ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムの交差時代

 

 (最新見直し2005.11.28日)(甚だ未整理の道中です)

 これより以前は、「ナロードニキ誕生までのロシア社会運動史」に記す。

【ロシアマルクス主義の祖プレハーノフの登場】
 松田道雄氏の「ロシア革命史」は、「ナロードニキからマルクス主義へ」の項を参照する。

 ロシアでは、プレハーノフが登場するまでマルクス主義者と名のる者が現れなかった。その理由は、当時のロシアの青年たちの革命意識がナロードニキ派に結集したからであり、急進主義派が、ナロードニキの発展党派である「土地と自由社」、「黒い再分割党」、「人民の意志党」に向ったからである。当時のロシアに紹介されたマルクス主義は革命の理論としては受け取られず、西欧的資本主義経済学の一種として受け取られていた。あるいはドイツ社会民主党の綱領と考えられ、そのドイツ社会民主党は余りにも穏和であった。実際ロシアでは、ピョートル・ストウルーヴェ(1870ー1944)とかツガン=バラノフスキーといった経済学者が、経済学的見地からのマルクス主義を紹介していた。彼らは合法マルクス主義者と呼ばれた。

 松田氏は、次のように述べている。ここに、プレハーノフの史的意義が認められる。
 概要「マルクス主義がロシアで革命理論として受け取られるためには、マルクス主義が革命の理論であって、単なる経済史でないことが証明されなけばならなかった。マルクス主義が革命の理論であることを証明するには、ロシアの革命家が、いままでの革命運動の続きとして、マルクス主義を信じるのでなければならない。それを、身をもって証明したのがプレハーノフである」。

 ならば、プレハーノフをして、ナロードニキからマルクス主義への橋渡しが可能にさせた要因はナヘンにあったのだろうか。プレハーノフは、ナロードニキ思想の発展結社である「土地と自由党」を経由して「黒い再分割党」に入党し、弾圧で亡命した。その過程で、「人民の意志党」による皇帝暗殺があったが、これといった政治効果を上げなかったのを見て「革命の弁証法」の見地から練り直した。

 松田氏の「ロシア革命史」は次のように記している。
 「1880年に亡命したプレハーノフは、パリ、ジェノバ(ロシア語ではジェネヴァ)の大学や図書館で、マルクス、エンゲルスの著作を熱心に読みふけった。1982年、『共産党宣言』のロシア語訳を出した。これはプレハーノフのマルクス主義宣言でもあった。ついで翌年、国内のナロードニキをことごとくマルクス主義に改宗させようという意気込みで書き上げたのが、『社会主義と政治闘争』である。『あらゆる階級闘争は政治闘争である』というマルクスの言葉を冒頭に掲げたこのパンフレットは、ナロードニキの病弊であった政治闘争侮蔑の清算を呼びかけた。

 バクーニンの影響で国家を否定し、政治はブルジョア自由主義者のすることで、政治を変えようとするなら社会を革命で変えるべきだとするナロードニキは間違いだ。プレハーノフは、人民の意志党が権力との対決をという形で政治に突入し、その綱領にも憲法制定会議の召集を載せたことを取り上げて政治否定では革命はできないことを認めたではないかとと言う。プレハーノフは、労働者の中に階級意識を喚起するため、教宣活動の重要性を強調する。 人民の意志党はどこが間違ったか。それは、革命がすぐにも到来すると期待したことだ。社会主義社会を築くには、それを可能にする経済力がなけばならない。社会主義実現の条件がないときに、少数のインテリゲンチアの集団が権力を奪取するしてもだめだ。階級の独裁が、小グループの独裁になってしまう。主力は労働者階級にあるのだから、労働者に階級意識をもたせ、組織をつくらせなければならない。インテリゲンチアはそのために、労働者階級の中に入って宣伝活動をしなければならない。労働者階級の戦闘的綱領をつくるのが、当面の仕事だ。革命は一挙に成るものではない。それは長い政治闘争のドラマの終幕だ。

