いわゆる知識人、経営者、政治家の天理教称賛の位相考

 更新日/2018(平成30).4.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 天理教を批判的にみなす知識人論者については「いわゆる知識人の天理教批判の位相考で確認した。ここでは、好意的に評する知識人論者を確認する。木下勇作氏の言の葉天理の里に関わった文人ら がこれに取り組んでおり参照した。下敷きは、「天理教と文学者」(梶山清春、天理やまと文化会議)のようである。


【木下尚江】(1869-1937年)

 木下尚江は、教祖中山みきを次のように評している。

 「中山みき子は妖婦に非ず、彼は詐欺師に非ず、彼は愛の人なりき、切愛の人なりき、極愛の人なりき、彼女は我が身に神の宿る事を信じたりき、しこうしてこの確信は実に彼女の愛の生むところなり」
(私論.私見)
 木下がみきの教理に通じており、思想的宗教的に好評価している事が分かる。

 木下尚江(ひさえ)の履歴は次の通り(「ウィキペディア木下尚江」、「木下尚江研究 Webページ」等々参照)。

 1869(明治2).9.8(陽暦10.12)日、信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。1888年(明治21年)、東京専門学校(現早稲田大学)法律科卒。松本に戻り地元の「信陽日報」の記者となる。1891(明治24)年、禁酒運動、廃娼運動に取り組む。県治問題3論説を信濃毎日新聞に寄稿。松本で信府日報創刊。「余ハ如何ニして基督教を信ずるニ至りしか」執筆。1892(明治25)年、「万国之将来」執筆。1893年(明治26)年、信府日報主筆を兼ねる。弁護士登録。松本美以教会中田久吉牧師から洗礼を受ける(25歳)。

 1897年(明治30)年、中村太八郎らと普通選挙期成同盟会を結成。県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄。神の愛を信じる蘇生の体験をする。1898年(明治31)年、重禁錮8か月の判決。控訴。東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容される。無罪判決で出獄、松本に帰る。1899(明治32)年、毎日新聞(旧横浜毎日新聞)に入り、廃娼運動、足尾鉱毒問題、普選運動などで論陣を張る。「世界平和に対する日本国民の責任」執筆。東京で普通選挙既成同盟会結成。1900年(明治33)年、毎日新聞社で田中正造と初対面。社会主義協会に加入。

 1901(明治34)年、幸徳秋水、片山潜、堺利彦らと社会民主党を結成する(2日後に禁止となる)。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。横浜で幸徳、片山と普通選挙演説会。1902年(明治35)年、「野生の信徒執、「革命の序幕」、「普通選挙論」執筆。前橋の衆院選で29票で落選。講演「青年伝道者の起らざる所以」。1903(明治36)年、「戦争人種」、「非軍備論」執筆。社会主義協会で非戦論の発表を提唱。平民新聞創刊号に「永世の新倫理」執筆。1904(明治37)年、「火の柱」を毎日新聞連載(~3月20日)、「軍国時代の言論」、「良人の自白」上篇執筆。田中正造の死期に立ち会い、看護を行なう。

 1905(明治38)年、直言が平民新聞後継し、主筆同然。「新人」の「国家宗教」で吉野作造を批判。幸徳秋水、西川光二郎の入獄を送る。続篇「良人の自白」連載(~6月3日)。東京衆院補選に立候補するも。妨害で運動できず。東京市の衆院補選で32票で落選。「良人の自白」後篇連載(~10月16日)。幸徳の出獄を迎える。平民社解散決定を受け、石川三四郎と雑誌計画し、雑誌「新紀元」創刊。全13号。「良人の自白」下篇執筆。渡米の幸徳と大久保の櫟林で会談。

