れんだいこの「日本、日の丸、君が代、元号」論 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).4.12日
(れんだいこのショートメッセージ) | ||||||||||||||||||||||||
「さざなみ通信」投稿文のうち「日の丸・君が代」問題に関係したものをここで一括整理しておく。
次に、「日の丸史論」、「君が代史論」、「元号論」で述べたことの総合的な確認をしてみたい。れんだいこの立論は要するに、明治維新以降の近代天皇制下で利用された「日の丸、君が代、元号の戦後的批判」の見地から全否定する論は半面的であると云う批判になる。「日の丸、君が代、元号」の歴史的生命は思われている以上に悠久のものである。元号は漢字であるから別として、「日の丸、君が代」は大和王朝以前の邪馬台国王朝、あるいはそれ以前の出雲王朝の御代に既に確立されていた気配がある。その表現しているところのものは、日の丸の図柄通りのものであり、君が代の文句通りのものである。何ら咎められるべきではなく、むしろ、その理念を誇りに思うべきだろう。「君が代」の「君」を天皇の意に解する必要はない。「あなた、君」の意で解しても何らおかしくはない。そういう幅で捉え直す必要があるのではなかろうか。文部省的強制には反発すれば宜しい。問題は、どういう状況下で掲げ歌うのかのイニシアチブだと思う。こういうところで闘うのが本当の闘いではなかろうか。 2012.6.17日再編集 れんだいこ拝 |
今の共産党に対しての不満(1999.4.19日) |
君が代問題が騒がれていますが、いかにもせせこましい論議のように思えてなりません。国家が認められている以上国に国歌があっも不思議ではないと思います。問題は、これまでなぜ君が代が正式に認められてこなかったのかということです。それは、君が代の文句が天皇制賛美になっていることにあります。天皇制は戦後憲法で認められていますので、理論的には君が代が国歌であっても
おかしくはない。ところが、戦前の軍部独裁に至った歴史的経過と先の大戦の反省的総括がなされていない状況下での君が代の国家認定は危険であるというのがおおかたの気分であろうと思います。とすれば、共産党の任務は、唯一軍部とその戦争に抵抗した実績からして、君が代の国歌認定に先だち、こ
の際先の戦争の史的総括を迫るというところにあるべきだと思われます。 不破さんのこのたびの犯罪的発言性の本質は、かっての戦争責任、戦争そのものの史的総括の問題と切り離して国歌問題を一般的に批評しているところにあります。まことに信じられない党執行部の堕落です。今日の党支持者の 多くは、戦前の党の戦いぶりの支持を元手にしています。宮本ー不破体制を支持して党を支持しているのではありません。このあたりに上層部の腐敗をか ぐことが、今回の教訓と思えます。考えてみれば、現執行部は大衆運動の運動的経験の蓄積に対して何もしておりません。社会党が自民党の政策にけちつけする役割を果たしただけで終焉しようとしていますが、共産党もまた戦後政治体制の修繕屋の役割のまま滅び行く運命かも。戻る |
君が代の実際的な運用方策について(1999.4.22日) |
君が代問題に対して、相も変わらずの対立の図式が露呈しています。私は、 自らの経験を通じて次のように考えます。公教育の現場において、入学式、卒業式においては、斉唱もよいのではな いかと思います。君が代の文句に込められている天皇制賛美の精神性の問題は別途協議するとして、体験上何ら問題なかったと考えています。君が代を斉唱したから右翼になったという訳でもなく、体制化させられたとも思っていません。問題は、学校行事のあらゆる局面において君が代斉唱が先立つほど意味があるかということにあります。私の答えは、必要なしです。特に、文化祭. 体育祭その他の際にまで国家国民意識を統合させられる必要はないと思います。このような解決策では不都合なのでしょうか。例えば、今継続しているのかどうか知りませんが、夏期休みのラジオ体操に誘い合って参加していまし たが、その場で君が代を斉唱させられたことはついぞないと振り返っています。恐らく滑稽でしょうし、似合わないと云うのが実際のところだと思います。では、どこまでが似合うのかと考えますと、入学式.卒業式かなと思います。 