増野鼓雪教理考その3

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「増野鼓雪教理考その3」をものしておく。「増野鼓雪と天啓」その他参照。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪教理3-1、学者の盲目】
 「学者の盲目」と題して次のように述べている。
 学問と云うのは昔と今、多少その意味が変わって居るのであります。昔は文字を学ぶというのが学問である様に思われて居たのでありますが、今日では学問は科学と云う意味になって居るのであります。その学問を御教祖は如何に見て居られたかと云うに、教祖は「学問と云うものは見えたる事、即ち事実に現れた事より分からん」と仰せられて居るのであります。

 この教祖の学問観を今日の科学について考へましても、これは実にその通りなのであります。今日の科学と云うのは、事実を集めるのであります。例へば木ならば世界のあらゆる木を集めるのであります。そしてその集めた木、即ち事実を分類するのであります。分類と云うのは似た物は似た物ばかり分けて行くのであります。そしてその次にはその分類した物から、共通した点を見出して、その原理を探して行くのであります。故に学問と云うものは、常に事実があって、それからできて来るのであります。

 例へばこれを宗教学について申しますると、世界には仏教だとか、基督教だとか、沢山の宗教があるのであります。その宗教を分類し、比較研究して行きましたら、何れの宗教にも信仰の目標とするところのものがある。或る宗教ではそれを神と云い、他の宗教では仏とも天帝とも云われて居るが、その内容は神と同じ事でありますから、宗教には必ず神があると云う事実があって、そして後に宗教学と云うものが起こって来るのであります。これは病気があって醫学ができ、法律があって法理学が起こるように、何れの学問も皆な同じことであります。

 然るに神様の教えと云うのは、凡てその事実が未だ現れて来ない間に、説いてをかれるのであります。そしてその日が来たなら、その事実が現れて来るのであります。例へば道を通らぬ者は、後に足を病むと云うてをく。これは道を歩かずに田や溝の中を歩くから、歩き悪くなって足を悩むのは当然であります。けれども世界ではその理が分からんから、病気になったと云うて始めて驚くのであります。それから醫者が必要となって来るのであります。かように神樣は事実に先だって理を説かれるのでありますから、見えてない事を説かれるのであります。それで学問では見えた事、もしくは現われた事は分かるが、見えぬ現れぬ事は分かるまい。それだけに「
学問は人生には価値の少ない事」と仰せられたのであります。

【増野鼓雪教理3-2、真実を需(もと)めよ】
 「真実を需(もと)めよ」と題して次のように述べている。
 真実を需(もと)めよ(一)
 神樣が「神に凭れる子供」というて居られるには、いう迄もなくこの道を信仰して居る者を指さして居られるのでありますが、その子供に「早く表へ出る模様せよ」と仰せられて居るのであります。その表というのはどういう所であるかと申しますと、それは世界の事を指さして居るのであります。即ち早くこの道を世界へ広める為に、布教に出る様にせよという事を、その模様せよというて居られるのであります。

 然し布教と出て行くというても、何もなしに行くという事はできません。例へば人に物を恵みに行こうと思へば、自分に金があるかないかを調べなければなりません。人に恵むという事をは良い事でありますからというて、自分に金銭なしに恵む訳には行かないと同じ様に、布教するにも基となるところのものを持って行かなければ布教はできないのであります。そこで早く外へ出て布教したいと思うならば、それに先だって助けの土台となるところの、真実の心が自分にあるかないかと云う事を、よく心静めて思案して見て、それがあれば出て行けと仰せになって居るのであります。

 従って我々御道の者は何よりも、自分の心の真実を尋ね出さねばなりません。ところがこの真実と云うものは、中々容易に出て来るものではありません。苦労に苦労をして我が心が苦しんだ後でなければ、現れて来ないのであります。これを例えて申しましたら、如なる人の住んで居る所でも、その足許を掘って行ったならば、必ずその大地から水が湧き出る様に、人間の心もその奥深くへ掘り下げて行ったら、必ず真実が湧いて来るのであります。然しその井戸を掘るという苦しみを、多くの人がしない為に、心から真実の理が湧いて来ないのであります。心の奥から真実の理が湧かない人は、仕方がないから人の井戸から貰い水をするか、池から持って来るかしなければなりません。けれどもこうした溜め水は、日がたつに従ってなくなって行く道理であります。然し水の湧く井戸があったら、その水によって、人の心も洗う事もできれば、又自分の心も洗う事ができて、しかも常に新しい水を使う事ができるのであります。故にどうしても人に教えを説く者は、先ず自分の心を掘り下げて、水の湧く所まで心の苦しみをしておかなければならぬのであります。

 然し、井戸を掘るというても、その人の因縁によって、僅か二三間掘って水の湧く人もあれば、大きい岩があって、それを打ち抜かねば出て来ぬ人もあります。然し兎に角掘って行けば出て来るのであります。普通の井戸よりも深い掘抜井戸であれば、掘る苦労は容易ではありませんが、そのかわり堀り抜けたら、吹きあがって水が出て来ます。教祖の如きは即ちこの堀抜井戸の如きもので、心から真実の理が叢がり湧いて来たのであります。 
 真実を需(もと)めよ(二)
 かように心から真実の理が湧く様になれば、人の助かる道が自然に分かって来るのであります。丁度清水で物を洗えば綺麗になる様に、その人の話しを聞けば、自然心が洗えて助かって行くのであります。故に何はさてをいても、自分の心の真実を見出さねばなりません。

 それには我々は自分の眼を、自分の内の方へ向けねばなりません。「眼は月日の理を表しているので、心の働きは皆な眼に表れて来る」のであります。即ち眼は物を見るとともに、心の理を現すのであります。剣術の進んだ者が互に眼を見合うというのは、心の働きが第一眼に現れるからであります。故にその眼を内に向けて、我が心に如何なる思いが湧くか、如何なる考えが出るかと、日常に心を見つめて居なければならん。そして悪いところは捨てて、真実の心を探し出して行かねばなりません。こうして我が真実を見出したならば、他人の心にある真実も、見出す事ができるのであります。何故なら我が心一尺掘った者には、人の心を一尺掘る事ができ、我が心を見て居る者は、人の心が見えて来るからであります。故にお道では我が心を見分けて、人の心が見分けられる様になったら、先ず一人前と云うのであります。

 何故なら人の心が見分けがつくから人に理が説けるのであります。教理のみで見分けがつかなんだら人を助ける事ができない。心が澄んで居れば心の理が映って来るから、人の家人の身に現れた理の結ぼれが解けるのであります。故に教理は此方になくて先方にある。此方のその理を映す、澄んだ心の鏡を持って居ればよいのであります。故に真を尋ねると云う事は、他の言葉で云えば、我が心を磨くと云う事であります。心を磨くのは物をつけるのではなくへらす事であります。へらして行けば光が出て来るので、即ち心に光が添うのであります。心に光が出れば、人が見顧(かえりみ)るから、それを教祖は「後光」と仰せになったのであります。

