しかし、芹沢家の人々は天理教を受け入れ、光治良も幼少期を祖母の信仰の中で育てられます。楊原分教会の二代会長は父の叔父吉蔵、三代会長は父の弟長吉が務めました。光治良の伯母稲葉まきは香貫分教会を設立し、叔母仁藤とみは高富士分教会の初代会長となったのです。光治良の弟亀太郎が父親を継ぎ岳東大教会理事となり、妹喜久は陽東分教会長、弟清は岳治分教会長、末弟茂は天理大学教授となったのです。兄真一と光治良は、叔母とみの夫で海軍軍人仁藤金作から経済的な援助を受けて、一高・東大に進学出来たのです。二人とも天理教に批判的で、一高時代に天理教から離れます。兄真一は朝日新聞・共同通信の記者となりましたが、二代目教祖と言われた井出クニ(国子)の播州の朝日神社の信仰に生きます。弟(六男)武夫は小山家の養子となり、中日新聞の記者から、中日ドラゴンズオーナーとなったことは広く知られています。
芹沢光治良氏は、父母の信仰による家出により貧困となり、苦学することになりました。中学に進学したことで村八分にもされたのです。乾性肋膜炎を患った時も、天理教から中学を中退するように言われて反発しました。高校受験を、当時天理中学校長をしていた廣池千九郎先生[道徳科学を研究し、モラロジー研究所を創立。麗澤大学創立者]に相談して励まされたこともありました。代用教員をして学費を貯めて、一高を受験して合格します。しかし、一高でも生活に困り、寮での食事も食べられないことが多く、空腹の苦しみにも耐えたのです。
キリスト教作家有島武郎の草の葉会に参加したり、「大塚誠」のようなキリスト教の家族にも触れ、日本のキリスト教も知ります。学友に助けられ、奨学金を受けて一高を卒業し、東大の経済学部に進学します。
安生鞠と恋愛し、失恋後に、藍川金江と結婚して一緒にパリのソルボンヌ大学に留学し、デュルケム学派のシミアン教授の研究室で実証的な社会学(経済学)を学びます。アナーキストのルクリュウ家の人々とも交流します。フランスでカトリックの信仰に触れ、特に結核闘病の間に神と対峙して生き抜きます。エーン県オートヴィルの高原療養所で、天才科学者ジャック・シャルマンに出会い、独自の信仰観と「大自然の神」を知らされます。また、この闘病で学者を諦め、作家になることを決意します。結核を克服して帰国し、改造社の懸賞小説に『ブルジョア』が一等に当選して作家生活に入ります。
最初期の昭和7年4月に天理教の信仰を短編小説「鴉片」に書きます。「宗教は阿片である」というマルクスの説からの題ですが、天理教批判の小説です。この作品は、のちに「信者」と改題されましたが、両親には嫌な思いをさせたようです。自伝的な作品には、天理教のことが書かれ、多くは批判的なものでした。のちに中編小説「小さな運命」として纏められたもの、自伝小説『男の生涯』などです。しかし、昭和16年10月に発表した短編小説「秘蹟」は「母の肖像」という副題があるように、母の天理教の信仰体験を作品化したものですが、深い信仰者の真実が描かれて、天理教を肯定的に書いています。
戦争中には、キリスト教や天理教を研究しましたが、昭和18年に天理時報に求められて連載した長編小説『懺悔紀』は、天理教を肯定的に創作し、両親を安心させたと言われます。父親も愛読したとのこと。『懺悔紀』は養徳社に出版を托し、戦後の昭和21年9月に出版されました。昭和24年から天理時報に連載して書き続けた『教祖様』は、天理教の教祖中山みきの伝記的な作品で、約10年かけて昭和32年に完成した大作と言えます。途中で『この母を見よ』と題して昭和27年4月に前半部を東和社から出版しています。完成してから昭和34年12月に角川書店から『教祖様』と題して出版されました。
芹沢氏としては、キリスト教の『イエス伝』に倣って、天理教の教団のためではなく一般的な読者に向けて、一人の農婦が神憑りして教えを語り、偉大な信仰者となった女性の伝記的宗教小説として創作したのです。教祖中山みきを人間として描いているのです。周りの者たちが神として祭り上げようとする教団の愚かな群像も率直に描かれています。芹沢光治良氏は、中山みきをキリスト・イエスと対比して描き、その教えもキリスト教的な解釈をしているので、天理教団としては信者に読むことを禁じているようです。真柱中山正善氏の求めで、角川版『教祖様』は絶版になりました。しかし、大江健三郎氏のように、この力作を文学作品として評価する人も多いのです。それで、昭和53年10月に善本社から再版されました。この時に、副題「ふしぎな婦の一生」が付けられました。
