芹沢光治良(こうじろう)考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.11日

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 2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.26日 れんだいこ拝


【芹沢光治良(こうじろう)】(1896-1993年)
 「芹沢光治良(こうじろう)」に記す。

 1896(明治29).5.4日、静岡県駿東郡楊原村大字我入道一番地(現在の沼津市我入道)の代々網元をしていた豪家に生まれた。父・常蔵(後に常晴と改名)、母・はる。

 1900(明治33)年、4歳の時、熱心な天理教信者だった父母が本格的な伝道生活に入るという理由から全財産を教団に寄進し無所有の伝道生活に入った。光治良は祖父母や叔父・叔母の元で育てられる身になった。世話になった叔父の家も後に天理教会となる。

 1904(明治37)年、楊原小学校に入学。1910(明治43)年3月、同校卒業。1910(明治43)年4月、県立沼津中学校(現・沼津東高校)に入学。1916(大正4)年3月、同校卒業。小学校入学以前から孔子の論語を暗唱できるほどの頭の良さから神童といわれ、県立沼津中学校では特待生。この頃、文芸雑誌『白樺』を読み、フランス文化に憧れるようになる。

 4月より3カ月、沼津町立尋常小学校(現第一小学校)の代用教員になる。後、原町(現沼津市原)上松家の家庭教師として住み込む。

 1916(大正5)年9月、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)仏法科入学、上京。

 1919(大正8)年、第一高等学校仏法科卒業。東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部経済学科入学。

 1922(大正11)年、東京帝国大学経済学部卒業、農商務省(現在の農林水産省、経済産業省)に入省。

 1925年、29歳のとき、結婚。農商務省を辞任し、新妻を伴ってフランスに渡る。パリ大学に留学し、貨幣論を研究した。その後、ソルボンヌ大学に入学、金融社会学のシミアン (François Simiand) 教授に学ぶ。

 フランス滞在中に結核に冒され療養につとめる。フランスやスイスの高原療養所で病を癒す。スイス・レザンには、芹沢が療養したとされるサナトリウムがその当時の建物のままで現存しており、名門校レザンアメリカンスクールの校舎として使用されている。

 フランス滞在3年間に、三木清、佐伯祐三、ジュール・ロマン、ケッセル、ルイ・ジューベ、マリー・ベル、デュラン、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー等、多くの学者、作家、俳優や画家といった文化人と広く交流し、自身の作家としての芽を育てる。

 1929(昭和4)年、帰国。

 1930(昭和5)年、34歳のとき、療養中の体験に基づいた作品「ブルヂョア」が、「改造」の2回目の懸賞小説に一等当選し文壇に登場した。東京朝日新聞で正宗白鳥らの絶賛を受けた。その後、数多くの作品を文芸雑誌、新聞や婦人雑誌などに寄稿、精力的に執筆した。

 中央大学講師。

 1942(昭和17)年、結核罹患体験を基にしたノーベル文学賞候補にもなった「巴里に死す」著す。翌年刊行。主人公(伸子)が夫の留学先のパリで、病気療養と戦いながらも良き妻であり娘の良き母であろうとするストーリー。

 1952年、『巴里に死す』が森有正によってフランス語訳され、一年で10万部のベストセラーとなる。以降、多くの作品が仏訳される。 

 1956(昭和31)年、ベルギーの読者クラブ賞次席を獲得。

 1959(昭和34)年、フランス詩人連盟からフランス友好国際大賞を授与されるなど、海外での評価が高まる。同年、天理教教祖に関する「教祖様」執筆。

 1962(昭和37)年、自身の生い立ちにそって時代背景を描いた自伝的長編大河小説「人間の運命」執筆開始。1968(昭和43)年まで続く。1964年、「人間の運命」が芸術選奨文部大臣賞受賞。

 1964(昭和39)年、「人間の運命」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。

 1965(昭和40)年、川端康成のあとを受け第5代日本ペンクラブ会長となる。社会的な活動として言論の自由や表現の自由、文筆家の権利擁護などの実践活動に取り組む。日本文芸家協会理事(渉外委員長)、ノーベル文学賞推薦委員、日本芸術院会員など数多くの役職を歴任し、日本文学を世界に広めることに尽力した。

 1969(昭和44)年、日本芸術院賞を受賞。勲三等瑞宝章受賞。同年、スウェーデンアカデミーよりノーベル文学賞推薦委員に選ばれる。78歳の時、日本とフランスの文化交流の功労者として、コマンドゥール賞(フランス文化勲章)を授与された。

 1970(昭和45)年、日本芸術院会員となる。同年、生誕地である沼津市我入道に芹沢文学館(現在の沼津市芹沢光治良記念館)が建設される。

 1974(昭和49)年、金芝河減刑嘆願事件に端を発したペンクラブ批判で会長辞任。

 1980(昭和55)年、数多くの功績が認められ、沼津市名誉市民となる。

 1986(昭和61)年、「神シリーズ」全8巻を死去まで書き続ける。晩年は、89歳のときより『神の微笑』から始まる「神シリーズ」と呼ばれる一連の作品を毎年一冊ずつ書き下ろし、特に神と魂の救済について深く追究した。

 1993(平成5)年3.23日午後7時、老衰のため、東京都中野区東中野の自宅において逝去した(享年96歳)。遺骨は静岡県沼津市内の墓所に埋葬。天理教としては嶽東大教会系。
 34歳で作家デビューを果たしてから実に62年間、亡くなる直前まで執筆活動を精力的に続けた日本の小説家。 晩年、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念により、"神シリーズ"と呼ばれる神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。

 代表作に『巴里に死す』、『一つの世界』、『人間の運命』、『神の微笑』などがある。「神シリーズ」では大江健三郎との手紙のやり取りで、大江側が「先生」と呼ぶ等、二人の親睦が深いものと思われる描写がある。なお、百武源吾海軍大将と義兄弟の約束を結んでいる。

【「芹沢光治良文学愛好会」の「『教祖様(おやさま)』考」】
 1999.8.1初稿、2008.7.1 改訂、「芹沢光治良文学愛好会」の「『教祖様(おやさま)』考」。

芹沢氏が自分の生涯を翻弄され、実父がすべてを捧げた天理教とは何であったのか。それを知るためには、教祖中山みきの伝記を書くのが一番だと考え、書き上げた天理教教祖伝が『教祖様(おやさま)』です。

芹沢氏が書くからには、教祖伝と言っても単なる伝記ではなく、すばらしい文学作品に仕上がっています。作者はこれを書きながら、主イエス・キリストに降りた唯一の神が、大和の農婦、中山みきにも降りたのだと信じられました。その作者が10年近い歳月を通して見つめつづけた中山みき像の結晶『教祖様』を下地に、中山みきの生涯および神と信仰について考えてみたいと思います。

 後に「おや様」と誰からも親のように慕われた中山みきが生まれたのは、1798年6月2日、今から約200年前のことです。生まれた場所は奈良の田舎の三昧田という部落ですが、重要なのは近くに大和神社があったこと、そして「いざなみのみことが3年3月とどまった」と親神の言う庄屋敷村にほど近かったことでしょう。家は農家で名字帯刀を許された、今でいう中の上くらいの家庭でした。信仰の面から見れば、みきの両親は浄土宗の熱心な信者で、みきもその影響を受け、13歳で中山家に嫁入りの話が出たときも、「尼になりたい」と言って一度は拒否しています。結局両親に説得され結婚しましたが、その条件に毎晩念仏唱名する許可を求めるほど信仰心のある娘でした。

 不思議ではありませんか? 13歳の娘が尼になりたいと言うほど仏を求めたこころが。少女のみきは何を思っていたのでしょう。

 1999年春、みきの生家前川家を訪れました。田舎としては決して大きくない家です。そこ大和は周りを山に囲まれた、どこまでも平坦な土地です。風光明媚なわけでも、厳しい自然があるわけでもない、何もない田舎町でした。

 みきは婚家において人並み以上の働き者でしたが、5年間子供ができなかったことで肩身の狭い思いを味わいました。その頃、中山家の檀那寺である善福寺で五重相伝の伝授会が行われ、悲しんでいるみきを思いやって、家族が参加を勧めました。みきは伝授会の後、「本当の意味で受けたのは唯一みきだけだった」と和尚から感心されますが、この経験により、みきに神が降りるというわけではなかったようです。

 神がかりのある前のみきを簡単に評すれば、欲がなく、こころのきれいな働き者で、信仰心の厚い娘ということでしょうか。この事は、神が降りる社となれる最低条件かもしれません。そのみきに神が降りたのは、1838年10月24日のことです。息子善右衛門の足痛快癒を祈願するために修験者を呼んだのですが、加持台が偶然留守で、みきが代役に立ったのでした。この事はみきが修験者も認めるほど心の澄んだ慈悲深い人間であることを示しています。だが、その祈祷に降りたものは、いつものような霊や八百万の神ではなく、「天の将軍」と名乗る唯一の神でした。神はみきの口を通じて、中山家に「因縁あるこの屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい……返答せよ」と迫ります。

 ここで少し注釈を入れます。「神」と本欄で使う神は、この世の運営に関わる人間のような意志のある見えない存在です。決して唯一神を指すものではありません。この見解の理由は、僕自身の体験(管理人月報参照)、また「この宇宙を造った神とは、人間のような意志のない存在、ただ大自然そのものではないか」という芹沢氏の晩年の解釈に依ります。ここで使う神は、その大自然の意を伝えることのできる存在と考えてください。天にはそんな八百万の神々が実際に存在するのです。では本題に戻ります。

