〔代理〕知識人、経営者、政治家の天理教称賛の位相考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.1.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 天理教を批判的にみなす知識人論者については「いわゆる知識人の天理教批判の位相考」で確認した。ここでは、好意的に評する知識人論者を確認する。木下勇作氏の「言の葉」 「天理の里に関わった文人ら」 がこれに取り組んでおり参照した。下敷きは、「天理教と文学者」(梶山清春、天理やまと文化会議)のようである。


廣池千九郎(ひろいけ ちくろう)(1869-1937年)】
 廣池千九郎(ひろいけ ちくろう)の人となり、入信情況は廣池千九郎考」に記す。

【木下尚江】(1869-1937年)
 木下尚江は、教祖中山みきを次のように評している。
 「中山みき子は妖婦に非ず、彼は詐欺師に非ず、彼は愛の人なりき、切愛の人なりき、極愛の人なりき、彼女は我が身に神の宿る事を信じたりき、しこうしてこの確信は実に彼女の愛の生むところなり」。
(私論.私見)
 木下がみきの教理に通じており、思想的宗教的に好評価している事が分かる。
 木下尚江(ひさえ)の履歴は次の通り(「ウィキペディア木下尚江」、「木下尚江研究 Webページ」等々参照)。
 1869(明治2)年9.8(陽暦10.12)日、信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。
 1888年(明治21年)、東京専門学校(現早稲田大学)法律科卒。松本に戻り地元の「信陽日報」の記者となる。
 1891(明治24)年、禁酒運動、廃娼運動に取り組む。県治問題3論説を信濃毎日新聞に寄稿。松本で信府日報創刊。「余ハ如何ニして基督教を信ずるニ至りしか」執筆。
 1892(明治25)年、「万国之将来」執筆。1893年(明治26)年、信府日報主筆を兼ねる。弁護士登録。松本美以教会中田久吉牧師から洗礼を受ける(25歳)。


 1897年(明治30)年、中村太八郎らと普通選挙期成同盟会を結成。県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄。神の愛を信じる蘇生の体験をする。
 1898年(明治31)年、重禁錮8か月の判決。控訴。東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容される。無罪判決で出獄、松本に帰る。
 1899(明治32)年、毎日新聞(旧横浜毎日新聞)に入り、廃娼運動、足尾鉱毒問題、普選運動などで論陣を張る。「世界平和に対する日本国民の責任」執筆。東京で普通選挙既成同盟会結成。
 1900年(明治33)年、毎日新聞社で田中正造と初対面。社会主義協会に加入。


 1901(明治34)年、幸徳秋水、片山潜、堺利彦らと社会民主党を結成する(2日後に禁止となる)。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。横浜で幸徳、片山と普通選挙演説会。
 1902年(明治35)年、「野生の信徒執、「革命の序幕」、「普通選挙論」執筆。前橋の衆院選で29票で落選。講演「青年伝道者の起らざる所以」。
 1903(明治36)年、「戦争人種」、「非軍備論」執筆。社会主義協会で非戦論の発表を提唱。平民新聞創刊号に「永世の新倫理」執筆。
 1904(明治37)年、「火の柱」を毎日新聞連載(~3月20日)、「軍国時代の言論」、「良人の自白」上篇執筆。田中正造の死期に立ち会い、看護を行なう。


 1905(明治38)年、直言が平民新聞後継し、主筆同然。「新人」の「国家宗教」で吉野作造を批判。幸徳秋水、西川光二郎の入獄を送る。続篇「良人の自白」連載(~6月3日)。東京衆院補選に立候補するも。妨害で運動できず。東京市の衆院補選で32票で落選。「良人の自白」後篇連載(~10月16日)。幸徳の出獄を迎える。平民社解散決定を受け、石川三四郎と雑誌計画し、雑誌「新紀元」創刊。全13号。「良人の自白」下篇執筆。渡米の幸徳と大久保の櫟林で会談。

 1906(明治39)年、「新曙光」連載(~6月9日)。母くみ永眠。幸徳帰国。日本社会党に入党。「告白をもて序に代ふ」執筆。田中正造に300円寄付。「良人の自白」続篇執筆。東京毎日新聞退社。「懺悔の苦痛」、「革命の無縁国」執筆。幸徳、堺と会談、社会主義運動から分離する。「旧友諸君に告ぐ」、「懺悔」執筆。
 1907(明治40)年、日刊平民新聞創刊号に「山居雑感」執筆。大久保で幸徳と一日語る。「飢渇」執筆。
 1908(明治41)年、「霊か肉か」下篇執筆。賀川豊彦が木下を訪問。「乞食」、「墓場」執筆。
 1909(明治42)年、「労働」執筆。石川安次郎宅で幸徳と晩餐。「荒野」執筆。
 1910(明治43)年、「火宅」、「日蓮論」執筆。


 1911(明治44)年、幸徳ら12名死刑執行される。「法然と親鸞」。「余が思想の一大転化と静坐の実験」執筆。
 1912(明治45)年、「創造」。堺が「木下尚江君の態度を評す」。
 1913(大正2)年、田中正造看病で佐野滞在。1933(昭和8)年、堺利彦の通夜に出席。「神の解放」、「政治の破産者・田中正造」、「幸徳秋水と僕」、「自由主義者・島田三郎」、「臨終の田中正造」、「片山潜君と僕」執筆。
 1934(昭和9)年、「神 人間 自由」執筆。
 1937(昭和12)年、「島田三郎伝」執筆開始。相馬夫妻に書簡を送り、宗教改革問題に言及。「病中吟」口授開始。11.5日、永眠。教文館より「木下尚江全集」全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。


 その木下は、次のような名文を遺している(自伝「懺悔」)。
 「明治23年の冬、待ち続けられたる国会が始めて開かれようとする時、即ち民主主義の舞台の開幕が一日千秋の思いで待ち構えられて居た時『教育勅語』が公布された。

 学者の倫理学と云うものが手の裏返すように一変した。政府は法律的に国民道徳なるものを強行する方針を立てた。見よ、法律の外に制裁力無き無道徳時代には、道徳も亦法律的権力を借らねばその威信を保つことがならぬのである。故に厳密な意味では道徳では無いのだ。

 かく神国的感情の大風が吹き荒む時、思想界の枯野に一本の喬木が残っていた。即ちキリスト教であった。(中略)(彼ら神国者流は曰くキリスト教は日本の国体と相容れざるものなり、曰くキリスト教は愛国心を亡滅するものなり、と攻撃した)(中略)

 予は足を爪立て首を延ばして、神道仏教一切の連合軍を一喝の下に打ち破る或る一勇士が、キリスト教会から出現するその武者ぶりを待ち望んで居た。予の切なる希望は忽ち失望を以って報いられた。多くの学者論士は出でて応戦を試みたが、その言う所は予の信仰とは殆ど正反対に、何れもキリスト教は日本の国体を傷つけるものでも無く、愛国心を破るものでも無いと百方苦心して弁解するのであった。(中略)

 間もなく日清戦争が開かれた。予は戦争と云う事はキリスト教の反対するものだと云う事を些かも疑わなかった。然るに戦争の始まるとともに、東京に在る知名のキリスト教徒は全国を遊説して、『正義の戦争』を鼓吹し始めた」。