 プレハーノフはドイツ社会民主党をモデルにしていたから、今いそいでインテリゲンチアだけによる陰謀の党をつくるのはよくないとした。 プレハーノフがとくに党内の独裁に警告を発したのは、1882年の人民の意志党の残党が少数による権力奪取と独裁政権を企図していたからである。彼はまた、マルクスの社会主義がロシアにも当てはまることを納得させるには、それを2年後『われわれの意見の相違』で果たしている」。

 かくて、プレハーノフは、ナロードニキ的人民信仰、革命直近説が誤りであることを確認した。「黒い再分割党」に対しては、政治的急進主義をよしんば評価するにせよマルクス主義のような経済理論を持たない限界を見て取った。その人民信仰に対してプロレタリア信仰を対置させることにより依拠すべき対象をより明確にすることができた。且つプレハーノフは、テロリスト的伝統の否定に向った。

 ロシア資本主義の発展こそ歴史的傾向であり、その発展がロシアに労働者階級をつくる。マルクス主義の指針せしめるように資本主義により生み出されるプロレタリアートこそ革命の主人公として位置づけるべきではないのか。プロレタリアートは、ブルジョア社会の子宮の中で成長する胎児である。この胎児は、成熟するほどに社会主義を引き寄せる。革命の担い手としては農民より強力で、農民に依拠した革命は失敗したが、プロレタリアートに依拠する革命は成功する。プレハーノフはかく位置づけ、マルクス主義へ移行した。それは、ナロードニキの発展党派である「黒い再分割党」と「人民の意志党」理論の弁証法的否定を通じて生み出された。

 ドイッチャーの「ロシア革命50年」は次のように記している。
 「マルクス主義者たちは、当然ながら、まず最初にナロードニキ的伝統とテロリスト的伝統の否定にとりかかった。そして、農業社会主義、農民の感傷的な理想化、スラヴびいきの左翼版、ロシアのユニークな革命的精神という擬似救世主的観念を拒否した。彼らは、テロリズム、急進的インテリと独立自足的な陰謀家的エリートの自己礼賛を論駁し、党と労働組合という、民主的方向をとった組織と、プロレタリア的大衆行動という近代的形式を選んだ」。

 但し、プレハーノフのマルクス主義は、後の経過から見て「癖の有るマルクス主義」であった。彼は、「マルクス主義的公式」に従い、「順序正しき資本主義から社会主義への歴史的以降論」を説いた。それに拠れば、ロシア革命は、まずはツァーリ体制を打倒するブルジョア民主主義革命、次にロレタリア社会主義革命革命という風に移行させねばならない、ということになっていた。

 1883年、「ロシア・マルクス主義の父」と云われたプレハーノフが、亡命先のスイスでアクセリロートやザスーリチを呼び集め、わずか5名からなる労働解放団というロシア最初のマルクス主義理論グループを創立した。以降、ロシアマルクス主義が、浸透し始め、「大雑把に云って、1870年代はナロードニキ運動の十年、1880年代はマルクス主義の十年」となる。

 加藤一郎氏の「ロシア社会民主労働党創立大会は次のように記している。
 「80年代中頃になると、社会民主主義の支持者はロシア国内にも登場する。91−92年の全ロシア的飢饉以来、90年代の急速な工業化を背景として、社会民主主義思想の信奉者は増大する。党創立大会の時点では、ペチェルブルク、モスクワ、キーエフ、オデッサ、エカチェリーノスラフ、ニコラエフなどの諸市で、社会民主主義者のグループ・サークルが活動していた。とりわけ、ポーランド人とユダヤ人の運動はその先進性・大衆性においてきわだっていた」。

【ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムの交差時代に入る】
 1880年から90年までの時代は、ペシミズムと宗教的道徳的探求の時代となった。その風潮の地下水脈で、ナロードニキ、アナーキズム、マルキシズムが交差していた。 トロツキーは、「わが生涯1」の中で、次のように記している。
 1890年頃までは、ロシアのインテリの大多数は、資本主義の進歩を否定し、農村の自治共同体(コンミューン)を理想化しつつ、ひたすらナロード二ズムに溺れていた。ところが、資本主義は、あらゆる種類の利益と重要な政治的役割をインテリたちに約束しながら、あらゆる家々の戸口を叩いて廻った。ブルジョワ知識人たちは、自分たちと失敗した過去との間に横たわっているナロード二ズムのへその緒を断ち切るために、マルクス主義という鋭い武器を身に帯びる必要を痛感した。マルクス主義思想が急速に広まり、前世紀の末に勝利を収めたのは、こういう事情があったからである。
 今世紀の数年間に於けるロシアは、あたかも一社会のイデオロギーが徐々に練り上げられる巨大な実験室の観があった。フリー・メーソンの歴史を採りあげた私の仕事は、歴史過程の中での思想の補助的役割を理解するのに、大そう役立った。

