今日おたすけがあがらなくなったのは、つまり信仰が常識化したからである。教理を自分の頭でこなして、説明するようになったからである。教理を説明していく際に、人に話すのではなく、自分に話しているのである。そんなことで、相手の心が変わり、生活が変わり、たすかるということは起こるはずがない。これは結局、教師が本当の神をつかんでいないからである。現在の信仰者が二代目になりつつあるのだからそれも仕方ない。
では、どうすれば神がつかめるかということであるが、これには二つの道がある。一つは偉大なる人格に接することであるが、教祖が再びそのままの姿でこの世に現れてくださるということがない以上、それは望めない。第二は、神を知る機会が与えられるということである。もし与えられないとすれば、自らの手でそれをつくり出すより他はない。大体、信仰は本来非合理なものであり、言うならば冒険である。それ故、常識では不可能であり、無茶だという自体の中に自分を投げ込み、捨て身になってその中に没入することによって、その機会をつかむということになる。その結果がどう出るかは人間には分からぬが、信仰とは、そうした中で自分を根底からつくり直すことに他ならない。
これは主観的な面からの見方であるが、客観的な面からすると、もう少し違った見方が成立する。客観的にいうならば、不思議な助けが少なくなるというのは時代の必然である。なぜなら、今日の天理教は、高山布教、海外布教を目指している。そこにはどうしても教理を整備する必要が出てくる。そうして教理と信仰が次第に分離するに至る。だから、今後の天理教の行方には、不思議な助けがなくなるということは覚悟しておかねばならない。
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