「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史2

 (最新見直し2005.10.9日)

 これより以前は「「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史1」に記す。

【第二期】
 この頃より【第二期】に移行する。20世紀初めのロシアにはナロードニキ主義を汲むロシア社会革命党(以下「エスエルSR党」) と、ロシア・マルクス主義を汲むロシア社会民主労働党とが有り、後者は更に、メンシェビキとボリシェビキに分裂していた。これら以外にも、各党派やアナキストがいくつかの「反国家テロ」団体がいた。これらの反政府運動も一つの原因であったが、決定的な原因となったのは日露戦争と第一次世界大戦という外からの影響であった。


「血の日曜日事件」
 日露戦争さなかの1905年早々、旅順要塞が日本軍に落された。日露戦争の戦況が思わしくないことに加えて、国民の生活も困窮しており不満が高まっていった。その2週間の後、首都ペテルブルクのプチロフ工場で4名の労働者が解雇されたのをきっかけに1万3千人規模の大規模ストが勃発した。

 1905.1.9(新暦1.22)日の日曜日、ゲオールギィ・ガポン僧侶を指導者とするペテルブルク相互扶助協会がストライキに入り、皇帝に対する陳情行進を企図した。約20万人の労働者・市民が、ロシア工業労働者同盟」の指導者で僧侶のガボンを先頭に「パンと平和」を求めて、その多くの者が皇帝の肖像や聖者像を掲げ、「神よ、ツァーリを救いたまえ」を歌いつつ、首都ペテルブルク(現サンクトペテルブルク)の冬宮目指して請願行進を始めた。

 皇帝崇拝が根強い民衆は、「父なるツァーリ(皇帝)」を素朴に信じており、様々な悪政は皇帝の周囲の悪い貴族たちによってなされていると考えていた。「陛下、私たちペテルブルグ市の労働者は、正義と保護を求めて陛下のみもとに参りました」と願いを届けようとしていた。「言論・出版の自由、憲法議会の召集、不公平な税制の改革、日露戦争の中止、8時間労働制の労働者保護立法を求める完全に平和的なデモ」であった。

 トロツキーは、「わが生涯1」の中で次のように記している。
 19.9日、それは、いかに、神父の僧衣の影に隠れていようとも、まさしく最初の政治的ストライキである。

 これに対して宮殿警護の軍隊が発砲し、2千〜4千人の死傷者を出すという惨劇となった。「血の日曜日事件」と云われる。

 この事件により、首都労働者の皇帝への信望は失われた。ガポン僧侶は、ツァーリズムの無慈悲さを説き皇帝に対する反抗を呼びかける檄を発した。国内各地に抗議ストが波及した。「血の日曜日」に対する抗議は、まず労働者の中から起こった。ペテルブルクはもちろん、モスクワ、サラトフ、エカテリノスラフ(ドネプロペトロフスクの旧名)、リガ、ワルシャワ、ヴィルナとストの波が広がった。

 1.22日、内相ミルスキーが辞職してブルイギンがこれに代わった。

 1.23日、レーニンは妻クループスカヤと連れだって図書館に行く途中、ボグダーノフの義弟、アナトーリー・ルナチャルスキー(1879-1933)とその細君がが駈けよってきた。細君ががふるえる手で差し出した新聞を見ると、大見出しで「ロシアに革命」と出ていた。
 「裏史実史観」では、ゲオールギィ・ガポン僧侶はロスチャイルド派の聖職者。

その後の動向
 2月、農民の暴動がクルスクに始まり、オリョール、チェルニーゴフに広がった。2.4日、反動家で有名な皇帝の叔父にしてモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺された。2月、皇帝は議会制の調査のため指揮者に諮問するむねの勅令を出した。

 2.17日、ニコライの叔父に当たるモスクワ総督セルゲイが、白昼、革命家テロリストの爆弾で暗殺される。

 2.18日、政府は妥協に転じ、議会制法案審議に参加すべき地方代表者の召集を約した。

 2.25(新暦3.10)日、奉天が陥落し、ロシア陸軍は大敗北を蒙り政府の動揺が続いた。政府は、妥協工作を進める一方で各種政治団体の解散を命じた。

 5月、自由主義者は労働者と共同戦線をつくる姿勢で「組合連合」なるものを発足させた。

この頃の各派の動向
 この頃、専制政府は万人の目の前で解体しはじめた。革命が目前に迫りつつあった。闘争の舞台に上っているのは、自由主義者と社会民主主義者であった。この当時の社会民主主義者といわれる党員の数は、1905年現在、ペテルブルクではほぼ1000人と推定されている。大部分の党員は、亡命地にいる幹部たちの仲間争いにはうんざりしていた。派閥の統一は、末端の党員の願いだった。しかし、地区委員会となると、そうはいかなかった。ウクライナとシベリアの地区委員会はメンシェヴィキ派がすべてだった。ボリシェヴィキ派が優勢だったのは、モスクワとその周辺で、ペテルブルクではかろうじてボリシェヴィキが委員会を押さえていた。中央委員会はメンシェヴィキが占めていたが、党を二つに割りたくない気持ちから、ボリシェヴィキには反対しながらも、強いことは言わなかった。

 自由主義者は、専制を倒した後に西欧式の民主主義社会をつくろうと考えていた。だから革命は専制を倒すのに必要で十分なだけ過激であってくれればよかった。自由主義者にとって、メンシェヴィキの革命理論は都合のいいものだった。メンシェヴィキは革命をブルジョア革命と考えていた。プロレタリア革命をやるためには、ロシアはまだ資本主義的にも熟していない。ブルジョア革命をやって、プロレタリアが成長し、人民の大多数がプロレタリアになったとき、社会主義のためのプロレタリア革命になる。ブルジョアと戦うのは、ブルジョアが政権を取ってからのことだ。専制を倒すための革命ではブルジョアと協力する。途中でブルジョアが革命を裏切らないように左へ左へと押しやる。しかし、ブルジョアとやがて戦う運命にあるのだから、革命臨時政府には参加しない。これがメンシェヴィキの理論であった。革命までは手伝ってくれて、革命政府ができたら、それをすっかり任せてくれるというのだから、自由主義者にとってこんなにありがたい仲間はない。

 自由主義者が嫌がったのは、ボリシェヴィキのレーニンであった。レーニンは革命はすでに武装蜂起の段階に入ったと考えていた。自由主義者は、とにかく専制から権力を奪い取らねばならない。しかし、それは民主主義的にやらねばならないと考えており、レーニン的急進主義に反対していた。

 農民が果たしてプロレタリアの同盟者として社会主義的変革をやれるかどうかについてレーニンの論証は十分でない。レーニンは、この理論を説いた『二つの戦術』を掻いた1905年5,6月の段階では、革命権力である「プロレタリアと農民の革命的民主主義独裁」がどのくらい続くかということについてはっきりした見通しを与えていない。

 9.14日、レーニンは、「わが国の自由主義的ブルジョアは何を望み、何を恐れているか」を著わしている。同書で、革命の推移についてはっきりとした見通しを次のように語っていた。
 「なぜなら、われわれは、民主主義革命から直ちに社会主義革命に移行するからだ。しかもわれわれの力に応じて、自覚し組織されたプロレタリアが後から情勢に応じて我々の側に移行し始めるからだ。われわれは永久革命を支持する。われわれは中途で立ちどまりはしないだろう」。

トロツキーが帰国し、ペテルブルクで活動始める
 ブルジョア革命では、労働者が臨時政府をつくらなければならないという考えに、レーニンよりさきに到達していた二人の人間がいた。一人はパヴルスのペンネームで知られるイスラエル・ヘルファンド(1869ー1924)という白ロシア生まれのユダヤ人で、ドイツ社会民主党の理論家だった。もう一人はトロツキーという名の方が今はよく知られているレフ・ブロンシテインという南ロシア生まれの同じくユダヤ人である。

