帝政ロシア(ロマノフ王朝)考

 (最新見直し2005.12.1日)

 これより以前は、「ロマノフ王朝に至るまでのロシアとハザール系ユダヤ人の抗争史」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ロシア革命により打倒されたのは帝政ロシアのロマノフ王朝であったが、この時の帝政ロシアの治政能力を確認しておかねばならない。日本の明治維新論に於ける徳川幕藩体制論と通底しているが、この辺りの考察がおざなりとしたら片手落ちと云うべきだろう。

 思うに、帝政ロシアを明治維新に位置づければ徳川幕藩体制に比せられるべきであろう。日本左派運動史観は、日本天皇制を帝政ロシアのロマノフ王朝に比してその打倒を叫んできたが、何やら変なトリックがあるように思われる。正確には、ロシア10月革命で打倒されたロマノフ王朝になぞらえれば、明治維新で打倒されたのは「将軍権力」であり、これが見合っている。日本天皇制に相当する権力はロシア10月革命史には見当たらないと云うべきではなかろうか。それほどに明治維新後の天皇制は、衣装はともかく中身は近現代の産物であるという観点が欲しい。

 そのことはともかく、旧体制としての帝政ロシア末期の政権能力を考察せねばならない。ちなみに、明治維新に於ける旧体制としての徳川幕藩体制は、日本左派運動史観にあっては、この点も未考察なままにしているが、ある面では云われているように酷くある面では云われているよりももっと賢明なる内部改革に励んでいた面がある。れんだいこは、ひょっとして帝政ロシア(ロマノフ王朝)も然りではないのか、という観点を持っている。この辺り追々に検証していきたい。

 2005.11.28日 れんだいこ拝


【帝政ロシアの世界史的地位】
 当時に於ける帝政ロシアの世界史的地位を確認せねばならない。後の展開から見て問題になるのは、シオンの議定書派とロシア帝政の抗争であろう。この時、蘭英米仏は既にシオンの議定書派に篭絡されていた。その他諸国も同様であり、帝政ロシアとドイツ、日本が独立性を保っていた。この面からの考察は殆どなされていない。
 ロマノフ王朝の始祖ミハイル・ロマノフは、キリスト教国家を基盤にして国家維持に努めた。他方、ボルガ川下流に住むハザール人を掃討した。ロシアを追われたハザール人はポーランドに定住し、後に「ダビデの星」と云われるハザール国旗を採用し、臥薪嘗胆した。ドミトリー・ドンスコイ皇子(後の第4代モスクワ大公)の元に結集したモスクワの皇子達は、ロマノフ王朝を敵視するロスチャイルド家から執拗に敵視された。

【帝政ロシア体制末期の諸政策考】
 帝政ロシアでは、その末期に於いて近代化を押し進めた。最後の二人のツァーの治世に大規模な工業化を開始していた。「旧体制の下で、様々な方向で或る程度の進歩を遂げていた」ということである。但し、外国資本が導入され、ロシアの外国資本への経済的依存が深まりつつあった。ロマノフ王家の最後の治世に於いては、この偉大な帝国は、半ば帝国で、半ば植民地と化していた。ロシア鉱山の90%、化学工業の50%、機械工場の40%以上、銀行の株の42%が、外国資本に所有されていた。外国資本は、高率の配当金が目当てであり、ロシアの工業化その限りで意味を持つものでしかなかった。

 「ロシア革命 第1部その1」には次のように記されている。
 帝政ロシアでは前世紀の末頃から急速な工業化がなされていた。鉄道の敷設、金属工業、燃料鉱業、19世紀の最後の10年間、年あたりの平均成長率は8%に達し、これは同時期の西欧の諸国のそれをはるかに凌ぐものであった。とはいえこれらは戦争の準備に必要な、一般民衆の生活向上とは無関係な重工業に限られた世界の話であった。
 19世紀の末、ドイツに対抗するフランスはロシアへの接近をはかり、1891年の「露仏同盟」以降、ロシアには膨大なフランス資本が流入するに至っていた。この動きがロシア側の富国強兵策と合致して、かつてない工業化をもたらしていた訳ではあるが、かような新しい工業は外国資本の導入以外にも、政府による製品の高価格買い上げ・補助金の給付といった保護政策によって支えられており、そのための財政支出を負担するのは、重工業の恩恵を直接被ることのない一般民衆、特にその大多数を占める農民であった。

 これより以降は、「ナロードニキ誕生までのロシア社会運動史」に記す。





(私論.私見)