増野鼓雪の教理考その1

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「増野鼓雪教理考その1」をものしておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪教理1-1、沈思雑言】
 「沈思雑言」と題して次のように述べている。
 余は、近頃沈思黙考するのが面白くなった。原理的に沈思するともあれば、神秘的に黙考する時もある。時として、空想の混じるときもある。いずれも何らか得るものがある。その得たものは、読書して得たものより忘れない。今後も私はこれを続けようと思う。
 宗教に於いて、教理は行路なり。教師は案内者なり。目的は神霊認むるにあり。この場合、目的を見る目は、沈思なり。見る力は能力に存す。故にもし肉体の目が物を見る鍵ならば、沈思は神霊を見るの鍵なり」。

【増野鼓雪教理1-2、教義の尊重】
 「教義の尊重」と題して次のように述べている。
 現在本教には、神そのままの教理より脱線し、人間の智恵にて作られた教理が散在しているのである。人間の手にて作られたるものは、また人間の手にて破壊さるるごとく、これらの教理も漸次消滅し、教祖及び本席を通じて語られた教理のみ、夜光の玉の如く輝かねばならないのである。この天理の教理を尊重し信頼するのが真の信仰生活であって、教理を説明し解釈するがごときは、厳密なる信仰の目よりすれば第一義を知らぬ者である。いわんや書物や説明から頭の中で作り上げた教理など神の恩寵に添うべきはずはない。

 教理は真実なる神の意志を素直に取り継ぐに他ならぬので、もし神意の取次を忘れ、自己の意思をその間に混じ、勝手なる教理を説けば、神は必ず心外に思し召すに相違なく、神の働きがなくなるのは当然である。(中略)しかるにウソと高慢をもって布教せんとす。霊救のはなはだ少なきは当然のことで、これで人が救済されたら、木によって魚を得るのと同一である。

【増野鼓雪教理1-3、理性の効用と弊昏】

【増野鼓雪教理1-4、世の立て替えの動因】
 「世の立て替えの動因」と題して次のように述べている。
 このように成人してきたから、今までのような教えを説く必要もなければ、説いたところで人間が得心しなくなった。それで今度は道理を説き聞かせて、人間自ら神の意志に従って活動するような教えを、神様がお仕込みになったのが天理教である。即ち人間が自覚時代に進み、さらに進んで世の立て替えを力説する天理教が教祖によって立てられるにいたったのである。

 人間が知恵や文字を悪用したと言ったが、すべてを悪用したわけではなく、むしろ善用した方が多い。今日我々が文明と称し文化と名づけているものは、すべてこの知恵と文字とを使用した結果であるから、この点については昔の人々に対し大いに感謝すべきである。しかしこうしてつくり上げられた文化が、人間の真の幸福にどれだけの効果があったかと問えば、あまり多くはない。なぜならその文化に浴して幸福を感じ得た者は一部少数の人であって、大多数の人間はかえって苦しむようになった。人間の最も大切な生命の保全が少しも変わっていないからである。

 これも一概に悪いとは言えないであろう。たとえて言えば、家を建て家族と住んで安心して生活していたのが、子や孫が増えてきて、その家では狭隘を感じるようになってきたとする。この場合、以前は家族を保護した家が、今度は苦の種になる。それと同じく、過去の時代においては過去の文化が、その時代の人々の生存を保護していたのであるが、次の時代即ち現時では人々を満足せしめることができなくなった。その不満が世の立て替えを要する動因となってきたのである。

 欧州戦乱(第一次世界大戦のこと)後、世界改造の声が高くなった。しかし教祖が世の立て替えを説かれたのは今から数十年前である。教祖はその事実が現れない先に、やがて現れてくることを示されたが、教祖の仰せられた世の立て替えと世界改造は、同じ事実を指示されているものとしても、これを実現する方法が同じであるわけではない。

 では、どこに相違があるか。世界の改造と言われる近代の運動はすべて外部に向かってせられる。一口に言うと、現在のような不公平な差別があるのは社会組織が悪いからで、この悪い組織を破壊して新しい組織を立てなければならぬという主張であり、共産主義とか無政府主義とか、種々な名目のもとに極端な説が主張されている。これらはしかし形の上のことであり枝葉である。しかし教祖の仰せられた世の立て替えは、もっと本質的なものである。教祖はまず人間の心に立ち入り、心の改造から始められた。思うに現在のような社会状態ができたのは、畢竟人間がつくり出したのである以上、社会の欠陥は人間心理の欠陥から現れたとしなければならない。ゆえに、いかに現在の組織や制度を破壊したからとて、人間自身の心が改造されぬ間は、やはり同じ轍を踏んで行くより他に道はない。これは革命後のロシア民衆の状態を見ても分かることである。

 それで教祖は、社会組織の立て替えよりも、人間の心の立て替えを先にせられたのである。その人間の心を立て替えさす方法は二つあって、一つは心の欠陥を改めること、二つは人間に新しいことを教えることである。第一の方法であるが、要するところ人間の心の欠陥は必ず肉体の上に現れてくる。逆に言えぱ、肉体に疾病を持っている者は、善悪は第二として、必ず心に欠陥を持っていると言える。また疾病は人間にとって直接の苦痛であるから、これを救済して心の立て替えを行うことは、最も有効で確実な方法である。天理教が社会から医的宗教と称せられるのはこの方法によるがためであるが、これは病気によって心の欠陥を知り、その心を立て直して、神の大業である世の立て替えを実現せんがために、こうした方法によっているまでである。

 第二に人間に新しいものを教えられる方法であるが、教祖は、今まで十のものなら九つまで仕込んだが、あと一つを教えるために神が天降ったという意味のことを仰せられた。そこで仕込み残されているあと一つとは何か。大きく取れば天理教自身であるとも言えるが、それではあまりに漠然としているから、さらに考えると自由用自在ということである。思うことが思うようになれぱ、人間に嘆きや口説きはなくなる。この自由用自在の理が人間の心に納まったら、そこに新しい世界が展開してくるが、自由用自在の内容は天理教を深く信じ、かつ真実の心になった後でなければ分からないのでそれ以上は言わないが、とに角この自由用自在の理によって、立て替えの世が現れてくることだけはご承知頂きたい。

【増野鼓雪教理1-5、おたすけ活動が根本】
 「おたすけ活動が根本」と題して、次のように述べている。
 教祖は五十年の長きにわたって、世の立て替えの大業お始めになった。この立て替えに重要な思想上の事柄を指摘すると次のようになろう。

 第一は、「病のもとは心から」と、病の原因を明かされたこと。これは教祖の創見でないかもしれないが、教祖のように確実に実証し得た人はなかった。この真理は世の立て替えのために重大な働きをなすのみならず、多くの人はこの真理を体得することによって、疾病の苦痛から救済されているのである。