【柳田国男】(1875-1962年)
 民俗学で貢献、名を為す柳田国男は、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入省した官僚であった。1916(大正5)年、柳田は官界にいて貴族院書記官長を務めていた頃、橿原神宮から天理の地を訪れている。この時、天理教に関する「見聞記」を著わしており、次のように述べている
 概要「天理教徒は其長年の忍耐力を積み上げて丹波市を小エルサレムにして了つた。400畳を敷くと云ふ一室の中央に、幅一間の渡り板が神殿まで通っている。(略)2組3組の参拝者が来て座り云々」。

 柳田は1951(昭和26)年秋、この里で開かれた日本宗教学会学術大会で講演している。柳田は終始、好意的であった。


【山田耕筰】(1886(明治19)年6.9日- 1965(昭和40)年12.29日)
 日本の代表的な作曲家、指揮者。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。
 東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。1896年、10歳の時に実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年、渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月、帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。1921年、文化学院音楽科主任となる。1926年、40歳の頃、湘南の茅ヶ崎町に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる。1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名。1936年(昭和11年)、レジオンドヌール勲章受章。1937年(昭和12年)、相愛女子専門学校(現・相愛大学)教授に就任。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任、また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Kósçak Yamada”という綴りを使っていた。1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去(享年79歳)。

 交響詩「おやさま」

【和辻哲郎】(1889-1960年)
 和辻は29歳の時、「古寺巡礼」()を著している。奈良の名刹を巡り、和辻の感性で古都の印象を書き綴っているが、その中で天理の里について次のような印象記を記している。
 「やがて汽車は方向を變へて、三輪山の 麓へ近づき行く。古代神話に重大な役割をつとめてゐるこの三輪山はまた特に大和のやまらしい・・・」。
 「三輪山に近いこの地から(教祖、みきさん)が出たことは少なからず興味を刺激する。わたくしの天理教に関する知識はわずかに2、3の小冊子に過ぎないが、教祖の信仰は恐らく本物であったろうと思われる」。

 教祖中山みきに対し、好意的に評しているのが分かる。木下勇作氏の「言の葉」 「天理の里に関わった文人ら」 は、「おみき婆さんが三輪山に近いこの地から出たことに注目した和辻の着眼は、凄い、の一語に尽きるが、和辻の天理教観がうかがえて興味深い」と評している。

【吉川英治】(1892-1962年)
 「宮本武蔵」の著者として知られる国民作家、吉川英治は次のように好意的に評している。
 「みかぐらうたは、純真な童心を呼び起こさせ、大人でも親に抱かれたようなやすらぎを覚える」。

【徳川夢声】(1894(明治27)年4.13日-1971(昭和46)年8.1日)
 本名=福原駿雄(トシオ)、別号=夢諦軒、含宙軒。島根県生まれ。東京府立一中卒。大正2年/1913年、福原霊川の名で活動弁士デビュー。各地の映画館を転々とし、大正4年/1915年に徳川夢声と改名、以後弁士、俳優、作家など活動の場は幅広く、創成期のラジオ・テレビには欠かせない存在になる。

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候補| 第7回直木賞(昭和13年/1938年上期)
 |候補| 第21回直木賞(昭和24年/1949年上期)「九字を切る」
 第1回文藝春秋読者賞(昭和24年/1949年)「天皇陛下大いに笑ふ」(辰野隆・サトウハチロー鼎談)
 第1回NHK放送文化賞(昭和24年/1949年度)
 第3回菊池寛賞(昭和30年/1955年)各方面における活動
 紫綬褒章(昭和32年/1957年)
 東京都名誉都民(昭和40年/1965年)
 勲四等旭日小綬章(昭和42年/1967年)
 義母の森田こう刀自(とじ)が天理教の信者。25歳の時、産後の肥立ちを患い、ご守護をいただいたことから一代天理の信仰者となった。その義母を温かい目線で評している。

【松下幸之助】(1894(明治27)年11.27日-1989(平成元)年4.27日)
 パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者で、異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

 松下幸之助の語録に基づく経営哲学である「水道哲学」は、水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより物価を低廉にし消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想であり、次のように述べている。
 「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」。

 その原点は、天理教との邂逅にあった。「松下幸之助 水道哲学の原点となった 天理教との出会い」が次のように述べている。
 「松下幸之助が天理を訪れたのは昭和七年初頭であった。取引先のU氏という人物が熱心な天理教の信者だったのである。松下は、折角、時間を割いたのだから徹底的に見聞してやろう、という意気ごみで臨んだ。U氏の案内に従った松下は、たしかに天理の建築の壮大さが他に例をみないような規模である事を理解した。しかも、その建築はすべて信者の奉仕によるものであり、その奉仕の申し込みが多数に上るので、満足に希望をかなえて奉仕に従事させることが出来ないほどだ、と。時期としては、教祖中山みきの没後五十年が近づいており、教祖殿と神殿の新築が進められていたので、その盛況はひときわ甚だしいものであったろう。その働きぶりに、松下は驚くとともに考えた。人は誰もが金を得るため生活の資を得るために働く。ところが、天理の人々は只で働いている。只働きなのに、自分の経営する工場の労働より楽しげに、生き生きと働いている。なぜか。それは、天理には理想があるからだ。使命があるからだ。使命のために働くから生き甲斐があり、楽しい。であるとすれば、一企業である松下電器の使命とは何か。聖なる使命があれば松下電器にもまた天理と同様の、溌剌たる労働が産まれるのではないか。『しからば聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。それは水道の水だ。加工されたる水道の水は価がある。今日、価あるものはこれを盗めば咎められるのは常識だ。しかるに、水道の水は加工された価あるものなるにもかかわらず、乞食が水道の栓を捻って存分にその水を盗み飲んだとしても、水そのものについての咎めはあまり聞かない。これは何故か。それは価あるにもかかわらず、その量があまりに豊富であるからである』(「私の行き方考え方」)。そこから松下は、電気製品を水道水と同様に、安価にふんだんに生産することで、地上から貧困を消滅させる、という「使命」を導いたのだ」。

【芹沢光治良(こうじろう)】(1896-1993年)
 「芹沢光治良(こうじろう)」に記す。
 「芹澤光治良 「死の扉の前で」中山正善 と 「教祖様」再版のいきさつ」。
 昨年(昭和五十二年)真柱の十年祭を迎えた。私はその年の誕生日に、日誌に、「おろかしや ひたに走りて 喘ぎ省る やそじの坂を とうに越えしを」と感想を書きとめたが、これは、初めて己の年齢を考えて、近い死の扉に気がついて慌てたからだった。私は死ぬ前には中山正善氏を書かなければならないと、前から考えていたが、今書かなければ永久に書けないかも知れないと思った。十年祭にあたって、霊前に捧げられると勇んで書きはじめたが、十年祭までに完成しないで、招かれたが十年祭の式典にも出れなかった。その長篇小説「死の扉の前で」は、約一年かかって書きあげて、出版社に原稿を渡して、ほっとした夜、真柱さんの夢を見た。元気で私のサロンに通りながら……芹沢君、教祖様の再版出さないの?と、例のやや癇高い声で言われた……あれを絶版にしたのは真柱さんの希望でしたよ……あれ、君は精根かたむけたものなあ、惜しいよ……