 トロツキーは高校時代から非合法運動に参加し、シベリア流刑になり、脱走してロンドンのレーニンのもとに至って「イスクラ」編集に参加し、レーニンの信頼にかかわらず第二回党大会以後はメンシェヴィキだった。彼がメンシェヴィキとも別れてフリーランサーになった途端、ロシアの革命をスイスで聞き一刻も早くロシアに帰るべく道を急ぐ途中、ミュンヘンでパルヴスと会った。二人は忽ち意気投合し、次のように見解を一致させた。
 ロシアのブルジョアはきっと途中で裏切るから共同闘争はできない。農民は政治的能力がない。従って労働者が革命をやるしかない。ロシア単独社会主義を実現することはできないから、ロシアの革命によって、ヨーロッパの労働者に革命を起こさせねばならない。

 トロツキーは、「1月9日以前」の序文をパルヴスに書いてもらう。その序文の中で、パルヴスはこのロシア革命で労働者政府が生まれることを予見している。

 1905.2月、トロツキーは、革命が開始されるや逸早くフィンランドからキエフを経てロシアに帰国し、ペテルブルクに於いて変名で地下活動を開始した。潜入したトロツキーは、ボリシェヴィキに近いクラシンと連絡がつき活動を始めた。トロツキーはどちらの派にも属していなかったのでメンシェヴィキの組織にも支持者をもった。ボリシェヴィキは武装蜂起だけを考えていて、大衆の自然発生的な運動に巻きこまれまいとしていた。メンシェヴィキは自然発生的な運動に参加したが、労働者が権力を取ることには気乗りうすだった。トロツキーは大衆のエネルギーを権力掌握の道に流しこんだ。彼の大衆をとらえる武器はペンと弁舌である。「イスクラ」に載せはじめた彼の論文は、その明快さによってたちまち争って読まれることになった。

【ボリシェヴィキ派、メンシェヴィキ派双方の独立独歩活動】
 1905.4月、ロンドンで、ボリシェヴィキ派がロシア社会民主労働党の第3回党大会を開催。ボリシェヴィキ派は、専制打倒と臨時革命政府樹立を決議し、武装蜂起の組織に最大の重点を置いた戦術をつくりあげた。帰国した党員は積極的活動を始めた。しかし、この時の革命工作は失敗に終わることになる。ボリシェヴィキ派の党勢は衰え、レーニンは再びスイスに逃亡し、長い亡命生活を送ることになる。

 メンシェヴィキ派は別個にジュネーブで党活動家協議会を開いている。この頃、メンシェヴィキ派の指導者・アクセリーロートは、勅令による国会開設に合わせていずれの党にも従属しないで全労働者階級の利害を代弁する大衆的組織の形成を精力的に主張した。選挙による人民議会、更に憲法制定議会を視野に入れていた。

【初のソヴィエトが結成される】
 5.15日、ロシア第1の繊維工業都市であるイヴァノヴォ・ヴォズネセンスク市にて最初の「ソヴィエト(評議会)」が結成された。ストライキを指導するために労働者の代表機関が設置され、50日ほど存続した。これが後のソヴィエトのはじまりとなる。

 労働者はソビエト(工場を基礎として一定の割合で選挙された全市の労働者代表の会議(500人の労働者につき1人の代表を選出)でストライキ委員会兼代表会議会、即席地方自治機関)をつくり始め、貧しい農民も立ちあがった。労働者や農民だけでなく、ブルジョアや地主、貴族といった富裕な階級の中の進歩的な人々までが革命に味方した。彼等は帝政の君主独裁政治に対抗しうる、憲法や議会の制定をこの機に実現しようとしていた。

【その後の動向】
 5月、解散させられた自由主義者の諸団体もモスクワで「団体連合会」をつくり憲法制定議会の召集を要求した。
 5.14(新暦5.27)日、日本海海戦でバルチック艦隊が全滅し、大きなショックを与えた。政府は戦争終結を決意した。反政府運動はさらにエスカレートした。
 6.6日、左右対立を克服してゼムストヴォ大会が開かれ、これには市会代表も参加した。組合連合は即時停戦をアピールした。指導者のミリュコーフは逮捕された。
 6月、ポーランドのロッズで、ロシア最初の武装蜂起が起こった。
 6.14日、軍隊も動揺した。黒海艦隊の基地オデッサで、戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱し、1週間の「解放」ののち、ルーマニアの港に入って武装解除された。軍隊による初の反乱は政府に衝撃を与えた。この事件は、エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキンの反乱」で有名である。この反乱の直接の原因は水兵の食事があまりにも粗末であったことに起因するが、他の艦でも「ポチョムキン」の反乱に同調する空気が強く、燃料の尽きた「ポチョムキン」がルーマニアの港で投降するまで、帝政の側は何の手出しも出来なかった。(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソヴィエト映画「戦艦ポチョムキン」は1925年に第一革命20周年を記念して公開された。監督はこの時27歳、モスクワ参謀本部アカデミー東洋部で日本の言語・文化を学んだこともある)
 7月、農民組合がナロードニキによって結成された。
 7.6日、モスクワでゼムストヴォと市会代表の合同大会が開かれた。官憲は禁止したのだが、それを押し切って大会が開かれ、「解放同盟」が起草した憲法草案を可決した。
 夏、トロツキーが一時的にフィンランドに逃れ、その地で永続革命論を仕上げる。
 8.6日、皇帝は、2月に約束した国会の選挙法に関する勅令を内相ブルイギンに発表させた。それは自由主義者たちが要求していた普通直接選挙でなく、貴族、市民、農民の三つに分け、貴族と市民は2段階選挙、農民は3段階選挙で代議員を選ぶことになっていた。都市では財産の制限があって、インテリと労働者の多くは選挙権をもっていなかった。しかも国会は議決権を持たない諮問機関だった。

 自由主義者は満足しなかった。学生も承知しなかった。学生たちは紛争を重ねて、ついに大学の自治を勝ち取り、学内に警官の立ち入りをさせないことになった。このことが大きな政治的結果をもつことになった。8月には農民の暴動が全国的にまた激しくなった。満州から引き揚げてくる軍隊の中にも小規模の反乱がみられた。8月のポーツマス条約調印によって政府は軍隊の余裕ができ、首都の治安に軍紀の保たれた軍隊を投入できるようになった。

【ポーツマス講和会議】
 8.9日、ポーツマス講和会議が開かれ、小村寿太郎とウィッテの間で、公式会談だけで12回と云うロングラン交渉の末、8.23(新暦9.5)日、ポーツマス条約が結ばれ日露戦争は終わった。

 9月、ゼムストヴォおよび都市代表者大会が開かれ、「ブルイギン議会」反対が表明された。
【ペテルブルクに初のソビエト誕生する】
 10.6日、モスクワ鉄道にストライキが起こり、労働者のエネルギーがゼネストとして爆発した。それは史上最大規模のゼネストであり、しかも自然発生的に起こった。100万の労働者がストに入るという空前の騒擾のとなり、ロシア全土にゼネストが勃発する。首都ペテルブルクの印刷工の間に始まったストは、パン焼き工、鉄道工場員と広がり、さらに拡大してロシアの中部南部、ポーランド、カフカースの鉄道は運行を中止した。

 1
0日から13日にかけてモスクワ、ハリコフ、スモレンスク、エカテリノスラフ、サマラ、ミンスク、ペテルブルクと広がった。労働者だけでなく、医者、弁護士、薬剤師、銀行員、郵便局員、公務員がストに入った。夜は電灯がつかず、水道は時間給水になり、3日間は新聞が出なかった。ストをする労働者に賃金が支払われたのが今までと違っていた。


 10.13日、ペテルブルクの労働者ソビエトが生まれた。ソビエトは自然発生の産物であるが、初めにきっかけをつくったのはメンシェヴィキである。6月頃からメンシェヴィキの機関誌イスクラは、国会の選挙を扇動した。また場合によっては「蜂起の序曲」となりうる「革命的自治」の組織をつくるようアピールしている。10.10日からメンシェヴィキんの党員は「革命的自治」の組織をつくるつもりで、工場に呼びかけて500人に1人の割で代表を選挙して、さしあたりゼネストのための労働者の委員会をつくり始めた。500人に1人というのは、2月に労資協調の機関としてシドロフスキー委員会というのを、代表だけ決めてお流れになってしまったことがあったからだった。