公教育の現場において、君が代斉唱を拒否しようとする気持ちは、文部省行政の象徴としての君が代を拒否しているのであって、国歌そのものを拒否しているのではないと思います。君が代の文句を替えるのか、別の国歌を模索するのか論議があっても良いと思います。日本人の国民性からして、感情レベルでことを左右しすぎの傾向があります。君が代問題の本質は、先の小文で指 摘したように、かっての戦争責任と史的総括が為されないままに今日まで至っており、そのことが君が代の文句に込められた天皇制賛美の心情との齟齬を 引き起こしていると云うことにあります。敵か味方かの峻別により、受容の態度が変わるのではなく、国歌必要ありなしそのものの論議と君が代そのものの歴史的な役割をめぐっての評価が為されない限り拒否するのだが、さしあたり入学式.卒業式には儀式的に必要かなという実務的な対応こそが望まれているのではないかと考えます。考えてみれば、こういう不毛な衝突のままに事態が何ら解決していない局面が多すぎて、結構それはお互いの権益をめぐっての認め合いであり、優雅な生き様確認の方法であったりして。戻る |
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ここで、「君が代の文句を替えるのか、別の国歌を模索するのか論議があっても良いと思います」と述べているが、現在のれんだいこの考えは違ったものになっている。君が代、日の丸はその表象を知るにつけ優れものであり、それぞれの表象の意味を自由討論形式で教え学ぶことの方が肝要と考えている。付言しておく。 2012.6.30日 れんだいこ拝 |
第二次世界大戦の史的総括について (1999.5.11日) |
「君が代」問題に関連して、私が先の戦争の史的総括を迫るべきと発言したことに関連して、「澄空」さんより史的総括が[君が代」の国歌制定の呼び水になるようでは問題があるとの趣旨の意見を頂きましたので若干補足させて頂
きます。 私が云いたかったことを少し要領よくまとめたいと思います。なにせ専門のもの書きやではありませんのでうまく趣旨が表現できなかったことを反省しています。不破さんの発言は、「君が代」・「日の丸」を前提としてのことになると思われますが、そろそろ正式な国歌.国旗の制定をしてもいい頃であり、その為の国民的論議を起こそうという発言であったように思います。先進国において正式な国歌・国旗をもたない不都合を背景にしているものと思われます。私は、「君が代」・「日の丸」が先の世界大戦の経過と深く関係しており、未だに国歌・国旗の認定が為されていないのは、先の戦争に対する史的総括が為されていないことが深く関係していることに注意を喚起させ(「君が代」・「日の丸」の拒否化運動に対して広島と沖縄の日教組が特に戦闘的であるのも故なしとしない理由がここにあります)、この問題と切り離して一般的に国歌・国旗が必要であるとの国民的論議を呼びかける姿勢に対して、党の幹部として腐敗堕落であるということを指摘したかったのですが。 常識的に考えて、自民党が国歌.国旗の制定を持ち出してきた際に、上述の観点から今こそ「君が代」・「日の丸」の果たしてきた歴史的役割を問い、先の大戦の総括と教訓を得ようとする流れに持ち込むのが党の指導者としての力量ではないかと思われます。それをこともあろうにノンポリのような観点から国歌・国旗の必要有無の論議を呼びかけているが故に腐敗堕落の極みといいな しているのです。 そこで、先の大戦の史的総括をしようという運びになった場合に、この問題がちょっとやそっとで解決できるものではないことは明らかです。最近の「自由主義史観」とも大いに論議すべき難題となりましょう。最低10年はかけて、学識者委員会・国会は言うに及ばず戦争体験者から国際的テーブルまで用意し て、さらに10年・20年かけてでも取り組むべき課題のように思っております。問題は、民衆史観とでも云うべき観点から、二度と大和民族だけが好都合であったり、時の支配階級とその子弟に有利で大衆が馬鹿を見せられるような悲惨な戦争を避ける為の具体的な方策を練る制度と思想を確立することにあり ます。詳細は知りませんが、十分なものかどうかの詮議は別としてドイツではそれなりの教訓化が為されているということです。こうした論議・論争に引き込んでいくのが党指導者の役割ではないでしょうか。