 第二には、因縁を切ること。教祖が出られるまでは、因縁というのは人力をもっていかんともなし得ない宿命とされ、因縁を知ったがために厭世的な気分になる者が多かった。しかし教祖は因縁の存在とともに、それを切る道を教えられた。因縁を切るといっても、自分の周囲に現れてくる出来事をすべてなくするというのではなく、そういう悪現象を起こす自分の心や性格を教理によって一変するのである。因縁が切れたら、それだけ過去の連鎖から脱して、立て替えられた世の中に新しく生まれ出たのと同じことになる。

 第三に、身上借物の理を教えられたこと。この教えは見方によっては私有財産制を否定しているかに思われ、非難されたこともあるが、要するに人間が欲を忘れて初めて真理を透見できることを教えられたものに他ならず、世の立て替えをするためには、この真理を明らかにして、各自の自覚を促進されたのである。

 第四に、真実の不可思議な働きを明らかにされたこと。ここで言う真実とは誠一つのことであって、人間の心が誠一つの上に定まったならば、一切の病気がたすけられるのみならず、過去の悪因縁も切断される。また神を見る境涯に入ることができる。自由用自在の理も、この真実の心から出てくる。従って真実の心になることは、世の立て替えの上に重要な役目をするものである。

 その他教祖が世の立て替えのために力説されたことは沢山にある。「女松男松の隔てない」とか、「一に百姓たすけたい」、「谷底せり上げ」等、今日の世界改造を主張する人々がこと新しく問題にしていることを、教祖は遙か以前に説き明かしておられるのである。

 とはいえ、教祖の仰せられたことは何事も、その時直ちに現れることはなかった。この世立て替えの教えも、その理が事実として現れてきたのは四十年祭が提唱されてからである。ただ遺憾とするところは、世直りの旬ということを狭く解して、天理教のみに関するように、多くの人が考えていることである。そうではなく、大きい世界の立て替えがこの旬から始まると悟る方が神意に近いと思う。かく見てくると、世の立て替えの大業に従事するのは全くこれからである。

【増野鼓雪教理1-6、おたすけがあがらなくなったということに対しての発言】
 「おたすけがあがらなくなったということに対しての発言」と題して、次のように述べている。 。
 今日おたすけがあがらなくなったのは、つまり信仰が常識化したからである。教理を自分の頭でこなして、説明するようになったからである。教理を説明していく際に、人に話すのではなく、自分に話しているのである。そんなことで、相手の心が変わり、生活が変わり、たすかるということは起こるはずがない。これは結局、教師が本当の神をつかんでいないからである。現在の信仰者が二代目になりつつあるのだからそれも仕方ない。

 では、どうすれば神がつかめるかということであるが、これには二つの道がある。一つは偉大なる人格に接することであるが、教祖が再びそのままの姿でこの世に現れてくださるということがない以上、それは望めない。第二は、神を知る機会が与えられるということである。もし与えられないとすれば、自らの手でそれをつくり出すより他はない。大体、信仰は本来非合理なものであり、言うならば冒険である。それ故、常識では不可能であり、無茶だという自体の中に自分を投げ込み、捨て身になってその中に没入することによって、その機会をつかむということになる。その結果がどう出るかは人間には分からぬが、信仰とは、そうした中で自分を根底からつくり直すことに他ならない。

 これは主観的な面からの見方であるが、客観的な面からすると、もう少し違った見方が成立する。客観的にいうならば、不思議な助けが少なくなるというのは時代の必然である。なぜなら、今日の天理教は、高山布教、海外布教を目指している。そこにはどうしても教理を整備する必要が出てくる。そうして教理と信仰が次第に分離するに至る。だから、今後の天理教の行方には、不思議な助けがなくなるということは覚悟しておかねばならない。


【増野鼓雪教理1-7、里の俗人】
 「里の俗人」と題して、次のように述べている。
 教祖は、「里の仙人をつくるのが、この道である」と仰せになった。里の仙人とは山の仙人に対して使用された言葉で、深山に入り難行苦行をして、その精神を練磨したと同様の結果を、里に住居しながら得るのを指されたのであるから、本教の信者にして相当年限を得た者は、仙人の如き心境に達していなければならぬはずである。

 然るに本教の実際を見るのに、そこまで精神を浄化した者もなければ、その境地に到らんと志している者も少ない。朝に夕に想うたり考えたりすることは、俗人にも劣っているようなことがしばしばある。これでは里の仙人どころではない。山の仙人になっても、難行苦行の道は通れまい。

 教祖の御帰幽から年限が隔たれば隔たるだけ、本教が全体として発展するだけ、世俗的な思想が次第に普及し、真実の一筋道を精進する者が少なくなり、宗派内の栄達や物質的生活に憧れを持つようになる。これでは全く里の俗人と言うべきである。

 こういうと悪口のように聞こえるが、決して悪口ではない。私は正直に事実を語っているのである。今から二十年も以前に遣っていた心と、今日遣っている心とを自分で対照してみると、あまりの相違に自分も驚かされるのである。同時に周囲の人々の心遣いを考えても、私と同じ経路を通っているようである。ゆえに手を繋いで人々は里の俗人となりつつあるのである。

 こうした道を進んだら、最後はいかなるものに突き当たるのであるか。これは誰にも分からないことであるが、しかしこの道を歩む者自らが苦しまねばならないことは、非を見るより明らかである。里の俗人、何と云う忌まわしい名であろう。

【増野鼓雪教理1-8、無理を聞く】
  「無理を聞く」と題して、次のように述べている。
 できん中をやってゆく、納められん、得心できんところを得心してゆくのがお道である。ならん中を納め、納まらん中を通ってゆくのは、人間の目から見れば無理なことに違いない。けれども、無理なことを聞いて通るのがお道である。なぜなら、我々は神様に常に無理難題を聞いて貰わねばならぬからである。救からん身上も神様に無理を言うて縋れば神様は聞いて下さる。だから人間も、神様に無理を言うて貰い、それを聞いて通るのが道なのである。

【増野鼓雪教理/生死論】
 「生死論」と題して次のように述べている。
 天理教を信じる我々として深く考えておかねぱならぬことは、いかなる世界が、いかなる世界に立て替えられるかということである。換言すれぱ、立て替えられるべき現在はいかなる世の中で、立て替えられてできてくる世界はいかなる世の中であるかを、でき得る限り知っておかねばならない。これを知らなかったら、神様の思召しに従うてともに働かせて頂くという重大な使命を完うすることができないからである。

 そもそもこの世の中は昨日や今日にできたのではなく、かくなってくる原因があって、永の年月を経てできたのである。そこで、どういうわけでこの世界ができ、人間が生まれてきたかということを知りたいわけであるが、これについて教祖がお説き下さったのが泥海古記である。これによると、神様は人間を造り、人間とともに楽しもうという思召しから、この世・人間を創められたのである。これが最も肝要な事柄であって、人間はこの世の中で陽気ぐらしをさしてもらうのがその暮らし方でなければならない。