 1906(明治39)年、「新曙光」連載(~6月9日)。母くみ永眠。幸徳帰国。日本社会党に入党。「告白をもて序に代ふ」執筆。田中正造に300円寄付。「良人の自白」続篇執筆。東京毎日新聞退社。「懺悔の苦痛」、「革命の無縁国」執筆。幸徳、堺と会談、社会主義運動から分離する。「旧友諸君に告ぐ」、「懺悔」執筆。1907(明治40)年、日刊平民新聞創刊号に「山居雑感」執筆。大久保で幸徳と一日語る。「飢渇」執筆。1908(明治41)年、「霊か肉か」下篇執筆。賀川豊彦が木下を訪問。「乞食」、「墓場」執筆。1909(明治42)年、「労働」執筆。石川安次郎宅で幸徳と晩餐。「荒野」執筆。1910(明治43)年、「火宅」、「日蓮論」執筆。

 1911(明治44)年、幸徳ら12名死刑執行される。「法然と親鸞」。「余が思想の一大転化と静坐の実験」執筆。1912(明治45)年、「創造」。堺が「木下尚江君の態度を評す」。1913(大正2)年、田中正造看病で佐野滞在。1933(昭和8)年、堺利彦の通夜に出席。「神の解放」、「政治の破産者・田中正造」、「幸徳秋水と僕」、「自由主義者・島田三郎」、「臨終の田中正造」、「片山潜君と僕」執筆。1934(昭和9)年、「神 人間 自由」執筆。1937(昭和12)年、「島田三郎伝」執筆開始。相馬夫妻に書簡を送り、宗教改革問題に言及。「病中吟」口授開始。11.5日、永眠。教文館より「木下尚江全集」全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。


 その木下は、次のような名文を遺している(自伝「懺悔」)。
 「明治23年の冬、待ち続けられたる国会が始めて開かれようとする時、即ち民主主義の舞台の開幕が一日千秋の思いで待ち構えられて居た時『教育勅語』が公布された。

 学者の倫理学と云うものが手の裏返すように一変した。政府は法律的に国民道徳なるものを強行する方針を立てた。見よ、法律の外に制裁力無き無道徳時代には、道徳も亦法律的権力を借らねばその威信を保つことがならぬのである。故に厳密な意味では道徳では無いのだ。

 かく神国的感情の大風が吹き荒む時、思想界の枯野に一本の喬木が残っていた。即ちキリスト教であった。(中略)(彼ら神国者流は曰くキリスト教は日本の国体と相容れざるものなり、曰くキリスト教は愛国心を亡滅するものなり、と攻撃した)(中略)

 予は足を爪立て首を延ばして、神道仏教一切の連合軍を一喝の下に打ち破る或る一勇士が、キリスト教会から出現するその武者ぶりを待ち望んで居た。予の切なる希望は忽ち失望を以って報いられた。多くの学者論士は出でて応戦を試みたが、その言う所は予の信仰とは殆ど正反対に、何れもキリスト教は日本の国体を傷つけるものでも無く、愛国心を破るものでも無いと百方苦心して弁解するのであった。(中略)

 間もなく日清戦争が開かれた。予は戦争と云う事はキリスト教の反対するものだと云う事を些かも疑わなかった。然るに戦争の始まるとともに、東京に在る知名のキリスト教徒は全国を遊説して、『正義の戦争』を鼓吹し始めた」。

【柳田国男】(1875-1962年)

 民俗学で貢献、名を為す柳田国男は、東京帝国大学を卒業後、農商務省に入省した官僚であった。1916(大正5)年、柳田は官界にいて貴族院書記官長を務めていた頃、橿原神宮から天理の地を訪れている。この時、天理教に関する「見聞記」を著わしており、次のように述べている

 概要「天理教徒は其長年の忍耐力を積み上げて丹波市を小エルサレムにして了つた。400畳を敷くと云ふ一室の中央に、幅一間の渡り板が神殿まで通っている。(略)2組3組の参拝者が来て座り云々」。

 柳田は1951(昭和26)年秋、この里で開かれた日本宗教学会学術大会で講演している。柳田は終始、好意的であった。


【山田耕筰】(1886(明治19)6.9日- 1965(昭和40)12.29)
 日本の代表的な作曲家、指揮者。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

