ロマノフ王朝に至るまでのロシアとハザール系ユダヤ人の抗争史

 (最新見直し2008.5.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ロシア史に於ける帝国とユダヤの抗争史を書いたものは珍しい。著作ジョン・子へルマン博士、監訳・大田流の「第3次世界大戦」(成甲書房、2005.5.5日初版)その他を参照する。これらによれば、かなり相当古くから歴史的に根ざしており、はるけき今日まで及んでいることが分かる。当面スケッチしておく。

 2008.5.14日 れんだいこ拝


 7世紀から10世紀にロシアの南東部ハザーリア地方にユダヤ人国家が建国され、東スラボニァ部族を隷属させて、納税を強い、ロシアの町村を襲いロシア人を東洋の奴隷市場に売り払うなどした。(「アシュケナージユダヤ人考」参照)

 965−969年、ロシア皇子のスピャトスラフが、ハザールの首都イティルを襲撃し、壊滅させた。

 1113年、皇子、聖ウラジーミル・モノマークは、次のような法律を制定した。
 「今後、全てのユダヤ人はロシアから追放され、存在が認められない。もし密かに国土を踏み込む者が居れば、その者から略奪しても構わない。この法律は全土に亘って速やかに施行されるものである。今日限り、ロシアからユダヤ人を追い払え」。

 11世紀末−12世紀、キエフで、ロシアの民衆とユダヤ商人や高利貸しとの間で衝突が繰り返された。1113年春、キエフで暴動が起き、ユダヤ高利貸しの家々が襲撃され略奪された。暴動後、ウラジーミル・モノマークは、貸付利息の上限を20%とする法令を定めた。これらにより、ロシアに於けるユダヤ人の活動は弱体化した。

 1471年、スハリアを指導者とするユダヤ人による秘密結社がノブゴロドに誕生し、彼らは「ユダヤ化推進者」と呼ばれた。1480年、モスクワでの活動が露見し、指導者達が処刑された。裁判後、ユダヤ人の移民が再び禁止された。

 ユダヤ移民の禁止は、イワン雷帝によって強化された。

 17世紀、ユダヤ人は以前にも増してロシアに侵入し続けた。ユダヤ人は、カハルスと呼ばれる独自の共同体を形成し、ラビが重要事項を決定し、タルムードの法制に依拠した独自の自治行政機構、予算、裁判制を備えて「国家内国家自治区」を構えていた。

 1667年、ポーランドとの平和条約締結後、多数のユダヤ人が定住した。1678年、ポーランドとの平和条約改訂後、地域住民とユダヤ人との関係が一気に緊張した。

 アレクセイ・ミハイロビッチ皇帝以降、ロシアの為政者は、シオニスト・イデオロギー伝道者にとりわけ厳しい姿勢で臨んだ。ピョートル1世は、多数の外国人の入国を許可したが、ロシア出身のユダヤ人は品行不良且つ社会的にも政治的にも有害であると決め付け、彼らの入国を許可しなかった。ピョートル1世の言。
 余は、ユダヤ人よりもイスラム教徒か多神教教徒にお目にかかりたい。ユダヤ人は人でなしでごろつきだ。余は、悪徳を撲滅するつもりであって、助長したくはない。ロシアのユダヤ人には今後とも住居も仕事もない。いくら余の側近を買収しようとしても無駄だ。

 1740.12.2日、ピョートル1世の娘エリザベス1世は、議会に出した勅令の中で、ロシアに不法侵入しているユダヤ人の大量追放を命じた。

 ロシアが、1772年、1793年、1795年のポーランドの相次ぐ分割により領土を取り込んだことにより、多くのユダヤ人がロシア市民権を獲得した。エカテりナ2世は、中央政府に食い込んでいるユダヤ人の活動を抑制するために、定住線を定め、ユダヤ人がその境界線を越えて往来することを禁じた。こう書き残している。
 些細な事が今重大事になりつつある。ロシアはヨーロッパでもっとも多くのユダヤ人を甘やかしている

 これより以降は、「ロマノフ王朝」に記す。



(私論.私見)