 メンシェヴィキの肝いりでつくられた工場労働者の委員会がソビエトであり、その第1回の大会が10.13日にもたれた。最初のソビエト議長はクラスクローフと云う若い弁護士であったがその逮捕により、フィンランドに潜伏していたトロツキーが帰還して議長に選出された。トロツキーは勇躍してソビエトに飛びこんだ。そこにトロツキーが姿を現して、盛んな扇動を始めた。労働者は彼の炎のようなアジ演説に完全に魅了された。ゼネストの指令本部であるソビエトは、にわかに力を持ち出した。印刷工組合が、検閲印のある原稿は印刷しないと決議した日から、検閲制度はなくなった。

 10.17日、レーニンが、「社会主義政党と無党派的革命運動」を執筆し、「無党派的民主主義派、無党派的ストライキ運動、無党派的革命運動」を批判し、「無党派主義はブルジョワ思想である。党派性は社会主義思想である」等々と述べている。生まれつつあるソビエトにどう関わるかが問われており、この時点に於いてレーニンは党派的活動優先で、無党派的ソビエト運動を軽視していた事が判明する。


【ウィッテの登用】

 ロシア政府は、戦争と革命という難局に対し、かつて大蔵大臣として辣腕を振るったウィッテを登用した。9月、ウィッテは、日露戦争の講和会議に全権代表として臨み、大国の威信をかろうじて保つ形で戦争を終わらせた。帝政は日本との講和交渉をまとめて帰ってきたウィッテ伯を中心として、ようやく事態の収拾に乗り出した。


【勅令で「十月宣言」が発布される】
 10.17(新暦10.30)日、皇帝は国民に譲歩し、政府は弾圧政策を断念した。勅令で「十月宣言」が発布された。それは、「市民の自由権の牢固たる諸原則即ち人格の真の不可侵及び信仰・言論・集会・結社の自由」を認め、すべての階級が選挙に参加し得る立法権をもつ国会(ドゥーマ)の召集を約していた。政治犯の一部は特赦され、政党の活動も許された。

  反政府側への大きな譲歩であったが、これは同時に革命勢力の分断策でもあった。進歩的なブルジョア、自由主義者、貴族は「十月宣言」で充分満足し、革命の隊列から離れてしまった。労働運動も一般に下降線をたどった。

 年末の労働者の蜂起を鎮圧すると改革は後退することになり、逆に反動政治が強化され、社会の不安は増大することとなった。ポルシェヴィキもメンシェヴィキも当初は選挙ボイコットを指針させたが、その後メンシェヴィキは、選挙参加戦術に転換していくことになる。


 「十月宣言」とウィッテの改革案が公布されると同時に、ウィッテは首相に就任し、初めてロシアに内閣制が確立した。ウィッテは政治危機の収拾に乗り出した。

【立憲民主党(カデット)を結成される】
 十月宣言が政党活動を認めたことにより、これを受けて、自由主義者、ブルジョワ、地主等の自由主義的なグループは国会開設に備えて組織作りを開始した。彼らは解放同盟を中心に立憲民主党(カデット)を結成、立憲君主制のもとでの国民の自由・権利の拡大をめざした。政府寄りの十月党も設立された。

【「第一革命」の敗北】

 社会民主労働党、社会革命党などの社会主義政党も地表に出た。10.24日にはフィンランドに自治が与えられた。


 10.26〜27日、クロンシュタット軍港で水兵の反乱がおこった。11.11〜16日にはセヴァストーポリでさらに大規模な軍隊の反乱が勃発した。

 10月末、パルヴスがペテルブルクに着いたのは、10月の末だった。この日から彼とトロツキーとのデュエットが始まる。革命舞台の2人の名優は、その才能にふさわしい役割を分担した。トロツキーが集会から集会に駆け回って、革命の催眠術をかければ、パルヴスは発行部数3万のリベラリスト紙「ルスカヤ・ガゼータ」を、たちまち発行部数10万の革命紙に変えてしまうのだった。

 そのころロシアはその歴史で最も自由な時代だった。10月末には不成功に終わったが、クロンシタットとウラジオストックで軍隊の反乱があった。反動派も黙っていなかった。黒百人組という暴力団を組織してしばしばユダヤ人狩りをやった。10月30日の大赦令で、マルトフやレーニンやザスーリチが11月に帰国したとき、革命の奔馬にまたがっていたのは26歳の青年トロツキーだった。

 メンシェヴィキのマルトフらは、ソビエトの自然発生的な力を信じていたから、「イスクラ」の続きとして出す「ナチャーロ」にトロツキーとパルヴスの執筆を依頼した。党から掣肘を受けない条件だったから、2人メンシェヴィキをも自分の側に獲得した。

 問題はレーニンだった。ソビエトについてはっきりした態度を示さなかった彼は、11月初めフィンランドで革命の実情を聞いた。ソビエトを臨時革命政府の芽と考え、ソビエトに革命政府であることの宣言を薦めた。それも束の間でペテルブルクに入ると、レーニンは党の強化に集中し、非党組織であるソビエトに敵対感を持った。

 パルヴスは計画をさらに一歩進めた。ロシアで労働者デモクラシーを実現するには力が足りない。ヨーロッパに革命を飛び火させなければならない。そのためには、ドイツ社会民主とが10年前からスローガンに掲げてなお勝ち取れない8時間労働制をロシアで実現させればよい。ヨーロッパは労働者の革命の威力を知って同じように立ち上がるだろう。この計画は11月8日に実行に移された。

 ペテルブルクの各地区で8時間労働制の要求が出され、ある工場では労働者が一方的に実行に移した。メンシェヴィキは力関係を顧慮して反対した。ここで人民戦線は終わった。今までのゼネストには賃金を払った工場主は、労働者の中に自分の敵を見た。ブルジョアはより無害な敵、専制と妥協した。11.20日は10万人の労働者に対するロックアウトをもって応じた。


 11月、トロツキーがパルヴスとともに「ナチャーロ」を創刊し、永続革命論を展開。


 11月、トロツキーの指導の下で、ペテルブルクの労働者が8時間労働制を要求してゼネラル・ストライキに突入する。


 11月中旬、レーニンが、「我々の任務と労働者代表ソビエト」を執筆し、「ソビエトか党か」と問う二者択一的態度を正しくないとして「無条件にソビエトも党も」という指針を打ち出す。


 フランスからの借款を得て、体制の建て直しに自信を持った首相のウィッテは攻勢に転じた。12.5日、ソビエトの議長フルスタリョフ=ノサーリが逮捕された。トロツキーが代わって議長に選ばれた。再びゼネストをもって応じるには労働者は疲れすぎていた。このとき農民同盟から、政府の金庫をからにするため、税金の不払いと貯金の引き出しの運動を提案してきた。ソビエトはそれに応じて、12.14日の新聞にこの呼びかけを掲載させた。アピールを平明な言葉で書いたのはパルヴスだった。翌日アピールの載った新聞は没収された。

 ソビエトの幹部は一斉検挙された。トロツキーは捕らえられたが、パルヴスはうまく逃れて再建ソビエトの議長となった。ソビエトは地下に追いこまれた。

 12.20日、全国のゼネストが指令された。32の都市にストが始まった。モスクワでは、ロストフ連隊の反乱に端を発し、モスクワ労働者代表ソヴィエトが指導したゼネストが武装蜂起となった。トゥヴェルスカヤ通りにバリケードが築かれた。ボルシェヴィキも行動を開始し激しい市街戦の後鎮圧された。