 東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の医師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。1896年、10歳の時に実父を亡くす。実父の遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学する。1899年、13歳のとき、姉のガントレット恒を頼り岡山の養忠学校に入学。姉の夫のエドワード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをうける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。同本科中退を経て1904年、東京音楽学校予科入学、1908年、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年、渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月、帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。1924年(大正13年)には近衛秀麿と共にハルビンのオーケストラ楽員と日本人楽員を交えたオーケストラの演奏会「日露交歓交響管弦楽演奏会」を主宰、これを母体に近衛と日本交響楽協会を設立。これは現在のNHK交響楽団の前身であるが、不明朗経理を理由に内紛が勃発。黒柳徹子の父・黒柳守綱ら4名を残し大部分の楽員は近衛と行動をともにしたため、山田派は崩壊した。弟子には内田元らがいる。1921年、文化学院音楽科主任となる。1926年、40歳の頃、湘南の茅ヶ崎町に居を構える。オーケストラ楽団の失敗により多額の借金を抱えていたが、同地で再起。「赤とんぼ」などの童謡名曲が数々生まれる。1930年(昭和5年)、耕作から耕筰へと改名。1936年(昭和11年)、レジオンドヌール勲章受章。1937年(昭和12年)、相愛女子専門学校(現・相愛大学)教授に就任。戦時体制が色濃くなった1940年(昭和15年)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任する。同年11月にオペラ「黒船」(当初の題名は「夜明け」)を初演。また皇紀2600年奉祝演奏会ではジャック・イベールの新作「祝典序曲」を指揮する。1941年(昭和16年)、情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、副会長に就任、また音楽挺身隊を結成してしばしば占領地での音楽指導にも携わる。将官待遇となりしばしば軍服姿で行動したため、後の「戦犯論争」の槍玉に挙げられることとなる。1942年(昭和17年)に帝国芸術院会員に選出。1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。終戦後、自身の戦時中の行動に関して、東京新聞で音楽評論家・山根銀二との間に戦犯論争が勃発。論争が収まった頃の1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、以後体が不自由となる。1950年(昭和25年)、日本指揮者協会会長に就任し、また放送文化賞を受賞。1956年(昭和31年)、文化勲章を受章。離婚・再婚を機に戸籍上の名前も「耕筰」と改める。なお、サインには“Kósçak Yamada”という綴りを使っていた。1965年(昭和40年)11月初旬、耕筰は聖路加国際病院に入院していたが、家族が東京都世田谷区成城5丁目に広壮な洋館風の邸宅を借りる。同年12月4日、耕筰は成城の自宅に退院してくる。12月29日、自宅2階の南向き10畳間で耕筰は心筋梗塞により死去(享年79歳)。

 交響詩「おやさま」


【和辻哲郎】(1889-1960年)
 和辻は29歳の時、「古寺巡礼」()を著している。奈良の名刹を巡り、和辻の感性で古都の印象を書き綴っているが、その中で天理の里について次のような印象記を記している。
 「やがて汽車は方向を變へて、三輪山の 麓へ近づき行く。古代神話に重大な役割をつとめてゐるこの三輪山はまた特に大和のやまらしい・・・」。
 「三輪山に近いこの地から(教祖、みきさん)が出たことは少なからず興味を刺激する。わたくしの天理教に関する知識はわずかに2、3の小冊子に過ぎないが、教祖の信仰は恐らく本物であったろうと思われる」。

 教祖中山みきに対し、好意的に評しているのが分かる。木下勇作氏の言の葉天理の里に関わった文人ら は、「おみき婆さんが三輪山に近いこの地から出たことに注目した和辻の着眼は、凄い、の一語に尽きるが、和辻の天理教観がうかがえて興味深い」と評している。

【吉川英治】(1892-1962年)
 「宮本武蔵」の著者として知られる国民作家、吉川英治は次のように好意的に評している。

 「みかぐらうたは、純真な童心を呼び起こさせ、大人でも親に抱かれたようなやすらぎを覚える」。


【松下幸之助】(1894(明治27).11.27日-1989(平成元).4.27日)
 パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者で、異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

 松下幸之助の語録に基づく経営哲学である「水道哲学」は、水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより物価を低廉にし消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想であり、次のように述べている。
 「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」。