 ここは不思議なところです。因縁ある、つまりいざなみのみことが3年3月とどまったこの地を、世界助けの中心にすることは、最初から神の計画であったわけです。いざなみのみことの魂を持ったみきを、この地に住む中山家に嫁に迎えることも、すべて神の思惑であったということになります。また、神は「引き受けないなら、この家粉もないようにする」と脅していますが、それほどの力を持った神なら、そんな事を頼まずに、ただ「もらいうける」と宣告すれば良いのではないでしょうか。人間に選択の権利を与えたのでしょうか。

 ここで思い出すのは『旧約聖書』です。旧約の世界の中で、神は幾度となく人間の自由意志を尊重する態度をとっています。神の望む生き方をすれば幸福は約束され、それに反すれば苦難を嘗める。それを決定する権利はいつも人間の側に与えられていたのです。そして旧約の中で、人間がいつも神には抗えないと悟ったように、夫善兵衛も、全ての親類が反対する中、天の将軍の申し出を承諾したのでした。

 みきはこのとき40歳になっていました。当時としては、子供を育て上げ、妻の役目を終え、夫と楽隠居を待つ間際の年齢でした。神は何故この年齢まで待ったのでしょう。釈迦の母、イエスの母、伊弉冉尊の魂を持ったというみきに神が降りることは、最初から神の計画であったはずです。それならばもっと早くに降りても良かったように思えるのですが(実際、釈迦もイエスも30の声を聞いた頃に神に触れています)、神は40歳のみきに降りたのでした。それは、どんなに清い魂を持った者でも、女として人間として生きるうちに、俗世に汚れて堕落することがあるから、それを見極めるのに40年が必要だったということでしょうか。あるいは、それも神の計画だったのでしょうか。

 この日からみきと家族の苦難の生活が始まります。みきは貧しい者や病んだ者への施しを始めたのです。それも家財をすべてなげうつような、度を超した施し方でした。みきは神のことばを聞いて満足していましたが、神のこころが家族に理解されない苦しみを抱き、家族は家族で、母が狐つきと罵られ、実際にそう思えるような無理な施しの中で苦しんでいました。そして、その苦しみは10年以上続きました。10年以上の苦しみに堪えた家族の苦しみが、こころを打ちます。

 例えば、息子の善右衛門は嫁を取りましたが、夜中にみきに神懸かりがあるのが怖くて、3日で実家に逃げ帰っています。善右衛門の嘆きはいかばかりだったでしょう。自分が足痛にならなければ――そんなやるせない思いに苛まれたのではないでしょうか。長女のまさも婚期を逃し、家は殺伐とし、親類縁者はそんなみきを狐憑きだとして激しい拷問を加えますが、ついにみきの身体からは狐は出ませんでした。

 為す術のない親類縁者は中山家と縁を切りますが、みきの施しは一層激しくなり、ついに先祖代々の田畑に手を付けはじめ、家を守る塀を壊すのです。一家の長である善兵衛は苦しみ中で、子供たちを守るためにみきと共に死を考えますが実行できません。みき自身、家族に済まなくて自殺を考えますが、やはり神に説得されて諦めるのです。善兵衛は、親類から義絶されようと、近隣から嘲笑されようと、みきを離縁することができませんでした。

 釈迦もイエスも、家を捨て家族を捨て、無一物になって教えを説きました。しかし、みきは家族と共に歩んだのです。その為に、神の声をきけない家族は、疑惑と苦しみの中で過ごさなければなりませんでした。なぜだったのでしょう。それは、神が初めて男性ではなく、女性のみきを選んで降りたことが、大きな鍵となっているように思えます。釈迦やイエスが火のような強さで教えを説いたのに対し、みきが女性のやさしさで教えを説くという違いの中に、教えの雛形となる家族も必要だったのではないでしょうか。

みきの家族はそのように苦しみましたが、その苦しみの中から、古い家族を超えた新しい魂の家族の芽が植えられ始めたのでした。みきは天啓から10年後に裁縫を教え始めますが、そのお針子の口利きで次女のきみが嫁に出ます。狐憑きの家の娘を嫁に貰う家が現れたのも、みきの地道な教えが実を結べた兆しだったのでしょう。五女のこかんも母の意をくめる娘に育っていました。

 みきが56歳の時、結局最期までみきに寄り添って生きた夫善兵衛が天に帰ります。その頃のみきは、ただ神に仕えていたとはいえ、封建制度の元、夫善兵衛に仕える気持ちが残っていたのは間違いありません。その仕える者を天に送り、後はもう神一条に生きられる――そんなこころ持ちだったのではないでしょうか。そのこころに添えない長女のまさは家を出ました。神の準備は整い、その年の晩夏、みきは次女のこかんを大阪ににおいがけに出します。ついに布教活動が始まったのです。

 布教とは何か? 布教とは読んで字の如く、こころを救い、魂を救う教えを敷き広めることです。現在の宗教の多くが誤ったのは、それをただ単に「教団を広げる」と置き換えたことにあるようですが、その非に気づくような知恵のある世代の登場はいつになるのでしょう。

 そうして現在の天理教の元となる活動が始まったわけですが、家族はまだみきを信じてはいませんでした。母屋を売ろうと言い始めたみきに、戸主の善右衛門は反対しますが、持病の足痛が起きて観念します。病は全て自らの内に理由がある――この事は案外簡単な真理ですが、知らないひとが多いのではないでしょうか。その真理を起こすのは神の業ですから、神が善右衛門に気づかさせるために足を痛めることくらい何でもないことなのです。

 布教を始めた翌年には、娘はる(きみが改名)のお産で初めて「おびやのゆるし」をみせます。その評判が広がって「お産の神さん」と言われるようにもなりますが、その頃には家を売り、日々の飯にも困るほどの窮乏で、みきの家は相変わらず嘲笑の的でした。しかし、みきが59歳の時、足達重助という男が、いざりの娘を助けてくれとみきの元を訪れます。みきはその場で娘を歩かせて、初めての癒しをみせます。この二つの出来事が、みきの身辺に変化をもたらし始めたのです。

 みきが64歳から66歳の頃、ついに「神の家族」が姿を見せ始めます。病気を癒してもらった者のうちから、みきの教えに耳を傾ける者が出てきたのです。66歳といえば、みきが神がかりにあって25年後のことです。四半世紀――なんと長い月日だったことでしょう。ですが、それも過去を振り返れば無理もないことかもしれません。たとえば釈迦は王子として生まれ、幼い頃から学問に通じ、出家して後も7年間、死に瀕するような苦行を行っています。イエスも子供の頃から律法に通じていたという下地がありました。ただの田舎の農婦であったみきが、神の話を理解し、その身に染み込ませるまでに、25年は必要だったのかもしれないのです。

 神の家族はひとりまたひとりと増え、みきの家には常に人々が集って、毎夜みきの神の話がとりつがれました。みきが67歳の時、「とうりょう」と呼ばれ、後にみきの片腕となる大工の飯降伊蔵が入信します。伊蔵は、妻里が産後の肥立ちが悪くて寝たきりだったのを助けられたのですが、初めてお礼に伺った日の帰りに、「お礼にお社をつくってさしあげたいなあ」と夫婦で話し合うほど、こころの豊かな二人でした。その気立てゆえでしょう、1ヶ月後にはもう「お授け」をいただいています。そして、その伊蔵の希望通り、壊してばかりだったみきの家にお社がふしんされたのです。

 せっかく余計な衣を脱いで身軽になっていたみきは、このふしんをどう思ったことでしょう。釈迦ならば、あっさりと「大切なのは器ではなく中身だよ」と建物ではなく、こころの普請が必要であることを説いて、拒否したことでしょうが、みきには人間的な情が残っていたのでしょうか。それとも聞く耳を持たない信者たちを、太陽のようにただ優しく見守ったのでしょうか。

 みきと信者との断裂は、信者が現れはじめた、このごく初期の頃からはじまっています。みきは何とかして信者たちに、神の理をわからせようと話し続けたことでしょう。しかし、耳あれど聞かずの信者たちのこころには、なかなか浸透していかなかったようです。すぐそばに神の意を伝える者がありながら、俗世のこころを捨てられない信者たち。このことからも、神のこころになるとは、いかに大変なことであったかがわかります。作者はそれを当時の農民たちにとって「革新的な教えであったから」だと書いています。

 これだけ文明が進化し、人々が生きるための様々な智慧を持ちはじめた現代でも、この書物の親様の教えを読んで、きちんとその意味するところを理解できている人がどのくらいいるか。それを考えると、作者の同情も正しい評価なのかもしれません。あるいは神の言葉を理解できても、神のこころに添って生きることが如何に難しいか。当時であれ、現代であれ、素直で清純なこころにのみ、神のことばは浸透していくのでしょう。

 そんな状態ではありますが、みきの元を訪れる人の数は増える一方でした。百姓の次には武士も訪れるようになり、それと同時にイエスと同じように、旧教による弾圧もはじまったのです。山伏が刀をさげて乱暴狼藉を働くのですが、みきは一向に動ずることなく、「神にもたれていれば何も案ずることはない」と怖れる信者たちを慰めます。みきにとって、信者も山伏も同じ神の子だったのではないでしょうか。ですが、みきのように信を持てる人はそう多くありませんでした。そのことが保身という考えを生み、権力を頼ることにつながっていきます。

 宗教団体。現代において、この言葉に嫌悪感を抱かないのは、その団体に属する人たちのみです。献金を迫り、政治に関与し、豪壮な建築と精神の繁栄を取り違える。異なる思想を排撃し、戦争にまで発展させる。幹部の心は金と権力と名誉に汚れ、末端の信者の真の信仰は少しも生かされない。宗教はいつこの過ちから抜け出て、宗派の壁を超えて1つになることができるのでしょうか。