 「死の扉の前で」には、「教祖様」を創作した頃の苦悩を少し書いたので、そんな夢を見たと思って、すぐに忘れた。しかし、それから三日後善本社の山本社長が突然訪ねて来て、「教祖様」を出さしてくれと言われて、不思議な気がした。それまで、いく度この書物の再版を求められたか知れない。天理教の老若信者からばかりでなく、普通の読者からも盛んに求められた。大阪に万国博覧会のあった年、ブラジルの未知の技師が訪ねて来て、ブラジルでこの書物を読んで天理教を信ずるようになり、私に会って信仰について語りたくて、万博見学に来たと話して、土産にこの書物を買おうとしたが、絶版で失望していた。しかし、私は再版する気にならなかった。読者に、私が天理教の信者であると誤解させることを怖れたが、また、資料の不足だったために作品として自信を持てなかったからだった。ところが、無名の出版社の山本社長の依頼は、亡き真柱さんの願いのような気がふとした。それ故、私は出しましょうかと答えてしまった。おかしなことだ。

 善本社の実力を私は全く識らない。あれほどためらった「教祖様」の再版を、関係もなく、信頼するに足るかはっきりしない出版社に、簡単に委せたのは、私が自分の作品を愛しない怠慢からだろうと、反省もするが、山本社長が前真柱から送られたものと思いなおして、亡き友の友情として、すべて気にかけないことにした。ただ私は再版に決定してから、天理大学の芹沢茂氏に頼んで、繁忙のなかに初版本を読んで誤りを指摘してもらったことに感謝するとともに、「ふしぎな婦の一生」という副題をつけることで、満足した。

 昭和五十三年五月 芹澤光治良

【岡潔(おかきよし)】(1901-1978年)
 「岡潔ワールド考」に記す。

【今西錦司】(1902-1992年)
 京都の織屋「錦屋」の生まれ。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。今西説、今西進化論として知られる「棲み分け論」を唱えた。西欧的なラマルクやダーウィンの進化論概念はトートロジーであると排除し、当時のダーウィニズムと対立する進化論を生み出した。「棲み分け論」の背景に天理教的素養があったとする説が有る。

【小林秀雄】(1902-1983年)
 戦前戦後の文壇で大きな影響力を持った文芸評論家の小林秀雄は天理の里とも大きな関係があった。氏の母親も叉熱心な天理教信者であった。先の大戦中、小林は沈黙、沈潜の時期を過ごしていたが、そんな時、小林は、天理教とのつながりを深めていた。1944(昭和19)年、小林は天理の若者と痛飲し、歓談している。

 小林は、2代目真柱・正善ともしだいに親交を深め、東京帝国大学の同窓であった今日出海(今東光の兄で文化庁長官を歴任)と、ある全国紙の紙上で対談し、1967(昭和42)年秋、急逝した正善を偲び、高い評価と敬意を表明している。

山本 安英(やまもと やすえ)(1902-1993年)
 「ウィキペディア(Wikipedia)山本安英」。
 1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)10月20日)

 日本の新劇女優・朗読家。本名は山本 千代(やまもと ちよ)。築地小劇場の創立第一期メンバーで、戦後は木下順二作の戯曲『夕鶴』のヒロイン・つう役を1000回以上にわたって演じたことで知られる。

 1902(明治35)年10.29日、小柳トメの長女として生まれる。宮岸泰治は1969年に山本から「私生子なの」と告げられたと記しており、戸籍謄本には父の名がない。宮岸泰治の聞き書きでは、母の子として認知を受けたのは6歳の時だったという。山本は自伝に東京の神田で生まれて、「間もなく家の都合で横浜の日の出町に移り住みました」と記している。戸籍上は出生当時から住所は横浜市青木町反町だった。

 幼少期の保護者は祖父と母で、その後弟が3人生まれ、小学校に上がる頃には祖父は他界していた。山本によると祖父は芝居好きで、幼い山本に『仮名手本忠臣蔵』の鷺坂伴内の振りを教えて、山本はそれを夕食後に演じていたという。母親は外国人向けの写真やガラス絵に彩色する下請け仕事をしていたが、貧しい暮らしぶりだった。父は時々横浜の自宅を訪ねて土産の牛肉で作った料理を子供たちに振る舞うと、すぐにまた出て行ったと山本は記している。横浜市内で住所を2回移り、3つの小学校に通った。

 小学校高学年になると、母の作った商品を販売先の店に届ける仕事を担った。山本は幼少期の体験と舞台での役柄の関わりについて、「貧しい家に育っていく少女の役々を、何かのびのびと想像力が湧いて来るままに自然に理解することができる気がしたのも、知らないうちに、この頃の生活が思い出されていたからかも分りません」と述べている。

 1917年、15歳の時、叔母(母の妹)の山本サダおよび夫の山本章太郎の養女となる(弟の一人もあわせて養子となった)。養父の章太郎は東京の麹町区(現・千代田区)紀尾井町で開業医を営み、夫妻に子供はなかった。山本は横浜在住のまま神奈川高等女学校(現・神奈川学園高等学校)に進学する。養母(叔母)は芸事好きで、山本が長唄の稽古を受けることを許した。休みには養父母の家で過ごし、長唄や踊りを習いに通った。この女学校時代に山本は本格的に俳優となることを志した。その背景には貧しい生家を助けるために職業に就きたいという意識があったと山本は自伝に記している。山本の希望を知った養母は、5代目中村歌右衛門に話をして女学校在学中の山本と面接させ、歌右衛門からは「男なら養子にしてもいいが女なのが惜しい」という丁重な返答があったという。
年)

 1921(大正10)年、歌舞伎俳優2代目市川左団次主宰の現代劇女優養成所の生徒募集を新聞で知り応募する。選考の結果、最年少で合格者となる。養成所入りに際して「安英」という芸名を付ける。山本によるとこの芸名は養父に知られないために付けたもので、明確な由来などはなく、読み方も当初は一定しなかったが「世間のほうで」決めてくれたという。同年12月、左団次一座の帝国劇場興行(小山内薫原作『第一の世界』)で、左団次の娘役として初舞台を踏む。養成所には小山内のほか土方与志も関与したが、初回公演のみで翌年春には解散となった。

 山本は養父母宅で暮らしながら、ライオン歯磨(当時の社名は「小林商店」)の開いた「ライオン児童歯科院」に勤務した。『ライオン口腔保健活動100年のあゆみ』(2017年)によると、在職当時の山本は口腔衛生婦(現在の歯科衛生士に該当、ただし当時は国家資格ではなかった)を担当したという。

 1922年11.16日、当時ライオン歯磨広告部にいた詩人の大手拓次の日記によれば入社。大手はそれ以後日記に山本への思慕やそれを託した詩を書き綴ったが、内向的だった彼は積極的に声をかけなかった。大手の日記によれば1923年に入ってからはわずかながら会話を交わし、大手は本を貸したり焚いた香を分けるなどした。4月、大手は本社に移り、同月13日、前の職場を訪ねて山本の退職を知らされ、以後山本に関する記述は途絶えた。

 山本は稽古事も続け、時折小山内の自宅に通っていた。図書館での戯曲の読書や発声訓練など、俳優に必要な自習もおこなった。

 1923年9月、関東大震災。この時、横浜在住の母と弟2人がたまたま養父母宅を訪れており、山本も含めて全員無事だったが、横浜の実家は灰燼に帰した。母は養父の援助で高円寺の借家で文具店を開いた。母が病気だったため、山本は仕入れなど店の実務を担い、「愛読していた樋口一葉に、私自身がなったような気になりすましていたようです」と自伝に記している。この年、山本とともに養子となっていた弟が結核のため死去している。

 1924(大正13)年、小山内薫、土方与志によって創設された築地小劇場の創立に参加、研究生となる。現代劇女優養成所での縁から呼ばれたものだった。創立準備で集まった俳優はほかに汐見洋友田恭助(以上二名は劇団同人のメンバーを兼ねた)、丸山定夫千田是也竹内良一(当時は「竹内良作」)らで、一時は女優が山本のみとなり、田村秋子が加入して「ほっとした」という。