そう云う意味で、不破発言はノー天気過ぎる明白な背信であるのに、党内部から追従意見が大勢を占め るとしたら口がアングリしてしまうばかりということが云いたかったのです。 従いまして、澄空さんのご心配は私の趣旨とは少し離れておりまして、私の主張が、早く史的総括を済まして国歌・国旗を制定しようという趣旨に受け取られたのでしたら筆足らずということをお詫びします。なお、これは個人的感想ですが、日教組さんにお願いするとして、例えば校則の改良とか体罰の是非とか能力別編成の是非とか教頭・校長選出の民主化とか学校崩壊の様子とその対策について、国民的論議を生み出すよう不破さんに呼びかけて頂きたいのですが。戻る |
入一さんへご返信いたします (1999.5.21日) |
入一さん、はじめまして。5・18日付けの入一さんの投稿拝見しました。私の先の投稿末尾での文章がお気に召さなかったようですね。正直まいっております。あの部分全体が軽い冗談で皮肉ったつもりだったのですけれどね。ちょっ
と不謹慎というか悪趣味だったかなぁ。ああいう書き方が好きなものでして、これから少し気をつけようかな。でも、日教組と教育委員会との癒着の実態につ
いては勉強になりました。またよろしく適宜教えてください。ついでにと言ってはなんですが、以下一言コメントしておきます。 |
入一さんにあらためてご返信いたします(1999.5.25日) |
5/23日付のご投稿読ませていただきました。議論を噛みあわすということは難 しいもんだという思いがしています。どうしても噛みあわないなら仕方ありません。もう一度ご返信させていただきます。 私の「日教組」に対する認識がアナクロになっているようですので改めようと思います。お願いしたいのは、皮肉った書き方ではありますが、私の文章の内容について論議していただきたいのです。私は、不破さんが「日の丸・君が代」問題での国民的論議を呼びかけたことに対して(論議の呼びかけ自体について私は反対していません。どんな課題に対してももっともっと論議すれば 良いのにと思っていますから)、「日の丸・君が代」問題の論議を国民的にするのなら、学校の中だけでも他にももっともっとしていただきたい事があると考えています。例えば、校則の民主化も大事。能力別編成の是非を問うことも大事。旧勤務評定問題も大事。内申書制度の問題も大事。教師からであれ生徒からであれ校内暴力問題も大事。教頭・校長職任命の民主化も大事。最近の学校または学級崩壊と言われている事態にいかに対応すべきかの論議も大 事……等々。歴史教科書問題もあったかな。 今社会一般でも緊急に国民的論議をせねばならないものもいっぱいあります。ガイドラインしかり。国連軍派遣問題、財政赤字、規制緩和、入管法問題、外国人雇用問題、長期在日外国人の参政権問題、リストラ、能力給制度の動き、公的資金導入の是非、消費税、国民の政党離れ……等々。書けばキリがない。何ゆえに今までこのような問題はそれとしたままで「日の丸・君が 代」問題だけを突出させるのかがわからない。国民的論議を呼びかけるのが悪いということはないでしょう。同じように大事な問題ばかりなのに、なぜ今まで他のことについての国民的論議を呼びかけようとしなかったのかが釈然としない。しかも、平素より法制化にうずうずしている政権与党の動きがある現在の政治的局面において、「日の丸・君が代」問題を呼びかけることは法制化に手を貸すようなものという心配が党内外に満ち満ちているこのおりに呼びかける無神経さは尋常ではない。 また繰り返しになりますが、現場の「全教」組合員がこの問題で消耗しているからという理由でなされたというのであればいよいよおかしい。闘争すれば消耗するのは当たり前であり、消耗しない方法を見つけるなら何もしないこと、闘わなければ良いだけのことです。問題は、なぜ今まで戦ってきたのか、その闘いを裏付ける理論なりイデオロギーにおいての根拠が大事であり、その根拠の比重の移り変わりが大事なわけです。したがって、相変わらず強い根拠があるなら消耗しようがしまいが徹底抗戦すべきではないですか。 不破さんの今回の国民的論議の呼びかけの重大欠陥に、「日の丸・君が代」問題を一般的な国歌・国旗の必要有無についての論議へのすり替えが為 されているということは度々指摘してまいりました。