「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史1

 (最新見直し2005.10.9日)

 これより以前は「ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムの交差時代」に記す。

ロシア革命史の期間仕分け
 ロシア革命は大きく分けて、1905年の第一次革命以前期【第一期】と、1905年の第一次革命以降1917年の二月革命期【第二期】まで、二月革命以降同年「7月事件」、それに続く十月革命期【第三期】に分けられる。

 この期間を有機的に叙述することは難しい。れんだいこは、ロシア史革命史を彩るレーニン、トロツキー、スターリンの動向に注目しながらの通史化を試みようと思う。他にも客観的な方法が考えられようが、それは却って途方も無く掴み所の無いものになるだろう故に、「能動的人物が綾なした激動史」の観点から考察していくことにする。仮称「松田本ロシア革命史」その他を参照した。

 2004.5.29日再編集 れんだいこ拝


ロシア社会民主労働党の結成
 加藤一郎氏のロシア社会民主労働党創立大会その他を参照する。

 1898.3月、ミンスク市でロシア社会民主労働党(これがソ連共産党の最初の名称となった)の創設大会(第一回党大会)が秘密裡に開催される。出席したのはペトログラード、モスクワの「闘争同盟」など6つの社会民主主義組織の代表9名で、秘密会議となった。こうして、単一のロシア社会民主労働党を結成することに成功し、「宣言」と「大会決定」の採択、3名からなる中央委員会を選任した。

 レーニンは流刑地のシュセーンスコエ村で党綱領の基礎となるパンフレットを書いている(レーニンは、大会の準備過程や大会自体には直接参与していない)。後年、『イースクラ』派やボリシェヴィキー党と厳しく対立するユダヤ人ブントが物的精神的に党の創立事業で多大な役割を果たしている。「労働解放団」等の在外グループは召請されていなかった。

 大会は議長にエイヂェーリマンを選出し、事前の「談合規約」に基づいて進行した。まず党名が議題にのぼった。「社会民主主義的(ソツィアルヂェモクラチーチェスカヤ)」はすぐに採択されたが、「ロシア国の(ロシースカヤ)」とするか「ロシア人の(ルースカヤ)」とするか、あるいは「労働者の(ラボーチャヤ)」を挿入するかについて意見が分かれた。

 非ロシア人組織で、しかも労働者を大衆的に組織したユダヤ人ブントは、当然にもロシア人非ロシア人を問わずロシア帝国に居住する全労働者の組織たることを示す「ロシースカヤ」と「ラボーチャヤ」を主張した。「ロシースカヤ」は採択されたが、「ラボーチャヤ」は労働者がほとんど党に属していないとの理由で採択されなかった。だから、党創立大会で採択された正式党名は「ロシア社会民主党」であった。だが、ストルーヴェが「宣言」を起草する際に、「ラボーチャヤ」を挿入してしまい、「宣言」によってその存在を知られるようになったこの党は、これ以後「ロシア社会民主労働党」と呼ばれることになる。

 大会決定は11の項目から構成されている。その内、次の第8項後半部を除いてすべて組織規約であると言ってよい。

「党はその綱領、原則、戦術の適用を侵さないかぎりで、自己の中央委員会を介して他の革命組織との連絡に入る。党は各民族の自決権を承認する」。大会決定の中で綱領的原則を表明しているのは、この民族自決権承認条項だけである。このことは次のことを意味すると思われる。第一に、まず第一に民族自決権の承認を銘記せざるを得ないほど、ロシア人社会民主主義者は「民族地域」での運動に配慮せざるをえないか、その先進性を承認せざるを得なかったことである。第二に、その「民族地域」とは主としてポーランドや白ロシアを指していることである。

 次に、党の在外代表については、「在外同盟」が「党の一部であり、党の在外代表」(大会決定第10項)となった。次は、地方委員会の権限とユダヤ人ブントの自治権についてであった。大会決定第7項は前者をこう規定している。「地方委員会は中央委員会の決議を地方的条件にもっとも適していると考えられる形態で実行する。地方委員会はその理由を中央委員会に知らせてから、中央委員会の決議を拒否する権利を持つ。その他の場合、地方委員会は党綱領のみを遵守して、まったく自立的に活動する」。「例外的な場合」という留保条件つきではあるが、中央委員会の決議に対する地方委員会の拒否権が銘記されている点は注目に値する。

 また、ブントの自治権に関しては、「『在ロシア・ポーランド全ユダヤ人労働者同盟』は自治組織として党に加入し、特にユダヤ人プロレタリアートに関する問題でのみ自立的である」(大会決定第1項)とされた。力量的に見ても、ユダヤ人労働者への工作はブントに委任せざるをえないことは、大会参加者の間で自明のことであったろう。ただし、ブントの自治権という概念自体があいまいであり、全ロシア党内での主導権争いともからまって、第二回党大会前夜、党の「連合性」的組織化問題にまで発展する。