 兎に角かようにして心の真実を捜しておけば、その理が働いて人が助かるのであります。理が働くとは人の心に、その言が生涯ついて廻るので、それは五分板へ一寸の釘を打ち込んだ様なものであります。又その真実から湧く理は、天の理でありますから、聞き手もそれを聞けば話す者もその理を聞くので、即ちそれは話す人と聞く人との心が、打ち合うて現れて来る、その時の理となるであります。故にどうしてもこの真の理を尋ねて、それから布教に出なければならぬのであります。

【増野鼓雪教理3-3、心の雑草】
 「心の雑草よ」と題して次のように述べている。
 凡そ人間には何れもその人として、通らなければならぬ道があるのであります。即ちそれは「真の道」であります。ところが多くの人は、その真の道を通らない為に、その道に草が生えて居るのであります。草が生えてしまったならば、道が道としての用をなさない様に、人間は人間としての価値を失うてしまうものでありますから、真の道を通って、その心に草が生えないように、しなければならぬのであります。

 さればその草というものは、何であるかと申しますると、それは日々に人間が使うところから生じる、小さい埃であります。小さい埃でも日が重なれば沢山できる様に、道の草も大木の様に道の邪魔をするというのでありませんが、それが為に道を失はす事は事実でありますから、道を失うところまで草を生えさゝない様に、日々気をつけて行かねばなりません。

 ところがこうした草の生える道というのは、未だ新しい道であるか、人通りの少ない道であって、人々の多く通る都会の道には、草などが生えるものではありません。是は道路の造り方が違うからでありまして、人間も難儀や苦労を通って、道を踏み堅めたならば、少々の事では草が生えなくなるのであります。故に暫く捨ててをいたら、草の生える様な道を通っていたりせずに、少しも早く都会の様な道を通る様な者にならなければならんのであります。

 そこでそうした都会の様な、立派な道を「本道」と仰せられたので、細い田舎の道を通って居る間は、伴が少ないから、従って淋しい思いをしなければならぬが、大きい本道にならば、多くの人と共に手を連いで通れるから、自然心が陽気なって来るのであります。故にこうした「大きい道をつける様に心懸けよ」と云われたのであります。
(私論.私見)
 ここでいう「都会の様な立派な道を本道」、「細い田舎の道を細道」なる論は分かりやすいが、教祖の論ではない。教祖は都会を立派、田舎をみすぼらしいという見立てをしないからである。もう少しましな且つ分かりやすい例えが必要である。
 尚この事を例に就いて申しましたら、単独で布教に出て、知らぬ土地で働きかけた細道であって、その細道を通って居る間には、時には心を倒したり先を案じたりする心が出て、何となく心淋しく感ずるものである。そう云う時が心に草が生えて来る時であって、中にはその草の為道を失って、世界に落ちて行く人もないではないのであります。ところがその間を辛抱して通って行ったならば、其所此所から道を通る人が出て来て、始めは一人であったのに、後にはその心次第によって、何千何百と云う人を連れて通れる様になる。是が即ち本道に出たので、その本道にさへ出たらば、心は少しも寂しくなく、却って多くの人と共に陽気に暮らして行ける様になるのであります。そして更にその人々が力を入れて、何事もしてくれる様になるから、末楽しみとなるのであります。

【増野鼓雪教理3-4、澄心の理】
 「澄心の理」と題して次のように述べている。
 神様が人間を始めて御造りになった時は、この世は泥海であった。ところが人間が三尺迄成人した時に、天地が分かれたのであります。それから次第に成長して知恵の仕込みも受け、学問の仕込みも受けて来たのであります。ところが「学問の仕込みには三千年」と仰せになりました。これを事実の上から見ましても、世界の最も古い国であるエジプトの開けたのは、四千年程でありまして、文字の記録のあるのは三千年以後であります。かように人間は神様から、時に応じ旬に従って、種々御育て頂いたのでありますが、これは丁度人間がこの世に生まれて通る道筋と同じであります。

 人間がこの世に生まれた時は、皆な明らかな眼を持って居りましても、何事の見分けもつかないので、それは丁度もやの中に人間が住んで居たのと同じであります。それから少し成人して、物の見分けがつき始めると、第一に分かるのは両親であります。これは人間が三尺まで成人した時、天地が分かれて、重い物は沈んで地となり、軽い澄んだ物は天となって分かれたのと同じであります。それから子供はだん/\と様々な事を覚えて行くので、それは神様が「知恵の仕込み」をせられたのと同じであります。そしてそれから「学問の仕込み」をせられた様に七、八歳なったら学校へ行って、「文字の仕込み」を受ける様になるのであります。かように元々の理も今の人間の理も、同じ道を通って行くのであります。

 更にこれを御道の上から考えましても、この道へ始めて信仰して這入った時は、丁度子供が生れた時と同じでありまして、何が何やら分からんのであります。これを例えましたら、明るい所から活動写真の小屋に這入った時の様であります。真っ暗で何も分かりませんから、案内者に手を引いて貰はなければ少しも歩けませんが、席について暫くすると、自然に眼が慣れて周囲の有様が分かって来るのであります。すると、始め手を引いて貰はなければ歩けなかったのが、我ながら馬鹿らしく思へて来るものであります。それも同じで始めの間は、物事がよく分かりませんが、道に這入って年限を通って居ると、自然に天の理が分かる様になるのであります。それは子供が成人して見分けがついて来るのと同じで、心が澄んで来ると理が映るのであります。

 かように凡ての事が映って来るには、心を静めて澄さねばならんのであります。何故なら濁った水には、物が映らぬからであります。澄んだ水なら底まで見えるから、物が映るのであります。又いくら澄んでも波が立って居ては、心が左様になったら必ず鮮やかに、理は映って来るのであります。

 近頃徹底という言葉が流行致しますが、この言葉は禅宗の言葉でありまして、即ち心を澄まして底まで見えるという意味で、お道でいへば「理が映る」ようになったのをいうのであります。それは恰も鏡の曇りを取ったのと同じでありまして、何事も映るから、その前へ来た者は、別段改まって教理を説かなくとも、相手がその鏡に映る自分の見悪い姿に恥じて、姿を改める様に自然に我が心を改めて行くのであります。これは土地所々の雛形といわれるのであります。故にこうした悟りを開いた人が、一人でも出たならばその周囲の人は自然に助けられて居るのであります。それを西洋の人は哲人が現われて悲劇がないというて居るのであります。されば道を信仰する以上、此所まで成人させて頂かねばならぬのでありまして、年限長らく通っても、この心の成人がなかったら、何の役にも立たんのであります。故に神様に仕込みを受けて、理が映る様、理が働く様、神様の仰せられた「寝て走る」事のできる様にさせて貰はなければならぬのであります。