 みきは当然その宗教の堕落を承知していました。或いはそれも神の計らいの一部であると教えられていたのでしょうか。みきはただ黙って信者たちの権力主義に目をつぶったようですから。そんな信者たちの行動に関わりなく、その晩年まで、みきはただ淡々と神の道を説き続けたのでした。

 この頃のみきについて疑問に思うことがあります。信者たちは「今夜はお降りがあるかもしれない」と言って夜遅くまで帰らなかったとあるのですが、この通りだとすると、みきが神の話をするのではなく、降臨した天の将軍が話していたということになります。では信者たちは、みきのことをどうとらえていたのでしょうか。神の社ではあるが自分たちと同じ人間だと、軽く考えてしまった者もあったのではないでしょうか。そこから神のことばは重んじるが、みきの言葉は聞き流しても構わないという誤解が生じたのではないでしょうか。それが晩年のみきと信者たちとの溝となったような気がして仕方ないのですが――。

 そうだとするとみきはどんなに寂しかったことでしょう。四半世紀を血のにじむ修行の中で、神と共に暮らしたみきは、確かにおなじ人間ではあっても、イエスとおなじ神の子と呼ばれるにふさわしい魂になっていたというのに。作品の後半には、その寂しそうなみきの姿が、目に浮かぶように描かれていて悲しくなります。信者たちにもう少し智慧があれば、天の智慧があればと思わずにいられません。

 神のこころと人間心との間に板挟みになったこかんが出直したのは、みきが78歳の時です。ひとが死の準備をするような年齢になってなお、みきの活動は勢いを増します。こかんを失った後、みきは本当にただひとりになったのではないでしょうか。もう何に煩わされることもなく、周りに集まる「まこと」のある信者たちの行く末をたのしみに、ひたすらに神一条の道を走ったようです。みきは方々の信者ににおいがけを行い、その芽は全国に芽吹いていきます。

 みきは86歳のとき、休息所に移ります。すでに善右衛門も出直し、みきと対等に対話のできるものはありませんでした。

 みきはもうただ一人ひとりの胸に神のこころを刻むことだけに時を過ごしたようです。この晩年のみきからは、ただただひかり輝く姿が浮かび上がってきます。奈良のおだやかな寒村から、目に見えぬ後光が世界中に放たれている様子が見える気がするのです。

 明治20年の冬、みきは90歳で天に帰りました。115歳の寿命を信じた信者たちは大いにうろたえました。ですがみきは、25年の定命を縮めて、それこそ復活のイエスのように自由な魂で活動をはじめたのです。

 『教祖様』はここで筆を置かれていますが、この日から、神が表に現れると予言した30年祭までの間、存命のみきは日本中で活動したのではないでしょうか。あらゆるまことある信者の元に現れて、その信仰を深めたのではないでしょうか。そして30年祭。いよいよみきは井出国子の身を借りて教祖殿へ現れます。

 井出国子は、あの3女きみの理を継いだ娘だったと言います。心根のやさしさを買われて、狐付きと噂されたみきの娘であるにも関わらず、請われて鍛冶屋に嫁いだきみ。国子の夫もまた鍛冶屋でした。その国子の身体で教祖殿に座り込んだみきは神の教えを説きはじめましたが、すぐに教祖殿から引きずり出されました。

 そこから播州に帰って、一人ひとりの胸に種を蒔くような地味な活動を続けましたが、それこそが神の道で、それとは対照的に天理の教祖殿では、今も変わらず主のない愚かな儀式が繰り返されています。国子は教団を非難するのではなく、「形ではない、団体ではない、自分ひとりで神に真向かうこころの対話が必要なのだ」というやさしい真実を伝えていたのでしょう。

 終戦3年後、国子は85歳で天に帰っています。死の数ヶ月前から「疲れた。もう神の元に帰りたい」と絶食したと言います。みきの道、国子の道を思うとき、神の道のなんときびしいことかと畏れずにはおれません。あのイエスの道もそうでしたが――。

 みきは今、どこで働かれているのでしょう。それは一人ひとりの真の信者たちの元で、また、神の意を必要としている世界中の純粋なこころのそばで働かれているのではないでしょうか。

 宗教など無くとも、人間一人ひとりが大自然と対話し、愛を語るために言葉を使い、幸福になるために知恵を使うことを思い出すだけで良いのですから。

 神にもたれて安心していれば何事もうまくいきます。この大自然に感謝して、やさしく、欲のない低いこころで通らせてもらってください。みきの伝えた教えは、そんな素朴なことだったように思います。この豊かな大自然に育まれて、私たちは生きているのですから。

 『神の慈愛』の中で親様のことばをとりあげた一文を、みきと芹沢氏に深く感謝して、ここを訪れてくださった皆さんに贈ります。

「言葉によって人間同士愛を語りあい、知恵によって、おたがいの幸福をつくれるように」

――最後までお読みいただき、ありがとうございました――

 昭和24年から32年にかけて「天理時報」に連載された力作で、「人間の運命」の作家、芹澤光治良が天理教の教祖中山みきの人となりを芹沢光治良式に詳細に描き出している。

【芹沢光治良の「教祖様」執筆事情考】
 2018.11.29日、「『天理時報』と芹沢光治良の「教祖様」」。
 芹沢光治良『死の扉の前で』新潮社、昭和53年。

 

 芹沢は、昭和24年から32年という、8年もかけて『天理時報』に「教祖様」を連載していた。これは、養徳社の岡島善次社長が、芹沢に依頼したものである。芹沢は岡島が「教団で最も優れた知識人である」と述べている。岡島は青年と共に上京し、芹沢に以下のように依頼する。「先生、『天理時報』に教祖伝を書いてください。それもできるだけ早く始めてください」。「敗戦後、教団では復元といって、教祖様にかえろうと、盛んに唱えています。教団というより、中山管長が主張しているというべきですが、復元の一号というか、管長を真柱と呼ぶことになりました。真柱様は莫大な経済力を持っており、教団では神の代理人として絶対の権力を掌握しているばかりでなく、政治性もあり、性格的に専制君主のような強いお方ですから、復元といって教祖様の道にかえると言っても、自分に都合のいいような教団にしてしまう危惧が十部あるのです。現在すでに、親様の意図した広い世界に開かれた天理教を、狭く閉ざされた中山教にしてしまいそうです。それをふせぐ第一の方法は、教外の信頼のおける文学者に、真の教祖様をお書き願って、『天理時報』に連載して、この際、先ず信徒にも、教団にも、社会にも新の教祖様を知って頂くことです。これには、先生をおいて適任者は他にございません―」。(24-25頁)

 

 それから暫くして、時報社の生田社長が東京教区長とかいう教会長を伴って、岡島氏の依頼の教祖伝はいつから執筆してもらえるのかと催促にきた。私は改めて辞退したが」、「私が「天理時報」に教祖伝を執筆することは、本部の承諾を得てしまったから、教団挙げてのお願いであるからとて、もう辞退できない様に強引に説得した。その時、運わるく、その夏の終わりに突然起きた喘息の発作が、再び起きていて息苦しく、口をきくのもたいぎだった。その様子に気づいて、黒紋付きの着物に袴の神奈川教区長の中沢隼人氏が―「先生、喘息のようですね。八月末に発作が起きたのですか、それは教祖伝を書けという神のせきこみですね、お書きにならなければいけません・・・というので、私も書くより他にないのかと諦めたが―」 (26頁)。


【「死の扉の前で」のナライト押し込め事件前後考】
 「ナライト押し込め事件」につき、芹沢光治良著「死の扉の前で」(P75~76)は次のように記している。
 「教祖様が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。

 本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが「おさづけおはこび」をなさることに決まっていました。「おさづけおはこび」は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代わった信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。

 初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になったが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら「おさづけおはこび」をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。

 ・・・教祖傳で、教祖様を生まれながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時々神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。・・・

【「死の扉の前で」の井出くにむほん考】
 芹沢光治良著「死の扉の前で」(P199~)は次のように記している。
芹沢  「いいや、真柱は最初会った時に、井出くにのことを話さないという誓いをさせられたからね」
 「そうでしたね。先生、その井出くにって人は、一体どういう人ですか」
芹沢  「この人も、その余波の一つだろうが、この人を識ったおかげで、僕は聖書を通じてキリストを理解できたが、また、天理教の教祖をすなおに理解できたし、『教祖様』を書く自信を持ったのだね……」
 「それなのに、どうして真柱様は話すなと約束させたのでしょう」
芹沢  「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に-大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」
 「いいえ…・・・不勉強で・・・・・・」
芹沢  「三十年祭前後の四、五年間の天理教の歴史は、奇怪で変化に富んで、何か重大なことがあったようだが……君のような有能な人には、信仰上研究の価値あることだと思うがね」
 「全然知りませんでしたが-」

 と、賀川氏はますます膝をのり出すので、忙しいのに、私も話の進行上やむなく話さざるを得なかった-

【「死の扉の前で」のナライト押し込め事件考】
 芹沢光治良著「死の扉の前で」(P200~203)は次のように記している。
 三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎が入信すると、天理教では大袈裟に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終わると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。

 三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと誌しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正善が真柱に襲職したが、その後見人として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。

 大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終わって、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。