ここではもう述べません が、先の世界大戦に向けて果たした「日の丸・君が代」を同じような役割に利用させないという観点からの論議に持ちこむのが戦前戦中下に闘いぬいた共産党員同士たちへの思いやりであり、現執行部の責務でもあります。こういう観点からの呼びかけでないことに私は義憤を覚えるのです。 不破さんの今回の国民的論議の呼びかけのもう一つの重大欠陥は、事前に党内論議を徹底 して行なうという観点が欠落していることにあります。国民に呼びかけはするけど党内論議は後回しというのはおかしいでしょぉ。最近いろいろ新説をだしたり、それを党内外向けの大衆本で発表したりしているようですが、今までそんなことをして除名された党員はいなかったかなぁ。例えば黙って手記を発表し たとかの理由で……。私は、そういう動きを押さえようとは思いません。中央委員会か政治局あたりのどこが担当するのかは知りませんがもっともっと自由に しても良いと思っています(統一と団結は、論議を得た上での当面の方針につ いてだけで充分と私は考えていますから)。ここでも問題は、他の党員が行なえば規律違反になったり除名されるのに、なぜ不破さんはオールマイティーな のかということを問題にしたいのです。おかしくないですか。 以上のような欠陥を持つ異常な動きに対して誰も「殿、ご乱心」の意見が出 されないとしたら、誰かが鈴をつける役割を担わねばならない。今回は主に教育界のことでしたから「日教組」さんにお願いしたのです。別に「全教組」さんでも意味は変わりません。その意味するところは、他のことでも国民的論議を呼びかけて欲しい、党内論議もやって欲しいというところにあります。このセンテ ンスで論議していただければ、私の意見の未熟さの質的向上がもたらされることにもなり、弁証法的ならせん的発展へと向かうものと思われます。 最後に。私は、「君が代・日の丸」が学校内の主要行事で歌わされたり、掲揚されることに反対ではありません。主要行事とは入学式・卒業式というふうに考えています。私の個人的経験において、厳粛にすべきときには厳粛さを演出するものがあっても良いと思うからです。「君が代・日の丸」に絶対こだわ るという意味ではありませんが、別に天皇信者にさせられたようにも思っていませんから。ただし、法制化するのならきちんと論議をして欲しい、国会論議で済ますほど軽い問題ではないと考えています。ドイツの戦後処理を参考にしつつ、遅まきながらかっての戦争の史的総括を10年と言わず20年かけてでも本格的に論議することが肝要と考えています。なぜ、「日の丸・君が代」問題が そのような方向に向かわないのかが不思議でなりません。 だから、この問題に関して私の実際的な解決は次のようになります。公権力により強制的に歌わされたり、掲揚されることに対しては断固反対して、その前になさねばならない史的総括があるだろうと迫る拮抗関係を維持し続けて欲しいのです。そう いう局面について教えた上で公正に生徒または生徒会の論議に乗せて、入 学式・卒業式が運営されたらご立派。そして、他にもいっぱいある大事な問題に対して時に国民的論議を交えながら解決を見出していって欲しい。学校がそんなふうに運営され出したらステキ。戻る |
風雲急を告げる「君が代・日の丸」問題について (1999.6.12日) |
「君が代・日の丸」の法制化を促す国会審議がいよいよ始まるということです。今われわれは何をなすべきか早急な対応策が求められています。そこで、少々意見させていただきます。 |
今こそ闘おう! (1999.7.5日) |
本日7/5日付毎日新聞2面3面使っての「国旗・国歌」関連記事は良かっ
たですねぇ。外信部・政治部・社会部・司会のそれぞれ現役中堅記者が実名で意見を述べ合っているこの形式は今後とも有益ではないでしょうか。今まで
もあったのかも知れませんが、タイムリーな点が特に好感持てます。内容につ
いては見るべきものがありませんが、お腹が満腹になると人は誰しも保守化するのでしょうからとがめだてするには及びません。ブル新という立場上の制限もあるでしょうから。 |
教育労働者はストライキで応戦せよ!(1999.7.22日) |
「国旗・国歌法案」が衆議院を通過する見通しという事態を迎えましたが、な ぜこのような事態が平穏に経過するのか疑問を覚えるし憤りもまた禁じえない。その理由として、「国旗・国歌」を認めようとする勢力も確かに存在するのであろうか゛、私なりの受け止め方は次のように思う。今人民大衆の意識はそれどころではないのではないか。おまんまを食えるかどうかの瀬戸際に立たさ