芹沢光治良氏は、中山みき関係の資料を真柱中山正善氏に求めましたが得られませんでした。しかし、戦後の昭和26年に三宿の家を訪ねて来た中山正善氏との交流が始められ、天理教への入信を勧められましたが、教団に属することはなく、ずっと教団としての天理教を批判し続けました。大河小説『人間の運命』を書き上げた後、死ぬ前にどうしても書き残さねばならないと決意して、中山正善氏との交流を小説化した『死の扉の前で』を昭和53年11月に新潮社から書き下ろしで出版しました。この中に天理教としては知られたくないことなどが多く書かれていることから、教団から高額の金で買い取るので出版しないで欲しいと交渉されましたが、きっぱりと断ったのです。
金江夫人は、名古屋鉄道を創設した藍川清成・伸子夫妻の長女として名古屋の大津町に生まれ、贅沢に我儘に育てられました。母しん(伸子)は信仰深い人で慈母観音と言われました。金江夫人は昭和8年にバセドー氏病にかかり、播州の親様井出クニに助けられ、それからずっと感謝の祈りをしていたとのこと。晩年に舌癌になってから、文子さんの導きで、聖心女子大学教授で天理教の分教会長でもあった松本滋先生を心の師としました。葬儀も松本先生によって天理教式で昭和57年2月に行われました。松本先生の祈祷文「告別誄詞」「五十日祭 祭文」は、一周忌に刊行(昭和58年2月4日)された追悼文集『芹沢金江』の巻頭に収録されています。
芹沢光治良氏は、金江夫人の死後に、身辺の整理や膨大な作品を再読して死後に残すものを選んだりしていましたが、昭和60年の夏に中軽井沢の山荘で、ある老紳士(佐藤徳三氏)の質問を思い出し、「文学は 物言わぬ 神の意思に 言葉を 与えることである」という信念から神について直接書く作品を書かねばならないと自覚します。天の声を聴き、自己の人生や信仰を回想し、特にオートヴィルで出会ったジャック・シャルマンを思い出し、神とは「大自然の親神」であると再自覚します。それで、「神の書」の連作を書き始めるのです。
宗教学者で天理分教会長の松本滋教授から伊東青年(名幸長、後の大徳寺昭輝氏)を紹介され、存命の親様(中山みき)から「人間としての教祖伝」を書いて欲しいという願いが伝えられます。伊藤青年は親神の導きで天理教の分派とも言える天命庵を始めます。その後見役として指導して欲しいとも親様に求められます。改めて自己の人生を回想してみると、結核闘病をしたこと、ジャックに出会ったこと、戦後に世界ペン大会への飛行機故障でイスラエルの聖地を見学したこと、帰路にローマ法王ピオ十二世に個人謁見したことなど全て親神の導き(はからい)によるものだと自覚して、その視点から、もう一つの『人間の運命』とも言うべき全9巻の連作〔9巻目は未完〕を書くことになるのです。
存命のみきは、三十年祭に播州の井出国子を遣わしたこと、昭和61年の教祖中山みきの没後百年祭の年から親神が世界の大掃除を始める理年であること、人類の陽気くらしがはじまると説き、復活のイエス、存命の釈迦も協力するとのこと。存命の中山みきは、既に天理教の教祖ではなく、人類の親様として世界助けを始めているのです。芹沢光治良氏は、90歳から毎年一巻ずつの連作を書き続け、「天の書」も2巻書き、平成5年3月23日に96歳で逝去されます。芹沢光治良氏の最後の連作は、文学を超えたものになりましたが、これも芹沢光治良という作家の個性であったと評価されます。
しかし、存命の中山みきに導かれるのに、自撰の墓碑銘にはジャックのことは書かれましたが、中山みきの名は無く、葬儀も天命庵でなく、無宗教の音楽葬であったことなど、多くの謎が秘められていると私は感じています。天理教に育てられた芹沢氏の発想は「中山みき」や「陽気ぐらし」などと天理教的ですが、「大自然の神」「実相の世界」など、世界宗教を説くものでもあったのです。実在のジャック・シャルマンには、不明なことが多く、ジャックは理想化された芹沢氏の分身であるとも思われます。
天命庵の大徳寺昭輝氏は、現在も湯河原で多彩な活動を続けていて、亡くなられた三女の文子さんは最期まで役員として御尽力をされたようです。天命庵の今後に期待したいと念願しております。 〔平成27(2015)年10月識〕