 その原点は、天理教との邂逅にあった。「松下幸之助 水道哲学の原点となった 天理教との出会い」が次のように述べている。
 「松下幸之助が天理を訪れたのは昭和七年初頭であった。取引先のU氏という人物が熱心な天理教の信者だったのである。松下は、折角、時間を割いたのだから徹底的に見聞してやろう、という意気ごみで臨んだ。U氏の案内に従った松下は、たしかに天理の建築の壮大さが他に例をみないような規模である事を理解した。しかも、その建築はすべて信者の奉仕によるものであり、その奉仕の申し込みが多数に上るので、満足に希望をかなえて奉仕に従事させることが出来ないほどだ、と。時期としては、教祖中山みきの没後五十年が近づいており、教祖殿と神殿の新築が進められていたので、その盛況はひときわ甚だしいものであったろう。その働きぶりに、松下は驚くとともに考えた。人は誰もが金を得るため生活の資を得るために働く。ところが、天理の人々は只で働いている。只働きなのに、自分の経営する工場の労働より楽しげに、生き生きと働いている。なぜか。それは、天理には理想があるからだ。使命があるからだ。使命のために働くから生き甲斐があり、楽しい。であるとすれば、一企業である松下電器の使命とは何か。聖なる使命があれば松下電器にもまた天理と同様の、溌剌たる労働が産まれるのではないか。『しからば聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。それは水道の水だ。加工されたる水道の水は価がある。今日、価あるものはこれを盗めば咎められるのは常識だ。しかるに、水道の水は加工された価あるものなるにもかかわらず、乞食が水道の栓を捻って存分にその水を盗み飲んだとしても、水そのものについての咎めはあまり聞かない。これは何故か。それは価あるにもかかわらず、その量があまりに豊富であるからである』(「私の行き方考え方」)。そこから松下は、電気製品を水道水と同様に、安価にふんだんに生産することで、地上から貧困を消滅させる、という「使命」を導いたのだ」。

【芹沢光治良】(1896-1993年)
 1900年、昭和の人気作家/芹沢光治良は、父が天理教に入信し、全財産を教団に寄進し無所有の伝道生活に入った為、貧乏生活を余儀なくされた。叔父夫婦と祖父母に育てられる。世話になった叔父の家も後に天理教会となる。1919年、:第一高等学校仏法科卒業。1922年、:東京帝国大学経済学部卒業 農商務省に入省。1925年、農商務省辞任しソルボンヌ大学に入学、金融社会学のシミアン教授に学ぶ。フランス滞在中に結核に冒され療養につとめる(スイス・レザンには、芹沢が療養したとされるサナトリウムがその当時の建物のままで現存しており、名門校レザンアメリカンスクールの校舎として使用されている)。1929年、:帰国。

 1930年、:療養中の体験に基づいた作品「ブルヂョアが、「改造」の2回目の懸賞小説に一等当選し文壇に登場した。中央大学講師。代表作に、ノーベル文学賞候補にもなった「巴里に死す」、「教祖様」、「人間の運命」や「神の微笑」などがある。1965年、川端康成のあとを受け第5代日本ペンクラブ会長となっている。

【岡潔(おかきよし)】(1901-1978年)
 「岡潔ワールド考」に記す。

【今西錦司】(1902-1992年)
 京都の織屋「錦屋」の生まれ。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。今西説、今西進化論として知られる「棲み分け論」を唱えた。西欧的なラマルクやダーウィンの進化論概念はトートロジーであると排除し、当時のダーウィニズムと対立する進化論を生み出した。「棲み分け論」の背景に天理教的素養があったとする説が有る。

【小林秀雄】(1902-1983年)
 戦前戦後の文壇で大きな影響力を持った文芸評論家の小林秀雄は天理の里とも大きな関係があった。氏の母親も叉熱心な天理教信者であった。先の大戦中、小林は沈黙、沈潜の時期を過ごしていたが、そんな時、小林は、天理教とのつながりを深めていた。1944(昭和19)年、小林は天理の若者と痛飲し、歓談している。