 モスクワの守備隊に多少の動揺が見えたので、勅令によりペテルブルクから支援に来たセミョーノフスキー守備隊が武装蜂起を鎮圧した。トロツキーが、ソヴィエトの他の指導メンバーとともに逮捕された。モスクワではボリシェヴィキが激しい市街戦を展開したが、鎮圧された。モスクワの武装蜂起は敗北し、ソビエトは潰滅した。12月蜂起の敗北により革命は退潮期に入った。しかし農民運動はその後も衰えを示さず,サラトフ、シンビルスク、クルスク、チェルニゴフなどの諸県を中心に激しさを加え、1906年の秋以降になってようやく下火になる。 この経過を「第一次革命」と云う。

 トロツキーの「わが生涯1」は次のように記している。
 「1905年の革命は、ロシアにとって1917年の総稽古であった」。

【「第一革命流産」後の反動】

 「第一革命」は敗北した。海軍はかなりの程度革命側に与したが、陸軍部隊の大半は革命を鎮圧する側にまわっていた。曰く、農民は本質的に保守的・反動的で革命の主体にはなりえない、曰く、「血の日曜日事件」で眼の醒めた労働者と違って、無知な農民は皇帝への信望を捨てきれなかったのだと評されるようになった。後におこる「二月革命」、「十月革命」では、この農民と、「制服を着た農民」である陸軍兵士の革命的役割をどう考えるかが大きな問題となってくる。19世紀後半以降の革命においては、軍隊の動向は決定的に重要なものである。強力な火砲を持つ1個師団の正規軍は、貧弱な武器しか用意しえない労働者の革命軍100万人を圧倒しうるからして、軍を如何に引き付けるかが課題となった。

 すぐに反動が始まった。革命の鎮圧によって自信をつけた帝政は、「十月宣言」すらも必要以上の譲歩であったと考え出し、1906.2.20日に公布された選挙法は選挙民を地主・市民・農民・労働者に分け、間接選挙で議員を選ぶ不平等な仕組みの極端な制限選挙になってしまった。女性・軍人・小企業の労働者・一部の少数民族は選挙権を持たず、地主の1票はブルジョアジー3票、農民15票、労働者45票に相当するという代物であった。

 4.14日、「宣言」の発布に努力したウィッテ伯は罷免され保守的なゴレムイキンが大臣会議議長(首相)となった。

 4.23日、「国家根本法」が発布され、皇帝の至上権を再確認し、国会閉会中の立法権を皇帝にあると規定した。

 とはいえ、第一革命後のロシアでは、1890年代に引き続き工業の発展が見られ、1912年頃には、それによってさらに増加した工場労働者が再び待遇改善等を求める大規模な闘争を開始するに至っていた。


ポルシェヴィキ協議会が開かれ、国会ボイコット戦術を採択する
 12月、ポルシェヴィキ協議会がフィンランドのタムメルフォルスで開かれ(タムメルフォルス協議会)、両派の統一を実現する為の党大会を開くことを申し合わせする。この時、レーニンは、国会ボイコット戦術を指針させ、採択される。「国会参加」か蜂起戦術かを廻って激論され、レーニンは当初「国会参加」に賛同し、その後国会ボイコット戦術に移行した。

当時のレーニンとトロツキー
 この当時、メンシェヴィキは、ロシアの当面する革命をブルジョア革命としていた。革命によって権力はブルジョアジーに掌握されるべきであり、プロレタリアートの党である社会民主党は権力の奪取に向かうべきでなく、プロレタリアートの革命的自治機関を組織し、政府に対する急進的反対派にとどまるべきであるとしていた。その理論的代表者プレハーノフは、ブルジョア革命とプロレタリア革命の間には長期のブルジョア的発展の期間が必要であるという「非連続的二段階革命論」を主張していた。

 レーニンは、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」なるスローガンを掲げ、この両者による臨時革命政府の樹立を主張した。彼はこれを革命のブルジョア民主主義的段階とみとおり、次の第二段階としてプロレタリアートと貧農の同盟によるプロレタリア独裁が構想されていた。レーニンは、この両者の間に長い時間は無く、臨時革命政府は直ちにブルジョア民主主義革命を社会主義革命に転化しなければならないと説いていた。これを「連続的二段階革命論」と云う。

 トロツキーは、「農民に依拠したプロレタリアートの独裁」を主張し、プレハーノフ理論とレーニン理論の中間的な位置に立っており、ロシア革命はブルジョア的目標に直面しているが、それにとどまることはできない。このブルジョア的課題を解決するためには、プロレタリアートが権力を得ることによってであり、権力についたプロレタリアートは、封建的な所有だけでなく、ブルジョア的な所有にも徹底的に介入するようになる。やがて、プロレタリアートとブルジョア集団、農民との対立が必至となるが、このような矛盾の解決は国際的な規模での革命以外には無い。ロシアでこのようなブルジョア革命を最後まで徹底的に遂行できるのは、プロレタリアート以外には無いという点をも強調した。

 12.22日−1906.1.1日、モスクワで労働者の暴動。


「引き続くエスエルのテロ路線」
 1906.1.16日、エスエル党員マリア・スピリドーノワが、タンボフ県での農民運動を弾圧していたルジェノフスキー将軍を、ボリソグレーブスク駅で拳銃で暗殺した。彼女は、その時21歳であった。彼女は、「二月革命」で解放され、「十月革命」では、エスエル、左派エスエル指導者としてボリシェヴィキと共闘する。ブレスト講和条約に反対して、連立政権離脱後、「反革命」として、スタインベルグらと同じく、ボリシェヴィキに逮捕・投獄されることになる。

「初の選挙と議会開設」
 4月、第1回選挙が行われ、ミリュコーフ教授の立憲民主党(カデット)が190議席を有する第一党、ケレンスキー指導下のトゥルドヴィキが94議席。社会民主党メンシェヴィキ議員団も。しかし、4.27日、第1国会が開かれたが、政府が禁じていた土地改革を議論し過ぎたため、わずか73日で解散させられた。

 国会解散と同時にゴレムイキンに代わって首相となったのが、ストルイピンである。彼は、8.14日発布の例外法(非常の場合国務大臣は適宜法令を出し得ることを規定)や、8.19日発布の戦時軍法会議法(秘密裁判と2日以内の判決、24時間以内の刑の執行を規定)によって反政府運動に対する取り締まりを強化し革命運動の弾圧を行った。


ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ合同大会
 1906.4.10日よりストックホルムで、ロシア社会民主労働党の第4回党大会開催(ストックホルム大会)。10万以上の党員を代表する150名の代議員が参加し、新たにユダヤ人ブント、ポーランド、リトアニア、ウクライナなど国外組織の代議員も列席していた。グルジア代議員の中にはスターリンがいた。大会は。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ合同の統一大会となり、メンシェヴィキが多数派で、党の農業綱領が論議された。

 ポルシェヴィキ派の最左派は武装蜂起戦術を説いて回った。但し、メンシェヴィキはポルシェヴィキの多数の支持を得て、レーニン傘下の武装団体の「パルチザン式収奪行動」を批判し、収奪の禁止、実行団体の解散、関係者の除名を決議している。この禁止決議は、64票対2票、棄権20票で可決された。棄権したのはポルシェヴィキ内最左派であった。レーニンは票決の行われた会議に欠席して態度表明を避けつつ、「黒百人組と政府の白色テロに対する防衛行動は承認する」という修正案を提出し、可決させ、党の極秘機密事項を扱う「軍事−技術部」を設置させるやこれをレーニンが担当することにした。

 5.2日、ウィッテ伯爵首相が辞任する。内政上の問題で、内務大臣ドゥルノヴォと意見が合わず、辞表提出に至った。


 5.10日、ロシア史上初めての国会が召集された。1905.12月に公布された選挙法に基いて、1906年初めから4月に掛けて国会選挙が行われた。


小康状態
 1906年、この年、トロツキーが『政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏』、『革命とその力』、『われわれの革命』を出版。『われわれの革命』最終章に「総括と展望」を所収。永続革命論を完成させる。

 7月、ストルイピンの農業法発布。政府の土地問題対策が紛糾し、遂に国会を解散させる。各地で一揆と暴動が起こり、議員もその多くがフィンランドのヴィボルクに逃れ、「皇帝が国会の再開を約束するまで納税あるいは徴兵拒否」を呼びかけた。社会民主党メンシェヴィキ議員団は、国会防衛の為のゼネラル・ストライキを呼びかけた。