れており、この緊急さからすると「国旗・国歌」法案に思いをめぐらすゆとりがな いのではないか。その成り行きなどどうでも良いというのではなく、それどころではないという気分にあるのではなかろうか。だとすれば、当面心配のない身分保障を受けている公務員がしっかり頑張ってくれないといけない。特に、教育労働者は直接的に利害が関係しているのであるからストライキも辞さずという運動を組織すべきではないか。今学校で「国旗・国歌」法案をめぐって教員がストライキに取り組んだとして国民的批判が生まれるだろうか。そういう合唱
も予想されるが、むしろ早急な法案化に危惧する叫びを支持する大合唱も生まれるのではなかろうか。そのような行動がなされないと国民的な論議なぞ生まれるべくもないのではなかろうか。国民的な論議というものは自動的に生み
出されるのではなく、生み出すべく戦う主体があって初めて作り出されるのではなかろうか。考えてみれば、労働者がローン漬けにされているという現実がかくも哀しい閉塞を余儀なくされているのかなぁ。 明治以来の教育界の流れは、しだいしだいに現場の創意工夫ができないように仕組まれてきた歴史のように思う。明治から終戦に向かう流れがそうであるし、敗戦によりその桎梏が取り外されたものの、再びそのような統制化が完結されようとしているのではないかと危惧する。私の個人的な知識では、幕末の寺小屋教育にあふれていた創意自由性こそ羨ましい。寺小屋はもともと大衆が生み出したものであり、そこには権力の統制の及ばざる良さがあった。寺小屋の師匠さんは思い思いのやり方で基礎教育をなし、結構成果をあげていたように思う。例えば、大塩平八郎の「激文」が早速テキストに使われていたとかを知らされると素晴らしいの一言につきる。明治教育はそうした現場の自由 性を天皇制イデオロギーと国家主義の統制的な一元化に完結させていく歴史であり、善し悪しはあるもののやるせない。このたびの「国旗.国歌」法案とは、その外形的な完結編であり、これから先が思いやられる。現代は義務教育であり強制を伴っているのであるから、国民的合意のないままの一方的な価値観の押しつけは問題とされるべきではなかろうか。かっての敗戦に伴う戦争責任追及の一環としての公職追放から教育界と司法界は免れた経過がある。当時の責任者の流れを汲む者たちが再び無反省にも同じ道へと誘おうとしていることに怒りを覚える。本来ならドイツにおけるナチス党員の歴史責任負荷と同じく生涯を隠居させられるべき郎党の蠢動がなぜ我が国ではいとも易々とのさばるのであろうか。 参考になる考え方として、タックスペイヤーとしての自立意識またはインフォームド・コンセントの確立を教育界にも押し寄せるべきではなかろうか。学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべしだし、国外のより自由な学校で学ばさねばならないことにもなるし、より自立的な通信教育で間に合わせた方が賢明かもしれないし、解決すべきは、そのような経過を経ても大学受験資格を取得できるという仕組みを作り上げることであろう。この道も閉ざされたままの教育界の統制化は犯罪であり、万一「国旗・国歌」法案が由々しき事態への道先案内になったとした場合に、その責任を追及できる仕組みにしておかないとおかしいのではないか。われわれ日本人は従順さには定評のある民族ではあるが、得たものさえ容易に失う従順さとはあまりに馬鹿げている気がしてならない。取り急ぎ投稿 させていただきました。戻る |
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ここで、「本来ならドイツにおけるナチス党員の歴史責任負荷と同じく生涯を隠居させられるべき郎党」と記しているが、現在のれんだいこは、ナチスの歴史性に於いて是々非々の判断をしている。むしろナチスが批判される論拠は全てそっくりそのまま国際金融資本帝国主義のネオシオニストにも向けられると思うようになっている。この旨記しておく。 2012.6.30日 れんだいこ拝 |
主戦場は公教育をめぐる攻防>れんだいじさんへ (1999.7.24日、吉野傍) |
「教育労働者はストライキで応戦せよ!