 かく創造された人間は、虫のような五分のものから、今日のような姿をした五尺の人間にまで成人したのであるが、それで神様の思召しが満たされたかと言うに、なかなかそうは行かない。なぜなら身体がいかに完備したからとて、生活を楽しむ心の働きがなかったならば陽気ぐらしの世界が現れてこないからである。それで神様は、五尺になった人間を精神的に完成なさる必要が起こってきた。つまり本能のみであった人間に理性が生じてきた。

 神様が人間に知恵の仕込みをされたのは六千年の間ということである。この頃には人間も神様から知恵を与えられるだけの容れものがあったに相違ない。しかしこれとて一朝一夕には行かず、一つ一つ経験して、知識の領域を拡めて行かねばならぬのであるから、長い年限を要したのは当然である。こうした遅い歩調で進んできた心を、他人に通じる言葉として現すまでには、容易なことではなかったろうと思われる。そこで神様が、文字の仕込みは約四千年と仰せられたのは決してでたらめと見るべきものではない。ただ遺憾なのは、今日の我々の知識をもってしては、このことが立証されないことである。

 次に教祖は「人間の悪気が増長してきた」と仰せられている。これは事実を事実としてそのまま仰せられたので、なぜ悪気が増長したかについては何事も言われていない。しかし悪気というものは人々の心から生じてくるものであるから、人間が生まれ更わり出更わりしている間に、心に積もってきたほこりが現れてきた、と見るのが至当であろう。ではどういうわけで心が発達してから悪気が激しくなったのであろうか。

 知恵と文字、この二つは、人間の心にとって最も便利な道具であるのみならず、これによって急速な進歩を遂げた。この意味で知恵と文字は人間にとって至宝である。しかし宝とされたり重要な道具とされているもの程、時によると大なる災害をなすもので、入間もこの宝によって災害を受けるにいたった。即ち知恵と文字の使用法を誤ったがために、人間の心を向上せしむる道具が、人間の悪気を増長せしむるにいたったのである。これは人類にとって不幸であったが、さらに大きい心をもって眺めたら、あるいは一度は通らなけれぱならない道程であったかもしれぬ。ともかく本能が知識的に働いてくるところに、人間としての悪気が生じてきたとは、歴史の上から考えても確かな事実として承認しなければならない。

 このように悪気が増長してきたので、神様はそれを鎮めるために、次には種々の教えを始められた。これも事実として認められる。

 人間の心の働きは互いに相反する二つのものから成り立っている。人間の肉体に病気になる素質も、その病気の癒ゆるべき素質もあるように、人間の心にも悪気があるとともに、半面それを嫌う心もある。だから世の中には、絶対的に悪い者もいなければ、良い者もいないのである。ただいずれが多いかによって善人とも悪人とも称せられるにすぎない。

 この道理から考えて、悪気が増長した結果、これを矯正せんがために一方には善良な意志が働いてくるのは当然で、ここに普通言うところの道徳が生じてきた。しかし道徳だけではこれを守らしむる権威がない。そこで道徳以上の大なる権威をもって人間に臨むものでなければ、悪気を押さえることができないということになって、初めて宗教が生まれてきた。

 こう言うと、宗教は人間の必要からつくり出されたように聞こえるが、これは分かり易く話しただけのことで、教祖は「悪気を鎮めるために、その時に応じ陰からの守護をした」と仰せになっている。子供でも六、七歳になると悪気が生じるものであるが、そういう場合親が道理を説いて聞かしたところで、それを了解することはできない。そこで人間以上の力を持っている化物などを持ち出して悪気を押さえようとする。これが方便である。

 これと同じく、古い時代の宗教は、この世で善良な者は死後において天国や極楽へ行き、悪気な者は地獄に行って苦しむというように説いて、悪気に流れて行くのを防いだのである。しかし現在では人間も十分に成長して「道理を聞き分けるようになった」のである。これは子供が成人して、親が利害得失を説いて聞かせたらそれを理解し、親の意志に従って働くのと同じである。

【増野鼓雪教理1-9、生死論】
 増野鼓雪の生死論」と題して、次のように述べている。(「増野鼓雪全集」15巻の302-305P)
 ・・・死と云うものは、人間が普通思うている程遠いところにあるものではありません。ほんの手近な生きる隣に居るのであります。故に人間が思わぬ時に、ふとやって来て人々を驚かすのであります。それで人間は何とかして、死に近づかん様にと防いで、それに対し色々の準備もするのでありますが、死はかえって逃げる者を意地悪く追いかけて行くのであります。世界の人が金を貯めたり、その他色々の事をして居るのは、即ちその防禦であります。然るにそうしたことをする人程、妙に早く死んで行くのであります。そこで、その死から逃げずに、自分の方からその死を出迎えてやると、かえって死はその人から遠ざかるものであります。なぜなら人間が死ということを念頭において事に当たった時、その人の心は初めて清い心になるからであります。この意味で本教においては、この死と面々相対してきた者でなければ、本教の真味は会得できないと云われておるのであります。

 これをよく分かる事柄について申したら、神様のお話を聞いて、欲の心を持って通ると云うのは大変間違った心遣いであることが分かっていても、どうしてもそれを取る気になれない。・・・(中略)・・・ そのうちに神様から身上のお手入れになって、今日か明日か分からぬ、抜き差しのならん日が来る。その時自分は最早この世を外にして、死んで行かねばならぬと思うた時、初めて死と対面するのであります。その時になって、死んだと思えばという心が出てきます。その心になれば、今まで取る気にならなかった欲心を何とかして取って、たすかろうという気持ちになるのであります。故に人間は生死の巌頭に立って初めて、いかなる決心もできるのであります。だから死は、人間の心を最も美しくするものであります。

 それで人間は、日々にこの死が自分の近い所にあると云う心になっていたならば、いつも心がゆるむことがありません。従って自分の心が日々向上して行くのでありますから、人間はその死を怖れると共に、その死に飛び込むだけの覚悟をしておかねばならぬのであります。人間がわがままな心や勝手な心を出して、真実の理を守らんと云うのは、死が人間の側にあるということを忘れるからであります。人間が真実の心を失うならば、すぐ死が現れてくるものであることを自覚していたなら、不真実な心遣いはできないのであります。

【増野鼓雪教理1-10、人類は兄弟】
 「人類は兄弟」と題して次のように述べている。
 人類は兄弟(一)
 人間の親と云うのは、生みの親二人をいうのでありますが、この道からいえば、生みの親は仮親であって、実の親は神様であります。なぜなら人間の肉体は、親から生まれて来たのに相違ありませんが、人間の生命は親から授かったものではありません。生命は唯神様の司り給うところでありますから、人間の生命も、神様によって授けられ、又日夜守護されて居るのでありますから、実の親は神様よりないのであります。

 神様が人間の生命の元であり、実の親であるならば、血縁を有する者を兄弟というなら、この同じ生命の縁に連なっている世界の人間は、凡て皆な神様の子としての兄弟でなければなりません。即ち天を父として地を母として、その大き家に住んでいる兄弟であります。この意味を考えたならば、世界の人間はその皮膚の色如何を問わず兄弟であります。しかし一歩その心の中に入って見たならば、果たして兄弟の如き、親しい感じを持って居るでありませうか。