 この情況に際して、レーニンは、次のように述べている。「現実に対して目を閉ざすのは笑うべきことであろう。革命的民主主義者がボイコット論者であることをやめるべき時が、今丁度やってきた。第二国会が召集される時には(あるいは召集される『ならば』)、我々は、それに入ることは拒否しないであろう」。

 9月、ソヴィエトの公判開かれる。11月、トロツキーにシベリアへの終身流刑と市民権の剥奪の判決が下される。


 1907年、この年、トロツキーが、『党の防衛』、『往復』を出版。

 1月、トロツキーが、流刑地に行く途中から脱走。ウィーンへ。


第2国会開催されるも紛糾し解散させられる】

 1907.2.10日、第2国会が開会されたが、社会主義者が4割を占め第1国会より急進的であった為6.3日、第2国会を解散し、労働者・農民の選挙権を縮小した新選挙法を公布した。ロシア第1次革命はここに終わりを告げたとする見方もある。


 6.3日、ストルイピン首相が、先のロンドンでのロシア社会民主労働党の第4回党大会での武装蜂起演説を問題にして、「このような破壊的な謀議に参加した国会議員を国会から除名するよう」要求した。しかし、ロシア社会民主労働党国会議員団はメンシェヴィキ派であり、武装蜂起戦術を呼号するポルシェヴィキ派とは対立していた。そういう事情もあって国会はストルイピン首相の要請を躊躇した。それを見るや、ストルイピン首相は、国会は急進的過ぎるとして解散し、その上で勅令により選挙法を改悪した(「ストルイピンの勅令クーデター」)。その後にできた反動的地主とブルジョアジーの支配ブロックをトロツキーは「6.3日体制」と呼ぶようになる。


ストルイピン改革
 ストルイピンは、この間農業改革を行い、ミールの共同体的土地所有を廃し、農村共同体を解体して農民の自由な土地所有を認めた。豊かな農民層を生みだして政府の協力勢力にしようとするねらいであった。一方では土地を失い、工業労働者や農業労働者になる農民も続出した。

 ストルイピン首相の農地改革「土地改革法」は、1861年の農奴解放がミール共同体を温存していたのに対し、この村落自治を解体させ、小土地所有農民としての自作農を創出しようとしていた。レーニンは、この改革を「健全なる反動政治」と評した。

 1907年から14年の間に、200万家族がミールを離脱して自作農になった。この動きは第一次世界大戦中にも継続して、1916年までに約1600万家族のうち620万家族がミール離脱の申請を行っていた。1917年の10月革命時点では既に農地の4分の3以上が自作農の手になっていた。

 ストルイピンの農業改革は多くの自作農を創設したが反面農村の階級分化を促進させ、その60%は農業の資本主義的経営に敗れ、土地を売り工業労働者や農業労働者となった。また、ミールの廃止により都市労働者は村落農民から切り離された。

 「レーニンは農民は全体として保守的で所有欲の強い小ブルジョアジーであると考えていた。そのレーニンが今や考えを改め、農民の民主主義革命運動の深さと広がりを再評価しつつある時、ストルイピンは逆に、保守的な農民層を上から創出することによって革命の背骨を折ろうとしたのである」(河合秀和「レーニン」)。

【その後のロシア社会民主労働党の動き】

 7月、ロシア社会民主労働党中央委員会が、「ストルイピンの勅令クーデター」後の対応を審議するため全ロシア協議会を招集。この時、レーニンは、中央委員会の指導者の立場を得ていたが、第三国会選挙参加を廻り、ポルシェヴィキ派代議員のうち14名が引き続きボイコット戦術を主張し、レーニンただ一人がこれに反対するという状態であった。

 夏、トロツキーが、カウツキー、ヒルファディング、カール・レンナーらと知り合う。

 11月、第3国会が開会した。第3国会は政府の与党勢力が多数を占め、御用国会となった。革命運動は冬の時代を迎えた。

 党大会が、ロンドンの社会主義者教会で開催された。トロツキーが綱領演説を行い、レーニンが次のように賛辞している。

 概要「トロツキーは、今日の革命に於ける農民階級とプロレタリアートの共通の利害という視点に立っている。又、ブルジョワ政党に関して、我々の執るべき態度という問題の根本的要点に於いては、我々は、このように共通しているのである」。

 この時、党資金の欠乏に悩まされ、イギリスの自由主義者から3000ポンド借用した。10月革命後、支払われた。トロツキーの「わが生涯1」は次のように記している。

 「例え遅延することはあっても、革命は約束には名誉を重んじるのである」。
 
 この頃、トロツキーは、ローザ・ルクセンブルクと親交している。

 1908年、この年、トロツキーが『ドイツ社会民主党論』を出版。

 6月、トロツキーがキエフの急進的民主主義派の新聞『キエフスカヤ・ムイスリ(キエフ思想)』に評論を執筆しはじめる。

 10月、トロツキーがアドルフ・ヨッフェらとともにウィーンでロシア語新聞「プラウダ」を発行し、党統一派の結集軸となる。シュヴェルチコフは次のように評している。

 「この新聞に於いて、彼は、ロシア『永久』革命の思想を、執念深く頑強に主張し続けていた。即ち、ひとたび革命が始まったら、それは資本主義を覆滅し、全世界に社会主義体制が確立されるまでは、終りを告げることは有り得ないと彼は論じていた。人々は彼を嘲笑し、単なるロマンチストであると非難し、ポルシェヴィキの側からもメンシェヴィキの側からも、その他の多くの罪状につき弾劾されたが、それでも彼は攻撃にひるむことなく、己の立脚点に固執し、主張し続けていた」。

 1909年、この年、トロツキーが『革命のロシア』(革命後に『1905年』という題名で再刊)をドイツ語で出版。また、アゼーフ事件をめぐって、テロリズム戦術を批判した論文を多数執筆。

 12月、トロツキー、『プラウダ』紙上でロシアでの好況の可能性を論じ、景気循環と政治との弁証法的関係を考察。


 1910.1月よりパリで党中央委員会統一総会開催。党の統一に向けた多くの措置が決定される。トロツキーは、この時期、党の統一を求める論文を『プラウダ』などに多数執筆。

 8月、コペンハーゲンで第2インターナショナルの国際大会開催。トロツキーは『プラウダ』の代表として参加。


 1911年.3月、キエフでベイリス事件が発生し、反ユダヤ主義のキャンペーンが展開される。


 8月、ローザ・ルクセンブルクは、次のように述べている。
 「統一を救う唯一の方法は、ロシアから送られた人々全体の合同会議を実現することです。なぜなら、ロシアで暮らしている人々は、彼らの間の平和と統一を欲し、彼らこそ我々の国外の闘鶏どもを正気に戻すことのできる唯一の力だからです」。

 9月、ストルイピンが政治警察の暗黙の了承の下にキエフで暗殺される。

 キエフ暗殺後、労働運動はふたたび激しさを増した。農村では、ストルイピンの改革で土地をえた富農と、それ以外の大多数を占める貧農間の対立が生じていた。


 11月、トロツキーが『カンプ』に「テロリズム」を執筆し、テロリズムを批判。 


ボリシェヴィキ派が単独党を結成
 1912年.1月、プラハでボリシェヴィキ主導の第6回全党協議会(プラハ協議会)が開催され、ボリシェヴィキ党が結成される。レーニン率いるボリシェヴィキ派が、プレハーノフ派以外のメンシェヴィキを党から除名して、事実上、ボリシェヴィキだけの党をつくる路線をとった。こうしてロシア社会民主労働党内は、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに正式に分裂した。

 この政治的意味は、レーニンが、トロツキーの「党内のすべての潮流による党統一」指針に対する明解な拒否を下したことにある。トロツキーは1910年以来一貫して、党内のすべての潮流を結集した全党協議会を、そうした党統合のてこにしようと、ウィーン『プラウダ』でキャンペーンを続けた。その努力がしだいに実り始めたときに、レーニンは、こうしたトロツキーの動きが牽制するかのように事実上ボリシェヴィキ派のみの協議会をクーデター的に召集し、ボリシェヴィキだけの党を立ち上げたことになる。

