わずに、ただ人を助けると云う清い心でさて頂いたから助かったのであるが、後者は自分の身上悩みを主として、自分が助かればと云う、自己を本位とした心であったから助からなかったのである。神様は人を助けて頂きたいと云う心を受取って御守護下さるのである。

 一代は種蒔き、二代は修理肥、三代となって花も咲き実ものる」と云うお言葉の通り、道は三代の道とならなければ本当のものになって来ない。私がある教会の会長就任式に臨んだ時、御母堂様に、これは三代目の会長であると申し上げた所、「定めし役に立つやろう」と仰せられた。

 私の親は久しく子がなかったので、神様にお伺いした所「まだ早い」と仰せられた、私が生まれたのは父の41才の時であった。その時父が神様にお伺いしていたところ「親に尽した功能によって子を授けてやる」と仰せられた。功は子である。功を積むから子を授けて貰えるのである。


【増野鼓雪教理5-6、閃光禄
 「閃光禄」と題して次のように述べている。
 閃光禄(一)
 神様は、自分のことを神と仰せられたこともあれば、月日と仰せられたこともある。さあという、まさかの時には、自分は神の代理、月日の身代りと云うだけの心がなければならぬのである。お授けを頂くために別席を運ぶ。それはお話を聞いて、心の掃除をして貰うためである。この別席を運ぶうちに、心がすみきり綺麗な心となった時に、その心に神のお入りなる席を授けていただくのである。人間でも汚い所へは入れない様に、神様も汚れた席にはお入りにならない。故に、いつも心を綺麗に掃除しておかねばならないのである。席を頂いてさあと云う時には、いつでも神様が入れ込んで、御守護下さる様にしてをかねばならないのである。月日が入り込んで御守護して下されので、不思議な助けを見せて頂けるのである。

 御本席御在世中には、一名一人の心を吟味して、お授け下さったのである。故に一人々々によってお指図も違っていたのである。ところが本部の古い先生の中に、どうしてもお授けを頂けない先生があって、部下を巡回する時など誠に困られたのである。そこで別席を運んだら、お授け頂けるでしょうかとお伺いすると、お言葉に「席々と云うても、心に席がなくては、なにもならん、さあと云へば一夜のうちにも授け」と仰せられたのである。心に神が入りむ席がなくはて、まさかの時に神が入り込むことができないのである。今の人々が九度のお話を聞いて、紙二枚頂戴して、これが有り難いと云って大切にしているが、紙が有難いだけでは席をいただいたのではない。いつもその紙の中の御言葉を胸におさめて、心の掃除をしてきれいにしてをかねばならないのである。折角お授けを頂いても紙が有難いのだと云って、それを桐の箱に入れて床へ祀ってをいても、心が汚れていてはなんにもならないのである。そんなことでは神様が入り込んで下さらないのである。さあと云う時は、まさかの時には、月日の代理であると云う心を作ってをかねばならないのである。
 閃光禄(二)

 又神様は「神の方には倍の力や」仰せられているから、どんな場合でもビク/\したり、心配をしたりすることはないのである。けれども少しむつかしいことや、恐ろしいことに出会うと、よくビク/\するものである。だがそんなことでは神様が安心して入り込むことができないのである。故に我々はどんなことがあっても、心をしっかり持って、神様のすぐ入り込んで頂けるようにしなければならないのであります。

 又神様は「神が働きするのは、人間の心を足場として働くのや。足場がしっかりしてなかったら、充分の働きはできん」と云う意味のことを仰せられている。世界がひっくりかえっても心が動かない、どんな好きなものを持って来ても心がぐらつかない、と云う様にならなければ、神様は入り込んで下さらないのである。賢い人は、どうしても心がぐらつき易いのである。それは先の心配をするからである。我々は先づ賢くなれない様にしなければならなぬ。「あほうが神の望み」とも仰せられているが、我々は先づ阿呆にならなければならぬ。無知になって、自分を捨て、そうして唯一条に神にもたれ、誰が何といっても安心して通れる様にならなくてはならぬ。そうなれば神様はまさかの時には、席に入り込んで働いて下されるのである。


【増野鼓雪教理5-7、道の変わり目
 「道の変わり目」と題して次のように述べている。
 道の変わり目(一)
 神様のお道と云うのは、決して変わるものではありません。「理は末代」と仰せられた如く、「天の理と云うものは変らぬのが天の理」であります。然るに道が変わると仰せられたのは、道そのものが変わる云う意味ではありません。「道そのものは変わるものではなく、通る道すがらが変わる」と仰せられたのであります。例えて申しますれば、人間が一筋の道を歩くのと同じでありまして、道そのものは昨日歩いた道も、今日歩く道も変化のない道ではありますが、歩けば歩いただけ、その周囲の景色が変わって来ます。同じ一筋の道の中にも、山道になって通り悪い様な道もあれば、野原を横ぎって行く様な道もあり、林の中を通る様な道もあります。けれどもそれは道すがらが変わっているので、道が変わって居るのではありません。

 御教祖の御一生について考えましても、御教祖の神憑りがあって、夫様が御帰幽になる迄の道と、夫様が御帰幽になって、谷底の御苦労を通り下れた頃の道と、信徒が四方にできて来た時に御通り下さった道と、真実の道と云う上から申しますれば一筋でありますが、道すがらに於ては、色々変った道すがらあったのであります。
 道の変わり目(二)
 そこでこの変り目と云うのは、御教祖が信徒を色々試しにもかけ、手入れも仕込みもして御出になったのが、今度は大体の人出もできて来たところから、世界の人々を助ける為に御働きになろうと云う様に変わって来たのを、仰せられたのであります。そこで道筋の理が変わるについて、「一列は心定めよ」と仰せられるのは、今申したように神様の思召しが変わって来たのであるから、その神様の思召しに思うように、又その方面に「一心に働く心を定めよ」と仰せられたのであります。かく神様の思召し通りに通る道であります。だから、神様の思召しに添わないことをしては、いくら働いても無駄になりますから、其所で先にこうして神様がお知らせ下されたのであります。即ち仕込んで頂くべき時には仕込んで頂き、働くべき時には働く様にしなければならんので、それを顛倒さしていては、自分で好い事と思うても天の理にならんのであります。

