ナロードニキ誕生までのロシア社会運動史 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).6.25日
これより以前は、「ロマノフ王朝」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
松田道雄氏の「ロシア革命史(河出書房新社「世界の歴史」シリーズの一冊として本書を世に出されたのは、初版が1970年)(「仮称「松田本ロシア革命史」に転載)、「デカブリストの乱」を参照する。(只今読み取り中です) |
【「ステンカ・ラージン(Stenka Razin)の乱」の影響】 |
まず、「ラージンの乱」を確認しておく。ラージンの正式名は、「ステンカ(ステパン)・ティモフェヴィチ・ラージン」で、通称「ステンカ・ラージン」と云われる。1630?〜1671年在世し、1667年,まずしいドン川地方の開拓農民をひきいて反乱をおこし、一時はカスピ海北西部一帯を占領。のち政府軍にやぶれ、とらえられて処刑された。ロシア民謡「ステンカ=ラージン」の主人公であり、ロシアの農民反乱指導者として称えられている。「ラージンの乱」に詳しいので概要はこれに譲る。 「ラージンの乱」とは要するに、1649年、アレクセイ帝(1629〜76)統治下での農奴制の強化に対する抵抗の乱であり、コサックの社会的不満を代弁する形で政府に弓を引いたことになる。ドン川、ヴォルガ川からカスピ海に出向き、ロシアのみならずサファヴィー朝ペルシアとも戦った。1670年以降の戦いは、農民、ヴォルガ川流域の異民族モルドヴァ人・チュヴァシ人・バシキール人が加わったことにより、それまでの略奪目的の野盗集団から反権力思想を基礎にした反乱軍へと変化し、農民戦争に発展した。 しかし、結局は政府軍に鎮圧され、ラージンら首謀者はモスクワに護送されモスクワの赤の広場で両手、両足を切断された後に首を切り落とされ処刑された。1671.12.26日、残党も制圧され、ラージンの乱は終結した。ステンカ・ラージンは権力に立ち向かった英雄として称えられることになり、「ステンカ・ラージンの歌」として口伝されていくことになった。 |
【フリーメーソンの侵入】 |
1740年、駐ロシアのイギリス人ジェームズ・ケイス将軍が、ロシア地方のグランドマスターになり、モスクワとペテルブルクを地盤にフリーメーソン思想を普及させていった。自身も渡英中にフリーメーソンに入会していたピュートル大帝の御世であり、ピュートル大帝の理解のもとに布教活動が行われた。 1750年、分散していたメーソン支部を統一するため、モスクワに「ラ・ディスクレシオン」ロッジが設立された。 女帝エカテリーナ2世も、啓蒙思想の影響で、メーソン普及に一役買った。その影響で、貴族や軍人の多くがメーソン員になった。 1794年、フランス革命勃発を見て君主制の危機を感じたエカテリーナ2世は急遽、フリーメーソン全ロッジを閉鎖するよう命じた。1797年、帝位を継いだ息子のパーヴェル1世もメーソン禁止令を発令した。その3年後、メーソン員であるヤシュヴィル侯爵らのグループに暗殺される。 19世紀初頭、アレクサンドル1世が即位し、メーソン勢力の強いポーランドを懐柔するため、いったんメーソン禁止令を解く。 |
【ナポレオンの果たした役割】 |
1812年、ナポレオン軍がモスクワに侵入。 ナポレオン軍の優勢を焦土戦術によって逆転せたロシア軍は、追撃してヨーロッパにいたった。将校であった貴族青年は、自分の目で専制から解放された文明をみた。フランス語もドイツ語も自由にしゃべれる貴族は、町のなかで市民の自由を知った。ロシアは何というおくれた国か。このままでは、国の独立もやがてあやしくなる。専制政治と農奴制は廃止せねばならぬ。戦争がおわって帰国した貴族青年たちは、改革について相談しあった。「専制政治と農奴制は廃止」が政治テーマとなった。 |
【ロシアでの秘密結社の動き】 |
1816年、「救済同盟」という秘密結社がペテルブルクにつくられた。中心になったのは、ニキータ・ムラヴィヨフ(1792−1863)、セルゲイ・トルベツコイ公爵、アレクサンドル・ムラヴィヨフ・アポストル兄弟、、ヤクーシキン(1793−1857)などだった。
いずれも近衛師団の将校か名門貴族である。のちに、オルロフ将軍、ミハエル・フォンヴィジン、パーヴェル・ペステリ(1793−1826)らが参加した。 彼らはいずれもナポレオン戦争の参加者で、戦争のさなかに農民出身の兵に接してその悲惨な生活の実情を知った。それとともに外征中にロシアと比べと遙かに進んでいる西欧諸国の政治・社会を見聞した。ここから彼らは立ち後れた祖国ロシアの〈救済〉を願って結社を作った。 1817年、「救済同盟」の約200名がモスクワに会合して「福祉同盟」と改名し、規約「みどりの書」をつくった。これはドイツ愛国的青年の政治的な秘密結社「トゥーゲントブント」の規約を焼き直したものだった。それは革命組織の規約というより博愛クラブの規約に近かった。 彼らは農奴制と専制の廃止という点では一致していたが、将来のロシアが立憲君主制を施行するのか、それとも共和国となるのかという点では意見が分かれた。また手段として武装蜂起を採用するのか否か、蜂起のやり方と時期についても意見が分かれた。 1821年、このような意見の相違と、自分たちの結社の存在を当局のスパイが察知しており、この同盟の活動は政府に筒抜けとわかって、メンバーは偽装解散した。そしてペステリを中心とする南方結社とニキータ・ムラヴィヨフを中心とする北方結社とにわかれ、それぞれ別の綱領をもった。 南方結社は、第二軍管区のある南ロシアのトゥリチンに本拠を置き、ペステリ大佐の指導下に将来のロシア共和国の憲法ともいうべき「ルスカヤ・プラウダ」を自分たちの結社の綱領として採択した。農奴制廃止と共和制の実現を目的としながら、臨時政府は中央集権的な独裁国家をつくる。信仰や言論の自由は認めるが、結社の自由はゆるさない。貴族政治よりも金権政治はさらによくないという。後にこの結社にスラブ諸民族の連邦を目指す〈統一スラブ結社〉が合流する。 北方結社は、首都のペテルブルクに本拠を置き、N・Mムラビヨフは立憲君主制を目指す憲法草案を作った。ムラヴィヨフのつくった憲法はアメリカ合衆国の憲法をモデルにしたもので、大統領のかわりに皇帝をおく立憲君主制であった。官吏や議員となるものは一定の資産のあるものにかぎられ、連邦国家制をとることになっていた。しかし23年からこの結社にもルイレーエフ、ベストゥージェフ兄弟ら共和制支持者が加入し、意見は分かれた。 |
【「デカブリストの乱」】 | ||
1825.11.19日、皇帝アレクサンドル一世(1777-1825)が行幸先のタガンロクで急逝した。彼には子供がいなかったところから、後継者について宮廷のなかでもめた。皇位継承を巡って一時空位の期間が生じた。すぐ下の弟のコンスタンチン大公は人望があった。一般にはかれが皇位をつぐと思われたが、かれにはその意志がなかった。結局、その下の弟のニコライ大公(1796−1855)が帝位に就き、新帝ニコライ1世となった。 この間、三週間ほど手間どった。貴族の将校たちからなる北方結社のメンバーはこの間軍事的なクーデタをくわだてようとして謀議を凝らしていた。ところが、スパイによって自分たちの計画が政府に報告されているという噂が入り、ここにおいて彼らは十分に準備の整わぬまま元老院広場での蜂起へ向っていく。 12.14日、北方結社は、元老院と近衛師団が、新帝に忠誠の宣誓をする日を蜂起の日として、専制と農奴制の廃棄を掲げて武装蜂起をくわだてた。ロシア語で12月を意味するデカーブリか後に十二月党員(デカブリスト)と名付けられ、「デカブリストの乱」と云われる。ロシアでの初めてのツアーに対する武装蜂起となった。 指揮官たちは、首都を守備する連隊を説いて回った。蜂起に同意したのは、ベストゥージェフの指揮するモスクワ連隊の砲兵と陸戦隊合わせて3000人だった。これに対して、政府側に残った軍隊は9000人を超えた。反乱軍はネヴァ河畔の元老院広場に方陣をひいて整列した。反乱軍は有能な指揮者を欠いた。総指揮をするはずだったトルベツコイはオーストリア大使館に逃げ、扇動家の詩人ルイレーエフも右往左往するだけだった。 反乱軍を説得にきたペテルブルク総督ミロラードヴィッチ、スチュルレル司令官は反乱兵によって射殺されてしまった。ついにニコライ一世は討伐を決意した。凄惨な砲撃が始まった。反乱軍は傷つき倒れ、薄闇の迫るネヴァ河畔の雪が血に染まった。反乱は失敗に終わった。 南方結社もうまくいかなかった。12.13日、密告でペステリが逮捕された。12.29日、彼に代わって指揮に就いたセルゲイ・ムラヴィヨフ・アポストルの率いる1000人のチェルニーゴフ連隊が蜂起したが、優勢な政府軍によって簡単に鎮圧された。 蜂起の直後特別法廷が作られ、579人がここで裁かれた。反乱した貴族に対する審問と処分は厳しく、ニコライ一世がみずから訊問に当たった。指揮者のペステリ、ルイレーエフ、ムラヴィヨフ・アポストル、ベストゥージェフ・リューミン、そしてミロラードヴィッチを射殺したカホフスキーの5人は絞首刑、重労働ならびに終身刑31人、有期流刑85人だった。多くの者がシベリア徒刑ないし流刑となった。事件に関連があるとして逮捕されたものは500人を超えた。 1826.4月、ニコライ1世は、厳しいメーソン禁止令を発布した。 ドイッチャーの「ロシア革命50年」は次のように記している。
