君が代史論 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).4.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、れんだいこの君が代論を記しておくことにする。「ウィキペディア君が代」、「日の丸と君が代」、籠谷次郎「日の丸・君が代」、原武史、吉田裕編「岩波 天皇・皇室辞典」(岩波書店、2005年)その他を参照する。
2006.7.11日再編集 れんだいこ拝 |
【「君が代」の歴史的発祥考】 | |||||||
まず「君が代」の歌詞と意味を確認する。
この歌詞をどう解するのか。特に、「君」をどう解するのかが論争になっている。「天皇」と読むのか、「主(我が君)」を指していると読むのか、互いの「君」と云う意味合いはないのか、につき定かではない。これを解明せねばならない。これは君が代のルーツ(由来)の解明と重なる。一般的には、平安時代に醍醐天皇の勅命によって紀貫之により編纂された古今和歌集の和歌が元になっているとされ、これ以上遡ることをしない。古今和歌集の「君が代」は「巻七、賀歌、巻頭歌 題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番」として次のように記されている。
この歌は古今和歌集の賀歌(がのうた)の先頭にある。続いて、344ー347は次のように記されている。これを詠めば、「我が君」の長寿を願って儀式で歌われたものであることが分かる。
なお、古今和歌六帖では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、古今和歌集も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもある。これによれば、「千代にや、千代に」と反復であることになる。いずれにせよ、天皇または君主の治世が末永くつづくことを願う歌であることになる。 ところで、「君が代」の元(本)歌はないのだろうか。これにつき、貴重な論考に出くわした。藤田勝久氏の「君が代は挽歌である」によれば、二松学舎教授・溝口貞彦氏(1939生)と横浜市立大学名誉教授・矢吹晋氏(1938生)の論考に拠るとのことであるが、本歌は万葉集巻2の挽歌の一つ、「河辺宮人が、姫嶋の松原で乙女の屍を見て悲嘆し作れる歌」と題して詠われている次の和歌であると云う。
これが本歌であるか断言し難いが貴重な指摘であるように思われる。この歌を「乙女の長寿、永生の姿をこの歌に託して見ようとしている悲痛きわまる歌である」と解釈している。「妹が名」を乙女と解するべきか、「妹が治めていた国名」と解するべきか難しいところであるが、少なくとも「妹」は「妹」であって「君」ではない。この和歌後に古今集巻7、「読み人知らず」の、「我君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」となり、藤原公任撰の和漢朗詠集に於いて、「我が君」が「君が代」に転じて完成したと云う。 |
【「君が代」の歌意考その1、「古田武彦氏の君が代論考」考】 | ||
古今和歌集が「君が代」を「題しらず、読人しらず」とした理由を詮索せねばならない。これにつき、邪馬台国研究で名高く且つその存在を北九州に比定すること知られている古田武彦氏が次のような興味深い研究を発表している(「君が代の論理と展開 古田武彦」、「独創古代ー未来への視点」、「君が代は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌」等参照)。それによれば、「君が代」の歌意は北九州地域の地名と神社に深く関係している。即ち、「八千代」は「千代」の増複形で博多湾岸福岡市に存在する。「細石(さざれいし」は糸島郡に細石神社、「井原(いわら。岩羅)」は糸島郡、細石神社の南。「苔牟須売(こけむすめ)神」は糸島郡船越の桜谷(若宮)神社と云う具合に糸島博多湾岸の地名(神名・神社名等)と符合している。これの裏付けとして金印(漢委奴国王印)が見つかった福岡県・志賀島の志賀海神社祭礼「山誉め祭」神楽歌の風俗歌あるいは地歌として「君が代」が登場している。「山誉め祭」は民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の無形文化財に指定されている。次のように詠われている。