 尚、この理を今少し分り易く申せば、道は一筋の道であるからと云うて、真直に通るばかりが道ではありません。道によっては右にも折れ、左にも折れて通らねば、思う所へ行く事ができません。それに自分は真直に通るのであると云うて、田の中へ飛び込んだり、家の中へ飛び込んだりして、尚気がつかず真直に通ろうとする人があります。これは道に添って通って居るのではなく、我で通ろうとするのであります。その結果困って居る人を沢山見受けまするが、これは大きな問題であります。道を真直に通ると云うのは、道の通りに曲がって居れば曲がって居る様、折れて居れば折れて居る様に通るのが、真直に通るであります。更にお道に実際の上について申しましたら、道に入って信者となって、教会へ参拝したりして居る時と、布教すると時と、布教してから教会でも持つ様になった時と、道すがらが色々に変わるのであります。けれども道と云うのは何れも道であって、違って居る所はないのであります。


【増野鼓雪教理5-8、神の踏張
 「神の踏張」と題して次のように述べている。
 神の踏張(一)
 人間がこの世に住んで行く間には、沢山の苦しい事や悲しい事のあるのは事実であります。その苦しい事や悲しい事を助ける為に、神様が表へ現れて、この道をおつけ下れたのであります。それ故我々が神様の信仰するに至ったのであります。従って神様はこの道を信仰している者に対しては、難儀や苦労を助けてやりたいという思召しでいらせられるのであります。それを神様は「助け一条の道」と仰せられたのであります。かく神様は、人間を助けたいという思召しでいらせられても、この神様の御心を思わずに、勝手な心を使う者、神様も助けるに助けられんのであります。即ち神様が苦しんで居るから病んで居るから、助けてやろうと思召して居ても、本人が助かる心を倒して、自分から助けて貰はれん様な心使いをしたり、死ぬのを欲したりする心が出ては、どうもできないのであります。

 それを教祖は或る時、こう仰せられた事があります。人間が人の家へ尋ねて行って、もう帰らして頂くと挨拶してしまうたら、本人が帰りたくなくとも、主人が帰らしたくなくとも、自分の口からした挨拶の為に、帰らねばならぬ様な事になる。人間がこの世へ生まれさして頂いているもの、丁度客に行っているのと同じで、自分から病気になったからというて、今度は助からんとか、今度は死ぬのだとかいうて挨拶したら、神が置いてやりとうても、我が心で是非なく死んで行かなければならぬ。故に「
如何なる事があっても、この世に別れる様な言葉を使わぬようにせよ」と仰せられた事があります。
 神の踏張(二)
 しかるに多くの世界の人を見ますと、我が身が苦しいか、困るとかいう様に事が出て来ますと、直ぐもう今度は助からぬとか、死ぬ方がましやとか、我が身から挨拶している様な人が多いのであります。それを神様は「我が口からいへば是非はなかろう」と仰せられました。かように自分の事を思うのは、即ち神様を信じていないからであります。神様は助け一条の御方で、「息ある間は神の守護」と仰せられて、身体に温みと水気がある以上は、体内に神様が入り込んでいて下さるのであるから、どんな守護も見せて下さるのであります。故に神様は必ず助けて下さるものと思うていたらよいのでありますが、神様に対する信仰の念が薄い所から、つい神様という事を忘れて勝手な心使いをするのでのであります。

 そこでそうした心の人の為に、神様は「身上ばかりではなく、事情の上についても、八方ふさがりというか、何をしても思う通りにならぬ、という様な不幸な境遇に落ちても、決して心を倒すに及ばぬ」と仰せられたのであります。何故なら神様の自由自在の御働きを以て、さあといえば一夜の間にもどんな働きもして下されるのであるから、その神様にもたれて我が心を踏ん張って、通り抜けてさして貰う心にならなければなりません。

 又神様も助け一条に御心であらせられますから、人間の方で苦しみに心を倒さず、踏ん張って通ったならば、神様も踏ん張って必ずお助け下さるのであります。そこで神様はその事を人間に知らす為に、「如何なる苦しみがあっても親が踏ん張るから、それを承知していよ」と慈悲深く仰せ下されたのであります。故に我々は苦しい事や、つらい事が出て来たならば、この御心を思い出して、神様は必ず助け下さるという確信を以て、我が身から心を倒したり、悪いあきらめをしたりせぬ様にして、飽く迄神様に踏ん張って頂く為に、我が身からも踏ん張って行かねばならぬのであります。


【増野鼓雪教理5-9、勤と世界
 「勤と世界」と題して次のように述べている。
 勤と世界(一)
 心を揃えるというのは、凡ての人間が同じ方針の下に、心を一致して働く事でありまして、例えば兵士が足並みを揃えて、将校の命令通りに動く様に、神様の思召し通りに働くことをいうのであります。もし一隊の兵士の中、一人足を乱す者があったら、それによって一隊の兵士の足並みは凡て乱れるのでありますから、一人の心が勝手な心を使うて、神様の思召し通りにならなかったら、それで人々の心は乱れて来るのであります。故に神様は「頭を揃えずに心を揃えよ」と仰せになった事があります。

 御勤めというのは、十人の人が心を揃えて、神楽勤めをするのでありますが、これは心が揃わないと手が乱れるのであります。手が乱れたらそれだけ、心が揃うていないのでありますから、神様はこの手の違うたのを喧しく仰せになったとの事であります。しかしこの神楽勤めは、人間が心を揃えて、神様に奉公する勤めの一つでの表象でありまして、これのみが勤めというのではありません。

 神様は「陽気勤めと陰気勤め」という事を仰せられました。陽気勤めというのは、日常この世で暮らすのを、勇み喜んで通るのでありまして、陰気勤めというのは、日々心で不足や不平を持って喜んで通らないのであります。かように人間は日々その何れか一つの勤めをしているのであります。ここで勤めというのは、いう迄もなく人に勤めるのではなく、凡て神様に対しての勤めであります。故に布教に出ているのも、教会で勤めているのも、凡てその目当てが神様に受け取って頂く為であるならば、神様の勤めをさして頂いているのであります。従ってその凡ての人が、丁度兵士が将校の命令によって動く様に、神様の思召しによって働かねばならんのであります。