 最後に、『ラボーチャヤ・ガゼータ』が中央機関紙となり、エイヂェーリマン、クレメール、ラトチェーンコの3名から成る中央委員会が選出されて、大会は終了した。党綱領の採択に至らず、ストルーヴェ(後の国内戦期にはウラーンゲリ白軍政府の外務大臣をつとめることになる)に宣言の起草を依頼して早々に解散した。

 しかし、直後に弾圧が見舞われ、代表の大半が一斉逮捕されたこと、全国で500名に及ぶ同志が逮捕されたことにより活動は停止した。結局、この党は実質的に機能したことは無かった。選出されたばかりの中央委員の内2名、エイヂェーリマンとクレメールが投獄され、残ったのはラトチェーンコだけだった。

 ラトチェーンコは大会の指令を守って、ストルーヴェに宣言の起草を委任した。「宣言」の内容の詳細は省略するが、2、3点興味ある点を挙げておこう。第一は、政治闘争の第一義性を力説している点である。この点に関しては、ストルーヴェに対してきわめて批判的であるソ連邦の党史も、「宣言」を高く評価している。第二に、この政治闘争の主体はひとえにプロレタリアートであるとされ、自由主義ブルジョアジーや農民との同盟関係については言及されていない。これは「煽動について」を「聖典」としていた現場活動家の心情にマッチしていたであろう。第三は、大会の論点であった「ロシースカヤ」か「ルースカヤ」かは「宣言」では配慮されていず、すべて「ロシア人労働者(ルースカヤ)」となっている。

 トロツキーも逮捕され、オデッサの監獄に移され、そこでラブリオーラの著作を読み、感銘を受ける。獄中でフリーメーソンに関するノートを執筆しはじめる。1899年、流刑の判決を受け、モスクワの移送監獄に移される。レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』を読む。

20世紀初頭のロシアの社会状況
 20世紀の初頭、農村では一揆が頻発していた。農村から都市に流入した労働者は工場においても劣悪な条件下で1日12〜16時間の労働を強いられていた。1900〜03年の恐慌とあいまって、ストライキをおこしては皇帝の警察・軍との衝突をおこすに至っていた。こういう情勢に規定され、学生・知識人も社会運動に乗り出していった。

 19世紀中期までのロシアの農村では、農民が地主貴族の領地に縛り付けられる「農奴制」が健在であった。農奴は売買されたり、地主に逆らった場合には流刑されたりもしていた。1861年の「農奴解放令」によって農奴の売買は禁止されたが、貴族の所有する土地の下で低賃金で働くか高額の地代を払って借り受けるか、狭い土地を手に入れた農民はその代価を年賦で払わなければならなかった。税負担も厳しいものがあり、農民は結局は借金まみれにさせられた。つまり、農奴制は形を変えて存続していた訳であり、地主貴族の土地の無償解放は十月革命の後となる。また、農民は農村共同体(ミール)に所属し、そ承認なしには村から出ることも土地を家族で分割することも出来なかった。それが解体されるのはスターリン時代のことである。

 かような革命的気運の盛り上がりの中、帝政ロシアは対外戦争によって国民の不満をそらそうと考えた。帝政の治安責任者としてストライキ等の弾圧にあたってきた内相プレーベは、「国内の革命的な状況を阻止するには、ちょっとした対外的勝利が必要なのだ」という台詞を遺している。様々な理由から、当時の帝政ロシアは日本との対立を激化させていた。


【イスクラが創刊され、党内でイスクラ派と反イスクラ派の対立始まる】

 ロシア社会民主労働党内には労働者の経済闘争を重視する「経済主義派」が次第に勢力を広げ始めた。

 1899.末、レーニンは、「緊急の問題」を書き上げ、次のように述べている。

 「革命的な組織と規律を改善し、秘密活動の技術を一層完全なものにすることが緊急の必要となっている。我々は、この点では従来のロシアの革命政党に立ち遅れており、これらの革命政党に追いつき追い越すために全力を挙げねばならないことを公然と認めるべきである」。

 1900年、この年、「オデッサとニコラーエフの労働運動」という小冊子がジュネーブで出版される。共著。トロツキーの初めての著作。春、獄中でソコロフスカヤと結婚。秋、イルクーツクのウスチ・クート村に流刑。長女ジーナ生まれる。10月、アンチド・オト名で『東部評論』に文芸評論をはじめさまざまな評論を書き始める。「超人の哲学」、「ジューコフスキー」、「イプセン論」、「グレープ・ウスペンスキー論」、「ゴーゴリ」、「レオニード・アンドレーエフ論」など。

 1900年、刑期を終えたレーニンの頭を一杯にしていたのは、機関紙を出すことだった。それには国外で編集し、印刷しなければならない。レーニンは、社会民主主義者はもちろん、ストウルーヴェなど学究まで入れた人民戦線的なものにしたかった。新聞を新しく出すためプレハーノフに相談したところ、彼からストウルーヴェと一緒にやるのはごめんだ、それに新聞の編集長は自分以外にないといって、レーニンに対してひどく冷淡な態度をとった。レーニンは尊敬していたプレハーノフに失望したが、ザスーリチが中に入って古い世代のプレハーノフ、ザスーリチ、アクセリロートと若い世代のレーニン、マルトフ、ポ−トレソフで新聞を出していくことになった。