 6.13日、初公演では裏方だったが、7.12日からの『人造人間』(カレル・チャペック作、土方与志演出)で初めて配役として舞台に立つ。以後、年内に12編に出演し同年12月までには正式な劇団員となった。小山内らの厳しい指導もあり劇場は常に緊張感に包まれ、俳優にとっては心身を酷使する日常でもあったが、山本は「ほんとうに幸福でした」と振り返っている。小劇場の準備段階から、小山内らの掲げた演劇改革の理念に山本を含めた参加者は深く共感していた。

 1925年8月、東京放送局による日本最初のラジオドラマ『炭坑の中』(リチャード・ヒューズ原作)に出演している。

 山本は1926年までに『どん底』のナターシャ、『桜の園』のワーリャ、『三人姉妹』のオリガ、『愛慾』の千代子などの役を演じた。雑誌『演劇新潮』1926年10月号の「若い女優と役者」という特集で、女優の筆頭として取り上げられ、「築地のシンボル」という扱いを受けるようになっていた。

 1926年、国民文芸会の国民文芸賞にノミネートされたものの、「時期尚早」という理由で受賞はならなかった。 戦前から発声には定評があり、『演劇新潮』1926年10月号の特集に寄稿した小山内薫は山本の長所として「頭がいい」ことに続けて「白(せりふ)、殊にアーチキユレーシヨンの明瞭なこと」と記した。宮岸泰治は、同じ号に岡本かの子が山本の容貌について記した内容をもとに、山本が発声に有利な高い口蓋の持ち主であったと推測している。宮岸によると、山本は楽屋で出番前に舌を手で引き出して濡れ手ぬぐいを当てて回し、固さをほぐしていたという。

 1927年、築地小劇場での出演は続いた。山本は築地小劇場時代より高い評価と人気を得ていた。この年、自作の『二つの心』の上演を観覧した武者小路実篤は、腰元を演じた山本について「感心した」、「あの役をあれまで自然にこなせる人は一寸他にないように思った」、「見ていて不安を受けずにすめた。一緒に行った仲間も皆感心し、興奮していた。あの位やられれば作者は満足である」という感想を新聞に寄せている。映画『黎明』(監督/小山内薫)築地小劇場による発声映画。

 1928年12.25日、『晩春騒夜』の慰労会(原作者の上田文子による)で小山内が倒れてそのまま急逝し、同席した山本は臨終を看取った数少ない一人となった。

 1929(昭和4)年3.24日、『夜の宿(どん底)』の公演を最後に、山本は薄田研二、丸山定夫・細川知歌子高橋豊子ら5人とともに築地小劇場を脱退した。劇団分裂の経緯について山本は、小山内の死去が理由だと「簡単に言い去ることができないもの」で、様々な事情が積み重なって起きたという見方を示している。山本が在籍した4年9か月の間に築地小劇場は内外の戯曲117編を上演し、そのうち68編に山本は出演した。

 築地小劇場では小山内薫の方針もあり多くの翻訳劇に出演したが、戦後は舞台復帰作の『人形の家』のほかは「ぶどうの会」で『ベルナルダ・アルバの家』(フェデリコ・ガルシーア・ロルカ作、1955年)に出演したのみであった。

 『夜の宿』最終日に山本ら脱退メンバーは新築地劇団結成の声明書を発表し、先に築地小劇場を退いた土方与志を中心とする形で創立した。

 1929年5月、公式第一回公演。その際、山本らメンバーの予想を上回る客入りに「ほとんど踊り出したい気持ちでした」と後年述べている。その後も公演では多くの観客を動員したが、劇団員は運営の任も負う形となり、築地小劇場時代よりも負担は増大した。しかも、演劇に対する検閲規制が激化した。

 私生活では、築地小劇場時代に実母の店が近隣火災に巻き込まれて焼失し、実母と弟二人は山本家に同居した。その後、弟の一人が結核を発症して、療養のため実母と弟二人は神奈川県国府津町(現・小田原市)に移ったが、罹患した弟はこの年に死去する。その少し前に養父の山本章太郎も没し、養母は遺産の大半を他人に奪われて零落したため、山本は実母・養母・一人残った弟の4人で麹町区内の借家に暮らすこととなった。

 1930年2月、『蜂起』(藤森成吉作)は台本が三分の一にまで削られ、それでも土方の決断で公演に踏み切るものの、直前の新聞に「公演中止」という誤報が出たことで観客が激減し大きな欠損が生じた。その次の公演作は上演禁止(当初の作品禁止後に予定した代替作も禁止)となった。困窮した劇団員は内職を掛け持ちし、身体を酷使したと山本は記している。

 プロレタリア演劇運動の最盛期にその現場にいたが、戦後の自伝で当局の弾圧とは別に「新劇の側でも、反省しなければならない点」として「時として新劇が、純粋な芸術というにはあまりにも思想の宣伝の手段となっていたという点です」と記している。その時期の自身については「この頃から病床に伏すことが多くなり、政治の実際活動にはほとんど参加できませんでした」とも述べている。ただし、1987年の澤地久枝との対談ではその時代の経験が「いつも社会や歴史の本質的な問題をとらえるように私をしむけてくれた」と話し、演劇活動の中から「どうかして人生の本質をとり出し、生きていく糧にしたい。世の中を少しでもいいものにしていきたい」と述べた。

 1931年1.16日、劇作家の藤田満雄と結婚した。

 1933年、結核を発症する。10月、長谷川時雨らが発起人となって最初の後援会が発足した。休演・療養を挟んで復帰した。

 1935年、再度発症。この年は2月の公演(2作品の二本立て)にしか舞台に立てなかった。6月、夫の藤田も病臥して家庭は困窮を極め、11月、新築地劇団が築地小劇場の建物を使って実施した『人生劇場』の公演では、予定より1日公演期間を延ばし、その日の収入を藤田と山本に救援費として送ったと報じられている。

 1936年、改めて後援会が結成されるとともに、随筆集『素顔』を刊行した(刊行は生活援助の一環だった)。7.5日、夫の藤田が骨髄性白血病により死去した。以後、再婚することはなかった。8月、舞台に復帰した。12月の『女人哀詞』(山本有三作)が好評を博し、山本は「数知れない多くの方々が、病後の私に注いで下さったご厚情の数々を、私は永く忘れることが出来ません」と記した。当時は、プロレタリア演劇運動が当局の弾圧で壊滅した後、演劇界が復活して観客が戻ってきた時期だった。学生だった木下順二と出会ったのはこの頃である。新築地劇団にはのちに著名な俳優となる人物も研究生として参加したが、そのうち沢村貞子は山本に女優志願の手紙を書いて入団し、千秋実は1936年に研究生として入団した際に芸名を尊敬していた山本に付けてもらったという。

 1936年、著書『素顔』(沙羅書店)刊行。

 1938年11月、山本の結核が再発して療養生活に戻る。鎌倉への転地もおこなう。

 1939年6月、いったん床上げして、11月、7年ぶりとなるラジオドラマ『あかつき』(原作:長谷川時雨)に出演した。

 1940年8月、舞台に復帰できないまま、新築地劇団が新協劇団とともに「自発的解散の慫慂」に従う形で、事実上強制解散させられた。

 1941年1月、所属劇団を失った山本は日活による「日本映画学校」の講師に就任。6月、日本で最初の声優養成所である日本放送協会専属劇団(後の東京放送劇団)の講師となる。山本の指導を受けた日本放送協会専属劇団出身者に加藤道子七尾伶子巌金四郎らがいる。戦時中の山本は結核が完全には癒えず、病臥を繰り返す生活だった。それでも劇団旗揚げ(井上正夫からのもの、川村花菱による岡譲二と組ませる企画、および情報局による移動劇団結成企画)や映画出演(稲垣浩監督による『宮本武蔵』)の勧誘・依頼が持ち込まれたが、そのいずれにも応じなかった。