 これを我々の日常の感じについて考えて見ましても、何となく肉親の兄弟と他人との間には感じの相違があるのであります。例へば家を留守にする様な場合に、兄弟ならば何の懸念なく、留守を依頼する事ができるのでありますが、他人には左様容易に頼む事ができないのであります。これは一つには兄弟なら気心が知れて居るが、他人には気心が知れぬと云う様な理由にもよるのでありませうが、兎に角左様した点に、肉親の兄弟と他人とに対する心の隔てがあるのであります。この隔てが心の内にある以上、吾々は本当の意味に於いて、他人を以て兄弟と仰せられる、神様の御心に適う様になって居ないという事になるのであります。

 しかしこの点については、御道の者は余程親しい心を持って居ります。例えば汽車の中や船中で他人に対したら、普通心で警戒するものでありますが、道を信じて居る人であると聞けば、何となく親しい様に心置きない感じが出て来るのであります。そして互いに信頼し合う事ができるのみならず、十年知己の如き情合いを持って接する事ができます。これ即ち如何なる人も兄弟であるという感じが、心の奥にあるのと、道を信じて居る人には悪い事をする人がないと云う心から、自然に打ち解ける結果であります。
 人類は兄弟(二)
 この親しみは未だお道の人の間に於いて行われる事でありますが、世界の凡ての人が、こうした心持ちを以て接する事ができる様になりましたら、恐らく現在の世界の組織が変化するだろとうと思います。そして又神様は左様した日の一日も早くこの世に来らん事を欲して居られるのでありまして、我々がこの御道で働くと云うのは、要するにこうした日を、早く実現せしめんとする為でありますから、互にその心を打ち明けて、真の兄弟に対する様な心で交わって行かねばならんのであります。

 それには先ず自分の最も嫌いな人と、和睦する事ができねばなりません。何故なら一番嫌いな人と仲よくなるという事は、一番真実だからであります。我々は神様を手を合わせて拝むよりも先に、仲の悪い人と仲直りをする覚悟がなければなりません。何故なら神様を百度拝するよりも、この方が遥かに神様の思召しに適うことであります。こうして次から次へと仲直りをして行ったならば、終には世界の人々と真の兄弟としての感じを持つ事ができる様になれるので、それで即ち神様の御心であります。

 もし人間がこういう心になり得たならば、肉親の兄弟や親族などは、少しも頼りにする必要はない事になるのであります。故に御道に於いては理を聞き分けた人が兄であり父であって、親族などは少しも重んぜられていないのであります。しかるに御道に於いて、肉親の親族を頼りにしている人がありますが、これは真に理を聞き分けていないからであります。又一面理を頼りにする信念が薄いからであります。故に世界の人々と真の兄弟になる様な心懸けで、肉親や他人という様な心の隔てをせない様にしなければなりません。

【増野鼓雪教理1-11、明日の道】
 「明日の道」と題して次のように述べている。
 明日の道(一)
 人間は一日先の事を予見する事ができないのみならず、一時間後の事も誰も分からないのであります。故に人間の将来と云うのは、唯神様のみが知って居られるのであって、如何なる人もその秘密を、窺い知った人はないのであります。この意味に於いて、人間は暗黒の如き世界を歩んでいると見るのは尤もであります。

 しかしながらこれは要するに、世界並の考えであって、道としては左様は思われぬのであります。なぜなら神様が人間を守護されるのは、心に応じて肉体を貸し与えられが如く、その境遇もまた心に応じて与えられるのでありますから、要するに人間の心通りの守護と云うことがなるのであります。神様の守護が、人間の心通りであるなれば、人間が自分自身の心を知ったならば、如何に神様が自分の上に御守護をなさるかと云う事が、分からねばならぬ筈です。即ち我々の行くべき将来が、明らかにされて来る訳であるといわねばなりません。

 そこで我々は自己の心を知る必要があるのでありまするが、今日の自分の心は今日一日にしてできたものではありません。即ち我々が今生のみならず、清々死々し来たった前世からの理を持って居るのでありますから、その道筋から考えて来なけれならぬのであります。しかし左様した事は事実に於いて、人間にできる事はではありませんから、先づ今日一日の心をよく調べたならば大過はないのであります。なぜなら現在の心は要するに、過去一切の集積に外ならぬからであります。
 明日の道(二)
 そこで我々が自己を内観するのでありますが、この内観を徹底せしむるには容易ならん努力が必要なのであります。なぜなら内観を経験せない人々に取っては、どれば自分の真の心であるか、他から入り込んで自分の心の如くなて居る心であるかが、一寸分かり兼ねるからであります。然しそれを倦まずに考え進んだならば、その真に徹する事容易ではないにしても、大腿の輪郭ぐらいは明らかになって来るのであります。即ち自分は何を欲しているか、何が自分の好む所であるかと云う様な、第二義的の事は朧げながら、自得する事ができるのであります。左様すれば自分の上に現れて来る将来が、大体どんなものであるかということが、朧げながら予感せられる様になるのであります。

 これを例へて申しましたら、人間は一筋道の長い旅をしている様なものでありまして、現在今日の日といのは、その一旅亭に宿泊している様なものであります。従って今日迄通って来た道というのは、即ち今後通って行くべき道を規定しておるのであります。故に現在自分の居る所を知ったならば、将来自分が通って行かねばならぬ道、即ち明日の旅程が、予め分かって来るべきものであります。

 尚これを今少し分かる様に、手近な例を以て申しましたら、学校が終わったならば、家へ帰らねばならぬという心が出て来ます。この心が出て来たら、皆な石段を下り橋を渡って、自分の家へ帰って行くのであります。すれば家へ変えるという心は、やがて石段を下り橋を渡るという事が意味して居るのであります。

 その心でかうしようと思う心、それが自分の真の心というのでありまして、左様した心があればそれに相応しい理を、神様に見せて頂くのでありますから、即ち真の心が明日になったら現れて来るのであります。故にその心如何によっては、翌日に病気になって苦しまねばならぬ様な事ができて来るかも分からねば、又幸せな事が現れて喜ばれるかも分からぬのであります。

 こう考えて見ますると、一寸思うたら明日の日は暗黒の様にありますが、深く自分の心を思案したらば、大体の見当は付いて来るのであります。これを更に深く極めた人があったら、その人は必ず自分に於ける、明日の事は分かるに相違ないのであります。故に教祖は「明日の日は自分の真の心が現れて来る」と仰せられたのであります。

【増野鼓雪教理1-12、夢と月日】
 「夢と月日」と題して次のように述べている。
 夢と月日(一)
 夢と云うものは人間が見ようと云うて見られるものでもなければ、見まいと思うても見るものであります。その夢を学者は、潜在意識が寝てから働いて、意識に上って来るのであると申しますが、然し左様だからと云うて、自分の思う通りに夢を見る訳には行きません。それで夢と云うのは、要するに自分の心の理を見せるのでありまして、神様から云へば、理を御知らせ下されて居るのであります。然し同じ夢と云うても、直ぐ忘れるものであれば忘れられんものあります。忘れるのは理にならぬので、忘れぬのが理になるのであります。故にその夢の理を深く考へたら、そこに何か悟る事があるのであります。