 1900.12月、スイスに亡命したレーニンは、マルトフらと共に「経済主義派」との抗争、非合法政治新聞「イスクラ(火花)」を創刊した。デカブリストのオドエフスキーがプーシキンに答えた詩「火花から火炎が燃え上がる」からとったものだった。ドイツ社会民主党の支援を得てミュンヘンに編集局を置いて12月の末に「イスクラ」第1号を発行した。印刷したのは、ライプチヒだった。ロシア内部との連絡はレーニンが一手におさめ、連絡事務の一切は、翌年4月から加わったクループスカヤ(1869-1939)が担当した。職業革命家による中央集権的で規律ある革命党づくりに乗り出した。これにより、党内は、イスクラ派と反イスクラ派(主として経済主義派)に分かれ反目していくことになる。

 「イスクラ」紙に出す論文にはレーニンが必ず署名を入れた。プレハーノフも編集者のひとりではあったが、新聞は完全にレーニンのものだった。プレハーノフに代わって新しい指導者が誕生したのだ。

 ドイツの国境から秘密のルートで運びこまれる「イスクラ」によって、レーニンは、全人民の中に反政府の意識を掻き立てようとした。レーニンの最大目的は政府と戦う革命の党をつくることだった。秘密サークルを指導するインテリが、「イスクラ」支局員となって、その読者に労働者を増やしていきながら労働者を指導することになれば、サークルの指導権が労働者に渡ってしまうことはないはずである。

 「イスクラ」の発行を流刑地で考えていたとき、レーニンは人民戦線的なものにしようとしていたが、「イスクラ」を出し始めてみるとレーニンの重点は、党組織をつくることに置かれた。レーニンは次第に「人民の意志」党の組織原理に近づき考え方としてはトカチェフに傾いていった。レーニンをそうさせたのは、トカチェフをせきたとのと同じ「革命への焦り」だった。レーニンを何よりもあわてさせたのはライバル党の出現だった。

 1901年にペテルブルク大学を中心に学生のストが始まった。文相ボゴレーポフがナロード二キのテロにより暗殺されたことから騒ぎ出した学生のストは、政府側の譲歩で収まった。政府が弱みをみせたのがきっかけで、右派自由主義者と、憲法制定を要求する左派自由主義者とが活動を始めた。残っていたナロードニキも政党をつくる動きを見せはじめた。専制と戦うのは社会民主主義者だけではなくなった。

 レーニンは、早く党をつくらなければならないと決意した。1901年、レーニンは、ジェネヴァの亡命革命家のための図書館でトカチョフの著作をむさぼり読んだ。そしてその年の秋から「何をなすべきか」の執筆を始め翌年の2月までに書き上げて本にした。本書で、レーニンの党組織論が明確に世に示された。それは次のようなものであった。

 専制を打倒する革命で、自由主義者に先を越されないためには、労働者階級が強い党をつくって先頭に立たなければならない。
 ロシアの労働者は当時まだ文盲が70%にも及ぶのだから、教育のある自由主義者にたぶらかされないためには、インテリが指導しなければならない。インテリが中心になる強い党は、すでにロシアでは試験済みである。実践では「人民の意志」党があったし、理論ではトカチョフがいた。
 革命的運動を担うには革命的理論が無ければならず、これは明確な階級意識を身につけたインテリの仕事である。

 これによれば、レーニンは、「人民の意志」党の歩みを評価し、それを揚棄する運動としてのマルクス主義運動の創出を志向していたことが分かる。「何をなすべきか」によって、つくるべき党の青写真を示したレーニンは、この思想に賛成する代議員を国内から集めて、国外で党大会を開くことを企図した。その為に「イスクラ」を使って宣伝を強め、国内に党大会を準備する「組織委員会」なるものをつくった。地区委員会から相応しい代議員を出させるよう腹心を国内に派遣した。


【ユダヤ独立労働者党が創設される】

 1901年、ブント(ユダヤ人社会民主主義労働者協会)とのバランスを考慮しつつズバートフや協力者の支援を得て、ユダヤ独立労働者党が創設された。「ユダヤ労働者階級の物質的文化的レベルの改善」を目標に掲げて、ユダヤ・シオニズム組織の活動の拠点となった。ユダヤ独立労働者党は1903年まで存続し、シオニズムの危険に気づいた政府の内務省通達により活動が禁止された。シオニスト運動は、革命的社会主義者にとって、重要な訓練の場となった。


【エスエルが結成される】
 1901年末、ナロードニキの「人民の意志派」が社会革命党(以下「エスエル」と記す)が結成されている。エスエルは1905年のロシア第一革命において活躍するが、その後帝政の弾圧にあって逼塞を余儀なくされた。エスエルも、「反国家テロ」を闘争手段の柱の一つに掲げ、テロを実行する「戦闘団」という「特別組織」を作っていた。