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【「デカブリストの乱その後の波紋」】 | |||
彼らの後を追って9人の妻が貴族の身分も財産も捨てて夫の後を追い、シベリアへ向かった。妻にだけ許されたこの権利をもたない姉や妹は、宮廷をはなれたり、亡命したりした。あらゆる障害をおかして、流刑地にいって、そこで結婚の式をあげたフィアンセもいた。シベリアのデカブリストの中には、教育活動や学術研究に励む者もいた。・・・彼らが恩赦を受けてヨーロッパ・ロシアに戻ることを許されたのは56年のことである。
詩人アレクサンドル・S・プーシュキン(1799−1837)は、シベリアにいる友人にはげましの詩を送った。
シベリアの流刑地からオドエフスキーがこれにこたえた。
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【プーシュキンとデカブリスト】 | |||||||||||||||||||||||||||
ロシアの天才詩人プーシュキンはデカブリストと親交していた。プーシュキンはその詩人としての感覚から専制の重圧を感じていた。ペテルブルクで18歳から21歳までを、酒と放蕩のなかにすごしながら、プーシュキンはかれの世代の精神を、いくつかの詩にうたった。
という「自由の賛歌」は青年たちの愛唱の詩であった。 プーシュキンは、友人たちが秘密の結社をつくっていることは知っていた。しかし、かれはあえて加入しなかったし、友人たちも加入させなかった。世に絶したプーシュキンの才能を友人たちは愛惜したのだろう。 しかし権力の側は容赦をしなかった。ふとどきな詩をかく青年を、政府はペデルブルクから南ロシアの植民地保護局に転勤させた。カラムジン、ジュコフスキーら当代の詩人であり、リツェイの教授でもあった人たちの口添えがなかったらシベリア送りだった。詩人は美しいコーカサスの風物のなかで、つぎつぎと恋の相手をかえながら『ルスランとリュドミーラ』『バフチサライの噴水』をかき、大作『エフゲーニイ・オネーギン』にとりかかった。たまたまオデッサからモスクワの友人にあてた手紙のなかで無神論に賛成することをかいたのが評判になって、免官されてオデッサから追われ、ミハイロフスコエにうつった。ここで『ボリス・ゴドゥノフ』がつくられた。 デカブリストの蜂起の直前、プーシュキンは友人からペテルブルクにくるようとの手紙をうけて出発したのだが、何かの理由でひきかえしてしまった。もし予定のように旅をつづけたら、プーシュキンは蜂起の前夜、ルイレーエフの家についたはずだった。 偶然によって蜂起へ参加しなかったが、逮捕されたデカブリストの所持品のなかに、プーシュキンの詩がしばしば発見されたことから、かれは党員ではないにしても、きわめて危険な思想の持主であるとされた。 ニコライ1世はプーシュキンを喚問した。1826.9.8日、モスクワについたプーシュキンは皇帝の仮御所であるチュードフ僧院に出頭した。ここで、皇帝とプーシュキンの遣り取りが為された。
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【ベリンスキーの「哲学書簡」】 |
デカブリスト運動も大きく見ればロシアの文明開化運動であった。この頃、ラズノチンツィと呼ばれる中産階級出の知識人層が出現しつつあった。貴族出のデカブリストや官吏や牧師の子からなるラズノチンツィ達は、専制政治と農奴制の廃止を構想した。次の流れは、ロシアの啓蒙とヒューマニズム運動となった。彼らは、ロシアの遅れた祈祷社会を嫌悪した。代わりに、西欧的民主主義に憧憬した。「良識と正義の法律、農奴制の廃止と体罰の禁止、法の厳正な適用」を目指した。ベリンスキー、ゲルツェンらがこれを唱え始めた。 彼らは、ヨーロッパのルネサンスの息吹を感じ取ろうとしていた。それはかってピョートル大帝の選んだ西欧化政策の道であった。事実、ベリンスキーはピョートルが好きだった。これを西欧派と云う。他方、ピョートルを肯定しない考え方があった。ピョートルは以前からあった良いものを壊してしまった。ロシアの不幸はそこからはじまるという。それがスラヴ主義である。 1836年、チャアダーエフ(1794-1856)が、「テレスコープ」誌に「哲学書簡」を発表した。チャアダーエフはかつて軍人だった貴族で、デカブリスト蜂起のとき、たまたま国外にいて反乱に加わらなかった。ドイツでシェリングと交友であったほどの学究だった。「哲学書簡」は、ロシアの過去は空虚であり、現在は耐えがたく、未来は存在しない。ロシアは西欧から孤立していたため、隔離と隷属から理性の空白状態ができたのだと言った。デカブリスト以来、ロシアのなかで専制に対するこれほどはっきりした告発はなかった。それは闇夜にひびいた一発の銃声のように知的ロシアを覚醒させた。チャアダーエフは皇帝によって狂気とされ、今後一切ものを書かないと約束させられた。 「哲学書簡」は、西欧派とスラブ派の対立のきっかけになった。ロシアの将来が西欧の進んだ道を追うのか、それともロシア独自の道を進むのかは、それ以後くりかえし論争されることになる。但し、西欧をよく知っている者の方がかえってスラヴ主義者になった面もある。ベリンスキーが死の直前にドイツに行っただけで、ドイツ語もフランス語もよく解さなかったのに対し、スラヴ主義者のキレーフスキーはドイツで哲学を学んだし、ホミャコフはパリ生活が長い。両派は同じサークルで仲良く論じ合っていたし、どちらも農奴制には反対だった。彼らを一概に体制と反体制と割りきって対立させることはできない。違うのは、スラブ主義者がキリスト者だったのに対し、西欧派の多くが無神論者だったことだ。 |
【ゲルツェンの社会主義】 | |
ゲルツェン(1812-70)は、専制ロシアから亡命の自由求めて脱出した。そのときゲルツェンは西欧派だった。ヨーロッパ各地で彼は、ロシアでみられない自由を楽しむ労働者に驚異の目を見張った。折から起こった1848年のヨーロッパを覆う革命の波を彼はイタリアの各地とパリで見た。パリでは社会主義とブルジョアが対決した。ブルジョアの勝利に彼は絶望的になった。ブルジョアの自由な国の共和国というのは、人間性の喪失ではないか。ゲルツェンは思った。ロシアはヨーロッパとは違った道を進まなければならない。専制政治の否定が社会主義だとすれば、ロシアの社会主義は新しい社会主義でなければならない。われわれはヨーロッパから遅れているが、それだけ自由なのだ。 ゲルツェンがヨーロッパから「祖国記録」誌に書き送ったこれらの言葉は、次代ロシアの革命家に共通した信条となった。ロシアの社会主義はヨーロッパのそれとどこが違うか。ロシアでは社会主義の担い手が農民なのだ。ヨーロッパの社会主義がその担い手としてプロレタリアを見つけるまでには色々と回り道をしたが、ロシアでは道はまっすぐだ。社会主義の原理は農村共同体のなかに生きながらえている。「ロシアへの信頼が道徳的破滅から私を救ってくれたのだ」(『フランスとイタリアからの手紙』)。 1844年、ニコライ1世は、ユダヤ人自治共同体のカハルス制度の廃止を試みた。これによりカハルスという名前は形式的に消えたが、制度自体は存続した。ロシア作家フィヨードル・ドストフエスキーは次のように述べている。
1850年、ゲルツェンに対して帰国命令が出された。が、ゲルツェンはそれを拒否して生涯の亡命者となった。盟友オガリョフと一緒にロンドンに自由ロシア印刷所をつくり、雑誌『ポリャルナヤ、ズヴェズダ』(北極星)、新聞『コーロコル』(鐘)を発行し、専制政府を糾弾し、ロシア内部で押さえられている事件や禁止された詩を掲載した。これらは秘密ルートでロシアに運びこまれ、多数の読者をもった。 「西欧派かスラブ主義か」という論争は、そのもっともラジカルな部分で統一された。それゆえ、ゲルツェンは、スラブ主義者のK.アクサーコフが死んだとき、『コーロコル』紙上にその死を悼んで書いた。ロシアの社会主義はゲルツェンによって礎石を置かれたのである。 |