(私論.私見)
 「丁度兵士が将校の命令によって動く様に、神様の思し召しによって働かねばならんのであります」の例えが悪い。お道信仰の歩みを軍隊調で捉えるようでは根本が分かっていないということになる。
 勤と世界(二)
 しからば、神様の思召しというのは、どういうのであるかと申しますると、一寸考えたらこの道は、病助けの様に思われるのでありますが、この道は決して病助けのみの道ではありません。病気助けというのは一つの方便でありまして、真の神様の思召しというのは、真実の人の心に人の心を立て替えさせて、この世を治められるのであります。 こういうと何だかこの道が、世界でも取る様に思われますが、神様のこの世の治め方はそういうのではありません。各人の心を立て替えさせて、各自自ら気をつけて争いなきようにして治められるのであります。それは丁度大祭に世界から多くの人が集まって来ますが、その中に警察事故がないのによっても知れます通り、あの様に治められるのであります。

 或る年仏教の或る寺から、天理教では小さい村へ、何万という人を収容するがどういう方法で収容するのであろうかと、丹波市の警察に依頼して、詰所を見に来た事があります。ところが本教の信徒は、自分は食べないでも人に食べさせたい、自分は寝ないでも人に寝させたいという心で、何でも人から先にするのみならず、一部屋二十人も三十人も寝て、少しの不正もないどころか、むしろそれを喜んでおります。それを見て仏教の僧侶は、これは天理教だからできるので仏教ではとてもできない、何故なら信徒の心の持ち方が違うと申しました。神様が世界を治めになるのは、丁度こういう風に治められるのであって、方法や手段で治められるのではありません。それには、皆が神様の思召し通りの心になって、心を揃えて働くから、そうした治まりが出て来るので、即ち「
神様を目当てに勤めるところから自然世界が治まる」と仰せられたのであります。

【増野鼓雪教理5-10、人間の創造
 「人間の創造」と題して次のように述べている。
 神様が人間を御造りになったのは、この世が泥海であった時、月日両神いたばかりでは何の楽しみもないから、人間を造り陽気暮らしをさせて、それを見て神も共に楽しもうというところから、御造りになったのであります。それは丁度人間が我が子を見て楽しむと同じ道理であります。それで人間の目的というものは、この世に於いて陽気暮らしをするにあるのであります。しかるに人間は長らくの間通った道筋に於いて、種々なる因縁をつけて来た為に、この世で面白く暮らす事のできない様な、悪い性質を持つように至ったのであります。これでは当初神様が人間を御造りになった目的に反するのでありますから、その親の心に反しただけ、苦しんで通らねばならぬ事になったのであります。故にこの世に於いて、苦しみや悩みがあるというのは、苦しみのあるだけ悩みのあるだけ、それだけ神様の思召し通りの心の持ち方をしていない事になるのであります。されば苦しみや悩みを持っている者は、早く神様の思召しに添うように、自分の心を改めて行かなければならないのであります。即ちこの世が陽気で暮らせる様に、自分の心を改めねばならぬのであります。

 
しからば陽気暮らしとは、どういうのであるかと申しますと、世界普通では春の日に、三味線太鼓で面白う花見をしたりするのを、陽気というているのでありますから、陽気暮らしとはそうした華やか生活をするのが、陽気暮らしと思うのでありますが、この道で陽気とはそうしたものをいうのではありません。成る程これも陽気であるには相違ありませんが、さて今少し進んで心の内に入って見たら、陽気ではなく陰気の場合が多いからであります。なぜなら世界において賑やかな盛り場へ行く人の心を見ますると、実は我が家に居るのが苦しいとか、つらいとかいう事があるから、その心をまぎらわす為に、賑やかな所へ行くのあります。されば一時それで心がまぎれて陽気になる事ができましても、そこから家へ帰れば、又苦しみや悩みが我が身に迫って来るのであります。故にこうした陽気な唯表面のみの陽気であって、神様の仰せられる陽気とは違うのであります。

 すれば神様の仰せられる陽気とは、どういうのであるかと申しますと、「陽気暮らしとは、眼にて見る事とはころっと違う」と仰せられた様に、形の上の陽気ではなく、心の内の陽気であります。即ち自分の心が何時如何なる所でも、賑やかな所へ行って居る時の様に、心に何の心配もなく、何の煩いもなく、家々睦まじつ通って行けるのが陽気暮らしであります。それは丁度一家の中に於いて、子供らが仲好く遊んでいるのと同じでありまして、親の心がそれを見て、どれだけ楽しめるかも分からぬ様に、神様もその人間の陽気暮らしを見て、共にお楽しみなる事ができますから、神様が人間を御造り下された当初の目的に適うのであります。

 しかるに多くの人間は、この神様の目的に適う様な暮らし方をせない為に、いい換えれば同じ神様から生んで貰うた兄弟であるに拘わらず、互いに苦しめ合ったり、困らせ合ったりするから、神様としても捨てて置けんところからお叱りになるので、それが人間の病気や災難となって現れるのであります。だから病気や災難に出合った時、この神様の思召しをよく思案して、神様の御心に添うように改めて行かねばならぬので、それが懺悔であります。


【増野鼓雪教理5-11、明日の道
 「明日の道」と題して次のように述べている。
 明日の道(一)
 人間は一日先の事を予見する事ができないのみならず、一時間後の事も誰も分からないのであります。故に人間の将来と云うのは、唯神様のみが知って居られるのであって、如何なる人もその秘密を、窺い知った人はないのであります。この意味に於いて、人間は暗黒の如き世界を歩んでいると見るのは尤もであります。しかしながらこれは要するに、世界並の考えであって、道としてはそうは思われぬのであります。なぜなら神様が人間を守護されるのは、心に応じて肉体を貸し与えられが如く、その境遇もまた心に応じて与えられるのでありますから、要するに「人間の心通りの守護 」と云うことになるのであります。神様の守護が、人間の心通りであるなれば、人間が自分自身の心を知ったならば、如何に神様が自分の上に御守護をなさるかと云う事が分からねばならぬ筈である。即ち我々の行くべき将来が、明らかにされて来る訳であるといわねばなりません。そこで我々は自己の心を知る必要があるのでありますが、今日の自分の心は今日一日にしてできたものではありません。即ち我々が今生のみならず、生々死々し来たった前世からの理を持って居るのでありますから、その道筋から考えて来なけれならぬのであります。しかしそうした事は事実に於いて人間にできる事ではありませんから、先づ今日一日の心をよく調べたならば、大過はないのであります。なぜなら現在の心は要するに、過去一切の集積に外ならぬからであります。