 この年、本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関紙「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した。
 -こうしたことを話してから、私は加えた。
芹沢  「……それで僕は、その大平良平の『新宗教』という個人雑誌を探すのに苦労したものだよ。アルバイト学生の努力と多くの費用をかけて、ようやく創刊号と五、六号と最終号を手にいれたが……それに目を通して、この人が天理教の教会組織に批判的で、三十年祭には神がおもてに現れると言い伝えられたことを、文字通り信じていた真摯(しんし)な信仰者だと、分ったけれど……最終号の廃刊の辞ともいうべき文章に、神がおもてに現れた現在、『新宗教』のような雑誌の存在理由は喪失したと、いうような言葉が目に飛びこんだ瞬間、僕は、それが、井出くにむほんの月であることを思いあわせて、目から鱗(うろこ)がおちた思いがしてね……何か起きたにちがいない-と」
 「あの、三十年祭に神がおもでに現れるという言い伝えって、何のことですか」
芹沢  「君のように若い人は聞かないかも知れんが、僕は少年の頃、よく聞いたものだよ。僕の父は明治二十二、三年頃の入信だが……家中皆それを信じていたね……尤も僕は三十年祭の頃には、自意識のはっきりした旧制一高生で、信仰などすてた後だし、生れた家へも帰らなかったから、天理教にどんなことが起きたか、何も知らなかったが……あの播州の井出くにが生きていたらば、むほんの顛末(てんまつ)について訊きたいと、切実に思ったものです」
 「亡くなったんですが、その井出くにって、人-」
芹沢  「敗戦の翌年、八十五歳で病死した。僕はその後、『教祖様』の取材で大和へ出向いた帰途、播州のその人の家へ寄ってみたんだ。その家に、親様の長女のおまささんの孫で、福井勘治郎という人が、ずっと同居していると噂を聞いたから、今も健在ならば、何か聞けるだろうと、思ったからだが……ところが、その家は 〝朝日神社″になっていて、耳の遠い老人の福井氏が神社の神主役をしていて、僕の質問に、-あんた、そんなことを知らなかったですかと、大きながら声で、だてつづけに一時間以上も話すのを、僕は仰天して聴き惚れてしまってね。無骨な人で、話も下手でしたが、その話の内容がとてつもなくて面白くもあり、吃驚しながら……」
 「どんな話でしたか、先生、是非聞かせてください」
芹沢  「うん」と答えたものの、どう話すか迷ったが、
芹沢  「その福井勘治郎氏は三十年祭までは、天理教本部の家付きの人間で、本部で青年勤めをしていたそうだが、本部の神殿が落成する二年前ぐらいから、信者の間に灯が消えたように信仰が燃えないので、本部でも心ある青年は何か危機感を抱くようになったと言うのです。それも、氏の考えによると、明治二十年に教祖の死後、孫の真之亮が初代真柱になり、飯降伊蔵が本席として神の啓示を『おさしづ』で伝えることで、天理教の信仰の火が日本中に盛んにひろまったけれど、明治四十年に本席が亡くなってからは、教祖の血統による真柱と神中心の本席と、二本の柱で支えて来た天理教本部は、信仰中心の柱の方を失ったわけですね。血統による真柱は、それまで信者の心が自然に本席に傾くのを、無念に思っていたが、本席の死によって、信仰が真柱たる自分を中心に一本化するものと、期待したというのです。こんなことは、君は十分知つていたね……

 上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなり信仰の灯を輝くようにはかったのだが、突然その若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感に戦(おのの)いていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇(よみがえ)って、秘かに心の準備をしようと、心懸けたそうだ。大平良平の『新宗教』も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ……」
 「それで、三十年祭に、ほんとうに神が現れたと、言うのですが」
芹沢  「それが……三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。その頃福井家は、晩年の親様のすすめに従って、本部の鼻先で開業した福井屋という宿屋を、母親と細君が細々と営業しながら、福井氏は毎日本部に青年勤めをしていたが、八月のむし暑い夜、十二時近く奉仕から戻ると、奥の客室から、低い女の声で、『みかぐらうた』が聞えていたそうだ。その日午前中に着いた女客だと聞いて、不審にも思わなかったが、翌朝五時前に目をさますと、同じ歌声が微かに聞えていた。主(あるじ)が起きたら会いたいと言っているという細君の言葉で、座敷に出向いて挨拶すると、豊かな容姿の中年の田舎の婦人が端坐していて-福井はん、ご苦労さんやなあ……親様にたのまれて、きのう教祖殿に坐りましたぜ。親様のお言葉にまちがいない証拠を見せるためになあ………あそこに坐ったら、世界もお道も助かるように、神様のおさしずが刻々あるのやで………それがなあ、本部の人々が来なはって、引きずり出しましてなあ、袖は千切れて、えらいめにあいました。これから三昧田へ戻りたいが、お母さんはいなはるか……と優しく言うので、福井氏は退(さが)って、改めて洗顔したそうです。前日教祖殿に狂人が頑張っていて困ったという噂を聞いたことを思い出して、再び婦人の部屋をのぞくと……母親が婦人と旧知のように親しく話していて、しかも涙をこぼしでいるし、話の内容は、おまさ祖母(おばあ)さんのことや、四、五十年も前のことばかりで、驚いたことに、婦人は変貌して、話に聞く教祖になっていたと、言うのです。それからが大変で、母親はその婦人を教祖である祖母扱いをして、三昧田の教祖の生家である前川家へ歩いてお伴したが、暑い田圃路を下駄ばきで速いこと、福井氏も母親もついて行くのに息を切らせたそうで……前川家では、また、教祖が戻ったようで、誰も疑わなかったし、近所の老人達まで集って来て、昔語りをはじめた……と、福井氏は話したが………
芹沢  「そうした有様を、とにかく福井氏はじっと観察しつづけて、三十年祭に現れると待望した神は、この人ではなかろうか、一体この人はどういうお方かと、婦人のあとをつけるようにして、播州の三木町へ来てしまったと言うのです。噂は本部にも伝わって、大平良平はじめ熱心な若者が集って来たが、婦人は問われるままに、誰にも、親神や教祖の思召(おぼしめ)しを納得の行くまで話して、神の力を示しては、すぐ本部に戻るようにすすめたけれど、福井氏は頑として本部へ帰ることをせずに、四十年以上たってしまったそうですよ」
 「先生、井出くにのむほんと、本部で言うのは、その人が教祖殿に坐ったということでしょうか」と、賀川氏が吐息した。
芹沢  「坐っただけなら狂人扱いして、済ませて、むほんなんて大袈裟に年表に書かないだろうが、教祖殿でお助けでもしたのではなかろうか。その上、教祖の重要な親族の福井氏が新しい神が出現したといって出向いたし、多くの信者が播州へ行って、天理教には大きな衝撃だったろうね。そのへんのことは何も僕は知らないが-」
 その時、家内が夕食の支度ができたからと、合図した。そんな時刻になったことも、私達は気がつかなかった。

【芹沢光治良「死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト」】
 芹沢光治良「死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト」(74頁16行-79頁2行)。
芹沢  「先生、今までのお話でよく判りました。真柱様は先生に一目おいていられるのですな」。
 「どういうことですか一目おいてるとは-」。
芹沢  「尊敬しているのでしょう……真柱様は先生に理想の真柱像を見せようと努力しているのです。田園調布の若様のお宅で先生に話された教理、岳東大教会で大教会長に代って先生に謝罪した話、ほんとうに感動的ですね。これは真柱様が先生を尊敬して、懸命にご自分のよさを示して、先生との関係を深めようと努力しているのです……それを知って、うちの会長もそして私も、先生にお願いがあるのです。そのお願いのために、このように参上しているのです」。
 私はその物々しい言葉に戸惑って、彼の顔を見た。全く真剣そのものだった。
 「先生、真柱様の友達になって下さい」。
芹沢  「え、友達だって-」と、可笑しさがこみあげた。
 「友達にならなければ、真柱様は先生にご自分を示さないし、お考えも伝えません。先生、友達になって、真柱様がお道を復元すると信じて、実はとんでもないお道にしてしまうことを、防いで下さい。活字別の『稿本天理教祖伝』の草案の一部をご覧になっただけでも、とんでもない教祖伝を創ろうとしていることが、おわかりでしょう。真柱様に都合のいい教祖伝にして、それを信者に押しつけようとしています」。
芹沢  「真柱に都合のいい教祖伝つて-」。
 「根本的なことは、教祖ははじめから神で、人間ではないとしています。先生の親様は、一人の心優しい農村の主婦が、神がかりがあってから、神の思召(おぼしめ)しに添おうと五十年間超人的なご苦労をして、ようやく神の社(やしろ)となりますね。それが教祖の実像です。決してはじめから神ではなくて、人間であって、ただ神に近づこうと精進なさった。だから、教祖の雛型(ひながた)をふむという教理も成り立ちます。教祖が生れながらに神であるならば、雛型として人間は従えません」。
芹沢  「教祖が生れながらに神である方が、どうして真柱に都合がいいの」。
 「教祖様(おやさま)が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが『おさづけおはこび』をなさることに決っていました。『おさづけおはこび』は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代った信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になつたが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら『おさづけおはこび』をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は、天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振えないで、自制していたのでしようが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っ平に自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかつています。信仰面では明治教典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です……教祖伝で、教祖様(おやさま)を生れながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時時神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いで下さい」。
芹沢  「そのような危惧の念を抱くのは、君や君の大教会長ばかりではないだろう。本部の偉い先生方が、なぜ真柱に説いて、それをしないのですか」。
 「それは不可能です。真柱様は神の代理者です。その言葉は神の言葉として、教会長も信者も絶対に従い守らなければならないことに決っています。まして真柱様を説得するなどとは、理の上(教理上)で絶対にできないのです。ですから、信者でなくて、真柱様が一目おく先生に、お願いに上ったのです」。
芹沢  「それなら、彼が尊敬する大学の先生か学者に、適任者が幾人もいるではありませんか」。
 「それが、本部にお出掛けになる学者先生を考えると、半分は真柱様から物質的な援助を受けているので、その資格はありません。他の半分の学者先生は、天理教やお道の信仰が、どうなろうと関心がない方々ですから、頼んでも無駄ですが……先生は『教祖様』を読んでも、お道に対して深く理解と愛情を持っていますし、ご尊父の信仰からしても、お道に認識がおありなので、それに加えて、現に『教祖様』をお書きになっていて、真柱様も愛読しているのですから、説得力があります。先生お願い申します。真柱様の友達になって下さい-」。
芹沢  「友達になれ、なれと、言われても、たがいに子供ではなし、簡単に友達にはなれんよ。無理だなあ」。
 「先生、真柱様の場合は容易です。権力をもつ独裁者には、一つの盲点があるものです。あらゆる場合、すべての物を独占したいという慾求が、本能になっています。換言すれば、慾深ですから、それを満足させればいいのです」。
 私は呆然と答えようがなくて黙ってしまった。
 「先生、真柱様は教祖様の書きのこされた『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言つて、教祖様がお話しになったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する怖れがあります。特に本席様を通じて二十年間親神がさしずしたお言葉は(これを『おさしづ』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大(ぼうだい)な史料として残っていますが、これを全部通読した者はないでしようから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句(タブー)だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしづ』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか……それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさつた史料について、将来のために記録して頂きたいのです」。
芹沢  「そうした史料は保存し、特別の施設をもうけて、図書館や参考館のように、一般に公開すべきでしょうね」。
 「全くそうです。そうしたことも、友達になられれば、真柱様に忠告できますでしょう。ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけれど、立派なお方のようですよ。昭和十二年の一月に七十五歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向い、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞……松竹梅でおさめまいらせ候と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて、教祖様(おばあさま)のところへ参りますと、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引きとったそうです。私は感動してその婦人を詰所(つめしょ)にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎(とが)めがあったのでしょうね……先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて……神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」
 と、賀川氏は改めて畳に両掌をついた。