【学生運動の波】 |
この間、学生の動きが時代のもっとも敏感なバロメーターとなった。1860年代から80年代までの10年間は啓蒙の時代となった。 1861年、政府は大学の自由を制限する法を定めた。これにより、無許可集会が禁止された。授業料の免除も大きく制限され、各学部につき2名とされた。大学当局は、この規則「改正」を告示するのをためらった。9.23日、ペテルブルク大学で学生の大集会がもたれた。と学生たちは隊伍を組んで、大学の門を出た。それが、ペテルブルクにおける最初の街頭デモであった。ネフスキー大通りをデモった。軍隊と学生との衝突を避けさせようとしていた学長を見つけた学生たちは、大学で改めて話し合いをすることにして、学長を先頭にして引き返した。大学での話し合いはつかず、学長は軍隊の出動を求めた。多数の逮捕者が出た。逮捕者の釈放を要求した学生は、さらに集会をもった。 こうして大学紛争は始まった。62年はほとんどの学部が閉鎖された。大学が再開したのは2年後の1863年の夏だった。その間、学生たちはいくつかの自主講義をもった。終始、学生の運動を支持していた「サヴレメンニク(同時代人)」誌の編集長チェルヌイシェフスキーは自主講義の第一候補だったが、当局は許さなかった。9月23日の学生集会に、砲兵学校の生徒を合流させて、軍隊による規制を妨げてくれた砲兵学校の教授ラヴロフも招待されたが、これも当局の反対にあった。学生運動にどういう態度をとるかによって知名人たちの思想は学生によってテストされたのだ。 1863年のポーランド(当時ロシア領であった)革命によって、にわかにロシアの民族意識が高まったのに乗じて政府は学生運動を押し切った。教授会の自治と引き替えに学生の自治は完全に奪い去られた。学生運動を鎮圧することに政府は成功したが、この学生運動から成長してきたものが、やがて政府を脅かすことになる。 |
【詩人のM.ミハイロフの宣言ビラ「若い世代へ」】 | |
1861.9月のある日、ペテルブルク市街の広告柱や壁に「若い世代へ」と題する宣言ビラが貼られた。ビラは明らかに騒動を起こしている学生をねらって書かれていた。「君たち、人民の指導者よ」という呼びかけで、ビラは君主制の廃止を訴えた。
農奴解放の年に出されたこの革命宣言は、それ以後の革命綱領のキーノートになった。この宣言を書いたのは、チェルヌイシェフスキーの学友だった詩人のM.ミハイロフとN. シェルグーノフである。宣言はロンドンのゲルツェンの印刷所で刷られ、ミハイロフ自身によって国内に持ち込まれた。 その一部を受け取ったコストマーロフ某は第三部(諜報機関)に秘密を売った。ミハイロフは逮捕されたが、同志シェルグーノフに累を及ばさないよう一切を自分の行為だと「自白」し、12年の強制労働とシベリア送りの判決を受けて流刑地に送られた。シェルグーノフ夫妻は自分も同罪だとしてシベリアに行き、15年を流刑地で送った。からだの丈夫でないミハイロフは1865年に死んだ。 |
【「農奴制廃止」】 |
1861年、「解放皇帝」アレクサンドル2世のもとで農奴制が廃止された。この背景には、農業社会の急進的改造を目指すナロードニキ運動の隆盛があった。彼らは、革命の主力を農民と見立て、「土地と自由」をスローガンにしつつ「人民の中へ」を合言葉として啓蒙主義的運動を組織して行った。 この法令で、農奴は解放されたが、農奴に土地が手に入った訳ではなかった。むしろ、解放された農奴は、耕すための土地を手に入れようとして多額の借財をしたり、分益小作人(収穫を分配する契約で土地を占有的に耕作する奴隷的小作人)、雇われ人にならなければならなかった。この状態が、ロシアの人民大衆を反帝政運動に駆り立てる震源地となった。 |
【革命民主主義者チェルヌイシェフスキー】 |
チェルヌイシェフスキーがこの当時の最高水準的理論的指導者であり、レーニンにも強い影響を与えている。チェルヌイシェフスキーは、農奴解放令が出る以前から、解放は農民自らの手によることを説いており、専制政府にとって危険きわまる人物だった。チェルヌイシェフスキーは哲学、歴史、経済学について深い学殖をもち、学生時代からフランス社会主義に触れて、ロシアの将来についても、当時もっともラジカルな考えをもっていた。 ゲルツェンは1862年まで、ロシアできわめて高い評価を得ていたが、自由主義者との交友や西欧の議会制のもとでの生活が、彼をかなり穏健な思想の持ち主にしてしまったきらいがある。その点で農民の武装蜂起を期待していたチェルヌイシェフスキーは、急進派のなかで絶対的な信頼をかちえていた。そういう思想をチェルヌイシェフスキーは公然と書くことはできなかったが、農民蜂起をアピールした秘密の文書が彼の手によるものと革命家のすべてが信じていた。 1862.7月、チェルヌイシェフスキーは逮捕され、ペトロパヴロ要塞監獄に収監された。ゲルツェンと連絡をとったこと、秘密の文書を流したこと、反逆の意図があること、などが逮捕の理由だったが、どれも物的な証拠がなく、スパイの偽証によって裁判はとりつくろわれた。1864.5月、判決がくだって14年の強制労働とシベリア流刑が決まった。政治犯に対する見せしめとして、都心の広場で「公民権剥奪」がおこなわれた。 獄中でチェルヌイシェフスキーは小説「何をなすべきか」を書いた。彼および彼の周囲の革命家をモデルにした革命殉教者の物語である。この小説はそれから何十年ものあいだ革命家の座右の銘となった。著者もまた自作の真実に対して誠実であり、極寒のシベリアで何度か、転向すれば帰してやるといわれたが、がんとして応じなかった。非転向のチェルヌイシェフスキーがシベリアの獄中で壁に向かって本を読んでいるということが、その事実によって革命を志す青年を励ますのだった。しかし革命の聖者も、はるか故郷の家族から年に1−2回の便りがあった夜は、声を忍んで泣いていたという。 1889年、チェルヌイシェフスキーは逮捕以来27年ぶりにやっとサラトフへの帰還が許されたが、彼の全エネルギーは、抵抗のたたかいで使い果たされ、故郷で4カ月しか生きる力しか残していなかった。 |
【ニコライ・セルノ・ソロヴィエーヴィチの「土地と自由」】 | |
1860年の初めに、ロンドンのゲルツェンのところへ若い男がやってきた。25歳のこの男は、ニコライ・セルノ・ソロヴィエーヴィチ(1834-66)といってペテルブルクの官吏の子だった。早くからプルードン、サン・シモンなどのフランス社会主義を学び、ゲルツェンの愛読者だった。クリミア戦争の敗北に大きなショックを受けた彼は、官吏となって上からの改革に大きな期待をかけていた。しかし皇帝への直接のアピールも受け入れられず、官僚制度の内面の腐敗にも絶望した。社会主義以外にロシアの救いはありえないと確信するにいたった。チェルヌイシェフスキーの経済学に深く動かされて、経済学を学ぶため1858年に辞職してヨーロッパに行った。農村共同体を基礎にして、国家の経済援助でロシア特有の体制をつくるというのが彼の意見だった。 ゲルツェンとオガリョフはこの俊英な経済学者に多くの期待をよせ、ロシアの中に革命組織をつくる相談を始めた。これが、秘密の革命組織「土地と自由」のきっかけである。61年に農奴解放令が出ることがわかって、彼は急いで綱領をつくりはじめた。執筆者はオガリョフだった。しかしゲルツェンは秘密の革命組織に気乗りがしないようだった。 綱領は、革命の組織がまだ弱いことから、国民会議の開催の主張にとどまっていた。1862年の初めからセルノ・ソロヴィエーヴィチはネフスキー大通りに貸本屋を開いて、そこを運動の拠点にした。同時にモスクワ、カザン、ノヴゴロド、ペルミなどにあった「サヴレメンニク」誌の読者を中心にしたサークルの組織化に取りかかった。 政府のスパイ網はゲルツェンの近辺にも張られていて、多数の手紙をもった連絡員がロンドンを発ったという知らせを打電してきた。62.7月、この連絡員の逮捕によって32人が検挙されて、「土地と自由」の中枢部は潰滅した。チェルヌイシェフスキーの検挙もこの中に入っている。イタリアのアナーキストのマッチニの組織論を採用したオガリョフの党規約によって、細胞(末端組織)の5人以外の顔を知らない、という組織法が、非合法性をよく守ったのと、メンバーが少なくて印刷物をあまり出せなかったのとで、「土地と自由」の実体は今日でもよくつかめていない。だが残った党員の中には、63年のポーランド反乱の鎮圧に行ったロシア軍の将校もいた。ポーランド反乱に同情的宣伝をしたというので、3人の将校アルンゴルト、スリヴィツキー、ロストフスキーは銃殺されている。 「土地と自由」の組織を守って最後まで戦ったのは、61年のペテルブルク大学のストで活躍したN.ウーチンやセルノ・ソロヴィエービチの弟アレクサンドルだった。兄のニコライは12年の強制労働の判決を受けシベリアに送られたが、流刑地で反乱を組織しながら1866年の2月に病死し、弟のアレクサンドルは亡命して第1インターナショナル(国際労働者協会)に参加したが、バクーニンともマルクスとも意見が合わず、精神病院で自殺した。「土地と自由」の事実上の消滅は1864年であるが、若い世代の革命家とゲルツェンとの訣別はアレクサンドルの「コ−ロコル」への絶縁宣言によってなされた。 1866年の末にアレクサンドルはゲルツェンとオガリョフに対して言った。