古田氏は、「山誉め祭神楽歌」に登場する地名に注目する。「君が代」には志賀の浜→香椎路→吹上の浜→千代・八千代という地名の連鎖が認められ、博多湾岸の「千代の松原」などで有名な「千代」を廻る歌であることが判明すると云う。薩摩の神歌にも、この賀歌が歌われており、この流れが薩摩琵琶歌などを媒介としつつ今の「国歌」に採用されるに至ったと考えられるとしている。更に、語意にも注釈している。「細石(さざれいし)」とは、「細」の表意する「こまかい、ほそい」でははなく、志賀海神社の祭礼に出現する「細男(せいのう)の舞」の意味する如く「神聖な」と云う意味合いのものではないかと云う。糸島郡の今山の麓にある「細語橋(ささやきばし)」も然りで「神聖な言葉」、「神の言葉」を持つ橋と理解するべきである。従って、「細石」は、通説のように「こまかい石、ほそい石、じゃり石」といった形態上の意義ではなく、「神聖な石、霊妙な石、淵源の石、始源の石」といった宗教的な意義を帯びて用いられていると見なすべきであると云う。 「いわを」(あるいは「いわほ」然りで、接尾辞が「尾」であれ「秀」であれ、「いわ」は「岩」であり、「みわ(三輪)の祭りの場」を示す言葉と同類で、岩石を「崇敬の対象」としてとらえた「古代用語」であるという可能性が高いと云う。古田氏は邪馬台国九州論者であるので、これと対比すべきものが「井原」(糸島郡)であると云う。「苔牟須」も「神石信仰」に関違する神名である可能性が高い。「君が代」は大和朝廷の御代で作られた歌ではなく、それ以前の「大君」に捧げる歌であった。これが敢えて「題知らず、讀人知らず」にしたものと考えられる。 更に、古今和歌集では「君が代」ではなく全て「わが君は」となっていることを検証している。どの版本をとっても「君が代」と成っている版本は一切ない、百年後の11世紀初めの和漢朗詠集から「君が代」となっていると理解されているが和漢朗詠集も祝いのところは全て「わが君は」と成っていると述べている。「君が代」は、12世紀初めに一般向けに編集された和漢朗詠集の流布本から登場する。古今和歌集から二百年経っている。これよりすれば、「我が君は」の第一句は「わが君は」が本来の形であり、「君が代」は改竄(かいざん)形というか、書き直しであることになる。 古田氏は更に、古今和歌集の「真名序(漢文序)」の「和歌未作、逮于素盞烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠」(和歌いまだ作(おこ)らず、スサノオの尊の出雲の国に到るに逮(およ)びて、初めて三十一文字の詠あり)、古今和歌集の「仮名序」は「世に伝はることは、久方の天にしては、下照姫に始まり、・・・・・・人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける、『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』」に注目している。古事記にも「世に伝はることは、久方の天にしては、下照姫に始まり」と記されていると云う。下照姫とは何者か。古事記には一ケ所、日本書紀には二ケ所出てくる。日本古典文学大系の日本書紀は次のように記している。
古田氏は、概略以上のような検証を経て、「君が代の歌の原型は大和朝廷に先行する九州王朝で作られた歌であり、先に存在した神に、我が君の寿命の永遠を願って作られた歌である」と云う。古田氏は更に、「苔牟須(こけむす)」に注目して、これは縄文の御代を指しており、その縄文は女性中心であるからして、結論として「君が代の歌は、九州王朝の君主である卑弥呼(ひみか)を賛美する歌ではないか。卑弥呼(ひみか)の時代に、君が代が卑弥呼(ひみか)に対して使われたという可能性が、今まで知っている他の人に比べれば可能性が一番高い」と述べている。 |
||
|
||