 1942年8.6日、治安維持法違反で検挙されて一審判決を4日後に控えた久保栄を見舞い、「苦楽座のことなどが話題にのぼり、とうとう私だけ売れ残りましたと笑って」いたことが久保の日記に記されている。久保に対しては、看病や家事の手伝いとして渡辺マサ(のち久保の養女となり、久保マサとなる)を紹介していた。

 山本は「いよいよの時には三味線の師匠になって生計をたてよう」と一中節をはじめとする伝統芸能の習得(古典作品の読書も含む)に励み、「この戦時中ほど、伝統芸術の勉強ができたことはありませんでした」と回想している。千駄ヶ谷にあった自宅には、山本を慕って勉強を望む俳優志望者が集まり、朗読指導や戯曲講読の会合が開かれた。

 1945年3月、戦局が悪化し、自宅の勉強会に参加していた真山美保に長野県諏訪の紹介を受け、実母・義母を伴って疎開した。疎開先はより詳しくは蓼科で、山本のもとで勉強していた若い俳優たちも加わった。疎開先への荷物移動で留守にした自宅に丸山定夫が薄田研二とともに訪問していたことを後に知り、広島原爆で被爆死した丸山と会う機会を失ったことを「心から残念に思います」と述べている。丸山はこの当時、運営する苦楽座の俳優が東京大空襲後に相次いで帰郷したため、演目の『獅子』(三好十郎作)で「お雪」を演じる人物を求めて山本を含む旧知の女優を訪ね歩いていたとされる。

 戦後の活動

『夕鶴』のつうを演じる
山本安英(木村伊兵衛撮影、1952年)

 1945年12月または1946年1月、この頃に疎開先から東京に戻る。3月、土方与志の演出による『人形の家』に客演して、8年ぶりに舞台に立った。

 1947年2月、久保栄の作・演出による『林檎園日記』に出演する。当時、山本の元には引き続き俳優志望者が集まっていたが、1947年4月に木下順二作のラジオドラマに彼らが出る際に「ぶどうの会」と名付けられた。

 1948年3月、新築地劇団の復活が実現しない中、「ぶどうの会」が「第一回勉強会」と称した発表会を実施する。著書『歩いてきた道』(弘文堂アテネ文庫)刊行。

 1949年、木下順二が婦人公論1月号に『夕鶴』を発表、同年10.27日、奈良県丹波市町(現・天理市)の天理教本部講堂で「ぶどうの会」により初演され、ヒロインのつうを演じる。この上演は山本が初めて「ぶどうの会」のメンバーとともにおこなった公演だった。この後、「ぶどうの会」は山本の活動拠点となる。この年、『山脈(やまなみ)』※民衆芸術劇場への客演。『慾の化粧」(正宗白鳥

 1950年、著書『鶴によせる日々』(中内書店)刊行。

 1951年、第1回芸術選奨文部大臣賞。大阪市民文化祭名誉賞。著書『歩いてきた道』(未來社)刊行。

 1952年、第3回NHK放送文化賞。

 帰京してからの住所はなかなか一定せず、中野の統制組合事務所に始まり、高円寺、大久保、板橋、目黒区柿の木坂、文京区関口と移って、この年に千駄木に落ち着いた。

 1952年、『蛙昇天』。

 1953年、『瓜子姫とあまんじゃく』、『風浪』。

 1955年、『二十二夜待ち』、『赤い陣羽織』、『ベルナルダ・アルバの家』(フェデリコ・ガルシーア・ロルカ)。
 1957年、『おんにょろ盛衰記』。

 「ぶどうの会」の時代には『夕鶴』の公演を続けたほかに、木下順二作の『蛙昇天』、『瓜子姫とあまんじゃく』、『風浪』、『赤い陣羽織』、『おんにょろ盛衰記』、『東の国にて』、『沖縄』といった作品に出演した。

 1958年、大阪府民文化祭賞。

 1959年、『東の国にて』。

 舞台公演は多い年でも年間5つに満たず、1960年の時点で山本は、戦後の15年間について「これほど間遠に時々しか舞台をふまなかった体験は、私の俳優生活の中で本当に初めてのことです」と記した。「ぶどうの会」での後進育成を優先したことが要因だった。この間、1960年9月から11月にかけ、第一次訪中日本新劇団の副団長として中華人民共和国(当時はまだ日本と正式な国交がなかった)を58日間にわたって訪問し、北京、武漢、上海、広州で『夕鶴』を公演した。これが生涯で唯一の外国公演だった。

 新築地劇団以来の盟友で、戦後は『夕鶴』をはじめとする出演作で演出を担当した岡倉士朗が1959年2月に急逝して大きな衝撃を受け、1960年の文章で「ぶどうの会も(中略)大きな転機に立たされたことになります」と述べた。

 1960年の安保闘争の際、社会問題への関心は戦後も失わず、新劇人のメンバーによる改定反対デモに連日参加した。新安保条約成立直前の同年6.15日に起きた、右翼団体によるデモ襲撃の場面にも遭遇した。

 1962年、二世西川鯉三郎が木下順二に、「自分と山本と清元宮川栄寿郎が組める作品」を依頼してできた、朗読・三味線・舞踊を組み合わせた創作舞踊『花若』に出演している。『花若』。

 1963年、『沖縄』。

 1964年9.7日、「ぶどうの会」の解散を発表する。その理由について山本は発表の声明で「会がさらに自由に発展して行くためには、ここでぶどうの会という形態を解消することが最上の道」と説明した。この発表はマスコミには大きな驚きをもって受け止められたが、山本は自伝で「モヤモヤしたものが明らかな形をとって出てきた」「一九六〇年の安保闘争後、内部の人達の考え方が、外部のいろいろな状態を反映してだと思いますが、各々において急速に変ってきていたように思います」とその背景を説明している。解散発表とともに「解散残務処理委員会」が作られて、すでに先約のあった公演は予定通り実施し、同年12月に終了。1965年10月の付属俳優養成所三期生卒業公演をもって完全に活動を終了した。

 1965年11.15日、当時の日本の演劇界では異例だった個人のための組織「山本安英の会」を発足させる。発足に際しては、文化人や学者ら8人による「山本安英の演劇活動を支援する八人の会」が応援の「手紙」を関係者に発送した。

 1966年5月、「山本安英の会」が『陽気な地獄破り』、『花若』で初めて公演をおこない、9月、『夕鶴』の公演も再開した。

 1967年12月、「聴いて感動するせりふ」作りに必要な「日本語の表現力全体」を対象とした「ことばの勉強会」を開催した。山本は勉強会の「三本の柱」として地域語(方言)・朗誦術 (declamation)・日本古典の原文による朗読はどこまで可能か、を挙げていた。