「土地と自由」は、革命の新しい世代が始まったことを告げた。 |
【19世紀ロシア文学に巨星現われる】 |
この時代の19世紀ロシア文学に偉大な作家が現われている。ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキーという巨星が、それぞれに当時の社会問題を題材にしながら文学し思想を問うという構図で著作しあった。この巨頭たちは互いに絡み合いながら当時の人々に影響を与えた稀有な史実を刻んでいる。 ツルゲーネフ(1818〜1883年在世)は、若き日ドイツでバクーニンと親交し起居をともにほどの交友を経ている。その後作家となるや貧しい農奴の生活を描き、反農奴制気運を盛り上げた。逮捕、流罪後パリに出てフロベール、ヘンリー・ジェームズ、モーパッサン、ゾラ、ゴンクール兄弟らと交流しするなどの足跡を残している。ロシア文化とヨーロッパ文化の橋渡しの役割を果たした。1855年、ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキーとトルストイにあう。1857年、ツルゲーネフとトルストイはフランス・スイス・ドイツを巡っている。1861年、知事より農地委員に任命されるが、農民の権利を擁護、地主の反感を買い、1年後に辞任。この頃、ツルゲーネフを訪ねるが、彼の娘の慈善事業の話題でその偽善性を批判したため、ツルゲーネフが激昂。決闘騒ぎとなる。1863年、ドストエフスキーにより母国の中傷家として攻撃されている。作品はどれもが当時の社会問題を取り扱ったもので、1作ごとに大きな社会的反響を巻き起こした。近代リアリズム文学の父とされ、代表作として、「猟人日記」、「ルージン」、「父と子」、「処女地」、などがある。ロシア革命思想に大きな影響を与えた。 トルストイ(1828〜1910年在世)は、1854年、クリミア戦争に将校として従軍しセバストポリ要塞での戦いに参加している。戦地での体験は、トルストイが平和主義を展開する背景となり、また後年の作品での戦争描写の土台となった。ツルゲーネフ同様にコサックの生活を描写し、反農奴制気運を盛り上げた。社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。トルストイの影響は政治にも及び、ロシアでの無政府主義に影響を与えた。1881年、ドストエーフスキーの死去に際し、面識はなかったが、親友と考えていたトルストイは涙す。アレクサンドル3世に父帝を暗殺した革命家たちを処刑しないように要請してもいる。晩年は、ロシア正教会の教義に触れ、1901年破門の宣告を受けた。 代表作は、「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」、「復活」など。 ドストエフスキー(1821〜1881年在世)は、1846年、処女作「貧しき人々」が批評家ベリンスキーに激賞され、華々しく作家デビューを果たす。その後空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年、官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、処刑間際で特赦が与えられ、1854年までシベリアで服役。その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。代表作は、「貧しき人々」、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」など。 |
【「若いロシア」】 |
革命は世紀の怪力をもって、個人の中にひそむ能力を引き出して時ならぬ開花を見せることがある。20歳の青年ピョートル・ザイツネフスキー(1842-96)の場合もそうだった。1842年、中流の貴族の家に生まれた彼は、モスクワ大学の数学科に在学中、学生運動に参加して革命家としてスタートを切った。ゲルツェンによって社会主義を教えられてから、ルイ・ブラン、プルードン、フランス革命、30年のポーランド反乱、イタリア革命の歴史を学んだ。のち禁止図書の秘密出版をしているサークルに加入し、文盲をなくす運動として起こった私設日曜学校での社会主義宣伝にたずさわった。それが警察長官ドルゴルーコフの命令で禁止されると、彼は農村に入った。 61年、農村は解放令で農民がざわめき立っていた。素晴らしいアジ演説で彼は農民を傾聴させた。土地は働く君たちのものではないか。地主が承知しないなら、承知させればいいと、彼は1アントン・ペトロフのことを例にひいた。農民の中で話しながら彼は農民を至近距離で見た。亡命作家のもちえないものを彼はそこで身につけた。革命は思想だけの問題ではない。革命は組織しなければならない。農民にその力がないのなら、教育を受けた人間がやるしかない。 日曜学校で不穏当な宣伝をしたかどで、彼は逮捕された。だが、モスクワの監獄はいたってルーズで、監獄内で彼に『若いロシア』を書かせ、外に持ち出させ、印刷させてしまった。1862年の5月ごろから、そのパンフレットは、疑いをそらすためペテルブルクでばらまかれ、急速に地方に広がった。 『若いロシア』は革命党の宣言書である。それはいままで出された秘密組織の宣言の中でもっとも激烈なものだった。「ロシアはその存在の革命期に入った」との書き出しで、いま闘争が行われているのは、二つの党の間のできごとであることを明らかにする。二つの党とは何か。一つは虐げられた者の党、すなわち人民の党である。もう一つは皇帝の所有につながる。人民の革命運動が所有に向けられているのを知ると、人民の蜂起に自分の代表者ツァーリを押し出してくる。これが皇帝の党である。 ゲルツェンは尊敬すべき文筆家だが、1848年の革命の失敗に驚いて力による変革を信じなくなってしまった。われわれは現体制を倒すためには、1790年代のジャコバンが流した血を恐れない。今の専制は諸州の共和的連合に変わらなければならない。その際、すべての権力は国民会議と州会議の手に属さなければならない。 『若いロシア』のもっとも特徴的なところは権力獲得後の政府の性質を決めている点にある。「政府の先頭に立つ革命党は、革命の成功したあかつきは、現在の政治的中央集権制(行政的中央集権制ではない)を確保しなければならない。それによって経済的、社会的生活の基礎をできるだけ速やかにつくるためにである。独裁権力を保持して何ものにもたじろいてはならない。総選挙も政府の影響下に行なって現体制の護持者を入れてはならない」 フランスで、1848年革命のあと革命政府は干渉しないで、ルイ・ナポレオンを選出させてしまったことが、そのいい例である。権力掌握後の革命党独裁の思想が20歳の青年によって、ロシアの革命家に手渡されのである。「若いロシア」は党として成長しなかったが、ロシア・ジャコバンの思想は成長を続ける。ザイチネフスキー仲間のサークルには、やがてこの理論を大成させる若いトカチョフがいた。ザイチネフスキーが逮捕と流刑をくりかえしながら自分の周囲に育てたサークルの中からテロリストも出たが、ボリシェヴィキになる人物も育った。 |
【ナロードニキの誕生その1、ピーサレフ】 | |