【芹沢光治良(こうじろう)の中山正善とのやりとり】
 芹澤光治良「死の扉の前で」中山正善 と 「教祖様」再版のいきさつ」。
 昨年(昭和五十二年)真柱の十年祭を迎えた。私はその年の誕生日に、日誌に、「おろかしや ひたに走りて 喘ぎ省る やそじの坂を とうに越えしを」と感想を書きとめたが、これは、初めて己の年齢を考えて、近い死の扉に気がついて慌てたからだった。私は死ぬ前には中山正善氏を書かなければならないと、前から考えていたが、今書かなければ永久に書けないかも知れないと思った。十年祭にあたって、霊前に捧げられると勇んで書きはじめたが、十年祭までに完成しないで、招かれたが十年祭の式典にも出れなかった。その長篇小説「死の扉の前で」は、約一年かかって書きあげて、出版社に原稿を渡して、ほっとした夜、真柱さんの夢を見た。元気で私のサロンに通りながら……芹沢君、教祖様の再版出さないの?と、例のやや癇高い声で言われた……あれを絶版にしたのは真柱さんの希望でしたよ……あれ、君は精根かたむけたものなあ、惜しいよ……

 「死の扉の前で」には、「教祖様」を創作した頃の苦悩を少し書いたので、そんな夢を見たと思って、すぐに忘れた。しかし、それから三日後善本社の山本社長が突然訪ねて来て、「教祖様」を出さしてくれと言われて、不思議な気がした。それまで、いく度この書物の再版を求められたか知れない。天理教の老若信者からばかりでなく、普通の読者からも盛んに求められた。大阪に万国博覧会のあった年、ブラジルの未知の技師が訪ねて来て、ブラジルでこの書物を読んで天理教を信ずるようになり、私に会って信仰について語りたくて、万博見学に来たと話して、土産にこの書物を買おうとしたが、絶版で失望していた。しかし、私は再版する気にならなかった。読者に、私が天理教の信者であると誤解させることを怖れたが、また、資料の不足だったために作品として自信を持てなかったからだった。ところが、無名の出版社の山本社長の依頼は、亡き真柱さんの願いのような気がふとした。それ故、私は出しましょうかと答えてしまった。おかしなことだ。

 善本社の実力を私は全く識らない。あれほどためらった「教祖様」の再版を、関係もなく、信頼するに足るかはっきりしない出版社に、簡単に委せたのは、私が自分の作品を愛しない怠慢からだろうと、反省もするが、山本社長が前真柱から送られたものと思いなおして、亡き友の友情として、すべて気にかけないことにした。ただ私は再版に決定してから、天理大学の芹沢茂氏に頼んで、繁忙のなかに初版本を読んで誤りを指摘してもらったことに感謝するとともに、「ふしぎな婦の一生」という副題をつけることで、満足した。

 昭和五十三年五月 芹澤光治良

【「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」】
 天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」。
 身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…

 大正時代に入ると、身心の異常の度合いが激しくなった。これは大正三年の大正普請と呼ばれる膨大な費用をともなった天理教施設の竣工、第一次世界大戦の勃発や真柱中山真之亮の出直(病死)などが関係していたと思われる。同五年には教祖三十年祭が執行され、生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っていたナライトであったが、大正六年初夏に胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復。しかし翌年の大正七年三月二十三日にまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。 一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまったのである。ナライトは本席のように言葉による神示がほとんどなかった。そのため、その身体上に現れた障りを含む身振りや動作で神意を悟らなければならないのであるが、当時の天理教本部の中にはそれを解読できるような者はいなかった。

 このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。が、それ以上に茨木基敬の問題(茨木事件)が絡んでいたことは間違いない。ナライトの病気が革ったのは、茨木基敬が本部を去った翌日からなのである。茨木基敬は天理教の本部員で、天啓を取り次いでいたが、本部は彼を一方的に罷免し、放逐したのであった。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。そこで本部員会議を招集し、同年七月十一日から教祖の孫に当たる中山たまヘ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの代理として「おさづけ」を渡すことが決定されたのである。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなくなった。同時にナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった、本部におけるナライトの公的な役割は終わったのである。つまり、中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトとつづいてきた天理教の霊統は、大正七年の段階で途切れてしまったわけである。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。

 大正十三年に教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。昭和二年頃には天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあったようである。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。時として啓示のような霊的な閃きをかいま見せてもいる。たとえば、ナライトの家の桜が見事に開花したときのこと。通りかかった親類が、門の近くにいたナライトに向かって「きれいに咲きましたなあ」と挨拶がてらに声を掛けると、「根を見よ」とだけいって、家に入ってしまったという。一見、華やかに見える現象には、すべて目に見えない根があり、その不可視の根の部分のほうが実は肝心要なのだというたとえである。それにしても何とも意味深い言葉ではないか。

【芹沢文学研究会代表/小串信正氏の芹沢光治良研究】
 2016.9.12日、芹沢文学研究会代表/小串信正の文学評論連載芹沢文学講話②  」。
 芹沢光治良氏の生育の地(故里)・沼津

 芹沢光治良氏は、静岡県駿東郡楊原村我入道一番地に、父芹沢常晴、母はる(有馬氏)の次男として生まれました。長兄真一と弟妹亀太郎・智恵・常太郎・一雄・喜久・武夫・常雄・清・末敏・茂の十二人もの兄弟姉妹であったのです。楊原村は現在の沼津市に組み入れられていますから、芹沢光治良氏の生育の地・ふるさと(故里)は「沼津(市)」であると言えるのです。旧沼津中学校跡地に建てられている詞碑には「わが命果てて 天に昇るとも/魂の故里パリ・東京に舞いもどるたび/命の故里沼津に飛びて/市民を見守り 幸を祈らん/九十一翁 光治良」と刻されているように、沼津は「命の故里」であるのです。

 芹沢家の詳細な系図が遺されているか不明ですが、生地我入道を初めて訪ねた時に吃驚したのは、生家は無く石碑「沼津市名誉市民 芹沢光治良生誕地跡」があるだけでしたが、近隣や我入道には芹沢の表札が溢れていたことです。こんなに分家や親類があるのかと思ったのですが、沼津市にも多くの芹沢氏があるのです。これらの芹沢氏一族の本家がどこにあるかは知りませんが、我入道の芹沢氏の本家は網元(津元)であった芹沢光治良氏の家であったようです。

 芹沢家の先祖は「芹沢家系図」には「芹沢藤右衛門六男 天保八年三月十一日 我入道村一番地へ分家」とあり、芹沢長三郎→常吉→常蔵(常晴)→光治良と繋がっているのです。大河小説『人間の運命』の第1巻・序章『次郎の生いたち』には兄一郎が生まれた時に祖父常衛門が「十二代常衛門たるべき男子」と言い、「この家の祖先が武田家と武士とをすてて御殿場に土着してから」とも書いています。光治良少年は祖母久米に育てられ、子守唄がわりに先祖の物語を聞かされて育ちました。そのことは短編小説「小さい運命」に「私の祖先は西方から船で渡来したといい伝えられている。多くの家来を引き具して二つの宝物を奉じて、東方へ向う途中、駿河と伊豆との境の故郷の村に流れついて、そこへ上陸し、呑気に魚をあさって飢をしのぐうちに、いつか居ついてしまって一団の漁村をつくったのである。」と書き、「歴史物語」には桓武天皇からの平姓で今川氏や武田氏の臣下から武士を捨てて農民となったことなどが書かれています。祖母の先祖物語は、貧窮した生活の中で幼い光治良に誇りと希望を与えたのです。人は延々と一度も途切れずに続いた命の繋がりなのです。
 兄は母の実家で生まれたようですが、次男の光治良は両親の天理教の信仰から、『次郎の生いたち』に書かれているように父の家で生まれたようです。それで、我入道海浜に「芹沢文学館(現芹沢光治良記念館)」が建立されているのです。我入道という地名は特異ですが、大河小説『人間の運命』第2巻『親と子』に「我入道|面白い名前だが、日蓮上人が滝の口の難を逃れて後、漁船にかくれて鎌倉を逃げたのだが、潮か風の具合で、船が君の村に流れついて|この土地こそ我が入る道であると、宣言しながら上陸して、身延山へ行ったことから、我入道と呼ばれるようになった」という説を書いています。