 私の母が一度夢を見て、神様に伺った事があります。その時神様は「夢を見るもの月日、誠見るのも月日」と仰せられて、その最後に「遠い所から理を知らしてある」と仰せになりました。今日から考えましたら、後年母の死ぬべき理が、その時にきざして居たのでありますが、それが終に悟れなかったのか、悟れても思い切れなかったのか、兎に角それが為に早逝したのであります。
 夢と月日(二)
 又私の経験から申しますと、教会を私が独断で移転する手続きをして本部へ来たところが、支庁長がどうしても許してくれない、それで大変困って居たら、その夜御本席の夢を見ました。その時「さあ/\許してやるで/\、私が許してやるで」と仰せになりました。ところが翌日支庁長が更迭になりして、後任者が丁度御本席が夢で仰せられた通りに云うて下さったのであります。して見ますと、夢で見た云うのも、翌日支庁長が云うて下さったのも皆な神様であります。故に神様も「さあと云うたら、夢枕に立っても知らす」と仰せになって居るのであります。と云って好い夢ばかりを見る訳にもまいりません。悪い夢を見なければならん事もあります。しかしそれは要するに心の理を見せられて居るのでありますから、そこから悟って行かねばなりません。

 又誠もこの夢と同じで、人の誠がなかったら、他の人に誠があっても、それを見出すことができないからであります。故にそれも亦神様に見せて頂かねばならぬので、勝手に見ようと思うても見られるものではありません。又誠の話を聞くのもその通りで、誠がなかったら誠の話は聞かれぬのであります。例へば話す者の方から云へば、或る教会ではお話が流れるように出るが、或る教会では少しも出ない事があります。これはその教会が治まって居るか居ないかによって、その理が写って思わぬ好い事が話せる事もあれば、思いながら止まる事があるのであります。これその教会に誠がないからであります。故に誠のない者は、誠の話しも聞かれぬのであります。私の経験から申しましても、私は相手次第でその場限りの話をする事もあれば、相手が実行する心で聞く場合は、真から御話をする事もあります。故に神様もその通りで、こちらの心次第で、心だけの理を見せて下さるのでありますから、誠を見るには、自分が誠になる心でなければ、どうしても見られないのであります。

【増野鼓雪教理1-13、この道 道は我がこと】
 「この道 道は我がこと」と題して次のように述べている。
 この道  道は我が事(一)
 人間がこの世に於て、何が一番大切なものであるかと云へば、その人々によってそれぞれ答が違うでせう。けれども如何な人にも、共通して一番大切なるものは、自分の生命であります。何故なら凡そ世の中にあるものは、自分が生きて居るから価値があるので、自分がなかったら、総てのものはない事になるからであります。然るに世の中にはこの世の生命を與へるものは、一つもないのであります。そして生命は人力の如何とする事ができないものだと申して居ります。全くその通りで、これは神様より外に如何する事はできないのであります。故に神様は人間に取って、何より大切なものであると云はねばなりません。

 然し神様が尊いものである、この道を信仰したら助けられると云うても、もし自分自身が助けられなかったなら、何の有難味もないのであります。例へば自分の前へ並べられた御馳走の様なもので、食べなければ少し腹が満たぬのであります。故にこの道も同じで、道の理が我が身の上に現れて来なければ、道は結構と云う事ができぬのであります。もしそれを云うとしたならば、それは心にない嘘を云うて居るのであります。

 そこでこの道を自分のものにするには、この道を自分の道だと思はねばなりません。更に一歩進んで云へば、この道は教祖の付けられた道でありますから、その教祖を自分の教祖とせなければならぬのであります。自分の教祖とは、自分の雛形手本とするのであって、天理教の教祖とか、天理教の雛形とか思わぬ事であります。之を更に云い換へたら、自分が通る為に、教祖があの道を御通り下されたのであると、思はねばならぬのであります。然るに多くの人は、教祖は白因縁の御方である。我々は悪因縁の者であるから、到底その道は通られんと云うので、教祖を祭り籠めて居るのであります。無論我々が教祖だけの道は通られんので、神様も「誰が来ても教祖だけの道は通られんから、十のものなら二分三分通ってくれたら、後は神がたして十分に受取る」とも仰せられて居ますから、それは通れんには相違ありませんが、それだからとて通らんと云うのは間違いであります。

 何故なら親はその子が自分より偉い者になり、出世するがの望みでありますから、人間も、できない迄も教祖よりも豪い人になろうと云う心があってこそ、教祖に満足して貰えるのであります。それに教祖を別物の様に取扱うのは、一寸考えたら好い様でありますが、その実教祖の理を立て倒しに倒して居るのであります。
 道は我が事(二)
 それ故我々が教祖の理を生かして行くには、我々がそれを行うて行かなければならぬものであります。それには教祖を天理教の教祖とせずして、我々がこの世へ生まれて来て、苦しむのを助ける為に、教祖があの道を御通り置き下れたのであるから、自分は是非あの道を通らせてと頂かねばならぬと云う心にならねばなりません。すれば教祖に淋しいお心を持って頂かずに、喜んで頂く事ができるのであります。

 これは教祖についてばかり云うのではありません。この道の事は何でも、皆な我が事と思うてしたら、我が事になって来るのであります。私が一昨年青年会を組織致します時に、本部青年に下された御指図を読んだのであります。その時私はこれは、自分が読む為に神様が先から、御出し置き下さった様に思うたのであります。そしてこれは必ずできると信じて、行わして頂いたのであります。その指図は三十一年の差図で、約二十年も以前のものでありますが、それを行うたら、それが今の実となって来たのであります。

 か様に如何なる事も、神様の事は我が事と思うてしたら、我が事になるのでありますから、何をさして貰うにも、これは神様の為だとか、教会の為だとか思わぬ様にせなければなりません。尚この理を押しつづめて申しましたら、この道を通る以上は、それは如何なる事があろうと、例へば御話を聞く様な場合でも、仕事をする様な場合でも、これは多くの人で聞くのであるとか、多くの人でするのであるとは思わずに、如何なる事を聞かし命じて下さるのも、皆な神様が自分の為に聞かせしも、仕事もさせて下さるのであると思うて行かねばならぬのであります。左様すれば終には我が事になって来るのでありまして、これを云いかへたら神様の仰せられた通りに、我が身がなって行くのであります。

【増野鼓雪教理1-14、不思議な助け】
 「不思議な助け」と題して次のように述べている。
 不思議な助け(一)
 神様のこの道を御付け下されたのは、云う迄もなく人間が難儀苦労して居るのを助けたいと思召したからであります。そこで人間から考えたら、如何しても助からぬと思われる様な病気や、如何しても治りそうもない事情を治める道を御付け下されたのであります。故にこの道を聞いた人は、病気ならばその病気が助かるし、事情ならばその事情が治まって行くので、世界からこの道を珍らしい道と云うのであります。