ポーランド反乱の鎮圧によって体制は一応の安定の時代に入った。ペテルブルクの学生たちの気分にもそれが反映した。チェルヌイシェフスキーやドブロリューボフの拠点だった「サヴレメンニク(同時代人)」誌は落ち目になった。学生たちが「サヴレメンニク」から乗り換えて読んだ雑誌は「ルスコエ・スローヴォ(ロシアの言葉)」だった。そこに新しい英雄ピーサレフが登場したのである。この23歳の批評家はペトロパヴロ要塞の獄中から革命人読者のための原稿を書き送ってくるのだ。大人たちはこのピーサレフ(1840-68)を「恐るべき子ども」というが、彼こそは、年をとったもの、古いもの、日常的なものを全否定する青年の友だった。 ピーサレフは地方貴族の家に生まれ、母から過剰な庇護を受けて育った。早くから現れた躁うつ病で2度自殺をこころみた。ペテルブルク大学を出るとすぐ、「ルスコエ・スローヴォ」誌に寄稿を始めた。ドブロリューボフの登場に似ていたが、神学生のドブロリューボフにくらべて、ずっとスマートだった。ドブロリューボフは革命前夜に見られるような張りつめた調子で書いたが、自然科学を信じるピーサレフはきわめて冷静な筆で書いた。彼はダーウインの信者だったのだ。1862年に逮捕されて、4年半をペトロパヴロ要塞のなかで過ごした。逮捕の原因は、ゲルツェンを擁護し、皇帝を非難する文章を発表しようとしたからである。知事のスヴォーロフ将軍が自由主義者だったので、彼は獄中で著作をつづけることができた。 ピーサレフの思想の特徴は、自我への復帰である。革命への献身の中で見失われてしまう自我を、彼は青年の驕慢によって取りもどす。若い世代の喜びは、自己の個人的尊厳が何ものにも代えがたいという事実によって支えられていた。
1866年にピーサレフは釈放されると、翌年夏バルト海岸の海水浴場で泳いでいて死んだ。彼は泳ぎが上手だったのに、なぜ水死したのだろう。それは依然としてナゾだ。鋸差荒れたペテルブルクの学生たちも当惑したに違いない。人民と政府との間に和解はありえない。政府の側には人民からだましとった金で買収した悪漢しかいないのに、人民の側には思考し、行動しうる若い世代がいると言ったピーサレフの反政府意志と自我の尊厳とをどういう組織活動で実現するかを、ピーサレフは言い残していかなかった。それは、若い世代が解決しなければならない課題だった。自己の尊厳をエリートの役割とみるか、徹底した自己変革を永続化していくか。 |
【ナロードニキの誕生その2、イシューチン】 |
1866.4.4日、夏宮殿の散策を終えて馬車に乗ろうとしたアレクサンドル二世に一人の青年が近づいてピストルを発射した。弾は当たらなかった。護衛によって青年は取り押さえられた。数日の拷問にかかわらず、犯人は名を明かさなかった。下宿人が帰ってこないという下宿屋の届け出があって青年の素性がわかった。ドミトリ・カラコーソフ(1840-79)といってサラトフの貴族の出でモスクワ大学を中退した男だった。家宅捜索によって、モスクワにいるニコライ・イシューチン(1840-79)という人物と連絡があることがわかった。ただちに検挙が始まって数百人が捕らえられた。イシューチンを中心にした「オルガニザーチア」という組織があることが判明した。イシューチンはサラトフの商人の子でモスクワ大学を出ていた。同郷の学生と、「土地と自由」の残党をかき集めたこの組織は、チェルヌイシェフスキーをシベリアから脱走させて、国外で革命指導の機関誌を出してもらう計画を立てていた。 革命気運の退潮の中に、ピーサレフの選んだ道が自己主張だったとすれば、イシューチンの選んだ道は自己犠牲であった。一切は革命のために捧げられなければならないと信じた青年が彼の周囲に集まった。ある者は大学を中途でやめたし、ある者は財産のすべてを寄付した。イシューチンは5年後には農民革命がきっと起こると思っていた。その革命のためにどのような犠牲も払わねばならぬと信じたイシューチンは一種のマキャアベリアンであった。 |
【ナロードニキの誕生その3、ネチャーエフ】 |
1969年の冬、モスクワ農業大学キャンバスの池で学生の死体が発見された。頭部の銃創で他殺であることが明らかだった。ただちに捜索がはじまり、学生がイワーノフということがわかった。死者と交友があった人物が多く検挙され、事件の全貌が判明した。 「ヨ−ロッパ革命家同盟」からロシア支部をつくるため派遣されたネチャーエフという男がモスクワやペテルブルクの学生の間に秘密サークルをつくっている。このサークルは5人組が単位で、他のサークルのことはいっさい不明である。サークルのメンバーもたがいに番号で呼び合うだけで名を知らない。メンバーは来るべき革命のためにその準備をしている。殺されたイワーノフはこの秘密組織を密告しそうだというので消されたのだった。関係者は逮捕されたが首魁のネチャーエフはつかまらない。つかまらないはずである。イワーノフの死体が上がる前に彼は国外に脱出してしまったのだ。 そもそも「ヨ−ロッパ革命家同盟」など存在しなかった。ネチャーエフのフィクションにすぎない。しかしネチャーエフがもっている「ヨ−ロッパ革命家同盟」員2771号の党員証に書かれているバクーニンの署名は本物である。バクーニンはネチャーエフのフィクションに見事ひっかかってしまったのだ。 国外に革命の拠点を置こうと考えてネチャーエフが最初にスイスへ行ったのは、1869年だった。彼は自己紹介するのに、秘密革命組織の責任者で、ペテルブルクとモスクワとで2回逮捕され、2回とも脱獄してやってきたのだと語った。 ロシア国内における革命の退潮と亡命生活のわびしさに、意気が上がらなかったバクーニンやオガリョフにとって、ネチャーエフは電撃のようなショックだった。「ついに革命の英雄が現れた」確信にみちた態度、射すくめるような鋭いまなざし、誰をも説得せずにおかない巧みな話術に、老革命家たちは完全にとりこにされてしまった。オガリョフは彼のため詩を書き、バクーニンは頼まれるままに「ヨーロッパ革命家同盟」の党員証を書いて署名した。それにしても、スイスから帰ってその年のうちにペテルブルク、モスクワ、イワーノヴォに拠点をつくり基金を集め、地下出版所まで用意したのだから、ネチャーエフの組織家能力はただごとではない。 イワーノフの殺害後1870年はじめ、再びスイスにやってきたネチャーエフは、こんどはうまくいかなかった。1月に死んだゲルツェンが管理していた革命資金をバクーニンを介して手に入れたところまではよかったが、ロパーチンという別の青年革命家がスイスに亡命してきて、ネチャ−エフと称する男は、1度も逮捕されたことがなく、ペトロパヴロ要塞監獄なども、まったくのつくり話であることを暴露した。この話を聞いて興ざめしたバクーニンとオガリョフは、ネチャーエフとの付き合いはもうこれまでと、彼を見限った。 こうしてスイスにはおれなくなったネチャーエフは、ロシア秘密警察の手引きでやってきたスイス官憲に逮捕され、身柄をロシアに引き渡された。そのときネチャーエフは25歳。ロシアでの裁判ののち、彼は勅命でシベリア流刑の判決を取り消され、ペトロパヴロ要塞に終身監禁の身となった。 ラヴロフの『歴史書簡』ネチャーエフ裁判は、ロシア革命の流れのおける転換点となった。革命を志す青年たちはここで立ちどまった。ピーサレフが「思考するプロレタリアート」といったインテリゲンチアがいままで革命の先頭に立ってきたが、人民との関係はどうなるのか。学生サークルだけを組織したネチャーエフはつまずいたではないか。再びピーサレフウに立ち戻って近代化学で自己を武装しなければならない。 このとき、ピョ−トル・ラヴロフ(1823-1900)の『歴史書簡』が啓示のように革命への道を教えた。この本は、68年から69年にわたって「ニジェリャ」(週)という雑誌にに連載されて70年に1冊の本として出版された。亡命中のラヴロフのところに青年たちが、「あなたにだけ期待をかけています。革命の綱領をつくって、出版物の指導をしてください」と頼みにくるまで、ラヴロフは「歴史書簡」がそんなに読まれているとは知らなかった。『歴史書簡』は、ピーサレフの自然科学至上主義とモラルの不在に対する抗議として書かれたものだった。ラヴロフも自然科学は否定しない。自然科学は認める。しかし自然主義は思想の説明にすぎない。人間が主体として価値を求めていけば歴史に入りこまざるをえない。歴史は宿命ではない。時代の最高モラルを説くインテリゲンチアが、歴史を創造する。その創造が進歩なのだ。だがインテリゲンチアは、自分が歴史の創造者だと思い上がってはならない。インテリゲンチアが知識の特権者でありうるのは、多数の人民大衆が食うや食わずで働いてくれるおかげなのだ。インテリゲンチアはこの負債を民衆に返すべき道徳的義務がある。進歩の代償を払うべきときが来たのだ。 この『歴史書簡』はネチャーエフ事件のショックに意気消沈していた青年たちにとって大きな救いだった。陰謀が失敗したからといって革命が絶望のわけではない。それが失敗したのは戦術だけががあって、モラルがなかったからだ。インテリゲンチアはモラルによって民衆につながっているのだ。この人民大衆と一緒になれば、革命は陰謀ではなく、公然と人民の力によって行ないうるではないか。『歴史書簡』は、革命的青年をネチャーエフの孤独から解放した。 ラヴロフは地方貴族の家に生まれ1837年ペテルブルクの砲兵士官学校で学び、卒業後は同校の教授になり数学を教えながら、歴史・社会・哲学の研究を続け、次第にチェルヌイシェフスキーのグループに近づいた。革命的活動家というより学究的人柄だったが、62年には結社「土地と自由」のメンバーだった。66年、アレクサンドル二世の暗殺未遂事件の関連で行われた要注意人物の一斉家宅捜索によって、チェルヌイシェフスキーとの連絡書簡が発見され、首都追放になった。『歴史書簡』を書いたのはこの追放地においてであった。 『歴史書簡』を書き終えるとラヴロフは、「1ルーブル社」をつくって農民の中で宣伝活動をやっていたロパーチンの手引きで脱出し、1870年2月にパリに向かった。そこで彼はパリ・コミューンに参加する。 |