 1968年、『「平家物語」による群読―知盛』。

 1969年、著書『おりおりのこと』(未來社)刊行。1999年、『山本安英 おりおりのこと』(日本図書センター)刊行。

 山本は稽古場として「ぶどうの会」以来東大YMCAビルを使用していたが、ビルの移転改築に伴い、1970年代前半に自宅の庭に18畳の稽古場を新築した。

 1973年の後援会報に掲載された文章によれば、「山本安英の会」は山本本人と付属の事務局だけで構成され、活動ごと(公演、「ことばの勉強会」、群読・朗読、ゼミナール、放送など)に「活動体」ができて「(活動体の)輪は互いに少しずつ重なり合いながら”会”を押し包んでおり、この全体が〈山本安英の会〉の現在」であるとされた。各活動体担当者の会合は自宅稽古場で実施され、「みなの会」と称された。この集まりは議決・執行機関ではなく、山本は「ブレインによるいわゆる諮問機関に近いのかもしれませんが、皆さんは活動体のどれかに自主的に参加して責任を持って下さっている」と記している。公演の際は、スタッフ・キャストの人選と依頼、予算検討に始まり、スケジュールや会場決定、広報活動、チケット販売、宿舎や交通機関の手配に至るまで、山本と事務局及び「みなの会」の担当者がおこなっていた。

 1974年、朝日文化賞。

 1976年、『群読・龍が見える時』。

 1979年、「山本安英の会」が木下順二作の『子午線の祀り』を宇野重吉の総合演出により上演する。これは『平家物語』を素材に源平合戦を平知盛を中心に描き、出演者は能楽・歌舞伎・狂言・新劇の混成で(山本は「影身の内侍」役)、総合演出の下に能楽・歌舞伎・群読のパート演出が置かれた。以後同じスタッフ・キャストにより1981年まで3次にわたり上演された。著書『舞台と旅と人と』(未來社)刊行。

 1980年、第21回毎日芸術賞。

 1984年7.24日、『夕鶴』が、福島市公会堂で1000回公演を達成した。最終的に1986年までの37年間に上演回数1037回を記録した。

 1984年、倉敷市民劇場特別賞、第10回芸能功労者表彰。
 1985年、毎日芸術賞特別賞。

 1987年、著書『鶴によせる日々』(未來社)刊行。著書 『新版 歩いてきた道』(未來社)刊行。

 1988年、前年同様舞台に立たなかった。映画『さくら隊散る』(監督/新藤兼人)で丸山定夫の証言者として出演。

 この年、自身が作成してきた新聞・雑誌切り抜き帳の一部(1921年-1965年)が早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄贈され、公益信託「山本安英の会」記念基金が創設された。宮岸泰治は、山本が「(おそらく『夕鶴』1000回公演から)五年生きるつもりだった」と話すのを聞いた経験から、これらの動きを「一つの区切りに向かって歩き始めた」と解した。

 1989年元日付で「遺言書」を書き記した。同年に『花若』を試演し、3年ぶりの舞台となる。

 1990年、第四次となる『子午線の祀り』を上演。この上演は、宇野重吉が1988年に没した後、宇野の総合演出時代にカットした部分を、木下順二の意向により含めた初の全編上演となった。

 1991年9月、腹部の大手術を受ける。半年間の静養が必要とされたところ、山本は3か月後には『子午線の祀り』の第五次公演に向けた稽古に入る。

 1992年1月から2月にかけて『子午線の祀り』第五次公演に出演、これが最後の舞台となった。終了後の4.24日に余命4か月と宣告を受け、東京都立駒込病院の主治医より「あれほど苦労してきた人だから、しばらくいい気持ちの時間を持たせてあげたい」という治療(「肝臓転移」に対するもの)を5月に受けた。同年12月、『女優という仕事』(岩波新書)を刊行、遺著となった。

 最晩年には衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入する公職選挙法改正に反対する意思を示して死去前日付で反対声明への確認署名をおこなった。

 1993(平成5)年10.20日、急性呼吸不全のため東京都文京区千駄木の自宅で死去(享年92歳)。遺言により、葬儀や告別式は実施されなかった。

 1994年2.6日、砂防会館内の「シェーンバッハ・サボー」で追悼行事「演じること 生きること―山本安英を偲ぶ」が開かれた。同年9.25日、音羽に近い蓮光寺に納骨され、木下順二揮毫の「山本安英ここに眠る」の文字と西暦の没年月日が刻まれた墓標が建立された。没後に静岡県天城湯ケ島町(現・伊豆市)に『夕鶴』に関する資料(衣装、小道具、台本、舞台写真、録音テープ等)が寄贈され、伊豆市天城会館内の「夕鶴記念館」に収められている。著書『歩いてきた道』(中央公論社中公文庫)刊行。 

 好きな戯曲は何かという質問に対しては、ロマン・ロランの『愛と死の戯れ』と答えていた。山本は築地小劇場時代にソフィ役で同作に出演し、汐見洋演じるジェロームの長台詞(台本9ページ分)を聞く場面について「このときほどせりふを聞くということのむずかしさを痛感したことはありません」とのちに述べている。

 俳優デビューの時期からの資料を大切に保管しており、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に切り抜き帳を寄贈した後の1990年からは写真類の整理がおこなわれ、整理に当たったスタッフが特定できなかった写っている人物や場所を、山本は一目でほぼ言い当てたという。これらの写真は『山本安英の仕事』として1991年に刊行された。

【吉川幸次郎】(1904-1980年)
 中国文学の権威吉川幸次郎は、2代目真柱・中山正善と親交が深く、京大仲間の小川環樹や学生を伴って天理の里に行った時、46行からなる7言歌行の漢詩を書いている。その中で、正善を次のように称えている。
 「清浄為称教真柱 (略)如(略)在龍虎」(人のこころを清く美しくすることを教えとなして真の柱と称す正善さんは、正に世界に光を放つ龍虎の如く在り=木下訳)

 吉川の親近度が分かる。

【樋口清之(ひぐち きよゆき)】(1909-1997年)
 日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長、國學院大學栃木短期大学名誉学長、全日本博物館学会名誉会長。文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。梅干し博士として知られる。

【保田与重郎】(1910-1980年)
 「保田與重郎ワールド考」に記す。

【会田雄次】(1916-1997年)
 文学博士にして歴史評論でも名高い京都大学教授だった会田雄次も天理教を大本教、金光教、黒住教などとともに好意的に評論をしている。

【鶴見俊輔】(1922年ー)
 鶴見俊輔は、みきが江戸末期、お伊勢参りをする大勢の庶民が「えいじゃないか、えいじゃなか」と歌い、踊りながら伊勢神宮まで遊行するさまからヒントを得、陽気暮らしを洗練化、高度な宗教にしたと評している。

【駒井 茂春(こまい・しげはる)】(1923-年)
 鈴木清一と共に今日のダスキンをつくりあげた創業者のひとり。一燈園の西田天香、天理教の教えを受け社内やフランチャイズチェーン店に取り入れた。
【團 伊玖磨(だん いくま)】(1924年4.7日-2001年5.17日)
 團 伊玖磨(だん いくま)は、日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人、エッセイスト。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルを手がけた。「團伊玖麿」は誤表記。
 1924年(大正13年)、実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京・四谷の慶應病院で生まれ、原宿(現在の渋谷区神宮前)で育った。
 1931(昭和6)年、7歳の時、青山師範学校附属小学校に入学。ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」、「シナ人」と怒鳴られたという(事実、700年前の祖先の團将監は宋人だったと伝えられる)。
 12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めた。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになった。
 1937(昭和12)年、13歳の時、青山学院中学部に入学。同年、東京市麻布区材木町(現在の港区六本木)に転居した。
 1942(昭和17)年、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)作曲部に入学。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学んだ。また、学外では山田耕筰に指導を受けた。
 1944(昭和19)年、20歳の時、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当した。翌年、復員して東京音楽学校を卒業。諸井三郎に対位法、楽曲分析を学んだ。歌曲集「六つの子供の歌」、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩「村の歌」、「小諸なる古城のほとり」を作曲した。
 1946(昭和21)年、近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ。