 小林は、2代目真柱・正善ともしだいに親交を深め、東京帝国大学の同窓であった今日出海(今東光の兄で文化庁長官を歴任)と、ある全国紙の紙上で対談し、1967(昭和42)年秋、急逝した正善を偲び、高い評価と敬意を表明している。

【吉川幸次郎】(1904-1980年)
 中国文学の権威吉川幸次郎は、2代目真柱・中山正善と親交が深く、京大仲間の小川環樹や学生を伴って天理の里に行った時、46行からなる7言歌行の漢詩を書いている。その中で、正善を次のように称えている。
 「清浄為称教真柱 (略)如(略)在龍虎」(人のこころを清く美しくすることを教えとなして真の柱と称す正善さんは、正に世界に光を放つ龍虎の如く在り=木下訳)

 吉川の親近度が分かる。


【保田与重郎】(1910-1980年)
 「保田與重郎ワールド考」に記す。

【会田雄次】(1916-1997年)
 文学博士にして歴史評論でも名高い京都大学教授だった会田雄次も天理教を大本教、金光教、黒住教などとともに好意的に評論をしている。

【鶴見俊輔】(1922年ー)
 鶴見俊輔は、みきが江戸末期、お伊勢参りをする大勢の庶民が「えいじゃないか、えいじゃなか」と歌い、踊りながら伊勢神宮まで遊行するさまからヒントを得、陽気暮らしを洗練化、高度な宗教にしたと評している。

【團 伊玖磨(だん いくま)】(1924.4.7-2001.5.17)
 團 伊玖磨(だん いくま)は、日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人、エッセイスト。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルを手がけた。「團伊玖麿」は誤表記。
 1924年(大正13年)、実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京・四谷の慶應病院で生まれ、原宿(現在の渋谷区神宮前)で育った。1931(昭和6)年、7歳の時、青山師範学校附属小学校に入学。ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」、「シナ人」と怒鳴られたという(事実、700年前の祖先の團将監は宋人だったと伝えられる)。12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めた。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになった。1937(昭和12)年、13歳の時、青山学院中学部に入学。同年、東京市麻布区材木町(現在の港区六本木)に転居した。1942(昭和17)年、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)作曲部に入学。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学んだ。また、学外では山田耕筰に指導を受けた。1944(昭和19)年、20歳の時、音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当した。翌年、復員して東京音楽学校を卒業。諸井三郎に対位法、楽曲分析を学んだ。歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲した。1946(昭和21)年、近衛秀麿に管弦楽法、指揮法を学ぶ。

 1946(昭和21)年、『二つの抒情詩』(管弦楽付き独唱曲)で日本音楽連盟委嘱コンクールに入選。歌曲集『五つの断章』(北原白秋詩)を作曲。1947(昭和22)年、歌曲『花の街』(江間章子詩)を作曲。1948(昭和23)年NHK専属作曲家となる。1949(昭和24)年、木下順二作品の民話劇『夕鶴』の演劇付帯音楽を作曲。1950(昭和25)年、『交響曲第1番イ調』を作曲。NHK創立25年記念管弦楽曲募集コンクールにて特選入賞。歌曲集『美濃びとに』(北原白秋詩)を作曲。1952(昭和27)年、オペラ『夕鶴』大阪で初演。北海道美幌農業高等学校校歌を作曲。1953(昭和28)年、芥川也寸志、黛敏郎と「三人の会」結成。1954(昭和29)年、東宝映画専属音楽監督。1955(昭和30)年、オペラ『聴耳頭巾』大阪で初演。1958(昭和33)年、 オペラ『楊貴妃』(大佛次郎台本)初演(藤原歌劇団創立25周年記念東京公演)。また慶應義塾創立百周年記念式典のために混声合唱と管弦楽のための「慶應義塾式典曲」(作詞:堀口大學)を作曲、NHK交響楽団を指揮初演(1968年再演)。1959(昭和34)年、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚を記念して『祝典行進曲』を作曲。1964(昭和39)年、東京オリンピック開会式にて『オリンピック序曲』、『祝典行進曲』、閉会式にて『祝典行進曲』を演奏。エッセイ『パイプのけむり』の連載を雑誌「アサヒグラフ」にて始める。1965(昭和40)年、『交響曲第5番』作曲。1966(昭和41)年、日本芸術院賞受賞。1968(昭和43)年、 『パイプのけむり』、『続パイプのけむり』で第19回読売文学賞(随筆・紀行)を受賞。『混声合唱組曲「筑後川」』作曲。10月23日の告示により、鳥取県民歌制定委員会作詞、團伊玖磨作曲の鳥取県民歌「わきあがる力」が制定される。1972(昭和47)年、オペラ『ひかりごけ』(武田泰淳原作)初演(第15回大阪国際フェスティバル)。1973(昭和48)年、日本芸術院会員に就任する。1975(昭和50)年、オペラ『ちゃんちき』(水木洋子台本)東京で初演。