」は非常に興味深く読みました。本当に教育労働者が1日ストでもいいから、組織労働者としての抗議の意思を
示すことができたら、きわめて画期的なことでしょうね。そして、日教組が文部省に屈服する前だったら、本当に可能だったかもしれません。今回の「日の
丸・君が代」法案の強行は、共産党が国旗・国歌の法制化を肯定するという大失策だけでなく、それ以前に日教組が「日の丸・君が代」を認める立場に転換
し、文部省との和解路線に走ったことも背景にあると思います。 23日の『朝日新聞』朝刊の1面に早野透という編集委員が、日教組と文部省との間で関係改善が進んでいるというのに、今回のような唐突な形での法制化の強行は疑問だ、などというとんちんかんなことを書いていましたが、まさに「関係改善」(つまり屈服)が行なわれたからこそ、「日の丸・君が代」の法制 化も強行することができたのです。ブルジョア新聞の良心派の見識などこんな もんです。 さて、れんだいじさんは、後半部分で、義務教育によらない自由な教育を推奨し、「学校が文部省のロボット教師で充満されるとしたら、われわれの子女は義務教育から解放されるべし」と述べておられます。こう言いたい気持ちは大いにわかりますが、しかし、危険な一面も持っていると思います。というのは、現在の支配層が狙っているのは、まさにこういう形での公教育の解体と自由化だからです。 「寺子屋」的教育が可能なのは、教育を受ける人間が武士階級の子弟だけだったからです。一部の特権階層のための「自由教育」は、その面だけを見れ ばたしかに、管理主義的な公教育よりも自由で個性尊重に見えますが、しか し実際には、そのような贅沢な教育を受けられるのは、社会のごく一部の豊かな層だけです。また、多くの私学も、実際には私学助成金なしには経営は成り立たず、そのような公的手段を通して文部省は圧力をかけてくるでしょう。いっさいの助成金なしに運営しようとすれば、莫大な学費をとらなければならず、それこそ超リッ チな家庭の子弟だけがそのような教育を受けることができるでしょう(アメリカ の私学のように)。圧倒的多数の国民、とりわけ貧しい階層の国民は、結局、公教育に頼らなければならないとしたら、めざすべきは公教育の解体ではなく、公教育を真にその名に値するものへと改革することです。それは、管理主義、「日の丸・君が 代」の押しつけ等々に対する闘いのみならず、競争主義的で出世主義的な教 育像を変革する闘いでもあります。そしてそれは、現場教師だけの仕事ではな く、子供の親と地域社会の共同の闘いでもあります。もちろん、言うは易し、行ないは難しですが。 とはいえ、私はもちろん、通信教育なり、自主学校のような形態を否定するわけではありません。深刻ないじめや、親による虐待ゆえの精神的不安定な どのさまざまな問題があって、通常の学校に通うことが苦痛でしかないような 子供たちは大勢おり、彼ら・彼女らの教育権を守るためには、緊急避難として 多様で自主的な教育施設が設けられ、公的な支援を受け、必要な資格取得が可能にならなければなりません。したがって、公教育のあり方という本丸をめぐる主要な攻防をやりつつ、すべての子供たちの教育権を守るために、多様で自主的な教育形態を擁護し発展 させていくという2段構えが必要になると思います。以上、まったくの素人による理想論でした。失礼。戻る |
この時期に一言 (1999.7.29日) |
どうもこのまま行くと「国旗・国歌」法案は参議院でも通過しそうだから結局 法案成立ということになるのでしょうか。この間プロ野球のオールスター戦のニ ュースを見ていたら、選手一同を前にして若手の女性歌手が「君が代」を歌っていました。今までも行事化されていたのか今回が初めてなのかよく分かりませんが、こうして社会の隅々に一般化されていくことになるのかと思うとやり切 れない気持ちになりました。大相撲の千秋楽の賜杯授与の前後のどちらかに 「君が代」が歌われることは承知していますが、大相撲の場合には国技だから ふさわしいのかなという受け止め方をしてまいりました。もっともちょっと考えれ ば、「君が代」の歴史は明治以降と新しく大相撲の歴史は古来よりのことですから、「君が代」なしに大相撲が興行されてきた時代の方がずっと長いことが 判ります。しかし、いつも聞かされていると、何だか大相撲には「君が代」が似合いだなという気分になるから不思議です。