 1946(昭和21)年、「二つの抒情詩」(管弦楽付き独唱曲)で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選。歌曲集「五つの断章」(北原白秋詩)を作曲。
 1947(昭和22)年、歌曲「花の街」(江間章子詩)を作曲。
 1948(昭和23)年NHK専属作曲家となる。
 1949(昭和24)年、木下順二作品の民話劇「夕鶴」の演劇付帯音楽を作曲。
 1950(昭和25)年、「交響曲第1番イ調」を作曲。NHK創立25年記念管弦楽曲募集コンクールにて特選入賞。歌曲集「美濃びとに」(北原白秋詩)を作曲。
 1952(昭和27)年、オペラ「夕鶴」大阪で初演。北海道美幌農業高等学校校歌を作曲。
 1953(昭和28)年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」結成。
 1954(昭和29)年、東宝映画専属音楽監督。
 1955(昭和30)年、オペラ「聴耳頭巾」大阪で初演。
 1958(昭和33)年、 オペラ「楊貴妃」(大佛次郎台本)初演(藤原歌劇団創立25周年記念東京公演)。また慶應義塾創立百周年記念式典のために混声合唱と管弦楽のための「慶應義塾式典曲」(作詞:堀口大學)を作曲、NHK交響楽団を指揮初演(1968年再演)。
 1959(昭和34)年、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して「祝典行進曲」を作曲。
 1964(昭和39)年、東京オリンピック開会式にて「オリンピック序曲」、「祝典行進曲」、閉会式にて「祝典行進曲」を演奏。エッセイ「パイプのけむり」の連載を雑誌「アサヒグラフ」にて始める。
 1965(昭和40)年、「交響曲第5番」作曲。
 1966(昭和41)年、日本芸術院賞受賞。
 1968(昭和43)年、 「パイプのけむり」、「続パイプのけむり」で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞。混声合唱組曲「筑後川」作曲。10月23日の告示により、鳥取県民歌制定委員会作詞、團伊玖磨作曲の鳥取県民歌「わきあがる力」が制定される。
 1972(昭和47)年、オペラ「ひかりごけ」(武田泰淳原作)初演(第15回大阪国際フェスティバル)。
 1973(昭和48)年、日本芸術院会員に就任する。
 1975(昭和50)年、オペラ「ちゃんちき」(水木洋子台本)東京で初演。

 1976(昭和51)年、ソプラノ・ソロと管弦楽のための「長良川」(江間章子詩)を作曲。「交声曲 元の理」作曲、録音。伊玖磨指揮、読売日本交響楽団合唱、天理教音楽研究会合唱団、ファンファーレ/天理教音楽研究会器楽部。作曲に2年間費やした大作。團伊玖磨のコメントは次の通り。
 「元初まりの話、天地創造、考えれば考える程遠大なものであり、 内容的にこれ程スケールの大きいものはないはずである。私は元来、構成美をもった大きなスケールの音楽を好むが、今回の「元の理」は私の作品の中で、内容的にいって最も大きい曲ということが出来る」。

 1978(昭和53)年、合唱組曲「大阿蘇」(丸山豊詩)を作曲。
 1982(昭和57)年、横須賀市制75周年記念事業の一環として、合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」(栗原一登詩)を委嘱され作曲。
 1983(昭和58)年、ピアノ組曲「3つのノヴェレッテ」、合唱組曲「唐津」、独唱・混声合唱・オーボエ・ピアノのための組曲「木曽路」、子供の歌アルバム「道の子の歌」、ヴァイオリンとピアノのための「幻想曲第2番」等を作曲。
 1985(昭和60)年、「交響曲第6番HIROSHIMA」を広島平和コンサートで初演。
 1994(平成6)年、オペラ「素戔嗚」初演(神奈川芸術フェスティバル)。
 1997(平成9).9.3日、急性心筋梗塞を起こし約1ヶ月間入院する。オペラ「建・TAKERU」初演(東京・新国立劇場杮落し公演)。
 1999(平成11)年、文化功労者に列せられる。
 2000(平成12).4.6日、妻の和子が急性心筋梗塞で急死。「DAN YEAR 2000」開催。
 2001(平成13).5.17日、日本中国文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死去した(享年77歳)。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。

【梅原猛】(1925-)
 白川静と共に碩学の名を馳せている梅原猛は、いわゆる西田幾多郎に始まる「京都学派」の中で和辻に最も好意的で敬意を表している。梅原は、日本ペンクラブ会長を今の井上ひさしに譲るまでその任にあり、癌と闘い打ち勝った。豊かな想像力と鋭い分析力で直面する諸問題に発言、主張する姿勢が高く評価されている。

【三島由紀夫】(1925-1970年)
 三島由紀夫も叉天理教に大きな関心を寄せていた形跡がある。三島の伯母のひとりが熱心な天理教信者で、三島は伯母に伴われて天理教の教会本部に参拝したことがあると云う。「陽気」(昭和36(26).8月号)の「三島由紀夫―宗教と文学を語る」の中で、伯母の人柄に触れるとともに天理教の感想を次のように述べている。
( http://yotokusha.com/youki/youki-kensaku)
 概要「私の伯母という人は、親類中一番幸福な人なのです。明るく朗らかで、物欲というものがない。私はこういう伯母の楽天性を通じて、天理教は非常に明るい宗教だと思うのです。(略)夫は大連の市長をしていたが、亡くなり、終戦となって内地へ引き揚げてきたのです。非常に思い遣りの深い人で、自分のことはほっておいても他人のお世話をせずにおられない・・・。伯母の気持ちは単なるギブ・アンド・テイク式の考えからではないと思う」。

 また三島は、保田与重郎(1910-1980年)(奈良県桜井市生れで戦後の日本浪漫派の論客)からもかなりの天理教の知識を得ていた。三島は次のように語っている。

 概要「保田氏が天理教は生活の上で原始的な人間の喜びを実践していると言う。私もそう思うのですが、天理教は他の宗派のように近代人に威圧を加えない。他の宗教は皆現世否定の思想が根本に流れている。現世肯定の上に成り立っている唯一の宗教です。天理教は日本に生れた最も日本的な宗教で、将来に可能性のある明るい宗教だと思う」(木下要約)。
 2016.4.9日付け「」参照。
 三島由紀夫『金閣寺』 新潮文庫p118より
 「柏木を擁して、あのスペイン風の洋館の耳門を、女を先立ててくぐるや否や、恐怖に搏たれた私は、柏木をそこに放置して、あとをも見ずに逃げ帰った。学校へ立寄る裕りもなかった。深閑とした歩道を駈けた。薬屋、菓子屋、電気屋の家並の前を駈けた。そのとき目のはじに、紫や紅いのひらめいたのは、多分、梅鉢の定紋付の提灯を黒塀の上につらね、門には同じ梅鉢の紫の幔幕を張りめぐらした、天理教弘徳分教会の前を、駆け抜けたときだったと思われる。どこへ向って急いでいるのか、私自身わからなかった。電車が徐々に紫野へさしかかるころから、私は自分のせきたつ心が金閣を志しているのを知った」。
 