 
エスエルは、19世紀に発生した全くロシア独自の社会主義者「ナロードニキ」をその母体とする。ナロードニキは「人民による、人民のための政府創出」を意図するが、西欧のマルクス主義がプロレタリアートに過大な期待をかけるのに対し、こちらは農民を社会主義社会達成への主要な原動力とみなすところに違いがあった。エスエルは、「ロシアの土壌で育った生粋の党」であった。

 メリニチェンコの「レーニンと日本」は次のように記している。
 「ボリシェヴィキとエスエル(社会革命党)との間の最も大きい食い違いは、エスエルがロシアにおける社会主義への運動を民族的基盤で可能であり、全世界革命を介してではないと考えていたことである」。

 ロシアの農村に特徴的なものとして、「農村共同体」(以下、「ミール」と記す)というものがあげられる。土地の所有権自体は地主たる貴族が握っている(農奴解放後は多少変化した)が、ミールが一定の範囲の土地を共有し、この土地を部落の成員に等分に割り当て、定期的に土地の割り替えをしていた。人頭税等の賦課に対してはミールの成員全員が連体責任を持ち、ミール内の問題は家長会議によって決めていた。農村共同体自体は、1920年代にスターリンによって解体されるまで残存していた。

 ナロードニキは、かように土地私有制を欠く共同体と、生産手段の私有を否定する社会主義とを結び付け、新政体の基礎に置こうとしていた。他方、ナロードニキ急進主義派は、過激な行動力を持ち、皇帝アレクサンドル2世やその重臣多数を暗殺する等のテロを繰り返していた。彼等はロシアの資本主義化を極力排撃しようとし、原始的なミールを主体としての「社会主義」への跳躍を考えていた。つまり、彼等は、ロシアのブルジョアジーが成長・権力掌握を行なう(ロシアが西欧的な資本主義の害毒におかされる)前にエスエル革命をおこそうとしていたことになる。一応の主張として普通選挙権・8時間労働・無償普通教育・常備軍廃止、そして土地の社会化(地主貴族からの土地の収用・農民への公平な分配)等を掲げており、総体として農民の大きな支持を受けていた。

 エスエルは、「二月革命」の際に無原則的な入党を認めたことから水膨れし、路線をめぐって左右両派に分裂することなになる。右派はトルドヴィキから乗り換えてきたケレンスキーに引きずられてブルジョアと妥協し、左派はその後ボリシェヴィキと協調することになる。

イスクラ編集部がロンドンに移る
 1902年、レーニンは「何を為すべきか」を執筆。

 1902年春、ドイツ社会民主党の希望により、活動の本拠をドイツ国外に移す。レーニンの主張で、イスクラ編集部をロンドンに移した。これにより、レーニンは、プレハーノフの影響からひとり立ちすることになる。

 1902年、各地からの代議員がロシア領ポーランドのビアリストークに集結し、ロシア社会民主労働党の第2回党大会を開く予定であったが、イスクラ派による反イスクラ派に対する妨害工作と代議員の多くが逮捕されたことにより、正式大会にならなかった。

 ブスコフでロシア社会民主労働党の会議が開かれた。この時は、レーニンらのイスクラ派が優勢で、次の党大会を準備する為の組織委員会を指名した。

 1902年、トロツキー22歳の時、次女ニーナ生まれる。夏、ソコロフスカヤを残し、流刑地を脱走。脱出の際の偽造パスポートにトロツキーと記入。チューリヒに。パリを経由してロンドンに渡った。


【全ロシア・シオニスト会議がミンスクで組織される】
 1902.8月、全ロシア・シオニスト会議がミンスクで組織され、反ロシア組織の中心となった。

レーニンとトロツキーの邂逅
 10月、ロンドンに住むレーニンの下へ後にトロツキーと名乗ることになるペローが訪れる。

 11月、トロツキー、初めてイスクラに評論を執筆。イスクラメンバーとしてパリに講演旅行に行き、そこでナターリア・セドーヴァと出会う。

 この年、内務大臣シピアーギンが暗殺された。

 トロツキーの「わが生涯1」は、次のように記している。
 私たちの仕事は、皇帝の大臣を殺すことではなく、革命によって帝政を覆すことなのだ

【ポグロム発生】
 1903(明治36).4月、ロシア帝国のモルだビアの工業都市キシニョフで、ロシア官憲扇動によるポグロム(ユダヤ人襲撃事件)が発生した。ユダヤ人街が襲撃され、49名のユダヤ人が虐殺され、500名以上が重軽傷を負った。600軒以上のユダヤ人商店と700軒以上の住居が略奪された上で放火された。襲撃には、キリスト教神学校の教師や学生たちが銃や剣や棍棒を持って加わっていた。

 これが日露戦争の伏線となる。

【ロシア社会民主労働党の第2回大会が開かれる】
 1903.7.13日、ロシア社会民主労働党の第2回大会が開かれた。この大会がマルクス主義政党の実質上の創設大会となった。76の社会民主主義組織が代表を送り43名の代議員が参加した(26の組織から51票の投票を有する云々ともある)。当初はベルギーのブリュッセルで次にロンドンに会場を移し8.10日、閉会した。