【シオニスト党結成される】
 1884年、チュレノフを師とする「シオンの友人」というグループがモスクワで結成された。シオニストの様々な協議会や連絡会がロシア全土、ワルシャワ、ビリニュスその他の多くの都市に誕生した。19世紀末、推定数千人の党員を擁するシオニスト党がロシアで活発化していた。

【アレクサンドル3世皇帝のお召し列車が転覆する】
 1888年、アレクサンドル3世皇帝が家族と共にお召し列車で遊行中、ボルキで列車が転覆すると云う事件が発生している。アレクサンドル3世は自力で這い出し、家族全員を救出した。

【レーニンがマルクス主義者として自己形成し始める】
 1888年の末からテロ活動がまた激しくなった。自由主義者たちは、それをいくらか緩和したくて、作家ツルゲーネフの一時帰国に際して大々的な歓迎会を開き自由主義者がデモをやって気勢をあげた。このデモに労働者が参加したことから、政治闘争一般を拒否すべきかが改めて問題になってきた。
 1889.1月、レーニンがマルクス主義者として自己形成する。レーニンは自分がマルクス主義者になったのは1889年だというが、それがその年に読んだ『資本論』か、プレハーノフの『われわれの意見の相違』か、あるいはヤースネワから聞いたチェルヌイシェフスキー直伝のザイチネフスキーのロシア・ジャコバン主義かは、問題のあるところだ。

 1891年、レーニンは、飢饉のさなか、ペテルブルク大学法学部の国家検定試験を受けて134人の受験者のトップでパスした。1893年、活動家としてペテルブルクで活動するためサマラを発つ。大学の学生とかねてつけた連絡によって、彼はただちに非合法サークルに加入してマルクス主義の講義をやり、革命家の養成に取りかかった。合法マルクス主義者の中で有名なアレクサンドル・ポートレソフ(1869-1934)という貴族出身の人物と近づきになったところから、マルクス主義者の共同戦線をつくろうということになった。

 レーニンがマルクス主義者として自己形成した経緯について、レーニン自身が次のように述べている。
 概要「ざっと1840年代から1890年代まで、およそ半世紀の間、ロシアの進歩的思想は、正しい革命的理論を熱心に捜し求めた。そして、ヨーロッパやアメリカからやってくる、あらゆる最新、最高のものに驚くほど熱心に、小心翼翼として従った。事実ロシアは、極度の苦難と苦悩と犠牲を通して、ヨーロッパの経験を学び、実際にテストし、比較研究しながらマルクス主義に到達したのである。帝政は我々に亡命生活を送らざるを得なくさせたが、その為革命的ロシアは、他の誰も所有しなかったほどの、非常に豊富な国際的接触と、全世界の革命運動のあらゆる形態と理論に対する、非常に優れた認識を持っていた」。
 1890年代から1900年代にかけて、労働者のストライキが起こり始め、マルクス主義が姿を現し始めた。

【皇太子が日本で受難」】
 1891年、92年にかけて、ニコライ皇太子が、中東、極東の巡遊にあたって日本をも訪れた。4.27日、長崎着。鹿児島、神戸、京都、大津の途次、津田三蔵巡査によって危うく殺されるところだった。この後の東京行きを中止して一路帰路に就く。