この古田説は、古田氏の「邪馬一国説」同様に興味深い。但し、れんだいこの興味は、「邪馬一国説」同様に古田氏の結論にあるのではない。れんだいこ説の結論は古田説のそれと反対になる。但し、古田説の検証過程での論証が非常に有益と評価している。古田氏の炯眼ぶりを評価している。邪馬台国論で云えば、れんだいこ説の邪馬台国は大和王朝に接続せずむしろ大和王朝に半ば滅ぼされ半ば懐柔された大和王朝の前王朝であるとの観点に立てば、古田説は驚くほど有益な視点を包含している。惜しいかな、古田氏は、邪馬台国を九州に比定することによって、出雲王朝と邪馬台国王朝の歴史的関係を捉え損なっている、と窺う。これにより、「日本古代史の壮大な抗争―暗闘」を窺う道を閉ざしている、と窺う。古田説の特徴は「邪馬一国説」に顕著に表れているが、精緻な研究解析の割に結論が逆方向に向かう癖がある。しかしながら、にも拘わらずと云うべきか、古田氏は、東日流外三郡誌論考で「日本古代史の壮大な抗争―暗闘」に対する関心を寄せた。そこで垣間見せた神武東征前の国津族王朝論の視点は評価に値する。これも炯眼であろう。その様は、古田氏と同じく邪馬台国北九州説の立場に立ちながら古田氏と悉く衝突している安本美典氏の凡庸な視点とは大違いである。「安本論証」は科学的知見をひけらかすが、炯眼ぶりにお目にかかったことがないのと対照的である。 本稿でも、「君が代の歌の原型は大和朝廷に先行する九州王朝で作られた歌であり、先に存在した神に、我が君の寿命の永遠を願って作られた歌である」なる所説を述べているが、本文から「九州」を抜いて「君が代の歌の原型は大和朝廷に先行する王朝で作られた歌である」と解すれば、そのままれんだいこ説になる。「君が代の歌は、九州王朝の君主である卑弥呼を賛美する歌ではないか。卑弥呼の時代に、君が代が卑弥呼に対して使われたという可能性が、今まで知っている他の人に比べれば可能性が一番高い」も然りで、「九州王朝の君主である」を抜いて「君が代の歌は、卑弥呼を賛美する歌ではないか」となれば、そのままれんだいこ説になる。古田氏が論証過程で見せた「『いわを』の『岩』は『みわ(三輪)の祭りの場』を示す」なる言及も鋭い。かく論じながらも、古田氏は、「みわ(三輪)の祭りの場」に匹敵する地を九州に尋ねることに余念がないのであるが。れんだいこ説は、そのまま「『いわを』の『岩』は『みわ(三輪)の祭りの場』を示す」として受け取る。れんだいこからすれば、古田説はかように面白い。 もとへ。れんだいこは、古田氏が僅かに嗅ぎ取っている「君が代は、邪馬台国時代の卑弥呼ないしは当時の王朝の大王に捧げられた和歌である」とする説に賛同する。してみれば、「君が代」は、明治維新以降の近代天皇制に悪用されたからと云って唱和の必要なしとするには及ばない。いわば日本の国体を歌う悠久の歴史を持つ和歌であると受け止めるべきではなかろうか。邪馬台国を滅ぼして成立した大和王朝も、この悠久の歴史を持つ和歌を廃嫡できず、むしろ自然に踏襲し、それが今日まで続いていると見立てたい。よって、我々は、「君が代不唱和論」に与する必要はない。むしろ積極的に「君が代歌意論」を尋ねるべきであろう。これが「君が代問題」に対する態度となるべきだと思う。 「日の丸、君が代問題」の真の争点は「日の丸、君が代問題」にあるのではなく、文部省の管理教育に求めるべきである。「日の丸、君が代問題」の争点を「日の丸、君が代の拒否」に向ける時、その闘いは筋違いの虚妄となる。闘いを管理教育批判に据える時、広範な支持を生むことになろう。 2012.6.17日 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評№1051 投稿者:れんだいこ 投稿日:2012年 6月30日 |
【「君が代」の歌意考その2、「藤田勝久氏の『君が代挽歌』」考 以下、藤田勝久氏の「君が代は挽歌である」をれんだいこなりに咀嚼させていただく。 (http://chikyuza.net/modules/news3/article.php?storyid=1074)
この論考のエキスは、前半の君が代の歴史的発祥過程の叙述にある。これは探していた情報であり、早速これを採りいれさせて貰った。中半以降の挽歌説も貴重な指摘である。但し、その意味するところに於いて解釈の違いがあり、れんだいこ流に咀嚼させて貰った。この論考は、れんだいこが欲していた情報と説の点で有益であったので、藤田勝久氏に謝意申し上げておく。 「君が代の歌詞の意味は、『千代に八千代に』という永遠の願いを、死後の『常世』に託したものであり、それは『死者の霊』に対する鎮魂の歌にほかならない。紀貫之が万葉集の挽歌の一句を断章取義してしまった、つまみ食いしてしまった、ようするに間違ったのである。