 この時初めてマルクス主義的な党綱領が採択された。ミンスクの創立大会は、規約のあらましを決めただけですぐ消滅したので綱領を決めていなかった。この時の綱領で、党の当面の任務として、1・民主共和制の樹立(最小限綱領)、2・最終目的として資本主義の打倒、3・プロレタリア―ト独裁の樹立(最大限綱領)が掲げられた。

 この時、党規約を廻って特に第1条の党員に関する規定をめぐって対立を見せている。いわゆる「党員の資格論争」であるが、硬派のレーニン案と軟派のマルトフ案が対立した。レーニン案は、職業的革命家集団からなる中央集権的前衛党を構想した政党をつくろうとし、党員資格を「党の綱領を承認し、物質的手段により、又党の一組織に自ら参加することによって党を支持する者は、全て党員とみなされる」と規定していた。レーニンは、少数の職業的革命家がプロレタリアートに対して上から社会主義思想へと導かなければならない、と考えていた。

 マルトフ案は、「職業的革命家に援助・同調する者も党員として認めよう案」つまりより幅の広い大衆的労働者党を構想し、「規則的に自ら党に協力することで十分」だとしていた。西ヨーロッパ風の大衆政党を構想した政党をつくろうとし、党員資格を「党の綱領を承認し、物質的手段によって党を支持し、党の一組織の指導のもとに、常に党に規則的な個人的協力を行うものは、すべてロシア社会民主労働党の党員とみなされる」との草案を提起していた。

 「大衆の党か、少数精鋭の職業革命家の党か」を廻る組織論論争となった。この問題は、ロシア革命をまだ手の届かぬ先に見て漸進的社会主義路線をとるマルトフら穏健派と、情勢の急激な流動化に即応できるよう党員の質の高みを重視するレーニンらの急進派との革命戦略戦術問題に絡んでいた。

 この時、イスクラ派が33名の多数を占めていたが、「イスクラ」派は、レーニン派とマルトフが対立した。他にユダヤ人ブント達(ユダヤ人労働者の社会民主主義組織、これを「ブント派」と記す)、経済主義派がおり、勢力がきわめて接近していた。議事録には、プレハーノフの「レーニンの話を聞くと、レーニンが正しいように思えるし、マルトフの話を聞くとマルトフが正しいように思われる」と冗談を飛ばしている。この規約第1条を廻って票決され、28対22、棄権1でマルトフ案が採択されている。プレハーノフはレーニン案を支持した。トロツキーはこのとき、マルトフ案を支持してレーニンと対立している。ブント派代議員と二人の経済主義派はマルトフ案を支持した。

 ところが、党組織における民族運動の位置付けを廻っても対立が発生した。ブント派は、党を諸民族の連合組織とすべしと主張し、他方レーニンらは民族主義を排して国際主義的な中央集権的な組織にすべしとしていた。結局、党組織に関する民族主義的要求が拒否されたことにより、ブント派が退場する事態となった。

 更に、討議を通じて、イスクラ派のロシア在外革命的民主主義者同盟が党の唯一の国外代表であることが決定された。これにより経済主義派代議員2名が退席した。

 ブント派と経済主義派が退席したことにより、マルトフ派はレーニン派よりも劣勢に陥ることになった。多数派になったレーニンは、イスクラ編集部をプレハーノフ、レーニン、マルトフの3名に削減することを提案した。これは、マルトフ派のザスーリチ、アクセリロートの降格を意味していた。この案が可決された時、マルトフが辞任した。その他党指導機関の選挙でもレーニン・プレハーノフ派とマルトフ派が対立した。レーニン・プレハーノフ派の24ないし25票、マルトフ派の19ないし20票という構図となった。マルトフ派は選挙を棄権した。


 大会で問題になったのは、レーニンの党組織論であった。レーニンは「何をなすべきか」で党組織の構想を発表し、「イスクラ」を通じて同調者を集めていたが、これに反対する者が少なくなかった。マルクス主義を科学的に正しい思想として受け入れたロシアの革命家は、この当時自らを社会民主主義者と呼んでいたことからもわかるように、ドイツの社会民主党をモデルにしてマルクス主義を考えていた。それゆえ「土地と自由」派を手本にした中央集権組織をつくるというレーニン的組織論ら質問が集まった。

 殉教者的な革命家アキーモフの質問がもっとも鋭かった。彼は、ヨーロッパ諸国の社会民主党の綱領と比較して、レーニンの党綱領が偏向し過ぎているとして次のように批判した。
 「すべての偏向を比べて気づいたことは、偏向はすべて同じ方向に向かい、ただ一つの傾向によって貫かれているということだ。それは社会民主主義の発展に関して、プロレタリアの創造力を否定し、その活動的役割をわい矮小化している」。