 ブログ者は次のように解説している。
 「天理教弘徳分教会は京都府京都市北区小山堀池町に実在する天理教の分教会である。(本部直属の大教会は西陣大教会)徳の字は、正式には心の上に「一」の横棒が一本入る。「私」(主人公の溝口)と共に走るように文字を追っていると、いきなり現れる天理教会。なんとも唐突で意外な感じがする。「梅鉢の定紋付の提灯を黒塀の上につらね、門には同じ梅鉢の紫の幔幕を張りめぐらした」と、単なる風景描写にしては随分くわしく書き込んでいるのも気になるところである。弘徳分教会がどういう意図や経緯で書き込まれたのか、三島の思いを知る由もないが、信者であった伯母の影響もあったのだろうか。いずれにしても、この『金閣寺』の読者は、ここで天理教の名をいやでも眼にすることになる。その点において、現代に読み継がれており、また海外での評価も高いとわれるこの代表作に天理教の名をとどめさせるほどに影響を与えた伯母さんは、人を信者にする、しないといったレベルを超えた、超一級の「にをいがけ」をした、といえるのかもしれない。追記:「鹿鳴館」や「愛の渇き」といった作品にも天理教が登場するようです」。

【村上重良(むらかみしげよし)(1928年10.10日-1991年2.11日)
 東京生まれ。都立一中などを経て、1952年、東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。慶應義塾大学講師を務める。日本共産党に属し、日本共産党に敵対的な創価学会および公明党を批判する著作や論文をいくつも発表していた。しかし宮本顕治が中心となって、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」(創共協定)を1974年12月に締結したことに始まり、日本共産党指導部が宗教に対する融和的態度を示したことに反発し、世界1977年10月号(岩波書店発行)で、「共産主義政党と宗教 『創共協定』を再考する」という論文を発表し、宮本指導部を公然と批判したため党から除名された。

 1957年、「近代民衆宗教史の研究」(法藏館)、1957年1974年、「ほんみち不敬事件」(講談社)出版。本書が村上氏の名声を高めた。村上氏は、著書「近代民衆宗教史の研究」の中で、みきの立教に至る「神がかり」過程に於ける、夫婦の不和、子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩、生理的苦痛の影響に着目し、概要「みきにとって、『月日のやしろ』となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味した」と論じ、本部教理と異なる面を指摘している。この考察は後に島薗進の「突発説」の否定や、笠原一男小栗純子らに受け継がれる。島薗氏は、この村上の考察について、「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた功績は大きい」と評価している。

 国家神道の研究で知られ、特に1970年の「国家神道」(岩波新書)は「明治政府は神道を国教化しようとして当初から天皇を中心とする神の国を作り上げようと精力的に動き国民を神道信仰に駆り立てた」として、これが国家神道論における定説として長く扱われてきた。しかし、近年の島薗進、阪本是丸、新田均らによる検証により、そもそも明治政府の中にも伊勢派、出雲派などの路線対立があり、一枚板ではなかったこと、明治政府の神道信仰の強制がほとんどなかったことなどの史実を踏まえると、村上の国家神道論は粗雑かつ本人の先入観に基づく説だったのではないかといわれるようになり学界での影響力は低くなっている。


【高橋和己】(1931-1971年)
 「邪宗門」の著書で名高い高橋の場合、母が熱心な天理教信者であった。大学時代の師の吉川幸次郎の影響も働いたのではないかと思われる。立命館大学の名誉教授で90歳を超えてなお執筆と研究を続けた漢字哲学者の白川静が、吉川に「ぜひ、私のもとに高橋君を」と依頼、立命館大学に高橋を呼んだ逸話もある。

 「天理教と文学者」(梶山清春著)によると、高橋は京都大学を卒業後、母の勧めで天理教の修養科に籍を置いた。高橋は、「私の文学を語る」で対談者の秋山駿氏に次のように述べている。

 「天理教の経典は面白かったのですが手踊りはどうしても体が硬直して踊れなかった」(木下要約)。

 高橋は38歳の時、結腸癌を患った。病の床に伏す高橋に母上は「どうぞ、親神様お助けを。38歳の次男でございます。我が身になりかわりましての御加護を・・・。悪しきをはらい、助けたまえ、天理のみこと・・・」と、唱えながら我が子の回復を祈った、ことが伝えられている。


【船(舩)井幸雄(ふない ゆきお】(1933-2014)
 経営コンサルタント、起業家、企業経営者、自己啓発書作家、精神世界・スピリチュアル系の著作家、オカルティスト。コンサルティング会社・コンサルティング業界で世界初の株式上場を果たした株式会社船井総合研究所(現 ㈱船井総研ホールディングス)の創業者・代表取締役会長、船井総研グループの創始者。株式会社本物研究所、船井メディア、船井財産コンサルタンツのトップを務めた。
 奥さんが天理教の人で陰ながらむ支え続けた。

【村上和雄】(1936-)
 日本の分子生物学者。筑波大学名誉教授。農学博士(京都大学、1963年)。奈良県天理市生まれ。1983年に、高血圧を引き起こす原因となる酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功。パスツール研究所やハーバード大学を抑えての快挙であった為、一躍注目を集める。天理教の熱心な信者。生命の存在はダーウィンの進化論では十分に説明できないと考え、サムシング・グレートと呼ぶ存在を想定し自身の立場が「知的設計論者の意見に近い」と述べている。サムシング・グレートを指して「あれは親神様のことです」と明かし、サムシング・グレートが天理教の「親神様」のことを指していることを認めている。

【小滝透】(1948-)
 小滝氏の著書「天理教からのメッセージ」(淡交社)後書きに次のように記されている。
 「書くに当り、私が最も描きたかったのは、天理教という幕末維新期の宗教が果たした社会的意義でした。この時代は、本文中でも述べたように、日本宗教史上でも稀に見る宗教意識が高揚した時期で、大小無数の教団が次々と誕生しています。この影響は実に大きく、近代日本の精神下層の一端は、この時の彼らの活動によっていると言っていいほどのものがあります。中でも天理教の存在は、こうした活動の頂点に位置するものであり、しかもその教えには従来には見られなかった非常にユニークな宗教思想が含まれていたのです。すなわち、従来の日本産の宗教には見られなかった最高神を頭上に抱き、普遍的教えを説いていたことがそれに当ります。これは驚くべき出来事で、ここに初めて我々は日本産の世界宗教の誕生を見ることになったのです。

 しかし、こうした動きは、歴史的にはあまり評価されることはありませんでした。とりわけ、日本の文化人や知識人には。なぜなら、彼らは明治以来、圧倒的に流れ込んだ西欧文明や西欧思想に眼を奪われ、自分の足下で誕生していた豊かな文化や精神土壌に関心を向けることが無かったからです、そして、それが今に至るまで長く続いているのです。

 しかし、西欧思想が明らかに行き詰まりを見せている今、我々は自らの歴史的伝統の中から新たな普遍性を抽出しなければならない段階にきています。明治以来の知識人はその普遍性を西欧直輸入の思想をもって代用しようとしたのですが、それにはやはり明確な限界があったのです。

 実は、天理教を筆頭とする幕末維新期の新宗教には、そうした普遍性を自らの伝統の中から抽出してきた実績があるのです。こうした新宗教の教組や開祖は、その大半が名も無い民衆の出身ですが、彼らは誰に教わることもなく、非常な思想的独創性と普遍性を自らの体験と日本の歴史的伝統の中から見出していました。彼らの伝記(教組伝)を見てみると、そのことが非常によく現れています。そして、私が何より驚いたのも、彼らのこのような姿だったのです」。




(私論.私見)