 トロツキーは、党統一の事業を挫折させようとするこのレーニンの協議会召集を「党に対する強襲」として激烈に批判した。しかし当時、ボリシェヴィキは形式的に党内多数派であり、メンシェヴィキのボイコットもあって、中央委員会と中央機関紙(『ソツィアール・デモクラート』)を一元的に支配していた。それゆえ、この中央委員会が招集する協議会が、形式的には正当なものであるのは、レーニン自身がたびたび強調するとおりであった。以降、暫くの間、レーニンとトロツキーとの対立が決定的となる。


 4月、ボリシェヴィキが『プラウダ』という名称を自分の機関誌名にして、ペテルブルクで発行を開始。トロツキーはウィーン『プラウダ』紙上で厳しく抗議するが、なしのつぶてに終わり、ウィーン『プラウダ』は5月に出された25号をもって終刊。

 4.4日、シベリアのレナ鉱山で起こったストライキの労働者射殺事件に端を発し、労働運動は“沈黙の氷を破り”暴風となって荒れ始めた。

 スト参加者は1911年の10万人が、1912年72万人、1913年86万人、1914年前半だけで150万人へと増大した。農村では富農対貧農の対立が表面化しつつあった。他方、資本主義産業の発達は産業ブルジョワジーの台頭を促しその政治勢力を増大させた。


レーニンとトロツキーの対立

 8月 トロツキー、ウィーンで開かれた全党協議会に出席(8月ブロック)。トロツキーは、レーニン派を除いての党内潮流の結集という路線を採り、「8月ブロック」を形成する。このブロックには、解党派メンシェヴィキ、ゴーロス派(マルトフ派)、党維持派メンシェヴィキの一部、調停派ボリシェヴィキ、極左派ボリシェヴィキ(フペリョート派)、党統一派(トロツキー派)、ブントなどが参加したが、レーニン派は参加しなかった。

 レーニンは、「ウィーン協議会=8月ブロック」に結集した諸潮流を反党的と罵り、とりわけその中心人物であったトロツキーを徹底的に批判した。数の上では、レーニン派の協議会は党内の一部しか結集しておらず、ウィーン協議会の方がより広範な潮流を代表し、実質的にはウィーン協議会の方が党内の相対多数を代表していたが、所詮寄せ集めであり、トロツキーが期待したような「党統合の最大のテコ」としては機能しなかった。レーニン派の強みはそのイデオロギー的等質性で結束した党派性と、ロシア国内で活動する地下活動家の堅固な組織にあった。とくに革命の都ペテルブルクでは、レーニン派が社会民主主義労働者の中で多数派であった。結局、このレーニン派が革命情勢を切り開いていくことになる。

 注目すべきは、レーニン派、トロツキー派双方が引き続き党の統一を求めており、1914年にはかなり広範にそういう動きが生まれてきたことである。最終的に、第1次世界大戦の勃発によってレーニン派の急進主義が時代適応性を持つことになり、1917年の2月革命によってボリシェヴィキを中心に革命的潮流の結集と統合という道へ「再措定」されていくことになる。

 トロツキーは、「わが生涯1」の中で次のように記している。

 「ポルシェヴィキ自身の間に於いても、当時和解への傾向が非常に強く、従ってレーニンもまた統一会議へ参加するのではないかという希望を私は捨てていなかった。しかしながら、彼は全力を振って、合同に対して反対した。その後起こった全ての事件は、レーニンが正しかったことを証明したのであった。

 会議はボルシェヴィキの参加無しに、1912年ウイーンで開催された。私は、形式的には、メンシェヴィキと、いくつかのポルシェヴィキの不平グループの『ブロック』の中に居る自分を見出した。このブロックは何ら政治的基盤を持っていなかった。あらゆる根本的問題に関して、私はメンシェヴィキたちと食い違った。彼らに対する闘争は、会議が閉会した翌日から始まった」。

 10月、第1次バルカン戦争勃発。トロツキー、『キエフスカヤ・ムイスリ』の特派員としてバルカン半島に向かう。その後、同地で多数の戦争記事を執筆。

 11月、第4国会が開会した。第4国会では、立憲民主党や十月党、その他の反政府党が議席を増し、立憲民主制を求め言論・集会・信仰の自由を主張した。


 1913年、この年、トロツキーはルーマニアでラコフスキーとの親交を深める。


 4月 トロツキー、チヘイゼ宛ての手紙の中でレーニンを「ロシア労働運動の後進性の職業的利用者」と激しく批判。この手紙は後にスターリニストによって悪用される。


 6月、第2次バルカン戦争勃発。


 7月(新暦では8月) ブカレスト講和調印。トロツキー、「ブカレスト講和」という論文を書き、この講和が平和を約束するものではなく、新たな戦争の可能性を指摘。


 11月、トロツキーが『ノイエ・ツァイト』にベイリス事件に関する長大な論文を執筆。


 1913年、トロツキーチヘイゼ宛ての手紙」。

 1913.12月、ロンドンに会合した国際社会党事務局は、ロシアの党の分裂を憂慮し、ローザ・ルクセンブルクとカール・カウッキーの仲裁による概要「社会党の各国一党が望ましく、統一せよ、ロシアのプロレタリアート団結せよ」を呼びかけている。

 これに見せたレーニンの対応は、公然たる分派闘争の貫徹であった。

 「日和見主義ときっぱりと手を切り、日和見主義が必ず失敗することを大衆に説明しなければ、現在、社会主義の任務を遂行することは出来ない」。
 「日和見主義者は、自分の信念を裏切るという代価を払って、合法組織を『まもる』がよい。だが、革命的社会民主主義者は、社会主義のための危機の時代に相応しい、非合法闘争形態を造り出すために、労働者階級の熟達した組織能力と組織上の繋がりを利用する。ブロレタリア・インターナショナルは滅びはしなかったし、又滅びはしないだろう。労働者大衆は、あらゆる障害を乗り越えて、新しいインターナショナルを造り出すだろう」。

 第三インターナショナルの結成が構想されていたことになる。


 1914年、この年、トロツキーの『戦争とインターナショナル』がドイツ語で出版される。


 1月、党統一派の雑誌『ボリバ(闘争)』を創刊。トロツキーは、その第1号に「議会主義と労働者階級」を執筆。



第一次世界大戦勃発

 1914.7.28日、サラエボに轟いた銃声がきっかけになって、オーストリアがセルビアに宣戦布告、次いでロシアがセルビアを助けて参戦し、これにドイツがロシア(新暦8.1日に宣戦布告)、並びにその同盟国フランスに宣戦、フランスが応戦し、イギリスもドイツに宣戦布告、ここに第一次世界大戦が勃発した。世界の主要な国々は、連合国(フランス・ロシア・イギリス等)と同盟国(ドイツ・オーストリア・オスマン帝国等)の2陣営に分れての以後4年に渡る激戦へと突き進んでいった。

 第一次世界大戦は、経済力、国力の全てを動員する総力戦となった。ロシアの政治・経済体制はたちまちその弱点を現した。ドイツに対して連敗を重ねたため、士気は衰え、軍規は乱れた。その上、国内では物資が不足して国民の生活が苦しくなり、労働者の間には不穏な空気がみなぎった。

 戦争の序盤、ロシア軍はかなりの戦果をあげた。ロシア軍の動員スピードはドイツ側の予測を越えており、一旦はドイツ本国の東プロイセンにまで攻め込んだ。これはロシアの同盟国フランスの要請によるもので、この頃ドイツ軍の攻撃を受けていたフランスが、ドイツの東部国境に展開するロシア軍を動かすことによって、ドイツ軍の主力を東へと振り向けさせようと考えたことによる。