 両親が天理教の信仰で〔注/『次郎の生いたち』では、池に落ちた瀕死の次郎に天理教のお授けをして、蘇生したら財産を捨てて教祖中山みきの雛形となると誓ったことによる〕、相続した芹沢家の財産を処分し家を出て伝道師となったのです。祖母に懐いていた次郎は仕方なく残していったのを、幼心では両親に捨てられたと思い込んで傷つきました。父親の信仰は、アッシジの聖フランシスにも似て尊いとは思いながら、芹沢氏は生涯にわたり両親を許すことが出来ませんでした。風に鳴る碑には「幼かりし日 われ 父母にわかれ 貧しく この浜辺に立ちて海の音 風の声をききて はるかなる とつくにを想えり  一九六三年 芹澤光治良」と詠み、孤絶の碑には「ふるさとや 孤絶のわれを いだきあぐ  八十五翁 光治良」と刻しました。4歳で突然に両親がいなくなり、残された祖父母などの家族が急に貧困になったことは、光治良少年にとって大きな運命であったのです。しかし、この貧困を味わい苦学したことは、作家としての人生を切り開くものであったのです。幼少からの困難こそ、「芹沢光治良」という偉大な作家を育成したとも言えるのです。

 芹沢光治良氏が狩野川の河口の我入道で育つのに、大きな影響を与えられたのは、駿河の海と富士の山でした。駿河湾は漁民に自然の「母のような恵み」をもたらすと共に、冬の荒れた海では難船で犠牲者を出すものでした。富士山(富岳)からは、困難苦難に耐えている時に「父のような激励」を受けました。それで、沼津市民センター内の詩碑には、「とつくにに/死とたたかいし/わかき日々/われを鼓舞せし/富岳よ 海よ/げにふるさとは/ありがたきかな/八十四歳 光治良」と詠み、富士山と駿河湾に感謝しているのです。 また、我入道連合自治会館の壁面の石碑にも「われ この地に生れ 跣で育ちて/世にはばたけど 時に西風 胸を叩きて/だせん(難船)だと おびやかしてやまず/されど清き狩野の流 心を洗ひ/けだかき富岳は常にわれをはげませり/翁になりて帰れば/村人は豊かに極楽人になりて 我を迎う/思へばありがたきかな/本籍ここにありて/極楽人の仲間なるを/一九八三年 八十六翁 光治良」と刻されています。この詩には狩野川の流が心を洗ってくれたと詠まれています。沼津の自然や人情が光治良少年を大きく育てたのです。

 人は何処で生まれたかというのは大きな意味があると私は思っています。特に作家にとっての故郷は大きな意義があると言えます。親の仕事で、本籍ではない所で生まれることもあります。作家横光利一氏は、父親の本籍は大分県宇佐市ですが、仕事で滞在していた福島県北会津郡で生まれました。利一氏は、のちに本籍地を父と同じ宇佐市にしています。細かく言えば、母親の生家に帰って産むことが多いので、生育の地と違うこともあります。多くの偉人は故郷を出て学び、都会の地で業績を上げて評価されるものです。芹沢光治良氏もその一人で、一高・東大・パリ大学で学び、東京や中軽井沢に在住して創作をしました。沼津市の名誉市民に選ばれたこともあり、死後の芹沢家の墓地を生前に沼津市営墓地(中瀬町沼津市斎場前)に決めて、墓碑銘も自作しました。墓石の正面には「芹沢光治良 その家族 の墓  古ごろも ここに納めて 天翔けん  一九八二 八十五翁 光治良」と刻し、上面の本の形の墓石に「自己確立のために/東大 パリ大学に遊んだが/病を得てから/自ら求めて学んだ/イエスに生と愛を/仏陀に死と生を/中国の聖賢に道を/科学者の畏友ジャックに/大自然の法則と神の存在を/かくて孤独に生きて/ひたすらただ書いた/光治良」と刻しています。作家芹沢光治良氏は、没後に沼津に回帰したのです。沼津で生まれ育ち、常に故里沼津を想い続け、没後には沼津に帰ってここに眠っているのです。芹沢光治良氏こそ、沼津が生み育てた偉大な作家と言えます。駿河銀行の財団法人が設立した「芹沢文学館」は「沼津市芹沢光治良記念館」として沼津市に引き継がれています。今後も沼津市は、記念館を中心にして「芹沢光治良」を研究や顕彰していかねばならないと思います。

 楊原尋常小学校(現沼津市立第三小学校)へ通いますが、我入道の子供たちは弁当を持って行けずに、校庭の井戸で水を飲んで耐える日々を過ごします。一介の漁師の家となった祖父母の芹沢家には、叔父三吉家族が同居するようになりました。光治良少年も漁師になるために叔父の船に乗せられ海に出ますが、3歳で池に落ちて死にそうになった体験からの水への恐怖心、そして本能的な魚の腐った臭いに耐えられず、常に船酔いに苦しめられます。神童と言われた有能な少年は中学校への進学を希望しますが、祖父からは頑固に拒絶されます。その頃は認められて建てられていた天理教の宣教所で神様に一心に祈りますが、中学へ行くための金は恵まれませんでした。それで、叔母とみの夫で海軍の軍人であった仁藤金作氏に必死の便りを書いて、やっと中学へ通う資金(毎月3円)を出してもらうことになりました。特待生となり授業料が免除されるようになったので、5年間通学することが出来ました。貧しいのに中学に通うことで村八分になりましたが、叔母ちかに励まされました。毎日書いて提出していた日記を砂崎徳三校長が読み、植松家の家庭教師をしながら、沼津尋常高等小学校(現沼津市立第一小学校)で代用教員をする道を開いてくれました。こうして高等学校への進学資金を貯めることが出来たので、夏休み以後は受験勉強をして第一高等学校に合格しました。沼津市を出て大きく雄飛することになるのです。

 沼津中学時代には、多くの学友に出会い、様々な教師に指導を受けます。その中でも美術教師前田千寸先生には、雑誌「白樺」を紹介され、フランスなどの西欧への憧れを喚起されます。『親と子』に前川先生として登場させ、図画の時間に香貫山へ引率して、生徒たちに山頂から展望させます。次の文章は、森次郎の香貫山からのふるさと(故里)沼津や富士山までの遠望です。「大河小説『人間の運命』文学碑」として石碑に刻して香貫山に建立することを提案します。いつの日にか、芹沢文学の愛読者による篤志(寄付)で実現したいものです。

 〈わが住む土地を、次郎は初めてよその土地のように眺める思いで、目を見張った。 眼下にひろがったパノラマの中央に、足下の山麓から駿河湾へ、白く光って大きくS字形を描いているのが、あの狩野川であろうか。こんなにも川幅が広くて、まんまんと水を張っているとは知らなかった。その右岸にかたまって静かな家々が、沼津の街であろうか。二万人足らずの人口が、このなかにかくれているのであろうか。町の背後に、菜の花であろう、黄色な平野がかすんで拡がり、紺青の海との境に、黒いふちどりがつづいているが、河口から千本松原をへて三保松原につづく松林が、こんなに一刷けの黒色であろうか。町の北側に、屏風のように愛鷹山が控えているが、その頂が切りとられたようにけずられて、その上に富士山がのり、愛鷹山の斜面は遠く東に箱根山につらなっている。次郎は息をのんで眺めていた。〉

芹沢文学研究会 代表/小串信正の文学評論連載芹沢文学講話③ 芹沢光治良氏と天理教」 】
 2016.9.13日、芹沢文学研究会 代表/小串信正の文学評論連載芹沢文学講話③ 芹沢光治良氏と天理教」。
 芹沢光治良氏は、宗教的作家と言えます。前回でも書きましたが、江戸末期に大和丹波市の中山みき(1798~1887)が始めた天理教が、芹沢氏が生まれる前の明治初期に静岡の沼津市まで布教されて来ていました。父芹沢常蔵(のち常晴)は、クリスチャン江原素六の集成舎に入学させてもらえず、村の道生舎や寺の住職に学び村役場に勤めていた時に同僚に誘われて天理教に入信します。宣教所の許可が出なくて、次男光治良が3(4?)歳の時、父母は中山みき教祖の雛形の道に倣い、財産を処分して天理教の宣教師となって家を出て行きました。その決意が光治良の池に落ちての蘇生にあったことが、大河小説『人間の運命』の第1巻・序章『次郎の生いたち』に創作されています。しかし、祖母に懐いていた光治良は実家に残して、長男真一、三男亀太郎は連れて行ったのです。突然に両親が居なくなり、祖父からは不満をぶつけられた光治良は、親から捨てられたという深い心の傷を負います。両親や他の兄弟は極貧の生活で、祖父母の家に残った光治良の方が恵まれていたとも言われています。 