【増野鼓雪教理5-12、病や化物
 「病や化物」と題して次のように述べている。
 病や化物
 このお道から申しましたら、この世に病気というものはないのであります。何故ならこの「病気というのは、人間の心に間違いがあるから現れて来るので、即ち心通りの理が身に映っている」のであります。されば人間は自分の心から埃を払うて、真実の心になって通ったら、この世に病気はなくなってしまうのであります。それ故教祖は、「病というではないで。心に埃がついたから病むというのである」と仰せられたのであります。

 それから付き物という事でありますが、付き物というのは狸付や狐付や昔ならば死靈精霊が付くというたのであります。けれども教祖は「
付き物などはない」と仰せられたのであります。これは付き物などというのは、どういう訳のものであるかと申しますると、それはめい/\通って来た理が付くというのであります。例えば獣のような心使いをして来たものは、その理が付いて狸付や狐付といわれるのであって、人を苦しめたら生霊が付くし、人を苦しめて死なせたら死靈が付ついて来るのであります。これ要するに人間がこの世のみならず、過去の世に於いてした来た理が付いて来るのであります。


 かように悪い事をしてをいたら悪い理が付くのでありますから、善い事をしたらば好い理が付いて来る道理でありまして、現に神様がお付きになる事があるのであります。前管長公が東京へ行かれる時に、神が付いて行くと仰せになった事があります。故に「
好い事をすれば神がそれ相応守護せられる」のであります。

 こういうと神様に段階がある様でありますが、全くあるのであります。一村より治められん氏神もあれば、一国より治められん神もあり、日本国中を治められる神様もあれば、この世を治める月日の神様もあるのであります。故にこの道を信心して、他の神様を拒む時には、「長らく世話になりましたが、今度は元の神様を信仰する様になりましたから、元へ廻って御守護下されます」と拒めば、いかな神様も退くと仰せになりました。これによっても神様に段階のある事が分かるのであります。故に好い事をすれば善い神が付かれるので、狐など付いた時に、この道の人が行けば、恐れるのはこの理であります。

 次に化物という事でありますが、化物もこの世にはあるものではありません。これもやはり理が化けるのであります。例えば枯尾花を幽霊と見るのは、これは見様が悪いのではなく、自分に恐い怖ろしいという心があるから、その心が化けて出るのであります。かように人間が過去でして来た事が、今度は化けて来るので、左様した理を作っていない者には、化物は見えぬのであります。故に心の理が化けるので、我々の日常の間にも、自分が悪意を持っている人のいう事や為す事が、悪く思われるというのは自分が化かされているのであります。故に我々が真になって、真に化かされたら、それこそ幸福といわねばならぬのであります。

 かようにこの世に病気も付き物も化物もないのでありますから、人が何というてもそれに迷うてはなりません。それよりも自分が真の心になる様にしたら、事実の上に於いて化物も見ず、付き物などはない事になるのであります。


【増野鼓雪教理5-13、千里も一夜
 「千里も一夜」と題して次のように述べている。
 神様の御働きは自由自在でありますから、今というたら今直ぐ、どんな働きもなさるのであります。しかるに人間というものは、有限な肉体を持っておりますから、神様の様な自由自在に働きはできないのであります。それで人間は神様の御働きをも我が身にあてて考える結果、神の自由自在の働きを知らずにいるのであります。しかしこれは人間が神様の御働きを小さくしているのであります。かく神様の御働きは、自由自在なものでありますから、人間なら百里百里と離れたら、最早どうする事もできないのでありますが、神様は一瞬間の間にでも御働きになるのであります。それは丁度人間が百里千里と隔たっていても自分の故郷の事を思い出そうとしたら、直ちに心の浮かんで来る様に、速やかに働くのであります。又これを他の例で申しましたら、電話の様なものでありまして、百里隔てていても向かい合って話ができる様に速やかに通ずるが如く、神様の働きも丁度この電話の様なものであります。

 かように神様は自由な御働きをなさるのでありますから、この事を又「千里またがる一つの理」とも仰せになったのであります。こうした訳でありますから、病人の傍へ行かなくとも、理さへ通えば神様はどんな働きもなさるのであります。だからここで一人の人が真実の心になれば、その影響するところはどれだけとも分からんのであります。

 以上は道理の上から申したのでありますが、これを時間に上から申しましても神様は又人間の想像以上の御働きをなさるのであります。故に「一夜の間にも働きをする」と仰せられるのでありまして、さあといえば一夜どころか一時間にでも、不思議な御守護を御見せ下さるのであります。例えば難産の時や病気の迫っている時などは、三十分とか一時間とか、時間を切って御願いすれば、必ずその通り御守護下さるのであります。

 それで神様は、「神様に御願いするには三日三夜より長い願いはするな」と仰せになっているのであります。「真実を受け取って下さったら、神様は三日目にはいかなる病人でも、外へ出るようにする」と仰せられているのであります。しかし遺憾な事には、現在では以前と違い、真実の度が浅くなっているので、そうした珍しい助けは時々よりありませんが、兎に角三日三夜より長い願いはせぬので、それでも助からぬ場合は、又三日三夜の追い願いをして行くのであります。なぜなら長い間かゝって助かったのでは、神の力が現れたことにはならないからであります。これは時間上の神様の御働きであります。