恐らく、プロ野球でもサッカーでも 競輪でもボートでもこれからは何でもかんでも初めと終わりには「日の丸」と「君が代」が掲揚され歌われる時代がやってくるのでしょうね。 今までは慣習でしかなかったから、右翼は自分たちだけのアイデンティティと して納めてきた。これからは一人のお調子者が出てきて法制化されているものを無視するとはけしからんと主張すれば、それも道理ということになるのでし ょうね。歌わない自由があるからと言うけれど、聞かされたくない自由はどうな るのでしょう。自分は歌わなくても周りが歌えば否応なく耳に入ってくる。これを聞きたくないと言っても防ぐ手だてはない。私は、日本人の情緒性からして お調子者が突出してくると、和気あいあいのうちになし崩しで同調していくことになる危険を感じています。戦前の軍部の歩みはそういう勇ましい者にどんどん引きずられていった歴史ではないかと思っています。そしてそのお調子者を上手に利用する国際的勢力がいたと認識しています。そういう思いからすれば、慣習で良いものをこの時期わざわざ法制化を急ぐ必要が判りません。お調子者に対するブレーキを持たないままにこの法案を通しても良いのか心配して います。 党がかってない議席増だとかいっている一方でどんどん社会のナショナリズ ム化が整備されつつあります。ナショナリズム自体が悪いかどうかは議論が百出しますので置いといたとして、戦前のような二の舞つまり国民総動員の道 具に使われないような保障についての論議をしておかないといけないのでは ないかと心配しています。国際化の波が否応なく押し寄せてきていますので国家主義者の台頭は無理とも思いますが、何かにつけマスコミの袋叩きの様相とか新聞各紙の同じ論調ぶりとかを思うとき我々日本人の勤勉一途の情緒 性は役に立たないのではないかと心配しています。天照らすなむなむアーメン の心境です。戻る |
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投稿文の一部訂正(1999.7.30日) |
昨日の投稿文でオールスターの開会に当たっての「君が代」の斉唱につき訝る気持ちを表明させて頂きましたが、既に当たり前になっているとのことのようです。プロ野球の開始に当たってもまず「君が代」を斉唱してから始まるし、甲子園での高校野球もそうだし、ボクシングもそうだとか教えられました。半信半疑ですが、こういう世情の実際に疎いままに投稿したことを後悔しています。各種の発表会でも既にそうなっているのでしょうか。状況をきちんと知っておく必要があるなと反省しています。とり急ぎ訂正致します。 |
(以下、漣通信投稿文とは別文)
【在地主義と国際主義の相関考】 |
各国各地の在地主義的民族主義、愛国主義に基づかない国際主義は有り得ないことを示唆しているのではなかろうか。丁度、言語に於けるエスペラント運動の例が示してるように、空中から新言語を作り出してみても役に立たない。むしろ迷惑な話ではなかったか。望まれているのは、各国各地の優れた言語はそのままに活かされ、なお且つ世界共通言語が普及されるという構造ではなかろうか。民族主義、愛国主義と国際主義は相反するものではなく、民族主義、愛国主義の基盤の上に国際主義が花開くと了解すべきではなかろうか。 我々が戒めるべきは、国際主義を受容しないような偏狭な愛国主義、民族主義であり、特に戦争を煽られて狩りだされるための愛国主義、民族主義である。戦争や衝突を生み出さない為の愛国主義、民族主義というのは有り得る筈であり、これが有り得ないのは歴史的に見てネオ・シオニズムにより人為的にそうさせられているからである。れんだいこはそのように理解している。 こう考えると、日本左派運動のこれまでの、愛国主義、民族主義そのものに何が何でも反対するという肩肘張ったスタイルは単に気分的なものでしかないということになる。れんだいこによれば、国旗としての日の丸、国歌としての君が代がそれぞれ国旗国歌に値するものであるとするなら、例えば学校行事で掲揚されたり唱歌されることは何ら問題ない。問題は、入学式、卒業式に限定すればよいだけの話である。実際には、認める認めないの不毛の抗争が続き、認めたとなると学校行事の全てに日の丸、国歌が付いて回るという状況がある。つまりケジメが無い。故に端から反対するという闘争が組まれているように思われる。れんだいこは、あまり生産的ではないと思う。 |
(私論.私見)