 そこでこの珍しい助けと云う事を御話する前に、一応助けと云うことについて、申し上げておきたいと思うのであります。御神楽歌によりますと、助けと云うのに四つあるのであります。それは唯助けと仰せられたのと、珍らし助けと仰せられたのと、不思議な助けと仰せられたのと、実の助けと仰せられたのであります。そこで単に助けと云うのは、最も廣い意味の助けでありまして、その中には物を持って人を助けるのも、御道の様に心を改めさせて助けるのも、凡そ助けると云う事は、それが物質的であろうと精神的であろうと、総てこの内に含まれて居るのであります。

 それから珍らしい助けと云うのは、世の中にはない助けであるから、珍しい助けと云うのであります。これを云い換えれば、数ない助けと云う事であります。次に不思議な助け云うのは、その内容から云へば、珍らし助けも同じ事でありますが、一度ならず二度三度と重なって来るから、それが不思議な事でありますが、一度ならず二度三度と重なって来るから、それが不思議になって来るのでります。故に人間が知恵の力では、如何しても考へ及ばれない助けであるから世界から不思議な助けで云うのであります。

 ところでこの二つの御助けは、人間の力でできるものではありません。何故なら珍しいとか不思議なと云う事は、人間でできんから珍らし不思議なのでありまして、人間でできる事なら、珍しくも不思議でも、何でもないのであります。然るに多くの布教者の中には、この珍しい不思議な助けを、自分がした事の様に思う者があるのであります。この結果、次の実の助けをせなければならぬ様になって大いに困るのであります。
 不思議な助け(ニ)
 然らば実の助けとは如何云うものであるかと申しますると、これは人間の真実を神様に受け取って頂いて、その理の上から御助けを頂くのであります。故にこの助けができてこそ、始めて自分の力で人を助けたいと云えるのであります。然るに布教に出た当時、不思議な助けがあるのを、自分の実からだと思うから聞き違うので、これは神様が布教者に、神の力を見せて下さるのと、今一つには布教者が難儀をせぬ様に、本人の通れるだけの理を見せて下さる神様の御慈悲であります。それで神の力が分かったならば、それからは神様は実の助けをせよと手を御離しになるので、それは丁度子供に学校の先生が、手を持って教えるのと同じであります。手を離されたら自分の力で書かねばならぬ様に、自分の真実から人を助けて行かねばならぬ事になるのであります。

 そこでこの実の助けは、始めから神様がせよとは仰せられぬので、ようよう此所までついて来たと云う事があって、始めて行へるのであります。故にその間は、多くの苦労の道を通らねばならぬので、その道が困難であるから、多くの布教者は中途にして挫折するに至るのでありますが、そこで一段の勇気を振り起して、更に進んで行ったならば、その心を神様が御受取り下されますから、今度は神様のその心を受け取って、自由自在の御働きを下さるようになるのであります。こうして神様が御働き下さる様になったら、また始めの様に不思議な助け、珍しい助けが現れて来るのであります。然し以前の時は理が分からずして、御働き下されたのでありますから、その理が会得できませんけれども、今度は理が分かって居ますから、世界から不思議珍らしいと云うても、自分にはそれが当然の事に思われるのであります。却って助からぬのや治まらぬのが不思議のように思えて来るのであります。神様は、この不思議な助けを教へたに、教祖に神懸りあって、この道を御付け下さたれたのでありますから、この理を我々は治めさせて貰はねばならぬのであります。

【増野鼓雪教理1-15、心尽しと神意】
 「心尽しと神意」と題して次のように述べている。
 心尽しと神意(一)
 このお道の人が難儀をして、人を助けに歩くのも、教会で日々勤めをして居るのも、要するところは自分の心を神様に受取って頂く為でありますが、目当とするところは神様より外にないのであります。従って働く理が、神に受取って貰はれなかったら、それは何の甲斐もないのであります。そこで神様に受取って頂くには、何よりも先づ神様の思召しのある所を知って、そこに力を入れさして貰う事が肝腎であります。何故なら神様がこうしようと、思召しなって居ないところへ、人間が如何に力を入れても、それは何の役にも立たんからであります。例へて申せば私の宅に何か取込んだ事があった時、誰かが手伝いに来てくれたら、私は大変それを喜ばしく思いまするが、その取込みが済んで二三日もしてから、御手伝いに来ましたと云うて来てくれたところが、それは邪魔にこそなれ、何の役にも立たんのであります。それと同じ様に、手伝うとしたところで、その時を誤っては、折角の手伝いが無駄になるのであります。故に人間が神様の事をさして頂くにしても、その時即ち今は神様の思召しが何処にあるのかと云うことを知らずして働いたのは、働いたいう事は事実であるとしましても、それは何の理にならぬのであります。

 故に、自分の真実受け取って頂く為に働くにしたところが、神様の思召しのあるところを知って働かねば、それは無駄になるのであります。これをお道の上で云へば、本部に於ては今こう云う事をしようとして居られる、けれども私の教会ではそこまでは運ばれんと、自分の教会の事をして居ると云う様な事であっては、それは何の理にもならんのであります。その事は信徒と教会との間に於ても同じ事であります。その結果はその教会の衰退を招き、又一家の衰微となるのであります。それだから神様は、なんぼ働いてもなんぼ尽しても、理のない働きは無駄尽しの無駄働きであると云われたのであります。
 心尽くしと神意(二)
 こう云う訳でありますから、人間自身の考えで善い事であるからと云うて、それが直ちに神様の心に適うと思うてはなりません。人間から見て善い事であっても、神様から御覧になればそれが悪いものもあれば、人間から見て悪い事が、神様から見て善い事もあります。そこでこの関係を「良いが良いに立たん、悪いが悪いに立たん」と仰せられた事があります。故に人間の方で、勝手に善悪の判断をせずに、唯神様の仰せ通りにする様にして行けばよいので、それをまた指図を以てすれば違わんとも仰せになって居ります。

 尚これを分る様に、私の通った上から申しますと、私が未だ学校を出て本部へ帰った当時、本部へ行っても別段これと云う用事がないので、つまらん様な気がしたので、本部へ行かず勝手をしていたのであります。ところが或る時、前館長が、本部へよく勤めなければいかんと仰せられたので、遊んで居るのはつまらないと思いましたのでと申しますと、そんな事だから道が分らんのやと云うて、本部へ来て遊んで居ても昼寝して居てもそれが勤めになるのや、何故なら本部には何時どんな用ができて来るやら分からん、その時人が居なかったら間に合わん、だから遊んで居るのも寝て居るのも、さあと云う時の間に合うから、それで勤めやと仰せられました。