【増野鼓雪教理5-14、神は無敵
 「神は無敵」と題して次のように述べている。
 神様はその姿は見えませんけれども、その働きは丁度空気の様なもので、世界の何れの地に行きましても、充ち/\ているのであります。又その空気を呼吸して、人間が生きている如く、神様の御守護によって生きて居るのでありますから、我々の肉体に温み水気のある以上、息の通うている限り、何時如何なる所でも、神様の御働きを頂けるのでりあります。それを分かる様に、神様は「息ある中は神の守護」と仰せられて、息一筋が通うて居る間は、神様の守護があることを教えられたのであります。

 そこで我々が勤めをするというのは、即ち神様の為に勤める事でありますから、その仕事は神様の仕事でなければなりません。従って神様の仕事をする以上、神様が常に御守護していて下さる事は申す迄もありません。故に我々は如何なる所も恐れずに、その勤めを果たして行ったならば、神様は怪我のない様に前や後に付き添うて御守護して下さるのであります。それは神様が「十日と日を切って願へば、二十日向こうまで廻って守護している 」と仰せられたのによっても知る事ができるのであります。しかるに人間というものは、神様の御守護していて下さることを信じませんから、神様の御助けの現れる迄進む事ができず、中途にして心を倒してしまうものであります。その結果却って何時迄も困らねばならぬ様な因縁を造るのであります。

 例えば神様を御祭り申し上げる、教会を新築する場合でも、神様の御許し頂いた以上、神様は建て上げられる様に、御守護しておられるのであります。ところが人間はそれを信じませぬから、中途で少し金にでも困ると、直ぐにこの先どうなるだろうという心配から、神様に御任せしてをく事をしないで、人々と相談して始末を付けようとしたり、金を借りて来て支払いを済ませたりするのであります。これでは神様に願ってをきながら、神様の働きを待たずに始末するのでありますから、その事は始末できても、後に傷が残るのであります。そしてその傷の為に、長らく苦しんで通らねばならぬ事になるのであります。これが即ち人間心から始末するのでありまして、これは要するに中途で挫折したのであります。教会は神様の教会であるから、神様が後始末をして下さるべきものであると信じて、神様の勤めさへ変わらん様にしていたならば、神様は必ずお働き下さるのであります。

 こういう訳でありますから、神様の事をさして貰う以上は、いかなる事があっても、人間から神様の働きに先んずる様な事をせずに通らねばなりません。すれば神様は世界中を働いて御座るのであるから、必ず失敗のない様に御守護下さるのであります。これは教会新築の一例について申したのでありますが、教会の事情を治める上についても、又人を助ける場合も、皆な同じ事でありますから、この点をよく考えて、神様の御働きにある所まで、心を倒さずに進んで行くという、強い覚悟をしてをかねばなりません。

【増野鼓雪教理5-15、人類は兄弟
 「人類は兄弟」と題して次のように述べている。
 人類は兄弟(一)
 人間の親と云うのは、生みの親二人をいうのでありますが、この道からいえば、生みの親は仮親であって、実の親は神様であります。なぜなら人間の肉体は、親から生まれて来たのに相違ありませんが、人間の生命は親から授かったものではありません。生命は唯神様の司り給うところであるから、人間の生命も神様によって授けられ又日夜守護されて居るのでありますから、実の親は神様よりないのであります。神様が人間の生命の元であり、実の親であるならば、血縁を有する者を兄弟というなら、この同じ生命の縁に連なっている世界の人間は、凡て皆な神様の子としての兄弟でなければなりません。即ち天を父として地を母として、その大き家に住んでいる兄弟であります。この意味を考えたならば、世界の人間はその皮膚の色如何を問わず兄弟であります。しかし一歩その心の中に入って見たならば、果たして兄弟の如き親しい感じを持って居るであろうか。

 これを我々の日常の感じについて考えて見ましても、何となく肉親の兄弟と他人との間には感じの相違があるのであります。例へば家を留守にする様な場合に、兄弟ならば何の懸念なく、留守を依頼する事ができるのでありますが、他人には左様容易に頼む事ができないのであります。これは一つには兄弟なら気心が知れて居るが、他人には気心が知らぬと云う様な理由にもよるのでありませうが、兎に角そうした点に肉親の兄弟と他人とに対する心の隔てがあるのであります。この隔てが心の内にある以上、吾々は本当の意味に於いて、他人を以て兄弟と仰せられる、神様の御心に適う様になって居ないという事になるのであります。

 しかしこの点については、御道の者は余程親しい心を持って居ります。例えば汽車の中や船中で他人に対したら、普通心で警戒するものでありますが、道を信じて居る人であると聞けば、何となく親しい様に心置きない感じが出て来るのであります。そして互いに信頼し合う事ができるのみならず、十年知己の如き情合いを持って接する事ができます。これ即ち如何なる人も兄弟であるという感じが、心の奥にあるのと、道を信じて居る人には悪い事をする人がないと云う心から、自然に打ち解ける結果であります。
 人類は兄弟(二)
 この親しみは未だお道の人の間に於いて行われる事でありまするが、世界の凡ての人が、こうした心持ちを以て接する事ができる様になったら、恐らく現在の世界の組織が変化するだろとうと思います。そして又神様はそうした日の、一日も早くこの世に来らん事を、欲して居らえるのでありまして、我々がこの御道で働くと云うのは、要するにこうした日を、早く実現せしめんとする為でありますから、互いにその心を打ち明けて、真の兄弟に対する様な心で交わって行かねばならんのであります。

 それには先ず自分の最も嫌いな人と、和睦する事ができねばなりません。何故なら一番嫌いな人と仲よくなるという事は、一番真実だからであります。我々は神様を手を合わせて拝むよりも先に、仲の悪い人と仲直りをする覚悟がなければなりません。何故なら神様を百度拝するよりも、この方が遥かに神様の思召しに適うことであります。こうして次から次へと仲直りをして行ったならば、終には世界の人々と真の兄弟としての感じを持つ事ができる様になれるので、それで即ち神様の御心であります。

 もし人間がこういう心になり得たならば、肉親の兄弟や親族などは、少しも頼りにする必要はない事になるのであります。故に御道に於いては理を聞き分けた人が兄であり父であって、親族などは少しも重んぜられていないのであります。しかるに御道に於いて、肉親の親族をたよりにしている人がありますが、これは真に理を聞き分けていないからであります。又一面理をたよりにする信念が薄いからであります。故に世界の人々と真の兄弟になる様な心懸けで、肉親や他人という様な心の隔てをしない様にしなければなりません。