彼は、この歌を『賀歌』ではなく、『挽歌ないしは哀傷歌』のうちに含めるべきであったのだ」と述べている下りはどうだろうか。 れんだいこによれば、君が代歌が当初「妹が代歌」であったにせよ、これは個人の追悼歌ではないように思われる。君であれ妹であれ、その治めている国と民を代表して敬礼されており、その政権の御代が「千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔むすまで」続く事が祈念されていると読む。してみれば、「挽歌ないしは哀傷歌」ではあるが、対象は個人の長命及び死後の来世における永生を祈っているものではなく、政体の御代の永続性に捧げられていると窺う。してみれば、弔辞歌ではなくまさしく賀歌として受け取るべきではなかろうか。 「巌」の表象するものに対して、「これは死んだ親あるいは祖先の化身とみなされる。巌は、万葉集では墓地あるいは墓所を指し、その巌に苔生す苔は、再生、転生の象徴であり、死後の再生、転生を経てしかるのち初めて、千代に八千代にという永生が得られるのである」と述べている下りはどうだろうか。 これにつき、「君が代」の歌意考その1の「古田武彦氏の君が代論考」では、「『いわ』は『岩』であり、『みわ(三輪)の祭りの場』を示す言葉と同類で、岩石を崇敬の対象としてとらえた古代用語であるという可能性が高い」の指摘が光るように思われる。「岩」は「巌」又は「磐」とも記され、その暗喩するところのものは「三輪の祭りの場」の可能性が高い。古田氏は九州説の立場からして糸島郡の「井原」を示すと比定しているが、「いわ」を「三輪の祭りの場」と指摘したことの価値が高い。 従って、「君が代の歌詞は祝い歌、言祝ぎ歌ではなく、死者を悼む挽歌であり、柩を挽く者が歌う哀傷の歌であったのだ」する説には頷けない。正確には、「君が代の歌詞は政権の御代が末永く続く事を祈念しての祝い歌、言祝ぎ歌であり、その御代が転生して変成しているのを踏まえて、かっての御代を悼む挽歌であり、哀傷の歌であったのだ」と記すべきであろう。 これらより、矢吹氏が云うところの「いかなる民族も慶弔は峻別してきた。そのような醇風美俗をもつ日本において、為政者の無知蒙昧により、祝賀の日に葬送の歌を歌うことを強制するのは、はなはだ奇怪な光景ではないか」の言は軽断過ぎるのではなかろうかと思う。 溝口氏の云うところの「『さざれ石の巌となりて』という一句は、老子→説苑→大智度論→白楽天→仮名序とつらなる古代中国の『土を積む思想』と、法華経→真名序→仮名序とつらなる仏教の『微塵を積む』思想とが融合して作られた。まさに、いろはカルタの『塵も積もれば 山となる』の淵源は、老子と釈迦に発するのである」も軽断過ぎる。日本の上古代史を紐解くのに、一々中国、インド、西欧からの由来を訪ねる必要はない。日本は日本の歴史であって、特に上古代史ともなれば特にそうであって、まさしく日本の歴史から紐解かねばならないと思う。 以上。よって、溝口、矢吹らの言は政治的引き廻しの臭いが強過ぎる。石原慎太郎の1999・3・13日の毎日新聞朝刊での言「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だって、あれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌やぁいいんだよ」は、右翼的愛国主義者・石原の正体見たり枯れ尾花、化けの皮が剥がれた瞬間の言辞であると窺うべきだろう。 2012.6.30日 れんだいこ拝 |
【「君が代」の歴史的変遷考その1】 | |||||
2006(平成18)年7月13日付毎日新聞夕刊「早い話が」(金子秀敏専門委員)が徳川将軍の大奥に伝わる「おさざれ石」にまつわるエピソードを次のように紹介している。