 こう云う点から考えますと、身体をくる/\廻して忙しがって働くことや、心で色々苦心して尽くす事のみが、神様のお心に適うとばかりは限らぬのであります。遊んで居ても昼寝をして居ても、それが神様の思召しであるならば、その思召し通りにするのが真の勤めであって、それができてこそ、真実を神様の受取って頂くことができるのでありますから、あまり人間の上からのみ判断して、直ちに善いとか悪いとか云わずに、何でも神様の思召し通りのことをさして頂いて、自分の真実を受取って貰わねばなりません。神様はその真実を受取ったら、どんな働きもして下さるのでありますから、理になる様に心を尽くして行かねばなりません。

【増野鼓雪教理1-16、悟得と神意】
 「悟得と神意」と題して次のように述べている。
 胸が分かると云う事は、大体に於て二つに分けて考える事ができるのであります。その一つは神様の胸と云うのであって即ち道を聞き分けて来たならば、次第に神様の思召しが会得せられると見るのであります。今一つは、胸を各自の胸と見るのでありまして、自分の心が本当に分かって来たならば、如何なる事も自然に会得できると見るのであります。この二つの見方によって、一つは他力の教義になるのでありまして、一つは自力の教義になって来るのであります。然しお道ではこう二つに分れて居ないので、自分の心が本当に分かって来れば、神様の御心も分かって来るし、神様の御心が分かって来れば自分の心も分けって来るとされて居るのでありますから、二者融合して居ると見るのが、最も妥当な見方であります。

 そこで「胸が分ければ日が来る」と云うことがありますが、これはどう云う事であるかと申しますると、神様の御心が分かって来れば、神様の仰せになった事が、現れて来ると云うのであります。これは即ち心にある理が、表へ現れて来るのでありますから、我が心の内に分かった事、もしくは在る事より外は現れないのであります。そこで神様の御心が分かったと云う事は、即ち現れるべき時が来て居るのでありますから、やがて事実になって来るのであります。その事実として現れて来た時が、即ちその日が来たのであります。故にこれを更に言葉を換えて云へば、その事実が現れるべき時が来たから、人間にそれが分かって来るのだと云う事もできるのであります。

 すれば神様の御心とは、どういう御心であるかと申しますると、「
月日の心えらい思惑」と仰せになって居るのでありとます。無論神様の御心を、人間で計る事は容易でありませんが、えらい思惑と仰せられた所から考えましたら、これは非常な事に相違ないのであります。これを教理の上について考えましたら、神様は世の立替をなし、世界をろくぢに踏みならす為に天下られてこの道をおつけになったのでありますから、これは全く大事業であります。その大事業を神様は一日も早く、完成させたいと望んで居られるのであります。これを以てみても月日がせき込んで居られるのは明かであります。

 然しながらこの大事業は、その根本から云へば、神様の思召しからできて行くのでありますが、それを現世に於て完成して行くのは、人間でありますから、神様の言葉にも、「神が話し人間が果たして行く」と仰せになって居ります。即ち神様の指図を受けて、人間がそれを遂行して行くのであります。従って人間が神様の御心をくみ分ける事ができなかったら、それを実現して行く事ができないのであります。それ故に神様は、人間に早くその胸を分からせて、神様の仰せになった事を、一日も早く実現させたいと、心を急がせて居られるのであります。これを神様の急き込み云うのであります。

【増野鼓雪教理1-17、勇むは神の心
 「勇むは神の心」と題して次のように述べている。
 勇むは神の心(一)
 一軒の家に於て、その主人公たる者が、不愉快な顔をして居たならば、家族の者は決して心の勇むものではありません。主人が面白そうな気持ちで暮らして居ると、一家の者が心持ちよく暮らせます。是から考へますと、家族として自分が日々勇んで通ろうと思うたならば、その主人公を勇まして通ると云う事が、自分の勇み喜んで通る元であります。この道理は単に一軒の内に於てのみではありません。人間と神様との関係に於ても同じことであります。自分が如何に喜ぼうと思うても、神様が御勇み下さらなかったら、勇むことができないのでのあります。故に世の中は喜んで通るのが、何より身の為になると云う事を知って居りましても、神様を喜ばす事によって、自分が勇めるのであると云う理を知りませんから、勇んで通る事ができないのであります。

 そこで喜んで通れないと云うのは、人間の心と神様の御心とが違って居るからであります。だからよく自分の心を内察して、神様の御心に添うて通る決心をしたならば心が勇んで来るのであります。そしてその心が勇んで来たなら、その勇んで来た事が、神様の御心に添うた証拠になるのであります。故に懴悔と云うものは、心から喜びの出て来るところまで懴悔せなければ、真の懴悔にならないのであります。
 勇むは神の心(二)
 こうして神様の御心に適う様に、懴悔をしたならば勇みが出て来ます。すれば神様の御心に添うて働かして頂く様になりますから、心が何時も喜び勇んで来るのであります。それを御神楽歌に、「いつまで信心したとても、陽気づくめである程に」と仰せられたのであります。

 尚この理を人間に、親子の上について考えましたら、親の云う事を聞いて、親を喜ばすものは心が勇んで来るのであります。そこで又用を親が云いつける。それを果たすから子は悦べる。こうして両方から悦んで通ったら、何時迄も心安く暮らして行けるのであります。然るにその反対に、親が用を云いつけても、自分勝手な事ばかりして居て、その用を捨てて置くと、親は叱るより外はない。子は叱られたら面白くなから勝手にせいという様な心になって、なほ/\親の云う事を聞かなくなる。すると親を不愉快であれば、子も不愉快であります。そこで子供はその不愉快をまぎらす為に外へ出て遊ぶ様になると、親はなほ/\腹を立てて、終には親子喧嘩をする様になるのであります。


 こういう訳でありますから、この道を通る者は、神様の仰せであれば、それが人間から思うたら、無理の様に思える事であっても、それを無理と思わず、その仰せ通りに通って、神様の御心を勇んで頂く様に、勤めて行かねばならんのであります。すれば親の心の適うから、自分の心が勇んで来るので、左様なれば又神様は、その人相応に御用を仰せ下さるのであります。すれば又神様の仰せ通りに、是が非でもその通りにさせて頂いて、神様に御勇みを頂き、又自分も勇まして頂く様に通らねばなりません。こうして日々勇んで通らして頂いたならば、何日までも陽気で通れるから、神様の思召しである陽気暮らしを見せて頂く事ができるのであります。その理がよく分かる様に、「神の眼から見て是ならば思うたならば、その証拠として日々勇んで陽気暮らしができる」と仰せ下されたのであります。