【増野鼓雪教理3-5、肥の授け】
 「肥の授け」と題して次のように述べている。
 肥一条というのは、いう迄もなく肥の事であります。教祖在世中に、「肥の授け」というのを御渡しになりました。それは「灰三合土三合糠三合、これを合わせて肥の御授けを頂かれた方が祈願して、田に置かれたならば、肥一駄のきゝ目がある」と仰せられたのであります。そこでその肥の授けも、人によって半肥の授けというて、半分よりきゝ目がないのと、丸肥といって、一駄のきゝ目のあるのと相違があったのであります。又本部に於いては、毎年肥の勤めというのを行れる。これは糠土灰三升宛をふごに入れて、甘露台の上に置き、肥の勤めをして、本部所有の田に置かれるのであります。

 以上の如く肥の授けもしくは肥の勤めをせられて、肥料を置かずに充分の収穫を得るのでありますが、これは道理から考へたならば、不思議な事といわねばならぬのであります。然しこれは神樣の特別の守護によって、できるのでありまして、それは要するに人間の心が、真実であるや否やによって定まって来るのであります。故に或る方は半肥であり、或る方は丸肥である授けの理を頂いておられるのであります。

 このようにこゑというのを肥料という意味に取るのと、今一つの解釈は、人間の声という意味に取るのとあるのであります。何故ならば人間の心を養うものは、人間の声であるから、これを心の肥料と見るのであります。すれば如何なる人間の声も、凡てその肥たり得るかといへば、そうは行かぬのであります。何故なら人間の心を生かし養うものは、真実であるから、真実から出た声でなければ、人の心を生かすだけの力がないのであります。

 御本席に神懸りあって、刻限なり差図なりを仰せられる時には、その音声が日常の御本席と違って、厳然たるものであったという事であります。これは私の実験から申しましても、自分の心に何らの影も差していない、清々した時に使う声と、心が苦しみや悶えのある時に出て来る声とは、非常に相違があるやうであります。故に心が清浄になったら、単に声ばかりではなく、その肉体なり眼光なりが、変わって来るのは当然であろうと思うのであります。その真実の心から出た声が、人の心の奥深くに伝わって、その人の心を生かし養うて行くのであります。それ故にこゑの授けという様に解釈せられてもいるのであります。然し教祖の仰せられたのはやはり、前の肥の方であるように思うのであります。

 或る方が教祖から肥の授けを頂かれて、自分の田で肥の授けをして、ためされた話があります。それは一つの田は肥の授けをして、肥を少しも置かずに捨て置かれ、他の田は例年の様に肥を置かれたのであります。ところが、肥を置いた方の田は日に日に成長して行くが、肥の授けをせられた方の田は成長が甚だ鈍い。それで肥の授けも、あまり利目のないものだと思うておられたのであります。ところが夏になると、旱天で雨が中々降らない。その結果田は一面に枯れて来たのであります。それでその秋になって収穫は、何の田も思う様になかったのであります。然るに肥の授けをせられた田のみは、旱天の影響をあまり受けないで、他の田に比して、多くの収穫があったというのであります。これ等は皆な神樣が、真実の心に陰から守護をしておられるからであります。故に「真実の心の見定めが付いたら神が守護する」と仰せられたのであります。

【増野鼓雪教理3-6、子供の出世】
 「子供の出世」と題して次のように述べている。
 人間は皆な神樣に造られたのでありますから、神様の眼からは一列皆な神の子であるのはいう迄もありません。けれども「子供の出世」と仰せられたのは、その意味の神の子というのではなく、この世建て替への為天下られた時から、生まれて来た神の子の事であります。

 それはどういう訳かと云えば、神様が神懸りあって、元始めてこの世を造った時と同じ方法によって、世の立て替えを始められるのでありますから、やはりこのお地場に於いて、内造りのできた真の人間をお生みになるのであります。九度の別席を運んで、御授けを頂くのは、即ち人間が母親の体内で十ヶ月通る理を通るのでありまして、授訓の時三名の人が立合われるのは産屋三神の理を示しておられるのであります。そして授訓を頂いた人が、真の人間として、この世へ出られるのであります。子供の出世待ち兼ねるとは、この子供の成人をいうのでありまして、即ち授訓を頂いた人が真実の心を太らして行き、真の心を以て、自由に神樣と交りのできるようになるのを仰せられたのであります。そしてその成人の結果は、どうなるかと申しましたら、「子供を表へ出したら、唐を日本の地にするなり」と仰せられて、世界を日本化すると仰せられるのであります。

 年限から申しましたら、最早七十五年の年限が過ぎておるのでありますから、外国へもっと道がついてなければならぬのでありますが、神様の仰せられたより、道が後れておるのであります。外国へ道がついたらどうして唐が日本の地になるか、その道筋は今日のところでは分かりませんが、台湾や朝鮮が日本の地になったところから考えましたら、何れその日が来る事は確かな事だと思わねばならぬのであります。

 そこで道が外国へつくのには、元始め人間の食物を求めて外国へ行った様に、お道の人も追々外国へ行かねばならんのでありますが、それには少し成人しなければならぬのであります。神様が病気を与へたり、事情をお与え下さるのは要するに神樣が早く人間を仕込みあげて外国即ち表へ出したいからであります。「世界へ道がついて来たら、地場は奈良初瀬七里の間が宿屋となって、大阪が世界から地場に帰る玄関になる」とも仰せになってをかれました。故にお道の人は、お地場に於いて生みおろして頂いた事を、深く心に銘して、その真実の心を日々太らして行く様に勤めねばならぬのであります。その間には御道としても、個人としても通り悪い様な道が出て来るかも知れませんが、それは神樣が御心を尽くして下さるのだと思って、堪へ進んで行かねばなりません。

【増野鼓雪教理3-7、人間創造の屋敷
 「人間創造の屋敷」と題して次のように述べている。
 屋敷とはいうまでもなく、元の中山家の屋敷であって、神樣の仰せによればこの世が未だ泥海世界であった時に、月日両神が現れて、道具衆を集め、人間を御造りなされたのであります。ところがその中で伊邪那美命が、どうしても神様の仰せに従はれぬ。そこで月日から、子数の年限即ち九億九万九千九百九十九年たったら元の屋敷へ伴れ帰りて、神として敬はすという事をいい聞かせ、それで得心させ、人間を御始め下されたのであります。その時人間を宿し込まれた所が、今の地場のある所であります。それから三年三月そこに止まって後、日本国中へ七十五日の間に人間を生みおろして下されたのであります。

 そこで天保9年に教祖に天啓があったというのは、教祖は伊邪那美命の魂を持って生まれておられたので、この方が御地場へ帰って神となられるのは、即ちこの世始まった時から定まっている因縁なのであります。それが前川家に生れられたのは、伊邪那岐命とこの世を始めた時の様に、御地場に集めなさらなければならぬところからでありました。

 教祖が僅か十歳前後の御身で、尼法師たらんと希望されたのは、要するにこの美様の魂の因縁によるものであります。近頃の人は教祖が幼少の時から、身体が弱かったから、厭世思想に囚われたのだろうか、母御が浄土宗の熱心な信者であったから教祖もその感化を受けて尼法師になろうと、発願せられたのだろうかというておりますが、実は魂の因縁に然らしむるところなのであります。即ち美様が人間を始めて御生みになった時の苦しみが、忘れるに忘れられなんだので、その後は幾度も生れ変わりの道を通られたが、何時も独り暮しであったのであります。ところがこの世の始めの時、月日の諭しを受けられた様に、教祖は両親の諭しによって、未だ13歳のうち若い御年で中山家に縁付いて来られたので、即ちこれは月日の約束を果たされたのであります。