【レーニン活躍期に入る、トロツキー登場する】
 1893年、ロシア語訳最初のマルクス主義文献が合法的に登場した。ストルーべェの訳筆であった。マルクス主義がナロード二ズムを圧倒しつつ広まっていった。
 1894年、1892−93年のユダヤ人労働者のストライキを経験して鍛えられたヴィリノのユダヤ人社会民主主義者グループがこの頃、「狭いサークル宣伝から広範な労働者を対象とする煽動戦術に転換」する。この煽動戦術は、当時ヴィリノ・グループの指導者であったアー・クレメールが、ヴィリノに行政追放処分を受けていたマールトフの協力のもとで執筆した「煽動について」の中で定式化された。次のように指針させていた。
 「労働運動がいかに拡大しようとも、労働者階級が政治闘争の上に堅く立脚しないかぎり、運動の成功は保証されえない。政治権力の獲得は戦闘的プロレタリアートの主要な任務である」。
 「ロシア社会民主主義運動の最重要任務のひとつは、現在の社会政治体制に呻吟する住民層とそのイデオロギー的代表者の間に、プロレタリアートの同盟者と共感を獲得することである」。
 「意識的形態での階級闘争は政治闘争のための土壌を形成する。その目的は労働者階級の利益のために現存の政治体制を変更することである」。
 「さらに煽動家は大衆よりも一歩前に進んでいなくてはならない。煽動家は利害の矛盾というよりも、より全体的見地から闘争の意義を解明し、そうすることで、大衆の地平を広げなくてはならない」等々。

  1894年、父アレクサンドル3世の後継としてニコライ2世が帝位についた。ニコライ2世は、13歳の時、祖父アレクサンドル2世が革命的学生の手で暗殺された。
 1895年初め頃、レーニンは、党創立の相談に、国内代表としてスイスに行きプレハーノフに会った。亡命地のベテランたちは、レーニンの学識と器量にすっかり喜んでしまった。レーニンも又プレハーノフに傾倒した。パリ、ベルリンを回ってレーニンは5カ月後にペテルブルクに帰ってきた。
 1895年、エンゲルス逝去。
 1895.4月、日清戦争の結果、下関講和条約が結ばれた。ロシアは、ドイツ、フランスと共に三国干渉に向かった。伊藤内閣は受諾し、臥薪嘗胆に向かった。
 1895.10月、アレクサンドル3世死去。
 1896年、ニコライ2世がモスクワで戴冠式。この日、しきたりの振る舞い酒がホデインカ原で飲ましてもらえるというので集まった何万という民衆が混乱して多数の圧死者が出た。その時間に皇帝はたまたまフランス大使館招待の舞踏会に出ていた。人民に対して冷酷であるという風評が立ったが、彼の本意でなかった。このニコライ2世は、強烈な反ユダヤ主義者であった。
 1895.12月、弁護士にして若き革命家ウラジーミル・イリーイチ・ウリヤーノフ(1870ー1924、後のレーニン)とマルトフが中心になって首都ペトログラード(後のレニングラード)で、労働者階級解放闘争同盟(「闘争同盟」)と称する秘密の社会民主主義組織を結成。「闘争同盟」は、労働者の扇動、ビラの配布、ストライキ激励など活発な活動を展開し、ペテルブルクにならってモスクワその他にも同様の名称の組織が結成されていった(「90年代中期から労働運動昂揚する」)。

 国内の合法、非合法のマルクス主義者とスイスの「労働解放団」と一緒になって、合法的な雑誌をつくろうということになり、1号はどうにか出したが、すぐ押さえられた。
 マルトフ(本名ツェデンバーウム)は、コンスタンチノープルのユダヤ人の家庭に生まれ、13歳でベリンスキーを読み、14歳でチェルヌイシェフスキーを読んだ早熟な革命家だった。ペテルブルク大学入学後、「人民の意志」党のサークルに加わり92年に逮捕された。追放地としてリトアニアのヴィルナを選び、そこでユダヤ人労働者の地下活動に参加した。この頃、マルトフは『扇動について』を著作している。マルトフは、労働者階級がみずからの力で労働者階級を解放するというマルクス主義の正統の思想を、理想主義的に信じた。この始祖からマルトフは生涯離れることがなかった。94年にマルトフはペテルブルクにやってきてレーニンと会った。まず宣伝といって、インテリゲンチアがチューターになる古い方式をとっているレーニンらのサークルとの間に多少の食い違いはあった。しかし、ともかく力を結集しようと合同した。