 しかし、芹沢家の人々は天理教を受け入れ、光治良も幼少期を祖母の信仰の中で育てられます。楊原分教会の二代会長は父の叔父吉蔵、三代会長は父の弟長吉が務めました。光治良の伯母稲葉まきは香貫分教会を設立し、叔母仁藤とみは高富士分教会の初代会長となったのです。光治良の弟亀太郎が父親を継ぎ岳東大教会理事となり、妹喜久は陽東分教会長、弟清は岳治分教会長、末弟茂は天理大学教授となったのです。兄真一と光治良は、叔母とみの夫で海軍軍人仁藤金作から経済的な援助を受けて、一高・東大に進学出来たのです。二人とも天理教に批判的で、一高時代に天理教から離れます。兄真一は朝日新聞・共同通信の記者となりましたが、二代目教祖と言われた井出クニ(国子)の播州の朝日神社の信仰に生きます。弟(六男)武夫は小山家の養子となり、中日新聞の記者から、中日ドラゴンズオーナーとなったことは広く知られています。

 芹沢光治良氏は、父母の信仰による家出により貧困となり、苦学することになりました。中学に進学したことで村八分にもされたのです。乾性肋膜炎を患った時も、天理教から中学を中退するように言われて反発しました。高校受験を、当時天理中学校長をしていた廣池千九郎先生[道徳科学を研究し、モラロジー研究所を創立。麗澤大学創立者]に相談して励まされたこともありました。代用教員をして学費を貯めて、一高を受験して合格します。しかし、一高でも生活に困り、寮での食事も食べられないことが多く、空腹の苦しみにも耐えたのです。

 キリスト教作家有島武郎の草の葉会に参加したり、「大塚誠」のようなキリスト教の家族にも触れ、日本のキリスト教も知ります。学友に助けられ、奨学金を受けて一高を卒業し、東大の経済学部に進学します。

安生鞠と恋愛し、失恋後に、藍川金江と結婚して一緒にパリのソルボンヌ大学に留学し、デュルケム学派のシミアン教授の研究室で実証的な社会学(経済学)を学びます。アナーキストのルクリュウ家の人々とも交流します。フランスでカトリックの信仰に触れ、特に結核闘病の間に神と対峙して生き抜きます。エーン県オートヴィルの高原療養所で、天才科学者ジャック・シャルマンに出会い、独自の信仰観と「大自然の神」を知らされます。また、この闘病で学者を諦め、作家になることを決意します。結核を克服して帰国し、改造社の懸賞小説に『ブルジョア』が一等に当選して作家生活に入ります。

最初期の昭和7年4月に天理教の信仰を短編小説「鴉片」に書きます。「宗教は阿片である」というマルクスの説からの題ですが、天理教批判の小説です。この作品は、のちに「信者」と改題されましたが、両親には嫌な思いをさせたようです。自伝的な作品には、天理教のことが書かれ、多くは批判的なものでした。のちに中編小説「小さな運命」として纏められたもの、自伝小説『男の生涯』などです。しかし、昭和16年10月に発表した短編小説「秘蹟」は「母の肖像」という副題があるように、母の天理教の信仰体験を作品化したものですが、深い信仰者の真実が描かれて、天理教を肯定的に書いています。

戦争中には、キリスト教や天理教を研究しましたが、昭和18年に天理時報に求められて連載した長編小説『懺悔紀』は、天理教を肯定的に創作し、両親を安心させたと言われます。父親も愛読したとのこと。『懺悔紀』は養徳社に出版を托し、戦後の昭和21年9月に出版されました。昭和24年から天理時報に連載して書き続けた『教祖様』は、天理教の教祖中山みきの伝記的な作品で、約10年かけて昭和32年に完成した大作と言えます。途中で『この母を見よ』と題して昭和27年4月に前半部を東和社から出版しています。完成してから昭和34年12月に角川書店から『教祖様』と題して出版されました。

 
芹沢氏としては、キリスト教の『イエス伝』に倣って、天理教の教団のためではなく一般的な読者に向けて、一人の農婦が神憑りして教えを語り、偉大な信仰者となった女性の伝記的宗教小説として創作したのです。教祖中山みきを人間として描いているのです。周りの者たちが神として祭り上げようとする教団の愚かな群像も率直に描かれています。芹沢光治良氏は、中山みきをキリスト・イエスと対比して描き、その教えもキリスト教的な解釈をしているので、天理教団としては信者に読むことを禁じているようです。真柱中山正善氏の求めで、角川版『教祖様』は絶版になりました。しかし、大江健三郎氏のように、この力作を文学作品として評価する人も多いのです。それで、昭和53年10月に善本社から再版されました。この時に、副題「ふしぎな婦の一生」が付けられました。

 芹沢光治良氏は、中山みき関係の資料を真柱中山正善氏に求めましたが得られませんでした。しかし、戦後の昭和26年に三宿の家を訪ねて来た中山正善氏との交流が始められ、天理教への入信を勧められましたが、教団に属することはなく、ずっと教団としての天理教を批判し続けました。大河小説『人間の運命』を書き上げた後、死ぬ前にどうしても書き残さねばならないと決意して、中山正善氏との交流を小説化した『死の扉の前で』を昭和53年11月に新潮社から書き下ろしで出版しました。この中に天理教としては知られたくないことなどが多く書かれていることから、教団から高額の金で買い取るので出版しないで欲しいと交渉されましたが、きっぱりと断ったのです。

 金江夫人は、名古屋鉄道を創設した藍川清成・伸子夫妻の長女として名古屋の大津町に生まれ、贅沢に我儘に育てられました。母しん(伸子)は信仰深い人で慈母観音と言われました。金江夫人は昭和8年にバセドー氏病にかかり、播州の親様井出クニに助けられ、それからずっと感謝の祈りをしていたとのこと。晩年に舌癌になってから、文子さんの導きで、聖心女子大学教授で天理教の分教会長でもあった松本滋先生を心の師としました。葬儀も松本先生によって天理教式で昭和57年2月に行われました。松本先生の祈祷文「告別誄詞」「五十日祭 祭文」は、一周忌に刊行(昭和58年2月4日)された追悼文集『芹沢金江』の巻頭に収録されています。

芹沢光治良氏は、金江夫人の死後に、身辺の整理や膨大な作品を再読して死後に残すものを選んだりしていましたが、昭和60年の夏に中軽井沢の山荘で、ある老紳士(佐藤徳三氏)の質問を思い出し、「文学は 物言わぬ 神の意思に 言葉を 与えることである」という信念から神について直接書く作品を書かねばならないと自覚します。天の声を聴き、自己の人生や信仰を回想し、特にオートヴィルで出会ったジャック・シャルマンを思い出し、神とは「大自然の親神」であると再自覚します。それで、「神の書」の連作を書き始めるのです。

 宗教学者で天理分教会長の松本滋教授から伊東青年(名幸長、後の大徳寺昭輝氏)を紹介され、存命の親様(中山みき)から「人間としての教祖伝」を書いて欲しいという願いが伝えられます。伊藤青年は親神の導きで天理教の分派とも言える天命庵を始めます。その後見役として指導して欲しいとも親様に求められます。改めて自己の人生を回想してみると、結核闘病をしたこと、ジャックに出会ったこと、戦後に世界ペン大会への飛行機故障でイスラエルの聖地を見学したこと、帰路にローマ法王ピオ十二世に個人謁見したことなど全て親神の導き(はからい)によるものだと自覚して、その視点から、もう一つの『人間の運命』とも言うべき全9巻の連作〔9巻目は未完〕を書くことになるのです。

存命のみきは、三十年祭に播州の井出国子を遣わしたこと、昭和61年の教祖中山みきの没後百年祭の年から親神が世界の大掃除を始める理年であること、人類の陽気くらしがはじまると説き、復活のイエス、存命の釈迦も協力するとのこと。存命の中山みきは、既に天理教の教祖ではなく、人類の親様として世界助けを始めているのです。芹沢光治良氏は、90歳から毎年一巻ずつの連作を書き続け、「天の書」も2巻書き、平成5年3月23日に96歳で逝去されます。芹沢光治良氏の最後の連作は、文学を超えたものになりましたが、これも芹沢光治良という作家の個性であったと評価されます。

しかし、存命の中山みきに導かれるのに、自撰の墓碑銘にはジャックのことは書かれましたが、中山みきの名は無く、葬儀も天命庵でなく、無宗教の音楽葬であったことなど、多くの謎が秘められていると私は感じています。天理教に育てられた芹沢氏の発想は「中山みき」や「陽気ぐらし」などと天理教的ですが、「大自然の神」「実相の世界」など、世界宗教を説くものでもあったのです。実在のジャック・シャルマンには、不明なことが多く、ジャックは理想化された芹沢氏の分身であるとも思われます。

天命庵の大徳寺昭輝氏は、現在も湯河原で多彩な活動を続けていて、亡くなられた三女の文子さんは最期まで役員として御尽力をされたようです。天命庵の今後に期待したいと念願しております。 〔平成27(2015)年10月識〕


【「一水会」創設者で作家の鈴木邦男/氏の愛国問答「第147回、芹沢光治良記念館で考えたこと」】
 2023.1.11日、「一水会」創設者で作家の鈴木邦男/氏が誤えん性肺炎のため死去した(享年79歳)。葬儀は親族らで営んだ。「一水会」主催のお別れの会を後日開く。 鈴木氏は福島県の「生長の家」信者の家庭に生まれている。鈴木邦男の愛国問答「第147回、芹沢光治良記念館で考えたこと」で、天理教信者と「生長の家」両親から受けた宗教観を対比している。
 あっ、ここが我入道(がにゅうどう)か。と感動した。今でも、「沼津市我入道」として、地名は残っている。3月23日(日)、その我入道に行ってきた。別に地名にひかれて行ったのではない。そこに建っている「芹沢光治良記念館」を訪ねたのだ。ここはぜひ行かなくては、と10年以上も前から思い、やっと実現したのだ。