 それから教祖は、様々な道を通って来られたのでありますが、殊に31歳の時、隣家の子供を助ける為に、自分の子二人迄の寿命を差し上げ、尚願い満ちたる上は我が身の寿命も差し上げると、誓われたのであります。これは普通の道徳から考えたら随分と論議の余地があるのであります。何故なら教祖の御二人の子供は、教祖の夫善兵衞様の間にできた子であるから、教祖一人が自由にする事は甚だ勝手過ぎた事である。又教祖自身も、妻たる身でありながら、夫の許しを得ずに、我が身の寿命を神に差し上げられるというのは、甚だ当を得ない行為であると、いわれる点があるからであります。

 しかし是はそうした普通の道徳を以て律すべきものではありません。何故なら神樣が天下られる年限が近づいて来るから、神様は非常に急き込みになっていたのであります。ところが神懸りという様な事は、普通の状態では現れるものではなく、非常な力を持った誠にならなければならぬものでありました。それで教祖が熱狂的な真実に這入って行かれたので、これ即ち因縁がしからしめたのであります。教祖の真実が進んで来たから、そこで神懸りという事実が現れて来たのであります。そこで地場と年限と教祖が揃うたのであります。従って如何なる人間にとって教祖は元の親であり、地場は元の親里となる事が明らかにされたのであります。

 従って世界の人間は、皆この地場の土を踏ますと、教祖は仰せになったのであります。殊にこの道に早くついたものは、それだけ教祖と深い因縁を持っているのであります。その中でもこの地場に暮らす人々は、更に深い因縁があるのであります。それを教祖は「五代以前から世話になった者を集めて、神が恩返しをするのや」と仰せになった。信仰の浅い人はこの理が分からんから、地場にいる人は皆な神様の様な心の澄んだ人ばかりおると思うが、それは間違いであります。即ち教祖の因縁から、屋敷へ引き寄せられているだけで、その中には心の清い人もあれば、汚い人もあるのであります。故に理を信じて人を信ぜぬ様にして行かねばなりません。

【増野鼓雪教理3-8、理と心定め
 「理と心定め」と題して次のように述べている。
 理と心定め(一)
 我々が御道を研究するとか、勉強するとかいうのは、沢山の教理を聞くという事ではありません。それは私らを鍍金(ときん、メッキ)をしてくれるのみで、それによって自分が変わるというのではありません。従ってお道の勉強は外からされるのではなく、自己自身の内から悟って行かなければならぬものであります。私が未だお道をやりかけた始めに、如何にしても道というものが分からない。それで或る時父に、道の理は如何したら分かるのかと尋ねました。それに対して父は、心の理と身に現れる理とをよく考へたら、世界の事が凡て分かると聞かしてくれました。私はその言葉に従って、我が心に現れて来る理と、我が身に現れて来る理とを考えました結果、お道が次第に分かるようになって来ました。故にお道ではこの二つの理を、深く考えて行かねばならぬのであります。即ち自分がこういう心を使ったら、こういう事が身上に現れた、ああいう心を出したら、ああいう事が身に現れて来たと、幾度もためして悟って行かなければならぬのであります。それが容易にできるようなって来たならば、今度は身上に現れたところから、逆にその心が直ちに分かるようになるのであります。これがお道ではいう「諭しの理」となるのでありまして、この身上から心が見える様にならなければ、諭しの理を十分徹底さす事はできないのであります。

 或る時私が布教者から、或る病人の諭しを尋ねられたので、その理を教へてやった。ところが先方へ行って尋ねたが、どうしてもそんな事はないというて聞かない、それで布教者は私の諭しに間違いはないのかと反問して来たから、私は重ねてその理を説いて先方へ教えてやった。ところがどう考えても、そんな事はしないというて聞かない。それで終に私が本人を呼んで話したところが、それならばこういう事がありましたと、直ぐ答えたのであります。これなど要するに、布教者は聞いたのみで、その理が見ていないから、押してそれを尋ねる事ができないからで、もし見えていたら、直ちに得心させられるのであります。

 これと反対に理だけ聞かして貰うても分からぬ事があります。私は先年胃病で苦しみましたが、何か不足の理があるのだろうといわれた。私は色々考えて見ましたが、別段不足に思うている様な事がない。それで分からずに日を過ごしていました。ところが或る時自分に不足がなければ、自分は喜んでいなければならぬ筈である。然るに自分は喜んでいない。すると何が不足がなければならぬと考へた末、この世が愉快でないのだから、この世を不足にしている。この世を不足にするのは、即ち神様を不足にしているのだという事が分かって、お助けを頂いた事があります。
 理と心定め(二) 
 その様に説くにしても聞くにしても、単なる諭しだけでは足らぬので、その理が説く者の胸に分かっていなければならぬのであります。それが分かるには、前に申した心の理から、身に現れる理を考えるのであります。それからその次には、我が心に現れる理と、自分の周囲に現れて来る理を考へるのであります。 例えば今日こういう事を聞いた。すればそれには何か心の理があるだろうとその心の理を探るのであります。また勢いよく立ったところが頭を打った。すればその時自分の心には何かあったかと、見る事聞く事と、我が心の理との間に、連なっている理を悟るのであります。それが分かれば分かる程、理が治まって来るというのであります。それが即ち心が定まった来るいうのでありまして、理が分かって定まった心でなければ、何の価値もないのであります。

 何故なら人間自ら勉めて定めた心や、考えて定めた心は、その場だけであって、日がたつと知らぬ間に、崩れているのであります。例へば朝起きの話を聞いて、すぐその心を定めても二、三日すると、何時か知らぬ間に、朝寝坊をしている様なものであります。故に定めた心は壊れやすいが、定まった心は強いのであって、その定まる心は、理を悟ってからでなければ出て来ないのであります。さればこれを更に他の言葉でいへば理が分かっただけ、それだけ心が定まっているという事になるのであります。


 然らば心を定めて如何するのであるかというと、それは神様に凭れる為であります。神様に凭れるというのは、柱に凭れるとか椅子に凭れるとかいうように凭れるのであって、それだけ我が身が楽になるのであります。故に神様に心が凭れしまったことなら、心が楽になって来るのであります。故に神様は「神に凭れて助かれ」と仰せされるのであります。