「民衆の完全な解放と幸福の達成は全てを破壊する民衆の革命によってのみ可能である。そのために結社は社会の災厄を最大限に拡大し際立たせなければならない。そうすることで民衆の不満と怒りの堪忍袋の緒を切らせ、一人残らず蜂起に立ち上がらせるように仕向けなければならない」。(ロシアの革命家ネチャーエフの言葉 植田樹 「ロシアを動かした秘密結社」) |
【ナロードニキの誕生その4、「人民の中へ」】 |
1873年暮れから、ペテルブルク、モスクワ、キエフ、オデッサ、サラトフ、サマラ、ハリコフの学生を中心に青年たちが続々農村に入り、農民に対して社会主義の宣伝をしたり、革命の必要を説いたりした。この運動は翌74年の夏に最高潮に達し、2万3000人の青年が参加した。参加者の3分の1が女子学生だった。「狂った夏」が過ぎて74年の冬から青年たちの大検挙が始まり、女性を含めて700人以上が逮捕された。 この運動は全く自然発生的に起こったのだった。組織らしい組織といえば、ペテルブルクのニコライ・チャイコフスキー(1850-1925)を中心とした学生グループだろう。このグループは71年ごろにできたが、厳しい秘密組織ではなかった。誰が参加してもかまわない。ネチャーエフにこりた学生たちは、組織を秘密にせず、そこでは合法的な出版物しか読まなかった。しかし実際は、革命をどういう方法で実現すべきかを、自由に討論できる場だった。 「人民のなかへ」運動は75年にはほとんど終息してしまったが、それは革命家の徒弟修行ともいうべきものだった。後で革命家として知られる人物は、ほとんどがこの運動をつうじて革命宣伝を学んだ。のちにテロリストとして名をなしたクラフチンスキー(1851-95)はこの運動を回顧して、あれは政治運動というよりも倫理的な運動だった。社会主義は宗教で、人民は神だったと語っている。 「人民のなかへ」運動に参加した学生たちは、上述したチャイコフスキー(1850-1926)をリーダーとするグループのほかに、三つのグループがあった。 この運動が宗教的な運動といわれるだけあって、実際に新興宗教の団体も参加していた。A・マルコフという、暴力革命に絶望した人物を教祖にし、人間にはだれにも「神の火花」があって、隣人愛、寛容、犠牲心となって現れる、祈りによって「神の火花」をもたらせば社会平等は実現されるというのが教義だった。その後、逮捕されたマリコフは検事のなかに「神の火花」を祈りだしてみせると主張してやまなかったので、精神異常者として釈放された。 NN団と呼ばれたのは、スイスにいたラヴロフの出している「フペリョート」(前進)を中心に集まったグループだった。スイスに留学して社会主義者になった学生の多くはこのグループに属した。 第四のグループはブンタリと称しバクーニン派である。これはキエフなど南方とモスクワに加盟者を多くもっていた。ブンターリというのはブント(蜂起・一揆)を起こす人という意味で、行動派である。 チャイコフスキー派がもっとも有名になったのはM.ナタンソン(1850-1919)やソフィア・ペロフスカヤ(1853-81)のような有能な活動家がいたばかりか、ピョートル・クロポトキン公爵(1842-1921)が社会的地位をなげうって参加していたからであった。 「人民のなかへ」はそれに参加した青年には、えがたい教訓を与えたが、農民たちは青年からほとんど何も学ばなかった。まだまだ皇帝を信じていた農民たちは、青年らの宣伝を聞こうとしなかっただけでなく、彼らを警察に密告したり、ひっくくって突き出したりした。青年たちの人民信仰は大きく揺らいだ |
1874年、N・V・チャイコフスキーが創設した結社の有力メンバーにマーク・ナタンソンとアンナ・アインシュタインが挙げられる。アンナはこの年、ビリニュスで革命家の細胞組織づくりに奔走し、アロン・リバーマンとアロン・ズンデルビッチがこの細胞を育てた。リバーマンは、ロンドンでユダヤ社会主義協会を育てており、共にその後の世界ユダヤ社会主義労働者運動の起爆剤となった。この組織は、カントリー&ウィル協会に発展的に解消し、南ロシアのユダヤ人が主力となった。
【ナロードニキの誕生その5、バクーニン】 | |
ナロードニキ運動はバクーニンの思想的影響を受けていた。バクーニンの履歴は「バクーニン」の「生涯の概略履歴」に記した。 ロシアの革命的青年は、ヨーロッパでできたことがロシアでやれないことはないと考えた。フランス革命からパリ・コミューンへ至る経験をロシアで験そうとし始めた。バクーニン理論の影響を受けながら、ロシア農民に期待した。こうして学生らは、福音の使徒として農村に向った。 彼ら学生を特徴づけたものにマルクス主義に対する違和感があった。バクーニンの影響が強かったので、クロポトキンはもちろんだが、ラヴロフも革命のあとは自由な共同体連合の社会ができることを期待していた。1872年、プレハーノフが「資本論」を出版し、3000部も売り上げがあったが、ロシアの革命家にすると、「資本論」は資本主義社会の悪を書いたもので、マルクスの革命理論は西欧資本主義にあてはまるのであって、資本主義以前のロシア分析には役立たなかった。西欧の資本主義をまねる必要はないとしていたナロードニキの共感を生まなかった。それに、マルクス派のいう革命後のプロレタリア独裁は国家権力をなくそうとする彼らにはなじめなかった。ネチャーエフの陰謀革命と違う道を選んで、彼らは人民大衆による革命を期待する道に分け入った。 しかしながら、「人民のなかへ」の運動は失敗した。バクーニンはすぐにも革命が起こるように訴えたが、農民は立ち上がらなかった。 この頃のナロードニキには、ロシア革命がどういう革命であるべきかについて一致した考えがあった。それはヨーロッパ的政治革命であってはならないということであった。彼らは、君主制を共和制にするとか、専制を議会制にするとかの政治革命をさほど重視していなかった。例えば、「人民のなかへ」の裁判にかけられたコーモフは供述の中でこう説明する。
ナロードニキが政治を嫌ったのは、政治は自由主義者が権力と取り引きしてやることで、革命家のすることではないと思っていたからである。「人民のなかへ」が失敗して、そのために裁判にかけられながらも、彼らの政治的革命を否定する気持ちは変わらなかった。 |
【ナロードニキ】 | |||||
1870年代のロシアにナロードニキと呼ばれる革命運動が起こった。ナロードニキとは、「人民(ナロード)のなかに入った革命家」という意味だ。ナロードニキという言葉は60年代からあるにはあった。また「人民のなかへ」の始まる前、1872、3年にスイスから帰ってきたバクーニン派の青年が、古い世代を「教養派」と呼んだので、古い世代がやり返して「ナロードニキ」と名づけた。ここに「ナロードニキ」の由来が有る。しかし、一般にナロードニキといえば、次にいう革命的政治結社「土地と自由社」とその革命家を指す。 この頃、活動的な党員ほど焦りが出てきた。権力がこれほどしつこく党に襲いかかるとき、権力との闘争を前面に押し出さないでいいのか、という問題が出てきた。政府のはげしい追及に、テロを否定しつつテロをつづけ、混乱と逃亡のなかに、革命と人民との関係や当面の革命目標について十分に考えられない困惑がみてとれる。 官憲の追及に対する抵抗からテロに移らねばならなかったグループ、農村のなかに腰を落ち着けて啓蒙とセツルメント活動をするグループ、都市労働者のなかに宣伝をするグループ、さまざまな模索が70年代の終わりにつづいた。「土地と自由社」のメンバーは、右往左往していたのだ。 「土地と自由社」のメンバーは、ほとんどが「人民のなかへ」運動に参加している。組織の必要を感じた彼らは、ロシアではじめて定期刊行の機関誌をもった党をつくった。初期の中心人物は、上述したチャイコフスキー・グループのナタンソンだった。