 アクセリロートは、歴史的必然によって公然と登場したプロレタリア党が、どうして陰謀的であると必要があるかと聞きただした。マルチーオノフは、党綱領にプロレタリアが搾取者と戦うとしか書いてなく、歴史的必然でそうなるという指摘が抜けていると非難した。

 レーニンは、これらの反対者に反論した。レーニンにしてみると、革命は革命家がつくり出すというトカチェフの思想は動かせなかった。党は、労働者階級の役割を前衛として代行せねばならない。故に、党は百人力千人力のエリート革命家集団で構成されねばならない。「綱領に賛成し、党費を払う者はみな党員と認める」とするマルトフ案は将来却って革命闘争の足枷になる。党と党員は、民主集中制で結合それねばならない云々と述べた。

 レーニンは、自由主義者に対する態度に於いて厳しかった。共同闘争を求めるよりは、労働者の党は独自の道を進む。君らは勝手についてこいとといった調子だった。農民問題については、「農奴解放」のときにとられた「切り取り地」の返還を要求するだけで、地主の土地をすべて取り上げて再分割しようという「黒い再分割」派の方針より後退させていた。
 この時以来双方の対立は不可逆的となり、ロシア社会民主労働党内にはレーニン・プレハーノフ派とマルトフ派の立が生み出され、尾を引いていくことになる。「イスクラ」編集部の構成を決めるときに多数派だったレーニン派は、自らを多数派(ボリシェヴィキ)と云い、少数派だったマルトフ派を少数派(メンシェヴィキ)と名づけた。この呼び名は、その後の両派の争いで常にメンシェヴィキを不利な立場においていくことになる。この時、トロツキーは少数派のメンシェヴィキについた。こうして、党は、レーニンに忠実なメンバーとそれに反対する派とに事実上二分してしまった。

 ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの対立は根源的なものであった。共にマルクス主義を戴きながら革命論も大きく食い違っていた。メンシェヴィキは、「封建制社会→資本主義社会→社会主義社会」というマルクスの歴史発展段階論に忠実に従って、現在のロシアを現状規定し、ロシアは未だ封建制であるから来るべき革命は「ブルジョア革命」でなければならないと定式化していた。まずは、封建制を倒すためにブルジョアと協力してブルジョア革命を行なわねばならない。その後に於いて、ブルジョアを倒すための「プロレタリア革命」に向うべしである、としていた。つまり、ブルジョアとも同盟するブルジョア革命、続いてプロレタリア革命に向うが、その期間には相当の長い一時代を要するとの「非連続的2段階革命論」を主張していた。

 
ボリシェヴィキは、きたるべきロシア革命はプロレタリア革命(社会主義の建設)は当面の課題ではありえず、ブルジョア革命であると定義する点ではメンシェヴィキと同じであった。しかし、ロシアのブルジョアにはブルジョア革命を遂行する意志も能力も無く、帝政と妥協することしか考えていない。それは1905年の第一革命で証明された。そこで、プロレタリアートがブルジョアと同盟することは有り得ず、有り得るとするなら革命的農民との同盟で主体となってブルジョア革命を遂行せねばならない。後進国ロシアに於いてはプロレタリアートは未だ弱体である故に、ロシア国民の大多数をしめる農民の革命的部分との同盟を戦略戦術にせねばならない。農民の求める土地は、帝政においてはその多くが地主貴族の支配下にあり、土地の解放をもたらすブルジョア革命に於いては農民はプロレタリアートの同盟者たりうる。従って、ブルジョア革命遂行に当っても革命政府を樹立するのはプロレタリアートと農民による労農同盟でなければならない。

 その際の革命政府は、反革命勢力の反抗を抑える為、急速度で社会主義に向うために「独裁」でなければならない。「ブルジョア民主主義革命」は、「プロレタリアートと農民による革命的民主主義独裁(労農民主独裁政権)」によって遂行される。必要なことは、労農民主独裁政権によるブルジョア革命の徹底的な完遂である。具体的には、1・帝政の廃止、2・8時間労働、3・農地解放といったところであり、これらの改革(ブルジョア革命)をプロレタリアート(と農民)が主体的に遂行することにより、来るべき社会主義の建設(具体的には生産手段の私有制の廃止)のための地固めとせねばならない、としていた。

 レーニンは、次のように来るべき革命を呼びかけていた。
 「プロレタリアは、実力で専制の抵抗を押しつぶし、ブルジョアの動揺性を麻痺させるために、農民大衆を味方に引きつけて民主主義的変革を最後まで遂行しなければならない。プロレタリアは、実力でブルジョアの抵抗を打破し、農民と小ブルジョアの動揺性を麻痺させるために、半プロレタリア分子の大衆を味方に引きつけて社会主義的変革をやりとげなければならない」。

【ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの不可逆的対立発生】
 レーニンは、中央委員会を「イスクラ」派で占めることには成功したが、そのほかの点では思うようにはならなかった。トロツキーは、「わが闘争」の中で次のように記している。
 「レーニンは、この闘争に於いて最も活動的であったが、分裂を予期していなかったし欲してもいなかった。両派にとって、招来した事態はなはだ苦痛に感じられた。大会の後、レーニンは数週間も神経衰弱に苦しんだのである」。