 ところが神樣に凭れるという事は、助かるのであるから、誰でもできる様に思うのでありますが、それが中々できないのであります。何故なら人間は知識があったり、感情があったりして、神樣に凡てを任すという事は、頼りない様に思うてせないのであります。その為に助かるべき所を助からず、救われるべき所を難儀して、通っている人が沢山あります。これらも要するに、理が分からぬからであります。何故なら神様に凭れるというても、眼に見えん神樣の事であるから、神樣その者に凭れる事はできない。神樣の御働きである理に凭れるのを、神樣に凭れるというのでありますから、理が分からなければ凭れる事はできないのであります。従って理の分からん者は、神樣に凭れるいうても、それは本当にできない事であります。それ故神樣は、「我が身の上から思案をして理を知り、理によって心を定め、そして神に凭れよ」と仰せられているのであります。故にこの道に於いては、心の理と身上の理をよく悟って、理を心に定めて行く事が第一でありまして、これをやらなければ、真の助けも又助かる道も、分かって来ないのであります。

【増野鼓雪教理3-9、高山の説教
 「高山の説教」と題して次のように述べている。
 高山の説教(一)
 神様が「高山の説教」と仰せれたのは、高山に育った木といわれたのよりは、少し意味が狭いのであります。何故ならその当時説教をする者は、仏教の僧侶か神社の神官より外になかったから、当然それらの人々に限られて来るからであります。今日から考えましたら、僧侶や神官は必ずしも高山即ち上層に位する人々という訳にはまいりませんが、その頃即ち明治7年頃に於いては神官僧侶が非常に勢力があったのであります。そしてこの大和地方に於いては殊に説教等が流行したのであります。この話はもっと後の事であろうと思いますが、河内地方に於いては、仏教が天理教壊しの演説をすれば、天理教に於いてもそれに対して反対的の演説をやったものであります。然し只今と違って、演説の内容は実に幼稚なもので、例へば演壇の上へ仏像を持って来て叩いて見せるとか、或いは日輪というのはりんりんと照らされるから日輪であるとか、そんな話をしていたのであります。これに対して教祖は、「そんな事をするのやない」と仰せになったそうであります。

  然しそうした演説の仕合いなどは、まだまだ緩やか方で、時によれば双方喧嘩をする事があった。従って聴衆も演説を聞くというよりも、喧嘩が目的で、何れもまきざっぽうを持って、演説を聞きに行くという風であります。郡山の前会長であった平野さんは、演説はできなかったかわりに、喧嘩については恩智楢といわれた人だけあって、上手であったという事であります。かように双方から、演説の仕合をした時もあったのでありますが、それはずっと後のことで、始めはそこまで道も開けてなかったのであります。そこで「神官や僧侶の説くところと、教祖の教えられるところを聞いて、何れが真実であるかを思案せよ」と仰せられたのであります。然し高山の説教と、教祖の真実の話を聞いて、何れが正しかを思案するという事は、その当時に於いてのみ必要な事ではない。現在に於いても、我々は高山の説教を聞き、又この道の話を聞き、何れが真であるかという事を、考へねばならぬのであります。

 そこで高山の説教とは、どういうのであるかと申しますると、古い書物にはこう書いてあるとか、御祖師様はこう仰せられたとか、人間はこうせなければならぬとか、説いていたのであります。そのいうところに今日から考へましても、そう悪い事をいうていなかったろうと思われるのであります。ところがそこに一つ欠けているところがあるのであります。それはその説教する人が、その教えにつて何らの実証を握っていないという事であります。即ち自分がそれを実行せずして、好い事だから好いと、単に話しているに過ぎなかったのであります。

 これは今日の学者について、考えてみも同じ事であります。学者といっても無論この場合は、倫理学者をいうのでありますが、学者は必ずしも実行家ではないという申し訳の下に人々に説教しているのであります。従って学理的知識を、それによって与へられるけれども、決してそれは我々の心に、変化を起さす事はないのであります。 これは昔の神官や僧侶と同じで、実行から得て来ているところがないからであります。早くいえば、口先ばかりで教理を説いたり説教したりして、そこに何らの真実も見出すことができないのであります。

 然るに教祖の教えはそれと反対に、別段書物を読んだり人から聞かされたのでなく、自分自身が行うて、始めて教えられたのであります。「我が身にためしに掛りたる上」と仰せられて、如何なる事も、凡て自分が先ず行うて見せて、それができてから人に説かれたのであります。それを教祖は「如何程好い事をいうてもそれが行へなんだら何にもならん。それでは雛形手本とはいへん。それで行へるか行へぬか、我が身にためして、それから話すをするから、この道の事は行へん事は一つもいうていない」と、いう意味の事を仰せられたのであります。
 高山の説教(二)
 御教祖帰幽後、刻限の話もその通りで、差図は伺い人に直ぐ渡されるが、刻限は三年や屋敷に止めて置いて、それから部下へ流す事になっています。これはその三年間に、屋敷に於いて先ずそれを行って見て、それからその理を流すようにせられたのであります。そこで同じ話であっても、その裏に事実があるのと、ないのとは非常な違いであります。従って真のある話には真があって、言葉通りの理が現れて来ますが、真のない話はその場だけであって、理が働かぬから、真が現れて来ないのであります。例えばこの道では人が助かるといへば、その通り助かるが、世界の説教では助かるといういても、助からぬようなものであります。それが真と嘘との別れるところであります。

 尚この事は、話を聞きながら、我が心にどんな心が湧いて来るかを考えていたらば、真の話と嘘の話が好く分かるのであります。真の話なら真実の理が湧くし、嘘の話ならその他の心が湧いて来るのであります。故にその心をよく考へて、高山の説教話と、真実話と仰せられたこの道の話を聞き比べて、自ら判断して行かねばならぬのであります。

【増野鼓雪教理3-10、信仰の向上】
 「信仰の向上」と題して次のように述べている。
 信仰の向上(一)
 宗教と云うものは、形の上からどうせよかうせよと、やかましく云う様なことでは、本当のものではありません。黙っていて、それができて来るの本当であります。世の中のこともそうであって、皆な目に見えぬ処からできて来ているのであります。人間もその通りで、元はなにもない処からできて来たのであります。影も形もないところから、ものができてくると云うことは、これは学者に解らないことであります。今こゝにある土瓶にしましても、始めは影も形もなかったのですが、人の心の中にこれがあったのであります。ですからお道は、できたことをどうこう云うものはありません。できない前のことを見るのであって神様はこの道を心一つの道を仰せられています。