 1976(昭和51)年、ソプラノ・ソロと管弦楽のための『長良川』(江間章子詩)を作曲。「交声曲 元の理」作曲、録音。伊玖磨指揮、読売日本交響楽団合唱、天理教音楽研究会合唱団、ファンファーレ/天理教音楽研究会器楽部。作曲に2年間費やした大作。團伊玖磨のコメントは次の通り。
 「元初まりの話、天地創造、考えれば考える程遠大なものであり、 内容的にこれ程スケールの大きいものはないはずである。私は元来、構成美をもった大きなスケールの音楽を好むが、今回の「元の理」は私の作品の中で、内容的にいって最も大きい曲ということが出来る」。

 1978(昭和53)年、合唱組曲『大阿蘇』(丸山豊詩)を作曲。1982(昭和57)年、横須賀市制75周年記念事業の一環として、合唱と管弦楽のための組曲『横須賀』(栗原一登詩)を委嘱され作曲。1983(昭和58)年、ピアノ組曲『3つのノヴェレッテ』、合唱組曲『唐津』、独唱・混声合唱・オーボエ・ピアノのための組曲『木曽路』、子供の歌アルバム『道の子の歌』、ヴァイオリンとピアノのための『幻想曲第2番』等を作曲。1985(昭和60)年、『交響曲第6番「HIROSHIMA」』を広島平和コンサートで初演。1994(平成6)年、オペラ『素戔嗚』初演(神奈川芸術フェスティバル)。1997(平成9).9.3日、急性心筋梗塞を起こし約1ヶ月間入院する。オペラ『建・TAKERU』初演(東京・新国立劇場杮落し公演)。1999(平成11)年、文化功労者に列せられる。2000(平成12).4.6日、妻の和子が急性心筋梗塞で急死。「DAN YEAR 2000」開催。2001(平成13).5.17日、日本中国文化交流協会主催の親善旅行で中国旅行中に心不全を起こし、江蘇省蘇州市の病院で死去した(享年77歳)。戒名は「鳳響院殿常楽伊玖磨大居士」。

【梅原猛】(1925-)

 白川静と共に碩学の名を馳せている梅原猛は、いわゆる西田幾多郎に始まる「京都学派」の中で和辻に最も好意的で敬意を表している。梅原は、日本ペンクラブ会長を今の井上ひさしに譲るまでその任にあり、癌と闘い打ち勝った。豊かな想像力と鋭い分析力で直面する諸問題に発言、主張する姿勢が高く評価されている。


【三島由紀夫】(1925-1970年)

 三島由紀夫も叉天理教に大きな関心を寄せていた形跡がある。三島の伯母のひとりが熱心な天理教信者で、三島は伯母に伴われて天理教の教会本部に参拝したことがあると云う。「陽気」(昭和36(26).8月号)の「三島由紀夫―宗教と文学を語る」の中で、伯母の人柄に触れるとともに天理教の感想を次のように述べている。
( http://yotokusha.com/youki/youki-kensaku)