 1895.12.8日深夜、ペテルブルクのマルクス主義者51名(エス・ラトチェーンコ、レーニン、マールトフら)が一斉逮捕された。レーニン初の獄中生活を経験する。但し、帝政下の獄中生活は単に「島流し」的抑留生活を強いるものであり、レーニンの活動は続けられた。この間、闘争同盟の同志に引き続き指示や助言を送っている。
 レーニンが捕らえられるとすぐ、マルトフは、「労働者階級解放闘争同盟」の名で、検挙によって労働者階級は打撃を受けていないから、大衆の中で扇動を続けるよう訴えた。その結果が96年夏の大ストライキとなって政府に労働時間の短縮を約束させた。これによって、労働者は初めて社会的勢力として認められた。95年にはヤロスラフの綿工場で4000人の労働者が、続いてイワノヴォ・ヴォズネセンスクで2000人の織工がストを起こした。
 1995.12月に逮捕されたあと、レーニンは、14ヶ月間の獄房生活ののち、東シベリアのシューシェンスコエ村に3年間流された。流刑中かれは大著『ロシアにおける資本主義の発展』を書き上げた。
 1896年、トロツキー16歳から17歳頃、ニコラーエフで友人たちとともに政治活動を開始する。「1895−96年から、つまり有名なペテルブルクのストライキの頃から、社会民主主義派の参加する大衆的な労働運動が始まる」(「ロシアにおける労働者出版物の過去から」)。

【ニコライ夫妻の戴冠式】
 1896.5.26日、ニコライ夫妻の戴冠式が、モスクワのクレムリンで盛大に挙行された。5.30日、ニコライ夫妻の戴冠式記念として貧民に施し物が賜れることになっていたモスクワ郊外のホディシカの賜饗所に群集が押しかけたところ、饗宴の半ばに中央の一部で混乱が起り、老若男女が将棋倒しになり圧殺された(「ホディシカの大惨事」)。この事件は、ニコライ治世の未来の不吉な前兆となった。

【ロシア社会民主党の最初の会合がミンスクで開かれる】
 1896年、ロシア社会民主党の最初の会合がミンスクで開かれた。ミンスクは、ビリニュスと並んでユダヤ・シオニズムの活動の拠点であった。参加者の7割がユダヤ人で、キエフに本拠を置く「ラホルチャヤ・ガゼータ(ユダヤ人社会民主主義労働者協会)」の指導者B・L・イーデルマンとブントの代表が重要な役割を果たした。新党は、「ロシア政府に公然と合法的な闘いを挑む」ことを申し合わせた。

【ロシア社会民主党の地下闘争】
 1897(明治30).2月、レーニンに「シベリア流刑3年」判決が下され、東部シベリアに流刑される。この地で、読書と執筆に励む。クラスノヤルスクなどに滞在。地下活動に入る。
 1897年、トロツキー、労働者活動家のムーヒンらと知り合い、「南部ロシア労働者同盟」を結成。この頃、マルクス主義者になる。
 1898.1月、南部ロシア労働者同盟のメンバーが一斉逮捕され、トロツキーも逮捕され入獄。
 1898年、レーニンがクルプスカヤと結婚。後年、「原始的で、申し分の無い生活」と回顧されている。 クループスカヤはペテルブルクのサークルでレーニンと知り合い、レーニンより少し遅れて逮捕され、レーニンの妻となって流刑地で身の回りの世話をした。それからあとも絶えずレーニンのそばにあって秘書の仕事を続けた。
 1898.3.1日、社会民主主義者組織の代表9名がミンスクに会合して開いたロシア社会民主党の結成大会は、全員が即日逮捕されて、党の創立までには至らなかった。ピュートル・ストルーヴェがマニュフェストを執筆し、次のように述べている。
 「政治的にみると、ヨーロッパの東部へ行くに従って、ブルジョアジーはより一層陰険且つ卑劣である。それ故、プロレタリアートに課せられる文化的政治的努力は、更に大きくなるばかりである」。

 これより以降は、「「ロシア十月革命」前までのロシア革命情勢史1」に記す。





(私論.私見)