 人間が仲よく暮す程、神様の思召しに叶ったことはありません。神様の一番お嫌いなことは、仲悪くいがみ合うことであります。私らにしても、家へ帰って、子供が仲よく遊んで居る程、嬉しいことはありません。今日も機嫌よく遊んだと云うことは、真の親孝行であります。甘いものを持って行くと云うことが孝行ではありません。皆が楽しく暮らして行くと云うことが、神様の思召しに叶うのであります。だから教会へ来て勇んで居ても、我が家の閾(しきい)を跨いで苦い顔をしているようでは本当の信仰ではありません。教会で気が晴れ/\したら家でも矢張りその通りではなくてはなりません。神一条の世界を現はすと云うことは、凡ての人が仲よくすると云うことにあるのであります。地場へ帰る時など、荷物一つ持って盗まれはせぬかと心に掛ります。それが道の人と一緒だったら気を許せます。こゝに道の尊さがあるのであります。凡ての人がこの心持ちで行けば世界は治まると思います。
 信仰の向上(二)
 人のことを聞いてそれを気にしているより、仲良く暮した方がいくら良いか判りません。疑いや誤解と云うこと程、怖ろしいことはありません。誤解からは色々な間違いができるのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びができるのであります。それを取去った心が極楽であります。心の底から喜びが湧いて出るのが、神一条の道、神一条の世界であります。神一条の道から云へば、凡てが一つになるのであります。例へば一つの島にしても、海をへだてて見える処から云へば、離れていますが、海底から云へば一つの大地に連なっているのであります。一度神の世界へ入ると凡てが同じであります。自分も他人も同じ生命に根ざしているのであります。その心持で、総ての人々に対して、真に同情心に湧かねば本当にお助けはできません。あの人は因縁の悪い人だと思うのでは駄目であります。人の苦しみが、そのまゝ己の苦しみになって、苦しみの感情が己から湧く様になれば、人は幾らでも助かって行くのであります。

 一体教会などは、本当のお道から云へば、なくても良いのであります。教会や教師は世界が許さないので、世界への道として許されたのであります。教導職が人を助けるのではありません。誠の心で助かるのであります。話をしても蓄音機の様な話では何にもなりません。本当を云へば話などしなくてもよいのであります。私が教会を持っていました当時、教会の青年が大熱で苦しんでいましたので、私は「馬鹿」と怒鳴ったのです。するとスット熱が下がったのであります。これは何故助かったのか、その時は判りませんでしたが、後で聞くと馬鹿と言われた時に、しまったと思った。そしてそれから熱が下がって助かったと云って居りました。

 お道の尊さは人を助けることにあるのであります。人間は命よりも大切なものではありません。早く極楽へ行きたいと云っていても、さて殺すと言はれると、一寸待って貰いたいとなるのであります。この間もある英国人の話に、英国も天理教の教理に似た宗教はあるが、お助けだけはどうも判らぬ、お助けだけは天理教の布教によるより外はないっと云っていました。船場から英国に布教に行った赤木さんが、日本へ帰った時に、くしゃみが出て止まりません。どんな医者に掛かっても駄目だったのです。その時父が行って役員を集めてひどく叱ったらスット治ったと云うことですが、病人に一口も話をせずに、医者にも判らん病気が治ったのであります。こゝが天理教の価値のあるところであります。今後もお道は助け一条で、発展するより道はないのであります。基督や釈迦にも奇蹟あったが、他の人にはこれができなかったが、天理教ではそれができるのであります。早く云へばこれは天理教の専売特許であります。
 信仰の向上(三)
 ですからお助けをするものは、皆な霊救を得ることを考へなければならないのでありますが、霊救は誰でも受けたいが仲々そうは行きません。神様は「汚れた所へは行かん」と仰せられますが、人間でも汚い処へ泊るのは厭であります。清くして置けば入り易いのです。神様に入り込んで頂いたら、浮かぶことが皆な助かる理になるのであります。「助けにやならんと云うことは、助からねばならん」と云うことになります。この人だけを助けねばならんと云う理屈はありません。この人が死んだら、教会の工合が悪いなどと云う、そんな助け方は何もなりません。この人と特別に定めて助けねばならん人はない筈であります。神様に入り込んで頂いたら、知らぬ間に人が助かるのであります。

 浮ぶ理が天の理である」と神様は仰せられています。善悪何れにしても、浮かんで来たものが本当のものであります。それにこの人だけと一生懸命になるのは、理があるには相違ありませが、その裏には善くない考えがあります。私の部下の教会の人で、この人はこう/\云う偉い人であるから、是非助けて頂きたいと云って、願いに来ることがありますが、神様にお願いするのに、何歳の男、何歳の女の外は何も云うことは要らないのであります。それに余計なことを言って、俺の心を曇らすのかと言って、叱り付けたこともありますが、私もやっぱり人間でありますから、大臣や知事やと云うと、その位について考えるのであります。しかしこれは、位を助けなければならぬのでなく、助けねばならぬのは、その人の心であります。その人が、地位などに拘束されない様になったら、皆な助かって行くのであります。要するに人間は心さへ助かれば、それで総べて助かるのであります。無論神の心と私らの心とは、大分に離れては居りますが、人間の心が澄み切りさへすれば、神の心がうつる様になって来るのであります。

 前にこんな話がありました。私が汽車に乗って話をしていると、その話を側で聞いていた人が、私らのしている話によってその人が助かったと云って禮に来たことがあります。今でも私が話をしているのを聴いた皆様が、そうだなあと思われたら、それで助かるのであります。こちらで助けたいと思はなくても助けることになるのであります。私の処へ禮に来られる人に、どんな話を聞いて助かったのかと尋ねると、これこれの話を聞いたと云はれます。何も私に神様が入り込んで居られる訳ではないが、そうなって来るのであります。話には別に変わりはないが、そこに神様が入り込んで下るのであります。神様に働いて貰へる様な、神様が働かれる様な、話をする様にならなければなりません。ですから今後の本教は、本当の誠の心からでないと、通ることができないのであります。

【増野鼓雪教理3-11、教えの台
 「教えの台」と題して次のように述べている。
 天啓によれば、この世の元始まりは泥海であった。泥海中に神あって月日が現せられる。月はくにとこたちの命であった、水気の守護神であり、日はおもたりの命で温みの守護神である。この両神が元の神、実の神で、なき世界なき人間を造り、陽気暮らしをさせて、神と共に楽しもうと談合したもうた。その因縁によりて人間の霊現れ、次いでいざなぎの命、いざなみの命がが現せられた。いざなぎの命は男性で人間の種となり、いざなみの命は女性でその苗代となりたもうた。次に骨突張の守護神たるつきよみの命、皮つなぎの守護神たるくにさつぢの命が現れて安産を守護せられる。この十柱の神を天理王と唱え奉るのである。

 月日の二神と道具衆たる六神と種苗代たる両神の理によりて、いざなみの命の胎内へ人間を宿しこまれた。その場所は今の地場で、三年三月そこに留まった後、いざなみの命は七十五日の間に九億九万九千九百九十九人を日本全国に産み下ろされた。

 人間は九十九年目毎に三度更生し、五分より四寸に成長した時、いざなみ命と共に死した。而来生まれ変わり死に変り一尺八寸に成長した時、この世に水陸の区別生じ、漸次人間の成長に応じて天地山川が現れた。その年限は人間の数と同じで、九億九万年は水中の住まい、六千年は知恵の仕込み、三千九百九十九年は学問の仕込みをされたのである。

 かくの如き神の守護と教養によって、人間は成長して来たのであるが、神の大恩を知らず悪気増長するが故に、時代に応じて聖者を出し、経典を与えられた。しかし未だに神自ら世に現れて教えを説かれた事はなかった。これは神出現の時期と道筋がなかったのと、人間が理法を会得する迄成長しなかったからである。