 概要「私の伯母という人は、親類中一番幸福な人なのです。明るく朗らかで、物欲というものがない。私はこういう伯母の楽天性を通じて、天理教は非常に明るい宗教だと思うのです。(略)夫は大連の市長をしていたが、亡くなり、終戦となって内地へ引き揚げてきたのです。非常に思い遣りの深い人で、自分のことはほっておいても他人のお世話をせずにおられない・・・。伯母の気持ちは単なるギブ・アンド・テイク式の考えからではないと思う」。

 また三島は、保田与重郎(1910-1980年)(奈良県桜井市生れで戦後の日本浪漫派の論客)からもかなりの天理教の知識を得ていた。三島は次のように語っている。

 概要「保田氏が天理教は生活の上で原始的な人間の喜びを実践していると言う。私もそう思うのですが、天理教は他の宗派のように近代人に威圧を加えない。他の宗教は皆現世否定の思想が根本に流れている。現世肯定の上に成り立っている唯一の宗教です。天理教は日本に生れた最も日本的な宗教で、将来に可能性のある明るい宗教だと思う」(木下要約)。
 2016.4.9日付け「」参照。
 三島由紀夫『金閣寺』 新潮文庫p118より
 
 ブログ者は次のように解説している。
 「天理教弘徳分教会は京都府京都市北区小山堀池町に実在する天理教の分教会である。(本部直属の大教会は西陣大教会)徳の字は、正式には心の上に「一」の横棒が一本入る。「私」(主人公の溝口)と共に走るように文字を追っていると、いきなり現れる天理教会。なんとも唐突で意外な感じがする。「梅鉢の定紋付の提灯を黒塀の上につらね、門には同じ梅鉢の紫の幔幕を張りめぐらした」と、単なる風景描写にしては随分くわしく書き込んでいるのも気になるところである。弘徳分教会がどういう意図や経緯で書き込まれたのか、三島の思いを知る由もないが、信者であった伯母の影響もあったのだろうか。いずれにしても、この『金閣寺』の読者は、ここで天理教の名をいやでも眼にすることになる。その点において、現代に読み継がれており、また海外での評価も高いとわれるこの代表作に天理教の名をとどめさせるほどに影響を与えた伯母さんは、人を信者にする、しないといったレベルを超えた、超一級の「にをいがけ」をした、といえるのかもしれない。追記:「鹿鳴館」や「愛の渇き」といった作品にも天理教が登場するようです」。

【村上重良(むらかみしげよし)(1928.10.10日-1991.2.11日)
 東京生まれ。都立一中などを経て、1952年、東京大学文学部宗教学宗教史学科卒業。慶應義塾大学講師を務める。日本共産党に属し、日本共産党に敵対的な創価学会および公明党を批判する著作や論文をいくつも発表していた。しかし宮本顕治が中心となって、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」(創共協定)を1974年12月に締結したことに始まり、日本共産党指導部が宗教に対する融和的態度を示したことに反発し、世界1977年10月号(岩波書店発行)で、「共産主義政党と宗教 『創共協定』を再考する」という論文を発表し、宮本指導部を公然と批判したため党から除名された。

 1957年、「近代民衆宗教史の研究」(法藏館)、1957年1974年、「ほんみち不敬事件」(講談社)出版。本書が村上氏の名声を高めた。村上氏は、著書「近代民衆宗教史の研究」の中で、みきの立教に至る「神がかり」過程に於ける、夫婦の不和、子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩、生理的苦痛の影響に着目し、概要「みきにとって、『月日のやしろ』となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味した」と論じ、本部教理と異なる面を指摘している。この考察は後に島薗進の「突発説」の否定や、笠原一男小栗純子らに受け継がれる。島薗氏は、この村上の考察について、「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた功績は大きい」と評価している

 国家神道の研究で知られ、特に1970年の「国家神道」(岩波新書)は「明治政府は神道を国教化しようとして当初から天皇を中心とする神の国を作り上げようと精力的に動き国民を神道信仰に駆り立てた」として、これが国家神道論における定説として長く扱われてきた。しかし、近年の島薗進、阪本是丸、新田均らによる検証により、そもそも明治政府の中にも伊勢派、出雲派などの路線対立があり、一枚板ではなかったこと、明治政府の神道信仰の強制がほとんどなかったことなどの史実を踏まえると、村上の国家神道論は粗雑かつ本人の先入観に基づく説だったのではないかといわれるようになり学界での影響力は低くなっている