 1903.8月、トロツキー、「シベリア代議員団の報告」を執筆し、レーニンとプレハーノフを厳しく批判する。しかし、出版直前に、プレハーノフがメンシェヴィキ側についたのを受けて、プレハーノフ批判の部分を削除して出版。

 10月、レーニンは、ロシア在外革命的民主主義者同盟に党大会の報告をしたが、この時マルトフ派が優勢で、レーニンを批判してマルトフ派を支持する決議が採決された。プレハーノフが「白旗を掲げ」、イスクラ編集部をかっての6名体制に復活させる案を提起し、党内和解を図った。「さもなければ辞任する」と脅し、結果的にレーニンが逆に辞任を申し出ることになった。第2回党大会から3ヵ月後の逆転劇となった。メンシェヴィキが党中央委員会の多数を占めることとなった。

 レーニンは、この経緯を「一夜にしてプレハーノフは我々を裏切った」と記している。その後失地挽回に奔走するが、ますます孤立して行った。レーニンは、「イスクラ」編集部からアクセリロートやザスーリチを追い出したものの、結果的に逆に自分から「イスクラ」編集部を辞める羽目になってしまった。「在外社会民主主義連盟」をクーデター式にボリシェヴィキ側につけさせようとした企てに失敗して、レーニンの旗色はいよいよ悪くなった。レーニンはもう一度党大会を開いて挽回しようとしたが。やっとの思いで費用のかかる大会を開いて間もないのに、再び大会を開こうというのは、常識に反するとして中央委員会はそれに賛成しなかった。

 「イスクラ」を手におさめたメンシェヴィキは、レーニンがマルクス主義から外れていると宣伝しはじめた。レーニンはマルクス主義者でなく、急進的なプチブルだというのである。西欧の社会主義者達は、ロシアの革命家が二つに分裂して争っているのをやめさせたかった。ドイツ社会民主党のカウツキーも、ポーランド出身でドイツ社会民主党員のローザ・ルクセンブルクも「イスクラ」に論文を寄せてレーニンを糾弾した。

 この頃、マルトフは、「党内の戒厳状態について」、トロツキーは「戯画的ジャコバン主義」、プレハーノフは「何を為さざるべきか」、「中央集権主義、又の名はボナパルト主義」、「王様になりたい蛙を正気に戻す一つの新しい試み」論文を発表している。ドイツ社会民主党左派のローザ・ルクセムブルクのレーニン主義批判、同指導者カウッキー、ベーベルらのレーニン批判論文がイスクラ紙上に掲載されていった。

 1903年以降、レーニンが党の実質的指導者となった。レーニンの周りには親衛隊が結成され、ユダヤ人がこれを担った。

【日露戦争勃発】
 1904.2月、日露戦争勃発。しばらくは愛国的感情の勃発で革命的運動も鳴りをひそめた。大方の予測に反し、「日露戦争」の戦局はロシアにとって思わしいものではなかった。国内の意志も結束を欠いていた。

 パルヴスが「戦争と革命」と題する連続論文を『イスクラ』に発表し、トロツキーに大きな感銘を与える。

 3月、トロツキーが、論文「われわれの軍事カンパニア」をめぐってプレハーノフと対立し、新イスクラ編集部から排除される。


【エスエル急進派がヴェチェスラフ・プレーヴェ内務相を政治テロで暗殺】
 7.15日、日露開戦の8ヵ月後、エスエルが、ロシアの警察権を掌握し革命運動を抑えていたヴェチェスラフ・プレーヴェ内務相を、ペテルブルグの路上で爆弾を投げ、暗殺する(7.28日、内相ピアチェスラブ・フォン・プレーが殺害される)。エスエル急進派のテロ路線が続いていた。これは「特別組織」の「戦闘団」メンバーのエゴール・サゾーノフが実行したものであった。プレーヴェ内務相は、ツアーリの政治警察『第3課(第3部)』を使って、ロシア全土における解放運動を根こそぎ的に弾圧した中心人物であった。スヴャトポルク公が後継した。

【レーニンが、「一歩前進、二歩後退」を執筆】

 この頃、レーニンは、「一歩前進、二歩後退」という長い論文を執筆した。「一歩前進、二歩後退」は、この間の経緯を総括して次のように記している。

 「日和見主義にもっとも傾いていた我が党の党員達が少数派を構成したのだということは、疑うことのできない、争うことのできない事実である。少数派を構成したのは、理論的にもっとも浮動的で、原則の点でもっとも一貫性に欠けた党内分子であった。少数派は他ならぬ党の右翼から形勢された。多数派と少数派への分離は、社会民主党が革命的民主主義派と日和見主義的社会民主主義派へ、山岳党とジロンド党へ分離したことの直接かつ不可避的な延長である。この分離は昨日はじめてロシアの労働者党の中にだけ現れたものではなく、又確かに明日になれば消え去るものではない」。