 ドイツ軍が西部戦線(ドイツから見て対フランス戦線)から東部戦線(対ロシア戦線)へと2個軍団半の大軍を移したことにより、危機的状況に陥っていたフランス軍にゆとりが出来た。しかし、全速力で東部戦線に駆けつけてきたドイツ軍の反撃により、8月末、ロシア軍は世界戦史に稀に見る大敗北(タンネンベルクの戦い)を喫し、大量の捕虜を出してしまった。

 ロシア軍は弱かった。ロシア軍は「タンネンベルクの戦い」の後も、ドイツの同盟国オーストリア(ロシアよりもっと弱い)の北東部ガリツィア地方を占領していたが、15.4月にはドイツ軍の援助を受けたオーストリア軍の反撃が始まり、ろくな抵抗も出来ないままに「大退却」を余儀なくされた。ここ数十年工業化に励んできたとはいえ、ロシアの工業力はドイツのそれには遠く及ばず、弾薬も服も靴もそれを運ぶ鉄道も全然足りなかった。とはいえ、互いに徹底的に粉砕するだけの力がなく、以後の西部戦線は長い膠着状態に入ることになった。

 戦争が長期化すると、工業・農業生産力の不足、鉄道網の不備など、ロシアの脆弱さがあらわになった。兵士は十分な武器・弾薬・食糧がないまま強力なドイツ軍と戦い、膨大な死傷者と捕虜を出していった。都市では品不足と物価高が人々の生活を直撃した。働き手を兵隊にとられた農村では、戦前の4分の3まで生産高が落ちた。


第二インター内の不協和音

 1914.7月、第二インターナショナル諸党はこぞって、シュトゥットガルト(1907年)、コペンハーゲン(1910年)、バーゼル(1912年)での誓いを投げ捨てることになる。8.4日、ドイツ帝国議会でドイツ社会民主党が戦時公債に賛成投票し、戦費案が満場一致で可決されるという典型に象徴されるように民族主義優先の「祖国防衛」方針に転換した。概要「祖国の危機に当たっては祖国を見捨ててはならない」という論理であった。

 第二インターに結集していた各国の共産党は、それぞれの国家との一体感を強め、ドイツでもフランスでもイギリスでも、労働者階級は祖国防衛のために戦場に赴き、他国の労働者と戦うことになった。

 レーニンは、この論理を「社会排外主義」と規定し批判を強めた。マルクス主義政党の「祖国防衛」方針に反対したのは、ロシアとセルビアのマルクス主義政党だけであった。ロシアでは、党の国会議員は、メンシェヴィキもポルシェヴィキも共に戦時公債に投票することを拒否して、できるだけ早くに戦争を終結させることを国際プロレタリアートに訴える決議を採択していた。

 レーニンは、次のように主張した。

 概要「プロレタリアートは祖国を持たない」。
 「帝国主義戦争を内乱に転化せよ! これが唯一正しいプロレタリア的スローガンである」。
 「真のインターナショナリズムとは、『祖国防衛』を名目にして、フランスの労働者がドイツの労働者を打殺し、ドイツの労働者がフランスの労働者を打殺するのを是認することにあるのだろうか!」。

レーニンとトロツキーのそれぞれの戦いぶり

 8.3日 トロツキー一家、スイスに亡命。

 9月、トロツキーが 「戦争とインターナショナルを執筆。最初の革命的国際主義の反戦書となる。

 11月、トロツキーが、「キエフスカヤ・ムイスリ」の戦時特派員としてフランスのパリへ向かう。そこでマルトフらと合流。国際主義的ロシア語日刊紙「ゴーロス(声)」の編集部に加わる。

 1915.1月、「ゴーロス(声)」は「ナーシェ・スローヴォ(われわれの言葉)」に改題。

 6月、トロツキー、「コムニスト編集部への公開状」を書いて、ボリシェヴィキ派の祖国敗北主義、セクト主義を批判。

 8月、長大論文「軍事的危機と政治的展望」の中で革命的祖国敗北主義に対する詳細な批判を展開。

 同月、レーニン、「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」という論文を発表し、ヨーロッパ合衆国のスローガンを反動的として拒否。

 9月、イタリア、スイスの社会党の共同委員会がベルン近くのツィンメルワルトで国際会議を開催。「ツィンメルワルト宣言」を起草。戦争反対の決議を行い、国際主義者の独自の国際書記局を設立した。

 
10.17日、レーニンは、ボリシェヴィキの指導者の一人であるアレクサンドル・シュリャープニコフあての手紙の中でこう書いている。

 「目下のところ、最もましなのは戦争でツァーリズムが敗北することだろう……我々の(根気強い、組織的でたぶん長期にわたる)仕事で一番肝心なのは、戦争を内戦に転化することを狙うことだ。それがいつ起こるかはまた別の問題だ。目下のところ、これがいつかは、はっきりしない。我々はその時を到来させなければならない、組織的に『到来するように仕向け』なければならない……我々は内戦を『約束する』ことも『発令する』こともできないが、時いたらばその方向に向かって力を尽くさなければならない」(宮地健一氏「1917年10月、レーニンがしたこと」)。

 1916.1−4月 トロツキーが、「平和綱領」を『ナーシェ・スローヴォ』に連載。

 2−3月、トロツキーが「ロシアにおける社会愛国主義」を『ナーシェ・スローヴォ』に連載し、社会愛国派を厳しく批判。

 4月、1915.9月、「ツィンメルワルト宣言」を起草したグループが、ベルン州のキンタールで会議(第2回ツィンメルワルト会議)開催。全ての国際主義者は各国の戦時公債に反対投票することを誓わねばならないとの決議を採択した。トロツキーは出席できず。しかし『ナーシェ・スローヴォ』紙上でキンタール会議との連帯を表明。

 9月、 「ナーシェ・スローヴォ」は「ナチャーロ」に改題。

 同月、レーニンは次のように記している。

 「階級闘争を認める者なら誰でも――と彼は一九一六年の九月に書いている――すべての階級社会において、階級闘争の自然な継続、発展、強化の表現である内戦を認めなければならない」(宮地健一氏「1917年10月、レーニンがしたこと」)。

 同月、トロツキーがフランスを追放され、スペインに。12月、トロツキーがスペインからニューヨークに追放。


第一次世界大戦のその後の経過

 1916年、東部戦線はブルシロフ攻勢の終了とともに例年の冬期の停滞にはいった。ルーマニア戦はロシアに資することは全くなかった。しかし全体で1916年に受けた100万人の損失は前年よりは軽微でまたいくつかの前線では独墺軍を押し返していて、ニコライU世は前途にむしろ明るさを感じていた。

 ドイツ第8軍(ショルツ)が1月リガで小攻勢をかけたが、ロシア軍に跳ね返された。ロシア兵は夜、塹壕で「神はわれらのために死に、われらのために甦り、」と讃美歌を合唱し、あまりの美しさにドイツ兵は息をのんだという。

 状況が悪化する中、皇帝ニコライ2世は1915年より自ら軍の最高司令官となって劣勢を挽回しようと努めており、彼が留守の間は皇后アレクサンドラが政治をみることが多くなった。ところが彼女は、異能宗教家ラスプーチンの影響を強く受け始めた。

 夏、国会派は立憲民主党のミリューコフを中心に憲法制定を要望し政府と相対した。政府内は、単独講和により帝政安定をはかる政府宮廷派と、立憲君主政により戦争継続をはかる産業資本家の国会派との対立が激化していた。両者の対立は1915年における戦局の悪化以来目立ちつつあった。 


「戦時工業委員会」が各地で創設される
 この頃、戦争の長期化状況の中から「戦時工業委員会」が各地に自然発生的に生みだされていった。「戦時工業委員会」とは、官吏、資本家、労働者の代表によって構成される大政翼賛会的生産管理委員会で、これが帝政下での自主権力体となっていった。社会民主党、メンシェヴィキは参加し、ポルシェヴィキは加わらなかった。

 注目すべきは、「戦時工業委員会」の奥の院であり、そこにはフリー・メーソン会員で構成された公安委員会があった。この組織の全貌は未だに不祥であるが、立憲民主党のミリュコーフ、トゥルドヴィキの指導者ケレンスキーなどを中心にしていた。レーニンの思想的転換のきっかけとなった「信条」の執筆者クスコヴァもその周辺に加わっていた。レーニンは、この組織を警戒していることが判明している。