【増野鼓雪教理1-18、油断は隙
 「油断は隙」と題して次のように述べている。
 油断は隙(一)
 普通世の中では、一寸先は暗の世と云うて居るのでありますが、誠にその通りであります。一時間後に如何なる事が、我々の身の上に現れて来るか、これは誰しも分からぬのであります。然し如何なる事が我々の前に現れて来るにしても、それは外から来るのでのはなくして、自分の心から現れて来るのであります。不幸にしても外から人間に近よる様に見えますけれども、その実自分の方の不幸を近よらしもめるものが内にあるのであります。これを例へて申しますと、真剣に切り合いをして居る様なものであります。敵の白刃が自分の眼の前に来て居りましても、自分の方に隙がなかったならば、打ち込んで来る事ができないのであります。打ち込んで来る事ができなかったら、神様の仰せになった様に、「真丹の理、真丹の心治まれば、抜いた刃も鞘同様」になってしまうのであります。不幸もやはりそれと同じで、我々の周囲に集まって来て居ても、心に隙がなかったらなら、身に迫って来る事ができないのであります。それは丁度こうして部屋の障子が閉めてあったら、外に寒い風がどのくらい吹いて居ても、少しも部屋の内へは吹き込んで来ないのでありますけれども、障子と障子の間に少しでも隙があったら、その間から身を切る様な寒い風が吹き込んで来るのであります。それと不幸が身に迫って来るのと同じであります。
 油断は隙(二)
 そこでその心の隙と云うのは、何であるかと申しますると、心の動く事であります。真剣勝負の時に、少しでも相手を切ろうとか負かそうと云う心が出たなら、その瞬間に自分が切られてしまうのであります。これは即ち心が動くから、隙が生じるのであります。故に人間がこの世に処して行くにも、心を動かさん様にして行かなければならんのであります。それは我々が何よりも、油断をしてはならぬのであります。世界に於いても、油断大敵と云うて居るのであります。故に人間は世の中と、綱引きでは、少しでも油断をしたらば、直ちに世の中の渦中へ引き込まれてしまうのあります。

 尚この事を布教の上について考へましても、常のときには少しの悪い心使いなどは、それが直ちに自分影響する様な事はありませんが、生死の堺にある病人を助ける場合だとか、自分が生死の堺に居る時などは、少しの理に違った心使いでも、それが直ちに大きい影響を与えるのであります。故に左様した場合に於いて、殊に心使いに気を付けなければならないのであります。斯様して如何なる場合にも、自分の心に隙を与えなかったならば、将来にどんな不幸が待ちかまへて居るにしても、それが身の上に現れて来る様な事はないのでありますから、人間がこの世の通って行くには、横目振る間、即ち瞬間たりとも心に油断をして、隙を作る様な事はしてはならぬのであります。心に隙がなかったら、如何にこの世の一寸先が暗黒であっても、心に恐れるところはないのであります。何故なら恐ろしいと云うのは、暗いのが恐ろしいのではなく、間違った心の理が恐ろしいのでありますから、隙のない様な心なら、恐れる理はないから、暗の中も安心して通って行けるのであります。

【増野鼓雪教理1-19死と決心
 「死と決心」と題して次のように述べている。
 死と決心(一)
 お互い人間に取って最も厭な恐ろしいものは、何であると云へば、それは云う迄もなく死ぬことであります。そして又この死ぬと云う事は、人間は必ず最後に出合はねばならぬものであります。然るに多くの人は、その死と云う事については、別段深く考えないのであります。そして一日々々と日を送っているのであります。ところがその死と云うものは、人間が普通思うている程、遠い所にあるのではありません。ほんの手近な生きる隣に居るのであります。故に人間が思わぬ時に、ふとやっと来て人々を驚かすのであります。それで人間は何とかして、死の近づかん様にと防いで、それに対し色々の準備もするのでありますが、死は却って逃げる者を意地悪く、追いかけて行くのであります。世界の人々が金を貯めたり、その他色々の事をして居るには、即ちその防御であります。然るに左様した事をする人程、妙に早く死んで行くのであります。

 そこでその死から逃げずに、自分の方からその死を出迎えてやると、却って死はその人から遠ざかるのであります。なぜなら人間が死と云う事を、念頭に置いて事に当たった時、その人の心は始めて清い心になるからであります。この意味で本教に於ては、この死と面々相対して来た者でなければ、本教の真意味は会得できないと云われて居るのであります。
 これをよく分かる事柄について申したら、神様のお話を聞いて、欲の心を持って通ると云うのは大変間違った心遣いであることが分かっていても、どうしてもそれを取る気になれない。・・・(中略)・・・ そのうちに神様から身上のお手入れになって、今日か明日か分からぬ、抜き差しのならん日が来る。その時自分は最早この世を外にして、死んで行かねばならぬと思うた時、初めて死と対面するのであります。その時になって、死んだと思えばという心が出てきます。その心になれば、今まで取る気にならなかった欲心を何とかして取って、たすかろうという気持ちになるのであります。故に人間は生死の巌頭に立って初めて、いかなる決心もできるのであります。だから死は、人間の心を最も美しくするものであります。

 それで人間は、日々にこの死が自分の近いところにあると云う心になっていたならば、いつも心がゆるむことがありません。従って自分の心が日々向上して行くのでありますから、人間はその死を怖れると共に、その死に飛び込むだけの覚悟をしておかねばならぬのであります。人間がわがままな心や勝手な心を出して、真実の理を守らんと云うのは、死が人間の側にあるということを忘れるからであります。人間が真実の心を失うならば、すぐ死が現れてくるものであることを自覚していたなら、不真実な心遣いはできないのであります。・・・」。
( 『増野鼓雪全集』15巻 302~305頁 参照 )
 死と決心(二)
 これを良く分かる事柄について申しましたら、神様の御話を聞いて、慾の心持って通ると云うのは、大変間違った心使いである事が分かって居ても、どうしてもそれを取る気になれない。こゝで、一寸云うて置かねばならぬことは、この事は悪い事だと知る事と、悪い事だから止めると云う心持ちになるのとは、非常な相違があると云う事であります。それで慾が悪いと分かっては居るが、それを止めると云う心持ちになれない。その中に神様から身上の御手入になって今日か明日か分からぬ、抜き差しのならん日が来る。その時自分は最早この世を外にして、死んで行かねばならぬと思うた時、始めて死と相面するのであります。その時になって死んだと思へばと云う心が出て来ます。その心になれば今迄取る気にならなかった、慾心を何とかして取って、助かろう云う気持ちなるのであります。故に人間は生死の巌頭に立って、始めて如何なる決心もできるのであります。だから死は人間の心を最も美しくするものであります。

 それで人間は日々にこの死が、自分の近い所になると云う心になっていたならば、いつも心がゆるむことがありません。従って自分の心が、日々向上して行くのでありますから、人間はその死を怖れると共に、その死に飛び込むだけの覚悟をして置かなければならぬのであります。人間が我儘な心や勝手な心を出して、真実の理を守らんと云うのは、死が人間の側にあると云う事を忘れるからであります。人間が真実の心を失うならば、直ぐ死が現れて来るものである事を自覚して居たならば、不真実な心使いはできないのであります。

 其所で教祖はその理を教えて、人が真実の心で日々を通る様に、「何時向いに出るやら」と仰せられたのであります。神が迎えに来ると云うのは、即ちこの世から神様の御いでになる死の世界へ逃げ行く為に迎えに行くと云われるのであるから、死と云う事をいやな事でると思うて居る者は、日々真実の心を持って通らねばなりません。なぜなら神様がその人の、天から授かった寿命を全うせずして、早く神様が御連れになるのは、真実がないからであります。




(私論.私見)