【増野鼓雪教理5-16、夢と月日
 「夢と月日」と題して次のように述べている。
 夢と月日(一)
 夢と云うものは人間が見ようと云うて見られるものでもなければ、見まいと思うても見るものであります。その夢を学者は、潜在意識が寝てから働いて、意識に上って来るのであると申しまするが、然しそうだからと云うて、自分の思う通りに夢を見る訳には行きません。それで夢と云うのは、要するに自分の心の理を見せるのでありまして、神様から云へば、理を御知らせ下されて居るのであります。 然し同じ夢と云うても、直ぐ忘れるものもあれば忘れられんものもあります。忘れるのは理にならぬので、忘れぬのが理になるのであります。故にその夢の理を深く考へたら、そこに何か悟る事があるのであります。私の母が一度夢を見て、神様に伺った事があります。その時神様は「夢を見るのも月日誠、誠見るのも月日」と仰せられて、その最後に遠い所から理を知らしてあると仰せになりました。今日から考えましたら、後年母の死ぬべき理が、その時にきざして居たのでありますが、それが終に悟れなかったのか、悟れても思い切れなかったのか、兎に角それが為に早逝したのであります。

【増野鼓雪教理/死と決心
 「死と決心」と題して次のように述べている。
 死と決心(一)
 お互い人間にとって、最も厭な恐ろしいものは何であると云へば、それは云う迄もなく死ぬことであります。そして又この死ぬと云う事は、人間は必ず最後に出合はねばならぬものであります。然るに多くの人は、その死と云う事については、別段深く考えないのであります。そして一日々々と日を送っているのであります。ところがその死と云うものは、人間が皆な思うている程、遠い所にあるのではありません。ほんの手近な生きる隣に居るのであります。故に人間が思わぬ時に、ふとやっと来て人々を驚かすのであります。それで人間は何とかして、死の近づかん様にと防いで、それに対し色々の準備もするのでありますが、死は却って逃げる者を意地悪く、追いかけて行くのであります。世界の人々が金を貯めたり、その他色々の事をして居るには、即ちその防御であります。然るにそうした事をする人程、妙に早く死んで行くのであります。そこでその死から逃げずに、自分の方からその死を出迎えてやると、却って死はその人から遠ざかるのであります。なぜなら人間が死と云う事を、念頭に置いて事に当たった時、その人の心は始めて清い心になるからであります。この意味で本教に於ては、この死と面々相対して来た者でなければ、本教の真意味は会得できないと云われて居るのであります。
 死と決心(二)
 これを良く分かる事柄について申しましたら、神様の御話を聞いて、慾の心持って通ると云うのは、大変間違った心使いである事が分かって居ても、どうしてもそれを取る気になれない。こゝで、一寸云うてをかねばならぬことは、この事は悪い事だと知る事と、悪い事だから止めると云う心持ちになるのとは、非常な相違があると云う事であります。それで慾が悪いと分かっては居るが、それを止めると云う心持ちになれない。その中に神様から身上の御手入になって今日か明日か分からぬ、抜き差しのならん日が来る。その時自分は最早この世を外にして、死んで行かねばならぬと思うた時、始めて死と相面するのであります。

 その時になって死んだと思へばと云う心が出て来ます。その心になれば今迄取る気にならなかった、慾心を何とかして取って、助かろう云う気持ちなるのであります。故に人間は生死の巌頭に立って、始めて如何なる決心もできるのであります。だから死は人間の心を最も美しくするものであります。それで人間は日々にこの死が、自分の近い所になると云う心になっていたならば、いつも心がゆるむことがありません。従って自分の心が、日々向上して行くのでありますから、人間はその死を怖れると共に、その死に飛び込むだけの覚悟をしてをかなければならぬのであります。

 人間が我儘な心や勝手な心を出して、真実の理を守らんと云うのは、死が人間の側にあると云う事を忘れるからであります。人間が真実の心を失うならば、直ぐ死が現れて来るものである事を自覚して居たならば、不真実な心使いはできないのであります。そこで教祖はその理を教えて、「人が真実の心で日々を通る様に、何時向いに出るやら」と仰せられたのであります。神が迎えに来ると云うのは、即ちこの世から神様の御いでになる死の世界へ逃げ行く為に迎えに行くと云われるのであるから、死と云う事をいやな事であると思うて居る者は、日々真実の心を持って通らねばなりません。なぜなら神様がその人の、天から授かった寿命を全うせずして、早く神様が御連れになるのは、真実がないからであります。

【増野鼓雪教理/神の見定め
 「神の見定め」と題して次のように述べている。
 神の見定め(一)
 身上は神様から人間が、貸し与へて頂いて居るものでありますが、「心一つは我が理」でありますから、自分の思う様に使へるのであります。即ち好い方へ使おうと、悪い方へ使おうと、人間に自由にお与え下されて居るのであります。この自由を神様から人間が頂いて居ればこそ、楽しみもあるのであって、同時に苦しむ理も出て来るのであります。従って人間が如何なる心使いをしようとも、神様は如何もなるとことができないのであります。それは人間に於ける親子関係も同じことであります。子は親が生んだには相違ありませんが、それはただ肉体を生んだだけで、心を生んだと云う事はできません。だから子がどんな心を使おうと、それは子の自由でありまして、親だからと云うて、心そのものはどうする事もできません。悪い事をすれば親はその肉体を苦しめて、その心を改心さす事はできますが、それでも本人が改める心にならなければ、親が代りに改める云う訳にはまいりせん。それと同じで一度人間に自由をお与えになった以上、神様もどうする事もできない。それで病気にしたり苦しみを与えて、改心をおさせになるが、それでもその者が神様の思召し通りになれなければ仕方がないのであります。又その子である人間に於て、神様が如何に思召し居っても、人間が神様の思召し通りにならなければ、それも仕方ないのであります。
 神の見定め(二)
 親が子の将来を思うて、子供が未だ小学校へ通うて居る時から、行く末では大学まで入れてやろうと、その学資を準備して、子供の成人を待ち兼ねて居ても、親の心子知らずで少しも勉強もしなければ、学校へ行っても落第する。悪い友達を作って悪い所へ遊びに行く様な行いばかりして居ては、折角の親の心も水の泡になっていまう道理であります。それも同じ事で神様が我々の行末まで、種々御心配下れて、その成人に応じてこうもし、ああもしと云う様に、待ち兼ねて居て下さっても、子である我々が神様の思召しに添わず、勝手な道ばかり通って居たら、神様の思召しも何の役にも立たぬことになるのであります。