 1916.10月、首都ペトログラードにて物価上昇に反対する労働者6万人によるストがおこり、工場街の兵営にいる兵士がストを鎮圧しようとする警察と衝突するという事件が発生している。「制服を着た農民」である兵士も、長引く戦争に疑問を抱き始めていた。戦争の規模も損害も、それによって増幅される労働者や兵士の革命的機運も、日露戦争の時とは比較にならないものになっていた。「二月革命」が近付きつつあった。

 1916.12月、ペテログラードの「戦時工業委員会」に属する労働者が民主主義の即時樹立を要求して大衆行動に出ることを決定した。

ラスプーチン暗殺される
 1916.12.29日、政府宮廷派のラスプーチンが殺される。政府宮廷派と国会派の両派の対立の深刻化の表れであった。「ラスプーチンの死」は、老朽化した専制君主制の立て直し不能を告知していた。ブルジョア勢力も戦争に勝てる体制を望み、憲法制定を要求して国会で政府側を攻撃するようになった。一般民衆や兵士は、戦争そのものに対して厭戦していた。

 グリゴーリ=イェフィモヴィチ=ラスプーチン(1872〜1916)の履歴は次の通り。
 1865年、半ツンドラに囲まれた小さな村ポクロフスコエに比較的裕福な農家の息子として生まれた。幼少の頃より宗教的情感が豊かで、長ずるに及びシベリア各地の修道院で東方密教を修行し、神秘的な占いや呪術、雄弁術を磨いた。その後村に帰って教団を起こし、30歳頃には不思議な治癒力をもつ説教師、預言者として評判を得ていた。

 1905年、34歳のときにペテルブルクに出現するや、奇蹟を行う行者としてたちまち評判になった。その噂がロマノフ王朝皇帝ニコライ2世のもとに届き、1907年、宮廷に招かれることになった。この時、皇帝ニコライ2世の子アレクセイが、当時は不治の病として恐れられた血友病で出血が止まらなくなり、名医の手当ての甲斐なく命が危ぶまれていた。ラスプーチンは、髭がぼうぼう、眼がらんらんと輝き、シベリアの農民の粗末な服を着て部屋へ入り祈祷を捧げた。結果、皇太子は奇跡的に助かった。

 以後、ラスプーチンは皇后の揺るぎない信頼を得ることになり重用されていった。1908年頃、宮廷内での彼の影響力は絶大なものになっていく。伝説では、周囲にはいつも宮廷婦人がはべるようになり、多くの情婦を持ち、酒びたりの放縦生活を送っていたとされている。秘密警察は彼のことを、「醜態の限りを尽くした淫蕩な生活」と報告していたが、皇帝も皇后もこれを取り上げなかった。

 内政に実権を握っていた皇后は、ラスプーチンの言によって人事を左右し始め、「影の皇帝」と囁かれ始める。しかし、1914年、第一次大戦が勃発、時代は激動していく。強大化しつつあったラスプーチン権力が次第に警戒され始め、反ラスプーチン派の貴族によってついに暗殺されることになる。

 この時のラスプーチン伝説は次の通り。1916.12.17日、皇族のフェリクス・ユスポフ公爵(ユスポフ家は、ロシア第一の財閥で、30歳の若い侯爵は、オックスフォード大学出の名うての遊蕩児だった)の家での暗殺は奇怪を極めた。晩餐に呼ばれたラスプーチンは青酸カリ入りのワインとケーキでもてなされたが効き目が無く平然としていた。次に、ユスポフは、ラスプーチンが聖堂で祈りを捧げている隙をねらって拳銃で背中を撃った。それでも彼は死ぬどころかユスポフを追い廻してきた。上階に隠れていた国会議員プリュシケヴィチがさらに4発発射、うち2発が命中して転倒したところを数人が かりで殴る蹴るの滅多打ちにした。最後に棍棒で頭を砕かれた。

 その死骸はこもで巻かれてネヴァ川に放り込まれた。3日後に氷の下から死体が引き上げられた。頭蓋骨はへこみ、顔面は傷だらけ、眼球は飛び出して、肉の糸で頬にぶら下がっており、見るも無残なありさまだった。両肺を調べると水でいっぱいであった。川に放り込まれたときには息があったことになる。彼の死因は溺死と判定された。

 ラスプーチン死亡の報が町中に流れた。しかしこの騒ぎもすぐに忘れ去られた。彼の死以上に大きな変動の波がすぐそこまで押し寄せていたのである。彼の死はロマノフ朝崩壊の前兆だったといえるかもしれない。


 ラスプーチンの埋葬式が済んでから三ヵ月後にロシア革命が起こる。ボルシェヴィキは死体を掘り出して、道路でこれを焼き捨てたと云う。


【革命機運の醸成】

 1916年の末、開戦から2年経過したロシア軍の召集兵は1500万近くに達し、そのうちの3分の1近くが失われていた。このような大規模な動員は農村における深刻な労働力不足をもたらし、16年の作付け面積は戦前の約8割、収穫量は4分の3にまで低下していた。工業では、労働者の4分の3が軍需関係の工場で働き、それによる機械・化学工業等の増産と反比例して、繊維・食品等の生活関連工業は減産される一方であった。帝政はこの年、従来兵役を免除されていた中央アジア諸民族を後方勤務に動員すると発表したが、中央アジアの住民はこれに抵抗して反乱をおこした。この反乱は2000人余りの死者を出した末に鎮圧されたが、かなりの数の反徒が中国領に逃げ去った。開戦当初の熱狂はもはや存在しなかった。

 一方ブルジョアたちは、戦争に勝つためには自分たちの代表による責任内閣制を持たなくてはならないと考えた。「強力にして、毅然たる、活動的な権力のみが祖国を勝利に導きうるし、そのような権力となりうるのは、ただ国民の信任に依拠し、全市民の積極的協力を組織しうる権力のみだ」。ブルジョアが政治を動かす西欧の諸国と違い、ロシアでは皇帝とその側近のみが政治を動かす君主独裁制が健在であり、国会も形式だけのものだった。かような体制に反発するブルジョアは次第に国会内に勢力をのばし、後の「二月革命」において中心的な役割を果たすことになる。

 但し、ロシアのブルジョアは戦争の遂行に熱心であった。これはまず、伝統的なロシアの南下政策(ブルジョアの利益に直結する)の最終目標であるトルコのダーダネルス海峡(地中海の東北の入口)を、連合国が戦後のロシアの取分として約束してくれていたこと、ロシアのブルジョアが、経済的・思想的にフランス(連合国の主要な一員)の強い影響下にあったこと等が考えられる(猪木ロシア革命史)。

 ブルジョアや進歩派貴族の一部は、国民に人気のない皇帝ニコライ2世を退位させ、人気の高い皇弟ミハイル大公を摂政にすえるという「宮廷革命」を考えていた。しかしかような動きは、あくまで「戦争に勝つ」ためのものであり、戦争に疲れきった兵士や労働者の意志を汲む動きでは決してなかった。

 ブルジョアジーは、労働者の方を恐れていた。「宮廷革命」は、労働者たちが自分自身の革命をおこす前にブルジョア・進歩派貴族が権力を握るための「予防手段」として構想していた。しかし、ブルジョアジーは結局「宮廷革命」を実現させることができなかった。それは、労働者派の革命を予防する手段となる可能性よりも、雪崩をおこす最後の衝撃となり、労働者派の革命運動の水先案内になるのではないかと危惧していたからであった。


1917年の激動前のレーニンの言葉
 1917.19日、スイスのチューリッヒの青年労働者の集会で、レーニンは、「我々老人は、恐らく生きてこの来るべき革命の決戦を見ることはないであろう」と語っている。皮肉にもそれから2ヵ月後に1917年の激動が始まる。

 これより以降は、「2月革命」の様子と経過」に記す。





(私論.私見)