こうしてできたグループは「人民のなかへ」運動のOBによる人民戦線だった。プロパガンジストという革命の宣伝を主とした穏健派とブンタリに属した即時決行派の両方を含んでいた。党の建設と警察の追及の競争になると、過激な連中は武装活動を始めるし、スパイに対して報復リンチも加えることになる。否が応でも権力の先端部とぶつからなければならない。血の気の多い南方でとくにこの種の衝突が頻発した。 テロは、ペテルブルク総督トレーポフ将軍の射殺事件から始まった。1878.1月、知事室前に控ええていた請願者中のひとりの女性が、自分の番になって知事室に入ると、いきなりピストルを出して知事に発砲した。刑務所で政治犯が虐待されたことに対する返報だった。知事は重傷を負ったが死ななかった。女性は、容易に名を明かさなかったが、かつてネチャーエフのサークルに属して、流刑になったヴェーラ・ザスーリッチ(1849-1919)であることが判明した。 2月にはキエフでオシンスキーら党員が検事コトリャレフスキーを狙撃して失敗した。3月には同じくキエフで党員ポプコが憲兵副隊長のゲイキング男爵を路上で刺殺した。8月にはクラフチンスキーが秘密警察の長官メゼンツェフ将軍をペテルブルクで白昼、刺殺した。党と警察は食うか食われるかのデットヒートを演じているとき、スイスから届く雑誌はひどく生気のないものになった。各地の秘密サークルがめいめい勝手な党名をつけてビラを出しているのも組織のルーズさを示した。 9月になってペテルブルクの組織が潰滅的な打撃を受けたのを立て直したアレクサンドル・ミハイロフ(1855-84)は党の健在を占めそうとして、10月から定期的に機関誌を出し始めた。この機関誌に60年代の革命党の名「土地と自由」を採用したので、この党名が「土地と自由」社と呼ばれるようになったのである。その第1号にクラフチンスキーによる綱領が発表された。 「土地と自由社」の綱領は、「土地と自由、この二つの魔のような言葉は、いくたびロシアの地底から力強い自然の動きを呼び起こしたことか」とのアピールで始まり、次のように宣言している。
この綱領が、第一に問題にするのはヨーロッパと違って農業の問題だった。次のように述べている。
綱領はさらにつづく。
以上が綱領のあらましである。この綱領は当時の革命的なロシアの青年の気持ちを実によくあらわしている。「人民のなかへ」運動の失敗から教訓をくみとろうと模索しつつあった姿勢が見える。しかし、人民大衆と結びつこうとすればするほど政府から弾圧を受け、有力なメンバ−がつぎつぎ逮捕されていった。 |
【政治的テロリズムの称揚】 | ||
1870.4.22日(露暦4.10日)、レーニンがヴォルガ河畔シンビルスク(現ウリヤノフスク)に生まれる。父は高級官吏であった。 1872年、マルクスの資本論が刊行される。ロシアにおける「マルクス主義」は、資本論のロシア語訳が刊行された1872年から始まった。 1876年、「50件の裁判」で、ユダヤの人民の意志派の二人の女性(ゲッシャ・ゲルフィナンとベッチャ・カミンスカヤ)が被告人席に坐らせられた。 1878年、トロツキーが生まれる。 1879年、ナロードニキ急進主義派が、「人民の意志党」を結成し、「政治的に鼓舞されたテロリズム」に殉教する秘密陰謀団体を結社した。「人民の意志党」は、40名前後の「革命的」男女で構成されていた。1880年代は、「人民の意志派」が一斉風靡した。 「土地と自由社」の指導的地位にあったミハイロフは、皇帝官房第三部の中に逆スパイ、クレチェトニコフを送りこむことに成功した。それ以後テロの成功率が高くなった。ミハイロフの状況判断では、いま党員を農村に送りこんで革命を準備するには党員の数が少なすぎる。少数で有効に戦うためには権力の中枢部に打撃を加えるよりほかない。そうすることによって人民に活気を与えようとミハイロフは考えた。 プレハーノフは、テロについて徹底的に反対した。彼は労働者の中での宣伝に重点をおくべ機だと考えた。ミハイロフ派とプレハーノフ派と衝突が表面化したのは、1879年春からだ。サラトフからテロリスト、ソロヴィヨフがやってきて皇帝暗殺をしたいから、「土地と自由」社で援助してほしいと言ったときである。激しい討論の末、組織としては支援できないが、個々の党員が援助するのはかまわないという妥協に落ち着いた。 1879.4.2日、ナロードニキ急進主義派(ソロヴィヨフ)がアレクサンドル2世を狙撃する。ソロヴィヨフは5発の銃弾を放ったがどれも当たらず、その場で逮捕された。 これを契機に、ナロードニキ「土地と自由」は、急進主義派の「人民の意志」派と穏健派の「土地総割替派に分裂した。プレハーノフは、これ以上テロをつづけるかどうか党大会で決着をつけようと提案し、6月にヴォローネジで大会が開かれた。大会での「農村教宣」派はプレハーノフはじめ、ヴェーラ・ザスーリッチ、パーヴェル・アクセリロートなどだったが、主導権はミハイロフ、フロレンコ、モロゾフ、ジェリャーボフなどのテロ派の手中にあり、採決の結果、テロ派が多数を占めて勝った。プレハーノフは「もうここに用はない」と席をけって立ち去った。 8月、急進主義派は、ペテルブルクに会合して別の組織をつくった。「土地と自由」(ゼムリャ・イ・ヴォーリャ)のヴォーリャをもらって「ナロードナヤ・ヴォーリャ」(人民の意志)という名をつけた。「人民の意志」党は 1879年10月から85年12月まで12号の機関誌「人民の意志」を出した。その中に発表された論文によって「人民の意志」党は、かつて現れた革命組織のなかで最高の地点に立っていることを示した。 「人民の意志」党は、ナロードニキにアナキスト理論を加え、政治闘争手段として皇帝・政府高官等要人暗殺、皇帝列車、宮殿の爆破に向かう等「反国家テロ」を系統的に組織した。 「人民の意志」党は、ロシアの革命家をアナーキズムの呪縛から解放した。社会革命さえやれば政治闘争はその結果として起こるという思想を逆転した。まず政治革命をやらなければならない。そのためには今の権力を倒すことが先だ。権力を打倒するまでは革命家の党が指導しなければならない。「土地と自由」社が将来のことは将来に任せたが、「人民の意志」党は権力打倒のあとのプログラムを持っていた。権力を奪取したら党は憲法制定会議を召集する。これによって人民の手に国家権力がゆずり渡される。党が人民の力を組織し、人民が自主的に活動を始め、中央権力を獲得したとする。
ここには、「人民のなかへ」運動に見られた人民への盲目的な信仰はない。しかし、「若いロシア」にあったようなジャコバン主義はない。彼らにはまだ人民を偽っていいとしたネチャーエフの記憶が消えていなかった。 また彼らには政治闘争を押しだしたとはいえ、バクーニンの思想と無縁ではなかった。憲法制定会議によって農民に土地が分けられたあと、各地方は独立して自治体連合となることで国家悪から解放されると信じていたからである。 もちろん、革命は農民を解放することが第一の任務であり、かつ革命を急がないと、ブルジョアに権力を先取りするという思想は「土地と自由」社からそのまま引き継いだ。彼らは「人民のなかへ」運動の中で農民の敵はクラーク(富農)だと見てきただけ、ブルジョアに対する反感は現実性を持っていた。 「人民の意志」党は、権力を粉砕するための軍隊として究極的に革命は人民の参加を必要とすると考えながら、そのきっかけとしてテロによる権力の解体を期待した。テロに深く足を踏み入れるに従って、陰謀になり、人民から離れ、実際にはネチャーエフの組織原理に近づかねばならなかった。 「人民の意志」党は、権力の最高の拠点に打撃を加える方法として皇帝の暗殺を企図していた。それが党によって確認されたのは、79年8月であった。この大胆な最後の戦いが決定されたとき、「執行委員会」の中では大きな吐息が聞こえた。武器はダイナマイトと決まった。地下生活の中に、火薬製造の実験室兼工場が加えられることになった。皇帝暗殺のための幾つもの班がつくられ。それぞれの地点で「刑の執行」が準備された。 (1979年以降の主な「反国家テロ」は次の通り。略) まずツァーリのクリミアから帰ってくる途中を3カ所で狙うことになった。オデッサに派遣されたフロレンコ、レーベジェワ、キバリチーツの作業が無駄になった。オデッサに皇帝は来なかったのだ。アレクサンドロフスクではジェリャーボフのグループが、レールの下にダイナマイトを埋めることに成功した。皇帝の列車がその上を通過する瞬間ボタンは正しく押された。しかし爆発は起こらなかった。電極の繋ぎ方を間違えたのだった。最後の関所はモスクワだった。ここには「執行委員会」の精鋭ミハイロフ、ソフィア・ペロフスカヤ(1853-81)らが、線路に近い家を買って40bの地下道を掘った。11月19日、浸水に半ばおぼれながら、爆薬を装填した。列車は過たず爆破された。しかし、破壊された1両は貨車で、あとの8両は脱線しただけ。しかも皇帝は難を逃れた。脱線車には随員しか乗ったいなかった。 1879.10.26日、レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン(トロツキー)が、南ウクライナのヘルソン県ヤノーフカで、ユダヤ人自営農5番目の子供として生まれる。 79年の末、テロ行為にどうしても賛成できなかったプレハーノフは、「黒い再分割」という機関誌を出した。「黒い」とは、農民自身の手によるという意味である。これにより、「黒い再分割」派と呼ばれる。彼らの多くが「農村派」であり、農村の中での宣伝と教育を続けることを譲らなかったのは、彼らには人民への信頼がまだあったからである。革命は人民みずからが起こすものでなければならないという信念があった。「人民のなかへ」の思想がそのまま続いていた。 彼らは政治闘争を第一にすることに反対だった。次のように述べている。