 それで子供が悪い事ばかりして、親の心通りにならない様になれば、親が必ず二つの方面について考えるのであります。その一つはもし本人が何かの機会に目を醒まして、今迄の事を改め、好い方へ傾いて来たならば、こうもしてやろうと云うのと、今一つはもしその行が直らずに、尚悪い方面に進む様な傾向があったら、その時は長男ならば廃すとか、弟なら勘当するとか、悪くなった時の事も考えて、それに処する方法を定めて来るのであります。そう云う場合には、親はあまり叱りもしなければ本人の意思通りにさして、本人がどういう心になって来るかを見て居るのであります。それと丁度同じでありまして、人間が好い方へ行くやら、悪い方に行くやら、未だ定められぬ様に時には、神様も人間のするところを見ておいでになるのであります。そう云う時には少々悪い事をしても、神様はお叱りならないのでのあります。又善い事をしても、左程に好い理が見えて来ぬのであります。是は本人の心が定まって来ないからであります。

 然るに中には自分がそう云う場合に居る事を思わず、悪い事をしても神様がお叱りにならないところから、つい人間に増長して、神様はないものだと何とか勝手は考えを出して、悪い方へ傾き易いのであります。然し悪い方へ傾いたと云う事が決まれば、神様は直ちに理を御現しなるのであります。故に神様がぢっくり見ておいてになる間が、我々に取っては一番大切な時ですから、好く慎んで通らして貰はねばならぬのであります。

【増野鼓雪教理5-17、勇むは神の心
 勇むは神の心(一)
 一軒の家に於て、その主人公たる者が、不愉快な顔をして居たならば、家族の者は決して心の勇むものではありません。主人が面白そうな気持ちで暮らして居ると、一家の者が心持ちよく暮らせます。是から考へますと、家族として自分が日々勇んで通ろうと思うたならば、その主人公を勇まして通ると云う事が、自分の勇み喜んで通る元であります。この道理は単に一軒の内に於てのみではありません。人間と神様との関係に於ても同じことであります。自分が如何に喜ぼうと思うても、神様が御勇み下さらなかったら、勇むことができないのでのあります。故に世の中は喜んで通るのが、何より身の為になると云う事を知って居りましても、神様を喜ばす事によって自分が勇めるのであると云う理を知りませんから、勇んで通る事ができないのであります。そこで喜んで通れないと云うのは、人間の心と神様の御心とが違って居るからであります。だからよく自分の心を内察して、神様の御心に添うて通る決心をしたならば、心が勇んで来るのであります。そしてその心が勇んで来たなら、その勇んで来た事が、神様の御心に添うた証拠になるのであります。故に懴悔と云うものは、心から喜びの出て来るところまで懴悔せなければ、真の懴悔にならないのであります。
 勇むは神の心(二)
 こうして神様の御心に適う様に、懴悔をしたならば勇みが出て来ます。すれば神様の御心に添うて働かして頂く様になりますから、心が何時も喜び勇んで来るのであります。それを御神楽歌に、「いつまで信心したとても、陽気づくめである程に」と仰せられたのであります。 尚この理を人間に、親子の上について考えましたら、親の云う事を聞いて、親を喜ばすものは心が勇んで来るのであります。そこで又用を親が云いつける。それを果たすから子は悦べる。こうして両方から悦んで通ったら、何時迄も心安く暮らして行けるのであります。然るにその反対に、親が用を云いつけても、自分勝手な事ばかりして居て、その用を捨ててをくと、親は叱るより外はない。子は叱られたら面白くなから勝手にせいという様な心になって、なほ/\親の云う事を聞かなくなる。すると親を不愉快であれば、子も不愉快であります。そこで子供はその不愉快をまぎらす為に、外へ出て遊ぶ様になると、親はなほ/\腹を立てて、終には親子喧嘩をする様になるのであります。

 こういう訳でありますから、この道を通る者は、神様の仰せであれば、それが人間から思うたら、無理の様に思える事であっても、それを無理と思わず、その仰せ通りに通って、神様の御心を勇んで頂く様に、勤めて行かねばならんのであります。すれば親の心の適うから、自分の心が勇んで来るので、そうなれば又神様は、その人相応に御用を仰せ下さるのであります。すれば又神様の仰せ通りに、是が非でもその通りにさせて頂いて、神様に御勇みを頂き、又自分も勇まして頂く様に通らねばなりません。こうして日々勇んで通らして頂いたならば、何日までも陽気で通れるから、神様の思召しである陽気暮らしを見せて頂く事ができるのであります。その理がよく分かる様に、「神の眼から見て、是ならばと思うたならば、その証拠として日々勇んで、陽気暮らしができる」と仰せ下されたのであります。