 芹沢の作品はかなり読んだ。乱読した。精神的に訴える作品が多い。代表作である大河小説『人間の運命』には本当に圧倒された。子どもの頃からの宗教体験をこれほど見つめ、そして客観的に書いた作家はいない。父親は天理教に入信し、全財産を天理教に捧げ、長男、三男を連れて村を出る。光治良は隠居所に住む祖父母の元に残された。親は自分よりも信仰を取った。自分は“捨てられた子”だと思った。宗教はまず自分の精神・肉体を救い、家族を救い、愛するためにあるのではないのか。それにもかかわらず、より多くの人々を救う為に父親は子供を捨て、家庭を捨てた。一体、宗教は何の為にあるのだろう。果たして宗教は人間の生活に必要なものだろうか。そこまで考える。

 自分が正しく生きるための指針だ。宗教はそれだけでいいのかもしれない。又、くじけそうになった時に、自分を励ましてくれるものだ。それだけでいいのかもしれない。しかし、「自分だけが救われていいのだろうか」と思う。これでは、エゴイストではないのか。この幸せを近くの人に、又、多くの人に分け与えなくてはならない。そう思うのだろう。伝道だ。布教だ…と思う。

 この気持ちは僕も分かる。芹沢の父親ほど激しくはないが、僕の母も、熱心な信徒だった。もっと穏和な「生長の家」という宗教だった。本を読んで、心を清め、神に祈る。おだやかな宗教だ。「神様に全財産を捧げなさい」とは言わない。だから僕も捨てられなくて済んだ。もし親が、全財産を捨て、家族を捨てて伝道の旅に出たら、どうなっただろう。とても芹沢のように強く生きることは出来なかっただろう。だから、大河小説『人間の運命』は、心を奪われ、自分のことのように思われて読んだ。今、完全版『人間の運命』全18巻(勉誠出版)が出ているが、僕がかつて読んだのは新潮社の全14巻だった。

 子供時代の〈宗教体験〉は大きくなってもその人に大きな影響を与え続ける。村上春樹の『1Q84』には、母に手をひかれ、一軒一軒、布教に歩く母子の姿が出てくる。子供を連れて布教すると、相手も警戒しない。話を聞いてくれる。そんな「効果」があるのだろう。しかし、子供にとってはたまったものではない。いい迷惑だ。その体験へのトラウマ、反撥から、反抗して激しい学生運動に入った人もいた。

 その点、僕は幸せだった。そんなトラウマはない。ただ、そんな穏和な宗教でも、1960年代は、「国を救うために立ち上がれ!」と言われた。安保闘争があった時だ。社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼少年・山口二矢に殺された時だ。「生長の家」の谷口雅春先生は言っていた。「宗教は本来は個人の精神や肉体を救い、安心な生活を送るためにある。しかし、今は日本が病気だ。危篤だ。この日本を救わなくてはならない!」と。日本に革命を起こそうとする人達と闘え!と言ったのだ。その檄が基になって僕も右派の学生運動をすることになる。僕自身も、「人間の運命」だ。

 イエス・キリストは果たして、今のような教会・教団を中心とした巨大な布教システムを望んだのだろうか。心が心に触れ、そして精神的満足を得る人が増えてゆく。それだけを考えたのではないか。ところが巨大な布教システムが出来ると、もの凄い金がかかる。だから献金システムを考え、布教システムを考えたのではないか。そんなことを言ってる人がいた。多分、当たっているだろう。

 そのシステムは他の宗教にも次々と模倣された。中には「集金システム」を作り、金を得たいためだけに、宗教らしきものを作る人も出る。いや、素晴らしい宗教だとしても、それを多くの人に知らせるには、お金がかかる。その目的と手段は、当初は分かっていたはずだ。それなのに、金が集まりだすと、目的と手段が逆転する。そんな例も随分と見てきた。

 左右の運動でも言える。運動をやり、世の中をよくしようと思っている。心からそう思う。でも、その為には金が必要だ。又、この国をよくしようとして、時には焦燥にかられ、法律を破ることもある。その手段が、何度も何度も続き、エスカレートすると、どちらが目的か手段か分からなくなる。「運動の為に金を集めているのか、あるいは金を集めるのが好きで、その為に運動をしてるふりをしてるのではないか」。乱暴なこと、非合法活動が好きで、そのために運動してるふりをしてるのではないか。そう疑問に思う時もあるはずだ。

 『人間の運命』にも、そんな問いかけが随分と出てくる。ある宗教では、ここでも全財産を捨てなさいと言われる。物質的な物を捨てたら、あとは神さまが助けてくれる、という。しかし、捧げる財産はない。思い余った親は、娘を遊郭に売る。その金を教団に献金する。どんな金でも教団は受けとる。「あとは神様が守ってくれる」と言う。そんな不浄な金をもらって神様は嬉しいのだろうか。売られた娘は不幸なはずなのに…。と思った。他にも、もっともっと多くの話が出てくる。それらに直面し、必死に考え、悩み、そして成長していく。精神史だけではなく、政治、戦争…などの時代を貫く大きな歴史にもなっている。完全版『人間の運命』の案内にはこう書かれている。

 〈明治・大正・昭和の激動の世紀を、日本人はいかに苦難と苦悩の道を歩み、希望をつないできたか。時代の証言として描く近代史〉
 新潮社版の全14巻は読んだが、この完全版も読まなくちゃならないかな。又、大きな目標が出来た。新潮社版を全巻読破した人が、僕の周りに3、4人いる。その人たちだけで、まず座談会をやろう。そう思った。我入道の「芹沢光治良記念館」を見て、そう思った。

 それにしても、珍しい名前だ。我入道なんて。海の近くで入道雲が湧くからか。記念館の人に聞いたら、日蓮と関係のある地名だと言う。新潮日本文学アルバム『芹沢光治良』には、こう出ていた。
 〈昔、竜(たつ)の口の難を逃れた日蓮上人が、漁船に隠れてここに流れ着き、こここそ我が入る道であると言って上陸したところから付けられた名前だという〉もともと宗教的な地名なのだ。芹沢が亡くなって今年で20年だ。〈年譜〉にはこう書かれている。〈平成5年(1993)3月23日 ふだんどおり原稿執筆の後、自宅で死去。享年96歳〉

 芹沢光治良記念館でこれを見て、アッと思った。今日じゃないか。今日が命日だ。「そうです。午前中に墓前祭が行われました」と記念館の人もいう。午後3時すぎに来たので参列できなかったが、この後、墓地に行き、お参りした。又、96歳で亡くなったのは、我入道ではない。東京に家を建て、そこで執筆していた。何と、東中野だったのだ。今、私が住んでるとこじゃないか。そういえば、林芙美子もこの辺に住んでいた。昔の家が残っていて記念館になっている。又、童話作家の新美南吉も東中野に住んでいた。心やさしく、精神的な執筆活動を続けた人は皆、東中野に住んでいたんでしょう。

【芹沢 光治良/神の微笑(ほほえみ)】
 「芹沢 光治良 『神の微笑(ほほえみ)』 (1986/07 新潮社)」。
 前半は作者の半生記のような感じで、主人公の父親が天理教の信仰にのめりこんで財産を教団に捧げたために親族ともども味わった幼少期の貧苦から始まり、やがて学を成しフランスに留学するものの、肺炎で入院、結核とわかり、現地で送ることになった療養生活のことなどが書かれていています。高原の療養所で知り合った患者仲間との宗教観をめぐる触れ合いと思索がメインだと思いますが、患者仲間の1人が、天才物理学者であるにも関わらず、イエスに降り立った神というものを信じていて、幼少の頃に天理教と決別した主人公には、それが最初は意外でならない、その辺りが、主人公自身は経済を学ぶために留学しており、"文学者"が描く宗教観というより、自然科学者と社会科学者、つまり外国と日本の"科学者"同士の宗教対話のように読めて、論理感覚が身近で、面白くて読みやすく、それでいて奥深いです。

 後半は、その科学者に感化されて文学を志した主人公が、その後、天理教の教祖やその媒介者を通じて体験する特異体験が書かれていて、「世にも不思議な物語」的・通俗スピリチュアリズム的な面白さになってしまっているような気配もありましたが、主人公(=作者ですね)は、それらに驚嘆しながらも実証主義的立場を崩さず、最後まで信仰を待たないし、一時はイエスとのアナロジーで教祖に神が降りたかのような見解に傾きますが、最後にはそれを否定している、一方で、人生における様々な邂逅に運命的なものを感じ、神の世界は不思議ですばらしいと...。

 一応フィクションの体裁をとっていますが(『人間の運命』の主人公が時々顔を出す)、作者が以前に「文学は物言わぬ神の意思に言葉を与えることである」と書いたことに自ら回答をしようとした真摯な試みであり、それでいて深刻ぶらず、沼津中(沼津東高)後輩の大岡信氏が文庫版解説で述べているように、苦労人なのに本質的に明るいです(でも、よく文庫化されたなあ。通俗スピリチュアリズムの参考書となる怖れもある本ですよ)。

 要するに、神というのは、教団や教義の枠組みに収まるようなものではないし、信仰をもたなくとも、神を信じることは可能であるということでしょうか。とするならば、現代人にとって非常に身近なテーマであり、1つの導きであるというふうに思えました(作中の天才物理学者の考え方は老子の思想に近いと思った)。

 作者が89歳のときから書き始めた所謂「神シリーズ」の第1作で、以降96歳で亡くなるまで毎年1作、通算8作を上梓していて、この驚嘆すべき生命力・思考力は、"森林浴"のお陰(作者は樹木と対話できるようになったと書いている)ならぬ"創作意欲"の賜物ではなかったかと、個人的には思うのですが...。





(私論.私見)