政治的ラジカリズムを排した彼らは、ステンカ・ラージンやプガチョフの型の国家解体を考えていた。農業革命を要求する人民の声は神の声であり、神の声は、その啓示を革命的インテリゲンチアに示し給うとした。 「黒い再分割」誌を印刷した直後に、印刷所が官憲によって暴かれ、「黒い再分割」派は多くの党員を失ってしまった。「人民の意志」党のテロの続くかぎり、うんどうはこのままで続けられないというので、指導者を国外に亡命させることになった。 1877−79年の「193件の裁判で、8名のユダヤ人が被告席に坐らせられた」。 |
【ナロードニキ人民の意志派が皇帝アレクサンドル2世を爆殺する】 |
1880.1月、プレハーノフ、ザスーリチ、ディッチュらは国外に去った。アクセリロートは残ってペテルブルクの組織を指導した。その頃、40人ばかりの活動家がいた。「黒い再分割」派は全国的に統一した党とはいえななった。共通目的を持ったサークルの連合とでもいうべきだった。 2.5日、皇居である冬宮の食堂の床が爆薬で吹っ飛んで5人の死者と58人の負傷者が出た。皇帝は一緒に食事するはずの賓客が遅れたため危うく難を逃れた。爆薬を仕掛けたのは、党員ステパン・ハルトゥーリン。彼は指物師だったのを幸い、冬宮に高級家具職人として採用された。この腕のいい職人その実直さで信用され宮殿の地下室に住むことを許された。彼はダイナマイトを道具箱に隠し入れて少しづつ冬宮に運んだ。これ以上沢山になると目立つというときに爆破を決行した。導火線に火をつけて外に出たハルトゥーリンは、疑われることなく無事立ち去った。 冬宮の爆破は、その不成功にもかかわらす、全世界に「人民の意志」党の存在をしらせた。「人民の意志」党は、巨人ゴリアテに立ち向かう牧童ダビデのように世間の目に映った。革命家たちは見かけの自由主義にだまされないことを明らかにするため、皇帝暗殺を続けると宣言した。1880年に2度、暗殺が試みられたが2どとも失敗した。そのたびに残り少ない活動家が逮捕された。組織はほころびていった。ペテルブルクのどんな裏町の小路でも知悉していた脱走の名人ミハイロフが逮捕された。 1881.1月、思わぬ連絡の手紙が党にもたらされた。ペトロパヴロ要塞監獄からのネチャーエフの手紙だった。陰謀の革命家はまだ生きていたのだ。生きていたばかりでなく、彼は脱獄してもう一度戦列に加わりたいと言ってきたのだった。いま監獄の看守たちを味方にして、脱出の援助を求めてきたのだ。しかし、人民の意志側にしてみれば。ネチャーエフの感覚はすでに古くなっているとして、彼を敬遠した。 暗殺決行の日が「1881.3.1日」と決められた。皇帝は乗馬練習のためミハイロフスキー練兵場にいくので、その通り道のどこかで襲撃することになった。練兵場からネフスキー大通りに抜けるマーラヤ・サドーワヤ通りがいいというので、そのいちばん端の家を借りた。通りの下に坑道を掘って、爆薬を仕掛けるのだ。坑道掘りが始まった。 大変なことが起こった。秘密警察の内部にいて、向こう側の情報を流してくれ、同志の逮捕の情報を流してくれていた諜報員クレトシニコフがつかまった。不注意から、逆スパイであることが露見したのだ。党は探知器を失った。党の被害は急速にふえた。急がねばならないのに爆薬の製造もはかどらないし、坑道も思うように進んでいない。2月の初めに委員会で、暗殺と同時に反乱が起こせるかどうかを討議した。委員会にはせいぜい20人ぐらいしかいない。どんなにしても百の単位の人間しか動かせない。とにかく決行するまでだ。 チーズ店から掘った坑道に地雷を仕掛けるのが第一だ。だが地雷が失敗したらどうしよう。それには4人の投弾者がマーラヤ・サドーワヤ通りの両端に分かれて、はさみ打ちにして投弾すればよい。それもうまくいかなかったら、その時は、私が短剣でもって校庭を刺すと言ったのはジェリャーボフだった。この恐れを知らぬ雄弁家のオルグは党の全員の信頼を負っていた。革命が勝利して政府ができたら彼を置いて首班となるべき人間はいなかった。そのジェリャーボフが、決行を2日後に控えた2月27日に逮捕されてしまった。 明日決行だというのに、地雷はまだ仕掛けられていない。四発の爆弾はまだ一つもできていない。28日の夜を徹して爆弾の製造を急いだ。ジェリャーボフに代わって指揮をとったのは、ソフィア・ペロフスカヤだった。貴族の娘として生まれ、反対を押し切って保健婦となり、「人民のなかへ」の運動に参加して逮捕され、裁判被告となった彼女は、当時の女性革命家の典型だった。色が白く、まだ少女らしい表情が残っている彼女は敵に対しては容赦なかった。 3月1日の朝、爆弾と地雷ができ上がった。チーズ店の坑道に地雷が仕かけられた。投弾者を二人連れてペロフスカヤはマーラヤ・サドーワヤから離れた。チーズ店に残った二人は、練兵場から帰ってくる皇帝がチーズ店にさしかかるのを、ボタンのそばで待ちかまえていた。しかし午後1時をまわっても皇帝は来ない。ほかの道を選んだらしい。もうだめか。それにしてもペロフスカヤはどこで、皇帝を待っているのか。 2時をすこし過ぎたとき突如、砲撃のような爆発音が聞こえた。少し間をおいて同じような爆発音があった。とうとうやった。だが首尾はどうか。間もなく街に噂が流れた。エカテリナ運河に沿う道でアレクサンドル二世が、2発の爆弾を受けて重傷のまま冬宮に帰ったというのだ。 この運河沿いに投弾手を配置し、対岸からハンカチを振って投弾を指令し、成功を見とどけ立ち去ったのが、ペロフスカヤであることを知っていたのは同志だけだった。 爆弾を初めに投げたのは、ルィサコフだった。馬車ぞりが一部こわれただけだけで、従者にけが人はあったが、皇帝は無事だった。ルィサコフはただちに捕らえられた。混乱の中で将校のひとりが皇帝に「ご無事でしょうか」と尋ねた。皇帝は言った。「神に感謝する。私はどうもない。彼はどうする」とそばに重傷を負った男を指した。取り押さえられた ルィサコフが叫んだ。「神に感謝するのはまだ早いぞ!」 皇帝は身をひるがえして、また馬車に乗ろうとした。そのとき、第2の投弾手グリネヴィツキーが近づいて、目の前の皇帝とともに自爆すべく足元に爆弾を投げた。もうもうと立ちこめる硝煙が消えると、皇帝は仰向けに倒れていた。出血がひどかった。すぐ冬宮に運ばれたが、1時間とは生きていなかった。グリネヴィツキーも夕刻、息を引きとった。 3.1日、ナロードニキ「人民の意志」派が、皇帝アレクサンドル2世を、首都ペテルブルグ(後のレニングラード)のエカチェリニンスキー運河岸で爆殺する。1855年に即位し、農奴解放を行ったアレクサンドル2世の最後であった。 しかし、ナロードニキ運動は急速に力を失う。 |
【シオニスト党組織が各地で誕生する】 |
1880年、シリアとパレスチナ在住ユダヤ人の農業従事者や職人を支援する委員会がオデッサで設立された。シオニスト組織や団体が、ビリニュス、ミンスク、リボフ、ロッシーニ、コブノ、ガラーしアその他ロシア帝国の諸都市に誕生した。19世紀末にかけて、推定数千人の党員を擁するシオニスト党がロシアで活発化し始めた。 |
1881年、ロシア政府の黙認の下で、全国的規模のユダヤ人部落襲撃が行われている。これをロシア語で「ポグロム」(ユダヤ人虐殺)と云う。その背景には、ロシアの各地に結成されていたユダヤ人自衛組織との軋轢があった。
これより以降は、「ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムの交差時代」に記す。
(私論.私見)