【トロツキーが、レーニンとプレハーノフを厳しく批判】

 8月、トロツキーが「シベリア代議員団の報告」を執筆し、レーニンとプレハーノフを厳しく批判。しかし、出版直前に、プレハーノフがメンシェヴィキ側についたのを受けて、プレハーノフ批判の部分を削除して出版。

 8月、トロツキーは「我々の政治的任務(課題)」を発表し、レーニンの「何を為すべきか」、「一歩前進、二歩後退」における党組織論を批判した。彼は、レーニンの組織論を労働者階級を代行する「代行主義」と規定し次のように批判した。

 「こういった方法は、党の組織が党そのものを『代行』し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には『独裁者』が中央委員会を代行するということに帰着する」。

 8.22日、キエフ、ロブノレー、ボルヒニアでユダヤ人暴動勃発。10月頃まで続く。
【ボリシェヴィキ対メンシェヴィキの不可逆的対立発生】

 9月、トロツキーが、自由主義者の評価をめぐり、メンシェヴィキと対立し、メンシェヴィキからの離脱を表明。トロツキーの「わが生涯1」は次のように記している。

 第2回党大会の少数派と私の関係は長くは続かなかった。数ヶ月経つか経たぬかのうちに、二つの路線が、この少数派のうちに明らかとなった。私は一刻も早く多数派と新たなる結合を行うべきだと考えていたが、それは、例え分裂が、確かに重大な出来事であったにせよ、それはできた以上のものではないと考えていたからだ。他の人々にとっては、この分裂は日和見主義という立場への転向の出発点であった。1904年一杯というものは私にとって、メンシェヴィキの指導的グループとの政策問題及び組織問題での闘争に明け暮れた。相違は根本的な二点の周囲にあった。自由主義者たちに対する態度、及びポルシェヴィキに対する態度の二点であった。私の意見としては、自由主義が大衆の支持獲得のために行うあらゆる試みに対して徹底的に反対すべきであると考えた。そして同時に、まさに同じ理由で、我々社会民主党の二分派が合流することをますます強力に主張せざるを得なかった。1904.9月、私は、4月以来、既に事実上離れていた少数派と手を切ることを正式に声明した。

 11月、知識人の職業組合ができた。法律家、教授、ジャーナリスト、ゼムストヴォ(地方自治会)の事務員などが集まってそれぞれの職業組合をつくった。この音頭取りをやったのは、自由主義者の集団で、1903年スイスで第1回会合をやって結集した「解放同盟」だった。自由主義的な地主と、社会主義から転向したインテリとが参加していた。事務局を担当したのは社会主義者だった。「解放同盟」ゼムストヴォにも働きかけて1904年に第1回ゼムストヴォ大会を開かせていた。この「解放同盟」の指導者はモスクワ大学の歴史学教授パーヴェル・ミリューコフ(1869-1943)だった。再び立憲政治を要求し始めた。
 12月、労働者たちはバクーで大規模なストライキを行い、ロシアにおける最初の団体契約の締結に成功した。
 12.19(新暦1905.1.1)日、旅順が陥落した。
 この年、ロシア政府は、労働運動が盛り上がる中で、これに対抗する為にいくつかの御用団体をつくらせた。首都ペテルブルクでは、聖職者ガボンを指導者とするロシア工業労働者同盟という団体が結成された。とはいえ、日露戦争でロシア軍が陸海で敗戦を重ねたことで民衆の不満は高まった。ガボンの組合でも「専制打倒」を叫ぶ者もあらわれるなど反政府の動きが抑えられなくなる。

【レーニン派が、新機関紙「フペリョート」(前進)を創刊】 
 レーニンはひるまなかった。ロシア革命に責任を持っているのは自分だという自信を動かさなかった。スイスで孤立したレーニンは、支持をロシアの内部に求めた。この時ロシアからやってきたのが、アレクサンドル・ボグダーノフ(1873-1928)だった。医者にして23歳で分厚い経済学の本を書いて有名になった風変わりな人物であった。彼はゴーリキーと仲が良く、ゴーリキーに資金を出させるという。レーニンがスイスで新聞を編集し、自分は国内でボリシェヴィキを組織するというボクダーノフの提案に、レーニンは喜んだ。ゴーリキーの出した金で、とにもかくにもボリシェヴィキ派の新聞が出せることになった。

 1905.1.4日、レーニンが「多数派委員会事務局」を結成し、新機関紙「フペリョート」(前進)を創刊し、ジェネヴァから発行した。

 
2.4日、エスエル党員イワン・カリャーエフが、ツアーリ一族のセルゲイ大公を、モスクワで、馬車に爆弾を投げ、暗殺した。セルゲイ大公は、モスクワの小専制主として反動的政策を強行していた。

 1905年、トロツキーが一連の評論「1月9日以前」を出版。自由主義を厳しく批判し、ゼネラル・ストライキ論を展開。


 これより以降は、「「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史2」に記す。





(私論.私見)