【高橋和己】(1931-1971年)

 「邪宗門」の著書で名高い高橋の場合、母が熱心な天理教信者であった。大学時代の師の吉川幸次郎の影響も働いたのではないかと思われる。立命館大学の名誉教授で90歳を超えてなお執筆と研究を続けた漢字哲学者の白川静が、吉川に「ぜひ、私のもとに高橋君を」と依頼、立命館大学に高橋を呼んだ逸話もある。

 「天理教と文学者」(梶山清春著)によると、高橋は京都大学を卒業後、母の勧めで天理教の修養科に籍を置いた。高橋は、「私の文学を語る」で対談者の秋山駿氏に次のように述べている。

 「天理教の経典は面白かったのですが手踊りはどうしても体が硬直して踊れなかった」(木下要約)。

 高橋は38歳の時、結腸癌を患った。病の床に伏す高橋に母上は「どうぞ、親神様お助けを。38歳の次男でございます。我が身になりかわりましての御加護を・・・。悪しきをはらい、助けたまえ、天理のみこと・・・」と、唱えながら我が子の回復を祈った、ことが伝えられている。


【村上和雄】(1936-)

 日本の分子生物学者。筑波大学名誉教授。農学博士(京都大学、1963年)。奈良県天理市生まれ。1983年に、高血圧を引き起こす原因となる酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功。パスツール研究所やハーバード大学を抑えての快挙であった為、一躍注目を集める。天理教の熱心な信者。生命の存在はダーウィンの進化論では十分に説明できないと考え、サムシング・グレートと呼ぶ存在を想定し自身の立場が「知的設計論者の意見に近い」と述べている。サムシング・グレートを指して「あれは親神様のことです」と明かし、サムシング・グレートが天理教の「親神様」のことを指していることを認めている。


【小滝透】(1948-)
 小滝氏の著書「天理教からのメッセージ」(淡交社)後書きに次のように記されている。
 「書くに当り、私が最も描きたかったのは、天理教という幕末維新期の宗教が果たした社会的意義でした。この時代は、本文中でも述べたように、日本宗教史上でも稀に見る宗教意識が高揚した時期で、大小無数の教団が次々と誕生しています。この影響は実に大きく、近代日本の精神下層の一端は、この時の彼らの活動によっていると言っていいほどのものがあります。中でも天理教の存在は、こうした活動の頂点に位置するものであり、しかもその教えには従来には見られなかった非常にユニークな宗教思想が含まれていたのです。すなわち、従来の日本産の宗教には見られなかった最高神を頭上に抱き、普遍的教えを説いていたことがそれに当ります。これは驚くべき出来事で、ここに初めて我々は日本産の世界宗教の誕生を見ることになったのです。

 しかし、こうした動きは、歴史的にはあまり評価されることはありませんでした。とりわけ、日本の文化人や知識人には。なぜなら、彼らは明治以来、圧倒的に流れ込んだ西欧文明や西欧思想に眼を奪われ、自分の足下で誕生していた豊かな文化や精神土壌に関心を向けることが無かったからです、そして、それが今に至るまで長く続いているのです。

 しかし、西欧思想が明らかに行き詰まりを見せている今、我々は自らの歴史的伝統の中から新たな普遍性を抽出しなければならない段階にきています。明治以来の知識人はその普遍性を西欧直輸入の思想をもって代用しようとしたのですが、それにはやはり明確な限界があったのです。

 実は、天理教を筆頭とする幕末維新期の新宗教には、そうした普遍性を自らの伝統の中から抽出してきた実績があるのです。こうした新宗教の教組や開祖は、その大半が名も無い民衆の出身ですが、彼らは誰に教わることもなく、非常な思想的独創性と普遍性を自らの体験と日本の歴史的伝統の中から見出していました。彼らの伝記(教組伝)を見てみると、そのことが非常によく現れています。そして、私が何より驚いたのも、彼らのこのような姿だったのです」。




(私論.私見)