明治のはじめに君が代が国歌として用いられることになった経緯は次の通り。 1869(明治2)年、英国から貴賓が来日し浜離宮で歓迎行事をした。横浜駐屯の英国軍楽隊長ジョン・ウイリアム・フェリントンとの打ち合わせで日英両国歌を演奏することになった。ところが、この時点では日本に国歌はなかった。頭を抱えた接伴係の薩摩藩・原田宗助が仲間に相談すると、静岡藩・乙骨太郎乙がとっさに「おさざれ石」の歌を思いつき、原田も薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に同じ歌詞があるのを思い出して歌い、フェトンに採譜させた。こうして「君が代」が誕生した。この話は沢鑑之丞の「海軍七十史談」に出ている。著者が原田から直接聞いた話だから信憑性が高いと云う。 異論として、佐佐木信綱が記した「竹柏漫筆」によると、明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。但し、この説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節がある。いずれにせよ、「君が代」は当初、フェントン作曲の洋風曲であった。これは日本人に馴染みにくかったため普及しなかった。1882年刊行の小学唱歌集の「君が代」はイギリスの古民謡を原曲としており、1900年頃まで歌われていた。 1876(明治9)年、海軍音楽長の中村祐庸が軍軍務局長宛に次のような「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出している。
1880(明治13)年、宮内省式部職雅樂課の伶人・奥好義がつけた旋律を宮内省雅楽課一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた。同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂された。11月3日の天長節にて初めて公に披露された。但し、調性やテンポやブレスが一定していない。1891年、文部省学務局長が通知した「祝祭日用歌詞及楽譜」ではハ調と定めていたが、その後も実際の歌唱では歌い手によってバラバラであった。「君が代」のスコアが最終的に確定するのは1936年まで下り、「文部省撰定 祝祭日儀式用唱歌」で現行の楽譜になった。
1893(明治26)年8月12日、文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている。1903(明治36)年にドイツで行われた世界国歌コンクールで、「君が代」は一等を受賞した。 1914(大正3)年に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。 |
【「君が代」の歴史的変遷考その2】 |
1945(昭和20).8.15日、敗戦。 1946(昭和21)年、国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除された。 1947(昭和22).5.3日、主権在民を定めた日本国憲法が制定され、憲法施行記念の式典で「君が代」が斉唱された。 1950(昭和25).10.17日、天野貞祐文部大臣が、 「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする「談話」を発表し、全国の教育委員会に通達する。 1951(昭和26).9月、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が国際的に独立国の地位を得る。 以降、日本放送協会 (NHK) のラジオ放送で放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局した1958年(昭和33年)2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。 1950年代初頭、「君が代」に代わる新たな「国民歌」を作ろうと日本教職員組合と壽屋(現:サントリー)がそれぞれ募集し、別々に「新国民歌」を選定し公表した。日本教職員組合が「緑の山河」、壽屋が「われら愛す」という楽曲をそれぞれ選出したがいずれも定着には至らなかった。 1958(昭和33)年、学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載された。これにより、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。 1974(昭和49).12月、内閣府・政府広報室の世論調査が実施され、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答した。 |
(私論.私見)