信仰の向上(一) |
宗教と云うものは、形の上からどうせよかうせよと、やかましく云う様なことでは、本当のものではありません。黙っていて、それができて来るの本当であります。世の中のこともそうであって、皆な目に見えぬ処からできて来ているのであります。人間もその通りで、元はなにもない処からできて来たのであります。影も形もないところから、ものができてくると云うことは、これは学者に解らないことであります。今こゝにある土瓶にしましても、始めは影も形もなかったのですが、人の心の中にこれがあったのであります。ですからお道は、できたことをどうこう云うものはありません。できない前のことを見るのであって神様はこの道を心一つの道を仰せられています。
人間が仲よく暮す程、神様の思召しに叶ったことはありません。神様の一番お嫌いなことは、仲悪くいがみ合うことであります。私らにしても、家へ帰って、子供が仲よく遊んで居る程、嬉しいことはありません。今日も機嫌よく遊んだと云うことは、真の親孝行であります。甘いものを持って行くと云うことが孝行ではありません。皆が楽しく暮らして行くと云うことが、神様の思召しに叶うのであります。だから教会へ来て勇んで居ても、我が家の閾(しきい)を跨いで苦い顔をしているようでは本当の信仰ではありません。教会で気が晴れ/\したら家でも矢張りその通りではなくてはなりません。神一条の世界を現はすと云うことは、凡ての人が仲よくすると云うことにあるのであります。地場へ帰る時など、荷物一つ持って盗まれはせぬかと心に掛ります。それが道の人と一緒だったら気を許せます。こゝに道の尊さがあるのであります。凡ての人がこの心持ちで行けば世界は治まると思います。
|
信仰の向上(二) |
人のことを聞いてそれを気にしているより、仲良く暮した方がいくら良いか判りません。疑いや誤解と云うこと程、怖ろしいことはありません。誤解からは色々な間違いができるのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びができるのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びが湧いて出るのが、神一条の道、神一条の世界であります。神一条の道から云へば、凡てが一つになるのであります。例へば一つの島にしても、海をへだてて見える処から云へば、離れていますが、海底から云へば一つの大地に連なっているのであります。一度神の世界へ入ると凡てが同じであります。自分も他人も同じ生命に根ざしているのであります。その心持で、総ての人々に対して、真に同情心に湧かねば本当にお助けはできません。あの人は因縁の悪い人だと思うのでは駄目であります。人の苦しみが、そのまゝ己の苦しみになって、苦しみの感情が己から湧く様になれば、人は幾らでも助かって行くのであります。
一体教会などは、本当のお道から云へば、なくても良いのであります。教会や教師は世界が許さないので、世界への道として許されたのであります。教導職が人を助けるのではありません。誠の心で助かるのであります。話をしても蓄音機の様な話では何にもなりません。本当を云へば話などしなくてもよいのであります。私が教会を持っていました当時、教会の青年が大熱で苦しんでいましたので、私は「馬鹿」と怒鳴ったのです。するとスット熱が下がったのであります。これは何故助かったのか、その時は判りませんでしたが、後で聞くと馬鹿と言われた時に、しまったと思った。そしてそれから熱が下がって助かったと云って居りました。
お道の尊さは人を助けることにあるのであります。人間は命よりも大切なものではありません。早く極楽へ行きたいと云っていても、さて殺すと言はれると、一寸待って貰いたいとなるのであります。この間もある英国人の話に、英国も天理教の教理に似た宗教はあるが、お助けだけはどうも判らぬ、お助けだけは天理教の布教によるより外はないっと云っていました。船場から英国に布教に行った赤木さんが、日本へ帰った時に、くしゃみが出て止まりません。どんな医者に掛かっても駄目だったのです。その時父が行って役員を集めてひどく叱ったらスット治ったと云うことですが、病人に一口も話をせずに、医者にも判らん病気が治ったのであります。こゝが天理教の価値のあるところであります。今後もお道は助け一条で、発展するより道はないのであります。基督や釈迦にも奇蹟あったが、他の人にはこれができなかったが、天理教ではそれができるのであります。早く云へばこれは天理教の専売特許であります。
|
信仰の向上(三) |
ですからお助けをするものは、皆な霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は「汚れた所へは行かん」と仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。清くして置けば入り易いのです。神様に入り込んで頂いたら、浮かぶことが皆な助かる理になるのであります。「助けにやならんと云うことは、助からねばならん」と云うことになります。この人だけを助けねばならんと云う理屈はありません。この人が死んだら、教会の工合が悪いなどと云う、そんな助け方は何もなりません。この人と特別に定めて助けねばならん人はない筈であります。神様に入り込んで頂いたら、知らぬ間に人が助かるのであります。
「浮ぶ理が天の理である」と神様は仰せられています。善悪何れにしても、浮かんで来たものが本当のものであります。それにこの人だけと一生懸命になるのは、理があるには相違ありませが、その裏には善くない考えがあります。私の部下の教会の人で、この人はこう/\云う偉い人であるから、是非助けて頂きたいと云って、願いに来ることがありますが、神様にお願いするのに、何歳の男、何歳の女の外は何も云うことは要らないのであります。それに余計なことを言って、俺の心を曇らすのかと言って、叱り付けたこともありますが、私もやっぱり人間でありますから、大臣や知事やと云うと、その位について考えるのであります。しかしこれは、位を助けなければならぬのでなく、助けねばならぬのは、その人の心であります。その人が、地位などに拘束されない様になったら、皆な助かって行くのであります。要するに人間は心さへ助かれば、それで総べて助かるのであります。無論神の心と私らの心とは、大分に離れては居りますが、人間の心が澄み切りさへすれば、神の心がうつる様になって来るのであります。
前にこんな話がありました。私が汽車に乗って話をしていると、その話を側で聞いていた人が、私らのしている話によってその人が助かったと云って禮に来たことがあります。今でも私が話をしているのを聴いた皆様が、そうだなあと思われたら、それで助かるのであります。こちらで助けたいと思はなくても助けることになるのであります。私の処へ禮に来られる人に、どんな話を聞いて助かったのかと尋ねると、これこれの話を聞いたと云はれます。何も私に神様が入り込んで居られる訳ではないが、そうなって来るのであります。話には別に変わりはないが、そこに神様が入り込んで下るのであります。神様に働いて貰へる様な、神様が働かれる様な、話をする様にならなければなりません。ですから今後の本教は、本当の誠の心からでないと、通ることができないのであります。
|