【増野鼓雪教理5-18、心次第の道
 「心次第の道」と題して次のように述べている。
 心次第の道(一)
 神様というものは、人間の如く限りあるものではありません。全知全能で如何なる事でも知らぬ事なく、できぬ事はありません。それ故人間が神様に御願いしたならば、神様は必ず人間の望むものを、御与え下さるのであります。それは唯単に人間が、病気を助けて貰うという事だけではありません。金が欲しければ金も下されば、家が欲しければ家も下さるし、土地が欲しければ土地も下さるのであります。何故ならこの世の中の物は、何一つとして神様の物でないものはないのでありますから、この世に存在するものならば神様の意思のまに/\御与えになる事ができるからであります。しかし神様は何でも願えば下さるからというて、そんなら金を下さいというて下さるものではありません。何故ならそれは必要という事がないからであります。必要のない物を神様が下さらぬのは、神様が人間を可愛いと思し召すからであります。これを丁度例えて見ますれば、子供が学校の必需品であるとか、是非なくてはならぬものを買うてくれと望んだならば、親は、必ずその子供の望み通りのものを、買うて与えるものであります。しかし必要でないものを欲しがったり、望んだりした時は、決して買うてはやりません。これは子供に無駄なものを与えると、却ってその性格が悪くなるから、その性格を悪くせしめない為に、神様も不必要なものは決して御与え下さらぬのであります。
 心次第の道(二)
 しからば神様は、必要があり、且つ望んだならば下さるかというと、未だそれだけでは行かぬのであります。もし望んだことがその通りに与えられたるならば、病人は皆な助けられるべき筈であります。何故なら病人が身体を健康に持つという事は、必要であり且つ望んでいるところであるからであります。しかるに事実これだけでは、未だ神様の望むものは与えられぬのであります。しからば欲するものを与えられるのには、それ以上にどういう事をしたらいいのであるかと申しますると、それは神様にお任せ申す事であります。これをいい換えましたならば、自分の力では到底できないという事を自覚する事であります。なぜなら自分の力でできると、僅かでも思うている間は、神様の御働きを受ける事ができないからであります。

 これを例えて申しましたら、子供が玩具をつぶしたのを、何とかして直したいと思うてひねくっているのを、親が見ている様なものであります。早く自分の力では直らぬと悟って親に渡せば、親は直ぐに元通りにしてやる事ができるが、親が渡せといっても子供が強情を張って渡さなかったら、親の直す事でできないのであります。神様と人間も丁度それと同じで、神様が助けてやろう待ち受けていて下さっても、人間が神様に任せてしまわなかったらならば神様としてもどうする事もできないのであります。それ故何事についても神様に任すという事が、何よりも必要な事なのであります。

 かように神様に任せてしもうたならば、神様は必ずお助け下さるのであるが、その間に案じる理があったら、後に傷が残るのであります。人間の身について考えましても、身体が怪我の為に傷が出来た時、神様にお任せして直して頂く事を思わず、自分で直そうと思い、薬をつけたり膏薬(こうやく)を貼ったりしたならば、たとへその傷は直っても、その跡が残るのであります。故に何事に拘わらず、望む心と必要と任す心があったならば、神様は必ず何物でも与えられるので、それを神様は「皆なめい/\の心次第や」と、仰せになったのであります。

【増野鼓雪教理5-19、明日の道
 「明日の道」と題して次のように述べている。
 明日の道(一)
 人間は一日先の事を予見する事ができないのみならず、一時間後の事も誰も分からないのであります。故に人間の将来と云うのは、唯神様のみが知って居られるのであって、如何なる人もその秘密を、窺い知った人はいないのであります。この意味に於いて、人間は暗黒の如き世界を歩んでいると見るのは尤もであります。 しかしながらこれは要するに、世界並の考えであって、道としてはそうは思われぬのであります。なぜなら神様が人間を守護されるのは、心に応じて肉体を貸し与えられが如く、その境遇もまた心に応じて与えられるのでありますから、要するに人間の心通りの守護と云うことになるのであります。神様の守護が、人間の心通りであるなれば、人間が自分自身の心を知ったならば、如何に神様が自分の上に御守護をなさるかと云う事が、分からねばならぬ筈である。即ち我々の行くべき将来が、明らかにされて来る訳であるといわねばなりません。

 そこで我々は自己の心を知る必要があるのでありますが、今日の自分の心は今日一日にしてできたものではありません。即ち我々が今生のみならず、生々死々し来たった前世からの理を持って居るのでありますから、その道筋から考えて来なけれならぬのであります。しかしそうした事は事実に於いて、人間にできる事はではありんせんから、先づ今日一日の心をよく調べたならば、大過はないのであります。なぜなら現在の心は要するに、過去一切の集積に外ならぬからであります。
 明日の道(二)
 そこで我々が自己を内観するのでありますが、この内観を徹底せしむるには容易ならん努力が必要なのであります。なぜなら内観を経験しない人々にとっては、どうすれば自分の真の心であるか、他から入り込んで自分の心の如くなって居る心であるかが、一寸分かり兼ねるからであります。然しそれを倦まずに考え進んだならば、その真に徹する事が容易ではないにしても、大腿の輪郭ぐらいは明らかになって来るのであります。即ち自分は何を欲しているか、何が自分の好むところであるかと云う様な、第二義的の事は朧げながら、自得する事ができるのであります。そうすれば自分の上に現れて来る将来が、大体どんなものであるかということが、朧げながら予感せられる様になるのであります。

 これを例えへて申しましたら、人間は一筋道の長い旅をしている様なものでありまして、現在今日の日というのは、その一旅亭に宿泊している様なものであります。従って今日迄通って来た道というのは、即ち今後通って行くべき道を規定しておるのであります。故に現在自分の居る所を知ったならば、将来自分が通って行かねばならぬ道、即ち明日の旅程が、予め分かって来るべきものであります。

 尚これを今少し分かる様に、手近な例を以て申しましたら、学校が終わったならば、家へ帰らねばならぬという心が出て来ます。この心が出て来たら、皆な石段を下り橋を渡って、自分の家へ帰って行くのであります。すれば家へ変えるという心は、やがて石段を下り橋を渡るという事を意味して居るのであります。その心でかうしようと思う心、それが自分の真の心というのでありまして、そうした心があればそれに相応しい理を、神様に見せて頂くのでありますから、即ち真の心が明日になったら現れて来るのであります。故にその心如何によっては、翌日に病気になって苦しまねばならぬ様な事ができて来るかも分かねば、又幸せな事が現れて喜ばれるかも分からぬのであります。こう考えて見ますと、一寸思うたら明日の日は暗黒の様にありますが、深く自分の心を思案したらば、大体の見当は付いて来るのであります。これを更に深く極めた人があったら、その人は必ず自分に於ける、明日の事は分かるに相違ないのであります。故に教祖は「明日の日は自分の真の心が、現れて来る」と仰せられたのであります。




(私論.私見)