 天保9年10月、刻限の到来と教祖の出現によって、元なる地場に神自ら現世に現れたもうた。神の意志を説き、世界一列の人間を救うて世の立替をなすために、最後の教えを立てたもうた。教祖の仲立ちによりて神と人と始めて再会をするを得たのである。

【増野鼓雪教理3-12、地場
 地場(一)
 天啓によれば、地場は神が人間を創造せられる時胎し込み産み下ろされた場所である。故に人間の生まれ故郷である。又教祖の神霊が無窮に止りたまう所である。故に人間の親里である。この因縁をもって地場所在の地を古来「生屋敷」と呼び来たった。

 さて人間創造の昔より、天保9年教祖に神懸のある迄長き年限の間、人類は地場の存在を知らなかった。然るに教祖は一日中山家の庭前を歩きたまいしに、教祖の両足地に付きて離れなかった。その時天啓によりて世界の中心である地場なる事を示したもうた。これを地場定めにして、地場はこの時より人間の前に現れたのである。
 地場(二)
 ない世界ない人間をその地場に於いて神々が創造されたごとく、紋形なき所より同じ地場に於いて神々の守護をもって世の立替の世界最後の教えを始め、真人を創造なさるのである。従って神々の霊を宿せる人々が地場に寄り集られるから、日本の地場の神館はまさに世の基である。地場はかく神々の鎮まり給う霊場であるから、子の心が親の心に映るがごとく、世界一列の人間の胸の裡は地場に映る。故に「地場は四方正面の鏡屋敷」という。その屋敷に天理王命の神名を授け置かれたのである。

 予言によれば、「本教の発展に従い、将来拡張され八町四方が屋敷内となり、世界の心澄み切った上は甘露台を据え、奈良より初瀬まで七里の間は、帰来する信者の宿泊所をもって埋められるに至る」とのことである。

 教祖の霊言によれば、「世界一列の人間は神の子なるが故に、必ずこの地場に連れ帰って親里の土を踏ます」との事である。今生に於いてか来世に於いてか、人間は地場の上にその足跡を残さねばならぬ。地場の霊地なるは、各人が地場を目標として真実の心より祈願したら自らその心に明らかにとなり、地場の零土を踏んでその心に湧く理を会得したら、地場の親里なるを自から感ずることができる。

【増野鼓雪教理3-13、甘露台
 甘露台
 天啓によれば、地場が人間創造の地たる証拠として、甘露台が建設されるので、その甘露台に下る甘露は元の親たる教祖に与えられ、人間の壽命薬として分け与えられるのである。世界の子供助けたい一念の教祖は、一時も早く甘露台を作り上げて、世を救い人を助けんと急き込みたもうた。

 甘露台の形状は六角形より成る高さ八尺二寸の大小十三段の石造の台にして、頂上に平鉢を置き、その中へ力物を入れ、神楽勤めを奏して祈念すれば、天より甘露が降るのである。その甘露は埃を払うた真実の人のみ与えられるので、それを食すれば百十五歳の天寿を全うするのを得るのである。

 教祖在世中神意によりて、この甘露台は二段まで造り上げられたのであるが、当時の警官がその台を取り払ったので、神の残念となり、甘露台を建てて世を救わんと思召されたのが、世界一列の心を澄まして最後に甘露台を建てんとその模様を変更せられた。

 この時より甘露台は信者の理想として、その将来に輝き始めた。従って甘露台の建設は人心の澄み切った表象となるので、神一条の世界がこの世に現れた時、人間は甘露の霊味を味う事ができるのである。

 本教は今やこの理想の実現に努力している。いかなる迫害、いかなる困難があろうが、この目的の為には、本教は喜び勇んで進むのである。かくて本教が世界の隅々に行き渡り、世界一列の心澄み、人間が神において真の兄弟たるを自覚し、甘露台が建設せられたなら、世界が真の平和を見出すのである。

【増野鼓雪教理3-14、借物
 借物(一)
 天啓によれば人間は永劫の昔神に創造されたのみならず、宿し込むのも月日、生まれ出るのも月日の守護によってこの世の生を得、その生存も神の守護あって始めて全うするを得るのであるから、人間の身は神によって造られ、神によって保持されているのである。これ人間の身は神よりの貸物、人間からは借物と仰せられたゆえんである。身上が神よりの借物であるならば、その借主は誰であるか、これはいう迄もなく人間の霊にして、霊は神自らの分霊であるから、人間の霊に於て生き、霊を以って身上を使用すれば、身は自由用を得るのである。霊に於て生くる小児に年と共に心が生ずる如く、人間も永き生死の因縁によりて心を生じ、その心を以って身を使用するに至った、その心が普通いうところの我の内容なるが故に、心が一つが我がの理となる。

 我がの理である心に霊そのままの働きなす場合と、霊と離れて働く時がある。霊のままに心が身を使用する時、身は自由用を得るが、霊と離れて心が我が身を使用すれば、身は自由用にならぬ。何故ならば身は一人限りその霊に貸し与えられたので、我がの理たる心は借主でないからである。従って身は霊の通りになっても心通りにならぬ。これ人間より見て神の貸物たる実証である。
 借物(二)
 既に身上が神の貸物なれば、身上以外のものは有形たると無形たるとを問はず一切借物である。唯人間はこの世に於いて借物を支配する徳を付与されているのみである。されば霊に於て使用したならば、何時迄も借用ができるのであるが、霊ならぬ人間心たる我がの理に於て使用するので、時に神よりその使用を止められるに至るのである。その神よりの禁止が人間の病気となり、不幸となって現れる。その病気不幸は人間の心通りにならぬ。我がの心通りにならぬのは我が物でないからである。我が物でなければ借物である。この貸物借物の教理が会得できねば、その他の本教の教理は一切分らない。それ故教祖は「この理を教えの台とし、この教理を聞き分けて神の恩を知り、その恩に報いるのが神に仕える道である」と仰せられた。

【増野鼓雪教理3-15、八埃
 八埃(一)
 天啓によれば、人間の霊には善悪の区別はないが、心一つの我の理が働くので善と悪とが現れて来る。教祖は悪や罪やといへば人が嫌うから「」と説かれた。埃とは明澄たるべき人間の霊を曇らす心であって、それを八つに説き分けられてある。ほしいとは、心を尽くさず身を働かず物を欲しがる心である。をしいとは、身の働き心の働きをせず、出すべきものを惜しがる心である。かわいとは、我が身我が子我が家のみを可愛がる心である。にくいとは、我が身の誤りを思わず、困ったからとて人を憎む心である。うらみとは、思う事が思う通りにならぬからとて人を怨む心である。はらだちとは、心の小さいところから思うままにならぬとて怒る心である。よくは、あるが上にも物を蓄めようという心である。こうまんとは、人を見下げ、自分が人より豪いと、何に付けても高ぶる心である。この八つの心使いが霊の曇りとなる埃である。
 八埃(二)
 埃の心が身の内にあれば、神が入り込んで働くことができない。綺麗な仕事は綺麗な所でするものである。埃だらけでは神の入り込みなく、守護がなかったなら、借物の身は思う通りに働かぬ。病気や不具というのは神の働きがないからである。故に病気になれば神が心の掃除をされるのであるから15歳の時より使うた心を調べ、埃の心があれば懺悔して払い、霊そのままの真実の心になったら、閉めた戸を開けば日が差し込む如く、神の身の内へ入り込んでお働き下さるから、いかなる難病も掻き消す如く平癒して、身の自由用を得るのである。されば人間の病気は神が人間の心の埃を清められる道具である。心澄んだら道具の病気は不要となる。この理が分かれば世界と世界の病の理も分かる。世界の病む理がなくなれば世界が治まるので、神は道具によって世界一列を澄ますと仰せられたのである。

