なおこの理合いをわかり易く云へば、通るべき道は様々でありますが、その中で一番近い道は真実の道であります。一つの点か一つの点に至る最も近道は点と点の間をつなぐ直線であります。お道の教えはこの直線であります。ところがこの道を通りますには、二つ以上の心があっては通れません。それを神様も「心が八方に散って一つの理を失う」と仰せられています。人間が賢く立ち廻ろうとするのは、心が八方に散っているのであって、この道は、馬鹿や阿房と言われてても、又難儀や苦労が出て来ても、一つの道をわき見もせずに通って行くのでなければなりません。
先日新聞に寺内総理大臣が、自分は天理教徒の様に悪く云われたら云われる程、罵られたら罵られる程、強うなるのだと云う意味のことを言っていましたが、その大臣がどの程度まで天理教を知って居るかは疑問でありますが、兎に角、天理教は迫害されたら迫害されただけ、信仰が向上して強くなるのは事実であります。それに本教の生きた信仰があるのであります。
故に一度信仰をする以上は、理屈や道理に合うが、合うまいが、又笑われようが誹られようが、教祖の人格を目標として、神の言葉を信じ通らねばならぬのであります。その信仰は迷信だと云うかも知れない、無茶だと云うかも分からない。けれども、迷信でも無茶でも、飽くまでも信じるところに神と同化する道が開かれてくるのであります。
何故こうまで堅うなって信仰しなれければならなぬかと云いますと、これは理は詰めなければならぬのであるからであります。即ち一日一日信仰によって、天の理が働く様に、理を詰めて行くので、詰め切ったらそこに一つの理が現れて来るのであります。ところが多くの人々は、十のものなら九つまで詰めて来るのであるが、もう一つというところで力が抜けてしまうのであります。そのために九分まで詰めた理が一度に崩れてしまうて、「千仭の功を一簣に欠く」というようなことになるのであります。そこで、この九つの節を通り抜けるには丁度算盤の同じことで、一から九つまで詰めて、後一つ加えた、一桁上へ上がることでができるのであります。こゝに助かる理があります。十分という理が働くのであります。神様の力を見せて頂けるのであります。故にどうしても、信仰を強くして行かねば、この助かる道を見出すことができないのであります。
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