【増野鼓雪教理3-16、因縁
 因縁(一)
 天啓によれば、本教は因縁切の道である。如何なる悪因縁も白因縁に転せられるべき道である。神の自由用を得れば因縁の転換を全うしたのである。その因縁とは人間が神に創造せられて以来、生死の変遷によりて人間が心の一つの理を使うて霊に付けた埃と徳であって、埃は悪因縁となり、徳は白因縁となって現世に現れ来るのである。故に「成るも因縁成らぬも因縁、因縁なら通らねばならず、成るまいと思うても成って来るのが因縁」で、人間の力ではどうともできないのである。その現れて来る今生の因縁を大切にすれば、土地の因縁、時の因縁、血の因縁となるので、その理を深く思案すれば、前生の因縁が悟れるのである。
 因縁(二)
 前生の因縁を悟り、今生通る道すがらを明らかにすれば、来生の因縁が予知される。何故なら、明日の日は今日の心が現れて来るものであるから、この理より考えて、来生は今生の心使いの理が現れて成って来る因縁となるは明らかである。過去より現在に、現在より未来に流れ行くこの因縁の理を自覚した時、この世が理詰めの世界であり、理は神の働きであるから、神の世界神の支配たる事が自得できる。同時に悪因から解脱して真に生きたいという要求が雲の如く湧いて出てくる。そこに苦悶が生じ孤独が迫り来る。人間の霊を曇らす埃は払うて、鏡の面に映る万象の姿は取り去ることはできぬ。因縁の心であるこげ付きの理、錆付きの理はこれである。しかし血を離れて大空を映す時、心が神に向かえる時、何の影もない。人間の心が真正面に神に対する時のみ、悪因縁は白因縁に転せられる。神を念じ神のままに従い、心に欲念の影を持たぬ、この心が足納満足の心である。因縁を切るにはこの心より外にない。何故なら、足納は前生因縁の懴悔の道であり、満足は天に継る理であるからである。しかし二つの理が心に治まるには、そこに年限の理がなければならぬ。その年限の理於いて悪因が白因縁に移り行くので、その間を因縁報じの道という。

【増野鼓雪教理3-17、真実
 真実(一)
 天啓によれば、真実とは埃を払い悪因縁を脱して自覚したる霊をいうのである。霊は自我でもあり真実であって、その真実がそのまま働いたのを誠という。故に誠は霊の理にして、霊は神の分霊なれば、霊の理は天の理である。されば真実の心の理は神の理なる故に、理を通して真実は神と相交わるのである。「日々に受取る中に唯一つ、誠一つが天の理、天の理なれば直ぐと受取り直ぐと返す」と説かれるところである。要するに真実と神との関係は密接不離である。その真実の心の前に展開する世界は神一条の世界である。神の世界に於いては人は神と交わることを得、神を親として、人間は一列兄弟たることを自覚し、更に人も神の霊に於いて生き、我も神の霊に於いて生きるが故に、全ての霊は神に於いて一如たる事が悟領されるのである。人間全ての霊は神に於いて一如であるから、人の霊の苦しめるは我が霊の苦しみである。人の霊の喜べるは我が霊の喜びとなる。これは「助ける理が助かる、立てる理が立つという微妙の天理」であって、真実の自覚が理の世界に於いて自ら会得する理法である。
 真実(二)
 天の理を我が理として生きる真実の生活は、天の理が働く限り我が真実が働くのであるから、天地の無窮なるが如く、理に生くる者は末代に生きるのである。末代に生くる者は死と生は古き衣を脱ぎて新衣を纏うが如く観するが故に、生死に超越して末代生き通りである。神は教祖によりてこの真実の一義を明らかにし、神一条の世界に於いて神人合一の陽気暮らしを始めんと意志したまう。されば真実に生きんとせざる者、理を踏まんとせざる者には、神は理を以てその誤りを示したまう。これ手入れ手引きにして、病気や不幸はこの意味に於いて神の人間を愛したまう慈悲心の現れである。かく神は真実を欲したまう。故に真実を以て神に祈願する時、始めて神を動かすを得るのである。霊救は唯この真実にのみ与えられる神の特徴である。されば人間はこの真実を自覚して信仰を全うしなければならぬ。

【増野鼓雪教理3-18、神楽勤
 神楽勤(一)
 天啓によれば、神楽勤めは人間を霊化する本教の最高儀式である。その神楽歌は教祖が天啓を受けて慶応3年に製作さられ、それに教祖自ら音調と舞踊の形式を定めたもうたのである。神楽勤めは本勤めと手踊りの二種より成る。本勤めは甘露台を中心として、唯地場に於いてのみ行われる勤めにして、手踊りは各地に於いて随意に行う勤めである。従って本勤めは本教に於ける祈祷の最高の儀式であって、手踊りは世界を霊化する勤めなので陽気勤めという。祈祷として最高の儀式たる本勤めは、その目的に準じて種々なる区別がある。手踊りは人心を霊化し世界を陽気化するのが唯一の目的となっているので、その式は全て同一である。神を信じる者、因縁の解脱を欲する者、真実の霊化を受けんとする者は、この神によって定められたる手踊りを奏せなければならぬ。何故なら神の心に同化せられ、悪因縁より転じて白因縁に移るは、この手踊りより湧く感激に導かれねばならぬからである。真なる感激は人を神一条の世界に導く渡し船である。
 神楽勤(二)
 この意味から神楽勤めは二重の意義がある。一は神を勇める道であり、一は人間が霊化される道である。従って神楽勤めを奉行する瞬間は、神と人の霊が抱合融一する時である。更にその内容より見れば、神楽勤めは一言一句の言葉にして、宇宙人生を貫く真理を詩歌の形式を借りて表象されているのである。さればその意義を生活の上に移して思考すれば、一句千巻の書を作る至深の背景を持っている。その手踊りの形式も真理の形象化であって、その意義を悟る時至遠の妙味を感ずるのである。神楽勤めは大体に於いて真実心を治むる者の一手一つの実行化であって、個人の真実から進んで団体の真実に神の恩寵を受くる道である。その当然の結果として、個人に与えられるよりも大なる恩寵の下るは明らかである。故に神楽勤めの効果は小は人事より大は国家の事件に及ぶのであって、甘露台が建設せられた後は、この神楽勤めによって天より甘露が与えられるのである。

【増野鼓雪教理3-19、霊救
 霊救(一)




(私論.私見)